2020年03月01日「ダビデ、サウルを寛大に扱う 사울에게 관용을 베푼 다윗」

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ダビデ、サウルを寛大に扱う 사울에게 관용을 베푼 다윗

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 26章1節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

26:1ジフ人がギブアに来てサウルに、「砂漠の手前、ハキラの丘にダビデが隠れている」と告げた。
26:2サウルは立ってイスラエルの精鋭三千を率い、ジフの荒れ野に下って行き、ダビデをジフの荒れ野で捜した。
26:3サウルは、砂漠の手前、道に沿ったハキラの丘に陣を敷いた。ダビデは荒れ野にとどまっていたが、サウルが彼を追って荒れ野に来たことを知り、
26:4斥候を出して、サウルが来たことを確認した。
26:5ダビデは立って、サウルが陣を敷いている所に近づき、サウルとサウルの軍の司令官、ネルの子アブネルが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ており、兵士がその周りに宿営していた。
26:6ダビデは、ヘト人アヒメレクとヨアブの兄弟、ツェルヤの子アビシャイに問いかけた。「サウルの陣地に、わたしと下って行くのは誰だ。」アビシャイが、「わたしがあなたと行きましょう」と答えた。
26:7ダビデとアビシャイは夜になって兵士に近寄った。サウルは幕営の中に横になって眠り込んでおり、彼の槍はその枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。
26:8アビシャイはダビデに言った。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます。」
26:9ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。」
26:10更に言った。「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。
26:11主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」
26:12ダビデはサウルの枕もとから槍と水差しを取り、彼らは立ち去った。見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた。
26:13ダビデは向こう側に渡り、遠く離れた山の頂に立った。サウルの陣営との隔たりは大きかった。
26:14ダビデは兵士に向かって、またネルの子アブネルに向かって呼ばわった。「アブネル、答えないのか。」アブネルは答えた。「王に呼ばわるお前は誰だ。」
26:15ダビデはアブネルに言った。「お前も男だろう。お前に比べられる者は、イスラエルにいない。そのお前が、なぜ自分の主人である王を守れなかったのだ。敵兵が一人、お前の主人である王を殺そうと忍び込んだのだ。
26:16お前の行いは良くない。主は生きておられる。お前たちは死に値する。主が油を注がれた方、お前たちの主人を守れなかったからだ。さあ、枕もとの槍と水差しがどこにあるか見てみよ。」
26:17サウルはダビデの声と気づいて、言った。「この声はわが子、ダビデではないか。」ダビデは答えた。「わが主君、王よ。わたしの声です。」
26:18ダビデは続けた。「わが主君はなぜわたしを追跡なさるのですか。わたしが何をしたというのでしょう。わたしの手にどんな悪があるというのでしょうか。
26:19わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください。もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら、どうか、主が献げ物によってなだめられますように。もし、人間であるなら、主の御前に彼らが呪われますように。彼らは、『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、主がお与えくださった嗣業の地からわたしを追い払うのです。
26:20どうか、わたしの血が主の御前を遠く離れた地で流されませんように。まことにイスラエルの王は、山でしゃこを追うかのように、蚤一匹をねらって出陣されたのです。」
26:21サウルは言った。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した。」
26:22ダビデは答えた。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。
26:23主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。
26:24今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」
26:25サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 26章1節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

24章において、サウルは、エンゲディの荒れ野でダビデから恩を受けて助けられたのにも関わらず、ジフ人からの密告を受けると、またしても、ダビデ討伐のために兵を出します。サウルとダビデの関係は、エサウとヤコブのような関係のようであり、前者は後者を常に見張り、付け回し、威嚇し、迫害する関係です。両者には一致も調和もなく、決して一つの家に共に暮らすことができない関係です。しかし、サウルのダビデに対する執拗な追跡は、今回で最後となり、この後、二人は二度と再会することはありません。なぜなら、サウルはこの後で、ペリシテとの戦いにおいて戦死するからです。ところで24章のエンゲディにおいて、ダビデがサウルを殺すことなく生かしておいた記事と、本日の26章の記事が大変似ているために、一部の学者は、本来の一つの伝承が重複して記録されたと考えています。しかし、エンゲディの出来事と本日の26章を比べると、ダビデは信仰においてはるかに成長しているのが分かります。この二つの記事は明らかに別の異なる事件であったと言えるでしょう。ダビデは、アビガイルを通して、復讐は主がなさることであることを学びました。そしてさらに言えば、神がもし、ダビデを通して王国を建てようとされるなら、それは武力によって、民の血を流すことによって、肉の思いによって、樹立されるのではなく、神によって、まったき恵みによって建てられるであろうということをアビガイルの言葉を通して確信しました。従って、ダビデは、神さまによって召されたこの人生を、「自分の力によって生きるのではなく、神の力によって生きる」と固く決意していたのです。

主題1 ダビデの従順

サウルがダビデを追って荒れ野に来たことを知った時、ダビデは斥候を出して、サウルを確認し、自らサウルの陣に近づいていきました。すると、サウルとサウルの軍の司令官アブネルが寝ている場所を見つけます。実はこの時、神の手が介入され、主がサウルの陣営に深い眠りを送られたのでした。一体なぜ神さまは、介入されて、サウルの陣営に深い眠りを送られたのでしょうか。当然のことですが、ダビデがこの機会を利用するようにサウルを彼の手に引き渡し、殺させるためではありません。7~8節を御覧ください。

“ダビデとアビシャイは夜になって兵士に近寄った。サウルは幕営の中に横になって眠り込んでおり、彼の槍はその枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。アビシャイはダビデに言った。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます。」”

アビシャイは、ダビデの姉であるツェルヤの子であり、ダビデの甥にあたります。ダビデに一生付いて行き、忠誠心の大変強い勇士ですが、野心家でもありました。アビシャイは、サウルの枕元に突き刺してあった槍で、一突きに仕留めさせてくださいと申し出ます。そうすることで、ダビデの手を直接汚すことなくサウルを始末できると思ったのでしょう。しかし、ダビデはアビシャイに言いました。“殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰をうけずには済まない”と断言しました。愚か者ナバルに対し、ダビデが復讐を思いとどまったとき、主が、すかさず手を下されたのをまざまざと見てきたダビデは、サウルの死についても確信を持っています。10~11節を御覧ください。

“更に言った。「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」”

神が歴史の統治者であり、歴史の中に一切、偶然はないと考えるなら、私たちもこの世に立てられている者に対し、直接刃向かってはなりません。たとえば、会社の上司や、社長や、国のリーダーであっても、上に立てられている指導者に対して、従順になるべきです。万一、私たちの信仰の自由が奪われそうになるなら、断固として抵抗しなければなりませんが、基本的にはダビデがサウルに従順であったように従順にすべきです。神さまは異邦人のネブカドネツァルでさえ、ご自身の僕と言われ、選民イスラエルに対し彼に従いなさいと命じているからです。エレミヤ書27:6節と17節をご覧ください。

“今やわたしは、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。”

“彼らに聞き従うな。バビロンの王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうしてこの都が廃虚と化してよいだろうか。”

主題2 ダビデの明け渡し

ダビデは槍と水差しを取って、向こう側に渡りました。サウルにとってこの槍は権威の象徴であり、ダビデを脅かす脅威そのものでした。生涯、サウルはこの槍を片時も手放すことがありませんでした。ダビデが竪琴を弾いていた時にダビデを壁に突き刺そうと投げたのがこの槍でありました。ヨナタンがダビデの名を口にした時に突然怒りだし、しまいにはヨナタンを殺そうとして投げつけたのもこの槍でした。ダビデはサウルの命の代わりに、その槍と荒れ野で命を守るのに大切な水筒をサウルから奪っていったのです。そして、サウルから十分に遠く離れた山の頂に立って。シャコが山で鳴くように、ダビデはサウルの陣営に呼ばわります。シャコというのは、何かと言いますとキジ科の山鳥のことで、大きな山うずらと考えてください。シャコの狩りは、シャコがすぐには飛び立たないでひたすら地面を歩き回る習性があるのを利用し、藪の中をへとへとになるまで追い回し、最後に杖で撃ち落とすという狩猟法が用いられます。この狩猟法は、まさにサウルがダビデを追跡しているやり方と同じです。そしてシャコのヘブル語の語源は、「呼ぶ者」とか「山を訪問する者」という意味ですが、ダビデはまさにシャコのごとく山の頂に立って、「アブネル、答えないのか」と叫ばわっているのです。ここで、ダビデはアブネルと話したいわけではなく、サウルにメッセージを送りたいと思いアブネルに話しかけています。そのメッセージとは、ダビデの王に対する服従です。ダビデは王という言葉を何度も使って、サウルをたたえながら、この重要な護衛の責任を負っていながら勤務怠慢であったアブネルを告発しているのです。アブネルは確かに勇敢であり忠実には違いありませんが、護衛兵たる者が、一番してはならないことをしていました。主君が寝ている時、共に寝ていたのです。ダビデは、「お前たちは死に値する」と言って、アブネルが決定的な失敗を犯したことを悟らせました。アブネルは一言もダビデに反論することはできません。沈黙が余儀なくされました。そこで、沈黙を破ったのがサウルの言葉でした。“この声はわが子、ダビデではないか”ダビデはサウルに恭しく答えるものの、もはや、主が討たれるであろうサウルに対して「わが父」とは呼びません。「わが主君、王よ」と答えています。そしてダビデは今度はサウルに語り掛けますが、これは、実際サウルに語り掛けているわけではなく、神に対して語り掛けているようです。18節を御覧ください。

“ダビデは続けた。「わが主君はなぜわたしを追跡なさるのですか。わたしが何をしたというのでしょう。わたしの手にどんな悪があるというのでしょうか。”

18~19節は、注解書によって解釈が分かれるところですが、ダビデの心情としては、このサウルによる終わることのない追跡について、表向きはサウルに問いかけていますけれど、実際に神さまに対して“わたしが何をしたというのでしょう。わたしの手にどんな悪があるというのでしょうか”と問いかけて、嘆願しているように見えるのです。続いて19節aを御覧ください。

“わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください。もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら、どうか、主が献げ物によってなだめられますように。”

ダビデの神への嘆願とは、「もし神がサウルをして、このような終わりのない追跡を続けられるのなら、私は喜んで献げ物になりましょう」と言っているのです。「もし、最終的にサウルの手に自分の命を明け渡すことが神さまのご計画であるなら、そのようにしてください。」と告白して、自分を神さまに完全に明け渡しているのです。この告白は、まさにエステルが「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」と言った告白と同じ告白です。或いはイエス様がゲッセマネの園で血の汗を流されながら「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈ったのと同じです。ですからダビデは、「自分の人生をひたすら神の力によって歩ませていただく」ということを決意し、そして、自分の命までも神さまに明け渡すほどに、神さまに対する完全な従順へと信仰が引き上げられているのです。

主題3 終わりのない追跡の原因

続いて19節b~20節を御覧ください。

“もし、人間であるなら、主の御前に彼らが呪われますように。彼らは、『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、主がお与えくださった嗣業の地からわたしを追い払うのです。どうか、わたしの血が主の御前を遠く離れた地で流されませんように。まことにイスラエルの王は、山でしゃこを追うかのように、蚤一匹をねらって出陣されたのです。”

ダビデは自分をシャコや、一匹の蚤に過ぎないとしながら、この、終わりのない追跡の原因を列挙しています。もし、結果的に命からがらペリシテの地に亡命することができた場合、亡命とは即ちイスラエルの嗣業の地から出て行くということであり、当時の考えでは、それは他の異教の土地の神々に仕えることを意味していましたので、耐え難いことでありました。ダビデはそのような場合、異教の地で神さまにも覚えられず自分が死ぬことにならないようにと願っています。そしてそれにもまして、自分を異教の地に追い払う張本人こそ、呪われるようにと願っています。この張本人とはサウルに入れ知恵をしている部下たちを指していると思われます。ダビデは、この終わりのない追跡の原因は、結局どれなのでしょうかと、訴えているのです。①ダビデがサウル王朝の反逆者のために追われているのか、②或いは、何かしらの神のご計画によって、ダビデがサウルの手に引き渡されることに決定されているのか、③或いは誰かがダビデを異教の地へ追いやろうとしているのか、ということです。

毎回、ダビデによって命を助けられ、今回は特に槍まで奪われてしまったみじめなサウルは、完全に戦意喪失して、21節のように、わが子ダビデよと言って答えます。“わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した”

ここで、サウルは、ダビデの終わりのない追跡を、ダビデのせいでも、主のせいでも、扇動する部下のせいでもなく、自分自身の誤りとして告白します。今までの、自分の行動に責任を取らず、ひたすら民のせいにしたり、屁理屈が達者だったサウルの態度とは大違いです。この終わりのない追跡の原因は、自分自身の過ちであり、ナバルのような自分の愚かさであり、こうしてダビデの正しさと忠実さが証明されたのでありました。従って、神さまがダビデとサウルの間に介入され、深い眠りを送られた理由がようやく明らかにされたのです。深い眠りを送られた理由とは、結局、イスラエルの記憶において、信仰の人ダビデはサウルに対しても正しく忠実であったことが語り継がれるためであったと言えるのではないでしょうか。つまり、サウルが執拗にダビデを追跡すればするほど、サウルに非があることが証明され、さらには、サウル自身、ダビデを自分の子と呼び、やがて到来するダビデの王権を承認させるためだったのです。さらに言えば、ダビデはこの後、ペリシテ人の地に亡命することになりますが、イスラエルの王サウルは、まさにサウルの最も忠実な部下であり、本来の護衛の長であるダビデが国内に不在であった時に、命を落としたということになるのです。これによって、人間の力にはよらず、神さまの絶妙なタイミングと、恵みによってダビデに王位が継承され、神の国が建て上げられるということを私たちは改めて思い知らされるのです。

結論

サウルによる終わりのない執拗な追跡は、ダビデにとって本当に辛い体験でしたが、後で振り返るなら、全て神の恵みの業であったことが判明するのです。私たちの人生には決して偶然はありません。私たちの人生に痛みや、悲しみや、くやしさなどありますが、慈しみ深い神の摂理の中に、ダビデが絶妙に守られていたように、神さまは私たち一人ひとりに対しても幸いなご計画を持っておられ、守り導いて下さいます。エレミヤ書29:11には次のように書かれています。

“わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。”

ですから、第一に、神さまのご計画に全てを委ね、私たちは、会社の上司に対し、目上の者に対し、立てられている権威に対し、従順になるべきです。第二に、自分の人生を神様に明け渡すことです。これから後、自分の力によって歩むのではなく、神さまの力によって歩ませてくださいと祈ることです。ダビデは、たとえサウルの手に自分の命が渡される可能性があっても、サウルの命を奪おうとはしませんでした。たとえ嗣業の地から追い出され亡命することになっても、神の復讐に期待しました。神の主権を信じ、神に明け渡す時、神が働かれ、神のご支配の中によって聖められ、あたかもサウルが自分の愚かさを認めるという普通ではありえないようなことが私たちの人生にも起こるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사울에게 관용을 베푼 다윗

2020년 3월 1일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 26장 1~25절

서론

24장에서 사울은 엔게디의 광야에서 다윗으로부터 은혜를 받고 도움을 받았음에도 불구하고 십 사람들의 밀고를 받으면 또 다시 다윗 토벌을 위해 군사를 보냅니다. 사울과 다윗의 관계는 마치 에서와 야곱과 같으며, 사울은 다윗을 항상 감시하고 악착스럽게 쫓아다니며, 위협하고 박해하는 관계입니다. 양쪽에는 일치도 조화도 없고 결코 한 집에 함께 살 수 없는 관계입니다. 그러나 사울의 다윗에 대한 집요한 추격은 이번이 마지막이 될 것이고, 이 후 두 사람이 다시 재회하는 일은 없을 것입니다. 왜냐하면 사울은 이 후에 블레셋과의 싸움에서 전사할 것이기 때문입니다. 그런데 24장의 엔게디에서 다윗이 사울을 죽이지 않고 살려둔 기사와 오늘 본문인 26장의 기사가 매우 유사하기 때문에 일부 학자들은 본래의 하나의 전승이 중복되어 기록되었다고 생각합니다. 그러나 엔게디의 사건과 오늘의 26장을 비교하면 다윗은 믿음이 훨씬 성장해 있음을 알 수 있습니다. 이 두 기사는 분명히 다른 사건이었다고 할 수 있을 것입니다. 다윗은 아비가일을 통해 복수는 주님이 하시는 것임을 배웠습니다. 그리고 더 말하면, 하나님께서 만약 다윗을 통해 왕국을 세우려 하신다면, 그것은 무력에 의해 백성의 피를 흘림으로써 육의 생각에 의해 수립되는 것이 아니라 하나님에 의해, 완전한 은혜에 의해 세워질 것이라는 것을 아비가일의 말을 통해 확신했습니다. 따라서 다윗은 하나님의 부르심을 받은 이 삶을 “자신의 힘으로 사는 것이 아니라 하나님의 힘에 의해 사는 것”이라고 굳게 다짐했던 것입니다.

주제 1 다윗의 순종

사울이 다윗을 쫓아 광야로 온 것을 알았을 때 다윗은 정탐꾼을 보내어 사울을 확인하고 스스로 사울의 진으로 다가갔습니다. 그리고 사울과 사울의 군 사령관 아브넬이 자고 있는 장소를 발견합니다. 사실 이때 하나님의 손이 개입되어 주님께서 사울의 진영에 깊은 잠을 보내신 것이었습니다. 도대체 하나님은 왜 개입하셔서 사울의 진영에 깊은 잠을 보내신 것일까요. 당연한 일이지만 다윗이 이 기회를 이용하여 사울을 그의 손에 넘겨 죽이게 하기 위해서가 아닙니다. 7,8절을 보시기 바랍니다.

7 다윗과 아비새가 밤에 그 백성에게 나아가 본즉 사울이 진영 가운데 누워 자고 창은 머리 곁 땅에 꽂혀 있고 아브넬과 백성들은 그를 둘러 누었는지라

8 아비새가 다윗에게 이르되 하나님이 오늘 당신의 원수를 당신의 손에 넘기셨나이다 그러므로 청하오니 내가 창으로 그를 찔러서 단번에 땅에 꽂게 하소서 내가 그를 두 번 찌를 것이 없으리이다 하니

아비새는 다윗의 누나인 스루야의 아들이며 다윗의 조카에 해당합니다. 다윗을 평생 따라다니며 충성심이 매우 강한 용사이지만 야심가이기도 했습니다. 아비새는 사울의 머리 곁 땅에 꽂혀 있는 창으로 한 번에 처치하게 해달라고 신청합니다. 그럼으로써 다윗의 손을 직접 더럽히지 않고 사울을 처치할 수 있다고 생각했을 것입니다. 하지만 다윗은 아비새에게 말했습니다. 「죽이지 말라 누구든지 손을 들어 여호와의 기름 부음 받은 자를 치면 죄가 없겠느냐」고 단언했습니다. 어리석은 나발에게 다윗이 복수를 망설였을 때 주님이 지체없이 손으로 치신 것을 똑똑히 보아온 다윗은 사울의 죽음에 대해서도 확신을 가지고 있었습니다. 10,11절을 보시기 바랍니다.

10 다윗이 또 이르되 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하노니 여호와께서 그를 치시리니 혹은 죽을 날이 이르거나 또는 전장에 나가서 망하리라

11 내가 손을 들어 여호와의 기름 부음 받은 자를 치는 것을 여호와께서 금하시나니 너는 그의 머리 곁에 있는 창과 물병만 가지고 가자 하고

하나님이 역사의 통치자이며 역사 속에 일절 우연이 없다고 생각한다면 우리도 이 세상에 세워진 자에게 직접 칼을 겨누어서는 안 됩니다. 예를 들어 회사 상사나 사장이나 국가의 리더에 대해서도 위에 세워진 지도자에게 순종해야 합니다. 만일 우리 믿음의 자유가 빼앗길 것 같으면 단호하게 저항해야 하지만, 기본적으로 다윗이 사울에게 순종했던 것처럼 순종해야 합니다. 하나님은 이방인인 느부갓네살조차 자신의 종이라고 말씀하시며 선민 이스라엘에게 그에게 순종하라고 명하고 계시기 때문입니다. 예레미야 27장 6절과 17절을 보시기 바랍니다.

6 이제 내가 이 모든 땅을 내 종 바벨론의 왕 느부갓네살의 손에 주고 또 들짐승들을 그에게 주어서 섬기게 하였나니

17 너희는 그들의 말을 듣지 말고 바벨론의 왕을 섬기라 그리하면 살리라 어찌하여 이 성을 황무지가 되게 하려느냐

주제 2 하나님께 완전히 맡기는 다윗

다윗은 창과 물병을 들고 건너편으로 건너갔습니다. 사울에게 이 창은 권위의 상징이자 다윗을 위협하는 위협 그 자체였습니다. 평생 사울은 이 창을 잠시도 놓지 않았습니다. 다윗이 수금을 칠 때 다윗을 벽에 꽂으려고 던진 것도 이 창이었습니다. 요나단이 다윗의 이름을 입에 올렸을 때 돌연 분노하며 결국에는 요나단을 죽이려고 던진 것도 이 창이었습니다. 다윗은 사울의 목숨 대신 그 창과, 광야에서 생명을 지키는데 소중한 물병을 사울에게서 빼앗아간 것이었습니다. 그리고 사울에게서 충분히 멀리 떨어진 건너편으로 가서 산 꼭대기에 서서 샤코가 산에서 울듯이 다윗은 사울의 진영에 큰 소리로 외칩니다. 샤코라고 하는 것이 무엇인가 하면 꿩과의 산새를 말하는 것으로 큰 산 메추라기라고 생각해 주십시오. 메추리 사냥은 메추리가 금방 날지 않고 계속 지면을 걸어다니는 습성이 있는 것을 이용하여 덤불 속에서 녹초가 될 때까지 쫓아다니다가, 마지막으로 지팡이로 쳐서 떨어뜨리는 사냥방법이 사용됩니다. 이 사냥법은 그야말로 사울이 다윗을 추격하고 있는 방식과 같습니다. 그리고 샤코의 히브리어 원어는 「외치는 자」라든지 「산을 방문하는 자」라는 의미입니다만, 다윗은 그야말로 샤코처럼 산의 정상에 서서 「아브넬아 너는 대답하지 아니하느냐」라고 외치고 있는 것입니다. 여기에서 다윗은 아브넬과 이야기하고 싶은 것이 아니라 사울에게 멧세지를 전하고 싶다고 생각해서 아브넬에게 말을 걸고 있는 것입니다. 그 멧세지는 다윗의 왕에 대한 복종입니다. 다윗은 왕이라는 말을 여러 번 사용하여 사울을 높히며 이 중요한 호위를 책임지고도 근무 태만했던 아브넬을 고발하고 있는 것입니다. 아브넬은 분명 용감하고 충실한 것이 틀림없지만 호위병인 자가, 가장 해서는 안 되는 일을 하고 있었습니다. 주군이 자고 있을 때 함께 자고 있었던 것입니다. 다윗은 「너희는 마땅히 죽을 자이니라」라고 말하며 아브넬이 결정적인 실패를 저질렀음을 일깨워 주었습니다. 아브넬은 한 마디도 다윗에게 반박할 수 없었습니다. 침묵할 수밖에 없었습니다. 이때 침묵을 깬 것이 사울의 말이었습니다. 「내 아들 다윗아 이것이 네 음성이냐」다윗은 사울에게 공손히 대답하되, 이제는 주께서 치실 사울에 대해서 「내 아버지」라고 부르지 않습니다. 「내 주 왕이여」라고 대답하고 있습니다. 그리고 다윗은 이번에는 사울에게 말을 걸지만 이것은 사실 사울에게 말을 거는 것이 아니라 하나님에 대해 말을 거는 것 같습니다. 18절을 보시죠.

또 이르되 내 주는 어찌하여 주의 종을 쫓으시니이까 내가 무엇을 하였으며 내 손에 무슨 악이 있나이까

18,19절을 주해서에 따라 해석이 갈리는 대목인데, 다윗의 심정으로는 이 사울에 의한 끝나지 않는 추격에 대해 겉으로는 사울에게 묻고 있습니다만, 실제로 하나님께 「내가 무엇을 하였으며 내 손에 무슨 악이 있나이까」라고 물으며 탄원하고 있는 것처럼 보입니다. 이어서 19절a를 봐 주세요.

원하건대 내 주 왕은 이제 종의 말을 들으소서 만일 왕을 충동시켜 나를 해하려 하는 이가 여호와시면 여호와께서는 제물을 받으시기를 원하나이다마는..

다윗의 하나님에 대한 탄원이란 “만약 하나님이 사울로 하여금 이런 끝이 없는 추격을 계속 하게 하시는 것이라면 나는 기꺼이 제물이 되겠습니다”라고 말하고 있는 것입니다. “만약 최종적으로 사울의 손에 제 목숨을 맡기는 것이 하나님의 계획이라면 그렇게 하십시오”라고 고백하며 자신을 하나님께 완전히 맡기고 있는 것입니다. 이 고백은 바로 에스더가 「죽으면 죽으리라」라고 한 고백과 같은 고백입니다. 혹은 예수님이 겟세마네 동산에서 피땀을 흘리며 「만일 할 만하시거든 이 잔을 내게서 지나가게 하옵소서 그러나 나의 원대로 마시옵고 아버지의 원대로 하옵소서」라고 기도하신 것과 같습니다. 그래서 다윗은 “내 삶은 오로지 하나님의 능력에 의해 걸어간다”는 것을 결의하고, 그리고 자신의 목숨까지도 하나님께 맡길 정도로 하나님에 대한 완전한 순종으로 믿음이 끌어올려지고 있는 것입니다.

주제 3 끝없는 추격의 원인

이어서 19b~20절을 봐 주세요.

19b .. 만일 사람들이면 그들이 여호와 앞에 저주를 받으리니 이는 그들이 이르기를 너는 가서 다른 신들을 섬기라 하고 오늘 나를 쫓아내어 여호와의 기업에 참여하지 못하게 함이니이다

20 그런즉 청하건대 여호와 앞에서 먼 이 곳에서 이제 나의 피가 땅에 흐리지 말게 하옵소서 이는 산에서 메추라기를 사냥하는 자와 같이 이스라엘 왕이 한 벼룩을 수색하러 나오셨음이니이다

다윗은 자신을 메추라기나 한 마리의 벼룩에 불과하다면서 이 끝없는 추격의 원인을 열거하고 있습니다. 만약 결과적으로 목숨을 걸고 블레셋 땅으로 망명할 수 있다면 망명이란 곧 이스라엘의 기업의 땅에서 나간다는 것이었고, 당시의 생각으로는 그것은 다른 땅의 이교의 신들을 섬기는 것을 뜻했기 때문에 견딜 수 없는 일이었습니다. 다윗은 그런 경우 이교의 땅에서 하나님께 기억되지 못하고 자신이 죽는 일이 없도록 간청하고 있습니다. 그리고 다른 것보다 한층 더 자신을 이교의 땅으로 쫓아내는 장본인이야말로 저주 받기를 간청하고 있습니다. 이 장본인은 사울에게 훈수를 두는 부하들을 가리키는 것으로 보입니다. 다윗은 “이 끝없는 추격의 원인은 결국 어떤 것입니까?”하고 호소하고 있는 것입니다. ①다윗이 사울 왕조의 반역자이기 때문에 쫓기고 있는 것인가 ②혹은 뭔가 모르는 하나님의 계획이 있어서 다윗이 사울의 손에 넘겨지도록 정해져 있는 것인가 ③혹은 누군가가 다윗을 이교의 땅으로 쫓아내려고 하는 것인가라는 것입니다.

매번, 다윗에 의해서 목숨을 부지하고 이번에는 유독 창까지 빼앗겨버린 비참한 사울은 완전히 전의 상실해 21절처럼「내 아들 다윗아 돌아오라 네가 오늘 내 생명을 귀하게 여겼은즉 내가 다시는 너를 해하라 하지 아니하리라 내가 어리석은 일을 하였으니 대단히 잘못되었도다」라고 대답합니다.

여기서 사울은 다윗을 향한 끝없는 추격의 원인을 다윗의 탓도, 주님의 탓도, 선동하는 부하의 탓도 아닌 자기 자신의 잘못으로 고백합니다. 지금까지 자신의 행동에 책임을 지지 않고 오로지 백성을 탓하거나 억지의 달인같던 사울의 태도와는 사뭇 다릅니다. 이 끝없는 추격의 원인은 사울 자신의 잘못이고, 나발과 같은 자신의 어리석음이라고 말함으로, 이렇게 다윗의 올바름과 충실함이 증명된 것입니다. 따라서 하나님께서 다윗과 사울 사이에 개입하시어 깊은 잠을 보내신 이유가 비로소 밝혀진 것입니다. 깊은 잠을 보내신 이유는 결국 이스라엘의 기억에서 믿음의 사람 다윗은 사울에 대해서도 바르고 충실했음이 구전되기 때문이었다고 할 수 있지 않을까요. 즉 사울이 집요하게 다윗을 추격할수록 사울에게 잘못이 있음이 증명되고 심지어 사울 자신, 다윗을 「내 아들」이라고 부르며 곧 도래할 다윗의 왕권을 승인시키기 위해서였던 것입니다. 더 말하면 다윗은 이후 블레셋인의 땅으로 망명하게 되는데 이스라엘의 왕 사울은 바로 사울의 가장 충실한 부하이자 본래 호위의 우두머리인 다윗이 국내에 부재했을 때 목숨을 잃었다는 것입니다. 이로써 인간의 힘에 의하지 않고 하나님의 절묘한 타이밍과 은혜로 다윗에게 왕위가 계승되고 하나님의 나라가 세워진다는 것을 우리는 새삼 깨닫게 되는 것입니다.

결론

사울의 끝없이 집요한 추격은 다윗에게 정말 힘든 경험이었지만, 나중에 돌이켜보면 모두 하나님의 은혜였음이 판명되는 것입니다. 우리 인생에는 결코 우연이 없습니다. 우리 삶에 아픔이나 슬픔이나 억울함 등이 있지만 긍휼이 많으신 하나님의 섭리 속에 다윗이 절묘하게 지켜졌듯이 하나님께서는 우리 한 사람 한 사람에 대해서도 복된 계획을 가지고 계셔서 지켜주시고 이끌어 주십니다. 예레미야서 29장 11절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

여호와의 말씀이니라 너희를 향한 나의 생각을 내가 아나니 평안이요 재앙이 아니라 너희에게 미래와 희망을 주는 것이니라

그렇기 때문에, 첫째로 하나님의 계획에 모든 것을 맡기고 우리는 회사 상사에게, 윗사람에게, 세워진 권위에 대해 순종해야 합니다. 둘째, 자신의 인생을 하나님께 맡기는 것입니다. 앞으로도 자신의 힘에 의해서 사는 것이 아닌 하나님의 힘에 의지해서 걷게 해 달라고 기도하는 것입니다. 다윗은 비록 사울의 손에 자신의 생명이 넘겨질 수 있을지라도 사울의 목숨을 빼앗으려 하지 않았습니다. 비록 기업의 땅에서 쫓겨나 망명하게 되더라도 하나님의 복수를 기대했습니다. 하나님의 주권을 믿고 하나님께 맡길 때 하나님께서 일하시고 하나님의 지배 가운데 거룩하게 하시고, 마치 사울이 자신의 어리석음을 인정하는 것과 같은 보통은 일어날 수 없는 일들이 우리의 인생에 일어나는 것입니다.

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