2020年01月26日「お尋ね者ダビデ 지명수배자 다윗」

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お尋ね者ダビデ 지명수배자 다윗

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 21章1節~16節

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21:1ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。
21:2ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」
21:3ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。
21:4それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」
21:5祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」
21:6ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」
21:7普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。
21:8そこにはその日、サウルの家臣の一人が主の御前にとどめられていた。名をドエグというエドム人で、サウルに属する牧者のつわものであった。
21:9ダビデは更にアヒメレクに求めた。「ここに、あなたの手もとに、槍か剣がありますか。王の用件が急なことだったので、自分の剣も武器も取って来ることができなかったのです。」
21:10祭司は言った。「エラの谷で、あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣なら、そこ、エフォドの後ろに布に包んであります。もしそれを持って行きたければ持って行ってください。そのほかには何もありません。」ダビデは言った。「それにまさるものはない。それをください。」
21:11ダビデは立ってその日のうちにサウルから逃れ、ガトの王アキシュのもとに来た。
21:12アキシュの家臣は言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」
21:13ダビデはこの言葉が心にかかり、ガトの王アキシュを大変恐れた。
21:14そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。
21:15アキシュは家臣に言った。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ。
21:16わたしのもとに気の狂った者が不足しているとでもいうのか。わたしの前で狂態を見せようとして連れて来たのか。この男をわたしの家に入れようというのか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 21章1節~16節

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序論

ダビデはヨナタンと別れを告げて、サウルの宮から逃げ出しました。これから、長い期間に渡る本格的な逃亡生活が始まります。まずダビデが向かった先が、祭司の町「ノブ」であったという点において、私たちはダビデの信仰を見てとることが出来ます。ノブの町というのは、正確な位置はわかりませんが、一般的にはエルサレムのすぐ北側にあったと考えられています。イスラエルの中央聖所は、祭司エリとエリの息子たちが死んだ後、シロからこのノブへ移されてきました。ですから、これまでのダビデの避難した経路たどっていきますと、第一に預言者を求めて、サムエルのいるラマのナヨトに向かい、そして、ヨナタンを経由して、第二に祭司を求めて、祭司の町ノブに向かったと見ることができます。ダビデはそのような場所を通して、聖別された神に仕える者たちから、象徴的な救いと助けが与えられていくのです。しかし本日の21章においては、ダビデは苦難と貧しさのどん底に追い詰められていく中にあって、人間的な弱さも露見していきます。神はたとえ、罪や弱さがあったとしても、確かな守りと恵みを持ってダビデを導いて下さるのです。

主題1 ダビデの弱さ1:ダビデ、嘘をつく

祭司アヒメレクは、アヒトブの息子であり、エリの息子ピネハスの孫にあたります。ダビデがノブの祭司アヒメレクを訪れた時、そこにサウルの部下エドム人ドエグもいました。後でこのドエグによってアヒメレクをはじめ罪のないノブの祭司たちが虐殺されることになりますが、それは次回お話いたします。祭司アヒメレクは、恐らくダビデのことをよく知っていたと思われます。というのは、22:15には、ダビデがアヒメレクの下に神託を求めに行ったのは、今回が初めてではなく、これまでも何度か神託を求めに来たとあるからです。

“彼のため神に託宣を求めたのはあの折が初めてでしょうか。決してそうではありません。王様、僕と父の家の者に罪をきせないでください。僕は事の大小を問わず、何も知らなかったのです。”

アヒメレクが不安げにダビデを迎えたというのは、ダビデが普段と違い、供を率いないで、一人でやってきたということに対し、驚き怪しんだということだと思います。アヒメレクはそのことを単刀直入にダビデに聞いています。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデは次のように答えました。21:3~5節を御覧ください。

“ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」”

ダビデはアヒメレクに嘘をつき「それより」と、話題を転換させて、食料を求めています。ダビデの答えを聞いて、すっかり安心したアヒメレクは、女から遠ざかっていることを条件に、パンを差し上げることができると言いました。するとダビデは確かにその条件を、我々はクリアしていると言いながら、祭司から聖別されたパンを受け取ります。この出来事は、後にイエス様によって、福音書の中で引用されています。空腹の弟子たちが安息日に麦畑の麦の穂を摘んで食べたことを、ファリサイ人から非難されて、イエス様はこの箇所を引用しました。“ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。”つまり、物乞いをしなければならないほど、ひもじい状態であるなら、さらに言えば、神のミッションを遂行するにあたって、安息日に仕事をすることや、祭司しか食べることができないと律法で規定されている「聖別されたパン」を食べることは罪ではないと、イエス様はおっしゃいました。従いまして、ダビデが聖別されたパンを祭司から受け取ったことは、罪ではないと言えるでしょう。しかし、少なくとも「サウル王によって遣わされて来た」というのは、明らかに偽りであって、ダビデがアヒメレクに嘘をつき、罪を犯しています。ダビデは、いよいよ精神的にも、肉体的にも追い詰められて、人間的な弱さが出てしまったと言えるのではないでしょうか。アヒメレクは祭司として、困窮するダビデに手を貸してやり、また、エフォドの後ろにささげられていたゴリアトの剣をも与えてくれました。ダビデが祭司用のパンを許され、主の勝利の象徴である剣を授けられたことは、罪を犯しても、ダビデは、依然として神の聖なる領域の中にとどまっており、聖霊の導きの中にあることを象徴しています。私たちは、このことを持って、聖書はこういう非常事態にあって、嘘も方便として許されると、解釈するべきではありません。「嘘も方便」という諺は、聖書には当てはまらず、嘘をつくことは間違いなく罪であります。しかし、聖霊は、ダビデの弱さやダビデの罪を通しても、神の御心を成し遂げられるのです。それは、19章において、ダビデを逃がすために偶像のテラフィムをさえ用いられたのと同じです。だからと言って、神の御心を成就するために用いられた人間の口から出た嘘や、偶像などが黙認されるということではなく、それはそれで律法違反であり、罪であることを覚えなければなりません。

主題2 ダビデの弱さ2:ペリシテ軍の前で、人間的な考えと、人間的な演技に頼るダビデ

ダビデはその後、ノブの町から35キロメートルほど離れたガトに行きました。ガトはペリシテ人の五つの町の内の一つです。恐らくダビデは自分を傭兵として雇ってもらうために、ガトの王アキシュのもとへ行ったと思われます。ダビデにとってサウルの敵であるペリシテの領地こそ、一番安全な場所だと考えたのでしょう。ところが、ペリシテ人にとってダビデはあまりにも有名人でした。ダビデはペリシテ人の誇るゴリアトを倒し、ペリシテ人に何度も敗北をもたらせた張本人であり、超危険人物でありました。12~13節を御覧ください。

“アキシュの家臣は言った。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」ダビデはこの言葉が心にかかり、ガトの王アキシュを大変恐れた。”

アキシュの家臣は、イスラエルの女たちが熱狂して歌った「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という歌を引用して、ダビデのことを「その地の王」ではありませんか、と言っています。イスラエルの敵であるペリシテ人にとっては、サウルはもはや眼中になく、ダビデこそイスラエルの王であり、ダビデしか見えなかったのであります。ペリシテ人が示した過敏な反応は、ダビデの想定外の事であったため、ダビデは恐ろしくなり、咄嗟に作戦を変更しました。ペリシテ人の前で、気が狂った人のように演技をし始め、髭によだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりしました。きっと、ダビデは、サウルの狂乱の下で仕えていたので、迫力のある演技をすることができたに違いありません。当時、気の狂った者は、悪霊の働きによると考えられていて、もし、そんな人物を捉えて拘束するなら、その人に取りついている悪霊の力によって、自分たちにどのような災いが降りかかるかわからない、関わらない方がましだと、考えられていました。ダビデは狂った者として追放されることによって、処刑を免れ、この絶体絶命のピンチから逃れることが出来たのです。しかし、ダビデがしたこの行動は、自分の生命を神の御手に全く委ねることではなく、むしろ自分の肉的な考えと、演技に頼ってしまったと言えるでしょう。自らを辱めペリシテ人に醜態をさらし、ダビデと共におられる聖霊の恵みを、敵の嘲りの的としてしまいました。ここにおいても、ダビデの弱さと欠けが露見されたと見ることができるのです。

主題3 神の憐み

このようにダビデは罪を犯し、弱さと欠けの多い者でありながら、なおも、私たちはダビデが神の聖なる領域の中にとどまっていると言うことができるのです。なぜなら、ここで、ダビデの王権は、嫉妬によってサウルには認められることはありませんでしたが、敵であるペリシテ人によって「かの国の王」として恐れられ、先に認められているということに注目してみますと、ダビデは、まさにイエス様と同じような公生涯を歩まれているからです。イエス様も、ファリサイ人律法学者から嫉妬によって、公式にイスラエルの王として認められませんでしたが、悪霊によっては、いち早く「神の聖者」として正しく認識されました。また、ダビデは、貧しくみじめな状況に陥り、彼の弱さの中で、罪を犯し、人々からあざけられるように振る舞いましたが、まさにイエス様も罪は犯されませんでしたが、人となられ、最もみじめな状態を経験され、人々から嘲られ、恥ずかしい罪びとして、裸で十字架にかけられたのです。つまり、ダビデが徹底的に低められ、どん底の中を歩むようにされたのは、それは、イエス様の歩まれた道であり、さらに言えば、ダビデを通して、イスラエルの、最も低い人々に対し、最も虐げられている人々に対し、救いの手を差し伸べるためであったのです。ダビデの罪と弱さにも関わらず、神はダビデと共におられ、守り導かれ、神のご計画を成し遂げてくださいました。それは、まるで、母リベカと共謀し、詐欺的な方法によって、祝福を奪いとり、その方法自体は悪であったにも関わらず、なおもヤコブは神の聖なる領域の中に留まらせていただき、神の慈しみによってヤコブに祝福がもたらされたのと同じです。詩篇34編は、ペリシテ人に捕らえられた状況において、ダビデ自身の心境が綴られています。ダビデがこの詩の中で神を賛美しているのは、ダビデが王らしからぬ醜態を演じ、死を免れたことによって神の恵みをほめ称えているというよりも、むしろ、ダビデの弱さと罪が、ダビデ自身に帰されなかったということの中に、神の恵みを讃美していると言えるでしょう。詩篇34:1~8を御覧ください。1節の小見出しの所では、アキシュではなく、アビメレクと書かれていますが、アビメレクと言うのは、以前いた、ペリシテの地の王様の名前でありまして、ペリシテ人の王を呼ぶときには、称号のように「アビメレク」という名で呼ばれていたようです。例えばエジプトの王を代々「ファラオ」と呼ばれていますね。また、ローマの王を「カエサル」と呼ばれるのと同じことです。

“【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。”

ダビデはこの詩篇の中で、いかに自分が貧しく、みじめな状況に陥っても、決して恐れることはないという結論に至っています。それは、ダビデが、まさに異邦の地において、奴隷のような貧しさとみじめさという「人生のどん底」を経験したからです。しかし、神さまは、ダビデの弱さと罪にも関わらず、憐みによってダビデを守り、なおも導いて下さいました。そして34:23節を見ると次のように書かれています。

“主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。”

主はその僕を贖ってくださる、つまり奴隷状態から買い戻してくださると告白しています。神さまは仲保者イエス・キリストの故に、ダビデを罪に定めることなく、ダビデを罪の奴隷から、どん底の中から、貧しさの中から、買い戻してくださるお方であり、ダビデはそのことを信仰によって讃美しているのです。

結論

第一に、私たちは、ダビデでさえ弱さの故に罪を犯してしまったことを根拠にして、非常事態においては嘘をつくことや、罪を犯すことは赦されると考えてはなりません。「嘘も方便」などと言って、罪を相対化させてはならないということです。第二に、ダビデの弱さと、罪にも関わらず、神さまはなおも慈しみによって、ダビデを守り導いて下さり、神の聖なる領域の中に留まるようにしてくださったということです。聖霊は、アヒメレクに対するダビデの嘘を神のミッションのためにお用いになり、またアキシュの前で、ダビデは人間的な弱さの故に、自分と聖霊の恵みを辱め、ペリシテ人の嘲笑にさらし、敵の嘲りの的としましたが、聖霊は、それをキリストのお受けになる嘲りと辱めの予表として用いてくださったのです。同じように、神さまは、私たちがたとえ罪を犯してしまうことがあっても、たとえ日々罪を犯してしまう弱い私たちであっても、憐みにより、なおも、私たちを神の聖なる領域の中に留めてくださり、ご自身の契約の民として、聖徒として呼んでくださるのです。そして神の導きの中で、このような器さえも主の御用のために用いて下さり、そして究極的には、私たちの魂をイエス・キリストの故に、贖い出し、どん底の中から買い戻してくださるのです。このことを信じて、私たちも主を讃美し、主を避け所とし、主により頼んで歩んでまいりましょう。

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지명수배자 다윗

2020년 1월 26일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 21장 1~15절

서론

다윗은 요나단과 작별을 고하고 사울의 궁에서 도망쳤습니다. 이제부터 오랜 기간에 걸친 본격적인 도망 생활이 시작됩니다. 먼저 다윗이 향한 곳이 제사장의 성읍인 「놉」이었다는 점에서 우리는 다윗의 믿음을 살펴볼 수 있습니다. 놉의 성읍이라는 곳은 정확한 위치는 알 수 없지만, 일반적으로는 예루살렘 근처의 북쪽에 있었다고 생각됩니다. 이스라엘의 중앙성소는 제사장 엘리와 엘리의 아들들이 죽은 뒤 실로에서 이 놉으로 옮겨져 왔습니다. 그래서 지금까지의 다윗의 피난한 경로를 따라가 가면, 첫째로 선지자를 찾아 사무엘이 있는 라마 나욧으로 향하고, 그리고 요나단을 경유하여 둘째로 제사장을 찾아 제사장의 성읍인 놉으로 향했다고 볼 수 있습니다. 다윗은 그런 곳을 통해 성별되어져 하나님을 섬기는 자들로부터 상징적인 구원과 도움을 얻어 가는 것입니다. 그러나 오늘 21장에서 다윗은 고난과 빈곤의 맨밑바닥의 궁지에 몰려가는 가운데 인간적인 연약함도 드러냅니다. 하나님은 비록 죄나 연약함이 있더라도 확실한 보호하심과 은혜로 다윗을 인도해 주시는 것입니다.

주제 1 다윗의 연약함 첫째, 다윗의 거짓말

제사장 아히멜렉은 아히둡의 아들이며 엘리의 아들 비느하스의 손자에 해당합니다. 다윗이 놉의 제사장 아히멜렉을 찾았을 때, 그곳에 사울의 부하 에돔 사람 도엑도 있었습니다. 나중에 이 도엑에 의해서 아히멜렉을 비롯한 무고한 놉의 제사장들이 학살당하게 되는데, 그건 다음에 말씀드리겠습니다. 제사장 아히멜렉은 아마 다윗을 잘 알고 있었을 거라고 생각됩니다. 그 말은, 22장 15절에는 다윗이 아히멜렉에게 신탁을 구하러 간 것은 이번이 처음이 아니라, 지금까지도 여러 번 신탁을 구하러 왔다고 하기 때문입니다.

내가 그를 위하여 하나님께 물은 것이 오늘이 처음이니이까 결단코 아니니이다 원하건대 왕은 종과 종의 아비의 온 집에 아무것도 돌리지 마옵소서 왕의 종은 이 모든 크고 작은 일에 관하여 아는 것이 없나이다 하니라

아히멜렉이 떨며 다윗을 영접했다는 것은 다윗이 평소와 달리 수행원을 이끌지 않고 혼자 찾아 왔다는 것에 대해 놀랍고 의아했다는 것이라고 생각합니다. 아히멜렉은 그 일을 단도직입적으로 다윗에게「네가 홀로 있고 함께 하는 자가 아무도 없느냐」고 묻고 있습니다. 다윗은 다음과 같이 대답했습니다. 21장 2~4절을 보시기 바랍니다.

2 다윗이 제사장 아히멜렉에게 이르되 왕이 내게 일을 명령하고 이르시기를 내가 너를 보내는 것과 네게 명령한 일은 아무것도 사람에게 알리지 말라 하시기로 내가 나의 소년들을 이러이러한 곳으로 오라고 말하였나이다

3 이제 당신의 수중에 무엇이 있나이까 떡 다섯 덩이나 무엇이나 있는 대로 내 손에 주소서 하니

4 제사장이 다윗에게 대답하여 이르되 보통 떡은 내 수중에 없으나 거룩한 떡은 있나니 그 소년들이 여자를 가까이만 하지 아니하였으면 주리라 하는지라

다윗은 아히멜렉에게 거짓말을 하고 「이제」라고 화제를 전환시켜 식량을 구하고 있습니다. 다윗의 대답을 듣고 완전히 안심한 아히멜렉은 「여자를 가까이만 하지 아니하였으면」하는 조건으로 떡을 줄 수 있다고 합니다. 그러자 다윗은 분명히 그 조건에 대해 「우리가 참으로 삼 일 동안이나 여자를 가까이 하지 아니하였나니」라고 말하면서 거룩한 떡을 받습니다. 이 사건은 나중에 예수님에 의해서 복음서에서 인용되었습니다. 배고픈 제자들이 안식일에 보리밭의 보리 이삭을 따서 먹은 것을 바리새인들로부터 비난받자 예수님은 이 대목을 인용하셨습니다. 「다윗이 자기와 및 함께한 자들이 핍절되어 시장할 때에 한 일을 읽지 못하였느냐」즉, 구걸을 해야 할 만큼 배고픈 상태라면, 더 말하면 하나님의 미션을 수행함에 있어 안식일에 이삭을 따서 먹는 것이나 제사장밖에 먹지 못한다고 율법에 규정된 「거룩한 떡」을 먹는 것은 죄가 아니라고 예수님은 말씀하셨습니다. 따라서 다윗이 거룩한 떡을 제사장으로부터 받은 것은 죄가 아니라고 할 수 있을 것입니다. 그러나 적어도 「왕이 내게 일을 명령하고 이르시기를 내가 너를 보내는 것」이라는 것은 명백한 거짓말이며, 다윗이 아히멜렉에게 거짓말을 하여 죄를 짓고 있습니다. 다윗은 드디어 정신적으로도, 육체적으로도 궁지에 몰려 인간적인 연약함이 나오고 말았다고 할 수 있지 않을까요? 아히멜렉은 제사장으로서 곤궁한 다윗에게 도움을 주었고, 또한 에봇 뒤에 걸려 있는 골리앗의 검도 주었습니다. 다윗이 제사장의 떡을 허락받고 여호와의 승리의 상징인 검을 받은 것은 죄를 지어도 다윗은 여전히 하나님의 거룩한 영역 안에 머물러 있으며 성령의 인도하심 안에 있음을 상징합니다. 우리는 이 일을 가지고 성경은 이런 비상사태에서는 거짓말도 한 방편으로 허용된다고 해석해서는 안 됩니다. “거짓말도 방편”이라는 말은 성경에는 용납되지 않고 거짓말을 하는 것은 틀림없이 죄입니다. 그러나 성령은 다윗의 연약함과 다윗의 죄를 통해서도 하나님의 뜻을 이룰 수 있는 것입니다. 그것은 19장에서 다윗이 도망칠 시간을 벌기 위해 우상을 사용한 것과 같습니다. 그렇다고 해서 하나님의 뜻을 성취하기 위해 사용된 인간의 입에서 나온 거짓말이나 우상 등이 묵인된다는 것은 아니고, 그것은 그것으로 율법의 위반이고 죄임을 기억해야 합니다.

주제 2

다윗의 연약함 둘째, 블레셋 군 앞에서 인간적인 생각과 인간적인 연기에 의지하는 다윗

다윗은 그 후 놉의 성읍에서 35킬로미터 정도 떨어진 가드로 갔습니다. 가드는 블레셋의 다섯 성읍 중 하나입니다. 아마도 다윗은 자신을 용병으로 고용해 달라고 가드의 왕 아기스에게 갔다고 생각됩니다. 다윗에게 사울의 적인 블레셋의 영지야말로 가장 안전한 곳이라고 생각했을 것입니다. 그런데 블레셋 사람들에게 다윗은 너무나 유명한 사람이었어요. 다윗은 블레셋 사람들이 자랑하는 골리앗을 쓰러뜨리고 블레셋인들에게 여러 번 패배를 안겨준 장본인자 매우 위험한 인물이었습니다. 11,12절을 보시기 바랍니다.

11 아기스의 신하들이 아기스에게 말하되 이는 그 땅의 왕 다윗이 아니니이까 무리가 춤추며 이 사람의 일을 노래하여 이르되 사울이 죽인 자는 천천이요 다윗은 만만이로다 하지 아니하였나이까 한지라

12 다윗이 이 말을 그의 마음에 두고 가드 왕 아기스를 심히 두려워하여

아기스의 신하는 이스라엘 여인들이 뛰 놀며 부른 「사울이 죽인 자는 천천이요 다윗은 만만이로다」라는 노래를 인용하여 「그 땅의 왕 다윗」이 아니냐고 말하고 있습니다. 이스라엘의 적인 블레셋 사람들에게 사울은 더 이상 안중에 없었고, 다윗이야말로 이스라엘의 왕이며 다윗밖에 보이지 않았습니다. 블레셋 사람들이 보여준 과민반응은 다윗의 예상 밖의 일이었기 때문에 다윗은 두려워졌고, 바로 작전을 변경했습니다. 블레셋 사람들 앞에서 미친 체하고 대문짝에 그적거리며 침을 수염에 흘리기도 했습니다. 분명 다윗은 사울의 광란을 보면서 섬겼기 때문에 박력 있는 연기를 할 수 있었을 것입니다. 당시 정신 나간 자는 악령의 작용에 의한 것으로 생각되고 있었고, 만약 그런 인물을 잡아 구속한다면 그 사람에게 달라붙어 있는 악령의 힘에 의해 자신들에게 어떤 재앙이 닥칠지 모르기에 상관하지 않는 것이 낫다고 생각되고 있었습니다. 다윗은 미친자로서 추방되는 걸로 처형을 면하고, 이 절대절명의 위기에서 벗어날 수가 있었습니다. 그러나 다윗이 한 이 행동은 자신의 생명을 하나님의 손에 온전히 맡기는 것이 아니라 오히려 자신의 육적인 생각과 연기에 의지해 버렸다고 할 수 있을 것입니다. 스스로를 욕되게 하고 블레셋 사람들에게 추태를 부리며 다윗과 함께 계신 성령의 은혜를 적의 조소의 대상으로 삼았습니다. 여기에서도 다윗의 연약함과 결핍이 드러났다고 볼 수 있습니다.

주제 3 하나님의 긍휼

이처럼 다윗은 죄를 지었고 연약함과 허물이 많은 자이지만 아직도 우리는 다윗이 하나님의 거룩한 영역 안에 머물러 있다고 말할 수 있습니다. 왜냐하면 여기서 다윗의 왕권은 질투로 인해 사울에게 인정받지는 못했지만, 적인 블레셋 사람들에 의해 「그 땅의 왕」으로 두려운 존재로 먼저 인정받고 있다는 것에 주목해 보면, 다윗은 바로 예수님과 같은 공생애를 걷고 있기 때문입니다. 예수님께서도 바리새인, 서기관들로부터 질투로 인해 공식적으로 이스라엘의 왕으로 인정받지 못하셨지만 악령에 의해서는 일찍이 「하나님의 거룩한 자」로 올바르게 인식되셨습니다. 또 다윗은 가난하고 비참한 상황에 빠져 그의 연약함 속에서 죄를 짓고 사람들로부터 조롱을 받게 행동하였지만 바로 예수님도 죄를 짓지 않으셨지만 사람이 되시고 가장 비참한 상태를 겪으셨고, 사람들로 부터 조롱을 받고 부끄러운 죄인으로 벌거 벗긴 채 십자가에 못 박히신 것입니다. 즉 다윗이 철저히 낮아지며 삶의 밑바닥을 걷게 된 것은 그것은 예수님이 걸어간 길이고, 더 나아가 다윗을 통해 이스라엘의 가장 낮은 사람들에게 가장 억압받는 사람들에게 구원의 손길을 내밀기 위함이었습니다. 다윗의 죄와 연약함에도 불구하고 하나님은 다윗과 함께 하시고 지켜주시고 인도하시며 하나님의 계획을 이루셨습니다. 그것은 마치 어머니 리브가와 공모하여 사기적인 방법으로 축복을 빼앗았고, 그 방법 자체는 악이었음에도 불구하고 여전히 야곱을 하나님의 거룩한 영역 안에 머물게 하시고, 하나님의 인자하심으로 야곱에게 복을 주신 것과 같습니다. 시편 34편은 블레셋인에게 사로잡힌 상황에서의 다윗 자신의 심경이 담겨 있습니다. 다윗이 이 시에서 하나님을 찬양하고 있는 것은 다윗이 왕답지 않은 추태를 부림으로 죽음을 면했다고 하나님의 은혜를 찬양하고 있다기보다 오히려 다윗의 연약함과 죄가 다윗 자신에게 돌아가지 않았다는 것에 대해하나님의 은혜를 찬양하고 있다고 할 수 있는 것입니다. 시편 34편 1~8절을 보시기 바랍니다. 1절의 소제목 부분에서는 아기스가 아니라 아비멜렉이라고 쓰여져 있습니다만 「아비멜렉」이라고 하는 것은 이전에 불레셋 땅의 왕의 이름으로 블레셋의 왕을 부를 때에는 칭호처럼 아비멜렉이라는 이름으로 불렸던 것 같습니다. 예를 들면 애굽의 왕을 대대로 「바로」라고 부르죠. 또 로마의 황제를 「가이사」라고 부르는 것과 마찬가지입니다.

다윗이 아비멜렉 앞에서 미친체하다가 쫓겨나서 지은 시

1 내가 여호와를 항상 송축함이여 내 입술로 항상 주를 찬양하리이다

2 내 영혼이 여호와를 자랑하리니 곤고한 자들이 이를 듣고 기뻐하리로다

3 나와 함께 여호와를 광대하시다 하며 함께 그의 이름을 높이세

4 내가 여호와께 간구하매 내게 응답하시고 내 모든 두려움에서 나를 건지셨도다

5 그들이 주를 앙망하고 광채를 내었으니 그들의 얼굴은 부끄럽지 아니하리로다

6 이 곤고한 자가 부르짖으매 여호와께서 들으시고 그의 모든 환난에서 구원하셨도다

7 여호와의 천사가 주를 경외하는 자를 둘러 진 치고 그들을 건시는도다

8 너희는 여호와의 선하심을 맛보아 알지어다 그에게 피하는 자는 복이 있도다

다윗은 이 시편 속에서 아무리 자신이 가난하고 비참한 상황에 빠져도 결코 두려워할 것이 없다는 결론에 이르렀습니다. 그것은 다윗이 바로 이방 땅에서 노예와 같은 가난과 비참함이라는 「삶의 밑바닥」을 경험했기 때문입니다. 그러나 하나님께서는 다윗의 연약함과 죄에도 불구하고 긍휼하심으로 다윗을 지켜 주시고 계속해서 인도해 주셨습니다. 그리고 34편 22절을 보면 다음과 같이 적혀 있습니다.

여호와께서 그의 종들의 영혼을 속량하시니 그에게 피하는 자는 다 벌을 받지 아니하리로다

「여호와께서 그의 종들의 영혼을 속량해 주시니」 즉 노예 상태에서 다시 사 주신다고 고백하고 있습니다. 하나님은 중보자 예수 그리스도 때문에 다윗을 죄로 정죄하지 않으시고 다윗을 죄의 노예로부터 삶의 밑바닥에서부터, 궁핍한 가운데에서 다시 사 주시는 분이고, 다윗은 그 일을 믿음으로 찬양하고 있는 것입니다.

결론

첫째로, 우리들은 다윗조차 연약함 때문에 죄를 지었다는 것을 근거로 비상상태에 있어서는 거짓말을 하거나 죄를 짓는 것은 용서된다고 생각해서는 안 됩니다. “거짓말도 한 방법”이라고 해서 죄를 상대화 시켜서는 안 된다는 것입니다. 둘째, 다윗의 연약함과 죄에도 불구하고 하나님께서는 여전히 인자하심으로 다윗을 지켜 주시고 인도하여 주시고 하나님의 거룩한 영역 안에 머물게 해 주셨다는 것입니다. 성령께서는 아비멜렉에 대한 다윗의 거짓말을 하나님의 미션을 위해 사용하셨고, 또 아기스 앞에서 다윗은 인간적인 연약함 때문에 자신과 성령의 은혜를 욕되게 하고 블레셋 사람들의 비웃음을 짓게 하여 적의 조롱거리가 되어버렸는데, 성령께서는 그것을 그리스도가 받으신 조롱과 욕됨의 예표로 사용하셨습니다. 마찬가지로 하나님은 우리가 비록 죄를 지어버리는 한이 있더라도, 비록 날마다 죄를 지어버리는 연약한 우리일지라도 긍휼하심으로 계속해서 우리를 하나님의 거룩한 영역 안에 머물게 하여 주시고, 자신의 언약 백성으로 성도로 불러 주시는 것입니다. 그리고 하나님의 인도하심 가운데 이런 그릇들조차 주님의 용도를 위해 사용해 주시고, 그리고 궁극적으로 우리의 영혼을 예수 그리스도로 인해 속죄하여 주시고 삶의 밑바닥에서 되 사주시는 것입니다. 이 일을 믿고 우리도 주님을 찬양하며 주님을 피난처로 삼고 주님을 더 의지하며 걸어가도록 합시다.

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