2020年03月08日「ダビデの亡命 다윗의 망명」

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ダビデの亡命 다윗의 망명

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 27章1節~28章2節

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聖句のアイコン聖書の言葉

27:1ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」
27:2ダビデは立って、彼に従う兵六百人と共に、ガトの王、マオクの子アキシュのもとに移って行った。
27:3ダビデとその兵はおのおのの家族と共にガトのアキシュのもとに身を寄せた。ダビデは二人の妻、イズレエルのアヒノアムとカルメルのナバルの妻であったアビガイルを連れていた。
27:4ダビデがガトに逃げたと聞いたサウルは、二度とダビデを追跡しなかった。
27:5ダビデはアキシュに言った。「御厚意を得られるなら、地方の町の一つに場所をください。そこに住みます。僕が王国の首都で、あなたのもとに住むことはありません。」
27:6その日、アキシュは彼にツィクラグを与えた。こうして、今日に至るまでツィクラグはユダの王に属することになった。
27:7ダビデがペリシテの地に住んだ期間は、一年と四か月であった。
27:8ダビデとその兵は上って行っては、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。昔からこれらは、シュルからエジプトの地に至る地方の住民であった。
27:9ダビデはこの地方を討つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、衣類を奪っては、アキシュのもとに戻った。
27:10アキシュが、「今日はどこを襲ったか」と尋ねると、ダビデは、ユダのネゲブを、エラフメエル人のネゲブを、カイン人のネゲブを、と答えた。
27:11ダビデは、男も女も生かしてガトに引いて来ることはなかった。「彼らが我々について、『ダビデがこうした』と通報しないように」と考えたからである。ダビデがペリシテの地に住む間、これがダビデの策であった。
27:12アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。
28:1その頃、ペリシテ人はイスラエルと戦うために軍勢を集結させていた。アキシュはダビデに言った。「承知していると思うが、あなたもあなたの部下も私と一緒に軍勢に加わってもらいたい。」
28:2ダビデはアキシュに言った。「それなら間違いなく、僕の働きがお分かりになるでしょう。」アキシュはダビデに言った。「では、これからあなたは私の警護に当たってくれ。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 27章1節~28章2節

原稿のアイコン日本語メッセージ

今、お読みした27章は、道徳的に何の教訓も与えてはくれません。ここには、ダビデの政治的な虚言と、偽り、私利私欲のための残酷な虐殺しか書かれていません。ダビデは以前サウル王から、「私が悪い者であるが、お前は義なる者である」と認められました(24:18)。また、26:23を見るとダビデは自分の口から「主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。」と自分の義を公言しています。ところが、本日の27章を読むと、そこには神さまに祈り求める敬虔な姿はなく、罪と流血にまみれたダビデの姿以外には何も、私たちの目に飛び込んでくるものはありません。これは一体どういうことでしょうか。聖書には、信仰の祖先として、神の御前で「義人」と見做されたアブラハムやモーセの場合においても、決して立派な姿だけがそこに描かれているのではなく、ダビデと同じように弱さや失敗も同時に描かれています。もし聖書が、彼らを通して信仰の模範を示すことを目的としているなら、なぜ彼らの失敗や弱さまでも併せて記述するのでしょうか。それは、聖書に記述されている救いとは、全き恵みによるものであり、人間の行いには一切よらないからであるからでしょう。たとえ罪びとであっても、信仰によって、恵みによって救いに入れられるのであって、ダビデも私たちと変わらない罪びとの一人に過ぎないということです。それでは、本日の27章は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。罪は、もちろん神様に喜ばれるものではありません。しかし、信者の罪から来る弱さや失敗は、神さまの全能の力と恵みによって、全て益に変えられるということです。つまり、私たちの側において常に失敗は付きまとうものですが、全能の神の側において、失敗はないということです。従いまして、救いというのは、人の行いにはよらず、恵みによるものであり、救いとはイエス・キリストの中に入れられるということです。27章を通して、私たちは、罪を犯し、弱いダビデではありますけれども、神の中にあって守られている点に目を留めていきたいと思います。サムエル上27:1を御覧下さい。

主題1 ダビデが自分の判断で亡命する。

“ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」”

ダビデはこのままサウルの追跡が続くなら、いつかはサウルによって捕らえられ、家族も部下たちも滅ぼされるに違いないと恐怖を抱きました。神さまに一切祈ることをせず、敵地であるペリシテ人のもとに身を寄せようと突き進んで行きます。ガトの領主のアキシュのところには以前にも傭兵として雇ってもらおうと、訪ねて行ったことがありました。その時は、単身で乗り込んで行きましたが、すぐにアキシュの部下たちによって、イスラエルの王ダビデあることを見破られてしまいました。その時ダビデは狂人の振りをしながら、よだれを髭に垂らし、門の扉に落書きをするような素振りを見せて、何とかその場から逃げ切ることが出来ました。その時の心情として、「ヤハウェを避け所とする者は幸いである」と詩篇34編で歌ったほどです。そのダビデが、今回、また同じ所へ戻って行こうとしているのです。今度こそどうなるか分かりません。それに、もし仮に敵の恵みに与って、敵地に身を寄せることが出来たとしても、そのことによってダビデはもはやイスラエルと全く関係がなくなるという危険にさらされるのです。特にイスラエルの宿敵であるペリシテ人の下に亡命するというのは、第三者から見ると自分からイスラエルと縁を切ったことのように映るのです。それほどまでにダビデは、もう、どうしようもないところまで追いつめられていたということでしょう。

ダビデがそのように思ったのも十分に理解することができます。彼は荒れ野と洞窟における長い逃亡生活を通して疲れ切ってしまい、精神的な限界に達して、とにかく安息に手に入れたいと思ったのでしょう。また、この頃には、ダビデに従う兵士600人と、それぞれの妻子がいましたので、恐らく2,000人余りにも至る大所帯になっていたと思われます。そのような理由のため、ガトの王アキシュの下に行き、アキシュに仕える代わりに封土として住む土地を賜ることができるようにとお願いしたのです。5~6節を御覧ください。

“ダビデはアキシュに言った。「御厚意を得られるなら、地方の町の一つに場所をください。そこに住みます。僕が王国の首都で、あなたのもとに住むことはありません。」その日、アキシュは彼にツィクラグを与えた。こうして、今日に至るまでツィクラグはユダの王に属することになった。”

アキシュは、ダビデの願いを受け入れ、ツィクラグの地をダビデに与えることにしました。恐らくサウル王とダビデの不仲がアキシュの耳にも伝わっていて、ダビデの置かれた状況について察しがついたのでしょう。それに、もし、ダビデをガトから遠く離れた所に配置して南方の敵の侵入を防ぐことができるなら、アキシュとしても外国人傭兵部隊を持つことになり、これは決して悪い話ではないと思ったのではないでしょうか。ダビデとアキシュは双方にとって利益をもたらす「ウィンウィン」の内容でしたので、合意に至りました。結果的に、亡命によってダビデはサウルの追跡から逃れることが出来たのです。

主題2 ダビデは、自分の利益のために周辺民族を虐殺し、アキシュに嘘の報告をする。

ダビデは、ツィクラグの地を封土として頂いた以上、主君アキシュに忠誠を尽くし、自分の働きを示さなければなりません。彼は、ツィクラグを拠点とし、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲いました。地図4を御覧ください。ペリシテ人の五大都市(エクロン、アシュドド、アシュケロン、ガト、ガザ)があります。ダビデは、ツィクラグの南西を侵略したことになりますが、ゲシュル人とは、恐らくエジプトとペリシテの間の砂漠に、つまりガザのさらに南に住んでいた遊牧民と思われます。ゲゼル人は聖書にここしか言及されていませんからよくわかりませんが、アマレク人とはユダの南側からシナイ半島の荒れ野にかけて住む遊牧民でありまして、エドム人と同じようにエサウの子孫で、昔からのイスラエルの憎むべき宿敵でした。ところが、ダビデがアキシュに対して報告する際に、ツィクラグの南東である、ネゲブの地域を襲ったと言っています。恐らくゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人は、イスラエルに敵対していたがゆえにペリシテ人とは友好関係にあったからでしょう。10節「ネゲブ」という言葉は「南部」という言葉から派生した地名でありまして、カイン人とエラフメエル人というのは、共にユダ部族の人々でした。従ってダビデは、ユダ族の同胞を襲ったと嘘をつきながら、羊、牛、ロバ、ラクダ、衣類を戦利品としてアキシュの下に持っていったのです。11節を御覧ください。

“ダビデは、男も女も生かしてガトに引いて来ることはなかった。「彼らが我々について、『ダビデがこうした』と通報しないように」と考えたからである。ダビデがペリシテの地に住む間、これがダビデの策であった。”

ダビデは、神によって聖絶の命令が出ていたのではありませんが、自分の私利私欲のために周辺諸国の民を、男も女も生かすことなく虐殺し、家畜や衣類だけは略奪して、アキシュに虚偽の報告をしているのです。ダビデに従う600人の部下たちの内、誰一人、このような裏表のあるダビデの行動について内部告発する者はいませんでした。しかし、いつ内部告発されるか分からない危険にありました。アキシュはダビデの言葉を信じ、喜びます。12節を御覧ください。

“アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。”

最後の「思っていた」という言葉に注目するなら、27章は、1節においてダビデの「思い」から始まり、12節においてアキシュの「思い」で終わっていると言えるでしょう。つまり27章は全体的に見ると、ダビデの政治的な思惑とアキシュの政治的思惑が互いに交差していて、神さまの御心の入る余地のない政治的な攻防戦が繰り広げられているのです。箴言14:12~13には次のような御言葉がございます。

“人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終ることもある。”

ダビデの策略が万事においてうまくいっているかのように見えましたが、ある日突然、ダビデは窮地に立たされることになります。

主題3 神の中での守り

ペリシテ人は全軍を挙げてイスラエルと戦う準備をしていましたが、アキシュからダビデに対し「承知していると思うが、わたしと一緒に軍勢に加わってもらいたい」という命令が下りました。アキシュのダビデに対する信頼は、日増しに高まっていきます。今度のイスラエルとの戦いを契機に「これから後、あなたは永遠に私の警護に当たってくれ」と言わしめるほどでした。もしここでアキシュと共に出陣してイスラエルと戦うなら、その間、積み上げてきたユダ地方に対する政治的な顧みは、一気に崩れ落ちることになります。反面、イスラエルの側につき、自らの正体をここで暴露するなら、自分の命とツィクラグの2,000人の家族の命を危険にさらすことになります。窮地に追い込まれたダビデは何と言っているでしょうか。28:2を御覧ください。“それなら間違いなく、僕の働きがお分かりになるでしょう。”と答えています。この答えは、実は大変あいまいな言葉でありまして、取り方によっては、ペリシテ軍につくことにも、イスラエル軍につくことにも、解釈できる言葉であります。ダビデは安易にペリシテの地に自らの安息を求めた故に、ずるずると引き返すことの出来ない泥沼へ、はまっていくという結果を招いたのです。この後、サムエル記の著者は、28章においてサウル王の動向に目を移すようにさせますが、29章を先取りして結論的に言うなら、ダビデは神によってこのペリシテとイスラエルの総力決戦に参加することができないように閉ざされます。即ち、ガト以外のペリシテの領主たちから“この男は帰らせるべきだ”とダビデだけ取り分けられるのです。幸運にも想定外の仕方で、ダビデはこの窮地から免れることができたのでした。それだけではありません。6節の後半を見ると“こうして、今日に至るまでツィクラグはユダの王たちに属することになった”と記述されていますが、このツィクラグという土地は、ダビデの町として、後にユダの王室直属の領地となります。そもそも、この土地はカナンに定住した時にシメオン部族とユダ部族に与えられた土地でありました。しかしユダもシメオンもツィクラグを守り切ることが出来ず、その後ペリシテ人の手に所有権が渡っていきました。ですから、ダビデはガテ王アキシュからこの土地を賜ることによって、イスラエルの嗣業を回復したと捉えることもできるのです。さらに言えば、ダビデが私利私欲のために行った侵略と略奪行為とは、別の視点で見るなら、ダビデがイスラエルの王としてペリシテ人以外の敵を攻め滅ぼし、将来到来するであろうイスラエル王国を築くための、基礎固めに既に着手していたと見ることもできるのです。いやしくも、25:28においてアビガイルが“あなたは主の戦いをたたかわれる方”であるが故に、意味のない流血の災いに手を染めてはなりませんと預言した通り、ダビデの罪と弱さから出て来た残虐非道な行為は、私利私欲の戦いではなく、神の戦いとして、弱さや失敗も全てが益となるように神さまがお用いくださったのです。

結論

私たちの側において常に失敗は付きまとうものですが、全能の神の側において、失敗はないということです。ダビデは失敗しましたが、主にあって、人間が計り知れない神の御心と摂理の中で、それを益としてくださいました。従って救いというのは、主の内に、イエス・キリストの中に入れられるということなのです。ヨハネの福音書6:56~58を御覧ください。

“わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。”

これは、聖餐式とか、ミサに与る者が、救いを受けるという意味ではもちろんありません。信仰によって救われるということがどういうことを意味するのかを教える御言葉でありまして、主の中に、キリストに結ばれて、主のご支配の中に入れられるという意味です。万一、罪自体が遺棄される原因であるならば、すべての人が必ず遺棄されて地獄に行かなければなりません。罪は遺棄される十分な条件でありますけれども、決定的な条件にはならないということです。なぜなら神の恵みがなければ、人は一切、善き業を行うことは出来ませんし、神の恵みがなければ、私たちは罪しか行うことの出来ない罪の奴隷だからです。確かに罪は神さまの喜ばれるものではなく、罪自体、善ではありませんが、永遠の選びによって、私たちがキリストの中に入れられる時に、たとえ罪の刈り取りはありますけれども、ダビデが経験したように最終的には罪さえも神の全能の力によって神の栄光を高めるために用いられ、すべてが益に変えられるのです。だからこそ、私たちが仮に失敗を犯してしまっても、共におられる主にあって、落胆することなく、最後まで希望を持ち続けることが出来るのです。私たちは失敗することもありますが、全能の神には失敗はありません。主の中にあって、主の導きの中で、私たちは決して落胆することなく、希望を持ち続けることができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

다윗의 망명

2020년 3월 8일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 27장 1~28장 2절

서론

오늘 읽은 27장은 도덕적으로 어떤 교훈도 주지 않습니다. 여기에는 다윗의 정치적 허언과 거짓, 사리사욕을 위한 잔혹한 학살밖에 적혀 있지 않습니다. 다윗은 전에 사울 왕으로부터 「나는 너를 학대하되 너는 나를 선대하니 너는 나보다 의롭도다」라고 인정받았습니다(24장 17절). 또 26장 23절을 보면 다윗은 자기 입으로 「여호와께서 사람에게 그의 공의와 신실을 따라 갚으시리니」라고 자신의 의를 공언하고 있습니다. 그런데 오늘 27장을 읽으면 거기에는 하나님께 기도하는 경건한 모습이 없고 죄와 유혈로 얼룩진 다윗의 모습 외에는 아무것도 우리 눈에 들어오는 것이 없습니다. 이게 대체 무슨 일일까요? 성경에는 믿음의 조상으로 하나님 앞에서 「의인」으로 간주된 아브라함이나 모세의 경우에도 결코 훌륭한 모습만 거기에 그려져 있는 것이 아니라 다윗과 마찬가지로 나약함이나 실패도 함께 그려져 있습니다. 만약 성경이 그들을 통해 믿음의 모범을 보이는 것을 목적으로 하고 있다면, 왜 그들의 실패나 나약함까지도 아울러 기술할까요? 그것은 성경이 말하는 구원이란, 모두 은혜에 의한 것이며, 인간의 행위에는 일체 의가 없기 때문일 것입니다. 비록 죄인이라 할지라도 믿음으로 말미암아 은혜로 말미암아 구원에 들어갈 수 있는 것이며, 다윗도 우리와 다를 바 없는 죄인의 한 사람일 뿐이라는 것입니다. 그렇다면 오늘의 27장은 우리에게 무엇을 가르쳐 주는 것일까요? 죄는 물론 하나님이 기뻐하시는 것은 아닙니다. 그러나 믿는 자의 죄에서 나오는 나약함이나 실패는 하나님의 전능하신 힘과 은혜에 따라 모두 유익하게 바뀔 수 있다는 것입니다. 즉, 우리 편에 있어서 항상 실패는 따라붙지만 전능하신 하나님께 있어서는 실패는 없다라는 것입니다. 따라서 구원이라는 것은, 사람의 행위에 의지하지 않고 은혜에 의한 것이며 구원이란 예수 그리스도 안에 들어가는 것입니다. 27장을 통해 우리는 죄를 짓는 약한 다윗이지만 하나님 안에 있고 지켜지고 있다는 점에 주목하고자 합니다. 사무엘상 27장 1절을 보시기 바랍니다.

주제 1 자신의 판단에 따라 망명한 다윗

다윗이 그 마음에 생각하기를 내가 후일에는 사울의 손에 붙잡히리니 블레셋 사람들의 땅으로 피하여 들어가는 것이 좋으리로다 사울이 이스라엘 온 영토 내에서 다시 나를 찾다가 단념하리니 내가 그의 손에서 벗어나리라 하고

다윗은 이대로 사울의 추격이 계속된다면 언젠가는 사울에 의해 사로잡히고 가족도 부하들도 멸망할 것이 분명하다며 두려움을 품었습니다. 하나님께 일절 묻지도 않고 적지인 블레셋인에게 몸을 의탁하려고 돌진해 갑니다. 가드 왕 아기스에게는 이전에도 용병으로 고용해 달라고 찾아간 적이 있었습니다. 그때는 단신으로 갔는데 곧 아기스의 신하들에 의해 이스라엘의 왕 다윗이라는 것을 간파당하고 말았습니다. 그때 다윗은 미치광이 행세를 하며 침을 수염에 흘리며 대문짝에 그적거리는 모습을 보이며 가까스로 그 자리에서 도망칠 수 있었습니다. 그때의 심정을 「그에게 피하는 자는 복이 있도다」라고 시편 34편에서 불렀을 정도입니다. 그 다윗이 이번에 다시 같은 곳으로 돌아가려 하고 있는 것입니다. 이번에야말로 어떻게 될지 모르겠습니다. 게다가 만일 적의 은혜로 인해 적지에 몸을 의탁할 수 있었다고 해도, 그 일로 인해 다윗은 더 이상 이스라엘과 전혀 관계가 없게 될 위험에 처하게 됩니다. 특히 이스라엘의 숙적인 블레셋인 밑으로 망명한다는 것은 제 3자가 보기에 스스로 이스라엘과 인연을 끊은 것처럼 비춰집니다. 그 정도로 다윗은 이제 어쩔 수 없는 곳까지 몰리고 있었다는 것이겠지요.

다윗이 그렇게 생각한 것도 충분히 이해할 수 있습니다. 그는 광야와 동굴에서의 긴 도피 생활을 통해 지쳐 버리고 정신적인 한계에 도달하여 어쨌든 안식을 손에 넣고 싶다고 생각했을 것입니다. 또한 이 무렵에는 다윗을 따르는 부하 육백 명과 각각의 처자가 있었으므로 아마도 약 이천 명 정도나 되는 큰 살림살이가 되었을 것으로 생각됩니다. 그런 이유 때문에 가드 왕 아기스 밑으로 가서 아기스를 섬기는 대신 봉토로 살 땅을 하사해 달라고 부탁한 것입니다. 5,6절을 보시기 바랍니다.

5 다윗이 아기스에게 이르되 바라건대 내가 당신께 은혜를 입었다면 지방 성읍 가운데 한 곳을 내게 주어 내가 살게 하소서 당신의 종이 어찌 당신과 함께 왕도에 살리이까 하니

6 아기스가 그 날에 시글락을 그에게 주었으므로 시글락이 오늘까지 유다 왕에게 속하니라

아기스는 다윗의 간청을 받아들여 시글락 땅을 다윗에게 주기로 했습니다. 아마 사울 왕과 다윗의 사이의 불화가 아기스의 귀에도 전해져 다윗의 처한 상황에 대해 짐작이 갔을 것입니다. 게다가 만약 다윗을 가드에서 멀리 떨어진 곳에 배치해 남쪽 적의 침입을 막을 수 있다면 아기스로서도 외국인 용병 부대를 갖게 될 것이고, 이는 결코 나쁜 이야기가 아니라고 생각하지 않았을까요? 다윗과 아기스는 양쪽 모두에게 이익이 된다는 「윈윈」의 내용이었기 때문에 합의에 이르렀습니다. 결과적으로 망명함으로 다윗은 사울의 추격에서 벗어날 수 있었습니다.

주제 2

자신의 이익을 위해 주변 민족을 학살하고 아기스에게 거짓보고를 하는 다윗

다윗은 시글락의 땅을 봉토로 받은 이상 주군 아기스에게 충성하여 자신의 업적을 보여주어야 합니다. 그는 시글락을 거점으로 하여 그술 사람과 기르스 사람과 아말렉 사람을 침노하였습니다. 지도 4를 보시기 바랍니다. 블레셋의 5대 도시 (에그론, 아스돗, 아스글론, 가드, 가사)가 있습니다. 다윗은 시글락의 남서쪽을 침노한 셈인데, 그술 사람이란 아마도 애굽과 블레셋 사이의 사막에 즉 가사의 더 남쪽에 살았던 유목민으로 생각됩니다. 기르스 사람들은 성경에서 여기밖에 언급되어 있지 않기 때문에 잘 모릅니다만, 아말렉 사람들이란 유다 남쪽에서 시내 반도의 광야에 걸쳐 사는 유목민으로 에돔인들과 마찬가지로 에서의 자손으로 예로부터 이스라엘의 미워할 만한 숙적이었습니다. 그런데 다윗이 아기스에게 보고할 때 시글락 그 남동쪽인 네겝 지역을 침노했다고 합니다. 아마도 그술 사람, 기르스 사람, 아말렉 사람은 이스라엘에 적대했기 때문에 블레셋 사람과는 우호 관계에 있었기 때문일 것입니다. 10절의 「네겝」이라는 말은 「남부」라는 말에서 파생된 지명인데 여라무엘 사람과 겐 사람은 모두 유다 부족 사람들이었습니다. 따라서 다윗은 유다족 동포들을 덮쳤다고 거짓말을 하면서 양과 소와 나귀와 낙타와 의복을 빼앗아 가지고 아기스에게 가져갔던 것입니다. 11절을 보시죠.

다윗이 그 남녀를 살려서 가드로 데려가지 아니한 것은 그의 생각에 그들이 우리에게 대하여 이르기를 다윗이 행한 일이 이러하니라 하여 블레셋 사람들의 지방에 거주하는 동안에 이같이 행하는 습관이 있었다 할까 두려워함이었더라

다윗은 하나님에 의해 진멸의 명령이 내려졌던 것은 아니지만, 자신의 사리사욕을 위해 주변 여러 나라의 백성들을 남자도 여자도 살리지 않고 학살하고 가축이나 옷가지만 약탈하고 아기스에게 거짓 보고를 하고 있는 것입니다. 다윗을 따르는 육백 명의 부하들 중 누구도 이런 안팎이 다른 다윗의 행동에 대해 내부 고발하는 사람은 없었습니다. 하지만 언제 내부 고발될지 모를 위험이 있었습니다. 아기스는 다윗의 말을 믿고 기뻐합니다. 12절을 보시겠습니다.

아기스가 다윗을 믿고 말하기를 다윗이 자기 백성 이스라엘에게 심히 미움을 받게 되었으니 그는 영원히 내 부하가 되리라고 생각하니라

마지막의 「생각하니라」라는 말에 주목한다면 27장은 1절에서 다윗의 「생각하기를」로 시작해서 12절의 아기스의 「생각」으로 끝을 맺었다고 할 수 있을 것입니다. 즉 27장은 전체적으로 보면 다윗의 정치적 의도와 아기스의 정치적인 의도가 서로 교차하고 있어 하나님의 뜻이 들어갈 여지가 없는 정치적 공방전이 벌어지고 있는 것입니다. 잠언 14장 12,13절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

12 어떤 길은 사람이 보기에 바르나 필경은 사망의 길이니라

13 웃을 때에도 마음에 슬픔이 있고 즐거움의 끝에도 근심이 있느니라

다윗의 책략이 만사가 잘 되는 것처럼 보였는데 어느 날 갑자기 다윗은 궁지에 몰리게 됩니다.

주제 3 하나님의 보호하심

블레셋 사람들은 온 군대를 모집하고 이스라엘과 싸울 준비를 하고 있었는데, 아기스로부터 다윗에게 「너는 밝히 알라 너와 네 사람들이 나와 함께 나가서 군대에 참가할 것이니라」는 명령이 내려졌습니다. 아기스의 다윗에 대한 신뢰는 날로 높아져 갑니다. 이번 이스라엘과의 전쟁을 계기로 「내가 너를 영원히 내 머리 지키는 자를 삼으리라」라고 말할 정도였습니다. 만약 이곳에서 아기스와 함께 출진해 이스라엘과 싸운다면 그동안 쌓아온 유다 지방에 대한 정치적인 기반은 단번에 무너져내리게 됩니다. 반면 이스라엘 편에 서서 자신의 정체를 여기서 폭로한다면 자신의 목숨과 시글락의 이천여 명의 가족의 목숨을 위험에 빠뜨리게 됩니다. 궁지에 몰린 다윗은 무엇이라고 말할까요? 28장 2절을 보시죠. 「그러면 당신의 종이 행할 바를 아시리이다」라고 대답하고 있습니다. 이 대답은 사실 매우 애매한 말로, 해석하기에 따라서는 블레셋 군대에 붙는 것으로도 이스라엘 군대에 붙는 것으로도 해석할 수 있는 말입니다. 다윗은 안이하게 블레셋 땅에서 스스로 안식을 구했기 때문에 질질 끌려 수렁에 빠져드는 결과를 초래했습니다. 이 후 사무엘기의 저자는 28장에서 사울 왕의 동향으로 눈을 돌리게 하는데, 29장을 미리 결론적으로 말씀드리면 다윗은 하나님의 개입으로 인해 이 블레셋과 이스라엘의 총력결전에 참여하지 못하게 됩니다. 즉 가드 이외의 블레셋 영주들로부터 「그는 우리와 함께 싸움에 내려가지 못하리니」고 다윗만 배제 되는 것입니다. 운 좋게도 예상 밖의 방법으로 다윗은 이 궁지에서 벗어날 수 있었던 것입니다. 그뿐만이 아닙니다. 26장 6절 후반부를 보면 「시글락이 오늘까지 유다 왕에게 속하니라」라고 기술되어 있는데 이 시글락 이라는 땅은 다윗의 성읍으로서 나중에 유다 왕실의 직속 영지가 됩니다. 애초에 이 땅은 가나안에 정착했을 때 시므온 부족과 유다 부족에게 주어진 땅이었습니다. 그러나 유다도 시므온도 시글락을 지켜내지 못했고, 그 후 블레셋 사람의 손에 소유권이 넘어갔습니다. 그래서 다윗은 가드 왕 아기스로부터 이 땅을 하사 받음으로써 이스라엘의 기업을 회복했다고 볼 수도 있습니다. 더 말하면 다윗이 사리사욕을 위해 행한 침략과 행위와는 다른 시각으로 본다면 다윗이 이스라엘 왕으로서 블레셋 이외의 적을 쳐 멸망시키고 장차 도래할 이스라엘 왕국을 세우기 위한 기초 다지기에 이미 착수했다고 볼 수도 있는 것입니다. 적어도 25장 28절에서 아비가일이 「내 주께서 여호와의 싸움을 싸우심이요」라고 말하며 의미없는 유혈의 재앙에 손을 대서는 안 된다고 예언한 대로, 다윗의 죄와 연약함에서 나온 잔학무도한 행위는, 사리사욕의 싸움이 아니라 하나님의 싸움으로 연약함이나 실패도 모든 것이 유익하게 되도록 하나님께서 사용하신 것입니다.

결론

우리 편에 있어서 실패는 늘 따라다니지만 전능하신 하나님 편에 있어서 실패는 없다는 것입니다. 다윗은 실패했지만, 주님을 만나 인간이 헤아릴 수 없는 하나님의 뜻과 섭리 안에서 그것을 유익하게 하셨습니다. 따라서 구원이란 주님 안에 예수 그리스도 안에 들어가는 것입니다. 요한복음 6장 56~58절을 보시기 바랍니다.

56 내 살을 먹고 내 피를 마시는 자는 내 안에 거하고 나도 그의 안에 거하나니

57 살아 계신 아버지께서 나를 보내시매 내가 아버지로 말미암아 사는 것 같이 나를 먹는 사람도 나로 말미암아 살리라

58 이것은 하늘에서 내려온 떡이니 조상들이 먹고도 죽은 그것과 같지 아니하여 이 떡을 먹는 자는 영원히 살리라

이것은 성찬식이라든가 미사를 드리는 자가 구원을 받는다는 의미는 물론 아닙니다. 믿음오로 구원받는다는 것이 어떤 것을 의미하는지를 가르치는 말씀인데, 주님 안에서 그리스도께 맺어져 주님의 통치 가운데 들어 간다는 뜻입니다. 만일 죄 자체가 유기되는 원인이라면 모든 사람이 반드시 유기되어 지옥으로 가야 합니다. 죄는 유기될 충분한 조건이지만 결정적인 조건은 되지 않는다는 것입니다. 왜냐하면 하나님의 은혜가 없으면 사람은 일체 선한 일을 할 수 없고 하나님의 은혜가 없으면 우리는 죄밖에 행할 수 없는 죄의 노예이기 때문입니다. 분명 죄는 하나님이 기뻐하시는 것이 아니며 죄 자체가 선은 아니지만 영원한 선택으로, 우리가 비록 지은 죄로 인한 죄의 댓가는 있지만 그리스도 안에 들어갈 때 다윗이 경험한 것처럼 궁극적으로는 죄 조차도 하나님의 전능한 능력에 의해 하나님의 영광을 높이는 데 사용되고 모든 것이 유익으로 바뀔 수 있습니다. 그렇기 때문에 우리가 만일 실패를 저지르더라도 함께 하시는 주님이 계시기 때문에 낙담하지 않고 끝까지 희망을 계속 가질 수 있는 것입니다. 우리는 실패할 수도 있지만 전능하신 하나님께는 실패가 없습니다. 주 안에 있고 주님의 인도하에서 우리는 결코 낙담하지 않고 희망을 계속 가질 수 있는 것입니다.

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