2019年09月15日「ペリシテにおける契約の箱 블레셋에서의 하나님의 궤」

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ペリシテにおける契約の箱 블레셋에서의 하나님의 궤

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 5章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ。
2ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。
3翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。
4その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。
5そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。
6主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。
7アシュドドの人々はこれを見て、言い合った。「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす。」
8彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、「イスラエルの神の箱をどうしたものか」と尋ねた。彼らは答えた。「イスラエルの神の箱をガトへ移そう。」イスラエルの神の箱はそこに移された。
9箱が移されて来ると、主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった。
10彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着くと、住民は大声で叫んだ。「イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか。」
11彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、そして言った。「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう。」実際、町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた。
12死を免れた人々もはれ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 5章1節~12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イスラエルとペリシテとの二度にわたる戦いにおいてイスラエルは徹底的に敗北し、神の箱は奪われてしまいました。5章では、ペリシテ人の戦勝記念としてイスラエルの神である契約の箱を、アシュドドへ運び込み、ダゴン神殿の中の、ダゴンの下に安置する場面から始まります。イスラエルの神と言えば、強国エジプトに勝利した神ですから、ダゴンの配下にまた一つ神々が加えられて、ペリシテ人にとっては、その日がどれほど誇らしい日であったでしょうか。おそらく「ダゴン神こそ、神々の中の神である」と感慨深げに言いながら、彼らの優越感は満たされたのでしょう。一方で、イスラエルにとっては戦争に敗れ、さらに契約の箱まで奪われてしまいました。あってはならないことが起こったのです。言葉には言い表すことのできないほどの衝撃でした。1ページ前に戻りまして4:21節と22節に「栄光はイスラエルを去った」という言葉が二度出てきます。この「去った」という動詞は、ヘブライ語で「ガラגָּלָה」という言葉でありまして、捕囚になるという意味です。つまり、「栄光は、捕囚になった」ということです。それで、ピネハスの妻は生まれてきた子どもに「イ・カボド」、つまり、カヴァドが栄光ですから「栄光はない、栄光はいずこに」という名前を付けたのです。そして、22節では、「栄光は、捕囚になった」という言葉の次に、「神の箱は奪われた」という言葉で言い換えています。本日お読みした5章において、神の箱は、確かにペリシテの地域をたらい回しにされて、捕囚とされた状態が描かれています。しかし、本当に神の栄光はなくなってしまったのでしょうか。もっと言えば、イスラエルはもう、神の民ではなくなってしまったのでしょうか。答えはNOです。神の箱は、確かに奪われて転々とされますが、その行く先ごとに、神がご自身の栄光を現わしておられるのを見ることになるからです。そして次の6章では、契約の箱はイスラエルに戻ってくるからです。イスラエルの民はダゴンの神の前に敗北しましたが、神さまはダゴンの神に敗北した訳ではありませんでした。そして、イスラエルは、もはや神の民ではないということではなかったのです。2節~4節を御覧ください。

“ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。”

ダゴンの像は、人魚のようになっていて、胸から下が魚、胸から上が人間のようになっています。ダゴン神はもともとカナンの原住民の神であり、バアル神の父という設定になっていました。海からやってきたペリシテ人は、カナン人の神々を自分たちの神として受け入れていったのです。ですから、ペリシテ人に受け入れられる過程において、ダゴンの像は人魚のような像に変化していったと考えられています。このダゴンの像の下に、ヘブライ人の神を置いて、ひときわダゴンの像が映えるようにセッティングした訳です。次の日の朝、礼拝にでもしに来たのでしょうか、神殿の中に入ってみると、なんとダゴンの像が主の箱の前にあたかも敬拝しているかのようにうつ伏せに倒れていました。ペリシテ人は「あれ、おっかしいな」と思いながら、「偶然にそうなったのだろう」と、考え直して、ダゴンを元の場所に据えました。翌日、同じように朝早く神殿の中に入ってみると、なんと、またしてもダゴンの像が箱の前にうつ伏せになっているのです。しかもそれだけではなく、ダゴンの頭と両手が切り取られ、敷居のところにあり、胴体だけが残されていました。何たることでしょうか!敷居という言葉が出てきますが、敷居が、神聖な場所であるという考え方は実は古くからありました。ちょうどイスラエルの民が「祭壇の角」を神聖な場所と考え、祭壇の角を唯一の避難所として考えていたのと同じような考え方です。例えば、ダビデの後の後継者争いにおいて、年齢が一番上のアドニヤは自分が王になろうとしましたが、ソロモンに油注がれて、正式にイスラエルの王になったことを知ると、真っ青になって「祭壇の角」へと走っていきました。列王記上1:50には次のように書かれています。

“アドニヤもソロモンを恐れ、立って行き、祭壇の角をつかんだ。”

祭壇の角が避難所であったように、同じようにダゴン神殿の敷居も一つの避難所として考えられていたのです。ですから、ダゴンは、恐ろしいヤハウェの攻撃から避難場所を求めて、神聖な敷居をなんとか、つかもうとしましたが、無駄だったということです。5節は、今日に至るまでダゴンの敷居を踏まないとありますが、これは、敷居の下には諸々の霊と神々が潜んでいて、神聖な敷居を踏んでしまうなら、もしかしたら、「その下にいる諸霊や神々を押さえつけているかもしれない」、「彼らを興奮させるかもしれない」という恐れから、万が一のことがないように、ダゴンの祭司は敷居を踏まないように注意しているのです。ヤハウェの審判は、偶像のダゴンに限定されず、ダゴンに仕えていたペリシテ人にも臨むようになります。6節から12節は、ペリシテ人に下された裁きについて書かれていますが、あるキーワードが四回使われています。そのキーワードとは一体何でしょうか、それを頭の片隅に置きながら進んでいきたいと思います。6節では、主の御手が、アシュドドの上に重くのしかかり災害をもたらしますが、はれ物と書かれている疫病が、どのような病だったのか正確にはわかりません。おそらく腺ペストだろうと考えられます。ペストといっても私たちには、なじみのない病気ですね。中世に大流行した疫病で、リンパ腺が腫れ上がり、ネズミによってペスト菌が拡散されました。他の見解としては赤痢ですとか、いぼ痔などがあります。いずれにしても、その病は死に至る恐ろしい疫病でした。すぐにペリシテの領主たちは集まって会議を開き、箱をガトに移す案に、全会一致で決議しました。せっかく奪ってきた箱を、そのままイスラエルに返却する理由はありません。彼らにとって、箱は、戦勝記念のトロフィーでもあり、優越感に浸ることができる自尊心でもありました。もしかしたらガトにはまた、違う神が祭られていて、ダゴンの神はやられてしまったが、次のガトに祭られている神は、そう簡単にはいかないだろうという目算があったのかもしれません。しかし、結果はというと、ガトに移され、主の御手は、はなはだしい恐慌をもたらし、状況はアシュドドよりもさらに悪化してしまいました。9節の最後に「はれ物が彼らの間に広がった」とありますが、ヘブライ語を見ると、はれ物が破れ裂けるように皮膚を損傷させたという意味で、皮膚が腐っていく状況だと思われます。この恐ろしい状況は、ガトの人々の考えを急変させて、箱をエクロンに移動させました。三番目の町、エクロンはバアル・ゼブブを祭る町でした。しかし、エクロンの住民は、箱が到着するや否や、「イスラエルの神の箱をここに移して、私と私の民を殺すつもりか。」と困惑しながら叫びました。ヤハウェなる神さまはペリシテ人を徹底的に打ち破ったのでした。今や、ペリシテ人にとって、もうこれ以上、神の箱とはかかわりを持ちたくないと思ったことでしょう。ペリシテの領主が再び集まって会議を開きます。5:11-12節を御覧ください。

“彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、そして言った。「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう。」実際、町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた。死を免れた人々もはれ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達した。”

先ほど言いました、キーワードに気づかれましたでしょうか。そうです。ダゴンの両手が切り取られたのち、主の御手とか、神の御手という言葉で、「手」が4回も出てきています。

聖書の著者は、主の箱がペリシテ人を打ったとは言いません。「ヤハウェの御手」が、重くのしかかり、ペリシテ人を打たれたと言っているのです。さらに7節と9節に書かれている「手」を見比べてみましょう。7節は、直訳すると「彼の手は我々と我々の神ダゴンの上に厳しいものである」という意味になります。9節も、直訳すると「主の御手がくだり非常に恐ろしい恐慌を引き起こした」という意味です。つまり、7節から9節の過程で、主の御手によって「状況はもっともっと酷くなっている」と読み取ることができます。次に6節と11節の「手」を見比べてみましょう。6節には、「主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかった。」とあります。11節では結論部分として、「神の御手は非常に重くのしかかった」と書かれています。新共同訳は「非常に」という言葉が抜け落ちていますが、ここでも、6節から11節の過程で、「状況がさらに悪化している」と読み取ることがでます。

そして、この「重くのしかかる」という動詞は、カヴァッドという言葉で、これが名詞形になると栄光になります。カヴァッドは、動詞では「重たいとか、重くのしかかる」で、名詞では「栄光」という意味です。ですから、6節と11節において御手が重くのしかかることによって、神の栄光を現わしているのです。たとえ神の箱が奪われたとしても、神の栄光そのものがなくなることは決してありませんでした。表面上は、神の箱が捕囚としてたらい回しにされているように見えますが、その行くところごとにおいて、神さまははっきりとご自身の栄光を現わしておられ、神が神であられることを宣言しておられるのです。ヤハウェなる神は、自由なお方であり、契約の箱に拘束されることのない、自ら存在する神さまなのです。ご自分の選民の罪によって制限を受けるお方でもありません。出3:13~14を御覧ください。

“モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」”

偶像とは人間が作り出したものですが、神さまは偶像のように外部の助けなど一切必要としないのです。誰にも依存することもありません。その証拠に、神さまは血気盛んな40歳のモーセを召したのではなく、力のない80歳のモーセを召したのです。主なる神は何ものにも拘束されず、自ら存在する神であるということは、後で、イスラエルの民がBC587年にバビロン捕囚で連行され、エルサレムの神殿の消滅を経験することになりますが、この時も、やはり、たとえ神殿が消滅しても、神の栄光そのものがなくなったわけではないということを断言することができるのです。神さまは決して敗北されるお方ではなく、主は、常に神であられ、神であることを中断することもできませんし、ご自身を否定することもできないのです。それでは、少し前に戻りまして、エリの家に裁きがくだされた理由とは何だったでしょうか。それは、やはりカヴァッドの問題でした。エリが神さまより、自分の息子たちを重んじ、彼らに好きなようにさせることを放置したことでした。息子たちを重んじ、神に栄光を帰すことをせず、神を軽んじたのです。サムエル上2:29~30を御覧下さい。

“あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。それゆえ、イスラエルの神、主は言われる。わたしは確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえにわたしの前に歩む、と約束した。主は言われる。だが、今は決してそうはさせない。わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。”

神さまは、ご自身を重んじる者に対し、ご自身の栄光を現わされますが、もし神様を軽んじるなら、神は敵の捕囚となってでも、捕囚を通してご自身の栄光を現わされるのです。神が栄光を現わされることによって、ペリシテ人の絶望の叫びが天にまで達しました。このペリシテ人の叫びは、出エジプトの時に、初子がことごとく殺された夜の再現でもありました。出エジプト12:29~30を御覧ください。

“真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。”

私たちの神さまは必ず勝利される素晴らしいお方なのです。私たちはたとえ、神さまが遠く感じた時でも、たとえ、神さまが沈黙しておられるように感じた時でも、神さまは決して敗北されるお方ではなく、私たちの罪によって制限を受けるお方でもなく、私たちに鞭を与えることはあっても、ご自身の民を諦めないでいてくださるお方です。ですから、私たちも神の恵みに応答し、最後まで、この神さまに信頼しきることが大切です。自分で何かをしてやろうという野望は一切捨てなければなりません。そして決して神さまを利用しようと考えてもなりません。自分の力を信じ偶像により頼むのではなく、ただ神の御手に信頼し、心から礼拝を捧げることが大切です。この神さまに、私たちの人生をお委ねし、イエス様に仕えながら、神の栄光が私たちの人生に臨むことを眺めるように、信仰によって歩んでまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

블레셋에서의 하나님의 궤

2019년 9월 15일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 5장 1~12절

이스라엘과 블레셋의 두 번에 걸친 전쟁에서 이스라엘은 철저히 패배하고 하나님의 궤는 빼앗겨 버리고 말았습니다. 5장에서는 블레셋 사람들의 전승 기념으로 이스라엘의 신이신 하나님의 궤를 아스돗으로 운반하여 다곤 신전 안의 다곤 곁에 안치하는 장면으로 시작합니다. 이스라엘의 신하면 강대국 애굽에 승리한 신이니 다곤의 휘하에 또 하나의 신이 더해져 블레셋 사람들에게는 그날이 얼마나 자랑스러운 날이 었을까요. 아마 “다곤 신이야말로 신들 중의 신이시다”라고 감회 깊게 말하면서 그들의 우월감은 충족 되었을 것입니다. 한편, 이스라엘에게는 전쟁에 패하고 심지어 하나님의 궤마저 빼앗기고 말았습니다. 있어서는 안 될 일이 생긴 거죠. 말로는 표현할 수 없을 정도의 충격이었습니다. 한 페이지 앞으로 돌아와서 4장 21절과 22절에 「영광이 이스라엘에서 떠났다」라는 말이 두 번 나옵니다. 이 「떠났다」라는 동사는 히브리어로 「갈라」라는 말인데 포로가 된다는 뜻입니다. 즉, 「영광이 포로가 되었다」는 것입니다. 그래서 비느하스의 아내는 태어난 아이에게 이가봇, 즉 「카보드」가 영광이기 때문에 「영광은 떠났다, 영광은 떠났다」라는 이름을 붙인 것입니다. 그리고 22절에서는 「영광은 떠났다」라는 말 앞에 「하나님의 궤는 빼앗겼다」라는 말로 바꾸어 말하고 있습니다. 오늘 읽은 5장에서 하나님의 궤는 분명히 블레셋 지역을 이리저리 돌아다니며 포로가 된 상태가 그려져 있습니다. 그러나 정말 하나님의 영광은 떠난 것일까요? 더 말해보면 이스라엘은 더 이상 하나님의 백성이 아니게 된 것일까요? 대답은 「NO」입니다. 하나님의 궤는 분명히 빼앗겨져 여기저기 전전하지만, 그 가는 곳마다 하나님이 자신의 영광을 드러내고 계신 것을 보게 되기 때문입니다. 그리고 다음 6장에서는 하나님의 궤가 이스라엘로 돌아오기 때문입니다. 이스라엘 백성들은 다곤의 신 앞에 패배했지만 하나님은 다곤에게 패배한 것이 아니었습니다. 그리고 이스라엘은 더 이상 하나님의 백성이 아니라는 것이 아니었습니다. 2~4절을 보시기 바랍니다.

2 블레셋 사람들이 하나님의 궤를 가지고 다곤의 신전에 들어가서 다곤 곁에 두었더니

3 아스돗 사람들이 이튿날 일찍이 일어나 본즉 다곤이 여호와의 궤 앞에서 엎드러져 그 얼굴이 땅에 닿았는지라 그들이 다곤을 일으켜 다시 그 자리에 세웠더니

4 그 이튿날 아침에 그들이 일찍이 일어나 본즉 다곤이 여호와의 궤 앞에서 또 다시 엎드러져 얼굴이 땅에 닿았고 그 머리와 두 손목은 끊어져 문지방에 있고 다곤의 몸뚱이만 남았더라

다곤의 상은 인어처럼 되어 있고 가슴에서 아래가 물고기, 가슴에서 위가 사람처럼 되어 있습니다. 다곤신은 원래 가나안 원주민의 신이자 바알신의 아버지라는 설정이 되어 있었습니다. 바다에서 온 블레셋 사람들은 가나안 사람들의 신들을 자신들의 신으로 받아들여 온 것입니다. 그래서 블레셋에 받아들여지는 과정에서 다곤의 상은 인어와 같은 상으로 변화해 나갔다고 생각됩니다. 이 다곤의 상 옆에 히브리 사람들의 신을 두어 한결 다곤의 상이 돋보일 수 있도록 셋팅한 것입니다. 다음날 아침 예배라도 드리러 온 것일까요? 신전 안에 들어가 보니 무려 다곤 상이 여호와의 궤 앞에 마치 경배하는 것처럼 엎드러져 있었습니다. 블레셋 사람들은 “어, 이상한데?”하면서 우연히 그렇게 되었구나 하고 다시 다곤을 제자리에 앉혔습니다. 다음날 똑같이 아침 일찍 신전 안으로 들어가 보니 세상에, 또 다시 다곤의 상이 여호와의 궤 앞에 엎드려 있는 것입니다. 게다가 그 뿐만 아니라 다곤의 머리와 두 손목은 끊어져 문지방에 있고 다곤의 몸뚱이만 남아 있었습니다. 어찌된 일일까요? 문지방이라는 단어가 나옵니다만, 문지방이 신성한 장소라는 생각은 사실 오래 전부터 있었습니다. 마침 이스라엘 백성들이 「제단 뿔」을 신성한 장소로 생각하고 제단 뿔을 유일한 피난처로 생각했던 것과 같은 사고방식입니다. 예를 들어 다윗의 후계자 다툼에서 나이가 가장 많은 아도니야는 자신이 왕이 되려고 했지만 솔로몬에게 기름이 부어져 정식으로 이스라엘 왕이 된 것을 알게 되자 새파랗게 질려 「제단 뿔」로 달려 갔습니다. 열왕기상 1장 50절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

아도니야도 솔로몬을 두려워하여 일어나 가서 제단 뿔을 잡으니

제단 뿔이 피난처였던 것처럼 마찬가지로 다곤 신전의 문지방도 하나의 피난처로 여겨졌던 것입니다. 그래서 다곤은 무서운 여호와의 공격에서 피난처를 찾아 신성한 문지방을 어떻게든 잡으려고 했지만 소용없었다는 것입니다. 5절은「오늘까지 아스돗에 있는 다곤의 문지방을 밟지 아니하더라」라고 되어 있는데, 이는 문지방 아래에는 여러 영혼과 신들이 숨어 있어서 신성한 문지방을 밟아버린다면 어쩌면 “그 밑에 있는 여러 영혼과 신들을 눌러버릴 지도 몰라” “그들을 흥분시킬지도 모른다”라는 두려움 때문에 만일의 일이 일어나지 않도록 다곤의 제사장은 문지방을 밟지 않도록 주의하고 있는 것입니다. 여호와의 심판은 우상인 다곤에 국한되지 않고 다곤을 섬기던 블레셋인에게도 임하게 됩니다. 6절에서 12절은 블레셋인들에게 내려진 심판에 대해 쓰여져 있는데, 어떤 키워드가 네 번 사용되고 있습니다. 그 키워드란 도대체 무엇일까요? 그것을 염두에 두면서 나가고 싶습니다. 6절에서는 여호와의 손이 아스돗 사람에게 엄중히 더하사 재해를 가져오지만 독한 종기라고 쓰여져 있는 역병이 어떤 병이었는지 정확히 알 수 없습니다. 아마 선 (腺)페스트일 것으로 생각됩니다. 흑사병이라고 해도 우리에게는 생소한 질병입니다. 중세에 크게 유행했던 역병으로 림프샘이 부어오르고 쥐에 의해 페스트균이 확산되었습니다. 다른 견해로는 이질이라든가, 사마귀 치질 등이 있습니다. 어쨌든 그 병은 죽음에 이르는 무서운 역병이었습니다. 곧 블레셋의 방백들이 모여 회의를 열고 여호와의 궤를 가드로 옮기는 방안에 만장일치로 결의했습니다. 모처럼 빼앗아 온 궤를 그대로 이스라엘에 반납할 이유는 없습니다. 그들에게 궤는 전승 기념 트로피이기도 했고 우월감에 젖을 수 있는 자존심이기도 했습니다. 어쩌면 가드에는 또 다른 신이 모셔져 있어서 다곤의 신은 당하고 말았지만 다음 가드에 모셔져 있는 신은 그렇게 쉽게 되지 않을 것이라는 눈대중으로 생각 했었을지도 모릅니다. 그러나 가드로 옮겨진 결과 여호와의 손이 심히 큰 환난을 그 성읍에 더하사 상황은 아스돗 보다 더 악화되고 말았습니다. 9절 끝에 「다 쳐서 독한 종기가 나게 하신지라」라고 쓰여져 있는데 히브리어를 보면 종기가 찢어지는 것처럼 피부를 손상시켰다는 의미로 피부가 썩어가는 상황이라고 생각됩니다. 이 무서운 상황은 가드 사람들의 생각을 급변시켜 궤를 에그론으로 이동시켰습니다. 세 번째 성읍, 에그론은 바알 세블을 모시는 마을이었습니다. 그러나 에그론 주민들은 궤가 도착하자마자 「이스라엘 신의 궤를 우리에게로 가져다가 우리와 우리 백성을 죽이려 한다」며 부르짖었습니다. 여호와께서 블레셋을 철저히 무찌르셨습니다. 이제 블레셋 사람들에게는 더 이상 여호와의 궤와는 관계를 맺고 싶지 않다는 생각이 들었을 것입니다. 블레셋 모든 방백들이 다시 모여 회의를 엽니다. 5장 11,12절을 참조하시기 바랍니다.

11 이에 사람을 보내어 블레셋 모든 방백을 모으고 이르되 이스라엘 신의 궤를 보내어 그 있던 곳으로 돌아가게 하고 우리와 우리 백성이 죽임 당함을 면하게 하자 하니 이는 온 성읍이 사망의 환난을 당함이라 거기서 하나님의 손이 엄중하시므로

12 죽지 아니한 사람들은 독한 종기로 치심을 당해 성읍의 부르짖음이 하늘에 사무쳤더라

아까 말씀드렸어요, 키워드는 눈치채셨나요? 그렇죠. 다곤의 양손이 잘린 후에 여호와의 손이라든가, 하나님의 손이라는 말로 「손」이 네 번이나 나오고 있습니다.

성경의 저자는 여호와의 궤가 블레셋 사람들을 쳤다고 말하지 않습니다. 「여호와의 손」이 엄중하게 블레셋 사람들을 덮쳤다는 것입니다. 다시 7절과 9절에 적혀 있는 「손」을 비교해 보세요. 7절은 직역하면 「그의 손은 우리와 우리의 신 다곤 위에 엄중하다」라는 뜻이 됩니다. 9절도 직역하면 「여호와의 손이 내려와서 심히 큰 환난을 더했다」라고 읽을 수 있습니다. 다음으로 6절과 11절의 「손」을 비교하겠습니다. 6절에는 「여호와의 손이 아스돗 사람에게 엄중히 더하사」라고 쓰여 있습니다. 11절에서는 결론 부분으로 「하나님의 손이 엄중하시므로」라고 적혀 있습니다. 새 공동번역(일본어 성경)은 「매우」라는 말이 빠져 있는데. 여기서도 6절에서 11절까지의 과정에서 「상황은 더 악화되고 있다」라고 읽을 수 있습니다.

그리고 이 「엄중하다」라고 하는 동사는 카보드라고 하는 단어로 이것이 명사형이 되면 영광이 됩니다. 카보드는 동사로는 「무겁다, 엄중하다」로 명사로는 「영광」이라고 하는 의미입니다. 그래서 6절과 11절에 있어서 여호와의 손이 엄중하게 되는 것에 의해서 하나님의 영광이 나타난 것입니다. 설령 하나님의 궤를 빼앗겼다 할지라도 하나님의 영광 자체가 떠나는 일은 결코 없었습니다. 겉으로는 하나님의 궤가 포로로 끌려간 것처럼 보이지만 그 가는 곳마다 하나님은 분명하게 자신의 영광을 드러내고 계시고 하나님이 하나님이심을 선언하고 계십니다. 여호와 하나님은 자유로운 분이시며 언약궤에 구속되지 않는 스스로 존재하는 하나님이십니다. 자신의 선민의 죄로 인해 제한을 받는 분도 아닙니다. 출애굽기 3장 13,14절을 참조하시기 바랍니다.

13 모세가 하나님께 아뢰되 내가 이스라엘 자손에게 가서 이르기를 너희의 조상의 하나님이 나를 너희에게 보내셨다 하면 그들이 내게 묻기를 그의 이름이 무엇이냐 하리니 내가 무엇이라고 그들에게 말하리이까

14 하나님이 모세에게 이르시되 나는 스스로 있는 자이니라 또 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 스스로 있는 자가 나를 너희에게 보내셨다 하라

우상이란 인간이 만들어낸 것이지만 하나님은 우상처럼 외부의 도움 따위는 일절 필요로 하지 않는 것입니다. 누구에게도 의존할 일이 없습니다. 그 증거로 하나님은 혈기왕성한 40세의 모세를 부르신 것이 아니라 힘없는 80세의 모세를 부르신 것입니다. 여호와 하나님은 어떤 것에도 구속되지 않고 스스로 존재하시는 분이라는 것은 나중에 이스라엘 백성들이 BC587년 바빌론 포로로 끌려가 예루살렘 성전의 소멸을 경험하게 되는데, 이때 역시 비록 성전이 소멸되더라도 하나님의 영광 자체가 떠난 것은 아니라는 것을 단언할 수 있는 것입니다. 하나님은 결코 패배하시는 분이 아니시며 주님은 항상 하나님이시며, 하나님이시기를 중단할 수도 없고, 자신을 부정하실 수도 없으십니다. 그렇다면 조금 전으로 돌아가서 엘리의 집에 심판이 내려진 이유는 무엇이었을까요? 그건 역시 카보드의 문제였습니다. 엘리가 하나님보다 자신의 아들들을 존중하고 그들이 원하는 대로 하도록 내버려둔 것이었습니다. 아들들을 존중하고 하나님께 영광을 돌리는 일을 하지 않고 하나님을 멸시한 것입니다. 사무엘상 2장 29,30절을 참조하십시오.

29 너희는 어찌하여 내가 내 처소에서 명령한 내 제물과 예물을 밟으며 네 아들들을 나보다 더 중히 여겨 내 백성 이스라엘이 드리는 가장 좋은 것으로 너희들을 살지게 하느냐

30 그러므로 이스라엘의 하나님 나 여호와가 말하노라 내가 전에 네 집과 네 조상의 집이 내 앞에 영원히 행하리라 하였으나 이제 나 여호와가 말하노니 결단코 그렇게 하지 아니하리라 나를 존중히 여기는 자를 내가 존중히 여기고 나를 멸시하는 자를 내가 경멸하리라

하나님은 자신을 존중하는 자에게 자신의 영광을 나타내시지만, 만약 하나님을 멸시한다면 하나님은 적의 포로가 되어서라도 포로를 통해 자신의 영광을 나타내시는 것입니다. 하나님이 영광을 나타냄으로써 블레셋 사람들의 부르짖음이 하늘에까지 이르렀습니다. 이 블레셋인들의 부르짖음은 출애굽 때 애굽의 모든 장자가 모조리 살해된 밤의 재현이기도 했습니다. 출애굽기 12장 29,30절을 참조하십시오.

29 밤중에 여호와께서 애굽 땅에서 모든 처음 난 것 곧 왕위에 앉은 바로의 장자로부터 옥에 갇힌 사람의 장자까지와 가축의 처음 난 것을 다 치시매

30 그 밤에 바로와 그 모든 신하와 모든 애굽 사람이 일어나고 애굽에 큰 부르짖음이 있었으니 이는 그 나라에 죽임을 당하지 아니한 집이 하나도 없었음이었더라

우리의 하나님은 반드시 승리하시는 권능의 하나님이십니다. 우리는 비록 하나님이 멀리 계신 것처럼 느껴질 때라도 비록 하나님이 침묵하고 계신 것처럼 느껴질 때라도 하나님은 결코 패배하시는 분이 아니시며 우리의 죄로 인해 제한을 받는 분도 아니며 우리에게 징계의 매를 드시는 한이 있더라도 자신의 백성을 포기하지 않고 계시는 분입니다. 그러므로 우리도 하나님의 은혜에 응답하고 끝까지 이 하나님을 신뢰하는 것이 중요합니다. 스스로 무엇인가를 하려는 야망은 일체 버려야 합니다. 그리고 결코 하나님을 이용하려고 생각해서도 안 됩니다. 자신의 힘을 믿고 우상에게 부탁할 것이 아니라 오직 하나님의 손을 신뢰하며 진심으로 예배를 드리는 것이 중요합니다. 이 하나님께 우리의 삶을 맡기고 예수님을 섬기면서 하나님의 영광이 우리의 삶에 임하기를 바라보는 믿음으로 걸어갑시다.

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