2020年02月23日「愚かな者の賢い妻 어리석은 자의 현명한 아내」

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愚かな者の賢い妻 어리석은 자의 현명한 아내

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 25章1節~44節

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聖句のアイコン聖書の言葉

25:1サムエルが死んだので、全イスラエルは集まり、彼を悼み、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒れ野に下った。
25:2一人の男がマオンにいた。仕事場はカルメルにあり、非常に裕福で、羊三千匹、山羊千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛を刈っていた。
25:3男の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言った。妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。
25:4荒れ野にいたダビデは、ナバルが羊の毛を刈っていると聞き、
25:5十人の従者を送ることにして、彼らにこう言った。「カルメルに上り、ナバルを訪ね、わたしの名によって安否を問い、
25:6次のように言うがよい。『あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。
25:7羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの牧童は我々のもとにいましたが、彼らを侮辱したことはありません。彼らがカルメルに滞在していた間、無くなったものは何もないはずです。
25:8あなたの従者に尋ねてくだされば、そう答えるでしょう。わたしの従者が御厚意にあずかれますように。この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください。』」
25:9ダビデの従者は到着すると、教えられたとおりダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。
25:10ナバルはダビデの部下に答えて言った。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。
25:11わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか。」
25:12ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告した。
25:13ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じ、おのおの剣を帯び、ダビデも剣を帯びた。四百人ほどがダビデに従って進み、二百人は荷物のところにとどまった。
25:14ナバルの従者の一人がナバルの妻アビガイルに報告した。「ダビデは、御主人に祝福を述べようと荒れ野から使いをよこしたのに、御主人は彼らをののしりました。
25:15あの人たちは実に親切で、我々が野に出ていて彼らと共に移動したときも、我々を侮辱したりせず、何かが無くなったこともありません。
25:16彼らのもとにいて羊を飼っているときはいつも、彼らが昼も夜も我々の防壁の役をしてくれました。
25:17御主人にも、この家の者全体にも、災いがふりかかろうとしている今、あなたが何をなすべきか、しっかり考えてください。御主人はならず者で、だれも彼に話しかけることができません。」
25:18アビガイルは急いで、パンを二百、ぶどう酒の革袋を二つ、料理された羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじくの菓子を二百取り、何頭かのろばに積み、
25:19従者に命じた。「案内しなさい。後をついて行きます。」彼女は夫ナバルには何も言わなかった。
25:20アビガイルが、ろばに乗って山陰を進んで行くと、向こうからダビデとその兵が進んで来るのに出会った。
25:21ダビデはこう言ったばかりであった。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。
25:22明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように。」
25:23アビガイルはダビデを見ると、急いでろばを降り、ダビデの前の地にひれ伏し礼をした。
25:24彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「御主人様、わたしが悪うございました。お耳をお貸しください。はしための言葉をお聞きください。
25:25御主人様が、あのならず者ナバルのことなど気になさいませんように。名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます。はしためは、お遣わしになった使者の方々にお会いしてはいないのです。
25:26主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。あなたに対して災難を望む者、あなたの敵はナバルのようになりましょう。
25:27ここにある物は、はしためが持参した贈り物でございます。お足もとに仕える従者にお取らせくださいますように。
25:28どうかはしための失礼をお許しください。主は必ずあなたのために確固とした家を興してくださいます。あなたは主の戦いをたたかわれる方で、生涯、悪いことがあなたを襲うことはございませんから。
25:29人が逆らって立ち、お命をねらって追い迫って来ても、お命はあなたの神、主によって命の袋に納められ、敵の命こそ主によって石投げ紐に仕掛けられ、投げ飛ばされることでございましょう。
25:30また、主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、
25:31いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきや、お心の責めとなりませんように。主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください。」
25:32ダビデはアビガイルに答えた。「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。
25:33あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。
25:34イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう。」
25:35ダビデは、彼女の携えて来た贈り物を受け、彼女に言った。「平和に帰りなさい。あなたの言葉を確かに聞き入れ、願いを尊重しよう。」
25:36アビガイルがナバルのもとへ帰ってみると、ナバルは家で王の宴会にも似た宴会の最中であった。ナバルは上機嫌で、かなり酔っていたので、翌朝、日が昇るまで、彼女は事の大小を問わず何も話さなかった。
25:37翌朝、ナバルの酔いがさめると、彼の妻は成り行きを話して聞かせた。ナバルは意識を無くして石のようになった。
25:38十日ほどの後、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。
25:39ナバルが死んだと聞いたダビデは、「主はたたえられよ。主は、ナバルが加えた侮辱に裁きを下し、僕に悪を行わせず、かえって、ナバルの悪をナバルの頭に返された」と言った。ダビデはアビガイルに人を遣わし、彼女を妻にしたいと申し入れた。
25:40ダビデの部下がカルメルにいたアビガイルのもとに来て、「ダビデは我々をあなたのもとに遣わし、あなたを妻として迎えたいと言っています」と告げた。
25:41彼女は立ち上がり、地に伏して礼をし、「わたしは御主人様の僕たちの足を洗うはしためになります」と答え、
25:42すぐに立ち、急いでろばに乗り、彼女に仕える侍女を五人連れて、ダビデの使者の後に従った。アビガイルはダビデの妻となった。
25:43ダビデはイズレエル出身のアヒノアムをめとっていたので、この二人がダビデの妻となった。
25:44サウルは、ダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 25章1節~44節

原稿のアイコン日本語メッセージ

序論

サムエル記上25章は、24章と完全に対象となる内容でございます。24章では、ダビデは忍耐力と細心の注意を持って、サウルの悪に対し、善をもって対処しました。ところが、25章では、ダビデは気が緩んだのか、ほんの些細なことで、怒りを爆発させて、剣と武力に訴えようとしています。しかし、神様はアビガイルを通して御心を示し、ダビデが罪を犯すことを守ってくださいます。ところで、25章の冒頭には預言者サムエルの死が書かれています。一つの人生が閉じられるということは、歴史の新しいページが開かれることをも意味します。なぜこの時にサムエルが天に召されたのでしょうか。サムエルは、士師記の末期に、最後の士師として登場しました。サムエルが担った役割は、士師時代から王政時代を準備するという働きです。従って、最初の王サウルの王国は、人の思いと肉の力によって建てられた国として神に退けられ、二番目の王、ダビデによって神の国が堅固にされる時までがサムエルの担った役割であったと言えるでしょう。24:21を見るとサウルはダビデに対して「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。」と語っています。つまりサウルはやがて到来するダビデの神政王国を承認したということです。ダビデとサウル、両者がサムエルの預言を受け入れたのです。従って、サムエルの役割はここまでということです。サムエルは使命を全うし、その生涯を終えました。このことから人の寿命をも全て神様の主権の中にあるということを私たちは見て取ることができるのです。

主題1 悪に報復しようとするダビデ

マオンの荒れ野のカルメルという村に羊3千匹、山羊千匹を所有する非常に裕福なナバルという人がいました。カルメルというのは、預言者エリヤがバアルの崇拝者と戦ったカルメル山ではなく、ユダの中にある村です。巻末の4番の地図を御覧ください。死海の左にカルメルという村を確認できます。ナバルという名前の意味は、「愚か者」でして、3節を見ますと、この男は、その名の通り、愚か者であり頑固で行状が悪かったと書かれています。「愚かさ」とか「頑なさ」という言葉は、聖書の中で神に遺棄される者の特徴としてあげられるでしょう。一方、彼の妻アビガイルは聡明で美しい人でした。牧畜を営んでいる人々にとって羊の毛の刈り入れは、いわゆる収穫祭にあたり、盛大な宴会が催されるのが常でありました。ダビデとその部下たちは荒れ野に頻繁に現れる略奪隊から、ナバルの働き人を守ってやり、護衛の役割を負っていましたので、この喜ばしい祭の日に、ダビデはナバルの下へ、10人の使者を送り次のように言わせています。(7~8節)

“羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの働き人は我々の下にいましたが、彼らを侮辱したことはありません。彼らがカルメルに滞在していた間、なくなったものは何もないはずです。あなたの従者に訪ねて下されば、そう答えるでしょう。わたしの使者がご厚意にあずかれますように。この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなた子ダビデにお分けください”

10人の使者が伝えたこの要求は、いかにも、「誰のお陰で今日の良い日を迎えることができたのか分かっているのか、これまでよくしてやっただろう」という感じで厚かましく、裏を返すなら、暴力団の脅迫のようにも聞こえてきます。何しろダビデの下に集まっている兵士は600人にもなりますので、この600人を養うために、ナバルの家に大きな金額が要求されているのです。ナバルは、10節において、“ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。”と返事をし、サウル王に忠誠を表明しつつ、ダビデを逃亡した奴隷として侮辱しています。さらに11節では、私のものを一切分け与えることはないだろうと拒絶しています。11節のヘブル語聖書を見ますと一人称の「私」が何度も出て来ますので、わかりやすく訳されている岩波書店の訳をお読みします。

“わしのパン、わしの水、それにわしがわしの羊の毛を刈る者たちのために屠ったわしの肉を取って、どこの馬の骨ともわからない者たちにくれてやれというのか”

このようにナバルは、いかにも成金の資産家のように、自分の所有物に強く執着しているのかがわかります。ナバルは、ダビデに対し保護を要請したわけではありませんから、報酬を払わなければならない義務はもちろんありませんでした。しかし、当時の情緒に照らしてみる時、このような状況においてナバルがダビデに謝礼をするのは当然でした。それは、16節のナバルの働き人の言葉によく現れています。

“彼らのもとにいて羊を飼っているときはいつも、彼らが昼も夜も我々の防壁の役をしてくれました。”

ましてイスラエルの共同体においては旅人をもてなすのは、道徳的義務でした。ナバルの態度はあまりに冷淡だったと言わざるを得ません。このナバルのダビデに対する頑なな拒絶は、サウルのダビデに対する拒絶を彷彿させるようでした。ダビデは部下たちの報告を聞くとすぐに、「各自、剣を帯びよ」と命じ、荷物の所に200人を残し、残った400人を、ナバルを討つために出陣させました。ダビデは21~22節で次のように誓っています。

“荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように。”

これまでダビデは剣に依存したことはなかったので、ダビデのこのような態度は、本来の本人らしからぬ態度だと言えるでしょう。ゴリアトと戦う時には、ダビデは“主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。”と堂々と叫んでいます。また、24章においては、ダビデはサウルに対し剣によって命を奪うことなく、サウルの上着の端を切った事さえ罪悪感を覚え、サウルの悪に対し善を持って対処しました。それにも関わらず本日の箇所では、些細なことでカッとなり、ナバルの悪に対して復讐しようと剣を握りしめているのです。

主題2アビガイルの預言的警告

アビガイルが事の顛末を知ると、即座に行動しました。たくさんの贈り物をロバに積んで、ダビデの一行に差し上げるために山陰を進んで行きました。そしてダビデとその兵を見ると、ロバから降りて、その前にひれ伏し、礼をして「わが主よ」という言葉を使い、すべてのことを自分の手落ちに帰しています。彼女の賢明な言葉を通して、ダビデの燃え上がる怒りがすっかり鎮められることになりますが、それはアビガイルの信仰告白とも取ることが出来る、彼女の言葉の内に、神的な知恵をダビデは認めたからでした。その内容を見ていきましょう。24~28節を御覧ください。

“彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「御主人様、わたしが悪うございました。お耳をお貸しください。はしための言葉をお聞きください。御主人様が、あのならず者ナバルのことなど気になさいませんように。名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます。はしためは、お遣わしになった使者の方々にお会いしてはいないのです。主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。あなたに対して災難を望む者、あなたの敵はナバルのようになりましょう。ここにある物は、はしためが持参した贈り物でございます。お足もとに仕える従者にお取らせくださいますように。どうかはしための失礼をお許しください。主は必ずあなたのために確固とした家を興してくださいます。あなたは主の戦いをたたかわれる方で、生涯、悪いことがあなたを襲うことはございませんから。”

アビガイルの言葉を調べると、預言的な不思議な言葉が出てきますが、第一に、「あなたの敵はナバルのようになりましょう。」という言葉です。この言葉は、実際にナバルが死んでから、つまり38節以降に出てくるのが相応しい言葉ですが、アビガイルは信仰によって、神の摂理を見越して語っているかのようです。第二に、やがて到来するダビデの王国について、サウルが24章において承認した以上に、はっきりと告白している点です。彼女は、“主は必ずあなたのために確固とした家を興される”と述べていますが、この告白はまさに預言者ナタンを通して語られた預言と同じであり、さらに言えばイエスキリストによってもたらされる神の国を指しています。だからこそダビデには義なる王として立っていただかなければならないのです。サムエル記下7:16を御覧ください。

“あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。”

アビガイルが一体どこでこれほどの確信を持ったのか、と私たちは驚きます。明らかに聖霊による告白であると認めざるを得ません。引き続き29~31を御覧ください。

“人が逆らって立ち、お命をねらって追い迫って来ても、お命はあなたの神、主によって命の袋に納められ、敵の命こそ主によって石投げ紐に仕掛けられ、投げ飛ばされることでございましょう。また、主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきや、お心の責めとなりませんように。主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください。”

命の袋というのは、おそらく羊飼いがもっていた巾着袋のようなもので、彼らは自分の羊を数えるために、その袋の中に小さな石を一つずつ入れながら羊の数を数えました。つまり巾着袋の中の石の数が羊の数でした。ダビデは、命の袋の中に神様に数えられているということです。私たちキリスト者も永遠において、この命の袋の中に数えられているのです。アビガイルは、ダビデに対し命に数えられていて、その王座は必ずやってくるであろうし、神聖な約束はすべて成就されるであろうという前提に立ちながら、偉大な王がこのようなつまらない復讐によって負の痕跡を残す必要はないと説得しているのです。ダビデの国というのは、神によって与えられる神政国家であり、それは全面的に神の恵みによって建てられるべきであって、決して権力によって、武力によって、或いは血を流すことによって、人間の肉の思いによって、建てられてはならないと主張しているのです。恐らくダビデはアビガイルの声を通して、預言者の声を聴いたように感じたのでしょう。ダビデは、アビガエルから贈り物を受け取り、自分の手で復讐をすることを思いとどまりました。復讐は神のなされることであって、ダビデは自分の使命に立ち帰ることができたのです。

主題3 ナバルを討たれる神

アビガイルが家に戻ると、ナバルは王のように振る舞い、大きな宴会を開いていました。翌日、ナバルの酔いがさめると、アビガイルはこれまでのことをナバルに話しました。すると、意識を失って石のようになり、十日ほどの後に死んでしまいました。この時、“ダビデの敵がナバルのようになりましょう”というアビガイルの言葉が成就した瞬間でもありました。ところで、38節を見ますと、ナバルを打ったのは、他でもなく主であると明確に書かれています。ダビデがナバルを打たなかったので、主がナバルを殺されたのです。ナバルはサウルを投影していますから、このことは、同時にサウル王も遠からず神によって討たれることを暗示しているのです。復習は、神のものであることが再度確認されているのです。

結論

私たちは本日の箇所を通してもう一度、神の選びと遺棄の二重予定を確認することが出来るのです。私たちはとかく、愛なる神様が人を遺棄されるはずがないではないか、と考えがちです。確かに神様がご自身の選びと遺棄の聖定に従って、実際に遺棄することは、本来ご自身が喜ぶことではありません。罪自体、善ではないからです。罪が善になるのは、専ら罪がその本性に逆らって、罪にもかかわらず、神のご支配の中で不思議に神の栄光を高めるのに用いられる時であります。29節のアビガイルの言葉に戻りますと、“人が逆らって立ち、お命をねらって追い迫って来ても、お命はあなたの神、主によって命の袋に納められ、敵の命こそ主によって石投げ紐に仕掛けられ、投げ飛ばされることでございましょう。”とありますが、遺棄される者とは、石投げ紐に仕掛けられ、悪の勢力に立ち向かうために投げ飛ばされる石であると語られています。ダビデは石投げ紐で石を投げることによってゴリアトに勝利し、神の栄光を表しました。つまり、捨てられた石さえも神の栄光のために用いられ、間接的に善になるということです。神にとっては、もはや選びと遺棄は、それ自体が最終的な目的なのではなく、神の栄光が崇められるためのただの手段に過ぎないということです。選びも遺棄は平行的に論じられるべきでなく、究極的に神の栄光こそが、万物の最も奥深い目的であり根拠であるということです。遺棄は罪の結果であって、それ自体罪ではありますが、神の栄光のために、間接的には善として用いられるのです。ダビデは、アビガイルを通して復習は神のすることであるということを確認しました。悪に対する審判は神の領域です。これをさらに押し広げるなら、そもそも人間がある人を選びに、ある人を遺棄にと、軽々しく判断することはできないということです。それは、人間には到底理解することの出来ない神様のご支配に関わることであり、私たち人間には隠されていることなのです。私たちはただ、聖霊の保証によって、自分が命の袋に納められていることを信じつつ、神は選びによってご自身の恵みと憐みを現わされ、遺棄によってご自身の義を現わされる、全能の神の御名を高らかにほめたたえていきたいと思います。

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어리석은 자의 현명한 아내

2020년 2월 23일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 25장 1~44절

서론

사무엘상 25장은 24장과는 완전히 반대가 되는 내용입니다. 24장에서 다윗은 인내심과 세심한 주의를 가지고 사울의 악에 대해 선으로 대처했습니다. 그런데 25장에서 다윗은 마음이 흐트러졌는지 아주 하찮은 일로 분통을 터뜨리며 검과 무력에 호소하려 합니다. 그러나 하나님은 아비가일을 통해 하나님의 뜻을 보여 주시고 다윗이 죄를 짓는 것을 막아 지켜주십니다. 그런데 25장 첫머리에는 선지자 사무엘의 죽음이 적혀 있습니다. 하나의 삶이 닫힌다는 것은 역사의 새로운 장이 열리는 것을 의미합니다. 왜 이때 사무엘이 죽었을까요? 사무엘은 사사기 말미에 마지막 사사로 등장했습니다. 사무엘이 맡은 역할은 사사시대부터 왕정시대를 준비하는 역할입니다. 따라서 첫 번째 왕 사울의 왕국은 사람의 생각과 육의 힘에 의해 세워진 나라로서 하나님께 버림받고 두 번째 왕 다윗에 의해 하나님의 나라가 굳건히 될 때까지가 사무엘이 맡은 역할이었다고 할 것입니다. 24장 20절을 보면 사울은 다윗에 대하여 「나는 네가 반드시 왕이 될 것을 알고 이스라엘 나라가 네 손에 견고히 설 것을 아노니」라고 말하고 있습니다. 즉 사울은 곧 도래할 다윗의 신정왕국을 승인했다는 것입니다. 다윗과 사울 양쪽 모두 사무엘의 예언을 받아들인 것입니다. 따라서 사무엘의 역할은 여기까지라는 것입니다. 사무엘은 사명을 다하고 그 생애를 마쳤습니다. 이를 통해 사람의 수명도 모두 하나님의 주권 안에 있다는 것을 우리는 알 수 있는 것입니다.

주제 1 악에 복수하려는 다윗

마온 광야의 갈멜이라는 마을에 양 삼천 마리, 산양 천 마리를 소유한 매우 부유한 나발이라는 사람이 있었습니다. 갈멜이라는 것은 선지자 엘리야가 바알의 숭배자와 대결한 갈멜 산이 아니라 유대 안에 있는 마을입니다. 권말의 4번 지도를 보세요. 사해 왼쪽에 갈멜이라는 마을을 확인할 수 있어요. 나발이라는 이름의 뜻은 「어리석은 사람」이고 3절을 보면 이 남자는 이름 그대로 완고하고 행실이 악했다고 적혀 있습니다. 「어리석음」이라든가 「완고함」이라는 말은 성경 속에서 하나님께 버림 받은 자의 특징으로 들 수 있을 것입니다. 한편 그의 아내 아비가일은 총명하고 아름다운 사람이었습니다. 목축을 하는 사람들에게 양털 깍기는 이른바 추수 축제에 해당하여 성대한 연회가 열리기 일쑤였습니다. 다윗과 그 부하들은 광야에 자주 나타나는 약탈대로부터 나발의 일꾼을 지켜주고 호위 역할을 맡고 있었으므로 이 기쁜 축제의 날에 다윗은 나발에게 열 명의 소년을 보내 다음과 같이 말하게 했습니다. 7,8절을 보세요.

7 네게 양 털 깍는 자들이 있다 함을 이제 내가 들었노라 네 목자들이 우리와 함께 있어으나 우리가 그들을 해하지 아니하였고 그들이 갈멜에 있는 동안에 그들의 것을 하나도 잃지 아니하였나니

8 네 소년들에게 물으면 그들이 네게 말하리라 그런즉 내 소년들이 네게 은혜를 얻게 하라 우리가 좋은 날에 왔은즉 네 손에 있는 대로 네 종들과 네 아들 다윗에게 주기를 원하노라 하더라 하라

열 명의 소년이 전한 이 요구는 “과연 누구 덕분에 오늘 좋은 날을 맞이할 수 있었는지 알겠느냐? 지금까지 잘도 모르는 척했구나”라는 뉘앙스로 듣는다면 뻔뻔스럽게 폭력단이 협박하는 것처럼 들립니다. 오히려 다윗 아래 모여있는 군사는 육백 명이나 되기 때문에 이 육백 명을 부양하기 위해 나발의 집에 큰 사례가 요구되고 있는 것입니다. 나발은 10절에서 「다윗은 누구며 이새의 아들은 누구냐 요즈음에 각기 주인에게서 억지로 떠나는 종이 많도다」라고 사울 왕에게 충성을 표하면서 다윗을 도망친 노예로 모욕하고 있습니다. 게다가 11절에서는 자기 것을 일절 나누어 주는 일은 없을 것이라고 거절하고 있습니다.

내가 어찌 내 떡과 물과 내 양 털 깍는 자를 위하여 잡은 고기를 가져다가 어디서 왔는지도 알지 못하는 자들에게 주겠느냐 한지라

이처럼 나발은 과연 벼락부자처럼 자신의 소유물에 강하게 집착하고 있음을 알 수 있습니다. 나발은 다윗에게 보호를 요청한 것이 아니었기 때문에 보수를 지불해야 할 의무는 물론 없었습니다. 하지만 당시의 정서에 비처볼 때 이런 상황에서 나발이 다윗에게 사례를 하는 것은 당연했습니다. 그것은 16절의 나발의 일꾼의 말에 잘 나타나 있습니다.

우리가 양을 지키는 동안에 그들이 우리와 함께 있어 밤낮 우리에게 담이 되었음이라

하물며 이스라엘 공동체에서는 여행자를 대접하는 것은 도덕적 의무였습니다. 나발의 태도는 너무 냉담했다고 말하지 않을 수 없었습니다. 이 나발의 다윗에 대한 완강한 거절은 사울의 다윗에 대한 거절을 방불케 하는 것 같았습니다. 다윗은 소년들의 보고를 듣자마자 「너희는 각기 칼을 차라」하고 사백 명 가량은 데리고 올라가고 이백 명은 소유물 곁에 있게 했습니다. 다윗은 21,22절에서 다음과 같이 맹세하고 있습니다.

21 다윗이 이미 말하기를 내가 이 자의 소유물을 광야에서 지켜 그 모든 것을 하나도 손실이 없게 한 것이 진실로 허사라 그가 악으로 나의 선을 갚는도다

22 내가 그에게 속한 모든 남자 가운데 한 사람이라도 아침까지 남겨 두면 하나님은 다윗에게 벌을 내리시고 또 내리시기를 원하노라 하였더라

지금까지 다윗은 검에 의존한 적이 없었기 때문에 다윗의 이런 태도는 본래의 다윗답지 못한 태도라고 할 수 있을 것입니다. 골리앗과 싸울 때 다윗은 「여호와의 구원하심이 칼과 창에 있지 아니함을 이 무리에게 알게 하리라 전쟁은 여호와께 속한 것인즉」이라고 당당하게 외쳤습니다. 또한 24장에서 다윗은 사울을 칼로 목숨을 빼앗지 않고 사울의 겉옷 자락을 자른 것조차 죄책감을 느끼며 사울의 악에 대해 선으로 대처했습니다. 그럼에도 불구하고 오늘은 하찮은 일로 발끈하여 나발의 악에 대해 복수하려고 칼을 차고 있습니다.

주제 2 아비가일의 예언적 경고

아비가일은 일의 전말을 알자 즉각 행동에 나섰습니다. 많은 예물을 나귀에 싣고 다윗과 그의 사람들에게 가져 가기 위해 산 호젓한 곳을 따라 내려가더니 다윗과 그의 사람들이 자기에게로 마주 내려오는 것을 만나게 됩니다. 그러자 다윗을 보고 급히 나귀에서 내려 그 앞에 엎드려 얼굴을 땅에 대 절을 하고 「내 주여」라는 말을 쓰며 모든 것을 자신의 불찰로 돌리고 있습니다. 그녀의 현명한 말을 통해 다윗의 불타오르는 분노가 완전히 가라앉게 되는데, 그것은 아비가일의 믿음 고백이라고도 할 수 있는, 그녀의 말 속에 담긴 하나님으로부터의 지혜를 다윗이 인정했기 때문입니다. 그 내용을 살펴보도록 하겠습니다. 24~28절을 보시죠.

24 그가 다윗의 발에 엎드려 이르되 내 주여 원하건대 이 죄악을 나 곧 내게로 돌리시고 여종에게 주의 귀에 말하게 하시고 이 여종의 말을 들으소서

25 원하옵나니 내 주는 이 불량한 사람 나발을 개의치 마옵소서 그의 이름이 그에게 적당하니 그의 이름이 나발이라 그는 미련한 자니이다 여종은 내 주께서 보내신 소년들을 보지 못하였나이다

26 내 주여 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하노니 내 주도 살아 계시거니와 내 주의 손으로 피를 흘려 친히 보복하시는 일을 여호와께서 막으셨으니 내 주의 원수들과 내 주를 해하려 하는 자들은 나발과 같이 되기를 원하나이다

27 여종이 내 주께 가져온 이 예물을 내 주를 따르는 이 소년들에게 주게 하시고

28 주의 여종의 허물을 용서하여 주옵소서 여호와께서 반드시 내 주를 위하여 든든한 집을 세우시리니 이는 내 주께서 여호와의 싸움을 싸우심이요 내 주의 일생에 내 주에게서 악한 일을 찾을 수 없음이니이다

아비가일의 말을 살펴보면 예언적인 기이한 말이 나오는데 첫째, 「내 주를 해하려는 자들은 나발과 같이 되기를 원하나이다」라는 말입니다. 이 말은 실제로 나발이 죽고 나서, 즉 38절 이후에 나오는 것이 상응하는 말이지만 아비가일은 믿음에 따라 하나님의 섭리를 예견하고 말하는 것 같습니다. 둘째, 곧 도래할 다윗의 왕국에 대해 사울이 24장에서 승인 한 것 이상으로 확실히 고백하고 있다는 점입니다. 그녀는 「여호와께서 반드시 내 주를 위하여 든든한 집을 세우시리니」라고 말하고 있는데 이 고백은 바로 선지자 나단을 통해 말씀하신 예언과 같으며, 더 나아가 예수 그리스도에 의해 초래되는 하나님의 나라를 가리키고 있습니다. 그렇기 때문에 다윗은 의로운 왕으로 서야 하는 것입니다. 사무엘하 7장 16절을 보시죠.

네 집과 네 나라가 내 앞에서 영원히 보전되고 네 왕위가 영원히 견고하리라 하셨다 하라

아비가일이 도대체 어떻게 이 정도의 확신을 가졌는가 하고 우리는 놀랍니다. 분명히 성령에 의한 고백이라고 인정하지 않을 수 없습니다. 계속해서 29~31절을 보시기 바랍니다.

29 사람이 일어나서 내 주를 쫓아 내 주의 생명을 찾을지라도 내 주의 생명은 내 주의 하나님 여호와와 함께 생명 싸개 속에 싸였을 것이요 내 주의 원수들의 생명은 물매로 던지듯 여호와께서 그것을 던지시리이다

30 여호와께서 내 주에 대하여 하신 말씀대로 모든 선을 내 주에게 행하사 내 주를 이스라엘의 지도자로 세우실 때에

31 내 주께서 무죄한 피를 흘리셨다든지 내 주께서 친히 보복하셨다든지 함으로 말미암아 슬퍼하실 것도 없고 내 주의 마음에 걸리는 것도 없으시리니 다만 여호와께서 내 주를 후대하실 때에 원하건대 내 주의 여종을 생각하소서 하니라

「생명 싸개」라는 것은 아마도 양치기가 가지고 있던 주머니 같은 것으로, 그들은 자신의 양을 세기 위해 그 주머니 안에 작을 돌을 하나씩 넣으면서 양의 수를 세었습니다. 즉 주머니 속의 돌의 수가 양의 수였습니다. 다윗은 생명 싸게 속에서 하나님께 세어져 있다는 것입니다. 우리 그리스도인도 영원히 이 「생명 싸개」안에 세어져 있는 것입니다. 아비가일은 다윗에게 목숨이 싸여져 있고, 그 왕좌는 반드시 올 것이며, 신성한 약속은 모두 성취될 것이라는 전제를 기반으로 위대한 왕이 이런 하찮은 복수로 인해 마음에 걸릴 흔적을 남길 필요가 없다고 설득하고 있는 것입니다. 다윗의 나라는 하나님이 주시는 신정국가로 그것은 전적으로 하나님의 은혜에 의해 세워져야 하며, 결코 권력에 의해, 무력에 의해, 혹은 피를 흘림으로써, 인간의 육의 생각에 의해 세워져서는 안 된다고 주장하고 있는 것입니다. 아마도 다윗은 아비가일의 목소리를 통해 선지자의 목소리를 들은 것처럼 느꼈을 것입니다. 다윗은 아비가일로부터 예물을 받고 자신의 손으로 복수을 하는 것을 단념했습니다. 복수는 하나님께서 하시는 것이며 다윗은 자신의 사명으로 돌아갈 수 있었던 것입니다.

주제 3 나발을 치시는 하나님

아비가일이 집으로 돌아오자 나발은 왕의 잔치와 같은 잔치를 그의 집에 배설하고 크게 취해 있었습니다. 다음날 나발의 술이 깨자 아비가일은 지금까지의 일을 나발에게 말했습니다. 그러자 나발은 낙담하여 몸이 돌처럼 되어 한 열흘 후에 죽고 말았습니다. 이때 「내 주를 해하려 하는 자들은 나발과 같이 되기를 원하나이다」라는 아비가일의 말이 성취된 순간이기도 했습니다. 그런데 38절을 보면 나발을 친 것은 다름이 아니라 여호와라고 명확하게 적혀 있습니다. 다윗이 나발을 치지 않자 주께서 나발을 죽이신 것입니다. 나발은 사울을 투영하고 있기 때문에, 이 일은 동시에 사울 왕도 멀지않아 하나님에 의해 복수될 것임을 암시하고 있는 것입니다. 복수는 하나님의 것임이 다시 확인되고 있는 것입니다.

결론

우리는 오늘의 본문을 통해 다시 한번 하나님의 선택과 유기의 이중 예정을 확인할 수 있습니다. 우리는 자칫, 사랑의 하나님이 사람을 유기하실리는 없지 않나라고 생각하기 쉽습니다. 확실이 하나님이 자신의 선택과 유기의 성정(聖定)에 따라 실제로 유기하는 것은 본래 하나님이 기뻐하시는 일이 아닙니다. 죄 자체가 선이 아니기 때문입니다. 죄가 선이 되는 것은 죄가 그 본성(하나님의 영광과 계시를 감추려고 하는 본성)을 거스르고, 죄임에도 불구하고 오로지 하나님의 통치 가운데 기이하게 하나님의 영광을 높이는 데 이용될 때입니다. 29절 아비가일의 말로 돌아가자면 「사람이 일어나서 내 주를 쫓아 내 주의 생명을 찾을지라도 내 주의 생명은 내 주의 하나님 여호와와 함께 생명 싸개 속에 싸였을 것이요 내 주의 원수들의 생명은 물매로 던지듯 여호와께서 그것을 던지시리이다」라고 되어 있습니다만, 유기되는 자란 물매 줄에 장치되어 악의 세력에 맞서기 위해 던져지는 돌이라 말해지고 있습니다. 다윗은 물매로 돌을 던짐으로써 골리앗에게 승리하고 하나님의 영광을 나타내었습니다. 즉 버려진 돌조차도 하나님의 영광을 위해 사용되고 간접적으로 선이 된다는 것입니다. 하나님께 있어서는 이제 선택과 유기는, 그 자체가 최종적인 목적이 아니라 하나님의 영광이 높여지기 위한 단지 수단에 불과하다는 것입니다. 선택도 유기도 평행적으로 논할 것이 아니라 궁극적으로 하나님의 영광이야말로, 만물의 가장 심오한 목적이자 근거라는 것입니다. 유기는 죄의 결과이며, 그 자체로 죄이기는 하지만 하나님의 영광을 위해, 간접적으로는 선으로 이용되는 것입니다. 다윗은 아비가일을 통해 복수는 하나님이 하시는 일임을 확인했습니다. 악에 대한 심판은 하나님의 영역입니다. 이를 더 밀어 붙인다면 애초에 인간이 어떤 사람은 선택 받았고, 어떤 사람을 유기 되었다고 가볍게 판단할 수 없다는 것입니다. 그것은 인간에게는 도저히 이해할 수 없는 하나님의 통치와 관련된 일이며 우리 인간에게는 숨겨져 있는 일입니다. 우리는 다만 성령의 보증에 따라 자신이 「생명 싸개」에 싸여 있음을 믿으면서, 하나님은 선택에 따라 자신의 은혜와 긍휼하심을 나타내시고 유기에 의해 자신의 의로움을 나타내시는, 그런 전능하신 하나님의 이름을 높이 칭송하고 싶습니다.

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