2018年12月02日「隅のかしら石になったキリスト」

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隅のかしら石になったキリスト

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章33節~46節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21:34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21:35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21:36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21:37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21:38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21:39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21:40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21:41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21:42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21:43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
21:44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
21:45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、
21:46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章33節~46節

原稿のアイコン日本語メッセージ

33節冒頭には、「もう一つのたとえを聞きなさい」とありますように、キリストとの論争において、二番目のテーマに入って行きます。今回も、イエスさまはいつものように比喩を用いられますが、本日の比喩の中には神学的にも大変重要な内容が二つ含まれています。第一点目として、先週、祭司長や長老たちから「何の権威によって、このようなことをしているのか」と質問されましたが、その答えを本日のたとえの中から見ることが出来るのです。つまりその権威とは「神の独り子」としての権威であるこということです。譬えではありますが、イエスさまの口から初めて、直接「神の子」としてのご自身の身分を公に証しされた場面であると言えるでしょう。この言葉によって、二日後に、祭司長や律法学者に捉えられ、夜中にサンヘドリンの裁判を受けるのですが、その席で大祭司から「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」と(26:63)、問い詰められることになるのです。たとえを通して第二点目として重大なことが明かされるのですが、それはイスラエルから、神の国は奪い取られ、新たに、神の国の実を結ぶ民族、つまり「教会」に移転されるという衝撃的な預言です。因みに、この預言の成就として、私たち教会の存在自体が挙げられますが、決定的な事件としては、AD70年の「ユダヤ戦争」におけるエルサレム陥落が挙げられます。この戦争によってエルサレムの神殿はローマ軍に完膚なきまでに滅ぼされ、ユダヤの宗教指導者たちである祭司長たちファリサイ人のほとんどが殺されるという惨劇が起こりました。この目に見える出来事は、まさに、頑ななイスラエルに下った神の裁きであり「神の国が奪い取られる」という預言の成就と見ることができるのです。

それでは早速、イエスさまの譬えを具体的に見て参りましょう。登場人物として、①家の主人と、②ぶどう園の小作人である農夫たちと、③主人から派遣される僕たち、④そして最後に息子が派遣されます。家の主人とは、父なる神であり、ぶどう園とは神の民です。農夫たちとは、祭司や長老たち、つまりユダヤの宗教指導者を意味します。彼らは神の民である教会を建て上げるために神から任命されたものでした。僕たちとは預言者たちであり、息子とはイエスさまです。33節をご覧ください。

“もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。”

家の主人は、“垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて”、念入りにぶどう園を造っています。これらのことは全てぶどうが良く成長し、よい実が結ばれるように願いを込めながら、用意周到に造っているのでしょう。これを当時のイスラエルの民に当てはめるなら、彼らの信仰が支えられ、実を結ぶように、律法の教えによって信仰を補強され、或いは、祭事とその他の儀式のような補助手段を通して秩序を与え、用意周到に整えたということです。主人は美しいぶどう園を思い描いていました。その上で、祭司を任命し、彼らを「管理人」、「小作農」としてお立てになりました。万が一この管理人が怠惰になったり、任された任務をおろそかにしたりしても、特に僕として、預言者が遣わされて、この預言者がぶどう園から雑草を抜いたり、選定作業をすることによって管理人である祭司の弱点を補完しようと考えていました。しかし主人の思惑通りには行きませんでした。34-37節をご覧ください。

“さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』”

祭司たちは神から派遣された預言者たちに耳を貸さず、彼らを捕まえ、一人は袋叩きにし、一人は殺し、一人は石打にしました。さらに多くの預言者を遣わしましたが、同じことを繰り返しました。ここには父なる神の怒るのに遅く、神の忍耐強さと慈しみ深さが表されています。何人もの僕を派遣されるのです。それと同時に、この農夫たちの恐ろしい罪状を鏡に映し出すようにして彼ら自身に見せることによって、神にとことんまで反逆しようとする彼らの悪魔的で狂気じみた姿を立証しているのです。最後に、主人の息子が送られた時に、農夫たちは“これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。”と言いました。父なる神様から息子に全権が委ねられていたことを知っていたので、この息子を殺し、この息子にすり替わって、ぶどう園を盗み取り、ぶどう園の実質的な所有者になろうと考えたのです。ここで一点、断っておきたいのですが、この比喩においてすべてが、実相と完全にマッチしているとは限らないと言うことです。例えば、全知全能の神様が、多分、自分の息子ならもう少し敬ってくれるのではないかと推測したけれども、その推測が外れてしまったというようなことは全知全能の神においてあり得ないことです。ですから比喩の中で人間的な考えを神さまに適用しているに過ぎないということを押さえておいてください。また、農夫たちの態度においても同じことが言えます。ユダヤの宗教指導者たちは、実際にはまだイエスさまについて、神の子、メシアであるという確信はありませんでしたし、父なる神が御子に全権をゆだねているということなど知る由もありませんでした。ですから実際の状況とは完全にマッチしてはおらず比喩の相対関係は壊れていると言うこともできます。ただこの点については、悪魔が祭司たちを通して自分の野望を成し遂げようとしているという意味において、つまり、もっと深い霊的な意味において、このたとえはむしろ実相とマッチしていると言えるのです。続いて39節をご覧ください。

“そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。”

この箇所をよく見ますと、最初に放り出され、次に殺されたとあります。イエスさまは、神殿から外に放り出され、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられることの描写であると考えられます。当時、極悪人の死刑は宿営の外で、つまりゴルゴタで(直訳すれば、がい骨の丘、されこうべの丘で)なされなければならなかったからです。この譬えを話し終えた後、イエスさまは祭司長や長老たちに質問しました。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」彼らは“その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。”と言いました。つまり、自らの口によって自分たちを罪に定めているのです。祭司長や長老たちに下されるであろう神の審判は、尤もなことであると、自分自身を告発しているのです。これを受けてイエスさまは、詩編118編22-23節のみ言葉を引用されるのですが、「息子」と言う言葉と「石」と言う言葉のダジャレから話を進めていきます。「息子」とはヘブライ語でベンですが、余談ですが「ベン・ハー」という映画がありすね。あれは、「ハー」、つまり「フル」の息子という意味です。映画の中で主人公は「ジュダ」と名乗っていましたので、「フルの息子、ユダの物語」ということです。「ベン」とは息子という意味ですね。

石はヘブル語で「エベン」です。最初の譬えでは息子「ベン」が捨てられる話ですが、次の譬えは石である「エベン」が捨てられる話です。息子も石も、ベンもエベンも、イエスさまのことを指しています。42-44節をご覧ください。

“イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者(小作農の農夫たち)の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族(教会)に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」”

そもそも詩編118編がどのような状況で歌われたのかと言うと、本来、敵が勝利を得たと思われるような状況からイスラエルが救い出されることを述べた詩です。つまり、恵みによりダビデの王権が永遠に存続するのであって、万が一それが崩れるときがあっても不思議な神の介入によって、再び以前の状態に回復されるという喜びの詩編です。神はダビデという人物を影として、どのような国をお建てになろうとしているのか、私たちは注目しなければなりません。つまり真のメシアを通して建てられる神の国とはとこしえのキリストの王権を持った国であり、その国はどんなものにも動かされることのない、堅固で不動な国なのです。この石は信じる者にとっては隅の親石であり、なくてはならない要石、礎の石になります。建築をする時には、がっちりとした基礎が最も重要になりますね。私たちはイエスさまという基礎の上に、一体となり神の宮として建て上げられていくのです。この親石は人間によって慎重に選び抜かれた石ではなく、隠された神のご計画と不思議な神の力によって現されるという意味です。つまり、建物の責任を請け負っているユダヤの宗教指導者たちの反対と敵対心に遭いながらも、不思議な方法によって神の民の親石になるということです。一方で、この石は信じない者にとっては「躓きの石」、「恐ろしい裁きの石」になります。1ペトロ2:6-8をご覧ください。

“聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。”

イスラエルの民は自分たちが選民であることに自負し、契約の民としての特権を、あたかも相続権のように考えて、その上にあぐらをかいていた所、神は彼らの特権を取り除き、これを他の者に譲渡されるということです。ですから、もし私たちが真の敬虔の中にしっかり根を下ろし、神の国の実を結ぶことがないのなら、神は自然に生えた枝を容赦なく取り除かれたように、恐らく接ぎ木された枝に対しても容赦することはないでしょう。神の福音が宣べ伝えられるのは、御言葉を聞いた民がそれをそのまま用いないで、ただ寝かせておくためではなく、福音を受け入れた人々に実を結ばせようとする意図があるのです。ここから、私たちは慌てふためいて「聖徒の堅忍の教理」は、一体どうなったんだ!と抗議するかもしれません。私たちは、ここで、聖徒の堅忍の教理に目を向けるのではなく、むしろ不敬虔な者によって、キリストの御名が撤廃させられるようになったり、真の信仰を破壊させられるようなことが起こっても、そのような謀は決して成し遂げられないということに慰めを得るべきです。というのは、手と足が頭に向かって反逆し、小作人が地主に向かって反逆し、臣下が彼らの王に向かって反逆し、建築者たちが、建物の基礎を捨ててしまう、この世は、まさに気違いじみた世であり、世も末であるのです。しかし、キリストを排斥しようとする人々のたくらみと野望がどれだけ強力で激しかったとしても、神は必ずキリストの国をお建てになられ、御自身の勝利を証ししてくださるのです。彼らが飛びかかった石が、かえって彼ら自身をたたき壊してしまうということは、思いもよらない結末にちがいありません。キリストに激しく敵対し、罪から頑なに離れることがないなら、自分たちの行った攻撃によって、逆に自らに裁きを招き、破滅を招くのです。祭司長たちはやファリサイ派の人々は、ようやく自分たちについて言われていると気づき、殺意を抱いて、イエスさまを捉えようとしましたが、群衆を恐れて実行することは出来ませんでした。ここにおいても、私たちは同じく神の守りを見ることができるのです。どれほど敵対者が激しくとも、神の教会は神の守りの中にあるのです。それまで「異邦人の光」としてのイスラエルの選民としての地位は、私たち教会にとって代えられました。それは私たちが隅の親石にしっかりとがっちりと組み込まれた神の宮の中で実を結ぶためであります。互いに仕えあい、互い赦し合い、ガラテヤ書5:22に書かれている聖霊の9つの実、すなわち、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制の実を結んでいけるよう実践してまいりましょう。

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