2018年07月29日「七たびを七十倍するまでゆるせ 일곱 번을 일흔 번까지라도 할지니라」

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七たびを七十倍するまでゆるせ 일곱 번을 일흔 번까지라도 할지니라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章21節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 18章21節~35節

原稿のアイコン日本語メッセージ

前回学びましたように、イエス様は「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼と二人だけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる」と教えられました。教会といえども、地上にあるかぎり罪の誘惑は必ず来ます。教会内でも罪や過ちは避けられません。同じ信仰を持つ兄弟姉妹であるからには、なるべく早く忠告し合い、互いに赦し合い、最終的な目標として美しい聖徒の交わりを回復しなければならないということでありました。しかし、この時、心に何か苦い根を持っていたり、或いは、裁き心満々で忠告に行ったのでは効果がありません。「罪を憎んで人を憎まず」という諺もありますが、罪は罪として認めながらも、罪を犯した兄弟そのものは赦していなければならないのです。なぜなら、もし赦さないなら、もし兄弟を心の中で告訴し続けるなら、サタンが私たちの心を支配し、サタンに用いられ、ついには私たち自身が病んでしまうからです。本日のテーマは赦しです。イエス様は以前にも、弟子たちに赦しについて教えてこられました。マタイ5章44節には「敵を愛せよ」とありマタイによる福音書6章14-15には、次のように書かれています。

“もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。”

しかし、私たちの誰がイエス様を模範として、イエス様を基準として敵をも赦すことができるというのでしょうか。それに、ただ相手をむやみに赦すことは、かえって、犯罪を助長するだけであり、犯罪者のためにもならないのではないかという心配もあります。したがって、ペトロは、いくらなんでも赦しには、これ以上は赦すことができない「赦しの臨界点」というのがあるかと思うのですが、その臨界点とは一体どこかですかと、イエス様に尋ねているのであります。“主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。”とペトロが言うとき、七回という数字は完全数ですから、ペトロとしてもこれだけ赦すなら、文句はないですね。さすがに、それ以上は赦しの臨界点に達したと判断してもよろしいですね。と自信をもって尋ねているのです。しかし、イエス様は“あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。”と言われました。490回赦しなさい。これは、491回目には、たまりにたまった怒りを爆発させてもいいということではありません。赦しにおいて臨界点などないと言われるのです。際限なく赦しなさいと言われるのです。この赦しとは、35節の結論で“あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦す、”という言葉で言い換えておられます。「心から、その人の犯した罪を、忘れるほどに」赦すことが必要だというのです。赦しの中で、これで何回目と数えながら、心の底に怒りを蓄積させるのではないということです。従って相手が悔い改めていても、いなくても、罪は罪として扱いながらも、相手を赦していなければならないのです。果たして生身の体を持った人間にそんなこと、できるのでしょうか。イエス様はこのことについて、譬えを用いて話されました。23-25節をご覧ください。

“そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントンン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。”

23節は、ギリシャ語を直訳しますと、「天国とは、ある王のようである」となっています。どのような王様なのかと言うと、「王が彼の家来たちと精算をしようと思った、その王のようである。」となっています。イエス様は天国をいろいろな比喩で説明されました。例えば、天国はからし種のようである(13:31)、天国はパン種のようである(13:33)、天国は畑に隠された宝のようである(13:44)、天国は良い真珠を捜している商人のようである(13:45)、天国は地引網のようである(13:47)といった感じです。今日は、精算しようと思った王のようであるということです。皆さん、買い物をするとき、必ず精算所に行ってレジを打ってもらいますね。買い物をした商品の合計の金額が1080円と精算されたら、私たちは自分の財布から1080円払わなければなりません。同じように家来たちは、精算するために王のもとに列を作って並んでいる状況であります。そこへ、ある人の精算が始まり、その金額が一万タラントンであることが分かりました。当然自分の財布から支払わなければなりませんが、そのような金額は持ち合わせてはいませんでした。当時、妻も子も財産の一部と考えられていましたから、主人は、とりあえず持ち合わせの財産を全て売り払い、そして自分自身もまず奴隷になりなさいと命じました。ここで、大変不幸だった事は、家来が一万タラントンという金額がどれほどの金額なのか正式に把握してはいなかったということです。あるいは、自分の負債に対してきっちりと誠実に向き合っていなかったということです。その証拠として、26節を見ると「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』」とシャーシャーと言ってのけているからです。もしかしたら、精算しているときに、電卓とか、そろばんのようなものがあって、その計算機によってはじき出された金額だけを見せられたので、ゼロの数を一けた二ケタ見落としたのかもしれません。いずれにしろ、この言葉がどれほど、不誠実で、非常識な言葉であったのか、それは一万タラントンという金額が、どれほどの値なのかを調べると判明します。注解所には、1タラントンが6,000デナリオンと書いてあります。そして1デナリオンとは、労働者の一日の日当に相当すると書かれていますから、仮に1デナリオンを1万円とすれば、1タラントンは6,000万円。さらに一万タラントンはこれの一万倍で6,000億円になります。6,000億円と言われてもピンときませんが、銀行に行くと新札で、100万円の札束を見ることができますね。この札束を10束、積むといくらになりますか。1千万円です。100束、積み上げるといくらですか?そうです。1億円です。1億円というのは、高さが約1メートル位の柱になるそうです。この1億円の柱を6,000個並べると、6,000億円になります。調べましたら、この礼拝堂の半分くらいが1メートルの柱で埋め尽くされることになります。したがって、もし、妻も子も売り払い、自分も奴隷になったとしても決して1万タラントン、つまり6,000億円をきっちり支払うことはできなかったでしょう。もし家来が6千億円というこの金額が、どれほどの大金であったのか把握していたなら、まさか「きっと全部お返しします」とは言わなかったでしょう。

しかし、主人はこの家来を憐れに思い、彼を赦し、そして1万タラントンを、つまり6,000億円を帳消しにしてやりました。主人は決して、「しょうがないな、それじゃ、半分は減額してあげるから、残りは自分でなんとか頑張りなさい」とは言いません。帳消しにされたのです。とんでもないことが起こりました。この比喩の中で、イエス様は天国の福音を語っておられます。比喩の中で王であり、主人とは、誰のことでしょうか。そうです。神さまです。1万タラントンという決して返すことのできない負債を抱えている家来とは誰でしょうか。そうです。私たち罪人であります。神さまは全ての罪人を憐れんでくださるのです。ここまでが第一場面であります。この巨額の負債を帳消しにしていただいた家来は、本来、喜んで、家族と仲間たちを呼んで祝宴を開き、これを報告し、この大きな喜びを分かち合うべきでした。次に、第二場面です。この家来は、自分自身の身に何が起こったのか、よく把握していなかった為に外に出て、自分に100デナリオンを貸している仲間に出会ったとき、彼を捕まえ、首を絞め「借金を返せ」と言いました。100デナリオンとは、現在の金額で100万円札に相当します。100万円と言えば結構な金額かもしれませんが、返せない金額ではありません。家来は6,000億円を帳消しにして頂いたのに、100万円を赦してあげることができなかったのです。100万円と6,000億を分かりやすく比で説明すれば、6,000万円帳消しにされたのに、100円に対してあまりにも厳密になり、それを赦してあげなかったということです。29-30節をご覧ください。

“仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。”

家来の仲間はひれ伏して、赦しを乞うています。この状況は、以前、家来が主人に対してとった26節の状況と全く同じであります。26節と29節を比較してみてください。異なるのは「全部」という言葉がないというだけで、残りはほとんど同じです。家来は以前、同じように主人にしきりに願い、借金を帳消しにしていただいたのにも関わらず、ここでは、残忍にも仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫り、借金を返すまで牢に入れてしまいました。同じ状況の中に、主人と家来が置かれて対比されているのです。つまり「巨額の借金に比較と、ごく些細な、ほんのわずかな借金」が対比されています。そしてほんの些細な金額にもかかわらず、「主人の憐れみ深さと、不届きな家来の残忍性」が対比されているのです。仲間たちは事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て行き、事件について残らず告げました。そして、主君はその家来を呼びつけて、次のように言っています。32-33節をご覧ください。

“不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか”

神さまが私たちを憐れんでくださった。イエス様は確かに寛容なお方である。しかし、だからといって、私たちが、神のように、イエス様のように憐れみ深くなるのは不可能であります。しかし、ここで神さまは、決してあなたも同じように他人に対し6,000万円の負債を赦してやりなさいと勧めているのではなく、100円を赦してあげなさいと勧めているのです。何も神のようにふるまうことができなくても、少なくとも全く自分と同じ境遇に置かれている者に対し、かわいそうだと思う、憐れむ気持ちぐらいは、持つことができるのではないのかということです。

結論として、この家来の不幸だった点は、神が自分に対し、どれだけ多くの憐れみを示してくださったのかということを十分に認識していなかったということです。むしろ、この家来は、神は自分に対し当然のことをしてくださった、自分に対し神の公義を示しておられると錯覚していた点にあります。しかし、もし、神が私たちに公義もって神の公正な裁きを私たちに向かって厳格に行使するのなら、私たちは滅びる以外にはありません。35節をご覧ください。“あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。”とありますが、これは万が一、神の公正な裁きと神の義が厳格に執行されるなら、どのようになるかについて書かれているのです。もし、神の義がそのまま私たちに向かうなら、精算の時に示された通りの借金の取り立てが、私たちに行使され、私たちは地獄の獄吏に渡され、永遠の火の地獄に閉じ込められるのです。しかし、神は、常に憐れみに満ちておられ、忍耐深く、怒るのに遅く、イエス・キリストの十字架によって私たちの決して返済することのできない1万タラントンという負債を、超消しにしてくださるお方であります。私たちの罪を心から赦してくださり、完全に記憶から消してくださるお方です。ですから、神が私たちと精算しようと、私たちに負債の返済を求められるとき、私たちの覆いであり、私たちの避難所であるイエス様に祈るということによって、隠れることができるのです。私たちは、神の恵みを受けるのに無価値な者でありますが、どうか私を憐れんでくださいと切に懇願することができるのです。そして、自分の負債を正しく認識し、いかに多くの負債が帳消しにされたのかを知り、神から多くの憐れみを受けた者は、自分に負債を負っている兄弟に対して、あたかもそこに過去の自分自身の姿を見ているように、「あー自分も必死にイエス様の陰に隠れて、神の憐れみを乞い願ったなー」と、その時の姿を思い起こし、兄弟の罪を憐れんであげることができるのです。そして、彼に対し、決して厳格な裁きを執行するのではなく、むしろ少しズボラになり、兄弟の罪をすっかり忘れてしまうように、赦すことができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

일곱 번을 일흔 번까지라도 할지니라

2018년 7월 29일 설교 카와에 토모아키 목사

마태복음 18장 21~35절

지난번에 배운 바와 같이, 예수님께서는「네 형제가 죄를 범하거든 가서 너와 그 사람과만 상대하여 권고하라 만일 들으면 네가 네 형제를 얻은 것이요」라고 가르치셨습니다. 교회라 할지라도 지상에 있는 한, 죄의 유혹은 반드시 찾아옵니다. 교회 안에서도 죄나 잘못은 피할 수 없습니다. 같은 믿음을 가진 형제자매인 만큼, 가능한 한 빨리 서로 권면하고 용서하며, 궁극적인 목표로 아름다운 성도들의 교제를 회복해야 한다는 것이었습니다. 그러나 이때 마음에 쓴 뿌리를 품고 있거나, 혹은 심판하려는 마음으로 권면하러 간다면 효과가 없습니다. 「죄는 미워하되 사람은 미워하지 말라」는 속담도 있지만, 죄는 죄로 인정하면서도 죄를 범한 형제 그 자체는 용서해야 합니다. 왜냐하면 용서하지 않으면, 형제를 마음속으로 계속 고소하면, 사탄이 우리의 마음을 지배하고 사탄에게 이용당하여 결국 우리 자신이 병들어 버리기 때문입니다. 오늘의 주제는 용서입니다. 예수님께서는 이전에도 제자들에게 용서에 대해 가르쳐 오셨습니다. 마태복음 5장 44절에는 「원수를 사랑하라」고 기록되어 있으며, 마6: 14-15절에는 다음과 같이 쓰여 있습니다.

마태복음 6장

14 너희가 사람의 잘못을 용서하면 너희 하늘 아버지께서도 너희 잘못을 용서하시려니와

15 너희가 사람의 잘못을 용서하지 아니하면 너희 아버지께서도 너희 잘못을 용서하지 아니하시리라

그러나 우리 중 누가 예수님을 본보기로 삼고, 예수님을 기준으로 삼아 원수까지도 용서할 수 있겠습니까? 게다가 상대방을 함부로 용서하는 것은, 오히려 범죄를 조장할 뿐이며, 범죄자에게도 도움이 되지 않을까 하는 우려도 있습니다. 그러므로 베드로는 아무리 용서해도 더 이상 용서할 수 없는「용서의 한계점」이 있을 것이라 생각하여, 그 한계점이 대체 어디인지 예수님께 묻고 있는 것입니다. 「주여 형제가 내게 죄를 범하면 몇 번이나 용서하여 주리이까 일곱 번까지 하오리이까」 베드로가 말할 때, 일곱 번이라는 숫자는 완전수이므로 베드로로서는 「이 정도 용서한다면 불평할 것이 없겠지요. 역시 그 정도라면 용서의 한계점에 도달했다고 판단해도 좋겠지요?」 하고 자신 있게 묻고 있는 것입니다. 그러나 예수님께서는 「네게 이르노니 일곱 번뿐 아니라 일곱 번을 일흔 번까지라도 할지니라」라고 말씀하셨습니다. 490번 용서하라. 이것은 491번째에는 쌓여온 분노를 폭발시켜도 된다는 뜻이 아닙니다. 용서에는 한계점이 없다는 말씀입니다. 끝없이 용서하라는 것입니다. 이 용서란 35절 결론에서 「너희가 각각 마음으로부터 형제를 용서하지 아니하면 나의 하늘 아버지께서도 너희에게 이와 같이 하시리라」는 말로 바꿔 말씀하신 것입니다. 「마음속으로, 그 사람이 지은 죄를, 잊을 정도로」 용서하는 것이 필요하다는 것입니다. 용서 속에서, 이번이 몇 번째인지 세면서 마음속 깊이 분노를 쌓아두어서는 안 된다는 것입니다. 따라서 상대가 회개했든, 하지 않았든, 죄는 죄로 다루면서도 상대를 용서해야만 합니다. 과연 살과 피를 가진 인간에게 그런 일이 가능할까요? 예수님은 이 일에 대해 비유를 들어 말씀하셨습니다. 23-25절을 보십시오.

23 그러므로 천국은 그 종들과 결산하려 하던 어떤 임금과 같으니

24 결산할 때에 만 달란트 빛진 자 하나를 데려오매

25 갚을 것이 없는지라 주인이 명하여 그 몸과 아내와 자식들과 모든 소유를 다 팔아 갚게 하라 하니

23절은, 헬라어를 직역하면「천국은 어떤 임금과 같으니」입니다. 어떤 임금이냐 하면 「그 종들과 결산하려 하던 어떤 임금」입니다. 예수님께서는 천국을 여러 비유로 설명하셨습니다. 예를 들어, 「천국은 겨자씨 한 알 같다(마:13:31)」, 「천국은 누룩과 같으니(마:13:33)」, 「천국은 밭에 감추어진 보화와 같으니(13:44)」, 「천국은 마치 좋은 진주를 구하는 장사와 같으니(마:13:45)」, 「천국은 각종 물고기를 모는 그물과 같으니(마:13:47)」와 같은 식입니다. 오늘은 「결산하려 하던 어떤 임금과 같으니」라는 것입니다. 여러분, 물건을 살 때, 반드시 계산대로 가서 계산을 하시죠. 산 물건의 합계 금액이 1080엔으로 정산되면 우리는 자신의 지갑에서 1080엔을 내야 합니다. 마찬가지로 신하들은 정산하기 위해 임금 앞에 줄을 서서 기다리고 있는 상황입니다. 그때 한 사람의 정산이 시작되었고, 그 금액이 만 달란트라는 것이 밝혀졌습니다. 당연히 자신의 지갑에서 지불해야 하지만, 그런 금액은 가지고 있지 않았습니다. 당시 아내와 자식도 재산의 일부로 여겨졌기 때문에, 주인은 우선 가지고 있는 재산을 모두 팔아치우고, 자신도 먼저 노예가 되라고 명령했습니다. 여기서 매우 불행했던 점은, 그 종이, 만 달란트라는 금액이 얼마나 큰 금액인지 제대로 파악하지 못했다는 것입니다. 아니면 자신의 빚에 대해 제대로 성실히 마주하지 않았다는 것입니다. 그 증거로 26절을 보면 「그 종이 엎드려 절하며 이르되 내게 참으소서 다 갚으리이다」라고 헛소리를 하고 있기 때문입니다. 아마도 정산할 때 계산기나 주판 같은 것이 있어서 그 계산기로 산출된 금액만 보여줘서, 0의 개수를 한 자리, 두 자리 놓쳤을지도 모릅니다. 어쨌든, 이 말이 얼마나 불성실하고 상식 밖의 말이었는지는 만 달란트라는 금액이 얼마나 큰 값인지 알아보면 알 수 있습니다. 주석서에는 1달란트가 6,000 데나리온이라고 기록되어 있습니다. 그리고 1 데나리온은 노동자의 하루 일당에 해당한다고 쓰여 있으니, 가령 1 데나리온을 1만 엔으로 치면 1 탈란트는 6,000만 엔입니다. 더 나아가 만 탈란트는 이의 만 배로 6,000억 엔이 됩니다. 6,000억 엔이라고 해도 실감이 나지 않지만, 은행에 가면 새 지폐로 100만 엔 뭉치를 볼 수 있지요. 이 지폐 뭉치를 10뭉치 쌓으면 얼마가 될까요? 1,000만 엔입니다. 100뭉치 쌓으면 얼마일까요? 맞습니다. 1억 엔입니다. 1억 엔이라는 것은 높이가 약 1미터 정도의 기둥이 된다고 합니다. 이 1억 엔짜리 기둥을 6,000개 나열하면 6,000억 엔이 됩니다. 조사해 보니, 이 예배당의 절반 정도가 1미터 기둥으로 가득 차게 됩니다. 따라서 아내도 자식도 팔아넘기고 자신도 노예가 되었다 해도 결코 1만 달란트, 즉 6,000억 엔을 정확히 갚을 수는 없었을 것입니다. 만약 하인이 6,000억 엔이라는 이 금액이 얼마나 큰 돈인지 파악하고 있었다면, 설마 「다 갚으리이다」라고 말하지는 않았을 것입니다.

그러나 주인은 이 종을 불쌍히 여겨 그를 용서하고, 1만 달란트, 즉 6,000억 엔을 탕감해 주었습니다. 주인은 결코 「어쩔 수 없구나, 그럼 절반은 깎아 주마. 나머지는 네가 어떻게든 힘내서 해결해라」라고 말하지 않습니다. 완전히 탕감해 준 것입니다. 엄청난 일이 일어난 것입니다. 이 비유 속에서 예수님은 천국의 복음을 말씀하고 계십니다. 비유 속의 왕이자 주인은 누구일까요? 맞습니다. 하나님이십니다. 만 달란트라는 결코 갚을 수 없는 빚을 진 종은 누구일까요? 그렇습니다. 우리 죄인들입니다. 하나님은 모든 죄인을 불쌍히 여기십니다. 여기까지가 첫 번째 장면입니다. 이 거액의 빚을 탕감받은 종은 본래 기뻐서 가족과 동료들을 불러 잔치를 베풀고, 이를 보고하며 이 큰 기쁨을 나누어야 했습니다. 다음으로, 두 번째 장면입니다. 이 종은 자신에게 무슨 일이 일어났는지 제대로 파악하지 못했기 때문에 밖으로 나가, 자신에게 100 데나리온을 빌린 동료를 만났을 때 그를 붙들어 목을 잡고 「빚을 갚으라」라고 말했습니다. 100 데나리온은 현재 금액으로 100만 엔 지폐에 해당합니다. 100만 엔이라면 상당한 금액일지 모르지만, 갚을 수 없는 금액은 아닙니다. 종은 6,000억 엔을 탕감받았는데도, 100만 엔을 탕감해 주지 못했습니다. 100만 엔과 6,000억을 쉽게 비유해 설명하자면, 6,000만 엔을 탕감받았으면서도 100엔에 대해 지나치게 엄격하게 굴어 용서해 주지 않았다는 것입니다. 29-30절을 보십시오.

29 그 동료가 엎드려 간구하여 이르되 나에게 참아 주소서 갚으리이다 하되

30 허락하지 아니하고 이에 가서 그가 빛을 갚도록 옥에 가두거늘

종의 동료는 엎드려 용서를 빌고 있습니다. 이 상황은 이전에 종이 주인에게 취했던 26절의 상황과 완전히 같습니다. 26절과 29절을 비교해 보십시오. 다른 점은 「다」라는 말이 없다는 것뿐이며, 나머지는 거의 같습니다. 종은 이전에도 주인에게 간절히 청하여 빚을 탕감받았음에도 불구하고, 여기서는 잔인하게도 동료를 붙들어 목을 잡고「빚을 갚으라」고 강요하며, 빚을 갚을 때까지 감옥에 가두었습니다. 동일한 상황 속에서 주인과 종이 대비되어 놓여 있습니다. 즉 「막대한 빚과 비교하여, 아주 사소하고 극히 적은 빚」이 대비되고 있는 것입니다. 그리고 아주 사소한 금액임에도 불구하고, 「주인의 자비로움과 어리석은 종의 잔인함」이 대비되고 있습니다. 동료들은 그것을 보고 몹시 딱하게 여겨 주인에게 가서 그 일을 다 알렸습니다. 그러자 주인은 그 종을 불러내어 이렇게 말했습니다. 32-33절을 보십시오.

32 이에 주인이 그를 불러다가 말하되 악한 종아 네가 빌기에 내가 네 빛을 전부 탕감하여 주었거늘

33 내가 너를 불쌍히 여김과 같이 너도 네 동료를 불쌍히 여김이 마땅하지 아니하냐 하고

하나님께서 우리를 불쌍히 여기셨습니다. 예수님은 참으로 관대한 분이십니다. 그러나 그렇다고 해서 우리가 하나님처럼, 예수님처럼 자비로워지는 것은 불가능합니다. 그러나 여기서 하나님은 결코 너희도 똑같이 타인에게 6천만 엔의 빚을 탕감해 주라고 권고하시는 것이 아니라, 100엔을 탕감해 주라고 권고하시는 것입니다. 비록 하나님처럼 행동할 수는 없더라도, 적어도 자신과 똑같은 처지에 놓인 자를 불쌍히 여기고, 동정하는 마음 정도는 가질 수 있지 않겠는가 하는 것입니다.

결론적으로, 이 종의 불행했던 점은, 하나님이 자신에게 얼마나 많은 긍휼을 베풀어 주셨는지를 충분히 인식하지 못했다는 것입니다. 오히려 이 종은 하나님이 자신에게 당연한 일을 해 주셨고, 자신에게 하나님의 공의를 보여 주셨다고 착각했던 데에 있습니다. 그러나 만약 하나님이 우리에게 공의로 하나님의 공정한 심판을 우리에게 엄격히 행사하신다면, 우리는 멸망할 수밖에 없습니다. 35절을 보십시오. 「너희가 각각 마음으로부터 형제를 용서하지 아니하면 나의 하늘 아버지께서 너희에게 이와 같이 하시리라」라고 되어 있는데, 이는 만일 하나님의 공정한 심판과 하나님의 의가 엄격히 집행된다면 어떻게 될지에 대해 기록된 것입니다. 만일 하나님의 의가 그대로 우리에게 향한다면, 정산 때에 드러난 대로 빚을 갚으라는 요구가 우리에게 행사되어 우리는 지옥의 문지기에게 넘겨져 영원한 불지옥에 갇히게 될 것입니다. 그러나 하나님은 항상 자비로 충만하시고 오래 참으시며, 노하기를 더디하시며, 예수 그리스도의 십자가로 우리가 결코 갚을 수 없는 만 달란트라는 빚을 완전히 탕감해 주시는 분이십니다. 우리의 죄를 진심으로 용서하시고 완전히 기억에서 지워 주시는 분이십니다. 그러므로 하나님이 우리와 정산을 하려 하시며 우리에게 빚 갚음을 요구하실 때, 우리를 덮어주시며, 우리의 피난처이신 예수님께 기도함으로써 숨을 수 있습니다. 우리는 하나님의 은혜를 받을 자격이 없는 자들이지만, 「제발 저를 불쌍히 여기소서」라고 간절히 간구할 수 있습니다. 그리고 자신의 빚을 바르게 인식하고, 얼마나 많은 빚이 탕감되었는지 알고, 하나님으로부터 많은 긍휼을 받은 자는, 자신에게 빚진 형제를 대할 때 마치 거기에 과거 자신의 모습을 보는 것처럼, 「아, 나도 필사적으로 예수님의 그늘에 숨어 하나님의 긍휼을 간구했지」라며 그때의 모습을 떠올리며, 형제의 죄를 긍휼히 여길 수 있습니다. 그리고 그에게 결코 엄격한 심판을 집행하지 않고 오히려 관용을 베풀어, 형제의 죄를 완전히 잊어버리듯 용서할 수 있는 것입니다.

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