2019年09月08日「契約の箱の喪失 언약궤의 분실」

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契約の箱の喪失 언약궤의 분실

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 4章1節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き、
2イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。
3兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」
4兵士たちはシロに人をやって、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから担いで来させた。エリの二人の息子ホフニとピネハスも神の契約の箱に従って来た。
5主の契約の箱が陣営に到着すると、イスラエルの全軍が大歓声をあげたので、地がどよめいた。
6ペリシテ軍は歓声を聞いて言った。「ヘブライ人の陣営にどよめくあの大歓声は何だろう。」そして、主の箱がイスラエル軍の陣営に到着したと知ると、
7ペリシテ軍は、神がイスラエル軍の陣営に来たと言い合い、恐れて言った。「大変だ。このようなことはついぞなかったことだ。
8大変なことになった。あの強力な神の手から我々を救える者があろうか。あの神は荒れ野でさまざまな災いを与えてエジプトを撃った神だ。
9ペリシテ人よ、雄々しく男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたたちに仕えていたように、あなたたちが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え。」
10こうしてペリシテ軍は戦い、イスラエル軍は打ち負かされて、それぞれの天幕に逃げ帰った。打撃は非常に大きく、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。
11神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死んだ。
12ベニヤミン族の男が一人、戦場を出て走り、その日のうちにシロに着いた。彼の衣は裂け、頭には塵をかぶっていた。
13到着したとき、エリは道の傍らに設けた席に座り、神の箱を気遣って目を凝らしていた。その男が町に知らせをもたらすと、町全体から叫び声があがった。
14エリは叫び声を耳にして、尋ねた。「この騒々しい声は何だ。」男は急いでエリに近寄り報告した。
15エリは九十八歳で目は動かず、何も見ることができなかった。
16男はエリに言った。「わたしは戦場から戻って来た者です。今日戦場から落ちのびて来ました。」エリは尋ねた。「わが子よ、状況はどうなのか。」
17知らせをもたらした者は答えた。「イスラエル軍はペリシテ軍の前から逃げ去り、兵士の多くが戦死しました。あなたの二人の息子ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」
18その男の報告が神の箱のことに及ぶと、エリは城門のそばの彼の席からあおむけに落ち、首を折って死んだ。年老い、太っていたからである。彼は四十年間、イスラエルのために裁きを行った。
19エリの嫁に当たる、ピネハスの妻は出産間近の身であったが、神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死んだとの知らせを聞くと、陣痛に襲われてかがみ込み、子を産んだ。
20死の迫っている彼女に、付き添っていた女たちが語りかけた。「恐れることはありません。男の子が生まれました。」しかし彼女は答えず、心を留めなかった。
21神の箱が奪われ、しゅうとも夫も死に、栄光はイスラエルを去ったと考えて、彼女は子供をイカボド(栄光は失われた)と名付けた。
22彼女は言った。「栄光はイスラエルを去った。神の箱が奪われた。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 4章1節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

紀元前1200年頃、エーゲ海のギリシャやクレテ島の方から来た海の民「ペリシテ人」は、エジプトやカナンの地に侵入してきました。巻末の地図4を見ますと、地中海沿いにペリシテという地域がありまして、左側から、①ガザ、②アシュケロン、③アシュドド、④エクロン、⑤ガトの5つの都市を確認することができますが、この5つの都市がペリシテ人が建設した海沿いの都市です。彼らはすでに鉄の精製技術を持っていたために強力な武器を持っていました。今、お読みした4章は、ペリシテ人とイスラエルとの二度にわたる戦争と、二度にわたるイスラエルの敗北について淡々と書かれています。3章においては、預言者サムエルを通して神の御言葉がイスラエルに回復されたということを見てきました。そして4:1aに「サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。」とありますが、ところが、それ以後7章まで、サムエルは一切登場しません。代わりにペリシテ人との二度の戦争と「契約の箱の物語」が続いていきます。ですから、4:1の最初の言葉が私たちにはとても奇妙に見えるのです。これはいったいどういうことでしょうか。4:1の「サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。」という言葉は、必ずしもイスラエルがペリシテに勝利する約束の言葉ではなかったということです。その言葉とは、3:11~14のエリの家に対する裁きの預言の成就であったということです。さらに言うと1~3章までがイスラエルの指導者たちに対する罪の告発であると考えれば、4章はイスラエルの民に対する罪の告発であると考えることができるのです。戦争とはいつの時代においても、悲惨で、むごたらしいものです。戦争を通して、人間がどれほど残虐な性格をもっているのかが暴露され、人間の覆い隠されていた数々の恥部が明らかにされます。同じように神は、戦争を通して、イスラエル全体の罪を告発し、彼らの置かれている霊的状態を明らかにしようとされていると考えられます。そうすることによって、イスラエルに悔い改めと、神に対する渇きを、生じさせようとしておられるのです。それでは、4章1b~4節を御覧ください。

“イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き、イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」兵士たちはシロに人をやって、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから担いで来させた。エリの二人の息子ホフニとピネハスも神の契約の箱に従って来た。”

イスラエルが陣取ったエベンエゼルという地名は、「助けの石」という意味です。3節を見ますと、「なぜ主は今日は、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。」と言っていますから、この最初の戦争においてイスラエルは、当然ペリシテ人に勝つことができると期待していたと考えられます。彼らが勝利を確信したのは当然のことでした。なぜなら、彼らは、彼らを守られ、彼らを召され、彼らと共におられる神さまがどのような方なのかを知っていたからです。神さまはエジプトでイスラエルが奴隷であった時に救い出してくださり、紅海を分断し渇いた地を通らせ、出エジプトさせてくださった方であります。荒れ野においては、様々な奇蹟によって民を導いてくださり、約束の地、カナンへ入植させ、原住民を追い出す戦争において共におられ勝利に導いて下さった神さまだからです。当然、勝利を確信していたわけです。しかしこの最初の戦争で4千人の兵士が討ち死にし敗北してしまいました。長老たちは、すぐに集まって会議をし、なぜ戦争に負けてしまったのかを分析しました。ここで私たちはイスラエルの民が以前とは少し違う態度を見せていることに気づきます。そこには民の悔い改めや、嘆きや、そして何より戦争に負けた理由や、主の導きを主に問いただす姿勢はありませんでした。

アイの攻略の時には最初の戦争で敗北したときに、ヨシュアがどのようにしたでしょうか。ヨシュア記7章6~9節を御覧ください。

“ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった。ヨシュアは神に言った。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、わたしは何と言えばいいのでしょう。カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか。」”

ヨシュアは、長老たちと共に頭にちりをかぶり、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏して主に聞こうとしたと書いてあります。或いは士師記20:26~27では、どうでしょうか。そのままお聞きください。

“イスラエルの人々は皆、そのすべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣いた。その日、彼らは夕方まで断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を主の御前にささげた。イスラエルの人々は主に問うた。”

このような姿勢がペリシテとの戦いにおいて全く欠けていたと言わねばなりません。結局、彼らの出した結論とは、神の臨在をより確実にさせることでした。3節の後半で、「敵の手から救ってくださるだろう。」とありますが、ヘブライ語を見ると、動詞が使役形になっていて、直訳すると、「敵の手から我々を救わせるようにしよう」となっています。ここに、神の力を自分たちの思い通りに操りたい、神を利用したいという思いが隠れているのです。シロから「契約の箱」を担いで来るわけですが、通常契約の箱は誰でも触っていいということではなく、祭司でなければ担ぐことが許されませんでした。しかし4節を注意深く見ると、エリの子らホフニとピネハスに対して祭司という修飾語がついていません。彼らはすでに神の目からは祭司ではなかったのです。皆さんは契約の箱の構造をご存知でしょうか。長さが約110センチ、幅が約70センチ高さも約70センチの箱で金でおおわれています。中には、モーセがいただいた二枚の十戒の石板と、マナの入った壺と、芽を出したアロンの杖が入っていました。4節に「ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱」と書いてありますように、契約の箱の蓋の上に、ケルビムという天使が向かい合いながら羽を伸ばしています。これを贖罪の蓋といいますが、まさにここが「主の御座」、或いは「主の足台」というふうに考えられています。つまり契約の箱というのは、神さまの像ではなく、主がそこにお座りになる椅子、ご臨在される御座であったということです。しかも、万軍の主とありますように、天の軍隊を率いる戦の主が、臨在されるのです。箱が運ばれてきたとき、このような主が到着したということで、イスラエルの全軍は、地がどよめくほどの大歓声をあげました。今度こそ勝利を確信したのです。そのことを知ったペリシテ人も「大変だ。このようなことはついぞなかったことだ」と言いながら、今回の戦争では負けることも覚悟したほどでした。しかし、二度目の戦争もイスラエルが大敗し、三万人の兵士が討ち死にするという大殺戮が起こりました。最初の戦争の7倍強の被害です。この戦争でエリの二人の息子、ホフニとピネハスも死んでしまいました。ここにおいて、イスラエルの民は、契約の箱が到着し、神さまが明らかに共におられると考えられる状況において、なぜ敗北したのかという問題に直面したのです。神は不在だったのかという神学的問題に直面し、訳が分からなくなってしまいました。大きなショックを隠すことはできませんでした。「神の箱は奪われ」という言葉が、強調されていて、4章において11節と17節、19節、21節、22節と5回も出てきます。神の箱が奪われた、そして、ピネハスの妻が生まれてきた子をイカボド、つまり「栄光は失われた」と名付けました。本当にイスラエルから栄光は失われてしまったのでしょうか。哲学者のニーチェの言葉を借りるなら、イスラエルにおいて、まさに「神は死んでしまった」のでしょうか。このような問題は、現実的に私たちの信仰生活においてもよく現れる重要な問題であり、悩みの種でもあります。近くにおられるようで、実際あまりにも遠くにおられるように感じるのです。神は私たちの敗北に沈黙しておられるのです。ある人は霊的にスランプに陥ったと考えるかもしれません。ある人は神のご臨在を疑ったりするでしょう。そして何か自分たちの側に過失はなかっただろうかと考えて、神さまにさらに献身し、一生懸命奉仕したり、山に行って祈りにふけったりします。そしてなんとか神のご臨在の感覚を、守り主としての安堵感を得ようとするのですが、なかなか思うような結果を得ることができないのです。一体何が間違っているのでしょうか。申命記12:5を見ると、契約の箱は主が選ばれる場所に置かなければならないと書かれています。

“必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。”

同じく、申命記12:11を御覧ください。

“あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所に、わたしの命じるすべてのもの、すなわち焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、および主に対して誓いを立てたすべての最良の満願の献げ物を携えて行き、”

根本的な彼らの間違いは、主の前に静まって、御言葉に耳を傾ける代わりに、契約の箱を自分勝手に移動させて、主を利用しようする考え方によって、神とイスラエルの民との関係が人格的な関係ではなく、機械的な関係、利害関係に陥ってしまったということです。つまり、私の側で責任を果たした、やるべきことはした、あとは神様が働かれる番だと考えているのです。このような信仰は神さまの御言葉を聞くために、神さまの御心を知るために、真実に歩むのではなく、真実と責任をすべて果たしたので、今や神さまが私の思うとおりに動く番だと考える信仰です。人格的な関係ではなく、機械的な関係、形式主義になっていったということです。このように、神とイスラエルとの関係が人格的な関係ではなく利害関係になってしまいますと、契約の箱は、もはや主の臨在の象徴ではなく、偶像と化してしまいます。民が契約の箱を利用し、神を人間が操ろうとするのです。同じことは、十字架においてもよくあることです。十字架は神の愛の象徴でありますが、ある日、十字架が偶像となって、十字架によってどのような悪の攻撃からも守られるという錯覚に陥ってしまうのです。このように、神の民は、形式的に神さまの神殿を立てて、形式的に神さまに犠牲を捧げますが、それが神さまとの人格的な関係においてなされていなければ、直ちにそれ自体が偶像礼拝になってしまうのです。本来の神と民との人格的関係に立ち返らなければなりません。ホセア書6:4~6を御覧ください。

“エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。”

神さまは、イスラエルと愛の関係を望んでおられます。そして、献げ物を捧げることによって救われるのではなく、形式的な儀式によって救われるのではない、神を知ることによって、人格的な神との愛の交わりによって救われるのだと書いてあります。ですから、キリスト教の信仰とは究極的には神を知ることであり、神を尋ねることだと言えるでしょう。神さまは私たちにとって神であられ、父でもあられます。私たちを、ご自身の子供とみなしてくださるのです。これはどういうことかというと、神さまは親として私たちに対し何か神の働きを労ってもらおうとか、何か報いとしてプレゼントをもらいたいとか、或いは倫理的、宗教的な行いによって喜ばせてほしいとは願いません。ただ自分自身の愛の本質に似るようにすくすくと育つことを願っておられると思うのです。親が子を見て、自分と似ているところを見つけて喜ぶように、神さまも私たちを御覧になられ、慈しみ深く、愛の人になってほしいと願っておられるのではないでしょうか。ですから、「私は一度主日礼拝を欠席したことはありません。」「私は十一献金を一度も欠かせたことはありません。」「私は毎日、聖別した15分の祈りを欠かしたことはありません。」このような宗教的な行いよっては神さまをお喜ばせすることはできないということです。“わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。”神さまは、信仰生活の中で私たちが、もっともっと人格的な関係を通して神さまのことを知り、神さまの愛と慈しみ深いお姿に似ることを最も喜ばれるのです。本日の結論として、神の民と神との機械的な関係、利害的な関係から、人格的な関係を、回復しようとしておられるのです。「お互いがお互いを利用しようとするそのような関係を私は耐えられない」と主はおっしゃるのです。私たちは神の子供として人格的な愛の関係を回復するために、どのような時にも主の前に静まり、神さまとの交わりを通して、祈りを通して、御言葉に聞かなければならないのです。神さまを愛し神さまを信頼し、御言葉を糧として生きていくときに私たちは、神の約束の地に平安に祝福された人生を過ごすことができるようになるのです。お祈りいたしましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

언약궤의 분실

2019년 9월 8일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 4장 1~22절

기원전 1200년경 에게해의 그리스와 크레테섬 쪽에서 온 바다민족 블레셋 사람은 애굽과 가나안 땅에 침입해 왔습니다. 권말의 지도 4를 보면 지중해를 따라 블레셋이라는 지역이 있는데 왼쪽에서 ①가자 ②아스글론 ③아스돗 ④에그론 ⑤가드 등 5개 도시를 확인할 수 있는데, 이 5개 도시가 블레셋 사람이 건설한 해안도시입니다. 그들은 이미 철 정제 기술을 가지고 있었기 때문에 강력한 무기를 가지고 있었습니다. 지금 읽은 4장은 블레셋과 이스라엘의 두 차례의 전쟁과 두 차례 전쟁에 패배한 이스라엘의 상황에 대해 담담하게 적혀 있습니다. 3장에서는 선지자 사무엘을 통해 하나님의 말씀이 이스라엘에 회복되었음을 살펴보았습니다. 그리고 4장 1a절에 「사무엘의 말이 온 이스라엘에 전파되니라」라고 적혀 있는데, 그런데 그 이후 7장까지 사무엘은 일절 등장하지 않습니다. 대신 블레셋과의 두 번의 전쟁과 「언약궤의 이야기」가 이어집니다. 그래서 4장 1절의 첫 번째 말이 우리에게는 매우 기묘하게 보이는 것입니다. 이게 도대체 어떻게 된 일일까요? 4장 1절의 「사무엘의 말이 온 이스라엘에 전파되니라」라는 말은 반드시 이스라엘이 블레셋에게 승리한다는 약속의 말씀이 아니었다는 것입니다. 그 말씀은 3장 11~14

절의 엘리의 집에 대한 심판 예언의 성취였다는 것입니다. 더욱이 1~3장까지가 이스라엘 지도자에 대한 죄의 고발이라고 생각하면 4장은 이스라엘 백성에 대한 죄의 고발이라고 생각할 수 있습니다. 전쟁이란 어느 시대에나 비참하고 끔찍한 것입니다. 전쟁을 통해 인간이 얼마나 잔학한 성격을 가지고 있는지 폭로되고 인간의 가려져 있던 수많은 치부들이 드러납니다. 마찬가지로 하나님은 전쟁을 통해 이스라엘 전체의 죄를 고발하고 그들이 처한 영적 상태를 밝히려고 한다고 생각됩니다. 그렇게 함으로써 이스라엘에 회개와 하나님에 대한 갈증을 일으키시려고 하시는 것입니다. 그럼 4장 1b~4절을 보세요.

1b 이스라엘은 나가서 블레셋 사람들과 싸우려고 에벤에셀 곁에 진 치고 블레셋 사람들은 아백에 진 쳤더니

2 블레셋 사람들이 이스라엘에 대하여 전열을 벌이니라 그 둘이 싸우다가 이스라엘이 블레셋 사람들 앞에서 패하여 그들에게 전쟁에서 죽임을 당한 군사가 사천 명 가량이라

3 백성이 진영으로 돌아오매 이스라엘 장로들이 이르되 여호와께서 어찌하여 우리에게 오늘 블레셋 사람들 앞에 폐하게 하셨는고 여호와의 언약궤를 실로에서 우리에게로 가져다가 우리 중에 있게 하여 그것으로 우리를 우리 원수들의 손에서 구원하게 하자 하니

4 이에 백성이 실로에 사람을 보내어 그룹 사이에 계신 만국의 여호와의 언약궤를 거기서 가져왔고 엘리의 두 아들 홉니와 비느하스는 하나님의 언약궤와 함께 거기에 있었더라

이스라엘이 진을 친 에벤에셀이라는 지명은 「도움의 돌(하나님이 여기까지 도우셨다)」이라는 뜻입니다. 3절을 보면 「어찌하여 우리에게 오늘 블레셋 사람들 앞에 패하게 하셨는고」라고 말했기 때문에 이 첫 번째 전쟁에서 이스라엘은 당연히 블레셋 사람들을 이길 수 있을 것으로 기대했다고 생각됩니다. 그들이 승리를 확신한 것은 당연한 일이었습니다. 왜냐하면 그들은 그들을 지키시고, 그들을 부르시고, 그들과 함께 계신 하나님이 어떤 분인지 알고 있었기 때문입니다. 하나님은 애굽에서 이스라엘 백성이 노예였을 때 구해주시고 홍해를 가르고 마른 땅으로 지나가게 해주신 분입니다. 광야에서는 여러가지 이적으로 백성들을 인도해 주시고 약속의 땅 가나안에 정착시켜 원주민들을 몰아내는 전쟁에서 함께 하시며 승리로 인도해 주신 하나님이기 때문입니다. 당연히 승리를 확신하고 있었던 셈이죠. 그러나 이 첫 번째 전쟁에서 사천 명의 병사가 전사하고 패배하고 말았습니다. 장로들은 곧 모여 회의를 하고 왜 전쟁에서 패해버렸는지 분석했습니다. 여기서 우리는 이스라엘 백성들이 이전과는 조금 다른 태도를 보이고 있음을 알게 됩니다. 거기에는 백성들의 회개나 한탄이나 그리고 무엇보다 전쟁에 진 이유를 여호와께 물어 알고자 하는 자세는 없었습니다.

아이 성의 공략 시에는 첫 번째 전쟁에서 패배했을 대 여호수아가 어떻게 했을까요? 여호수아서 7장 6~9절을 보시기 바랍니다.

6 여호수아가 옷을 찢고 이스라엘 장로들과 함께 여호와의 궤 앞에서 땅에 엎드려 머리에 티끌을 뒤집어쓰고 저물도록 있다가

7 이르되 슬프도소이다 주 여호와여 어찌하여 이 백성을 인도하여 요단을 건너게 하시고 우리를 아모리 사람의 손에 넘겨 멸망시키려 하셨나이까 우리가 요단 저쪽을 만족하게 여겨 거주하였더면 좋을 뻔하였나이다

8 주여 이스라엘이 그의 원수들 앞에서 돌아섰으니 내가 무슨 말을 하오리이까

9 가나안 사람과 이 땅의 모든 사람들이 듣고 우리를 둘러싸고 우리 이름을 세상에서 끊으리니 주의 크신 이름을 위하여 어떻게 하시려 하나이까 하니

여호수아는 장로들과 함께 머리에 티끌을 뒤집어쓰고 여호와의 궤 앞에서 저물도록 땅에 엎드려 있으며 여호와의 대답을 들으려고 했다고 적혀 있습니다. 아니면 사사기 20장 26,27절에서는 어떨까요? 그대로 들어보시죠.

26 이에 온 이스라엘 자손 모든 백성이 올라가 벧엘에 이르러 울며 거기서 여호와 앞에 앉아서 그 날이 저물도록 금식하고 번제와 화목제를 여호와 앞에 드리고

27 이스라엘 자손이 여호와께 물으니라 그 때에는 하나님의 언약궤가 거기 있고

이러한 자세가 블레셋 사람들과의 싸움에서 전혀 결여되어 있었다고 해야 합니다. 결국 그들이 내린 결론이란 하나님의 임재를 보다 확실하게 하는 것이었습니다. 3절 후반에 「그것으로 우리를 우리 원수들의 손에서 구원하게 하자 하니」라고 쓰여 있는데 히브리어를 보면 동사가 사역형으로 되어 있고 직역을 하면 「적의 손에서 우리를 구하게 하자」라고 되어 있습니다. 여기에 하나님의 힘을 자신들의 뜻대로 조종하고 싶다, 하나님을 이용하고 싶다는 생각이 숨어 있는 것입니다. 실로에서 「언약궤」를 메고 오는 것인데, 통상 언약궤는 아무나 만져도 되는 것이 아니라 제사장들이 아니면 메는 것이 허용되지 않았습니다. 하지만 4절을 유심히 보면 엘리의 아들들 홉니와 비느하스에 대해 제사장이라는 수식어가 붙어 있지 않습니다. 그들은 이미 하나님의 눈에 제사장이 아니었습니다. 여러분은 언약궤의 구조를 알고 계십니까? 길이가 약 110센티미터 폭이 약 70센티미터, 높이가 약 70센티미터의 상자로 금으로 덮여 있습니다. 안에는 모세가 받은 두 장의 십계명 석판과 만나가 든 항아리와 싹을 틔운 아론의 지팡이가 들어 있습니다. 4절에 「그룹 사이에 계신 만국의 여호와의 언약궤」라고 쓰여 있듯이 언약궤의 상자 뚜껑 위에 그룹이라는 천사가 마주보며 날개를 펴고 있습니다. 이것을 속죄의 뚜껑이라고 말합니다만 바로 여기가 「여호와의 보좌」또는 「여호와의 발판」이라는 식으로 여겨지고 있습니다. 즉 언약궤라는 것은 하나님의 신상(神像)이라는 것이 아니라 여호와께서 거기에 앉으시는 보좌, 임재하시는 보좌라는 것입니다. 게다가 만군의 주인이듯이 하늘의 군대를 이끄는 전쟁의 주인이 임재하시는 것입니다. 언약궤가 진영에 들어올 때에 여호와가 도착하셨다고 해서 온 이스라엘이 땅이 울릴 정도로 함성을 질렀습니다. 이번에야말로 승리를 확신한 것입니다. 그 사실을 알게 된 블레셋 사람도 「우리에게 화로다 전날에는 이런 일이 없었도다」라고 말하며 이번 전쟁에서는 지는 것도 각오할 정도였습니다. 그러나 두 번째의 전쟁도 이스라엘이 대패하고 삼만 명의 병사가 죽는 대살육이 일어났습니다. 최초 전쟁의 일곱 배 조금 넘는 피해입니다. 이 전쟁에서 엘리의 두 아들 옵니와 비느하스도 죽고 말았습니다. 여기서 이스라엘 백성들은 언약궤가 도착하고 여호와가 분명히 함께 계실 것으로 생각되는 상황에서 왜 패배해버렸는가 하는 문제에 직면한 것입니다. 하나님은 부재중이었는가?하는 신학적 문제에 직면하여 영문을 알 수 없게 되어 버렸습니다. 큰 충격을 감출 수 없었습니다. 「하나님의 궤는 빼앗겼고」라는 말이 강조되고 있는데 4장에서 11절과 17절, 19절, 21절, 22절 이렇게 다섯 번이나 나옵니다. 「하나님의 궤는 빼앗겼고」, 그리고 비느하스의 아내가 태아난 아이의 이름을 이가봇, 즉 「영광이 이스라엘에서 떠났다」라고 붙였습니다. 정말 이스라엘에서 영광은 떠나고 만 것일까요? 철학자 니체의 말을 빌리자면 이스라엘에서 정말로 「하나님은 죽고 말았다」일까요? 이러한 문제는 현실적으로 우리 신앙생활에서도 흔히 나타나는 중요한 문제이자 골칫거리이기도 합니다. 가까이 계신 것 같은데 실제로 너무 멀리 계신 것처럼 느껴지는 것입니다. 하나님은 우리의 패배에 침묵하고 계신 것입니다. 어떤 사람은 영적으로 슬펌프에 빠졌다고 생각할지도 모릅니다. 어떤 사람은 하나님의 임재를 의심하기도 할 것입니다. 그리고 뭔가 자신들의 편에 과실은 없었을까 생각하며 하나님께 더욱 헌신하고 더욱 열심히 봉사하기도 하고 산에 가서 철야기도를 하기도 합니다. 그리고 어떻게든 하나님이 임재하신다는 감각을, 수호자로부터의 안도감을 얻으려고 하지만 좀처럼 생각하는 결과를 얻을 수 없었습니다. 도대체 뭐가 잘못된 것일까요? 신명기 12장 5절을 보면 언약궤는 여호와가 선택하신 장소에 두어야 한다고 적혀 있습니다.

오직 너희의 하나님 여호와께서 자기의 이름을 두시려고 너희 모든 지파 중에서 택하신 곳인 그 계실 곳으로 찾아 나아가서

마찬가지로 신명기 12장 11절을 참조하십시오.

너희는 너희의 하나님 여호와께서 자기 이름을 두시려고 택하실 그 곳으로 내가 명령하는 것을 모두 가지고 갈지니 곧 너희의 번제와 너희의 희생과 너희의 십일조와 너희 손의 거제와 너희가 여호와께서 원하시는 모든 아름다운 서원물을 가져가고

근본적인 그들의 잘못은 여호와 앞에 잠잠히 말씀에 귀를 기울이는 대신 언약궤를 제멋대로 이동시켜 여호와를 이용하려는 생각으로 인해 하나님과 이스라엘 백성과의 관계가 인격적인 관계가 아니라 기계적인 관계, 이해관계에 빠져버렸다는 것입니다. 즉, 내 편에서 책임을 다했다, 할 일은 했다, 이제 하나님이 일하실 차례라고 생각하는 것입니다. 이러한 믿음은 하나님의 말씀을 듣기 위해, 하나님의 뜻을 알기 위해 진실로 사는 것이 아니라 진실과 책임을 다해 최선을 다했기에 이제부터는 하나님이 내 뜻대로 움직여 주실 차례라는 믿음입니다. 인격적인 관계가 아니라 기계적인 관계, 형식적인 관계가 되어 갔다는 것입니다. 이처럼 하나님과 이스라엘과의 관계가 인격적인 관계가 아닌 이해관계가 되어 버리면 언약궤는 더 이상 하나님의 임재의 상징이 아니라 우상이 되고 맙니다. 백성들이 언약궤를 이용하고 하나님을, 인간이 조종하려고 하는 것입니다. 같은 일은 십자가에서도 자주 있는 일입니다. 십자가는 하나님의 사랑의 상징이지만 어느 날 십자가가 우상이 되어 십자가에 의해 어떤 악의 공격으로부터도 지켜진다는 착각에 빠지게 됩니다. 이처럼 하나님의 백성들은 형식적으로 하나님의 성전을 세우고 형식적으로 하나님께 희생을 바치지만, 그것이 하나님과의 인격적인 관계에서 이루어지지 않는다면 곧바로 그 자체가 우상 예배가 되고 맙니다. 본래의 하나님과 백성과의 인격적 관계로 돌아가야 합니다. 호세아서 6장 4~6절을 참조하시기 바랍니다.

4 에브라임아 내가 네게 어떻게 하랴 유다야 내가 네게 어떻게 하랴 너희의 인애가 아침 구름이나 쉬 없어지는 이슬 같도다

5 그러므로 내가 선지자들로 그들을 치고 내 입의 말로 그들을 죽였노니 내 심판은 빛처럼 나오느니라

6 나는 인애를 원하고 제사를 원하지 아니하며 번제보다 하나님을 아는 것을 원하노라

하나님은 이스라엘과 사랑의 관계를 원하십니다. 그리고 헌물을 바침으로써 구원 받는 것이 아니라, 형식적인 의식에 의해서 구원받는 것이 아니라 하나님을 앎으로서 인격적인 하나님과의 사랑의 관계에 의해서 구원받는 것이라고 쓰여 있습니다. 그렇기 때문에 기독교 신앙이란 궁극적으로 하나님을 아는 것이고 하나님을 찾는 것이라고 할 수 있겠죠. 하나님은 우리에게 하나님이시자 아버지되십니다. 저희를 자신의 자녀로 여겨 주시는 것이죠. 이게 무슨 말이냐면 하나님께서 부모로서 우리가 하나님을 위해서 큰 사역을 하기 원하신다던가, 우리가 열심히 했으니 뭔가 보답으로 선물을 기대한다거나, 또는 윤리적, 종교적인 행함으로 하나님을 기쁘시게 해 주시길 원하시는 것이 아닙니다. 그저 예수님의 형상을 닮아가도록 그 믿음이 자라기를 바라고 계시리라 생각합니다. 부모가 자식을 보고 자신과 비슷한 점을 발견하고 기뻐하듯이 하나님께서도 우리를 보시고 긍휼함이 있는 사랑의 사람이 되기를 바라고 계시지 않을까요? 그래서 “저는 주일 예배를 한 번도 결석한 적이 없습니다.” “저는 십일조를 한 번도 거른 적이 없습니다.” “저는 매일 성별해서 드리는 15분의 기도를 빼 먹은 적이 없습니다.” 이런 종교적인 행함으로는 하나님을 기쁘게 해드릴 수 없다는 것입니다. 「나는 인애를 원하고 제사를 원하지 아니하며 번제보다 하나님을 아는 것을 원하노라(호세아 6장 6절)」하나님은 신앙생활 가운데 우리들이 더욱더 인격적인 관계를 통해 하나님을 알게 되고, 하나님의 사랑과 인자하신 모습을 닮게 되는 것을 가장 기뻐하십니다. 오늘의 결론은 하나님의 백성과 하나님과의 기계적인 관계, 이해적인 관계로부터 인격적인 관계를 회복하고자 하시는 것입니다. 「서로가 서로를 이용하려는 그런 관계를 나는 견딜 수가 없다」고 하나님은 말씀하시는 것입니다. 우리는 하나님의 자녀로서 인격적 사랑의 관계를 회복하기 위해 어떤 때에도 하나님 앞에서 잠잠히 하나님과의 교제를 통해, 기도를 통해 말씀을 들어야 합니다. 하나님을 사랑하고 하나님을 신뢰하여 말씀을 양식으로 삼아 살아갈 때 우리는 하나님의 약속의 땅에서 평안히 복된 삶을 살 수 있게 되는 것입니다. 기도하겠습니다.

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