2019年12月24日「受肉された神の独り子の意味」

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受肉された神の独り子の意味

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

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14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

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序論

クリスマスおめでとうございます。聖書には、旧約聖書と新約聖書がありますが、これは旧い契約と新しい契約という意味です。古い契約とは、モーセがシナイ山において授与された「律法」を指しており、新しい契約とはイエス・キリストが十字架にかけられることにより成就した「福音」を指しています。それで古い契約と新しい契約とは、それぞれ律法と福音というふうに呼ばれたりいたします。

それでは聖書というのは、古い契約と新しい契約の二つの契約について書かれているのでしょうか、即ち、律法と福音という二つの異なる契約があって、旧約の聖徒は律法を守り行うことによって救われ、新約の聖徒は福音を信じ受け入れることによって救われるのでしょうか。そうではありませんね。旧約においても新約においても神の御言葉であられるイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。ヘブライ人の手紙11章には「信仰の章」と呼ばれている記事がありまして、そこには旧約の聖徒たちの名前が列挙されています。彼らは律法を守ることで救われたと書いてあるでしょうか。全員が信仰によって歩んだと書かれています。旧約においても新約においても、信仰によって救われるのです。それでは、旧約と新約の違い、これは一体何なのでしょうか。その違いとは、イエス様の受肉を通して明らかにされました。つまり、律法というのは、福音の陰であり、模型でありまして、実はキリストを指し示しているということです。律法とはそれ自体神の恵みの契約であって、本質的には福音と違わないのですが、鮮明度の違いがあり、一方は神の恵みをおぼろげに示しているということですが、一方は恵みと真理、「そのもの」であるイエス・キリストが直接、現れたということです。本日、信仰告白しましたハイデルベルク信仰問答、問18、19には、神と神の民との間に「恵みの契約」の仲保者、イエス・キリストが与えられたことが書かれていますが、問19をよく見ますと、福音というのは旧約と新約の対立の構図の中には置かれていないということに気づかされます。答えを御覧ください。何と書いてありますか。

“聖なる福音によってです。それを神は自ら、まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式によって象り、ご自身の愛する御子によってついに成就なさいました。”

つまり、おぼろげでありますが、律法とは福音そのものであると書かれています。

主題1 旧約において御言葉とは、イエス・キリストである。

それでは、旧約において御言葉とは、イエス・キリストであったということ点について見ていきましょう。ヨハネの福音書1:1には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と書かれています。神学的には、この短い一節の中に、実は三位一体の神が表されていると言われています。どういうことかと言いますと、1:1には「あった」「あった」「あった」という動詞が三つ続いておりますが、これらの三つの単語は全て未完了形になっていることから、「あった」という単語と「初めに」という単語と組み合わされることで、言は創造の初めの段階において、すでに存在しており、なお、継続して存在し続けているというふうに解釈されます。天地の創造される前に、すでに言葉はあったということです。

「共に」という単語は、withではなく、むしろ方向を示すtoとかtowardsでありますから、言葉は神と対面し、向き合っていたということになります。しかも、三つ目の「言葉は神であった」というところの「神」には、普通必ずついているはずの「トン テオス」の冠詞「トン」、主格なら「ホ」がついていません。この三つ目の神には冠詞が付いていないのです。これはどういう意味かといいますと、神の全体である三位一体の神を形成しないということです。父なる神と聖霊なる神と同じように、神性は持っていますが、ことばなる神だけでは三位一体の神全体、「ホ テオス」をなしてはいないということです。ですからヨハネ福音書1:1は、言葉は神に向き合いながら永遠から存在していて、本質的に「ホ テオス」と同じ神性をもった神であるという状況が見えてくるのです。

主題2 次に言葉なる神の受肉を見てまいります。

1:14を御覧ください。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と書かれていますから、ここで使徒ヨハネは、神の言葉とは、世に来られたイエス・キリストであると述べています。

「私たちの間に宿られた」という言葉の「スケネオー:宿られる、テントを張る、(神に対して:臨在する)」という単語は、新約聖書の中では使徒ヨハネしか使わない珍しい単語でありまして(ヨハネの福音書に1回、ヨハネの黙示録に4回)、普通、「住む」とか「住まう」という動詞は「メノー」というギリシャ語が使われますが、あえてヘブライ語の「シャカン:テントを張る、留まる」という言葉に由来する、ギリシャ語のスケネオーを用いているのです。つまり、旧約の時代、幕屋の聖所に神の臨在を現わす雲が現れたように、イエス・キリストが私たちの間に宿られた、テントを張られたということです。イスラエルの民は出エジプトをした後に荒れ野において40年を過ごしますが、その間、神の臨在を表す雲の柱が幕屋の聖所から離れるときに、イスラエルも雲の柱についていくように速やかに幕屋を畳んで移動しました。荒れ野において神の霊が、昼は雲の柱として、夜は火の柱としてテントを張られたように、まさに神の言葉が私たちの間に宿られたということを使徒ヨハネは言っているのでしょう。出エジプト40:35~38を御覧ください。

“モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり(テントを張られ)、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。”

イエス・キリストは、すでに旧約においても、ぼんやりとしてではありますが、御言葉や律法という形式によって、ご自身の働きをされていたと言うことができるのです。ですからヨハネの福音書に1章に戻りまして15節では、洗礼者ヨハネは、「彼は私より優れていて、わたしよりも先におられたから」と言っていますが、洗礼者ヨハネは、実際イエス様より数か月早く生まれているので、年長の立場ですし、また、公に働きを始めたのも、洗礼者ヨハネの方が、イエス様より早く始めたのですが、洗礼者ヨハネがそのように証言するのも理解できるのであります。

主題3 それでは、次にイエス・キリストは唯一なる仲保者なのかという点を見てきましょう。

聖書の中で、仲保者という称号は、モーセとキリストの二人に与えられています。実際モーセは祭司的な役割を担い、神とイスラエルの民の間の仲保者的な働きを担いました。しかし、モーセとはキリストのひな型、影に過ぎないのであり、真の仲保者はイエスさまお一人であられます。ヨハネ1:16~18節を御覧ください。

“わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。”

16節をよく見ると、「恵みの上に、さらに恵みを受けた」直訳すると「恵みに交換して、恵みを受け取った」と書かれています。使徒ヨハネはここで、モーセの律法を恵みとして捉えていることに注意する必要があります。もし、律法を行いの契約として捉え、旧約の時代は律法の強制力の下に置かれていたと理解していたなら、律法と福音は、本来、敵対するものだと考えてしまいますので、律法に対し恵みという言葉は出てこなかったでしょう。旧約の律法も確かに恵みであったが、律法の終わりであり、律法の目的あるキリストが来られて、律法に代わって、さらにはっきりした恵みを受け取ったということです。その理由が次の17節に書かれています。律法は、モーセを通して与えられたのですが、モーセは人と神の「完全な」仲保者ではなかったからです。考えてみればモーセも人間であり、罪びとの一人であって、神と人の間に立つ仲保者として立てるはずがありません。ガラテヤ3:19を見るとモーセは確かに仲保者であると書かれていますが、律法を、神から直接受けたのではなく、天使を介して受け取ったと書かれています。

“では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。”

ここでは、確かにモーセを仲介者、仲保者と書かれていますが、モーセは、神さまから直接ではなく、天使を通して律法を受け取ったとあります。つまり、神に対しは、イスラエルの民と同じ側に立っていて、罪びとである自分自身のためにも律法を受け取る必要があったということです。単に民のためだけに律法を受け取ったのではなく、自分自身の贖いのためにも受け取る必要があったということです。モーセといえども、罪がありますので神に直接向き合うことは出来ません。モーセは仲保者には違いありませんが、厳密にいうと「完全な仲保者」ではなかったのです。出33:20~23によれば、モーセは神の御顔を直接見ることができず、神さまの後ろ姿だけを拝むことが許されたと書かれています。このことからもモーセが仲保者というより、民の側に立っているということです。それでは、キリストはどうでしょうか。キリストはご自身が御言葉そのものであられ、石板によって与えられるというより、自らが直接神の御言葉として、神の家を治められます。預言者のように御言葉を語られると同時に、自らが御言葉そのものであられるということです。さらに言えば、キリストは、神と人間との間に、外部からひょこっと、介入する第三者ではなく、イエス様ご自身が神の子であり、神的な属性を所有し、神の栄光の輝き、まったき神でありながら、それと同時に人の子であり、全き人であられるのです。つまり、キリストは神の側と人間の側の二つの陣営の間に立っているというより、ご自身の人格そのものが、神と人間の二つの陣営となっておられるのです。この真の仲保者によって新しい契約が更新されることで、恵みが語られたというより、罪びとに対して恵みと真理そのものが現れたということです。神の罪びとを救済するという、恵みの契約がイエス様を通して鮮明に現れたということです。

結論

第一に、新約聖書と旧約聖書は本質上同じものであって、ただ一つの神の恵みの契約が、聖書全体に一貫して書かれているということです。イエス・キリスは族長時代には主の使いなどを通して現れたりいたしました。モーセの時代には律法の名のもとに現れたりして、救済の働きをされました。そして時が満ち、最後には、それより遥かに十全なかたちによって、肉のからだをお取りになって現れたのです。それは例えば、果物が熟して、皮を破って出てきたという感じです。或いは、イスラエルのお腹の中に胎児のように過ごしていた教会が、自分自身の独立的な歩みを始めたということです。ですから、旧約のイスラエルの中において「神殿」や、「供え物」や、神と民の間に立つ「大祭司の職分」などが存在しましたが、それらは廃棄されたというより、むしろ、新約において成就され、一点一画までも喪失されることなく完成されたということです。一時的なうわべという殻から、永遠の中身が現れたということです。第二に、イエス様が福音書の中で語ってこられたたくさんの御言葉は、私たちに対する約束とも受け取れます。ご自身が真理でありご自身が御言葉そのものであられる方は、必ず全て語られた通りに成就されるということです。最後にイザヤ55:11をお読みいたします。

“そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。”

御言葉なるイエスキリストは、今も天の右の座にお着きになり、聖徒一人一人のためにとりなし、休むことなく救済の業をされておられます。ですから私たちも聖書の約束を握りしめて、祈ることを決してあきらめず、御子イエス・キリストの内に希望を抱いて歩んでまいりましょう。

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