2019年12月29日「ダビデの入廷 다윗의 입정(入廷)」

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ダビデの入廷 다윗의 입정(入廷)

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 17章41節~18章5節

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聖句のアイコン聖書の言葉

17:41ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。
17:42彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。
17:43このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、
17:44更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
17:45だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。
17:46今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。
17:47主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
17:48ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。
17:49ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。
17:50ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。
17:51ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
17:52イスラエルとユダの兵は立って、鬨の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。
17:53イスラエルの兵士はペリシテ軍追撃から帰ると、彼らの陣営を略奪した。
17:54ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。
17:55サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かうのを見て、軍の司令官アブネルに聞いた。「アブネル、あの少年は誰の息子か。」「王様。誓って申し上げますが、全く存じません」とアブネルが答えると、
17:56サウルは命じた。「あの少年が誰の息子か調べてくれ。」
17:57ダビデがあのペリシテ人を討ち取って戻って来ると、アブネルは彼を連れてサウルの前に出た。ダビデはあのペリシテ人の首を手に持っていた。
17:58サウルは言った。「少年よ、お前は誰の息子か。」「王様の僕、ベツレヘムのエッサイの息子です」とダビデは答えた。
18:1ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
18:2サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった
18:3ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、
18:4着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。
18:5ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 17章41節~18章5節

原稿のアイコン日本語メッセージ

序論

イスラエルの民の40日間の絶望の期間を経て、ついに代表戦士であるダビデとゴリアトの一騎打ちが始まろうとしています。この戦いを通して、17章は私たちに、主の救いとはどのようなものであるのか、啓示しています。つまり、主の救いとは、まさに人生の暗黒の中に希望の光としてもたらされるものであり、完全な弱さの中に表されました。救い出されたイスラエルの民は、ダビデによって、希望を持ち、万軍の主を仰ぎ見る信仰を学んだように、私たちも救い主イエスさまによって希望を持ち、自分の力ではなく主により頼む信仰によってこれからの人生を歩んでいくものとされるのであります。

主題1 始めに、「自分の実力を信じて戦うのではなく、万軍の主の御名によって戦うダビデ」という主題から見ていきましょう。

サウルの鎧を脱ぎ捨て、杖を持って羊飼いの姿で出てきたダビデに対してゴリアトは「私は犬なのか?」と侮辱されたようなふりをしました。恐らく無慈悲で容赦のないゴリアトにとって、ダビデは見た目があまりにも端麗で、若く、経験の足りない男子学生のように見えたのでしょう。そして、ダゴン神をはじめ諸々の神々によって呪い、ダビデを脅しにかかりました。43~44節を御覧ください。

“このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」”

一見すると、ゴリアトは心理戦においてもたけているように見えます。つまり40日の間イスラエルを言葉によって恐怖と暗闇のどん底に陥れ、今、さらに呪いの言葉によって、ダビデを戦意喪失させようとしているからです。ところがダビデは、そのような心理戦にはびくともしません。ダビデにとってこの戦いは、自分の実力を信じて戦うのではなく、万軍の主の御名によって戦うからです。45~46節を御覧ください。

“だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。”

ダビデはこの戦いを、自分自身の戦いではなく、ヤハウェと、世の神々を象徴するダゴンとの戦いであると認識していました。ダビデはただ主の戦いに参戦するだけでした。さらに言えば、ダビデはこの戦いの目的とは、「全地がイスラエルに神がいることを認めるよう、全地がイスラエルの神を讃美するようにする」という宣教的目的をもっていることも認識していました。ですから、ゴリアトの脅しに対して少しも臆せず、かえって、ゴリアトの言葉をそっくり、そのまま借用しながら、さらに上を行く心理戦を展開しているのです。日本語の聖書では少年ダビデの言葉遣いと無慈悲なゴリアトの言葉遣いに若干差がありますが、ヘブライ語聖書ではゴリアトの言葉をそのまま借用しています。46節を御覧ください。ダビデは、ゴリアトの脅しの「お前の肉を」という言葉を「ペリシテ軍の屍を」に拡大させて、ゴリアト一人ではなくペリシテ軍隊の死体を見通しています。また「野の獣に」という言葉を「地上の(地球上の)獣に」に拡大させて、この場だけではなく、さらに遠くまで眺めています。ダビデはこの戦いを通して主を見上げるようにとイスラエルの民の信仰を鼓舞しているのです。47節aを御覧ください。

“主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。”

「ここに集まった全ての者は知るだろう」という節には、信仰共同体という単語が使用されています。それは、ヘブル語の「カーハール」という言葉でありまして、70人訳聖書ではギリシャ語のエクレシアという単語が使われているのですが、47節を直訳しますと「この全ての信仰共同体は(つまりこの全ての教会は)、主が救いを与えてくださるのに、剣や槍を必要とされないということを知ることになるだろう」と書かれているのです。ですから47節後半は、この戦いは主のものであって、ダビデが自分自身の力で倒すのではなく、主がお前たちを我々の手に渡される。」と言っているのです。つまり、主の救いとは、サウルの鎧であったり、或いは剣や槍というような、人間的な力は一切必要ないということを断言しているのです。ダビデにとって、決してゴリアトは自分が過去に打ち負かした熊や獅子のような獣より劣ると思われるために、自分には十分に勝機があると踏んでいるのではありません。この戦いとは、ダビデが自分自身のためであったり、一族の名誉のためではなく、全地に主の栄光を現わすためであり、そしてさらに言えば、イスラエル共同体の信仰を励まし、落ち込んでいた士気を鼓舞させるための、主の戦いであるから一切臆することがないのです。普段自分が飼っている羊を守ってくださった主は、神の羊であるイスラエルを救い出さないことがあるだろうかということです。一方イスラエルの民には、信仰を持つように、そして共におられる万軍の主を仰ぎ見るようにと訴えているのです。

主題2 に移りまして、神は人間の弱さにおいて働かれるという点を見ていきましょう。

戦闘は、始まるや否やあっけなく終わってしまいました。ダビデが、石投げ紐で石を投げて、驚くべき正確さをもって、ゴリアトの完全装備の中で、ただ一点の急所に命中させたため、ゴリアトは一度も剣を振り回すことなく地に倒れてしまいました。昔いた、ベニヤミン族の左利きの戦士を彷彿させるような戦いぶりでした。士師記20:16には次のように書かれています。

“七百人のえり抜きの兵士からなるこの部隊の皆が左利きで、髪の毛一筋をねらって石を投げても、その的をはずすことがなかった。”

最終的には、ダビデがゴリアトの剣を抜いてゴリアトの首を討ちとることによって勝負がつくのですが、50節を見ますと戦いの勝利は、石ころ一つによってゴリアトを打ち負かしたことが強調されています。50~51節を御覧ください。

“ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。”

ゴリアトは当時の人間が持つことができる最新鋭の武器を持って戦いに出て来ましたが、ダビデは、その辺に転がっていた石ころを手にもって出て行きました。恐らく石ころは、ゴリアトの武器に比べるなら話にならないようなものだったに違いありません。しかし、主により頼んで事に当たるなら、石ころのような取るに足らないものであっても主に用いられて勝利することができるということです。パウロはⅡコリント12:9において次のように言っています。

“すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。”

神さまは、私たちの弱さの中において、ご自身の栄光を現わされるというのです。弱さというのは、つまり主を仰ぐこと以外には、他に何もないということです。私たちはついつい人間的な能力によって、自分の功績によって救いを求めがちですが、神の栄光が現わされる時には、一切の人間の功績が否定され、全き恵みとして、無償の罪の赦しとして、一方的に与えられるのです。まさにダビデが叫んだ通りに、“主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。”という言葉が実現し、イスラエルの民は、自分たちが神の契約の民であることを思い起こされました。「そうだ、私たちには万軍の主が共におられる!」と信仰を持って主を仰ぎみるようになったのです。ですから、この勝利の意味とは、単純にペリシテ軍の敗北ではなく、世に神がご自身の栄光を現わされたということです。少年ダビデが神だけにより頼み、巨人ゴリアトに勝ったことにより、イスラエルと契約を結ばれた神が、イスラエルを救済するお方であるということを世に知らしめました。さらに言えば、ダビデとゴリアトの戦いとは、ヤハウェと、世の偶像の象徴であるダゴンとの戦いでもありました。その結果は、以前5章でペリシテ人が契約の箱を奪い、ダゴンの神殿の中に安置した時、翌日、契約の箱の前でダゴンがうつ伏せになって、首と胴体が切断されたように、ダゴンの勇士ゴリアトの首が、自分自身の剣によって切断されたのです。イスラエルに対する主の救いとは、一方的な恵みであり、神さまの無償の恵みであるということです。

主題3 に移りまして、ダビデはイエス様のひな型であるという点を見ていきます。

ダビデの勝利を見たイスラエルは、万軍の主が契約の民と共にいてくださることを確信し、信仰が鼓舞され、鬨の声を上げてペリシテ軍を追撃しました。52~53節を御覧ください。

“イスラエルとユダの兵は立って、鬨の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。イスラエルの兵士はペリシテ軍追撃から帰ると、彼らの陣営を略奪した。”

ヨナタンがペリシテ軍を先制攻撃した時に、恐怖と大混乱に陥ったペリシテ軍を追撃する際、サウル王が「日の落ちる前、私が敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」と民に誓わせたために、イスラエル軍は疲労困憊となり、十分な分捕りをすることが出来ませんでした。しかし今回は違います。鬨の声を上げ、一気にペリシテ軍の領地のエクロンの門にまで至りました。たくさんのペリシテ人が刺し殺され、追撃の帰りには、ガトからエクロンに至る彼らの陣営を掠めながら、多くの戦利品を手にすることができました。ダビデはイスラエルの全ての兵士に喜ばれました。ヨナタンをはじめイスラエルの民は、ダビデの働きによって救いの喜びに与らせていただき、そして、主を仰ぎ見ることを学ばされました。ダビデによってもたらされた勝利の物語は、神が私たちのために立ててくださる真の王であられるイエス様の勝利を予表しているのです。やがて送ってくださる神の御子イエス・キリストの救いの御業を現わしているのです。この戦いの後、ダビデは王宮の中に住まいをあてがわれ、直ちに高い身分が与えられました。そしてヨナタンの魂は、この戦いを通してダビデの魂に結び付きました。ダビデの信仰とヨナタンの信仰が全く同じだったのです。ヨナタンはかつて、ペリシテの陣営に先制攻撃をした時に、“さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。”と言いました。ヨナタンはダビデの信仰に強く共感し、感動し、ダビデこそ主が祝福したもう特別の人として映ったのでしょう。18:1~4を御覧ください。

“ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。

ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。”

ここでヨナタンはダビデを「自分自身のように愛した」という言葉が18:1と18:3に二度繰り返されて強調されています。そして二人は厳粛な契約を結ぶにまで至りました。ヨナタンは自分の装束と、剣と、弓と、帯に至るまですべてをダビデに与えました。これは王子の身分を全てダビデに捧げるという意味です。ダビデを自分の代理として、自分の分身として契約を結んだのです。二人は霊的において兄弟となり、一つに結びあわされたということです。

結論

第一に、神さまは私たちの弱さの中においてご自身の栄光を現わされるということです。たとえイエス・キリストによって、最後の敵である死が勝利に呑み込まれ、私たちには圧倒的な勝利が約束されていますが、神の国は依然として完成されていないわけで、私たちはこの世にあって日々信仰の戦いに召されているということです。この信仰の戦いにおいて、私たちの力や私たちの所有物をもって戦うのではなく、弱さの中で、主の御名を叫び求め、主を仰ぐ以外には、他に何もありません。心の貧しさだけを持ちながら祈りによって戦うのです。神さまは石ころのような私たちをも用いて下さり、ご自身の栄光のために用いてくださるでしょう。第二に、イエス様は十字架によって決定的な勝利を収めて下さり、私たちに、無償の罪の赦しと、一方的な恵みが与えられましたので、私たちは鬨の声を上げて、日々感謝の声を上げるべきです。不平不満をこぼさないで、日常のどのような小さなことにも感謝し、そしてイエス様にある讃美と喜びを高らかに世に宣言すべきです。キリストの成し遂げられた御業によって、私たちはサウル王の戦いではなく、真の王の戦いに参与する者とされました。つまり、多くの分捕り物が保障されているのです。ですから鬨の声を上げて感謝と喜びをもって神の福音を宣べ伝えてまいりましょう。きっと世の人々が、イエス様に心を捧げ、献身へと導かれることでしょう。

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다윗의 입정(入廷)

2019년 12월 29일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 17장 41~18장5절

서론

이스라엘 백성들의 40일간의 절망의 기간을 거쳐서 마침내 대표 용사인 다윗과 골리앗의 일대 일의 대결이 시작되려 합니다. 이 싸움을 통해 17장은 우리에게 주님의 구원이란 어떤 것인지 계시하고 있습니다. 즉, 주님의 구원이란 바로 삶의 암흑 속에 희망의 빛으로 초래되는 것으로, 완전한 나약함 속에 나타났습니다. 구원받은 이스라엘 백성은 다윗에 의해 희망을 갖고 만군의 주를 우러러보는 믿음을 배웠듯이 우리도 구원자 예수님에 의해 희망을 갖고 자신의 힘이 아닌 주께 더 의뢰하는 믿음으로 앞으로의 삶을 걸어가는 자가 되도록 합시다.

주제 1 먼저 「자신의 실력을 믿고 싸우는 것이 아니라 만군의 주의 이름으로 싸우는 다윗」이라는 주제부터 살펴보겠습니다.

사울의 갑옷을 벗어던지고 지팡이를 들고 목자의 모습으로 나온 다윗에 대해 골리앗은 「네가 나를 개로 여기느냐」라며 모욕을 당한 듯한 시늉을 했습니다. 아마도 무자비하고 용서 없는 골리앗에게 다윗은 젊고 붉고 용모가 아름답고 경험이 부족한 남학생처럼 보였을 것입니다. 그리고 다곤신을 비롯한 여러 신들의 이름으로 저주하고 다윗을 위협했습니다. 43,44절을 보시기 바랍니다.

43 블레셋 사람이 다윗에게 이르되 네가 나를 개로 여기고 막대기를 가지고 내게 나아왔느냐 하고 그의 신들의 이름으로 다윗을 저주하고

44 그 블레셋 사람이 또 다윗에게 이르되 내게로 오라 내가 네 살을 공중의 새들과 들짐승들에게 주리라 하는지라

언뜻 보면 골리앗은 심리전에 있어서도 뛰어난 것처럼 보입니다. 즉, 40일동안 이스라엘을 말로써 공포와 어둠의 구렁텅이에 빠뜨리고, 이제 더 나아가 저주의 말로 다윗의 전의를 상실케 하려 하기 때문입니다. 그런데 다윗은 그런 심리전에는 꿈쩍도 하지 않습니다. 다윗에게 이 싸움은 자신의 실력을 믿고 싸우는 것이 아니라 만군의 주의 이름으로 싸우기 때문입니다. 45,46절을 보시기 바랍니다.

45 다윗이 블레셋 사람에게 이르되 너는 칼과 창과 단창으로 내게 나아 오거니와 나는 만군의 여호와의 이름 곧 네가 모욕하는 이스라엘 군대의 하나님의 이름으로 네게 나아가노라

46 오늘 여호와께서 너를 내 손에 넘기시리니 내가 너를 쳐서 네 목을 베고 블레셋 군대의 시체를 오늘 공중의 새와 땅의 들짐승에게 주어 온 땅으로 이스라엘에 하나님이 계신 줄 알게 하겠고

다윗은 이 싸움을 자기 자신의 싸움이 아니라 여호와와 세상의 신들을 상징하는 다곤과의 싸움으로 인식하고 있었습니다. 다윗은 오직 주님의 싸움에 참전할 뿐이었습니다. 더 말하면 다윗은 이 싸움의 목적이란 「온 땅이 이스라엘에 하나님이 있음을 인정하도록, 온 땅이 이스라엘 하나님을 찬양하도록 한다」는 선교적 목적을 가지고 있음도 인식하고 있었습니다. 그래서 골리앗의 위협에 대해 조금도 겁내지 않고 오히려 골리앗의 말을 그대로 인용 하면서 한 술 더 뜨는 심리전을 펼치고 있는 것입니다. 일본어 성경에서는 소년 다윗의 말투와 무자비한 골리앗의 말투가 약간 차이가 있지만 히브리어 성경에서는 골리앗의 말을 그대로 인용하고 있습니다. 46절을 보시기 바랍니다. 다윗은 골리앗의 으름장인 44절의 「네 살을」이라고 한 골리앗의 말을 「블레셋 군대의 시체를」이라는 말로 확대시켜 골리앗 혼자가 아닌 블레셋군의 시체를 내다보고 있습니다. 또 44절의 골리앗의 「들짐승」이란 말에 「지상의 짐승 (한국어 성경에는 44절의 들짐승과 같이 46절에도 들짐승이란 같은 단어로 번역되어 있으나 일본어 성경에는 46절에는 지상의 짐승이라고 번역되어 있다)」으로 확대시켜 이 자리뿐만 아니라 더 멀리 바라보고 있습니다. 다윗은 이 싸움을 통해 주님을 올려다보라고 이스라엘 백성들의 믿음을 고무하고 있는 것입니다. 47절 a를 보시기 바랍니다.

47a 또 여호와의 구원하심이 칼과 창에 있지 아니함을 이 무리에게 알게 하리라

「이 무리에게 알게 하리라」라는 구절에는 신앙공동체라는 단어가 사용되고 있습니다. 그것은 히브리어의 「카할」라는 말이며, 70인역 성경에서는 헬라어의 「에클레시아」라는 단어가 사용되고 있는데 47절을 직역하면 「이 모든 신앙공동체는(즉, 이 모든 교회는) 주님이 구원을 주시는데 검이나 창을 필요로 하지 않는다는 것을 알게 될 것이다」라고 쓰여져 있습니다. 그래서 47절 후반은 이 싸움은 주님의 것이요, 다윗이 자기 자신의 힘으로 쓰러뜨리는 것이 아니라 「여호와께서 너를 내 손에 넘기시리니」라고 말하고 있는 것입니다. 즉, 주님의 구원이란 사울의 갑옷이거나 혹은 검이나 창과 같은 인간적인 힘이 일절 필요하지 않다는 것을 단언하고 있는 것입니다. 다윗에게 결코 골리앗은 자신이 과거에 물리친 곰이나 사자 같은 짐승보다 못하다고 생각되기 때문에, 자신에게는 충분히 승기가 있다고 우습게 보고 있는 것이 아닙니다. 이 싸움이란 다윗이 자기 자신을 위한 것이거나 일족의 명예를 위한 것이 아니라 온 땅에 주님의 영광을 드러내기 위한 것이며, 그리고 더 나아가 이스라엘 공동체의 믿음을 격려하고 침울했던 사기를 고무시키기 위한 주님의 싸움이기 때문에 일절 겁내지 않는 것입니다. 평소 자신이 키우는 양을 지켜주신 주님은 하나님의 양인 이스라엘을 구원하지 않으실리가 없다는 것입니다. 한편, 이스라엘 백성들에게는 믿음을 가지라고, 그리고 함께 계신 만군의 주를 우러러보라고 호소하고 있는 것입니다.

주제 2로 넘어가서 「하나님은 인간의 약함을 통해서 일하신다」는 점을 살펴봅시다.

전투는 시작하자마자 어이없게 끝나고 말았습니다. 다윗이 물매의 돌을 던져 놀라운 정확함으로 골리앗의 완전 장비 중 단 한 곳의 급소에 명중시키는 바람에 골리앗은 한 번 검을 휘두르지도 못하고 땅에 엎드러지고 말았습니다. 옛날에 있었던 베냐민족 왼손잡이 전사를 방불케 하는 싸움 모습이었습니다. 사사기 20장 16절에는 다음과 같이 기록되어 있습니다.

이 모든 백성 중에서 택한 칠백 명은 다 왼손잡이라 물매로 돌을 던지면 조금도 틀림이 없는 자들이더라

최종적으로는 다윗이 골리앗의 검을 뽑아 골리앗의 목을 쳐내는 것으로 승부가 나지만 50절을 보면 싸움의 승리는 물매와 돌 하나로 골리앗을 물리쳤다는 것이 강조되고 있습니다. 50,51절을 보시기 바랍니다.

50 다윗이 이같이 물매와 돌로 블레셋 사람을 이기고 그를 쳐죽였으나 자기 손에는 칼이 없었더라

51다윗이 달려가서 블레셋 사람을 밟고 그의 칼을 그 칼 집에서 빼내어 그 칼로 그를 죽이고 그의 머리를 베니 블레셋 사람들이 자기 용사의 죽음을 보고 도망하는지라

골리앗은 당시 인간이 가질 수 있는 최신예 무기를 들고 싸움에 나섰지만, 다윗은 그 근처에 굴러다니던 돌맹이를 손에 들고 나갔습니다. 아마 돌맹이는 골리앗의 무기에 비하면 말도 안 되는 것이었을 것입니다. 그러나 주께 의지해서 그 일에 임한다면, 돌맹이처럼 하찮은 것이라도 주께 쓰임받으면 승리할 수 있다는 것입니다. 바울은 고린도후서 12장 9절에 다음과 같이 말하고 있습니다.

나에게 이르시기를 내 은혜가 네게 족하도다 이는 내 능력이 약한 데서 온전하여짐이라 하신지라 그러므로 도리어 크게 기뻐함으로 나의 여러 약한 것들에 대하여 자랑하리니 이는 그리스도의 능력이 내게 머물게 하려 함이라

하나님은 우리의 약함 속에서 자신의 영광을 나타내신다는 것입니다. 약함이란 곧 주를 우러러보는 것 외에는 다른 것이 없다는 것입니다. 우리는 자신도 모르게 인간적인 능력에 의해, 자신의 공적에 의해 구원을 구하기 쉽지만, 하나님의 영광이 드러날 때에는 일체의 인간의 공적이 부정되고, 완전한 은혜로, 무상으로 죄의 용서가 일방적으로 주어지는 것입니다. 바로 다윗이 외친대로 「여호와의 구원하심이 칼과 창에 있지 아니함을 이 무리에게 알게 하리라」는 말이 실현되고, 이스라엘 백성은 자신들이 하나님의 언약 백성임을 상기했습니다. “맞다, 우리에게는 만군의 주께서 함께 계신다!’라는 믿음을 가지고 주를 우러러보게 된 것입니다. 그래서 이 승리의 의미란 단순히 블렛셋군의 패배가 아니라 세상에 하나님께서 자신의 영광을 나타내셨다는 것입니다. 소년 다윗이 하나님께만 의지하여 거인 골리앗을 이김으로써 이스라엘과 언약을 맺으신 하나님이 이스라엘을 구원하시는 분임을 세상에 알렸습니다. 더 말하면 다윗과 골리앗의 싸움이란 여호와와 세상 우상의 상징인 다곤과의 싸움이기도 했습니다. 그 결과는 이전 5장에서 블레셋 사람이 언약궤를 빼앗아 다곤의 신전 안에 안치했을 때, 다음날 언약궤 앞에 다곤이 엎드러져 그 머리와 두 손목이 끊어진 것처럼 다곤의 용사 골리앗의 목이 자기 자신의 검에 의해서 절단 된 것입니다. 이스라엘에 대한 주님의 구원은 일방적인 은혜이며 하나님의 무상의 은혜라는 것입니다.

주제 3으로 넘어가면서 「다윗은 예수님의 모형」이라는 점을 살펴봅시다.

다윗의 승리를 본 이스라엘군은 만군의 주께서 언약 백성들과 함께 계신 것을 확신했고 믿음이 고무돼 소리 높여 블레셋군을 추격했습니다. 52,53절을 보시기 바랍니다.

52 이스라엘과 유다 사람들이 일어나서 소리 지르며 블레셋 사람들을 쫓아 가이와 에그론 성문까지 이르렀고 블레셋 사람들의 부상자들은 사아라임 가는 길에서부터 가드와 에그론까지 엎드러졌더라

53 이스라엘 자손이 블레셋 사람들을 쫓다가 돌아와서 그들의 진영을 노략하였고

요나단이 블레셋군을 선제공격했을 때 공포와 대혼란에 빠진 블레셋군을 추격할 때 사울 왕이 「저녁 곧 내가 내 원수에게 보복하는 때까지 아무 음식물이든지 먹는 사람은 저주를 받을지어다」라고 백성들에게 맹세하게 하는 바람에 이스라엘군은 기진맥진해서 충분한 노략을 하지 못했습니다. 하지만 이번에는 다릅니다. 승리의 함성을 지르며 단숨에 블레셋군의 영지인 에그론 성문까지 이르렀습니다. 수많은 블레셋인들이 칼에 찔려 죽었고, 추격에서 돌아오는 길에는 가드와 에그론에 이르는 그들의 진영을 노략하면서 많은 전리품을 손에 쥘 수 있었습니다. 다윗은 이스라엘의 모든 병사들에게 환영을 받았습니다. 요나단을 비롯한 이스라엘 백성들은 다윗의 승리로 인해 구원의 기쁨에 참여하게 되고 주를 우러러 보는 것을 배웠습니다. 다윗이 가져온 승리의 이야기는 하나님께서 우리를 위해 세워주시는 진정한 왕이신 예수님의 승리를 예표하고 있는 것입니다. 이윽고 보내 주시는 하나님의 아들 예수 그리스도의 구원의 역사를 나태내고 있는 것입니다. 이 전투 후에 다윗은 왕궁 안에 거처를 배정 받았고 즉시 높은 신분을 부여받았습니다. 그리고 요나단의 마음은 이 싸움을 통해 다윗의 마음과 하나가 되었습니다. 다윗의 믿음과 요나단의 믿음이 똑같았던 것입니다. 요나단은 과거 블레셋의 진영에 선제공격을 했을 때 「우리가 이 할례 받지 않은 자들에게로 건너가자 여호와께서 우리를 위하여 일하실까 하노라 여호와의 구원은 사람이 많고 적음에 달리지 아니하였느니라」고 말했습니다. 요나단은 다윗의 믿음에 강하게 공감하고 감동했으며, 다윗이야말로 주님께 복받은 아주 특별한 사람으로 비춰졌을 것입니다. 18장 1~4절을 보시기 바랍니다.

1 다윗이 사울에게 말하기를 마치매 요나단의 마음이 다윗의 마음과 하나가 되어 요나단이 그를 자기 생명 같이 사랑하니라

2 그 날에 사울은 다윗을 머무르게 하고 그의 아버지의 집으로 다시 돌아가리를 허락하지 아니하였고

3 요나단은 다윗을 자기 생명 같이 사랑하여 더불어 언약을 맺었으며

4 요나단이 자기가 입었던 겉옷을 벗어 다윗에게 주었고 자기의 군복과 칼과 활도 띠도 그리하였더라

여기서 요나단은 다윗을 「자기 생명 같이 사랑하여」라는 말이 18장 1절과 18장 3절에 두 번 반복되어 강조되고 있습니다. 그리고 두 사람은 더불어 언약을 맺기까지 이르렀습니다. 요나단은 자신의 겉옷과 군복과 칼과 활도 띠에 이르기까지 모든 것을 다윗에게 주었습니다. 이것은 왕자의 신분을 모두 다윗에게 바친다는 뜻입니다. 다윗을 자신의 대리로, 자신의 분신으로 언약을 맺은 것입니다. 두 사람은 영적으로 형제가 되어 하나로 묶인 것입니다.

결론

첫째, 하나님은 우리의 연약함을 통해서 자신의 영광을 나타내신다는 것입니다. 가령 최후의 적인 「죽음」이 예수 그리스도의 승리에 의해 삼켜지고 우리들에게는 압도적인 승리가 약속되어 있습니다만, 하나님의 나라는 여전히 완성되어져 있지 않고 우리는 이 세상에 있고 날마다 「믿음의 싸움」에 부르심을 받고 있다는 것입니다. 이 믿음의 싸움에 있어서 우리의 힘이나 우리의 소유물을 가지고 싸우는 것이 아니라 약함 속에서 주의 이름을 부르며 주를 우러러보는 것 외에는 다른 아무것도 없습니다. 심령의 가난함만을 가지고 기도에 의해서 싸우는 것입니다. 하나님은 돌맹이 같은 우리도 사용해 주시고, 자신의 영광을 위하여 써 주실 것입니다. 둘째, 예수님은 십자가에 의해 결정적인 승리를 거두어 주셨고, 우리에게 무상으로 죄의 용서와 일방적인 은혜가 주어졌기 때문에 우리는 승리의 함성을 높이고 매일 매일 감사의 함성을 높임이 마땅합니다. 불평불만을 쏟아내지 말고, 일상의 어떤 작은 일에도 감사하고 그리고 예수님께 있는 찬양과 기쁨을 높이 세상에 선포해야 합니다. 그리스도께서 성취하신 역사로 우리는 사울 왕의 싸움이 아니라 진정한 왕의 싸움에 참여하는 자로 삼아졌습니다. 즉 많은 전리품이 보장되어 있는 것입니다. 그렇기 때문에 승리의 함성을 높이고 감사와 기쁨을 가지고 하나님의 복음을 전하며 나아갑시다. 반드시 세상 사람들이 예수님께 마음을 드리고 헌신으로 인도될 것입니다.

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