2020年01月05日「サウルの妬みと恐れ 사울의 질투와 두려움」

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サウルの妬みと恐れ 사울의 질투와 두려움

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 18章6節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

18:6皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。
18:7女たちは楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。」
18:8サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」
18:9この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
18:10次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが
18:11ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした。
18:12主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、
18:13ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。
18:14主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。
18:15サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた。
18:16イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した。彼が出陣するにも帰還するにも彼らの先頭に立ったからである。
18:17サウルはダビデに言った。「わたしの長女メラブを、お前の妻として与えよう。わたしの戦士となり、主の戦いをたたかってくれ。」サウルは自分でダビデに手を下すことなく、ペリシテ人の手で殺そうと考えていた。
18:18ダビデはサウルに言った。「わたしなど何者でしょう。わたしの一族、わたしの父の一族などイスラエルで何者でしょう。わたしが王の婿になるとは。」
18:19ところが、サウルの娘メラブはダビデに嫁ぐべきときに、メホラ人アドリエルに嫁がせられた。
18:20サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。それをサウルに告げる者があり、サウルは好都合だと思った。
18:21サウルは、「彼女を与えてダビデを罠にかけ、ペリシテ人の手にかけよう」と考え、ダビデに言った。「二番目の娘を嫁にし、その日わたしの婿になりなさい。」
18:22サウルは家臣に命じた。「ダビデにひそかにこう言え。『王はあなたが気に入っておられるし、家臣たちも皆、あなたを愛しているのだから、王の婿になってください。』」
18:23サウルの家臣はこれらの言葉をダビデの耳に入れた。ダビデは言った。「王の婿になることが、あなたたちの目には容易なことと見えるのですか。わたしは貧しく、身分も低い者です。」
18:24サウルの家臣は、ダビデの言ったことをサウルに報告した。
18:25サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。
18:26家臣はダビデにこのことを告げた。ダビデはこうして王の婿になることは良いことだと思い、何日もたたないうちに、
18:27自分の兵を従えて出立し、二百人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰った。王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。
18:28サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、
18:29ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。
18:30ペリシテの将軍たちが出撃して来ると、ダビデはそのたびにサウルの家臣のだれよりも武勲を立て、名声を得た。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 18章6節~30節

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序論

本日は、ダビデに対するサウルの妬みと恐れが一体どこから来ているのかを調べていきますが、それはサウル自身の罪から出てきているものでした。罪とは一体何かというと、神の律法、或いは神の法に背を向けることであり、「不法」と呼ばれます。本日の箇所を通してサウルの態度が一貫して神の法に背を向けて、肉の法に従っているのを見ることになりますが、そのことを通して私たちはサウルの妬みと恐れが、サウル自身の罪から出ていることを明確に知ることが出来るのです。罪とは大変恐ろしいもので、毎日テレビから報道される悲惨なニュースを見てもわかるように、死、悲しみ、悲惨は、すべてこの罪に起因しています。罪には必ず刑罰が伴いますが、まだ神の国が完成されていないこの世にあって、罪の裁きが公正になされるわけではありません。神は忍耐して長くこらえておられるからです。そしてもう一点付け加えるなら、不思議なことに、神はエジプトのファラオの頑なさを通して十の災いと出エジプトの栄光を現わされたように、神はサウルの罪をもご自身の栄光のためにお用いになられるのです。

主題1 主が共におられるダビデに対する民とサウルの反応

ダビデは、40日の間イスラエルを震え上がらせたゴリアトを倒したことにより、王宮に招き入れられるようになりました。サウルとダビデが戦いから戻り、凱旋すると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出てきて、太鼓を打ち、喜びの声を上げて、踊りながら「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌いました。ところがこの歌のために、宮に召された当初から、ダビデの将来が順風満帆ではない兆しが現れてきます。8節を見ますと「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」とサウルの反応が書かれているように、サウルは彼女たちの歌を妬み中で聞いたからです。もし「サウルは万を討ち、ダビデは千を討った」と歌ったなら何ら問題はなかったでしょう。しかし、もともと、この歌の真意は、決して戦いから戻って来たサウルをダビデと比較して貶めようとするのではありませんでした。「サウルもダビデも二人とも、たくさんの敵を討った」という意味です。聖書の中で「千」と「万」が並行して使用される場合、常に「たくさん」を意味するからです。詩篇91:7とミカ6:7を御覧ください。

“あなたの傍らに一千の人/あなたの右に一万の人が倒れるときすら/あなたを襲うことはない。”

ミカ6:7“主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。”

ですから、ちょうどプリズムが光を屈折させるように、サウルは自らの罪によって疑いのプリズムを通してこの歌を聞いてしまったのです。それに、たとえ彼女たちが、ダビデをサウルより英雄視したとしても、なんら問題にはならなかったはずです。なぜならダビデがいくら民の人気を独占しても、彼はサウルの部下の一人に過ぎないからです。しかし自尊心が低く、劣等感の強いサウルは、この瞬間からダビデのことを妬ましく思い始めました。凱旋の翌日、激しい妬みによってサウルの精神的な病気が再発してしまいます。ダビデを殺そうと二度も槍を投げたのです。そしてダビデを恐れるようになりました。12~16節を御覧ください。

“主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した。彼が出陣するにも帰還するにも彼らの先頭に立ったからである。サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた。”

サウルはなぜダビデを恐れたのでしょうか。ダビデにはサウルにはないものがありました。それは「主が共におられる」という事実です。「主がダビデと共におられること」によって、イスラエルもユダも、サウルを除いた全ての人がダビデに魅了されダビデを愛するようになりますが、サウルだけは、なぜか、「主がダビデと共におられること」によって、ダビデを恐れ始めました。ここにサウルの反応と全イスラエルの反応の奇妙な対照が描かれています。サウルはダビデを自分から離れさせ、できればダビデを戦場で死ぬことを期待し、ダビデに千人隊長の位を与え、宮から送り出しました。しかしサウルの期待とは異なり、千人隊長となったダビデは戦いに勝利し続け、兵士や民たちの心を捉える結果となりました。

主題2 日の出の勢いのダビデと、没落していくサウル

ダビデを除去するために、次にサウルが用いたのは色仕掛けです。イスラエルに限らず古代の王たちは、戦いにおいて勇猛果敢に武勲を立てた人に対して、自分に忠誠を誓わせるために、王家の娘と政略結婚をさせました。それが社会的、政治的な同盟となり、両家にとって有益なものだったからです。それに、サウルは、「ゴリアトを殺した者に娘を与える」という約束を、まだダビデに果たしていなかったということもあり、長女メラブを与えるから、いよいよ「主の戦いを戦ってくれ。」とダビデに薦めました。17節に書かれているように、サウルの心の中は、ペリシテ人の手によってダビデを殺させるようにしようと考えていたのです。18節でダビデは結婚の薦めに対し「わたしなど何者でしょう。わたしの一族、わたしの父の一族などイスラエルで何者でしょう。わたしが王の婿にあるとは。」と謙遜に答えました。いざ、メラブがダビデに嫁ぐ時に、なぜか、サウルは他の人にメラブを嫁がせてしまいます。その後、次女のミカルがダビデを愛していることを知ったサウルは、それを利用しようとします。22~25節を御覧ください。

“サウルは家臣に命じた。「ダビデにひそかにこう言え。『王はあなたが気に入っておられるし、家臣たちも皆、あなたを愛しているのだから、王の婿になってください。』」サウルの家臣はこれらの言葉をダビデの耳に入れた。ダビデは言った。「王の婿になることが、あなたたちの目には容易なことと見えるのですか。わたしは貧しく、身分も低い者です。」サウルの家臣は、ダビデの言ったことをサウルに報告した。サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。”

当時、結婚する際には、新郎側から結納金を新婦側の家に支払うことが慣例となっていましたので、ダビデは、今度も謙遜に「私は貧しく、身分も低い者です」と言って結婚を辞退しようとしました。するとサウルの方から、ペリシテ人の陽の皮100枚という提案を出して来ました。陽の皮とは、男性の生殖器の皮ですが、無割礼のペリシテ人の陽の皮を100枚を、花嫁料として提案したのです。ダビデの命を危険にさらす大変難しい提案です。しかし何日も立たないうちに、今度もサウルの期待とは異なり、100枚とは言わず、200人を殺してその包皮を持ってきたので、今度ばかりはミカルをダビデに花嫁として与えないわけにはいきませんでした。サウルの、いろいろな陰謀にも関わらず、かえって上昇していくダビデに、サウルはいよいよ恐怖を感じるようになりました。そしてこの事を通して、サウルは今一度悟ることになります。「主がダビデと共におられる」ということです。28~29節を御覧ください。

“サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、

ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた。”

実際、この後もサウルは死ぬまで一度たりともダビデに勝利することは出来ません。聖書にはサウルがダビデを恐れた理由について明確に述べています。「主がダビデと共におられるから」ということです。つまり、サウルが本当に恐れているのは、ダビデの背後におられる主なる神であったということです。サウルが、ダビデを生涯、敵に回すということは、即ち主なる神を永久に敵に回すということなのです。サウルの怒りが燃え上がり、ダビデを取り除こうとすればするほど、ダビデは上昇しサウルは衰退することになっていきました。

主題3 サウルを通して見えてくる罪の性格

サウルのダビデに対する敵対心は、イエス様を前にした、悪霊たちの叫びにも似ています。マルコ1:24を御覧ください。

“ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。”

罪とは、不法であり、神の律法、或いは神の法に背くことですが、それでは、罪を犯すようにさせる悪の力とは一体何かということになりますが、18:10~11を御覧ください。

“次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした。”

この聖句を、よくマニ教やグノーシス主義の人々は、彼らの主張の証拠聖句として見做します。つまり、旧約聖書の神は、悪霊を人間に送るような残酷で酷い神であり、愛と恵みの新約聖書に書かれている神とは別の神であると主張するのです。彼らがこのように間違って主張する原因は、罪にはその実体があるというところからスタートするからです。もし罪が実体を持ち、神によって創造されたのなら、神が創造されたものはすべて善であるため、罪も善いものでなければなりません。それはおかしいということで、考え出されるのは、ヤハウェなる神とは別に、他の神によって罪が創造されたと考えて、この世を、神の世界と悪魔の世界の二つの世界の対決として捉えるのです。しかし聖書には明確にサタンや悪霊たちは、罪を犯した堕落した天使たちであって、サタンも悪霊も堕落する以前は、神の善なる被造物であったと書かれています。堕落が起きる前、神が天地を創造された時には罪はなく全てが善かったと書かれています。従って罪とか悪というのは、神学的には、実在する何かではなく、「善の欠如」というふうに呼ばれます。たとえば、強盗犯の家族を覗いて見ることができるなら、彼らがいくら悪い強盗犯であると言っても、彼ら自身の家族に対しては、悪いことをすることはなく愛を持って接し、子どもに対して毒や蛇を与えるのではなく、お土産の一つや二つ買ってあげるからです。もし罪や悪が実在として存在するなら、彼らの中心である、家族やグループ内において罪や悪が蔓延し、その極度に至るはずなのにそうではないからです。或いは、反社会的詐欺反グループの中を覗いて見ることができるなら、彼らがいくら反社会的グループであるとしても、グループ内においては、反社会的ルールではなく、むしろ報告、連絡、相談が秩序正しくなされ、詐欺によって儲けたお金をリーダーが子分に分配し、凶悪グループ内において、公平と誠実さがまかり通っているからです。従って、罪はそれ自体では存在することができず、善なるものに寄生することしかできませんし、自らは何も所有することもできません。神が創造された存在と力なしでは何もすることができませんが、一たび被造物に寄生すると、全てを腐敗させ、全てのものが創造主に対抗するように組織化し、善を破壊させ、悲惨と死へ追いやるのです。ですから罪とは自分自身が依存している、すべての善なるものの破壊を追求しながら、同時に、自分自身をも死ぬように工作しているということです。私たちがお金や、暮らし向きや、名誉、権力に執着しそれらを愛する時、罪の力がものすごく強力であると圧倒されますが、その力とは、実は人が本来、神を愛する同じ愛であって、罪自体がその力を所有しているのではないということです。神に向けられる力が違う方向に向けられているのです。或いは、偽りを真理のように見せかけて、人々を世に仕えさせる時に、罪の支配力の前に圧倒されますが、実はその知識の鋭さと奥深さとは、本来、人に備わった善なる能力であるということです。神の形に創造された人間は、アダムの犯した罪によって罪が転嫁され、全人類は原罪を持つ者として生まれてきました。しかし堕落したからと言って、人は広い意味において、神の形を喪失したり、能力や力を喪失したわけではありません。神との交わりが絶たれ、神様に対して背を向けるようになり、神から離れた方向に、それらを働かせるようになってしまったのです。腐敗したために、神の法に従うのではなく、肉の法に従うようにされたのです。サウルを通して見えてくる罪とは、まさに神の法に徹底的に背くという性質をもっていました。しかし、神さまは怒るのに遅く人間の罪に長く忍耐され、そして不思議なことに人間の罪を、ご自身の栄光のための道具として用いられるということです。サウルの罪によって、ダビデはいよいよ上昇し、頭角を現し、ユダと全イスラエルに愛されようになったのです。

結論

罪は必ず刑罰を伴います。イエス様によって罪が贖われることがなければ、必ず罪は刑罰を受けなければなりません。しかしこの世においては、神の刑罰は完全にくだされることはなく、正しく裁かれることもありません。キリスト者はこの世に、はびこる不法を嘆く以外にないかと思われますが、不思議なことに神様はこの世の罪をご自身の摂理のためにお用いになられ、ご自身の栄光を現わされるのです。私たちもこの世にあって、権力に抑圧されたり、人々の悪意にさらされ、苦しめられることもあるかもしれませんが、主が私たちと共におられることを忘れないようにしましょう。神は私たちが乗り越えられない試練をお与えになることはありません。そして、悪者がこの世において、いくら繁栄し、罪を隠蔽して、公正な裁きから巧みに逃れたとしても、死んだ後に、必ず神の審判台の前に立ち、自分のした全ての行いに応じて裁かれるのです。最後に1コリント10:13をお読みします。

“あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。”

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사울의 질투와 두려움

2020년 1월 5일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 18장 6~30절

서론

오늘은 다윗에 대한 사울의 질투와 두려움이 도대체 어디서 비롯되었는지를 알아보겠는데, 그것은 사울 자신의 죄에서 나오는 것이었습니다. 죄란 도대체 무엇이냐 하면 하나님의 율법 혹은 하나님의 규례에서 등을 돌리는 것으로 「불법」이라고 불립니다. 오늘의 구절을 통해 사울의 태도가 일관되게 하나님의 법을 외면하고 육의 법을 따르는 것을 보게 되는데, 그 일을 통해 우리는 사울의 질투와 두려움이 사울 자신의 죄에서 나온다는 것을 명확히 알 수 있습니다. 죄란 매우 두려운 것으로 매일 TV에서 보도되는 비참한 뉴스를 봐도 알 수 있듯이 죽음, 슬픔, 비참은 모두 이 죄에서 기인하고 있습니다. 죄에는 반드시 형벌이 따르지만 아직 하나님의 나라가 완성되지 않은 이 세상에서 죄의 심판이 공정하게 이루어지는 것은 아닙니다. 하나님이 인내하시고 오래 참고 계시기 때문입니다. 그리고 한 가지 더 덧붙이자면, 기이하게도 하나님은 애굽의 바로의 강퍅함을 통해 열 가지 재앙과 출애굽의 영광을 나타내셨듯이 하나님은 사울의 죄도 자신의 영광을 위해 쓰시는 것입니다.

주제 1 여호와가 함께 하시는 다윗에 대한, 백성과 사울의 반응

다윗은 40일 동안 이스라엘을 떨게 했던 골리앗을 쓰러뜨림으로써 왕궁으로 초대받게 되었습니다. 사울과 다윗이 싸움에서 돌아와 개선하자 이스라엘의 모든 성읍에서 여인들이 나와서 노래하며 춤추며 소고와 경쇠를 가지고「사울이 죽인 자는 천천이요 다윗은 만만이로다」라고 뛰놀며 노래 했습니다. 그런데 이 노래 때문에 궁에 온 처음부터 다윗의 앞날이 순풍에 돛 단 것이 아니라는 조짐이 나타납니다. 8절을 보면 「다윗에게는 만만을 돌리고 내게는 천천만 돌리니 그가 더 얻을 것이 나라 말고 무엇이냐」라는 사울의 반응이 적혀 있듯이 사울은 그녀들의 노래를 질투하는 가운데 들었기 때문입니다. 만약 「사울은 만만이요 다윗은 천천이로다」라고 불렀다면 아무 문제가 없었을 것입니다. 그러나 원래 이 노래의 진의는 결코 전투에서 돌아온 사울을 다윗과 비교하여 깍아내리려는 것이 아니었습니다. 「사울도 다윗도 둘 다 많은 적을 무찔렀다」는 뜻입니다. 성경 속에서 「천」과「만」을 병행하여 사용 할 경우 항상 「많음」을 의미하기 때문입니다. 시편 91편 7절과 미가 6장 7절을 보시기 바랍니다.

시편 91편

7 천 명이 네 왼쪽에서, 만 명이 네 오른쪽에서 엎드러지나 이 재앙이 네게 가까이 하지 못하리로다

미가 6 장

7 여호와께서 천천의 숫양이나 만만의 강물 같은 기름을 기뻐하실까 내 허물을 위하여 내 맏아들을, 내 영혼의 죄로 말미암아 내 몸의 열매를 드릴까

그래서 마침 프리즘이 빛을 굴절시키듯이 사울은 스스로의 죄로 인해 의심이라는 프리즘을 통해 이 노래를 듣고 말았습니다. 게다가 비록 그녀들이 다윗을 사울보다 영웅시했다 하더라도 아무런 문제가 되지 않았을 것입니다. 왜냐하면 다윗이 아무리 백성의 인기를 독차지하더라도 그는 사울의 부하 중 한 명에 지나지 않기 때문입니다. 하지만 자존감이 낮고 열등감이 강한 사울은 이 순간부터 다윗을 시기하기 시작했습니다. 개선 다음날 심한 질투로 인해 사울의 정신적인 병이 재발하게 됩니다. 다윗을 죽이려고 두 번이나 창을 던진 것입니다. 그리고 다윗을 두려워하게 되었습니다. 12~16절을 보시기 바랍니다.

12 여호와께서 사울을 떠나 다윗과 함께 계시므로 사울이 그를 두려워한지라

13 그러므로 사울이 그를 자기 곁에서 떠나게 하고 그를 천부장으로 삼으매 그가 백성 앞에 출입하며

14 다윗이 그의 모든 일을 지혜롭게 행하니라 여호와께서 그와 함께 계시니라

15 사울은 다윗이 크게 지혜롭게 행함을 보고 그를 두려워하였으나

16 온 이스라엘과 유다는 다윗을 사랑하였으니 그가 자기들 앞에 출입하기 때문이었더라

사울은 왜 다윗을 두려워했을까요? 다윗에게는 사울에게는 없는 것이 있었습니다. 그것은 「여호와께서 함께 계신다」는 사실입니다. 「여호와께서 그와 함께 계시는 것」으로 인해 이스라엘도 유다도 사울을 제외한 모든 사람이 다윗에게 매료되어 다윗을 사랑하게 되는데, 사울만은 웬일인지 「여호와께서 그와 함께 계시는 것」으로 인해 다윗을 두려워하기 시작했습니다. 여기에 사울의 반응과 전체 이스라엘의 반응의 기묘한 대조가 그려져 있습니다. 사울은 다윗을 자신으로 부터 멀리하고, 가능하면 다윗이 전쟁터에서 죽기를 기대하며 다윗을 천부장으로 삼고 궁에서 내보냈습니다. 그러나 사울의 기대와는 달리 천부장이 된 다윗은 싸움에서 계속 승리하여 온 이스라엘과 백성의 마음을 사로잡는 결과가 되었습니다.

주제 2 출세하는 다윗과 몰락해 가는 사울

다윗을 제거하기 위해 다음으로 사울이 이용한 것은 미인계입니다. 이스라엘뿐만 아니라 고대 왕들은 전투에서 용맹스러운 무훈을 세운 사람에게 자신에게 충성을 맹세하게 하기 위해 왕가의 딸과 정략결혼을 시켰습니다. 그것이 사회적, 정치적 동맹이 되어 양가에 유익한 것이었기 때문입니다. 게다가 사울은 「골리앗을 죽인 자에게 딸을 주겠다」는 약속을 아직 다윗에게 이행하지 못했다는 것도 있어서, 「내 맏딸 멜랍을 줄 테니 오직 너는 나를 위하여 용기를 내어 여호와의 싸움을 싸우라」고 다윗에게 권했습니다. 17절에 적혀 있듯이 「내 손을 그에게 대지 않고 블레셋 사람들의 손을 그에게 대게 하리라」고 사울은 생각했던 것입니다. 18절에서 다윗은 결혼의 권유에 대해 「내가 누구며 이스라엘 중에 내 친속이나 내 아버지의 집이 무엇이기에 내가 왕의 사위가 되리이까」라며 겸손히 대답했습니다. 그러나 사울은 정작 딸 멜랍을 다윗에게 줄 시기에 다른 사람에게 시집보내 버렸습니다. 그 후 둘째 딸 미갈이 다윗을 사랑한다는 것을 알게 된 사울은 그것을 좋게 여겨 이용하려고 합니다. 22~25절을 보시기 바랍니다.

22 사울이 그의 신하들에게 명령하되 너희는 다윗에게 비밀히 말하여 이르기를 보라 왕이 너를 기뻐하시고 모든 신하도 너를 사랑하니 그런즉 네가 왕의 사위가 되는 것이 가하니라 하라

23 사울의 신하들이 이 말을 다윗의 귀에 전하매 다윗이 이르되 왕의 사위 되는 것을 너희는 작은 일로 보느냐 나는 가난하고 천한 사람이라 한지라

24 사울의 신하들이 사울에게 말하여 이르되 다윗이 이러이러하게 말하더이다 하니

25 사울이 이르되 너희는 다윗에게 이같이 말하기를 왕이 아무 것도 원하지 아니하고 다만 왕의 원수의 보복으로 블레셋 사람들의 표피 백 개를 원하신다 하라 하였으니 이는 사울의 생각에 다윗을 블레셋 사람들의 손에 죽게 하리라 함이라

당시 결혼할 때는 신랑 측에서 지참금을 신부 측 집에 내는 것이 관례였기 때문에 다윗은 이번에도 겸손하게 「나는 가난하고 천한 사람이라」하면서 결혼을 사퇴하려고 했습니다. 그러자 사울 쪽에서 블레셋 사람들의 표피 백 개라는 제안을 해 왔습니다. 표피란 남성의 생식기 가죽인데, 무할례인 블레셋 사람들의 표피 백 개를 지참금으로 제안한 것입니다. 다윗의 목숨을 위험에 빠뜨리는 매우 어려운 제안입니다. 그러나 며칠 지나지 않아 이번에도 사울의 기대와 달리 백 개도 아니고 이백 명을 죽이고 그들의 표피를 가져왔으니 이번에는 미갈을 다윗에게 신부로 주지 않을 수 없었습니다. 사울의 이런저런 음모에도 불구하고 오히려 상승해가는 다윗에게 사울은 드디어 두려움을 느끼게 되었습니다. 그리고 이 일을 통해 사울은 다시 한번 깨닫게 됩니다. 「여호와께서 다윗과 함께 계신다」는 것입니다. 28,29절을 보세요.

28 여호와께서 다윗과 함께 계심을 사울이 보고 알았고 사울의 딸 미갈도 그를 사랑하므로

29 사울이 다윗을 더욱더욱 두려워하여 평생에 다윗의 대적이 되니라

사실 이 후에도 사울은 죽을 때까지 단 한 번도 다윗에게 승리할 수 없습니다. 성경에는 사울이 다윗을 두려워한 이유에 대해 명확하게 서술하고 있습니다. 「여호와께서 다윗과 함께 계심을 사울이 보고 알았다」는 것입니다. 즉 사울이 정말 두려워하는 것은 다윗의 등 뒤에 계신 여호와 하나님이었다는 것입니다. 사울이 다윗을 평생 적으로 돌린다는 것은 곧 여호와 하나님을 영구히 적으로 돌린다는 것이었습니다. 사울의 분노가 불타오르고 다윗을 제거하려 하면 할수록 다윗은 상승하고 사울은 쇠퇴해 갔습니다.

주제 3 사울을 통해 보이는 죄의 성격

사울의 다윗에 대한 적개심은 예수님을 앞에 둔 더러운 귀신들의 외침과도 비슷합니다. 마가복음 1장 24절을 보시기 바랍니다.

나사렛 예수여 우리가 당신과 무슨 상관이 있나이까 우리를 멸하러 왔나이까 나는 당신이 누구인 줄 아노니 하나님의 거룩한 자니이다

죄란 불법이며, 하나님의 율법 혹은 하나님의 규례를 어기는 것인데, 그러면 죄를 짓게 하는 악의 힘이란 무엇인가 하는 것인데 18장 10,11절을 보시기 바랍니다.

10 그 이튿날 하나님께서 부리시는 악령이 사울에게 힘 있게 내리매 그가 집 안에서 정신 없이 떠들어내므로 다윗이 평일과 같이 손으로 수금을 타는데 그 때에 사울의 손에 창이 있는지라

11 그가 스스로 이르기를 내가 다윗을 벽에 박으리라 하고 사울이 그 창을 던졌으니 다윗이 그의 앞에서 두 번 피하였더라

이 성구를 흔히 마니교나 그노시스주의 사람들은 그들의 주장의 증거성구로 간주합니다. 즉 구약성경의 하나님은 악령을 인간에게 보내는 것과 같은 잔인하며 지독한 신이며, 사랑과 은혜의 신약성경에 적혀 있는 하나님과는 다른 신이라고 주장하는 것입니다. 그들이 이처럼 잘못 주장하는 원인은, 죄에는 그 실체가 있다는 데서 출발하기 때문입니다. 만약 죄가 실체를 가지고 하나님에 의해 창조된 것이라면, 하나님이 창조하신 것은 모두 선이기 때문에 죄도 선해야 합니다. 그것은 이상한 것으로, 생각할 수 있는 것은 여호와 하나님과는 별개로 다른 신에 의해 죄가 창조되었다고 생각하고, 이 세상을, 하나님의 세계와 악마의 세계 두 세계의 대결로 파악하는 것입니다. 그러나 성경에는 명확히 사탄이나 악령들은. 죄를 지은 타락한 천사들이었고, 사탄도 악령도 모두 타락하기 이전에는 하나님의 선한 피조물이었다고 적혀 있습니다. 타락이 일어나기 전 하나님이 천지를 창조하셨을 때에는 죄가 없고 모든 것이 선했다고 적혀 있습니다. 따라서 죄라든가 악이라는 것은, 신학적으로는 실재하는 무언가가 아니라「선의 결여」라는 식으로 불립니다. 가령 강도범의 가족을 들여다볼 수 있다면, 그들이 아무리 나쁜 강도범이라고 해도 그들 자신에 가족에 대해서는 나쁜 짓을 하지 않고 사랑으로 대하며, 아이에게 독이나 뱀을 주는 것이 아니라 선물 한두 개 사 주기 때문입니다. 만약 죄나 악이 실재로 존재한다면 그들의 중심인 가족이나 그룹내에서 죄나 악이 만연하고, 그 극도에 이를텐데도 그렇지 않기 때문입니다. 혹은 반사회적 사기그룹 속을 들여다볼 수 있다면, 그들이 아무리 반사회적 그룹이라 하더라도 그룹 내에서는 반사회적 규칙이 아니라 오히려 보고, 연락, 상담이 질서 있게 이루어지고 사기로 벌어들인 돈을 리더가 부하에게 분배하고, 흉악 그룹내에서 공평과 성실이 버젓이 잘 통하고 있기 때문입니다. 따라서 죄는 그 자체로는 존재할 수 없고, 선한 것에 기생할 수밖에 없으며, 스스로는 아무것도 소유할 수 없습니다. 하나님이 창조한 존재와 힘 없이는 아무것도 할 수 없지만, 한 번 피조물에 기생하면 모든 것을 부패시키고 모든 것이 창조주에 대항하도록 조직화하여, 선을 파괴시키고 비참과 죽음으로 몰아가는 것입니다. 그래서 죄란 자기 자신이 의존하고 있는 모든 선한 것의 파괴를 추구하면서 동시에 자기 자신도 죽도록 공작하고 있다는 것입니다. 우리가 돈이나, 생계나, 명예나, 권력에 집착하고 그것들을 사랑할 때 엄청나게 강력한 죄의 힘에 압도되는데, 그 힘이란 사실 사람이 본래 하나님을 사랑하는 사랑과 똑같은 사랑이지, 죄 자체가 그 힘을 소유하고 있는 것이 아니라는 것입니다. 하나님을 향해야 할 힘이 다른 방향으로 향하고 있는 것입니다. 또는 거짓을 진리처럼 꾸며서 사람들을 세상을 섬기게 할 때에 죄의 지배력 앞에 압도되지만, 실은 그 지식의 예리함과 심오함이란, 본래 사람에게 갖추어진 선한 능력이라는 것입니다. 하나님의 형상으로 창조된 인간은 아담이 지은 죄로 인해 죄가 전가되고 전 인류는 원죄를 가진 자로 태어났습니다. 그러나 타락했다고 해서 넓은 의미에서, 사람이 하나님의 형상을 상실하거나 능력이나 힘을 상실한 것은 아닙니다. 하나님과의 교제가 끊기고 하나님에 대해 등을 돌리게 되고 하나님으로부터 멀어진 방향으로 그것들이 작용하게 되어버린 것입니다. 부패했기 때문에, 육의 법을 따르고 하나님의 규례를 따르지 않게 된 것입니다. 사울을 통해 보이는 죄란 바로 하나님의 규례를 철저히 어기는 성질을 가지고 있었습니다. 그러나 하나님은 화를 내기에 더디고 인간의 죄에 오래 참으시고, 그리고 기이하게도 인간의 죄를 자신의 영광을 위한 도구로 사용하신다는 것입니다. 사울의 죄로 인해 다윗은 드디어 상승하고 두각을 나타내 유다와 온 이스라엘의 사랑을 받게 된 것입니다.

결론

죄는 반드시 형벌을 수반합니다. 예수님으로 인해 죄가 속죄되는 일이 없다면 반드시 죄는 형벌을 받아야 합니다. 그러나 이 세상에서 하나님의 형벌은 완전히 내려지지도 않고, 올바르게 재판되지도 않습니다. 그리스도인은 이 세상에 만연한 불법을 한탄할 수밖에 없다고 생각되지만, 기이하게도 하나님은 이 세상의 죄를 자신의 섭리를 위해 사용하시고, 자신의 영광을 나타내시는 것입니다. 우리도 이 세상에 있어 권력에 억압받거나 사람들의 악의를 겪으며 고통받을 수 있지만 주님이 우리와 함께 계신다는 것을 잊지 맙시다. 하나님은 우리가 극복할 수 없는 시련을 주시는 것이 아닙니다. 그리고 악한 자가 이 세상에서 아무리 번성하고 죄를 은폐하며 공정한 심판에서 교묘히 도망쳤다 하더라도 죽은 후에는 반드시 하나님의 심판대 앞에 서서 자신이 한 모든 행실에 따라 심판을 받게 됩니다. 마지막으로 고린도전서 10장 13절을 읽겠습니다.

사람이 감당할 시험 밖에는 너희가 당한 것이 없나니 오직 하나님은 미쁘사 너희가 감당하지 못할 시험 당함을 허락하지 아니하시고 시험 당할 즈음에 또한 피할 길을 내사 너희로 능히 감당하게 하시느니라.

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