2020年05月31日「聖霊による始まり」

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聖書の言葉

【讃美歌183】

【主の祈り】

【信仰告白_ウェストミンスター小教理問答39~40】
問39 神が人間に求めておられる義務は、何ですか。
答 神が人間に求めておられる義務は、啓示された神の御意志に服従することです。
問40 神は、服従の規範として、最初に何を人間に啓示されましたか。
答 神が服従のため最初に人間に啓示された規範は、道徳律法でした。

【献金】

【聖書朗読】

3:1ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
3:2あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。
3:3あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。
3:4あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。
3:5あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。
3:6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。ガラテヤの信徒への手紙 3章1節~6節

メッセージ

【序】

 パウロ書簡の中には「キリストの信仰」という奇妙な言葉が7回出て来ますが、とりわけ、ガラテヤ書には三回も出てまいります。例えば先週学んだガラテヤ書2:16に二回出てきますし、3:22にも再度出て来ます。さらに言えば、2:20には「神の子の信仰」という言葉まで出てまいります。聖書を翻訳する側に立って考えてみますと、大変混乱してしまいます。新共同訳には、これらの箇所をどのように訳しているかと言いますと、2:16を御覧ください。

“けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。”

 つまり新共同訳では、「キリストへの信仰」と訳されています。ところが、新しく出ました聖書協会共同訳を見ますと、パウロ書簡の中に出てくる全ての「キリストの信仰」は、「キリストの真実」と訳されています。なぜこのような訳が可能なのかと言いますと、ギリシャ語の信仰を意味する「ピスティス」という言葉の背景として、それはヘブライ語の「エムナ(アーメン:信じるの名詞形)」という概念の翻訳であるということを考慮する時に、わかります。つまり、ヘブライ語の「エムナ」とギリシャ語の「ピスティス」という言葉には、「信仰」と「信実さ」という二つの意味が含まれておりまして、第一に、神の側の契約に対する「信実さ」が挙げられ、第二に、人間の側の恵みの応答としての「信仰」が挙げられるのです。ですから、パウロ神学において信仰とは、人間の行いというより、神の恵みの業として位置付けられ、人間はただそれを一方的に受容するということが強調されています。そもそも罪びとが神の御言葉を信じることも、御言葉に応答することもできないわけです。罪人に拘わらず、まず神が先に私たちに近づいて下さり、聖霊によって照らして、恵みを注いでくださるために、私たちは御言葉を受け入れ、信仰を告白することが出来るのです。本日の箇所では、ガラテヤの人々にも聖霊が下って、まさに五旬節に起こったような出来事がガラテヤの人々の間にももたらされたと語られていますが、そのような聖霊の働きは、果たして律法の行いによってもたらされたのか、或いは一方的な神の恵みの受容によってもたらされたのかということを、パウロは、ガラテヤの人々に問い正しています。3:1~2節を御覧ください。

【1】. 律法の行いによるのか、信仰の聞き取りによるのか

“ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。”

 パウロは自分が語った福音において、広告が掲げられるように、絵画によって示された現象のように、ガラテヤの人々の内に、イエスさまの十字架につけられた姿がはっきりと示されたではないかと言っています。特に1節の「十字架につけられた」という言葉が過去形ではなく、完了形になっていることから、イエス様の十字架が単に、過去の出来事ではなく、今、まさに成就されたということが示されています。まさに「あなた方の間で、あなた方の目の前でキリストは十字架に付けられたではないか」と言っているのです。福音を聞いたガラテヤの人々の間に聖霊が臨み、不思議と奇跡が起こりました。例えば、ビシディア州のガラテヤ人はこれを聞いて喜び主の言葉を賛美した(使徒13:48)と書かれていますし、またイコニオンではしるしと不思議な業が行われた(使徒14:3)と書かれています。リストラでは、まだ一度も歩いたことがなかった男が、躍り上がって歩き出した(使徒14:8~10)と書かれています。このようにガラテヤの人々に聖霊が臨み、人々は過去の束縛や、挫折や、恐れから解放されました。その上で、パウロは、2節の質問を投げかけているわけです。“あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか”この箇所を直訳しますと、「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法の行いによるのですか、それとも信仰の聞き取りによるのですか」となります。「律法の行い」と、「信仰の聞き取り」の2つが並べて置かれているわけです。聖書の中で「聞く」という言葉が出てくる場合、羊が羊飼いの声に聞くという意味で、これは一方的な受容を現わしているのではないかと思います。例えばベタニアのマルタとマリアの場合でも妹のマリアはやはり御言葉の前にすべてを下して、ただイエス様の語られる御言葉に耳を傾けました。ところで、ある学者は、この信仰の「聞き取り(ギ:アコエース)」という言葉を、「メッセージ」と訳しています。もし、その訳を取る場合、「信仰のメッセージ」或いは、「信実なメッセージ」となって、「人間の律法の行い」と「神の信実なメッセージ」の2つが並べられて、神の側の行為が一層、強調されることになります。いずれの訳であっても、“霊”を受けたことは、人間の行いに根拠が置かれているわけではなく、一方的な神の業に根拠が置かれているのであって、それをただ受容したに過ぎないということであります。

【2】. 霊による始まり

 続いてガラテヤ書3:3~4節を御覧ください。

“あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。”

 パウロはここで、「律法の行い」と「信仰の聞き取り」という言葉を3節では「肉」と「霊」という言葉に置き換えて、二つが対極の関係にあることを、明らかにしています。そして霊によって、神の恵みによって始められた業であることを確認し、神がいたずらにガラテヤの人々にあれほどの素晴らしい霊的な体験をさせた訳ではないと確信しています。従いまして4節は、パウロのガラテヤの人々に対する励ましの言葉と取ることが出来るでしょう。つまり、まだ罪人であった時に、神の側からガラテヤの人々に近づいて来てくださり、聖霊が注がれて、新しく生まれ変わる体験をさせてくださったあの恵みは、決して無駄に終わるはずがない、神様がご自身で始められた業は、決して地に落ちることはないということです。続いて5~6節を御覧ください。

“あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。”

 ここでパウロは、もう一度「律法の行いによるのですか、それとも信仰の聞き取りによるのですか」という質問に戻りながら、私たちの「信仰の父アブラハム」を例に挙げて説明しています。「信仰の聞き取り」とは一体何か、その意味について説明しているのです。アブラハムはもともとカルデヤのウルの人でした。ウルとはメソポタミア文明の中心地であり、偶像礼拝がはびこっていた土地でもあります。ステファノの説教を見ると、そのウルの地において神の召命を受けたと書かれています。創世記と使徒言行録を見比べて行きますが最初に使徒言行録7:2~3を御覧ください。

“兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。”

 父親テラは、当初カナンに向けて出発したはずでしたが、途中、なぜかハランで留まることにしました。ユーフラテス川を越えて、メソポタミア地域を抜け出すことが出来なかったのです。しかしテラが死ぬと、神様はアブラハムに語りかけられ、川を越えてカナンの地へ旅立つよう促します。因みにヘブライ人という言葉の由来は、川を越えて来た者という意味です。アブラハムがメソポタミア地域からユーフラテス川を越えて来たために、ヘブライ人と言われるようになりました。創世記11:31~12:2を御覧ください。

“テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。”

 神様にとって、将来、アブラハムの子孫が増し加えられるということが、大事に温めていたビジョンでありました。当時、子孫の繁栄とは即ち富の象徴でもありました。しかし、ここで重要なことは、創世記においてはアブラハムに最初に主が現れたのは、12章の記事のハランにおいてであるということです。つまり、この時、神様がアブラハムに初めて現れてくださったということではなく、二回目であったということです。それは、先ほど見ましたステファノの説教から分かるのです。つまり主はかなり前からアブラハムに働きかけておられたということです。このことを私たちに適用するなら、私たちがイエス様を受け入れるようになった頃のことを思い起こしてみてください。私たちは神様に降参して、ある日「イエス様こそ私の救い主です」と告白できる日が、やって来ました。しかし考えてみますと、その日、その瞬間を境に神様が私たちの人生に初めて介入し始めた訳ではありません。私たちが信仰を持つ以前から、神様が私たちに近づかれ、私たちの気づかないところで、不思議な形で、守り導かれていたことに気づかされます。アブラハムの場合も全くこれと同じで、実際アブラハムが神を信じたという記事は15章になって初めて出てまいりますが、それ以前に聖霊によって導かれているのです。

【3】. アブラハムを説得される神

 アブラハムは信仰に至るまで、紆余曲折の歩みをいたしました。アブラハムがカナンの地にたどり着いた後に、間もなくカナンの地に飢饉が訪れたため、エジプトに避難することにしましたが、その際、アブラハムは自分の保身のために自分の妻サライを、妹であると嘘をつき、エジプトの宮廷に売り飛ばすようなことをします。こういった点からも、アブラハムが私たちの「信仰の父」であるという時に、アブラハムの信仰が立派だからということにはならないわけです。創世記13章から14章にかけては、部族間の争いに巻き込まれますが、アブラハムは甥のロトを救うために援軍を送り、ロトと奪われた全ての財産を取り返しました。しかし、この時アブラハムの一番の悩みであり、心配の種とは、恐らく「またいつ、争いごとが勃発するだろうか?」、「彼らの報復があるだろうか?」ということではなかったでしょうか。そのような中で神様が再びアブラハムに臨み、語り掛けてくださいます。創世記15:1~6節を御覧ください。

“これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」”

 盾という言葉が出て来ますね。これは心配の中にあったアブラハムに部族間の戦争において主が守ってくださるという保証です。主との会話はさらに続きます。続いて2~6節を御覧ください。

“アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。”

 アブラハムはたとえ敵の報復から守られたとしても、自分には子供がいないために、将来の希望を完全に放棄していました。“家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです”と答えると、主はアブラハムの言葉を遮り、アブラハムを外に連れ出して、星の数を数えさせます。現代とは違って電気がなく、また空気もきれいであったでしょうから、夜空には数えきれないほどの星が宝石のように輝いていたことでしょう。そして、主は、あなたの身体から出るあなたの子孫もこのように多くなると言われました。そして6節に至って、ついに“アブラハムは主を信じた”という記事が出て来ます。これがアブラハムの信仰であります。それではこのアブラハムの信仰とは、一体何でしょうか。信仰とは私たちがそれをもって誇るものではありません。信仰とは神の一方的な「賜物」であり、まさに神様のアブラハムに対する「信実なメッセージ」であり、そしてアブラハムに対する「神様の説得」であるということに気づかされるのです。

【結論】

 第一に、パウロの福音が語られた時に、ガラテヤの人々の内に不思議と奇跡を起こされたのは、律法の行いではなく、一方的な聖霊の働きによってもたらされたということです。ガラテヤの人たちは、ただそれを受容しただけでした。このように聖霊によって始められた業を、今、肉によって仕上げようとすることは断じてできません。第二に、信仰とは、人間の側の告白の前に、それ以前に、神の「信実なメッセージ」であり、「神の説得」であるということです。アブラハムの信仰を通して教えられることは、神は、まだ信仰を告白する前から、私たちがまだ罪びとであった時に、ご自身から近づいてくださり、私たちの心の深い所に働きかけられ、閉じられた心を開き、固まった心を柔らかくされて、ついに、心の割礼を施されるのです。そして、神は私たちをして、死んだ意志を生かされ、不道徳だった意志を善良にし、逆らう意志を従順にしてくださり、望まなかった事柄を切に望むようにして、信仰から信仰へと導いて下さるのです。