2020年04月26日「唯一の福音」

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讃美歌168番

1:6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
1:7ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
1:8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
1:9わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
1:10こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
1:11兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
1:12わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

4/26せんげん台教会祈りの課題
①一日も早く現在の新型コロナ禍の状況が終息するように。
②感染されてしまった方々の速やかの癒しのために。
③医療関係に従事されている方々、並びに食糧など生活に関わる仕事に従事されている方々に主の労いと助けが与えられるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 1章6節~12節

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【序】

 ガラテヤの信徒への手紙とは、パウロが第一次伝道旅行において建てられた諸教会に対して送られた手紙です。使徒言行録の13~14章にその様子が書かれていますが、巻末の地図7を御覧ください。【パウロの宣教旅行1】と書いてあるページです。パウロの一行は、シリアのアンティオキアから出発して、キプロス島を経て、ベルゲに上陸し、そこから小アジアの町々を訪問しながら伝道したことが分かります。ビシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベの町々に教会が建てられました。使徒の働き13:48~49を見ますと、“異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。”と書かれていますので、この時のパウロの伝道は大いに成功したようです。ところがパウロが去った後に、この地域にある人々が入って来て、別の異なる福音を伝えたというのです。彼らは一体どのような人々だったのでしょうか。使徒言行録15:1を御覧ください。

“ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。”

つまり後からユダヤからやって来た人々は、割礼を受けてこそ救いが完成すると教えていました。彼らのことを、言ってみれば「ユダヤ主義的なキリスト者の教師」と呼ぶことができるかもしれません。彼らは、パウロが使徒であることは一応、彼らなりに認めていたように思われますが、パウロのあまりにも自由な福音に対して、自分たちが補完してやっているだと考えていたようです。しかしパウロに言わせるなら、実は彼らこそ「惑わす者たち」でありました。ガラテヤ書1:6~7節を御覧ください。

【1】. 唯一無二の福音

 “キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。”

通常のパウロの書簡であれば、冒頭の挨拶の後に送り手に、感謝の辞が述べられるべきですが、このガラテヤ書に関してはそのようには行きません。「あなた方に感謝している」という言葉の代わりに、「あなた方に、あきれ果てている」つまり、「あなた方に驚き怪しんでいます」という表現によって、ガラテヤの人々に対するパウロ自身の憤りと失望を明らかにしています。というのは、「こんなにも早く離れた」という点が挙げられるでしょう。その状況は、あたかも旧約時代にモーセがシナイ山に上り十戒の石板を授与されて戻ろうとしていた時に、シナイ山のふもとに残されたイスラエルの民は、早くも金の子牛を鋳造し、モーセのいないところで偶像崇拝に走っていた、あの状況と重なるからです。出エジプト記32:7~8を御覧ください。

“主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」”

モーセが早くも主が命じた道からそれて、驚き怪しんだように、パウロも、まさか、こんなにも、早くガラテヤの人々がそれて行ったことを驚き怪しんでいるのです。そして、32:8の「道」という言葉に注目するなら、パウロが驚かされたもう一つの点として、恵みの中に招いてくださったお方から、つまり、道であり、真理であるイエス・キリストから、ガラテヤの人々が突然変節し、背いて離れて行ったことです。まさに旧約のイスラエルの民が、主の命じられた「道」からそれて、金で若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげたような状況であったということです。

ガラテヤ書に戻りまして、パウロは、1:6節で“ほかの福音”という言葉を口にしましたが、7節ですかさずそれを修飾し、訂正しています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけでは、ありません。ユダヤ主義の教師たちがしていることは、本人たちは気づいていなかったかもしれませんが、唯一無二のキリストの福音を自分勝手に歪める行為であり、従って、ガラテヤの人々を惑わしているに過ぎないと言っています。パウロはキリストの福音が唯一無二であることについてさらに、議論を進めて行きます。8~9節を御覧ください。

“しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。”

「呪われるがよい」という言葉は、ヘブル語の聖絶する(ヘレム)という言葉でありまして、神の罰に引き渡すという意味ですから、大変強い語調であります。8節では、以前、ガラテヤの人々にパウロが聖霊によってガラテヤの人々に告げ知らせた福音が、唯一無二であることを証明するために、この語られた福音の権威の下に、自身でも、天使でも、服従させて、もし、違う福音を告げ知らせようとするなら呪われるがよいと言っています。つまり、ある者の資格に基づいたり、より威圧的な権威によって、即ち、サンヘドリンの権威によったり、現代であれば、国の権威や、ローマ教皇の権威などによって、福音の内容が変更させられたり、何かを加えられすることは呪われる行為であり、決して許されないと言っているのです。9節では、ガラテヤの人々に過去の教えを想起させながら、第一次宣教旅行において、あの時、あなた方が確かに受け取ったあの福音とは、異なる福音を告げ知らせる者が、もし、いるなら、その人は呪われよと言っています。つまり、キリストの福音とは、右にも左にもぶれることがなく、時代によって変化していくものでもなく、それは不動のものであり、神の真理であり、唯一無二のものであると言っているのです。

【2】. ユダヤ主義者たちから見えるパウロ像

 それでは、ユダヤ主義者たちがパウロを非難する点とは何だったのかと言いますと、それは、異邦人に対して福音を宣べ伝えるに当たって、パウロが人々の人気取りに一生懸命になる余りに、言うべきことを完全に語っていない、つまり肝心なユダヤ人の慣習である律法の儀式のことを伝えず、福音を簡素化させて、あまりにも自由を強調しているのではないかという点です。実際、パウロは、福音伝道にあって、細かいことには割と寛容であったということも有名でした。1コリント9:22には、“弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。”と書かれています。ですから、ユダヤ主義たちは、パウロの教えに対して、あれは信者を増やすために、結果を重視した、人気取りであって、パウロのことを神のことを思わず、人に取り入ろうとしていると非難していたのでしょう。このことに対してパウロは、1:10において次のように語っています。御覧ください。

“こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。”

ここで、「もし、今なお、人の気に入ろうとしているなら」と言っているのは、パウロがダマスコの途上において復活の主と出会うまでは、目から鱗が落ちる体験をする前であるなら、律法を間違って解釈していたために、神の教会を熱心に迫害し、人々の間で気に入れられようとしたり、権威者たちにも喜んで迎え入れられようと、一生懸命しようとする動機も確かにあったかもしれません。しかし今では、キリストの僕、つまり、使徒とされた以上、神さまより、どうして人に取り入ることが出来るでしょうかと言っているのです。一方で、罪深いガラテヤの異邦人から見るなら、自分たちが過去にこれほど多くの罪を犯してきたのだから、パウロの福音よりも、ユダヤ主義たちが伝える福音の方が、割礼も受けなければならないし、難易度が高いし、救われるためには、いかにも説得力があり、合理的に聞こえたのでしょう。このように福音とは、異邦人にとっては愚かに聞こえるものであり、ユダヤ人にとっては躓きとなるものなのです。しかし人間の目にはそのように不充分に見える福音であっても、神の力、神の知恵であり、真理であって、唯一無二なものなのです。

【3】. 外的召命と内的召命(11~12節)

 パウロは、ガラテヤの人々に伝えた福音というのは、決して人間の福音ではなく、また、人からの伝承や、教えによって伝えられたものではない、それは啓示によるものだと断言します。11~12節を御覧ください。

“兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。”

11節には、パウロが告げ知らせた福音の性質について、それは人によるものではないと書かれていますが、つまり人間的なものではないという意味です。人が一生懸命考えても決して思いつくようなものではないもの、その性質は、聖書的であり、上から与えられた霊的なものであるということです。続いて12節にはそれでは、そのような性質を持った福音というものが、パウロに、どのような仕方で伝えられたのかについて書かれています。それは、人の教えからでもなく、伝承によってでもなく、イエス・キリストの啓示を通して与えられたということです。従いまして福音とは、人間の知識によっては理解することは出来ませんが、ただ信仰によってのみ理解することができるのであり、さらに言えば聖霊の働きによってはじめて受け入れることが出来るものなのです。聖書についても同じことが言えるでしょう。聖書は決して私たちの知性によっては理解できないし、イエス・キリストを人間的な方法によっては決して信じることは出来ないということです。従って、私たちに対する救いの招きには、聖書を実際に読んでみたり、教会学校での紙芝居であったり、或いは映画を通してであったり、人との交わりを通してであったり、日常の経験を通した、「外的な救いの招き」と、聖霊による「内的な救いの招き」の二種類があるということです。外的な招きは、真の救済には導くことがありません。極端な話、いくら毎日聖書を読んでも、いくら毎週説教を聞いても、常に外的な招きに与りながらも、救われない人がいるということです。ただし、聖霊によって招かれた人、聖霊によってキリストとの交わりに入れられた人こそ、神によって選ばれた人なのです。従いまして福音とは不動であり、変わるものでも、進化するものでもなく、古いものでありますが、主イエスとの交わりに入れられるという意味において、霊的な意味において、福音とは常に新しいものであると言うことができるでしょう。そして永遠における神の選びは、聖霊の招き(普通「有効召命」と呼ばれますが)によって実現されるのです。ローマ書11:29に“神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。”と書かれている通りです。従って救いとは、人間の行いには一切寄らない、全面的に神の恵みであると言うことができるのです。誰が選ばれていて、誰が選ばれていないのか、誰が有効召命を受けていて、誰が受けていないのかについては、客観的には誰にもわかりませんが、しかし、それは聖霊によって与えられる「救いの確信」を通して、つまり、自分とイエス様との個人的な関係を通して、主観的に分かるようにされ、キリスト者は信仰の歩みを通して、もっと主を愛するようにされて、もっと御言葉を愛するようにされるのです。ところで、パウロは特に1:11節においてガラテヤの人々に対して兄弟たちと呼びかけています。パウロの伝道旅行に共に同行したユダヤ人に対して兄弟と呼ぶのなら分かりますが、パウロは異邦人であるガラテヤの人々に対して、しかも、現在まさに福音から離れようとしている人々に対して信仰によって「兄弟たち」と呼びかけています。ここにパウロの切なる願いを見て取ることができます。旧約の時代イスラエルの民が何度も罪を犯しても、神さまは、めんどりが雛を集めるようにされて、イスラエルに悔い改めて帰って来なさいというメッセージを送り続けました。私たちは罪を犯すことに、大変早い者でありますが、罪が示されたならば、悔い改めれば良いのです。その時、心の畑が耕され、雑草が引き抜かれ、私たちの信仰の根は、深く根を張ることができるのです。ガラテヤの兄弟姉妹に、今回のユダヤ主義者たちの惑わしを通して、揺さぶられることになりますが、それを通して、いよいよ地に深く信仰の根が張るようにとパウロの願いが込められているのです。

【結論】

 第一に、福音は、そこに何か付け加えられたりしてはならない、変わらない、唯一無二のものであるということです。ユダヤ人にとってはつまずきとなり、異邦人にとっては愚かなものに見えますが、決して私たちの知識や考えによって福音を歪めたりしてはなりません。第二に、福音とは、人によるものではなく、聖書的であり、上から与えられた霊的なものであるということです。そして福音による救いの招きにも、外的な招きと、内的な招きがあって、外的な招きには効果はありませんが、内的な聖霊による「有効召命」によって、神の選びが実現されるのです。従いまして福音とは旧いものでありますが、同時に新しいものであると言うことができるのです。なぜなら、聖霊が福音と共に働く時に、キリストとの交わりに入れられ、目からうろこが取れるように霊の目が開かれ、私たちは神の全き恵みによって、救いに入れられるからです。そのことを感謝しつつ歩ませていただきましょう。

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