2020年01月12日「ダビデの逃亡 다윗의 도망」

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ダビデの逃亡 다윗의 도망

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 19章1節~24節

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:1サウルは、息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデに深い愛情を抱いていたので、
19:2ダビデにこのことを告げた。「わたしの父サウルはあなたを殺そうとねらっている。朝になったら注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。
19:3あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう。」
19:4ヨナタンは父サウルにダビデをかばって話した。「王がその僕であるダビデのゆえに、罪を犯したりなさいませんように。彼は父上に対して罪を犯していないばかりか、大変お役に立っているのです。
19:5彼が自分の命をかけてあのペリシテ人を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」
19:6サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」
19:7ヨナタンはダビデを呼んで、これをすべて彼に告げた。ヨナタンはサウルのもとにダビデを連れて行き、ダビデはこれまでどおりサウルに仕えることになった。
19:8戦いは続いて起こったが、ダビデはペリシテ人を討つために出陣し、大打撃を与えたので、彼らはダビデを恐れて逃げた。
19:9ときに、主からの悪霊がサウルに降った。サウルは館で槍を手にして座り、ダビデはその傍らで竪琴を奏でていた。
19:10そのとき、サウルがダビデを壁に突き刺そうとねらったが、ダビデはサウルを避け、槍は壁に突き刺さった。ダビデは逃げ、その夜は難を免れた。
19:11サウルはダビデの家に使者を遣わし、彼を見張らせ、翌朝には殺させようとした。ダビデの妻ミカルはダビデに言った。「今夜中に避難して自分の命を守らなければ、明日は殺されます。」
19:12ミカルはダビデを窓からつり降ろし、彼は逃げて難を免れた。
19:13ミカルはテラフィムを寝床に置き、その頭に山羊の毛をかぶせ、それを着物で覆った。
19:14サウルは使者を遣わしてダビデを捕らえようとしたが、ミカルは、「彼は病気です」と言った。
19:15サウルはダビデを見舞うのだといって使者を遣わしたが、「ダビデを寝床のままわたしのもとに担ぎ込め。殺すのだ」と命じていた。
19:16使者が来てみると、寝床には山羊の毛を頭にかぶせたテラフィムが置かれていた。
19:17サウルはミカルに言った。「このようなことをしてわたしを欺いたのはなぜだ。なぜお前はわたしの敵を逃がし、避難させたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人は、『わたしを逃がせ。さもないとお前を殺す』と脅しました。」
19:18逃げて難を避けたダビデは、ラマのサムエルのもとに行って、サウルの仕打ちをすべて報告した。サムエルとダビデはナヨトに行き、そこにとどまった。
19:19ラマのナヨトにダビデがいる、とサウルに告げる者があり、
19:20サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした。彼らは預言者の一団が預言しているのに出会った。サムエルが彼らの先頭に立っていた。神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。
19:21サウルはこの報告を受けて、他の使者を遣わしたが、彼らもまた預言する状態になった。三度、サウルは追っ手を送ったが、彼らもまた預言する状態になった。
19:22ついに、サウル自身がラマに向かい、セクの大井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるのか」と尋ねた。「ラマのナヨトです」という答えを聞き、
19:23サウルはラマのナヨトに向かってそこを去ったが、彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。
19:24彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。このため、「サウルもまた預言者の仲間か」と人々は言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 19章1節~24節

原稿のアイコン日本語メッセージ

サウルは、心の中にある妬みと恐れから、秘かにダビデを亡き者にしようとしましたが、そのようにすればするほど、ダビデはユダと全イスラエルから愛され、ヨナタンから自分の分身のように愛され、そしてミカルからも愛される結果となりました。サウルの怒りはいよいよ燃え上がり、ダビデを生涯の敵としてみなしますが、これは即ち、サウル自身の破滅宣言でもあったとも言えるでしょう。18章までは、サウルは、秘かに、心の中で、ダビデを殺すようはかりごとをしましたが、本日の19章では、ヨナタンと家臣全員を集めて、ダビデを殺すことを公に宣告します。サウルはとうとう一線を越えてしまったと言えるでしょう。罪は小さいうちに悔い改めと告白によって解決して処理しなければ、どんどん大きくなっていきます。私たちも人に妬みや嫉妬を持つことがあるでしょう。しかしその罪をそのままに放置しておくなら、サウルのようにいつの間にか自分でもコントロールできなくなり、一線を越えてしまうのです。ダビデが一体何をしたからというので、命を狙われることになったのでしょうか。これは明らかにサウルによる一方的なパワハラであり、殺人未遂であります。しかし、サウルのこのような不当な攻撃に対して、ダビデは決して自分自身の考えや、自分の実力によって対抗しようとはしませんでした。ただ、主なる神だけを頼る姿勢によって困難に対処し、神の時をひたすらまち続けました。結果として、苦難を通しかえってダビデこそ神の国イスラエルを治めていく神の僕であるという神さまのしるしを受けることになりました。ダビデはどのようにして神だけをより頼み、神の時を待ち続けたのかを見てまいりましょう。

主題1 ヨナタンによる助け

第一に、神さまはダビデに仲保者を送ってくださいました。私たちキリスト者の信仰の歩みも、同じように仲保者イエス様との出会いから始まります。ヨナタンは自身が王族の皇太子でありながら、18章において貧しい身分のダビデに対し自分の王服を与え、そして、自分の分身として見做してくれました。19章においても仲保者として冷静かつ鮮やかにダビデを弁護してくれます。19章1~6を御覧ください。

“サウルは、息子のヨナタンと家臣の全員に、ダビデを殺すようにと命じた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデに深い愛情を抱いていたので、ダビデにこのことを告げた。「わたしの父サウルはあなたを殺そうとねらっている。朝になったら注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。

あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう。」ヨナタンは父サウルにダビデをかばって話した。「王がその僕であるダビデのゆえに、罪を犯したりなさいませんように。彼は父上に対して罪を犯していないばかりか、大変お役に立っているのです。彼が自分の命をかけてあのペリシテ人を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」サウルはヨナタンの言葉を聞き入れて誓った。「主は生きておられる。彼を殺しはしない。」”

ヨナタンは、サウルがこれまでダビデに対して抱いてきた焦燥感には一切触れずに、ダビデがサウルにとって非常に有益となったということを強調し、王であるお方が罪なき者の血を流して罪を犯さないよう勧めると、サウルは説得され、誓いを立てながら、ダビデの命の安全を保障しました。ダビデはサウルの宮廷に戻されることになります。私たちの人生においても、神の民として信仰の歩みを始めるにあたって、第一に仲保者であり弁護者であるイエス様と出会せてくださり、信仰生活の中にあって困難や苦難が訪れる時に、避け所、逃れ場となってくださるのです。

主題2 ミカルによる助け

しかし、一時訪れた平安も束の間でした。ダビデがペリシテ人との戦いにおいて勝利し、大打撃を与えると、サウルは再び自分をコントロールすることが出来なくなり、竪琴を弾いていたダビデに槍を投げつけて殺そうとしたのです。サウルがダビデに槍を投げつけるということは、過去にも二度ありましたから(そのことが18:11に書かれています)、ですから今回で三度目になります。ダビデは王宮から逃げ、その日は難を逃れました。しかし、サウルはダビデの家に暗殺団を遣わして、ダビデを監視させて、翌朝にはダビデを殺せと命じました。ダビデの妻ミカルは、父から派遣された使者がダビデを殺すためであるということに、いち早く気づき、夜のうちにダビデを窓から逃がします。そして、テラフィムというお守りの偶像をダビデの寝床において、その頭にヤギの毛をかぶせて、着物を着せて、いかにもダビデがそこに寝ているかのように装って、見張りの目を欺きました。いざ、サウルから遣わされた使者が、ダビデを捕えようとした時、ミカルは「彼は病気です。」と言ったので、使者はそこに突入することを断念しました。恐らく当時の軍人たちにおいて、無防備状態の患者は殺さないという暗黙の了解あったものと見られます。一旦、そのことをサウルに伝えると、サウルは、もう一度使者を遣わし病気でもいいから、とにかく「寝床のままわたしの下へ担ぎ込め、殺すのだ」と命じました。再び使者が到着した時になって、ようやくダビデがそこにいないということが発覚されました。ミカルは父サウルをもだまして、ダビデを逃亡させるための時間稼ぎをしたのです。この時、サウルの命令を妨害し、最もサウルに激しく抵抗した要因は、ダビデの戦略や、ダビデの俊敏さではなく、ダビデを徹底して守り、救おうとするサウルの子どたちだったのです。ダビデはなんとか死を免れますが、ここにおいてもダビデが、自発的に何かをしたというより、神だけを頼る中で、逃れの道が開かれていったということが描写されているのです。私たちがダビデの立場を推し量るなら、自分を苦しめ、自分の死を狙っている敵は、ペリシテ人ではなく、サウルによって率いられたイスラエル軍であったということが、どれ程つらかったでしょうか。逃亡の中で言いようない悔しさと、悲しみがこみあげてきたに違いありません。詩篇59編には、この逃亡の中にあって、ダビデ自身の心境が綴られています。詩篇59編をお開きください。表題には「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」と書かれていますね。59:15~18節を御覧ください。

“夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。彼らは餌食を求めてさまよい/食べ飽きるまでは眠ろうとしません。わたしは御力をたたえて歌をささげ/朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。わたしの力と頼む神よ/あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。”

ダビデは、理由がわからない不当な困難の中で、ただ主だけを避けどころ、逃れ場として、主にのみ、より頼んだ結果、予期せぬところから、つまり偶像を通して、サウルの子どもたちを通して、助けの手が差し伸べられました。さらに、この詩篇で特に注目すべき点は、最後には恵み深い主への讃美に変えられているということです。最後に主への讃美に変えられた理由とは、この後、見ていきますが、主ご自身が直接介入してくださったからであります。

主題3 神による助け

ダビデはラマのサムエルのところに逃げて行きました。サムエルはそこで、まるで神学校の校長のように振る舞い、弟子たちに神の託宣とか神のお告げである預言について教えていました。恐らくダビデはサムエルとしばらく時間を過ごしながら、いろいろなことについて語り合ったと思われますし、自分がサウルから不当に苦しめられたことについてもサムエルに訴えたことでしょう。サムエルは確かにダビデに新しい王として油を注ぎました。ところが、ダビデの苦難とは、油を注がれた後に始まったのです。サウルの時は、油を注いだ後、ほどなくして王に即位したのに、なぜダビデに限ってこのような苦難の連続が襲ってくるのか、十分に納得の行く説明をすることは、サムエルも恐らくできなかったのではないかと思われます。もしかしたら、サムエルは、自分が神の御言葉を聞き間違えたのでは…と、不安や、迷い、疑いなども生じていたのかもしれません。そのような時に、大変不思議な事件が起こりました。サウルはダビデを暗殺するために使者を、遣わしますが、使者はサムエルが指導する預言者の一団に出会ったとき、神の霊が臨んで、一緒に預言をし始めてしまいます。逮捕しに出かけたのに、一緒に礼拝集団に取り込まれてしまい、恍惚状態に陥って任務を遂行できないのです。その後、サウルは二度使者を送りますが、二度とも結果は同じでした。サウルにとっては、「一体何をやっているのか!」というところでしょう。ついに、サウル自身が直接ダビデを逮捕するためにラマのナヨテに向かいました。しかし、やはり神の働きによって使者たちと同じような体験をすることになります。22~24節を御覧ください。

“ついに、サウル自身がラマに向かい、セクの大井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるのか」と尋ねた。「ラマのナヨトです」という答えを聞き、サウルはラマのナヨトに向かってそこを去ったが、彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。このため、「サウルもまた預言者の仲間か」と人々は言った。”

サウルの恍惚状態は、使者たちの恍惚状態より、さらに激しいものでした。神の霊に捕らえられ、無意識の状態で、狂いわめきながら預言をし、強制的に王服を脱ぎ捨てるようにされて、24時間、裸のまま倒れていました。その抵抗し難く、説明のつかない力を前にして、サウルは手も足もでませんでした。ところで、当時、裸というのは、恥の象徴でした。黙示録16:15を御覧ください。

“――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――”

さらに言えば、サウルは今、サムエルの前で王服を脱いでいます。サムエルとは誰かと言うなら、彼こそサウルを王として立てた者でした。そのサムエルの前において、サウルは自らの身分を示す王服を脱ぎ、そして自らの恥をさらすことによって、自らの王位の廃位を象徴的に預言したのです。つまりこの事件は、サウルの王位廃位式でもあったと解釈されます。神が預言を与えられる時は、言葉によるだけでなく、パフォーマンスによって与えられるときもあります。また、必ずしも信仰を持った者を通して預言が与えられるわけではありません。時には不信者を用いて、本人の意図とは関係なく、神の預言が与えられることもあるのです。民数記22章では、占い師バラムによってイスラエルの民に預言が与えられました。或いは、イエス様の時代においては、ヨハネによる福音書を見ますと、時の大祭司カイアファによってキリストの贖いの死についての預言が与えられています。ヨハネの福音書11:49~51を御覧ください。

“彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。”

つまり、サウルは不本意ながら、恍惚状態の中にあって、自らの王位の廃位をパフォーマンスによって預言したのです。この預言によって、神がこれまでサムエルに対し語って来られたことの正しさ、或いはダビデに対し油を注いだことの正しさなどが、もう一度確認させられました。ダビデはどれほど励まされたことでしょうか。

結論

ダビデは、サウルによって与えられる不当な攻撃と困難の意味を理解することは出来ませんでした。しかし、そのような中にあって、ダビデは決して自分自身の考えや、自分の実力によって対抗しようとはせず、主だけが唯一の逃れ場であることを信じ、ひたすら忍耐しながら、神の時を待ち続けたのです。しかし私たち読者が見る時に、ダビデが一体なぜこのような訳の分からない苦難を受けたのかを容易に理解することが出来るのです。それはイエス様が受けられるであろう不当な苦難を、予表しているということです。つまりダビデは将来イエス様が受けられる苦難を共に与らせていただいたということです。1ペトロ2:19~21を御覧ください。

“不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。”

私たちの人生においても、到底納得することができない不当な苦しみを受けることがあるでしょう。しかし実は、この不当な苦しみこそ、主が担われた苦しみに共に与らせていただくことであり、それはキレネ人のシモンがイエス様の担われた十字架の木の横木を一緒に担がせていただいたことなのです。ですから不当の苦しみに合った時、私たちもダビデのように主だけが唯一の逃れ場であることを信じ、忍耐しながら、神の時を待ち続けることが出来るのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

다윗의 도망

2020년 1월 12일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 19장 1~24절

사울은 마음속에 있는 질투와 두려움 때문에 은연중에 다윗을 죽음으로 몰아넣으려 하였으나 그러면 그럴수록 다윗은 유다와 온 이스라엘의 사랑을 받았고, 요나단으로부터 자신의 생명처럼 사랑을 받았고, 그리고 미갈에게도 사랑을 받는 결과가 되었습니다. 사울의 분노는 드디어 불타올라 다윗을 평생의 적으로 간주하는데, 이는 곧 사울 자신의 파멸 선언이기도 하겠죠. 18장 까지만 해도 사울은 은밀히 마음속으로 다윗을 죽이려고 계책을 썼지만, 오늘 19장에서는 요나단과 신하 모두를 모아 다윗을 죽일 것을 공개적으로 말합니다. 사울은 결국 선을 넘고 말았다고 할 수 있겠습니다. 죄는, 작을 때 회개와 고백으로 해결하고 처리하지 않으면 점점 커집니다. 우리도 남에게 시기심이나 질투를 할 수 있잖아요. 그러나 그 죄를 그대로 방치해 둔다면 사울처럼 어느새 스스로도 통제할 수 없게 되어 선을 넘고 마는 것입니다. 다윗이 도대체 무엇을 했기 때문에 목숨을 위협 받게 된 것일까요. 이것은 분명히 사울에 의한 일방적인 갑질이자 살인 미수입니다. 그러나 사울의 이런 부당한 공격에 대해 다윗은 결코 자신의 생각이나 자신의 실력으로 맞서려 하지 않았습니다. 오직 주님만을 의지하는 자세로 어려움에 대처하며 하나님의 때를 한결같이 기다렸습니다. 결과적으로 고난을 통해 도리어 다윗이야말로 하나님의 나라 이스라엘을 다스려가는 하나님의 종이라는 하나님의 증표를 받게 되었습니다. 다윗이 어떻게 오직 하나님만을 의뢰하고 하나님의 때를 계속 기다렸는지 살펴보겠습니다.

주제 1 요나단에 의한 도움

첫째, 하나님께서는 다윗에게 중보자를 보내주셨습니다. 우리 그리스도인들의 믿음의 걸음도 마찬가지로 중보자 예수님과의 만남에서 시작됩니다. 요나단은 자신이 왕족인 왕자이면서 18장에서 미천한 신분인 다윗에게 자신의 왕자복을 주고 자신의 분신으로 간주해 주었습니다. 19장에서도 중보자로서 논리적으로 확실하게 다윗을 변호해 줍니다. 19장 1~6절을 보시기 바랍니다.

1 사울이 그의 아들 요나단과 그의 모든 신하에게 다윗을 죽이라 말하였더니 사울의 아들 요나단이 다윗을 심히 좋아하므로

2 그가 다윗에게 말하여 이르되 내 아버지 사울이 너를 죽이기를 꾀하시느니라 그러므로 이제 청하노니 아침에 조심하여 은밀한 곳에 숨어 있으라

3 내가 나가서 네가 있는 들에서 내 아버지 곁에 서서 네 일을 내 아버지와 말하다가 무엇을 보면 네게 알려 주리라 하고

4 요나단이 그의 아버지 사울에게 다윗을 칭찬하여 이르되 원하건대 왕은 신하 다윗에게 범죄하지 마옵소서 그는 왕께 득죄하지 아니하였고 그가 왕께 행한 일은 심히 선함이니이다

5 그가 자기 생명을 아끼지 아니하고 블레셋 사람을 죽였고 여호와께서는 온 이스라엘을 위하여 큰 구원을 이루셨으므로 왕이 이를 보고 기뻐하셨거늘 어찌 까닭 없이 다윗을 죽여 무죄한 피를 흘려 범죄하려 하시나이까

6 사울이 요나단의 말을 듣고 맹세하되 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하거니와 그가 죽임을 당하지 아니하리라

요나단은 사울이 그동안 다윗에 대해 품었던 초조함은 일절 언급하지 않고 다윗이 사울에게 행한 일은 심히 선했다는 것을 강조하면서 왕이신 분이 무고한 자의 피를 흘려 죄를 짓지 말라고 권하자 사울은 설득당하고 맹세하면서 다윗의 생명의 안전을 보장했습니다. 다윗은 사울의 궁전으로 돌아가게 됩니다. 우리 삶에서도 하나님의 백성으로 믿음의 걸음을 시작함에 있어 첫째로 중보자이자 변호자이신 예수님을 만나면, 믿음생활 가운데 곤란이나 고난이 찾아왔을 때 도피처, 피난처가 되어 주시는 것입니다.

주제 2 미갈에 의한 도움

그러나 한때 찾아온 평안도 잠시였습니다. 다윗이 블레셋인과의 싸움에서 승리해 큰 타격을 입히자 사울은 다시 자신을 통제할 수 없게 되어 수금을 치던 다윗에게 창을 던져 죽이려 했던 것입니다. 사울이 다윗에게 창을 던지는 일은 과거에도 두 번 있었습니다( 그 일이 18장 11절에 쓰여 있습니다). 그러니까 이번이 세 번째가 됩니다. 다윗은 왕궁에서 도망쳤고, 그날은 난을 피했습니다. 그러나 사울은 다윗의 집에 전령들을 보내 다윗을 감시하게 하고 다음날 아침에는 다윗을 죽이라고 명령했습니다. 다윗의 아내 미갈은 아버지가 보낸 전령이 다윗을 죽이려는 것을 재빨리 알아차리고 밤사이 다윗을 창에서 달아 내려 탈출시킵니다. 그리고 미갈이 우상을 가져다가 침상에 누이고 염소 털로 엮은 것을 그 머리에 씌우고 의복으로 그것을 덮고 자뭇 다윗이 거기에 자고 있는 것처럼 가장해 전령의 눈을 속였습니다. 막상 사울이 보낸 전령이 다윗을 잡으려 할 때, 미갈은 「그가 병들었느니라」라고 말하므로 전령은 그곳에 돌입하는 것을 단념했습니다. 아마도 당시 군인들에게 무방비 상태의 환자는 죽이지 않는다는 암묵적인 양해가 있었던 것으로 보입니다. 일단 그 일을 사울에게 전하자 사울이 또 전령들을 보내어 병에 걸려있어도 상관하지말고「그를 침상째 내게로 들고 오라 내가 그를 죽이리라」고 명령했습니다. 다시 전령들이 도책했을 때에야 다윗이 그곳에 없다는 것이 발각되었습니다. 미갈은 아버지 사울도 속여 다윗을 도망치게 하기 위한 시간을 벌었던 것입니다. 이때 사울의 명령을 방해하고 가장 사울에게 격렬하게 저항한 요인은 다윗의 전략이나 다윗의 민첩함이 아니라 다윗을 철저히 지키고 구하려는 사울의 자녀들이었습니다. 다윗은 어떻게든 죽음을 면하지만, 여기서도 다윗이 자발적으로 무언가를 했다기보다 하나님만 의지하는 가운데 탈출의 길이 열려갔다는 것이 묘사된 것입니다. 우리가 다윗의 입장을 헤아린다면 자신을 괴롭히고 자신의 죽음을 노리고 있는 적이 블레셋 사람이 아니라 사울에 의해 보내진 이스라엘군이었다는 것이 얼마나 괴로웠을까요. 도망가는 가운데 말로 다 할 수 없는 억울함과 슬픔이 복받쳤을 것에 틀림이 없습니다. 시편 59편에는 이 도망 가운데 다윗 자신의 심경이 담겨 있습니다. 시편 59편을 여시기 바랍니다. 표제에는 「사울이 사람을 보내어 다윗을 죽이려고 그 집을 지킨 때」라고 적혀 있죠. 59편 14~17절을 보세요.

14 그들에게 저물어 돌아와서 개처럼 울며 성으로 두루 다니게 하소서

15 그들은 먹을 것을 찾아 유리하다가 배부름을 얻지 못하면 밤을 새우려니와

16 나는 주의 힘을 노래하며 아침에 주의 인자하심을 높이 부르오리니 주는 나의 요새시며 나의 화난날에 피난처심이니이다

17 나의 힘이시여 내가 주께 찬송하오리니 하나님은 나의 요새이시며 나를 긍훌히 여기시는 하나님이심이니이다

다윗은 이유를 알 수 없는 부당한 어려움 속에서 오직 주님만을, 피난처로 더 의뢰한 결과 예기치 못한 곳에서 즉 우상이 사용되어지고, 사울의 자녀들을 통해서 도움의 손길이 뻗쳐왔습니다. 또한 이 시편에서 특히 주목할 점은 마지막에는 은혜로운 주님에 대한 찬송으로 바뀌었다는 것입니다. 마지막으로 주님에 대한 찬송으로 바뀐 이유는 이 후에 살펴보겠지만 주님 자신이 직접 개입해 주셨기 때문입니다.

주제 3 하나님의 도우심

다윗은 라마의 사무엘에게로 도망갔습니다. 사무엘은 그곳에서 마치 신학교 교장처럼 사역하며, 제자들에게 하나님의 신탁이나 하나님의 계시인 예언에 대해 가르치고 있었습니다. 아마도 다윗은 사무엘과 잠시 시간을 보내면서 여러가지에 대해 이야기를 나눴을 것이고, 자신이 사울로부터 부당하게 고통을 받은 것에 대해서 사무엘에게 호소했을 것입니다. 사무엘은 확실히 다윗에게 새로운 왕으로 기름을 부었습니다. 그런데 다윗의 고난이란 기름부음을 받은 뒤 시작된 것입니다. 사울 때는 기름부음을 받은 뒤 얼마 지나지 않아 왕으로 즉위했는데 왜 다윗에 한해 이런 고난의 연속이 닥치는지 충분히 납득할 만한 설명을 하는 것은, 사무엘도 아마 하지 못했을 것으로 생각됩니다. 어쩌면 사무엘은 자신이 하나님의 말씀을 잘못 들은 것은 아닐까 하고 불안이나 망설임, 의심 등도 생기고 있었을지도 모릅니다. 그럴 때 아주 기이한 사건이 일어났습니다. 사울은 다윗을 암살하기 위해 전령을 보내는데, 전령이 선지자 무리가 예언하는 것과 사무엘이 그들의 수령으로 선 것을 볼 때에 하나님의 영이 사울의 전령들에게 임하매 그들도 예언을 하게 된 것입니다. 체포하러 나갔다가 함께 예배 무리에 포함되어 황홀경의 체험을 하고 임무를 수행할 수 없게 된 것입니다. 그 후 사울은 두 번 전령을 보내지만 두 번 모두 결과는 같았습니다. 사울에게는 “도대체 무엇들을 하고 있는 것인가!”라는 생각이 들었을 것입니다. 마침내 사울 자신이 직접 다윗을 체포하기 위해 라마 나욧으로 향했습니다. 그러나 역시 하나님의 개입으로 인해 전령들과 같은 체험을 하게 됩니다. 22~24절을 봐 주세요.

22 이에 사울도 라마로 가서 세구에 있는 큰 우물에 도착하여 물어 이르되 사무엘과 다윗이 어디 있느냐 어떤 사람이 이르되 라마 나욧에 있나이다

23 사울이 라마 나욧으로 가니라 하나님의 영이 그에게도 임하시니 그가 라마 나욧에 이르기까지 걸어가며 예언을 하였으며

24 그가 또 그의 옷을 벗고 사무엘 앞에서 예언을 하며 하루 밤낮을 벗은 몸으로 누웠더라 그러므로 속담에 이르기를 사울도 선지자 중에 있느냐 하니라

사울의 황홀 상태는 전령들의 황홀경의 상태보다 더 격렬했습니다. 하나님의 영에 사로잡혀 무의식 상태에서 격렬하게 예언을 하고 왕복을 벗어던져 하루 밤낮을 벗은 몸으로 누워있었습니다. 그 저항하기 어렵고 설명할 수 없는 힘 앞에서 사울은 손발을 쓸 수 없었습니다. 그런데 당시 벌거벗은 것은 부끄러움의 상징이었습니다. 요한계시록 16장 15절을 보시기 바랍니다.

보라 내가 도둑 같이 오리니 누구든지 깨어 자기 옷을 지켜 벌거벗고 다니지 아니하며 자기의 부끄러움을 보이지 아니하는 자는 복이 있도다

더 말하면 사울은 지금 사무엘 앞에서 왕복을 벗고 있습니다. 사무엘이 누구냐면 바로 사울을 왕으로 세운 사람이었습니다. 그 사무엘 앞에서 사울은 자신의 신분을 나타내는 왕복을 벗고 수치를 드러냄으로써 자신의 왕위의 폐위를 상징적으로 예언했던 것입니다. 즉 이 사건은 사울의 왕위 폐위식이기도 하였던 것으로 해석됩니다. 하나님이 예언을 주실 때는 말씀에 의해서만이 아니라 퍼포먼스에 의해서 주실 때도 있습니다. 또한 반드시 믿음을 가진 자를 통해 예언이 주어지는 것은 아닙니다. 때로는 불신자를 이용해 본인의 의도와는 상관없이 하나님의 예언이 주어지기도 합니다. 민수기 22장에서는 점쟁이 발람에 의해 이스라엘 백성에게 예언이 주어졌습니다. 또는 예수님 시대에 요한복음을 보면 대제사장 가야바에 의해 그리스도의 속죄의 죽음에 대한 예언이 주어져 있습니다. 요한복음 11장 49~52절을 보시기 바랍니다.

49 그 중의 한 사람 그 해의 대제사장인 가야바가 그들에게 말하되 너희가 아무 것도 알지 못하는도다

50 한 사람이 백성을 위하여 죽어서 온 민족이 망하지 않게 되는 것이 너희에게 유익한 줄을 생각하지 아니하는도다 하였으니

51 이 말은 스스로 함이 아니요 그 해의 대제사장이므로 예수께서 그 민족을 위하시고

52 또 그 민족만 위할 뿐 아니라 흩어진 하나님의 자녀를 모아 하나가 되게 하기 위하여 죽으실 것을 미리 말함이러라

즉 사울은 본의 아니게 황홀경의 상태에서 자신의 왕위의 폐위를 퍼포먼스에 의해 예언한 것입니다. 이 예언에 따라 하나님께서 그동안 사무엘에게 말씀해 주신 것의 정확함, 혹은 다윗에게 기름부은 것의 정확함 등이 다시 한 번 확인되었습니다. 다윗이 얼마나 격려를 받았을까요?

결론

다윗은 사울에 의해 주어지는 부당한 공격과 곤란의 의미를 이해할 수 없었습니다. 그러나 그런 가운데 다윗은 결코 자기 자신의 생각이나 자기 실력에 따라 맞서려 하지 않고 주님만이 유일한 피난처임을 믿고 오로지 인내하며 하나님의 때를 계속 기다렸습니다. 그러나 우리 독자가 볼 때 다윗이 도대체 왜 이런 까닭 모를 고난을 받았는지를 쉽게 이해할 수 있는 것입니다. 그것은 예수님이 받으셨던 부당한 고난을 예표하고 있다는 것입니다. 즉 다윗은 장차 예수님이 받으시는 고난을 함께 받고 있다는 것입니다. 베드로전서 2장 19~21절을 보시기 바랍니다.

19 부당하게 고난을 받아도 하나님을 생각함으로 슬픔을 참으면 이는 아름다우나

20 죄가 있어 매를 맞고 참으면 무슨 칭찬이 있으리요 그러나 선을 행함으로 고난을 받고 참으면 이는 하나님 앞에 아름다우니라

21 이를 위하여 너희가 부르심을 받았으니 그리스도도 너희를 위하여 고난을 받으사 너희에게 본을 끼쳐 그 자취를 따라오게 하려 하셨느니라

우리의 삶에도 도저히 납득할 수 없는 부당한 고통을 받을 수 있을 것입니다. 그러나 사실은 이 부당한 고통이야말로 주님이 짊어진 고통에 함께 참여 하는 것이고, 그것은 구레네 사람 시몬처럼 예수님이 짊어지셨던 십자가 나무를 함께 짊어 지는 것입니다. 그래서 부당한 고통을 당했을 때 우리도 다윗처럼 주님만이 유일한 피난처임을 믿고 인내하면서 하나님의 때를 계속 기다릴 수 있는 것입니다.

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