2020年02月16日「エンゲディのオアシスでの出来事 오아시스 엔게디에서 일어난 일」

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エンゲディのオアシスでの出来事 오아시스 엔게디에서 일어난 일

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 24章1節~23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

24:1ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害にとどまった。
24:2ペリシテ人を追い払って帰還したサウルに、「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があった。
24:3サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった。
24:4途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。
24:5ダビデの兵は言った。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。
24:6しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、
24:7兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
24:8ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。
24:9ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、
24:10サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。
24:11今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。
24:12わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。
24:13主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。
24:14古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。
24:15イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。
24:16主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
24:17ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、
24:18ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。
24:19お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。
24:20自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。
24:21今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。
24:22主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と。」
24:23ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 24章1節~23節

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序論

サウルと逃亡者ダビデの関係は、これまでサウルが強力で攻撃的な狩猟家として描かれており、ダビデは常に追われる者であり弱い者として描かれてきました。ところが本日の24章においては、ひょんなことを通して、サウルは弱体化され、ダビデは強力になり、状況が完全に逆転してしまいます。ダビデはサウルの口を通して、自分自身が「無実」であり、「義」であることを認めてもらい、さらに、やがて到来する王国についての「承認と約束」まで受け取ることになります。この事件をきっかけに、24章以降は、ダビデは、もはやこれ以上自分の命の保護にだけ、余念のない者として描かれるのではなく、寛容な人物であり、敵を含め、他の人々の命を保護する者へと描かれ、真の王として変貌していくのです。本日の出来事を通して私たちは主の御前に、徹底して従順に歩むダビデと、そしてその信仰の従順を支えるように、神が上から恵みをもってダビデを祝福していることに目を向けていきたいと思います。

主題1 エンゲディでの出来事

ペリシテ人との戦いを終えたサウルは、再びダビデを狩猟するために出て来ました。「ダビデがエンゲディの荒れ野にいる」という報告を受けると3,000人のえりすぐりの精鋭部隊を率いてエンゲディにやって来ました。ダビデと彼の部下は600人でしたから、5倍に当たる兵力です。今度こそは逃さないぞというサウルの意気込みを見てとることが出来ます。ところで、エンゲディとは「野ヤギの泉」という意味で、現在でもこの場所は、木々が茂り、野生の鹿が集まってくるオアシスとして知られています。崖の上に川が流れている訳ではありませんが、断層の岩盤から地下水が、小さな滝のように吹き出し、泉を形成しています。また、近くには洞窟がたくさんありまして、羊飼いたちは、家畜を避難させるための檻として、その洞窟を用いていました。サウルはエンゲディにある「野ヤギの岩」にさしかかった時に、大便を催したために、ちょうど近くにあった洞窟で用を足そうと一人で洞窟の中に入って行きました。ところが、こともあろうにその洞窟の奥に、ダビデと部下たちが隠れ潜んでいたのです。この瞬間に、これまでのサウルの立場とダビデの立場が全く逆転したのでありました。サウルが用を足している間に、洞窟の闇の中では息の詰まった対話が進行していました。ダビデの部下たちは、“主があなたに、『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは思いのままにするがよい』と言われたのは、この時のことではありませんか。”と、興奮した声でダビデに語りかけました。もちろん聖書には、そのような預言はどこにも記録されておりませんが、おそらくこの時、部下たちのほとんどが心の底からにじみ出る感謝と讃美をヤハウェなる神様に捧げたのでしょう。今ここでサウルを殺せば、自分たちの荒れ野の生活も終わります。その上、当時の古代近東の情緒的感覚によれば、他でもなく、戦場においてこのような形でチャンスを迎えることは、神がサウル王を確かにダビデの手に引き渡されたということを意味していました。部下たちの期待を一身に背負い、ダビデは立って王に近づき、王のすぐ近くで剣を用いて、上着の端だけを切り取りました。見事に部下たちの予想が裏切られたのです。

主題2 ダビデの潔白の主張

この絶好の機会を逃すとは何ということでしょうか。しかしダビデの論理は単純でした。「主が油注がれた方に対し手にかけてはならない」ということです。ダビデは、サウルの背後に確かに主なる神様を認めていました。ここにダビデの信仰が現れています。ダビデは後で、その上着の端を切り取ったことさえも後悔していますが、なぜなら、上着の端を切り取ることも、油注がれた王の人格の不可侵性に触れる行為であり、断じて許されるものではないという認識したからです。ダビデは部下たちを説得し、油注がれた方を襲うことが決してないように戒めました。サウルが洞窟を出ると、ダビデは背後から、「わが主君、王よ」と声を掛けました。サウルが振り返ると、ダビデは顔を地面に伏して、恭しい態度で礼をしました。ヨナタンが弓を引いた後、二人の間の契約を確認した時に取った、20:41に書かれているように地にひれ伏して三度礼をした、あの態度と同じです。続いてサウル王に対し、演説を始めます。その演説の内容とは、今日、主がサウルを自分の手に渡されたこと、それにも拘わらすサウルをかばったということによって、第一にサウルに対して決して謀反をたくらんだり、背いたりしたことがないという自分の潔白さと、そして、第二に主が油注がれた方に対する変わらない服従をどうか認めてほしいという内容です。サウルは既にダビデを王国の反逆者として決定していますが、一体何を根拠にして、そのように決定するのでしょうか。ダビデはあたかも法廷において証言するかのように、一つ一つ証拠を挙げながら、それを吟味するように求めます。10~14節を御覧ください。

“サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。”

ダビデは、もし、自分が悪ければ、もし自分が有罪であれば、それにふさわしい悪の結実があるはずだと主張します。一方、サウルは、ダビデから悪の証拠を一切引き出すことはできません。ダビデはまるで、主の御前に全てのことをつまびらかにして、義の光で照らされるようにしています。この光の中でサウルは全く反論することが出来ないのです。15~16節を御覧ください。

“イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」”

これ以上サウルがダビデの追跡を続けることは、何の意味もなく、それは、死んだ犬、一匹の蚤を追うようなものであって、王の品格に関わる問題であると主張します。この状況において、サウルをはじめ、ダビデの演説を聞く者は全員、ダビデの完全な無実を確信するようにさせられたのです。

主題3 サウルの認定

サウルはダビデに答えなければなりません。サウルが「わが子、ダビデよ」という言葉を発した時、感情が込み上げて、こらえきれず声を上げて泣いてしまいました。実はサウルがダビデを名前で呼ぶのは、この時が初めてです。普段は相手を蔑む意味で「エッサイの子」と呼んでいました。サウルは、これまで避けてきた真実に向き合わなければならなかったために、泣くしかありませんでした。これまで、ひたすら自分が演じてきた姿が、見事に失敗に終わってしまったのです。誠実であり、力強く、正しくさえあろうと繕ってきた姿は、そのメッキがはがれてしまい、自分が理想としていた者ではついにあり得なかったことが明らかにされ、虚しさと、悲哀さのために、泣くしかなかったのです。17~20節を御覧ください。

“ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。”

サウルは弱々しく語り始めました。あたかも老衰して、盲目となり、わが子を見分けられなかったイサクのように語り始めました。サウルは、もはやこの勝ち目のない法廷から、とにかく逃れることだけを望みました。完全にしっぽを下し、これ以上論争を続けることはできません。全面的にダビデの主張を受け入れ、「ダビデの無実」、「ダビデの義」、そして「自分が悪であったこと」を受け入れました。この後さらに、重要な言葉を発します。それは何かといえば、23章でヨナタンがダビデに保証として与えてくれた言葉が、今サウルの口を通して実際に承認され、本人の口から約束として与えられるのです。21~22節を御覧ください。

“今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と。」”

サウルは、これまでダビデの王位を頑なに否定してまいりました。サウルはすでに自分から王位が失われていることを知ってはいましたが、依然として権力を持っていたからです。しかし今や、まもなく到来するダビデの王国を止められないことをはっきりと悟り、次期王に対して、自分の子孫を断つことがないようにと懇願しているのです。結果的にダビデは法廷において勝利しただけではなく、ダビデが求めたより多くのものを、主の御前で勝ち取ったのです。というのは、当初、ダビデは自分の無実を主張し、反逆者としての汚名を返上し、サウルの追跡を終わらせることだけを求めていました。決してサウルに王冠を求めたわけではなかったし、サウルに退位せよとか、サウルの後継者として自分を指名せよ、などとは要求しなかったのです。ダビデは、自らイスラエルの王になろうと野望を持ったことは一度もありませんでした。ところが、サウルから無実を認められ、義とされるだけではなく、上からの賜物として王位まで承認され、約束されたのです。ここにおいて私たちは神の摂理と支配をはっきりと確信することができるのです。驚かないではいられません。神の摂理の中で、盲目のイサクを通して、イサクの意向とは関係なく、ヤコブに祝福が注がれたように、盲目のサウルを通して、ヨナタンに継承させたいというサウルの意向とは関係なく、ダビデが王位継承者として承認され約束されたのです。因みにサウルがダビデの名前で呼んだのはこの時が初めてであると言いましたが、ダビデという名前の意味は「愛すべき者」という意味です。ですから、あたかも御父が御子に、「これは、私の愛する息子」と宣言し、御父が王国の一切の権威を御子に授けるように、サウルはダビデに王国を引き渡しているのです。やがて、きたるべき時に、ダビデはサウルからイスラエルの王位を継承することになるでしょう。そしてきたるべき時に、ダビデは王国の反逆者としてではなく、また、血を流して武力によってサウルから王位を簒奪した者でもなく、上から賜った王位であることを証明したのです。ダビデは、神に遺棄されているサウルに対して最後まで従順であることを通して、神さまに従順だったのです。ダビデが従順によって上から一切の権威を賜ったことは、まさにイエス・キリストの従順のご生涯の予表でありました。ピリピ2:7~9を御覧ください。

“かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。”

結論

サウルの歩みと、ダビデの歩みにおいて決定的に異なる点は、神を畏れ、神の御前で歩む人生であるのか、或いは人を畏れ、人目を気にする人生であるかということでしょう。神の御前で歩もうとする人は、万物の王であられる神さまに仕え、神さまの法に従順な人生であります。それは必然的にプロセスを重視する人生となり、全ての結果を神さまの主権と摂理に委ねるようになります。ダビデがもし逃亡生活に終止符を打とうとして、「安息」という結果だけを望むなら、サウルを殺害することもできましたが、そうはしませんでした。その代わりに上からの賜物としてサウルから王位を譲り受けることになったのです。一方、人目を気にする人生とは、神に声に耳を傾けることをせず、民に声に左右され、自分の満足する結果さえ手に入れられるならプロセスなんかどうでもいいと考えます。そして自分の運命を自分で切り開こうと考え、神の座に自分が坐り、そこには信仰は見られないのです。私たちキリスト者は、ダビデのように、結果よりプロセスを重視する者です。聖霊に助けられて、どんな時にも神の御前で歩ませていただき、神を仰ぎながら上からの報いを待ち望む者とさせていただきましょう。神はダビデに対し不思議なご計画を持っておられたように、私たちに一人一人に対しても、特別なご計画を持っておられるからです。

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오아시스 엔게디에서 일어난 일

2020년 2월 16일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 24장 1~23절

서론

사울과 도망자 다윗의 관계는 그동안 사울이 강력하고 공격적인 사냥가로 그려졌고, 다윗은 항상 쫓기는 자이자 약한 자로 그려졌습니다. 그런데 오늘 24장에서는 엉뚱한 일을 통해 사울은 약체화되고 다윗은 강력해져 상황이 완전히 역전되고 맙니다. 다윗은 사울의 입을 통해 자기 자신의 「무고함」과 「의로움」을 인정받고, 심지어 곧 도래할 왕국에 대한 「승인과 약속」까지 받게 됩니다. 이 사건을 계기로 24장 이후로 다윗은 이제 더 이상 자신의 생명을 보호하는 데만 여념이 없는 자로 그려지는 것이 아니라 관용적인 인물이자 적을 포함해 다른 사람들의 생명을 보호하는 자로 그려지며 진정한 왕으로 변모해 가는 것입니다. 오늘의 일들을 통해 우리는 주님 앞에 철저하게 순종하는 다윗과 그리고 그 믿음의 순종을 뒷받침 하듯이 하나님이 위로부터 은혜로 다윗에게 복을 내리고 계심에 눈을 돌리고자 합니다.

주제 1 엔게디에서 일어난 일

블레셋인과의 싸움을 끝낸 사울은 다시 다윗을 사냥하기 위해 나섰습니다. 「다윗이 엔겐디 광야에 있더이다」하는 보고를 받자 온 이스라엘에서 택한 사람 삼천 명을 거느리고 엔게디로 찾아왔습니다. 다윗과 그의 부하는 육백 명이었으니 다섯 배에 해당하는 병력입니다. 이번에야말로 놓치지 않겠다는 사울의 각오를 볼 수 있습니다. 그런데 엔게디란 「새끼 염소의 샘」이라는 뜻으로 지금도 이곳은 나무들이 우거지고 야생 사슴들이 모여드는 오아시스로 알려져 있습니다. 단층의 암반에서 지하수가 작은 폭포처럼 뿜어져 나와 샘을 형성하고 있습니다. 또 근처에는 동굴이 많아서 목자들은 가축을 대피시키기 위한 우리로 그 동굴을 이용했습니다. 사울은 엔게디에 있는 「길 가 양의 우리」에 이르자 뒤를 보기 위해 혼자 동굴 안으로 들어갔습니다. 그런데 하필이면 그 동굴 안쪽에 다윗과 부하들이 숨어 있었습니다. 이 순간에 그동안 사울의 입장과 다윗의 입장이 완전히 역전된 것이었습니다. 사울이 뒤를 보는 동안 동굴의 어둠 속에서는 숨 막히는 대화가 진행되고 있었습니다. 부하들은 「보소서 여호와께서 당신에게 이르시기를 내가 원수를 네 손에 넘기리니 네 생각에 좋은 대로 그에게 행하라 하시더니 이것이 그 날이니이다」라고 흥분한 목소리로 다윗에게 말했습니다. 물론 성경에는 그런 예언이 어디에도 기록되어 있지 않지만 아마 이때 부하들 대부분이 마음속 깊이 묻어나는 감사와 찬양을 여호와 하나님께 드렸을 것입니다. 지금 여기서 사울을 죽이면 자신들의 광야 생활도 끝납니다. 게다가 당시 고대 근동의 정서적 감각에 따르면 다름 아닌 전쟁터에서 이런 식으로 기회를 맞이하는 것은 하나님이 사울 왕을 확실히 다윗의 손에 넘기셨다는 것을 의미했습니다. 부하들의 기대를 한 몸에 업고 다윗은 일어서 왕에게 다가가 왕 바로 가까이에서 검을 이용해 겉옷 자락을 가만히 베었습니다. 보기좋게 부하들의 예상이 빗나간 것입니다.

주제 2 다윗의 결백 주장

이 절호의 기회를 놓치다니 무슨 일인가요? 하지만 다윗의 논리는 단순했어요. 「내가 손을 들어 여호와의 기름 부음을 받은 내 주를 치는 것은 여호와께서 금하시는 것」이라는 것입니다. 다윗은 사울의 배후에 분명히 주 하나님이 계신 걸 인정했습니다. 여기에 다윗의 믿음이 나타나 있습니다. 다윗은 나중에는 그 겉옷 자락을 잘라낸 것조차 후회하고 있는데, 왜냐하면 겉옷 자락을 잘라내는 것도 왕의 인격의 불가침성을 건드리는 행위이기에 결코 용서받을 수 없다는 것을 인식했기 때문입니다. 다윗은 부하들을 설득해 기름 부음 받은 자를 덮치는 일이 결코 없도록 훈계했습니다. 사울이 동굴을 나서자 다윗은 등 뒤에서 「내 주 왕이여」라고 말했습니다. 사울이 돌아보니 다윗은 얼굴을 땅에 엎드려 공손한 태도로 절을 했습니다. 요나단이 활을 당긴 후 둘 사이의 언약을 확인했을 때 취한 20장 41절에 적혀 있는 것처럼 땅에 엎드려 세 번 절을 한 그 태도와 같습니다. 이어서 사울 왕에게 호소를 시작했습니다. 그 호소의 내용이란 오늘 주님이 사울을 자신의 손에 넘겨 주신 것, 그럼에도 불구하고 사울을 보호한 것으로 인해 첫째, 사울에 대해 결코 모반을 꾀하거나 등을 돌린 일이 없다는 자신의 결백함과 그리고 두번 째로는 주님의 기름 부음을 받은 자에 대한 변함없는 복종을 아무쪼록 인정해 달라고 하는 내용입니다. 사울은 이미 다윗을 왕국의 반역자로 결정했는데 도대체 무엇을 근거로 그렇게 결정하는 걸까요? 다윗은 마치 법정에서 증언하듯 하나하나 증거를 들며 그것을 음미하라고 요구합니다. 9~13절을 봐 주세요.

9 다윗이 사울에게 이르되 보소서 다윗이 왕을 해하려 한다고 하는 사람들의 말을 왕은 어찌하여 들으시나이까

10 오늘 여호와께서 굴에서 왕을 내 손에 넘기신 것을 왕이 아셨을 것이니이다 어떤 사람이 나를 권하여 왕을 죽이라 하였으나 내가 왕을 아껴 말하기를 나는 내 손을 들어 내 주를 해하지 아니하리니 그는 여호와의 기름 부음을 받은 자이기 때문이라 하였나이다

11 내 아버지여 보소서 내 손에 있는 왕의 옷자락을 보소서 내가 왕을 죽이지 아니하고 겉옷 자락만 베었은즉 내 손에 악이나 죄과가 없는 줄을 오늘 아실지니이다 왕은 내 생명을 찾아 해하려 하시나 나는 왕에게 범죄한 일이 없나이다

12 여호와께서는 나와 왕 사이를 판단하사 여호와께서 나를 위하여 왕에게 보복하시려니와 내 손으로는 왕을 해하지 않겠나이다

13 옛 속담에 말하기를 악은 악인에게서 난다 하였으니 내 손이 왕을 해하지 아니하리이다

다윗은 만약 자신이 악하다면, 만약 자신이 유죄라면 그에 걸맞은 악의 결실이 있을 것이라고 주장합니다. 반면 사울은 다윗에게서 악의 증거를 일절 찾을 수 없습니다. 다윗은 마치 주님 앞에서 모든 일을 소상히 의의 빛으로 비추어 밝히듯 호소 하고 있습니다. 이 빛 속에서 사울은 전혀 반박할 수 없는 것입니다. 14,15절을 보시기 바랍니다.

14 이스라엘 왕이 누구를 따라 나왔으며 누구의 뒤를 쫓나이까 죽은 개나 벼룩을 쫓음이니이다

15 그런즉 여호와께서 재판장이 되어 나와 왕 사이에 심판하사 나의 사정을 살펴 억울함을 풀어 주시고 나를 왕의 손에서 건지시기를 원하나이다 하니라

더 이상 사울이 다윗을 계속 추격하는 것은 아무런 의미가 없으며, 그것은 죽은 개나 벼룩을 쫓는 것과 같아서 왕의 품격과 관련된 문제라고 주장합니다. 이 상황에서 사울을 비롯한 다윗의 호소를 듣는 이들은 모두 다윗의 완전한 무고함을 확신하게 되었습니다.

주제 3 사울의 인정

사울은 다윗에게 대답해야 합니다. 사울이 「내 아들 다윗아」라고 말을 했을 때 감정이 복받쳐 참지 못하고 소리 높여 울고 말았습니다. 사실 사울이 다윗을 이름으로 부르는 건 이때가 처음입니다. 평소에는 상대방을 업신여기는 의미로 「이새의 아들」이라고 불렀습니다. 사울은 그동안 피해온 진실을 마주해야 했기 때문에 울 수밖에 없었습니다. 지금까지 오로지 자신이 연기해 온 모습이 보기 좋게 실패로 끝나 버린 것입니다. 성실하고 힘 있고, 옳은 것처럼 꾸며 온 모습은 그 도금이 벗겨져 버렸고, 자신이 이상적인 사람이라고는 할 수 없다는 것이 명백히 밝혀져 공허함과 비애로 인해 울 수밖에 없었습니다. 16~19절을 보시기 바랍니다.

16 다윗이 사울에게 이같이 말하기를 마치매 사울이 이르되 내 아들 다윗아 이것이 네 목소리냐 하고 소리를 높여 울며

17 다윗에게 이르되 나는 너를 학대하되 너는 나를 선대하니 너는 나보다 의롭도다

18 네가 나 선대한 것을 오늘 나타냈나니 여호와께서 나를 네 손에 넘기셨으나 네가 나를 죽이지 아니하였도다

19 사람이 그의 원수를 만나면 그를 평안히 가게 하겠느냐 네가 오늘 내게 행한 일로 말미암아 여호와께서 네게 선으로 갚으시기를 원하노라

사울은 나약하게 말하기 시작했습니다. 마치 노쇠하고 시력이 약해져 자기 자식을 잘 분간하지 못했던 이삭처럼 말하기 시작했습니다. 사울은 이제 이 승산이 없는 법정에서 어쨌든 도망치기만을 원했습니다. 완전히 꼬리를 내리고 더 이상 논쟁을 계속 할 수 없습니다. 전적으로 다윗의 주장을 받아들였고, 「다윗의 무고」「다윗의 의」그리고 「자신의 악함」을 받아들였습니다. 이 후에 더 중요한 말을 합니다. 그게 뭐냐면 23장에서 요나단이 다윗에게 보증으로 한 말이 지금 사울의 입을 통해서 실제로 승인이 되고 본인의 입으로 약속을 하는 것입니다. 20,21절을 보시기 바랍니다.

20 보라 나는 네가 반드시 왕이 될 것을 알고 이스라엘 나라가 네 손에 견고히 설 것을 아노니

21 그런즉 너는 내 후손을 끊지 아니하며 내 아버지의 집에서 내 이름을 멸하지 아니할 것을 이제 여호와의 이름으로 내게 맹세하라 하니라

사울은 지금까지 다윗의 왕위를 완강히 부정해 왔습니다. 사울은 이미 자신에게 왕위가 상실된 것을 알고는 있었지만 여전히 권력을 가지고 있었기 때문입니다. 그러나 이제 곧 도래할 다윗의 왕국을 막을 수 없음을 분명히 깨닫고, 차기 왕에게 자신의 자손을 끊는 일이 없도록 해 달라고 간청하고 있는 것입니다. 결과적으로 다윗은 법정에서 승리를 했을 뿐만 아니라 다윗이 구한 것보다 더 많은 것을 주님 앞에서 쟁취한 것입니다. 그 말은 당초 다윗은 자신의 무고함을 주장하며 반역자로서의 오명을 벗고 사울이 추격을 끝낼 것만을 요청했습니다. 결코 사울에게 왕관을 요구한 것은 아니었고, 사울에게 퇴위하라든가, 사울의 후계자로 자신을 지명하라든가 하는 요구는 하지 않았습니다. 다윗은 스스로 이스라엘의 왕이 되고자 야망을 가진 적이 한 번도 없었습니다. 그런데 사울로부터 무고함을 인정받아 의롭게 여겨질 뿐만 아니라 위로부터의 선물로 왕위까지 승인되어 약속 받았던 것입니다. 여기서 우리는 하나님의 섭리와 통치를 분명하게 확신할 수 있는 것입니다. 놀라지 않을 수 없습니다. 하나님의 섭리 안에서 앞이 잘 안 보이는 이삭을 통해 이삭의 뜻과 상관없이 야곱에게 복이 쏟아진 것처럼 눈먼 사울을 통해, 요나단에게 계승시키고 싶은 사울의 뜻과 상관없이 다윗이 왕위 계승자로 승인되어 약속된 것입니다. 참고로 사울이 다윗을 이름으로 부른 것은 이때가 처음이라고 했는데, 다윗이라는 이름의 뜻은 「사랑하는 자」라는 뜻입니다. 그래서 마치 아버지가 자녀에게 「이것은 나의 사랑하는 아들」이라고 선언하고 아버지가 왕국의 일체의 권위를 자녀에게 주듯이 사울은 다윗에게 왕국을 넘겨주고 있는 것입니다. 이윽고 때가 이르면 다윗은 사울에게서 이스라엘 왕위를 물려받게 될 것입니다. 그리고 그때가 오면 다윗은 왕국의 반역자가 아니라, 또 피를 흘리며 무력으로 사울로부터 왕위를 찬탈한 자도 아니고, 위로부터 받은 왕위임을 증명한 것입니다. 다윗은 하나님께 버림 받은 사울에 대해 끝까지 순종함을 통해 하나님께 순종했던 것입니다. 다윗이 순종함으로 위로부터 일체의 권위를 주신 것은 그야말로 예수 그리스도의 순종의 생애의 예표였습니다. 빌립보서 2장 7~9절을 보시기 바랍니다.

7 오히려 자기를 비워 종의 형체를 가지사 사람들과 같이 되셨고

8 사람의 모양으로 나타나서 자기를 낮추시고 죽기까지 복종하셨으니 곧 십자가에 죽으심이라

9 이러므로 하나님이 그를 지극히 높여 모든 이름 위에 뛰어난 이름을 주사

결론

사울의 삶과 다윗의 삶에 있어서 결정적으로 다른 점은 하나님을 경외하고 하나님 앞에서 사는 삶인가, 아니면 사람을 경외하고 남의 눈을 신경 쓰는 삶인가 하는 것일 것입니다. 하나님 앞에서 살고자 하는 사람은 만물의 왕이신 하나님을 섬기며 하나님의 법을 순종하는 삶입니다. 그것은 필연적으로 프로세스를 중시하는 인생이 되어, 모든 결과를 하나님의 주권과 섭리에 맡기게 됩니다. 다윗이 만약 도피 생활에 종지부를 찍고자 「안식」이라는 결과만을 원했다면 사울을 살해할 수도 있었지만 그러지 않았습니다. 대신 위로부터의 선물로 사울로부터 왕위를 넘겨받게 된 것입니다. 한편, 남의 눈을 신경 쓰는 인생이란 하나님의 음성에 귀를 기울이지 않고, 백성의 목소리에 좌우되어 자신이 만족하는 결과만 얻을 수 있다면 프로세스 따위는 아무래도 좋다고 생각합니다. 그리고 자신의 운명을 스스로 개척 하려고 생각하고, 하나님의 자리에 자신이 앉아 있고, 거기에는 믿음은 볼 수 없는 것입니다. 우리 그리스도인은 다윗처럼 결과보다 과정을 중시하는 사람입니다. 성령의 도우심을 받아 어떤 때에도 하나님 앞에서 걷고 하나님을 앙망 하면서 위로부터의 보답을 기다리는 자가 됩시다. 하나님은 다윗에 대해 기이한 계획을 가지셨듯이 우리 한 사람 한 사람에 대해서도 특별한 계획을 가지셨기 때문입니다.

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