2019年07月28日「悲しみの道 슬픔의 길」

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悲しみの道 슬픔의 길

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章27節~44節

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聖句のアイコン聖書の言葉

27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
36そこに座って見張りをしていた。
37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章27節~44節

原稿のアイコン日本語メッセージ

十字架に架けられる囚人イエスは、総督官邸に駐在している兵士たちにとって、なぶりものにされ、格好の餌食となりました。兵士たちは、囚人イエスに対し、ローマ皇帝の紫の服の代わりに、赤い外套を着させ、そして茨で冠を編んでイエスの頭に載せました。また右手に葦の棒を持たせ、王様が持つ笏に見立て馬鹿にしました。そして、その前にひざまずき「ユダヤ人の王、万歳」と言っては侮辱し、唾をかけたり、その葦の棒で頭をたたき続けたりしました。

イエス・キリストに向かった、このような情け容赦のない侮辱と辱め、これは一体何だったのでしょうか。本来、私たちが受けるべきものだったのです。神の子が私たちのために、これほどまでに卑しくされ、低くされたことは、私たちに向かう神の愛がどれほど大きいのか、その愛は推し量ることのできないほどの憐みであるということを理解することができるのです。このように侮辱されて、元の服を着せられ、それから、エルサレムの城壁から外に出て行き、ゴルゴタの死刑上に向かっていきます。この城門から死刑上までの大通りを「悲しみの道、つまりヴェアドロローサ」と言われています。

著者マタイは、本日の箇所においてイエス様がどれほど悲しみの道を通られたのか、どれほど恥ずかしい侮辱を受けられたのかそのことを記述するというより、むしろイエス様以外の、周辺描写に目を留めています。これまでこの福音書は、キリストの受難記事と最後の受難週において大変多くの紙面を割いていた割には、肝心要の十字架の苦しみに費やす部分は、実にあっさり記述されています。十字架上のイエスの生々しい姿や十字架上における苦難はありません。これはどういうことでしょうか。それは、旧約聖書における「受難のメシア預言」が粛々と成就しつつあるということを読者に伝えているのだと思われます。27:33~35節を御覧ください。

“そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、”

死刑上であるゴルゴタの丘とは、アラム語で「骸骨の丘とか、されこうべの丘」という意味です。ラテン語ではcalvaria、英語ではカルバリーです。イエス様は二人の強盗と一緒に十字架に架けられます。強盗とは、暴力的な略奪行為を働く者たちで、政治的にローマの支配から自由を求めて、戦うような人々です。屈強な肉体を持つ荒々しい強盗犯がイエス様の右と左に付けられ、イエス様がセンターに配置されている訳です。その罪状書きには「ユダヤ人の王である」と書かれていました。ですから、まるでイエス様が最も極悪非道な強盗の親分のような扱いをされているということです。通常、死刑場には十字架に縦の棒が前もって刺されています。死刑囚は十字架の横木を担ぎながらヴェアドロローサという悲しみの道を歩き、ゴルゴタの丘に到着しました。イエス様は、恐らく身体的に強い身体をもっていなかったと思われますので、その横木を担ぐことができないという状況になったのでしょう。ゴルゴタの丘に到着しますと、第一に、ローマ兵の行動に焦点が当てられます。彼らは、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしますが、イエス様はそれをなめただけで飲もうとはされませんでした。このようにして、ダビデの敵対者に関する預言である詩編69:22が成就したと見ています。そのままお聞きください。

“人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。”

これは、十字架上の死刑囚に飲ませる、麻酔効果がある「酸いぶどう酒」のような、早く死なせて楽にしてやろうという配慮ではなく、悪意のあるいじめでありました。それから、ローマ兵はくじを引いてイエス様の服を分け合いました。このようにして、詩編22:19の御言葉が成就しました。そのままお聞きください。

“わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。”

これはダビデの詩です。詩編69編もそうですが詩編22編もダビデの詩とされています。つまり、ローマ兵たちは死刑執行人として中立な立場ではなく、悪意のある敵対者として、神の御心を成就しようとする意図などさらさらないのにもかかわらず、予め詩編に預言されている通り、正確に神のご計画と目的を、彼らを通して成就させているのです。盲目で愚か者のように、ローマ兵たちは自分たちが十字架に架けた囚人の服を分け合うのに夢中になっていましたが、逆説的にまさにその事件が世の罪を取り除く贖いの成就だったのです。

次にローマ兵から、通りを過ぎ去る人々に焦点が移されます。彼らは、頭をふりながらイエスを罵しりました。このようにして、詩編22:8が成就されました。そのままお聞きください。

“わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。”

次に祭司長たち律法学者たち長老たちに目を向けます。彼らはユダヤの宗教裁判において有罪判決を下した指導者たちでありました。彼らも同じようにイエス様を罵ります。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」このようにして、詩編22:9が成就されました。そのままお聞きください。

“主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。”

旧約聖書の預言が粛々として成就していったことが書かれています。ここで少し余談ですが、大祭司たちの罵りの言葉を注意深く見ますと、大祭司の言葉だけに逆説的な真理が宣言されています。42節を御覧ください。

“他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。…”

この大祭司たちの言葉はまさに真理です。「他人は救ったのに、自分は救えないイスラエルの王」という言葉は、つまり、他人を贖うために自分を犠牲の供え物として献げたイスラエルの王であるということです。さらに言えば43節です。この言葉は直訳すると次のような雰囲気です。「彼は神に信頼した。さあ、もし彼が神のお望みなら、神の喜ばれる者なら、救ってもらうがいい。『私は神の子である』と言っていたのだから。」という言葉です。これはまさに真理であり、十字架の後に、神はご自身の喜ばれる御子を、死から救い出されるのです。つまり、大祭司たちが不可能なことと見做しほら吹きの、話にもならない主張だと馬鹿にした言葉が、逆説的にそのまま真理であったということです。

話しを戻しまして、最後にイエス様と共に十字架に付けられた強盗たちに焦点が移されて行きます。やはり、彼らも同じようにイエス様を罵ります。44節を御覧ください。

“一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。”

このようにローマ兵から始まって、通りすがり者たち、そして祭司、律法学者、長老たち、十字架に架けられた強盗たちまで、全員、そろいも揃ってイエス様に敵対し、イエス様に罵り、なぶりものにしたのです。40節の途中からですが、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」この嘲りの言葉が何度も反復されている状況です。「神の子であることを証明してみなさい」、「十字架から降りて神の子であることを証明してみなさい」。この言葉は、私たちはどこかで聞いた覚えがあります。それは荒れ野におけるサタンの誘惑の言葉です。荒れ野においてイエス様はサタンから試みられました。マタイ4:6節を御覧ください。

“「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」”

つまり、「もしあなたが神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」このような奇跡をもって自分が神の子であることを証明してみよ!という言葉の背景には、神を試みようとするサタンの思いが存在しているということです。この質問は、私たちがこの世においてもしばしば耳にする質問であるかもしれません。ある人はキリスト者に言います。「イエス様を信じて、何か良くなるんですか。」「イエス様を信じて金持ちになれるのですか、健康になれるのでしょうか」「成功するのでしょうか。」というような質問です。このような神を試みる質問に対し、私たちは「アーメン」と言うことはできません。確かに神さまは私たちにしるしとして、或いは、私たちの人生の中に奇蹟的なことを起こされて私たちの信仰を励ましてくださる時もあります。人生のターニングポイントで奇跡を体験し、回心が起こったという証しはよく耳にしますが、しかし、常にそのようにされるということではありません。私たちの信仰はいわゆる「ご利益信仰」ではないのです。私たちは知っています。「神様が私たちのことをまどろむこともなく、眠ることもなく守っていてくださっている」ということを。ですが、もし、神様の助けが肌で感じることが出来なくなった時、いくら祈っても、祈りが天まで聞き届けられていないように感じる時に、サタンは私たちにこっそりやって来て、「イエス様を信じて、何か良くなりますか。」「イエス様を信じて裕福になれるのですか、健康になるのでしょうか」そんなつまらない考えは捨ててしまいなさいと、私たちを誘惑し試みに合わせるのです。そして、いつの間にか私たちも駄々をこねるように「もし、あなたが神の子なら、今、この状況から私を助けてください、あなたが神の子なら十字架から降りてきて証明してください」とサタンと同じような言葉を私たちはイエス様に投げかけてしまうのです。したがって、私たちはたとえ神さまが私たちの目の前にある困難や苦難に対して目を閉じておられるように感じたとしても、信仰と忍耐によってその時を堪え忍ばなければならないのです。必ず主の救いはやってくるからです。もし、反対の立場で考えてみるなら、そのことを容易に理解することは出来るでしょう。つまり、もし、イエス様が人々の要求に従って、神の子であることを証明しようとし、もし十字架から降りて来られ、ご自身が神の御子であることを証明された時、果たして彼らは本当にイエス様を信じるのでしょうか。その後、イエス様の復活を見ても信じなかった彼らですから、おそらく魔術によって十字架から降りてきたに違いないと言うでしょう。そして、もしそのようにイエス様が証明されるなら、その時、キリストは御子としての働きを救い主としての働きを放棄することになるのです。キリストはご自身が犠牲の供え物になることを通して、罪人を父なる神様と和解させるために人の体を着てこの世に来られました。彼が神の子であることを証明するためには、十字架に自ら、かかられそれほどにまで罪びとである私たちを愛しておられるという「愛」によってご自身が神の御子であることを証明する他なかったのです。

全員が全員、イエス様を罵り、なぶりものにし、サタンの思いと一つになって「もしあなたが神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と叫び続ける中で、ひときわ異彩の光を放っている人が出てきます。それはキレネ人のシモンです。キレネ人ということは、恐らく北アフリカのリビア出身の田舎者のユダヤ人だったと思われます。

イエス様は、昨夜から一食もとらず、一睡もせず、法廷に引きずり回されて、殴られ、むち打ちにされたので、もう、十字架の木を担ぐ力は残されていませんでした。そこで、ローマ兵はちょうどそこにいた、見物人シモンに、無理やりに木を担ぐようにさせました。ローマ兵の命令は絶対です。急にそんなことを言われて、その時、シモンにとっては、「はい、喜んでさせていただきます」とはとても言えなかったでしょう。ユダヤ人にとっては、十字架に木に触れること自体、自分が汚れると考えていました。「せっかく祭のために遠くから来たのに、何て恥ずかしいことだろうか!」「よりによって自分が指名されるなんて、悔しい!」と大変苦々しい思いを持っていたかもしれません。しかし、その時はそのように思ったかもしれませんが、やがてシモンはイエス様の十字架の真の意味を知るようになります。そのイエス様の苦しみの与ったことを大変栄光に思う時が来たということが予想されます。その理由は、並行記事のマルコによる福音書15:21を見ますと、シモンとその二人の息子も記述されているからです。ご覧ください(p.95)。

“そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。”

つまり、アレクサンドロとルフォスは、初代教会の共同体において良く知られていたキリスト者でしたが、その父であると書かれていますから、恐らく、まず父シモンが信仰を持ち、その子らも信仰に入ったと予想されるのです(ルフォスはローマ書16:13にもでてきます)。もしそうであるなら、聖書に自分の出身地と自分の名前とそして二人の息子の名前が記述され、永遠に残されたということです。そして何よりも、イエス様の十字架の苦難に共に与ることができたということは、シモンにとってどれほど光栄なことだったでしょうか。イエス様の贖いの御業に共に参与することが出来たその喜びと誇りはどれほど大きかったことでしょうか。このように、私たちは、現在先の見えない不安の中にあり困難な状況に置かれていて、祈りが果てして神さまに聞き届けられているのかどうか、わからないと感じたとしても、私たちの置かれている状況は、まさに主と共にある困難に与らせていただいているのであり、イエス様の担われた十字架の木の横木を一緒に担がせていただいているのだと私たちは悟ることが出来るのです。私たちはそこに目を留めて、むしろ感謝しつつ、日々を歩ませていただきましょう。最後にヘブル人の手紙12:6をお読みします(p.417)。

“なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。”

神さまはご自身の子供たちを養育し、さらに素晴らしい御国を相続させるためにこの世にあっては試練の鞭を用いて養育されるのです。このことを覚え、感謝して歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

슬픔의 길

2019년 7월28일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 27장 21절~44절

십자가에 못 박힌 죄수 예수는, 총독 관저에 주둔해 있던 병사들에게 놀림거리가 되었고, 멋진 먹잇감이 되었습니다. 병사들은 죄수 예수에게 로마 황제의 보라색 옷 대신 홍포를 입히고, 가시관을 엮어 예수의 머리에 씌웠습니다. 또한 오른손에 갈대를 쥐게 하여, 왕이 들고 있는 홀인 양 가장하며 조롱했습니다. 그리고 그 앞에 무릎을 꿇고「유대인의 왕, 이여」라고 외치며 희롱하고, 침을 뱉고 갈대를 빼앗아 머리를 쳤습니다.

예수 그리스도를 향한, 이러한 가차 없는 모욕과 수모, 이것은 도대체 무엇이었을까요? 본래 우리가 받아야 할 것이었습니다. 하나님의 아들이 우리를 위해 이토록 비천하게 되고 낮추신 것은, 우리를 향한 하나님의 사랑이 얼마나 큰지, 그 사랑은 헤아릴 수 없을 만큼의 자비임을 이해할 수 있게 해 줍니다. 이처럼 모욕을 당하고 홍포가 벗겨져 도로 원래 입던 옷이 다시 입혀진 뒤, 예루살렘 성벽 밖으로 나가 골고다 처형장으로 향합니다. 이 성문에서 처형장까지 이어지는 큰 길을 「슬픔의 길」, 즉 「비아 들로로사」라고 부릅니다.

저자 마태는 오늘의 본문에서 예수님께서 얼마나 슬픔의 길을 걸으셨는지, 얼마나 수치스러운 모욕을 받으셨는지를 기술하기보다는, 오히려 예수님 이외의 주변 묘사에 주목하고 있습니다. 지금까지 이 복음서는 그리스도의 수난 기록과 마지막 수난 주간에, 지면 상당 부분을 할애했음에도 불구하고, 가장 중요한 십자가의 고통에 할애한 부분은 실로 간결하게 기술되어 있습니다. 십자가 위 예수님의 생생한 모습이나 십자가 위에서의 고난은 없습니다. 이것은 무슨 뜻일까요? 그것은 구약성경에 나오는「고난의 메시아 예언」이 묵묵히 성취되고 있음을 독자에게 전하고 있는 것으로 보입니다. 27장 33~35절을 보십시오.

33 골고다 즉 해골이라는 곳에 이르러

34 쓸개 탄 포도주를 예수께 주어 마시게 하여 하였더니 예수께서 맛보시고 마시고자 하지 아니하시더라

35 그들이 예수를 십자가에 못 박은 후에 그 옷을 제비 뽑아 나누고

사형 집행 장소인 골고다 언덕은 아람어로「해골의 언덕」또는 「두개골의 언덕」이라는 뜻입니다. 라틴어로는 칼바리아(calvaria), 영어로는 칼버리(Calvary)라고 합니다. 예수님께서는 두 강도와 함께 십자가에 못 박히십니다. 강도란 폭력적인 약탈 행위를 일삼는 자들로, 정치적으로 로마의 지배로부터 자유를 요구하며 싸우는 사람들입니다. 건장한 육체를 가진, 거친 강도범들이 예수님의 오른쪽과 왼쪽에 세워지고, 예수님께서 중앙에 배치되신 것입니다. 그 죄목판에는 「유대인의 왕」이라고 적혀 있었습니다. 그러므로 마치 예수님께서 가장 극악무도한 강도 두목처럼 취급받고 계신다는 뜻입니다. 보통 사형장에는 십자가에 세로 기둥이 미리 박혀 있습니다. 사형수는 십자가의 가로대를 지고 비아 들로로사라는 슬픔의 길을 걸으며 골고다 언덕에 도착했습니다. 예수님께서는 아마도 육체적으로 강인하지 않으셨을 것으로 생각되므로, 그 가로대를 지고 갈 수 없는 상황이 되셨던 것입니다. 골고다 언덕에 도착하자, 우선 로마 병사들의 행동에 초점이 맞춰집니다. 그들은 슬개 탄 포도주를 마시게 하려 했지만, 예수님께서는 그것을 맛보기만 하시고 마시려 하지 않으셨습니다. 이와 같이 다윗의 대적자에 관한 예언인 시편 69:21절이 성취된 것으로 봅니다. 그대로 들어보십시오.

시편 69편

21 그들이 쓸개를 나의 음식물로 주며 목마를 때에는 초를 마시게 하였사오니

이는 십자가에 못 박힌 사형수에게 마시게 하여 마취 효과를 주는 「신 포도주」처럼, 빨리 죽게 하여 고통에서 벗어나게 하려는 배려가 아니라, 악의적인 괴롭힘이었습니다. 그 후, 로마 병사들은 제비를 뽑아 예수님의 옷을 나누어 가졌습니다. 이처럼 시편 22:18절의 말씀이 성취되었습니다. 그대로 들어보십시오.

시편 22편

18 내 겉옷을 나누며 속옷을 제비 뽑나이다

이것은 다윗의 시입니다. 시편 69편도 그렇지만 시편 22편도 다윗의 시로 여겨집니다. 즉, 로마 병사들은 사형 집행인으로서 중립적인 입장이 아니라 악의를 품은 적대자로서, 하나님의 뜻을 이루려는 의도 따위는 전혀 없었음에도 불구하고, 미리 시편에 예언된 대로 정확히 하나님의 계획과 목적을 그들을 통해 성취하고 있는 것입니다. 눈이 멀고 어리석은 자들처럼, 로마 병사들은 자신들이 십자가에 못 박은 죄수의 옷을 나누는 데 열중하고 있었지만, 역설적으로 바로 그 사건이 세상의 죄를 씻어내는 속죄의 성취였던 것입니다.

다음으로 로마 병사들로부터 길을 지나가는 사람들에게 초점이 옮겨집니다. 그들은 머리를 흔들며 예수를 욕했습니다. 이와 같이 시편 22:7절이 성취되었습니다. 그대로 들어보십시오.

시편 22편

7 나를 보는 자는 다 나를 비웃으며 입술을 삐죽거리고 머리를 흔들며 말하되

다음으로 대제사장들과 서기관들, 장로들에게 시선을 돌립니다. 그들은 유대 종교 재판에서 유죄 판결을 내린 지도자들이었습니다. 그들도 마찬가지로 예수님을 모욕합니다.「네가 만일 하나님의 아들이어든 자기를 구원하고 십자가에서 내려오라」 이처럼 시편 22: 8절이 성취되었습니다. 그대로 들어보십시오.

시편 22편

8 그가 여호와께 의탁하니 구원하실 걸, 그를 기뻐하시니 건지실 걸 하나이다

구약성경의 예언이 차분히 성취되어 갔음이 기록되어 있습니다. 여기서 잠시 여담을 덧붙이자면, 대제사장들의 모욕적인 말을 주의 깊게 살펴보면, 대제사장의 말에만 역설적인 진리가 선포되어 있습니다. 42절을 보십시오.

42 그가 남은 구원하였으되 자기는 구원할 수 없도다 그가 이스라엘의 왕이로다 지금 십자가에서 내려올지어다 그리하면 우리가 믿겠노라

이 대제사장들의 말은 그야말로 진리입니다.「남은 구원하였으되 자기는 구원할 수 없도다 그가 이스라엘의 왕이로다」라는 말은, 즉, 남을 속량하기 위해 자신을 희생 제물로 바친 이스라엘의 왕이라는 뜻입니다. 더 나아가 43절을 보십시오. 이 말을 직역하면 다음과 같은 분위기입니다. 「그는 하나님을 신뢰했다. 자, 만약 그가 하나님의 뜻이라면, 하나님께서 기뻐하시는 자라면, 구원받게 하라. “나는 하나님의 아들이다”라고 말했으니 말이다.」라는 말입니다. 이것은 바로 진리이며, 십자가 이후에 하나님께서는 자신이 기뻐하시는 아들을 죽음에서 구원해 내시는 것입니다. 즉, 대제사장들이 불가능한 일로 여기고 허풍쟁이의, 말도 안 되는 주장이라며 비웃었던 말이, 역설적으로 그대로 진리였다는 것입니다.

다시 본론으로 돌아가서, 마지막에는 예수님과 함께 십자가에 못 박힌 강도들에게 초점이 맞춰집니다. 역시 그들도 마찬가지로 예수님을 모욕합니다. 44절을 보십시오.

44 함께 십자가에 못 박힌 강도들도 이와 같이 욕하더라

이처럼 로마 병사들을 시작으로 지나가던 사람들, 그리고 제사장들과 서기관들, 장로들, 십자가에 못 박힌 강도들까지, 모두가 한 목소리로 예수님께 대적하며, 예수님을 욕하고 조롱했습니다. 40절 중반부부터「네가 만일 하나님의 아들이어든 자기를 구원하고 십자가에서 내려오라」라는 이 조롱의 말이 몇 번이나 반복되고 있는 상황입니다. 「하나님의 아들이라면 증명해 보라」, 「십자가에서 내려와 하나님의 아들이라는 것을 증명해 보라」라는, 이 말은 우리가 어디선가 들어본 기억이 있습니다. 그것은 광야에서 사탄이 던진 유혹의 말입니다. 광야에서 예수님께서는 사탄에게 시험을 받으셨습니다. 마태복음 4:6절을 보십시오.

마태복음 4장

6 이르되 네가 만일 하나님의 아들이어든 뛰어내리라 기록되었으되 그가 너를 위하여 그의 사자들을 명하시리니 그들이 손으로 너를 받들어 발이 돌에 부딪치지 않게 하리리로다 하였느니라

즉,「네가 만일 하나님의 아들이어든 자기를 구원하고 십자가에서 내려오라」는, 이러한 기적을 통해 자신이 하나님의 아들이라는 것을 증명해 보라는 말의 배경에는, 하나님을 시험하려는 사탄의 의도가 존재한다는 것입니다. 이 질문은 우리가 이 세상에서 종종 듣게 되는 질문일지도 모릅니다. 어떤 사람은 그리스도인에게 이렇게 말합니다. 「예수님을 믿으면 뭔가 좋아지나요?」, 「예수님을 믿으면 부자가 될 수 있나요, 건강해질 수 있나요?」 「성공할 수 있나요?」와 같은 질문입니다. 이러한 하나님을 시험하려는 질문에 대해, 우리는 「아멘」이라고 말할 수 없습니다. 확실히 하나님께서는 우리에게 표징으로, 혹은 우리 삶 속에서 기적적인 일을 일으키셔서 우리의 믿음을 북돋아 주실 때도 있습니다. 인생의 전환점에서 기적을 체험하고 회심이 일어났다는 간증은 자주 듣지만, 그렇다고 항상 그렇게 하신다는 뜻은 아닙니다. 우리의 믿음은 이른바 「공덕 신앙」이 아닙니다. 우리는「하나님께서 우리를 졸지도 않으시고, 잠들지도 않으시고 지켜 주시고 계신다」는 것을 알고 있습니다. 하지만 만약 하나님의 도움이 피부로 느껴지지 않을 때, 아무리 기도해도 기도가 하늘에 닿지 않는 것처럼 느껴질 때, 사탄은 우리에게 몰래 다가와 「예수님을 믿으면 뭔가 좋아지나?」 「예수님을 믿으면 부자가 될 수 있나, 건강해질 수 있나?」 그런 하찮은 생각은 버리라고, 우리를 유혹하고 시험에 빠뜨립니다. 그리고 어느새 우리도 떼를 쓰듯이 「만약 당신이 하나님의 아들이라면, 지금 이 상황에서 나를 구해 주십시오. 당신이 하나님의 아들이라면 십자가에서 내려와 증명해 주십시오」라고 사탄과 같은 말을 예수님께 던져버리고 맙니다. 그러므로 우리는 비록 하나님께서 우리 눈앞의 어려움이나 고난에 대해 눈을 감고 계신 것처럼 느껴지더라도, 믿음과 인내로 그 시간을 견뎌내야만 합니다. 반드시 주님의 구원이 올 것이기 때문입니다. 만약 반대 입장에서 생각해 본다면, 그 사실을 쉽게 이해할 수 있을 것입니다. 즉, 만약 예수님께서 사람들의 요구에 따라 하나님의 아들이심을 증명하려 하시고, 십자가에서 내려오셔서 자신이 하나님의 아들이심을 증명하셨을 때, 과연 그들이 진정으로 예수님을 믿었을까요? 그 후에도 예수님의 부활을 보고도 믿지 않았던 그들이니, 아마도 마술로 십자가에서 내려오신 것이 틀림없다고 말했을 것입니다. 그리고 만약 예수님께서 그렇게 증명하신다면, 그때 그리스도는 하나님의 아들이신 분으로서의 사역, 즉 구세주로서의 사역을 포기하게 되는 것입니다. 그리스도는 자신이 희생 제물이 됨을 통해, 죄인을 아버지 하나님과 화해시키기 위해, 사람의 몸을 입고 이 세상에 오셨습니다. 그가 하나님의 아들이심을 증명하기 위해서는, 십자가에 스스로 못 박히심으로써, 그토록 죄인인 우리를 사랑하신다는 「사랑」을 통해 자신이 하나님의 아들이심을 증명하는 것 외에는 다른 방법이 없었던 것입니다.

모두가 하나같이 예수님을 욕하고 조롱하며, 사탄의 뜻과 하나가 되어 「네가 만일 하나님의 아들이어든 자기를 구원하고 십자가에서 내려오라」고 계속 외치는 가운데, 유난히도 눈부신 빛을 발하는 사람이 나타납니다. 바로 구레네 사람 시몬입니다. 구레네 사람이라는 것은, 아마도 북아프리카 리비아 출신의 시골 유대인이었을 것으로 보입니다.

예수님은 어젯밤부터 한 끼도 드시지 못하고, 한숨도 주무시지 못한 채 법정으로 끌려 다니며 구타와 채찍질을 당하셨기에, 이제 십자가 나무를 지고 갈 힘은 남아 있지 않았습니다. 그래서 로마 병사들은 마침 그곳에 있던 구경꾼 시몬에게 억지로 나무를 지게 했습니다. 로마 병사의 명령은 절대적이었습니다. 갑자기 그런 말을 듣고, 그때 시몬에게는 「네, 기꺼이 하겠습니다」라고 말할 수 없었을 것입니다. 유대인들에게는 십자가 나무에 손을 대는 것 자체가 자신을 더럽히는 일이라고 생각했습니다. 「모처럼 명절을 위해 멀리서 왔는데, 이 얼마나 수치스러운 일인가! 하필 내가 지명되다니, 분하다!」라며 매우 씁쓸한 마음을 품었을지도 모릅니다. 하지만 그때는 그렇게 생각했을지 모르지만, 이윽고 시몬은 예수님의 십자가가 지닌 참된 의미를 알게 됩니다. 예수님의 고난에 동참한 것을 큰 영광으로 여길 때가 올 것이라고 예상됩니다. 그 이유는 병행 본문인 마가복음 15: 21절을 보면, 시몬과 그의 두 아들에 대해서도 기록되어 있기 때문입니다. 보십시오.

마가복음 15장

21 마침 알렉산더와 루포의 아버지인 구레네 사람 시몬이 시골로부터 와서 지나가는데 그들이 그를 억지로 같이 가게 하여 예수의 십자가를 지우고

즉, 알렉산드로와 루포는 초대 교회 공동체에서 잘 알려진 그리스도인들이었으나, 그들의 아버지로 기록되어 있기에 아마도 먼저 아버지 시몬이 믿음을 갖게 되었고, 그 아들들도 믿음을 갖게 되었을 것으로 예상됩니다(루포는 로마서 16:13에도 등장합니다). 만약 그렇다면, 성경에 자신의 출신지와 자신의 이름, 그리고 두 아들의 이름이 기록되어 영원히 남게 된 것입니다. 그리고 무엇보다도, 예수님의 십자가 고난에 동참할 수 있었다는 것은 시몬에게 얼마나 영광스러운 일이었을까요? 예수님의 구속 사역에 함께 참여할 수 있었던 그 기쁨과 자부심은 얼마나 컸을까요? 이처럼 우리는 현재 앞날이 보이지 않는 불안 속에 있고 어려운 상황에 처해 있어, 기도가 과연 하나님께 들리고 있는지 알 수 없다고 느껴지더라도, 우리가 처한 상황은 바로 주님과 함께 어려움을 겪고 있는 것이며, 예수님께서 지신 십자가의 가로대를 함께 지고 있는 것임을 깨달을 수 있습니다. 우리는 그곳에 시선을 고정하고, 오히려 감사하며 매일을 살아가도록 합시다. 마지막으로 히브리서 12: 6절을 읽겠습니다

히브리서 12장

6 주께서 그 사랑하시는 자를 징계하시고 그가 받아들이시는 아들마다 채찍질하심이라 하였으니

하나님께서는 자신의 자녀들을 양육하시고, 더 나아가 놀라운 나라를 상속받게 하시려고 이 세상에서는 시련의 채찍을 사용하여 양육하십니다. 이 사실을 기억하며 감사하는 마음으로 걸어가도록 합시다.

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