2020年04月19日「福音のマグナカルタ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
1:2ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。
1:3わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:4キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
1:5わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。

4/19せんげん台教会祈りの課題
①一日も早く現在の新型コロナ禍の状況が終息するように。
②感染されてしまった方々の速やかの癒しのために。
③医療関係に従事されている方々、並びに食糧など生活に関わる仕事に従事されている方々に主の労いと助けが与えられるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節

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序論

本日からガラテヤの信徒への手紙に入ります。このガラテヤ書は、「福音信仰のマグナカルタ(大憲章)」と呼ばれています。マルティン・ルターも、この手紙から大変影響を受けた人の一人でありますが、ルターは「私はこの手紙と結婚した」と言い残しています。また、ルターが1517年10月31日にヴィッテンベルク大学の正門に「95箇条の論題」を張り付けたことが契機となって、宗教改革が始まっていきますが、実は、ちょうどこの時彼がヴィッテンベルク大学でガラテヤ書の手紙の第一回の講義を終了した直後のことだったようです。従って、歴史的に見ましても、このガラテヤ書によって教会は全く新しくされ、教会の聖徒たちの歩みが、完全に変えられたと言うことができるかもしれません。そして今日においても、私たちがガラテヤ書を学ぶ時に、私たちの教会にも、雷が落ちるような衝撃を与えてくれることでしょう。このガラテヤ書には、何が書かれているのかと言いますと、第一に「パウロの教えを権威づけている使徒性」について書かれています。第二に「パウロが教えている教えそのもの、つまり福音」について書かれています。この、①パウロの教えを支えている使徒性と、②教えられた福音という、二本の糸が、この手紙を最初から最後まで貫通されていると言っても過言ではないでしょう。本日の聖書箇所は、手紙の冒頭の挨拶にあたりますが、この挨拶文も実によく考え抜かれていて、この二本の糸が見事に浮き彫りにされてきます。パウロが、なぜ、このような手紙を書く必要があったのかと言いますと、パウロの使徒性を疑問視するユダヤ人キリスト者たちがエルサレムからやってきまして、異邦人であったガラテヤの人々に対し、割礼を受けてこそ救いが完成すると、そそのかしながら、他の、別の福音を吹聴していたからです。ガラテヤの人々は戸惑いながら、「何でも、新しい先生たちは、モーセの慣習に従って割礼を受けてこそ、救いが完成すると言うんですよ。パウロ先生とは違うことを言ってますが、この新しい先生たちも、やはりエルサレムから遣わされたと言うんですよ。」「いやー何でも、新しい先生たちは、あの十二使徒と親族の関係で、大変懇意な関係だそうですよ、直接教えを仰いだということですよ。パウロ先生は実際のところ、生前の主イエスと一緒に食事もしたこともないし、もしかしたら使徒ではなかったという噂も聞こえてきますよ、本当にあの教えで、大丈夫なんですかね?」とか何とか言って、ガラテヤの人々は、パウロの教えから離れてしまい、すぐにこの新しい教えに飛びついていってしまいました。

主題1 書き出しの一行目から見られる憤りのしるし

早速手紙を見てまいりますが、当時、ギリシャ語において手紙を書く場合に、最初に差出人を書き、二番目に宛名を書き、三番目に挨拶を書くというのが、一般的な体裁でございました。パウロも通常の形に則っています。1:1~3節を御覧ください。

“人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。”

この文章において、差出人はパウロと、パウロと一緒にいる兄弟一同であることが分かります。宛名はガラテヤ地方の諸教会ということですね。ところで、差出人であるパウロ自身と、宛名にかかっているその修飾語を見ると、量的に、アンバランスであることに気づきます。というのは、パウロ自身に対する修飾語はやたら長いのに、宛先の相手には一切修飾語がありません。例えば、テサロニケの手紙第一の手紙1:1~2を見てみましょう。

“パウロとシルワノとテモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ。恵みと平和があなたがたにありますように。私たちは、祈りの度に、あなたがたを思い起こし、あなたがた一同について、いつも神に感謝しています。”

ここでは、宛名に対し“父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ”と修飾されていますし、さらに相手のテサロニケ教会に対する感謝の辞が述べられています。これがオーソドックスな形でしょう。コリントへの手紙を見ましても“コリントにある神の教会へ”という修飾語が付いていますし、ローマ書、フィレモン書などを見ると、宛先をしたためた後に、相手に対する感謝の辞が述べられているのです。ところが、ガラテヤ書の場合こういった、相手を建て上げるような、励ましの言葉はなく、あまりにもぶっきらぼうであることが特徴です。つまり、ガラテヤ書は一行目から何か不穏な雰囲気を感じとることができるのです。パウロのガラテヤ教会に対する「憤りのしるし」とも言えるでしょう。一方で、差出人の修飾語に目を向けて行きましょう。パウロは自身のことを「使徒」として紹介しているのですが、これは、コリントの手紙でもそうですが、パウロの使徒性を、疑っている人々に手紙を書く場合に、パウロは自分のことを「使徒」として紹介しています。しかし、ガラテヤ書の場合は、その部分が特に長いことが分かるのです。“人々からでもなく、人を通してでもなく”という二つの否定語の後に、“イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ”という長い修飾語が付いていますね。

最初の“人々からでもなく、人を通してでもなく”というのは、パウロの使徒職というのがどのような人からも起因しているのではないと言っているのでしょう。パウロの使徒性は、教会や人間の権威によるものではないということです。続きまして“イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ”というのは、御父が御子イエス様をこの世に遣わされたように、パウロ自身もイエス様から直接、異邦人に対して遣わされたということです。パウロは本名サウロといいまして、イスラエルのサウル王と同じ名前です。彼はベニヤミン族出身でファリサイ派のガマリエルの下で教育を受け、律法に大変精通していました。そしてまさにサウル王がダビデを追跡したのと同じように、主の民をことごとく迫害し追跡し続けていました。ところがある日、ダマスコにおいて復活の主にお会いし、サウロはその場で回心したのです。恐らくその時イエス様から教えを受けて、旧約に書かれているメシアが、まさに十字架に架かられた私(イエス様)であるということを、受け入れたのでしょう。そして異邦人の使徒としてイエス様から派遣されました。その後彼は、自分が誇りに思っていたサウロという名前を改め、ラテン語のパウロという名に変えて、第一次宣教旅行に派遣されガラテヤの諸教会に福音を宣べることになりますが、パウロは自分がイエス様によって直接派遣されたことを念を押すように語り、究めつけとして、ガラテヤ書の一番最後において、再度、次のように語っています。6:17を御覧ください。

“これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。”

つまり、「わかったか、私には使徒としての焼き印が主イエスから与えられているのだ」というに口酸っぱく言っているのです。

主題2 パウロの教えを権威づけている使徒性とは

パウロの自身の使徒性の弁証を見ると、どうやら「使徒」という言葉をめぐって、パウロとガラテヤの人々の間で、認識の不一致があるようです。使徒(ギリシャ語でアポストロス)とはどういう意味でしょうか。使徒とは、「遣わされた者、派遣された者」という意味でありますが、しかし本来「使徒」とは、人によってだったり、教会会議によって派遣された者ではなく、神さまによって直接派遣された者だけを使徒といいます。これは狭い意味における使徒とも呼ばれ、神から遣わされた全権大使という意味です。聖書にはバルナバやエパフロディトにも使徒という言葉が使われていますが、これは、教会から遣わされた使徒という広い意味であって、神から派遣された使徒ということではありません。そして、この狭い意味における、真の使徒であり、信実な神の証人であり、アーメンであるお方は、実は、イエス・キリストしかいないのであります。ヘブル3:1を御覧ください。

“だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者(使徒)であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。”

イエス様は御父から遣わされ、父なる神を証しされました。サタンのように自分自身から勝手に語るのではなく、天の父のお考えをそのままお語りになりました。ですから、その語る言葉には偽りはなく、ご自身がロゴスであられ、真理そのものであられました。しかしイエス様は、ご自身によって一切文章を残されなかったので、歴史を通して、ご自身の啓示が人類に純粋に伝えられるようにと、措置を講じなければなりませんでした。そこで、イエス様は十二使徒を選ばれ、パウロを選ばれ、彼らを全権大使として派遣されたのです。従って使徒たちというのは、教会の臨時的職分として立てられ、教会の設立するために、例外的な奉仕を担当することになります。使徒たちは、復活の主を証しし、イエス様の教えを人々に伝え、弟子にするために派遣されたのです。しかし、いくら使徒だからと言って、罪がなく、誤りがなく、完全であるということではなくて、イエス様が使徒たちをご自身の道具として用いているに過ぎないのであって、従ってイエス様自身のような「真の証人」とは、使徒たち自身というより、彼らと共に働かれる聖霊様であるという方が正しい表現でしょう。聖霊は使徒たちの口に語るべき言葉を与え、使徒は聖霊を通して、初めてキリストの証人となることが出来たのであります。ヨハネ14:16節と26節を御覧ください。

14:16“わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。”

14:26“しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。”

このようにイエス様と父なる神様は、弁護者聖霊を遣わして下さり、そして聖霊は、神の啓示に対して、何か新しいものや、イエス様の教えとお働きと人格に含まれないことを、一切加えることなく、イエス様のようなお方としてお働きになられ、弟子たちに対し、イエス様の語られた全てのことを思い起こすようにさせるのです。ですから使徒職を世襲的に継承するということはあり得ませんし、使徒職は、臨時的に的に立てられた彼らの一世代に限る訳です。使徒たちの働きにより聖書が完成されたために、主の御言葉はもうこれ以上臨むことはなく、また、預言者たちにも主の御言葉はもうこれ以上臨むことはありません。このような訳で、使徒たちは教会を設立するために、そして聖書を完成させるために、イエス様の全権大使として派遣され、そして、彼らの証しは真実であり、パウロの言葉も人間に権威付けられているのではなく、聖霊によって、さらに言えば聖霊を遣わされたイエス様と、父なる神様に権威付けられているのです。

主題3 パウロの教え

次にパウロの教えている内容について見てまいります。3節において、パウロの手紙に毎度見られるように「恵みと平和」があるようにと祝祷を祈っていますが、そもそも、その「恵みと平和」というのは、4節に進みますと、まさにパウロの教えの中身である、福音によって与えられるということを確認しています。1:4~5を御覧ください。

“キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。”

つまりここでパウロの語る福音とは何かと申しますと、父なる神とイエス・キリストから、恵みと平和がもたらされるということであり、その根拠は、キリストが父なる神様のご計画に従って、十字架によってご自身を捧げられ、私たちの代わりに死なれ、それによって私たちの罪を贖い、罪の支配から解放してくださり、この世から取り分けてくださり、聖なる民として神の家族に入れてくださったからであります。この福音を信じるのなら、信仰によって救われるのです。ところで、専らイエス・キリストに贖いの御業によって、専ら恵みによって救われるのか、或いは、ユダヤ人キリスト者が言うように、割礼を受けてこそ救いが完成されるのか、この二つの間には大変大きな違いがあるのです。もし私たちが純然たる福音を信じ、ただイエス・キリストの恵みによってのみ、完全に救われると信じるなら、私たちは、日々の歩みの中で、感謝が満ち溢れ、御言葉を愛するようになり、日々神の栄光を褒め称え、喜びと平安の中を過ごさせていただき、善い業を喜んですることが出来るように変えられるでしょう。ところが、もし私たちが、偽りの教えを信じるなら、つまり、律法を全うしてこそ、救いが完成されると信じるなら、日々の歩みにおいて、自分を誇り、心には平安がなくなり、競争心に駆られ、常に人々を非難し、妬みや嫉妬や不平不満が心の中からあふれてくることになるでしょう。何を信じるのかによって結ばれる実が全く異なってくるのです。

結論

今日、私たちには、使徒パウロを通して、神の御言葉としての聖書が与えられています。この聖書の御言葉は、使徒パウロが立派だからというので、偽りのない真実な御言葉なのではなく、聖霊によって権威づけられ、イエス様と御父によって権威づけられている、その使徒性によって、偽りのない真実な御言葉であるということを私たちは第一に覚えたいと思います。そして、パウロの教える福音によれば、私たちが罪赦され、キリストを頭とする兄弟姉妹に加えられ、神の家族に入れられ、悪の世から取り分けられたのは、ただ恵みによるのであり、ただイエス・キリストの功によるのであり、ただ信仰による救いであることを覚えたいと思います。それは誰も誇ることがないためであり、そして何よりも、父なる神の栄光が永遠に崇められるためです。

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