2020年04月10日「栄光の十字架」

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19:26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19:28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29そこには、酢を満たした器が置いてあった。人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。
19:30イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 19章25節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

今、イエス様は十字架に磔にされている状況でございます。当時十字架刑というのは、奴隷や革命家、或いはローマ市民以外の者にのみ、許される極刑でありました。なぜ、十字架刑が極刑と呼ばれるのかと言いますと、十字架刑は、裸にされて人々にさらされて、忌むべき呪いの対象とされ、嘲られ、辱められる処刑法だったからです。そして普通、十字架によって処せられた者たちは、囚人たちの共同墓地の穴に捨てられ、死者を哀悼することが許されなかったからです。そのような恐ろしい、呪いの十字架刑について、興味深いことにヨハネによる福音書では、「悲劇」とか、「受難」という言葉ではなく、「栄光」という言葉で表現されています。これは、一体何故でしょうか。ヨハネの福音書12:23を御覧ください。イエス様が子ロバに乗られ、いよいよ十字架に架かられるために、エルサレムに入城された場面です。

“イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。”

この時、イエス様はご自分の十字架刑を指しながら、人の子が栄光を受ける時が来たと言っていますね。さらに見て行きますと、最後の晩餐の時、イスカリオテのユダが部屋から出て行った場面でも栄光という言葉を使われました。13:31を御覧ください。

“さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。”

ユダの裏切りによって、イエス様の十字架刑がいよいよ緊迫感をもって迫ってきますが、ここでもやはりイエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言っています。さらに見て行きますと、最後の晩餐において、ご自身の祈りの中でも言われました。ヨハネ17:1を御覧ください。

“イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。”

イエス様の祈りの中で、やはり、十字架刑について「栄光を現わす、その時が来た」と言っています。このように見てまいりますと、イエス様の十字架刑というのが、「栄光」という言葉で表現されていることが分かります。さらに十字架を「神の時が満ちる絶頂、クライマックス」であるということがわかってきます。なぜ十字架が栄光であり、時の絶頂なのでしょうか。

主題1  十字架とはイエス様が、自らお選びになられた従順であった。

イエス様が、十字架を栄光として、時の絶頂として表現した第一の理由は、十字架が自らお選びになられた父に対する従順であったからです。ある人々は次のように言います。キリストの十字架は、罪の贖いにおいて必ずしもなければならないということではなく、十字架とは、信実な人が被った聖なる受難であるとか、或いは、イエス様の父から与えられた使命に対する熱心さ故にもたらされた偶然の結果であると言うのです。しかし、十字架がもしそのように何かの間違いによって起こってしまったものであるなら、イエス様は決して弟子たちに何度もご自分の受難を予告されたり、或いは十字架を「栄光」とか、「時が満ちた」という言葉によって表現されることはなかったでしょう。ヨハネによる福音書では、むしろご自身の十字架に対するイエス様の主権的であり、自主的な面が強調されています。19:28~29節を御覧ください。

“この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酢を満たした器が置いてあった。人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。”

28節において、「私は渇く」という御言葉がございますが、これは結果的には詩篇69:4の“叫び続けて疲れ、喉は涸れ”という御言葉の成就かもしれませんけれども、イエス様は、決して十字架上でまだ成就されていない旧約の御言葉があることに気づいてしまい、これも言っておかなければ、あれも言っておかなければとして、語った言葉ではありません。むしろイエス様は、「父がお与えになった杯は、飲むべきだ」と決意され、従って、父から賜った十字架の杯を一滴残らず飲み干したい、という意向から「渇く」と言われたのであります。18:11を御覧ください。

“イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。”

このように、イエス様は、自ら主権的に、十字架の道に進まれ、苦難の杯を一滴残らず飲み干そうとされて、「渇く」と言われたのであります。ヨハネの福音書19章に戻りまして、30節を御覧ください。

“イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。”

30節の最後の箇所の“息を引き取られた。”という言葉に注目しますと、直訳すれば、「ご自身の霊をお渡しになられた」というふうになります。つまり、イエス様は人々の陰謀の中で悲劇的に殺されたということではないということです。そうではなく、誰も主ご自身から命を取り去ることはできないのですが、主、自らがそれを捨てる権威をもっておられ、そして、主権的に自主的にご自身の霊をお渡しになられ、死んでいかれる姿が描写されているのです。従って十字架とは、イエス様が自ら自主的に主権的に御父に従うために進まれた栄光であることが分かるのです。

主題2 従順を成就し完成させたこと

イエス様が、十字架を栄光として、時の絶頂、クライマックスとして表現した第二の理由は、十字架がイエス様のご生涯を通しての「従順の成就であり、完成」であったという点です。イエス様は30節において、ご自身の霊をお渡しになられる直前に、まさに時の絶頂の中で“成し遂げられた(ギ:テテレスタイ)”と言われました。このテテレスタイという言葉は、十字架の死によって、メシアとしての働きが全て成就されたこと、即ち、従順が完成されたことを現わしています。イエス・キリストは、私たちの代わりに、罪あるものとして、十字架上で神の審判をお受けになられましたが、これは、言い換えれば、贖いの御業のために、イエス様は、ご自分に属する民の代表として、ご自分に属する民の頭として、死に至るまで従順にされたということです。しかし、重要なことは、イエス様は何も十字架の御業においてのみ、父なる神に従順にされた訳ではありません。イエス様は受肉の瞬間から、父の御心に従い、人の体をお取りになり、罪深い肉と同じ姿でこの世に遣わされました。神の子であり、永遠で幸いな命をすでに所有されていたにもかかわらず、それらを全て放棄され、僕の形を取られ、律法に下に服従されました。ご自身を低くくされ、実に死にまで従い通されました。ですから時の絶頂の中で語られた「テテレスタイ」という言葉は、イエス様が全生涯を通して、成し遂げられ、完成された従順であったということです。それは、第一のアダムが完成することのできなかった従順でありました。人類の始祖アダムは、神の戒めに逆らい、罪を犯したがために、すべての人類に罪と死を招いてしまいました。しかし、まさに同じような仕方によって、第二のアダムであるイエス様が、律法に下に従順を成就され、完成されたことによって、ご自身に属するすべての人々に、罪の赦しと義と永遠の命を取得され、神の家族となり、天において御国の相続に与るものとなり、全人的な救いがもたらされたのです。このことは何を意味するのかと言うと、キリストが私たちの罪のために十字架に架かられたように、私たちも、古い自分が、キリストと共に十字架にかけられ、そこで完全に断罪され、罪と死の支配から解放されたことを意味するのです。また、キリストが三日目に墓から蘇られたように、私たちもキリストと共に復活に与り、義と見做されキリストと共に生きる新しい命に生かされる者となりました。そして、キリストが天の右に着座されたように、私たちも天において御国の嗣業に与るようにされたのです。つまり、全人的な救いとは、キリストの、受肉されて、十字架に至るまで、従順によって取得されたすべてのものが、キリストに属する者にそのまま与えられたということです。もしかしたら、ある人は次のように異議を呈するかもしれません。「そうは言われても、私たちは義と見做されたのにも関わらず、律法を完全に服従し、全うした者とされたのにも関わらず、イエス様のようにふるまうことが出来ず、相変わらず罪を犯してしまいます。私たちには依然として罪の結果である病や弱さや呪いの下にあるのではないでしょうか」ということです。確かに私たちは、今はまだ、キリストの取得された全人的な救いを完全には味わってはいないでしょう。おっしゃるように、依然として私たちキリスト者は、罪を犯してしまう弱い存在であり、依然としてキリスト者はゆっくりとした聖化の途上にあるからです。救いには段階があって、キリストの初臨を通して霊的な救いが成就し、肉的、外的な救いは、キリストの再臨まで待たなければなりません。しかし、それにもかかわらず、イエス様の従順は、既に完全に成し遂げれられたのであります。今は信仰によって、全人的な救いの前味を味わっているに過ぎませんが、やがてキリストの再臨の日に、神の国が完成されるその時に、全人的な救いが外的に、そして具体的に成就されるのであります。

結論

恐ろしい呪いの十字架がなぜ、栄光であり、時の絶頂となったのか、その理由は第一に、十字架とは、イエス様が自主的に主権的に御父に従順された御業であったということです。これは、決して偶然に発生した受難とか、父の使命に対する熱心さによって招いてしまった悲劇などではなく、贖いのために絶対的に必然的なものであり、誰もイエス様から命を取り去ることはできませんが、イエス様ご自身が主権的に霊をお渡しになられたということです。そして第二の理由は、十字架とは、父に対するイエス様のご生涯を通した、従順の完成を意味したという点です。それはアダムが成し遂げることができなかった従順でしたが、第二のアダムであるキリストが成就され、完成されたことにより、罪の赦しと義と永遠の命を取得され、キリストに属する者に、もはや死も病も悲しみもない、全人的な救いがもたらされたのです。今、私たちはまだ、この完全な、全人的な救いの前味しか味わっておりませんが、それは、キリストの初臨と再臨があるように、救いには段階があるからです。それにも関わらず、イエス様は、既に、全人的な救いを、受肉から十字架に至るご生涯を通して、完全に成し遂げられたのです。現在世界にはコロナウイルスに感染してしまわれた方々がたくさんおられます。速やかに癒されるよう覚えたいと思います。また、命を落とされる方々もおられますが、しかし伝染病や死でさえも、私たちに与えられているキリストの恵みを奪い去ることは決して出来ないことを覚えつつ、どのような中でも感謝して歩ませていただきましょう。お祈りいたします。

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