2018年08月19日「結婚と離婚」

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:1イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。
19:2大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
19:3ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。
19:4イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
19:5そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
19:6だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
19:7すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
19:8イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
19:9言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
19:10弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。
19:11イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
19:12結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 19章1節~12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イエス様はガリラヤを去り、エルサレムに向かう途上、ヨルダン川の東側のペレヤの地域に来ました。ガリラヤとペレヤは、領主ヘロデ・アンティパスによって治められている地域です。ヘロデ・アンティパスと言えば、自分の妻がいるにも関わらず兄弟の妻ヘロディアの事を気に入って、自分の妻にめとってしまった人物です。洗礼者ヨハネはそのことを正面からとがめ獄中に入れられてしまい、ついにはヘロデの宴会の席で処刑にされてしまいました。この、ペレヤという場所で、ファリサイ人がイエス様に近寄ってきて、あえて、大変敏感で、かつ現実的な問題である離婚の問題について質問をしました。“何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか”この問題は、現代においても週刊誌のゴシップを賑やかせていますが、夫婦仲において一つ確かに言えることは、夫婦の関係が円満になるとその家庭に平安が訪れ、険悪になると家庭に地獄のような痛みと混乱をもたらすということだと思います。皆様もそれぞれの家庭において天国と、地獄を体験されて来られたのではないでしょうか。ファリサイ人の質問は、旧約聖書の申命記24章を根拠としていました。申命記を見るとモーセは離婚を命じているように解釈できるからです。申命記24:1をご覧ください。

“人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。”

男尊女卑の社会であった当時、離婚ができる要因について、ラビによっていろいろな解釈があったので、その離婚の要因に関する質問だと考えられます。あるファリサイ派のラビは、「妻に何であれ、気に入らないところがあれば、離婚してもよい」と解釈しました。そのような解釈に立つなら、ヘロデ・アンティパスの結婚も認められるということになります。イエス様にヘロデの結婚を認めさせるなら、イエス様の名を地に失墜させることができるでしょう。この質問はイエス様を陥れる罠でありました。イエス様は、この質問に対して独自の解釈によって答えられました。4-6節をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」”

イエス様の解釈は、離婚そのものを禁止されました。その根拠を創世記1:27の“創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。”という御言葉と、創世記2:24の“それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。”という御言葉から引用しています。人が男と女とに創造されたというのは、最初から異性と組み合わせられることを前提として造られたということです。そして、神は結婚を「一体」という言葉によって描写することによって、男と女はもはや二人ではなく、ペアとして一体に組み合わされた、神秘的な結合体であるということを教えています。さらに、この男女の結合は、それぞれの父母を離れ、父母との結びつきを忘れさせるほどの説明しがたい神秘な結合であると言うのです。普通、子供が親を出すことは考えられないですね。それ以上に、夫は妻を出すことが考えられないというのです。ですから、離婚というのは、この神によって定められた聖なる結合を引き裂くことですから、何人によっても、離されてはならないというのです。神が宇宙の創造の初めに、結婚の制度を制定され、それを永遠の法として確立されたことを、イエス様は改めて確認しておられるのです。そう言えばイエス様の最初の奇跡もカナの結婚式における、水がぶどう酒に変わる奇跡でありました。結婚とはそれほど神聖なものなのです。主イエスの答えに対して、ファリサイ人は、モーセの権威を盾にしながら、イエス様に異議を申し立てました。19章7-9節をご覧ください。

“すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに(不品行以外の理由で)妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」”

ファリサイ人の異議申し立てに対するイエス様の答えによれば、モーセがそのようにしたのは、モーセが離婚を命じた訳ではなく、アダムとエバが堕落した結果、生じた人間の罪深い状態において、離婚を譲歩せざるを得なかった、許容せざるを得なかった、その結果であるというのです。命令ではなく、許容に過ぎない。しかし、宇宙の創造における初めからそうだった訳ではなく、自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫の罪を犯すことになるということです。エデンの園の回復という絶対的な基準に立つなら、離婚は絶対的に禁じられているのです。ただ、堕落した世にあって、例外は考えられます。例外とは、妻に対して不品行が発見された場合です。イエス様の時代においても相変わらず男尊女卑は続いていましたから、通常、女性が不品行を行った場合、石打で処刑されることになりました。ですから、もし女性の不品行を認めたなら、石打の刑に処するより、むしろ離婚しなさいという解釈です。イエス様の父、ヨセフも、妻のマリアが何者かによって身ごもったことを知った時、そっと離縁しようと決意しました。例えばユダヤの社会においては、たとえ家族の中であっても、重い皮膚病であるツァラアトの患者が出たなら、共同体から隔離されなければなりませんでした。同じ理屈で、不品行を犯した汚れた妻に対しても、汚れが移らないよう、離縁してもよいという考え方があったのです。ですから9節において「淫らな行い以外の理由で」と例外規定を設けられているのは、そのような男尊女卑の社会の背景があったからだと思われます。しかし、聖書全体を見るなら、やはり結婚は神の永遠の法であり、何人も「一体」となった夫婦を離縁させてはならないという結論が浮き彫りにされてきます。ファリサイ人はよく離婚をしていました。マラキ書を見ても離婚する祭司たちをとがめている箇所があります。マラキ2:15-16をお読みします。

“主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むと イスラエルの神、主は言われる。”

それでは、なぜ、聖書においてこのように離婚が厳しく禁じられているのでしょうか。なぜ結婚は、創世記に書いてあるように、神聖なものとしてみなされるのでしょうか。

それは、男女の夫婦の関係が、まさに神とイスラエルの関係の、つまり神と教会の関係の比喩だからであります。そのことが最も分かりやすく書いてある箇所がホセア書2:21-22と3:1です。ご覧ください。

“わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び/正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。”

次に3:1です。

“主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」”

3:1では、はっきりと神は預言者ホセアに、不品行な妻ゴメルを愛して受け入れなさいと命令しておられます。これは、神様が不品行なイスラエルを永遠の愛によって愛しているということをはっきりと宣言するためであり、そのことを預言者の行いを通して象徴的に教えているのです。このような、エデンの園を回復させるような結婚観は、罪深い現実の中を生きている私たちには、もしかしたら恐ろしく聞こえてくるかもしれません。弟子たちの口から、思わず“夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです”と、本音がポロッと出てしまいましたが、実は弟子たちのこの本音は大変鋭い指摘だとも言えるのです。というのは、当時はもちろんのことで、現代においても言えることですが、この世で結婚生活を継続することほど、ある意味において難しいことはないからです。結婚生活を30年40年50年続けてこられた方々は、その事一つだけとっても、心から尊敬に値するものだと思います。クリスチャンの中で、あなたが生涯負うべき自分の十字架とは何ですか、と問われれば「私の配偶者です」と告白する人は意外に多いのではないでしょうか。男尊女卑の文化の恩恵を受けていた弟子たちは、イエス様の言葉を聞いて私たち以上に恐れおののいた事でしょう。そのような弟子たちにイエス様は次のように答えられます。19:11-12をご覧ください。

“イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」”

この箇所の解釈は大変難しいとされています。その原因である11節の指示代名詞の「この言葉」が一体何を指しているのかですが、それによって「独身の賜物」が授けられているのか、「結婚の賜物」が授けられているのか、論調が二つに分かれてくるからです。最初に、独身の賜物とする考えです。「この言葉」を、10節の弟子たちの言葉「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」を指しているとするなら、神様から「賜物」を授けられた人だけが、独身生活を受け入れられるということになります。具体的には、生まれつき性的な障碍者、宦官など他人の手によって去勢された者、或いは天の国のために結婚しない者たちであります。しかしこのように三種類の独身者を特権的に解釈するなら、いっそ、結婚しない方が多くの罪を犯さずに済むという結論になってしまいます。第二に、結婚の賜物とする考え方です。「この言葉」を、4-6節のイエス様の結婚に関する言葉であると考えるなら、どうでしょうか。結婚は、誰もが受け入れられるのではなく、神の助けによって、「結婚の賜物」によってはじめて結婚生活をすることができるということになります。続く文章は、結婚が許されなかった人々を羅列して、なぜなら、生まれつき性的な障碍者、他人の手によって去勢された宦官など、或いは天の国のために結婚しない者たちもいるからです、と続くのです。

これら二つの解釈の中で、私は二番目の解釈が正しいと思います。なぜなら、第一に聖書の中には、たとえイエス様ご自身は独身で過ごされましたが、だからと言って、どこにも独身生活が奨励されている箇所はないからです。人は一人でいるのは良くないと、独身より結婚が奨励されているのです。また、文法的な観点から見ても、新共同訳聖書には翻訳されていませんが、12節の冒頭に「なぜなら」という接続詞がございますので、12節は11節の付属的説明ではなく、12節は11節の理由を述べている内容であると言えるからです。最後に前後の文脈の観点から見ても、弟子たちの結婚に対する恐れを払拭しているのは、明らかに二番目の解釈であるということです。神の絶対的基準に照らし合わせた理想的な結婚生活とは、それは、確かにイエス・キリストと教会との結合を象徴しておりますが、私たちからは、あまりにも高いハードル、あまりにも高い要求に感じられます。私たちは、日々ささいなことで夫婦喧嘩をし、日々お互いがお互いのことをののしり合っているからです。場合によっては離婚に至ってしまうこともあるでしょう。しかし、そのような現実にあっても、結婚生活を尊重し、結婚生活を全うすることができるのは、私たちの結婚を神から許され、神から恵みを授けられ、祝福されているからです。主の恵みによって受け入れることができる人は受け入れなさいと招いてくださっているからです。ここに希望をもって歩んでいくことができるのです。そして、この世での男女の結婚がこれほど尊重され大切にされているのは、私たち一人ひとりが、永遠においてイエス様の花嫁であって、一つ身体に固く結合されているからです。この神秘的結合は何人によっても、離されることがないということも、同じように覚えていきたいと思います。お祈りいたしましょう。

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