2019年12月15日「ダビデの台頭 다윗의 대두(台頭)」

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ダビデの台頭 다윗의 대두(台頭)

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 17章1節~40節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1ペリシテ人は戦いに備えて軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集結し、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を張った。
2一方、サウルとイスラエルの兵も集結し、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ軍との戦いに備えた。
3ペリシテ軍は一方の山に、イスラエル軍は谷を挟んでもう一方の山に陣取った。
4ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、
5頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、
6足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。
7槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。
8ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。
9その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」
10このペリシテ人は続けて言った。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」
11サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。
12ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。
13エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであり、
14ダビデは末の子であった。年長の三人はサウルに従って出ていたが、
15このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。
16かのペリシテ人は、四十日の間、朝な夕なやって来て、同じ所に立った。
17さて、エッサイは息子ダビデに言った。「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。
18このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい。」
19サウルも彼らも、イスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていた。
20ダビデは翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、エッサイが命じたものを担いで出かけた。彼が幕営に着くと、兵は鬨の声をあげて、戦線に出るところだった。
21イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていた。
22ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねた。
23彼が兄たちと話しているとき、ガトのペリシテ人で名をゴリアトという戦士が、ペリシテ軍の戦列から現れて、いつもの言葉を叫んだのでダビデはこれを聞いた。
24イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。
25イスラエル兵は言った。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
26ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」
27兵士たちはダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を討ち取る者はこのようにしてもらえる」と言った。
28長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。「何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」
29ダビデは言った。「わたしが、今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか。」
30ダビデは兄から他の人の方に向き直って、前と同じことを聞いた。兵士の答えは、最初と同じであった。
31ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。
32ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
33サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」
34しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。
35そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。
36わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」
37ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」
38サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。
39ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、
40自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 17章1節~40節

原稿のアイコン日本語メッセージ

序論

サムエル記17章は、解釈上いくつかの難しい問題が指摘されています。それは、悪霊に憑かれたサウルを音楽療法によって癒すために竪琴の上手なダビデを召し抱え、そしてサウルはダビデをたいそう気に入り、王の武器を持つ者として取り立てたのにも関わらず、17:12ではダビデがここで初めて出てくるかのように紹介され、これまでサウルとダビデはまったく面識がなかったように書かれているからです。

私たちは、このような矛盾をどのように解釈していくのかということですが、第一に、サウル王の武器持ちはダビデ以外にも大勢いて、例えばサムエル記下18:15を見ると将軍ヨアブの武器持ちでさえ10人もいましたから、いちいちサウルが武器持ちの詳細をきちんと把握していなかったとしても不思議ではなかったということです。第二にこの時、ダビデはイスラエルの兵士として徴兵されていないところを見ると、民数記1:3にあるように、イスラエルでは、20歳以上になって初めて軍隊に徴兵されますから、当時のダビデの年齢が20歳未満、18、19歳ぐらいではなかったのではと推測されます。一方、サムエルから油注ぎを受けたのは、イスラエルでは、普通13歳で成人式を迎え、13歳以降、祭儀に参加する義務が生じますから、油注ぎを受けた時にはまだ13歳未満、12歳ぐらいではなかったのかと推測されます。もし、そうだとするなら、12歳ころに竪琴の奏楽者として召し抱えられ、ペリシテとの長引く戦争に突入してからは、ダビデは実家にもどされますから、それから12歳から19歳までの6~7年の時間の空白が発生するのであり、その間にサウルはダビデと一度や二度、面識があったとしてもそれを忘れてしまうことも十分に考えられるのでは、ということです。油注ぎの重要性は人々に意識されず、サウルも、昔、竪琴の音によって癒してもらった奏楽者のことをすっかり忘れてしまいました。しかし、神にとっては油注ぎが何より重要であり、神が共におられたので、ダビデのすることが祝福されました。ここに神の視点と、人間の視点の二つが存在していることになります。神の歴史観と、人間の歴史観です。神の視点では、ダビデは油注がれているので、ゴリアトに勝利し、油注がれているので、イスラエルの王とされるのですが、人間の視点では、17章に書かれているように、ダビデは、竪琴の弾き手として見いだされ、まず王の家に出入りする者となった過去があり、ゴリアトとの戦いにおいて劇的な大勝利を収めそして王女の婚約者となり、その後王子ヨナタンと契約を交わして義兄弟の関係を結び、王になるべく実績を積み重ねていくのです。決してクーデターなどによって王位を簒奪したということではなく、地道な長いプロセスを経て、全ての人々に同意されて正統的にイスラエルの王になっていったと映るのです。ここに神の予定とは決して運命論とか宿命論ではないことに気づきます。運命論や宿命論として考えるなら、私たちは何もしなくても全てを神さまがなされるので、人生を放棄することになってしまいます。しかし、神さまはたとえ予定を持っておられ、私たちに約束を与えてくださったとしても、すぐに、奇跡的にそれを成就されるのではなく、自然法に則って、神の隠された摂理に従い、ある一定のプロセスを経ることになります。ですから私たちの信仰生活というのは、神さまが100+私たちの側の応答が100=救いが100となることを常に覚えましょう。決して神さま100+人間0=100というような運命論として捉えてはなりません。また、もし、神さま99+人間1=100として理解するなら、本日の聖書記事を、「ゴリアトを退治するダビデ」というテーマになり、自分自身に適用するにあたって「私たちもダビデのように信仰の決断をもって行くならば、どんなに不可能に見える大きな壁でも、神の助けによって克服することができる!信じて勇気を出して、敵に立ち向かおう!」となってしまいます。しかし17章で語られているのは、ダビデ信仰の決断と、サウルの不信仰は、あくまで結果であって原因ではないということです。根本的な原因は、主の油注ぎにあるのです。17章は、戦いに至るまでの、ダビデとゴリアトの息遣いが、ゆっくり非常に細かく描かれていますが、クライマックスに至ると、瞬間的にゴリアトを殺すことによって、あっという間に物語を締めくくっています。これはダビデがゴリアトを退治する物語ではなく、ゴリアトを前にした、ダビデとサウルの反応を比較しながら、誰がイスラエルの真の王なのかを読者に問うているのです。テーマとしては「油注がれた真の王と、形だけの王」と言う方が相応しいのです。二人の差は、油注ぎにあるわけですが、私たちにもダビデが指し示している真の王、イエス・キリストが真の王として導いて下さっているということです。

主題1 それでは第一に「ゴリアトに対するサウルの反応」を見ていきましょう

ベツレヘムの西にあるエラの谷には、夏には完全に水が引いてしまうワジと呼ばれる浅い川が流れていました。このワジを挟んで、南西にペリシテ軍、北東にイスラエル軍が陣取っています。ゴリアトの背丈は、6アンマ半ありました。1アンマはひじから指先迄の長さで約44センチですから、ゴリアトの身長は2m86㎝です。ゴリアトの身長も驚きですが、ゴリアトの重装備にも驚かされます。頭には青銅の兜をかぶり、体には約57キロの重さの鎧を着ていました。お米の10キロの袋を6個も身に着けているのです。足には青銅のすね当てを着け、鉄製の槍の穂先は7キロにもなります。そしてゴリアトの前には一人の護衛兵がゴリアトに仕え、盾を持ってゴリアトの足元を防御していました。ゴリアトは毎日イスラエルの陣営に向かって自信満々に言いました。そして1対1の決闘を提案してきました。「なぜお前たちは、戦列など整えて出てくるのか、お前たちの中から誰か一人を選んで、そいつが俺の所に下ってくるようにしろ。もしそいつが俺と戦って、俺を打ち負かすようなことがあれば、俺たちはお前たちの家来となる。だが、もし俺が勝ってそいつを打ち負かしたら、お前たちが俺たちの家来となり、俺たちに仕えるのだ」ゴリアトの言葉を聞いたイスラエルの全軍は戦意喪失し、非常に恐れ、サウルも同じように恐れていました。本来イスラエルにおいて王が立てられたのは、王が民に率先して戦いに出て行くためです。そして客観的に見ても、イスラエルではサウル王が、一番背が高く、ゴリアトと戦う代表戦士に最もふさわしい人物でしたが、サウルはあえて自分から進み出ようとはしないで、ただその場を、じっと眺めていただけでした。

主題2 次にゴリアトに対する反応ダビデの反応を見ていきましょう。

ダビデは決して好奇心から陣営に駆け付けて来たのではなく、父の使いとして兄たちに食糧を届けるためにやって来ました。ちょうどその時、ダビデは事の次第を半分ほど聞いて驚きます。25~26節を御覧ください。

“イスラエル兵は言った。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」”

なんでも、あの男に勝つなら大変な褒章が与えられるらしい。つまり、①彼を王の婿とするだけではなく、②大金を与え、③彼の父の家の全ての税金を免除してくれるらしい。そして、同時にその時、ダビデが目撃した状況は、いくら屈強な人物であれ、どこの誰であろうとも、生ける神の戦列であるイスラエルを侮辱し、冒涜している状況です。それは、とりもなおさず、イスラエルの神を侮辱し、冒涜していることと同じことです。つまり、この戦いはゴリアトとイスラエル軍の戦いではなく、ゴリアトと神との戦いであるとダビデは認識しました。そして、ダビデは周りの兵士にこぼしました。「どうして、この嘲りをそのまま報復されないまま見過ごすことができるでしょうか」イスラエルの人々はもちろんそのことを知っていましたが、ゴリアトを前にした時、この信仰をどこかへ投げやってしまいました。ただゴリアトの大きさと重装備に圧倒され、生ける神が自分たちと共におられるという最も大切な事実から目をそらし、その場から逃亡していきます。また兄のエリアブからは見物でも、しに来たのかと叱られてしまいました。昔、兄エリアブは確かにダビデに対する油注ぎを、その目で目撃しましたが、そのことはすっかりエリアブの心から消し去られていました。ゴリアトを前にして、サウルをはじめとするイスラエルの反応と、ダビデの反応は全く正反対だったのです。そして、この後に、さらに不信仰なサウルの無能さが暴かれていきます。

主題3 王として失格であるサウルの不信仰

ダビデの事を聞いてサウルに告げる者があったのでダビデはサウルの前に呼ばれました。ダビデはサウルに対し、「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」と言いますが、サウルはダビデの言葉を退けました。「お前は20歳にならない少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」

それでもダビデは自身に満ちて説得します。ダビデの説得の言葉の中で特に重要なのは、「生ける神」という言葉と「主」という言葉が出てきたことです。これまで、なぜか誰も主の御名を言及してきませんでした。ダビデだけは違ったのです。34~37を御覧ください。

“しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった“主”は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」”

羊飼いの生活とは、獅子やクマが襲ってくる危険な生活でした。そのような中でダビデは生ける神と交わり、神により頼んで歩んでいたのです。羊飼いの生活こそダビデが信仰を培(つちか)った場所だったのです。一方で、サウルはダビデを戦士として送ることを決心します。しかしこれはダビデの信仰がサウルにも伝播したからということではありませんでした。なぜなら、サウルは最後まで鎧に固執し、どう考えても合うはずのない自分の大きな鎧をダビデに着せようとしているからです。主がダビデと共に戦われるなど最初から信じていなかったのです。それにしても、戦争をするには幼く、軍事訓練を全く受けていない少年をゴリアトに送り出すサウルは、一体何を考えていたのでしょうか。全くの謎です。結果的にこのことを通してダビデが大いなる実績を上げることになるのです。もし、私の推測が許さるなら、二つの可能性を挙げることができます。ダビデの信仰の言葉を聞いたあとで、しばらくじっとして、突然「ホッーホッホッホッホ」とあきれて笑ったということです。「はい、はい、わかった、わかった、じゃ行きなさい!」ということで、鎧のサイズに合わないことも考えが及ばなかったのではないかということです。もう一つの推測は、現実主義のサウルのことですから「この少年の壮絶な死を通して、イスラエル軍の士気が上がることを願い、一か八かの賭けに出た」ということです。ダビデの死を兵士の起爆剤として用いることはできないだろうかと頭の中で巡らせていたということです。ここにサウル王の不信仰と無能さがはっきりと表れています。いずれにしても、神はサウルの決断を通して準備された舞台にダビデとゴリアトを送り、ダビデに大勝利をもたらし、王位をサウルからダビデへ少しずつ移していくのです。

結論

第一に、神はダビデが指し示している真の王、イエス・キリストを私たちに送ってくださいました。私たちの戦いはその方の下での戦いであるということです。私たちの信仰の戦いは、神の戦いに参戦することであり、神の栄光のための戦いであるということです。第二に、ダビデが油を注がれてから実際に王になるまでには大変長い時間がかかったということです。神の目から見るなら、隠密に行われた油注ぎの故に、ダビデはイスラエルの王となったのですが、人間の目から見ると、ゴリアトを倒し、王女の婚約者となり、その後も王子ヨナタンと契約を交わして、実績を積みながら、全ての人々に同意されて王となっていきます。決してクーデターなどによって王位を簒奪したということではありませんでした。もちろん神さまは、ダビデを奇蹟的に突然、王として立てることもお出来になるでしょう。しかし、神さまのやり方とは、多くの場合がそうであるように自然法に則って、神の隠された摂理に従って、ある一定のプロセスを経るということです。その隠された摂理は、その時はわからないのですが、後で振り返って見る時に初めて理解できるようなものです。つまり、神の予定とは、運命に縛られることではなく、自由意志を持った人間の側の恵みの応答を通して成就されていくのです。神さまが100+私たちの側の応答が100=救いが100となるのです。本当に生ける神がおられ、キリストが私たちのためにとりなしてくださっているので、私たちは、主にあって努力することを怠らず、何より、あきらめていた願いや希望を、もう一度主の御前に出て、祈りとして捧げてまいりましょう。ダビデが指し示している、油注がれた方、イエス様が私たちに勝利と救いをもたらしてくださるでしょう。

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다윗의 대두(台頭)

2019년 12월 15일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 17장 1~40절

서론

사무엘상 17장은 해석상 몇 가지 어려운 문제가 지적되고 있습니다. 그것은 악령이 사울을 번뇌하게 할 때, 음악치료를 통해 치유하기 위해 다윗을 불렀고, 그리고 사울은 다윗을 대단히 마음에 들어해 왕의 무기를 드는 자로 삼았음에도 불구하고 17장 12절에서는 다윗이 여기서 처음 나오는 것처럼 소개되었고, 그동안 사울과 다윗은 전혀 일면식이 없었던 것처럼 적혀 있기 때문입니다.

우리는 이러한 모순을 어떻게 해석할 것인가 하는 것인데, 첫째, 사울 왕의 무기 드는 자는 다윗 외에도 많이 있었고, 예를 들면 사무엘하 18장 15절을 보면 장군 요압의 무기 드는 자조차 열 명이나 되었으니, 일일이 사울이 무기 드는 자의 세부 사항을 제대로 파악하지 못했다고 해도 이상할 것이 없었다는 것입니다. 둘째, 이때 다윗이 이스라엘 군사로 징병되지 않은 것을 보면 민수기 1장 3절에 있듯이 이스라엘에서는 20세 이상이 되어야 비로소 군대에 징병되기 때문에 당시 다윗의 나이가 20세 미만, 18,19세 정도 였지 않았을까 추측됩니다. 한편 사무엘로부터 기름부음을 받은 것은 이스라엘에서는 보통 13세에 성년식을 맞이하고 13세 이후 제사에 참석할 의무가 생기기 때문에 기름부음을 받았을 때는 아직 13세 미만, 12세정도가 아니었을까 추측해 볼 수 있습니다. 만약 그렇다면 12세 무렵에 수금 연주자로 고용 되었고, 블레셋과의 오랜 전쟁에 돌입한 후에는 다윗은 고향으로 돌아가므로, 그로부터 12세부터 19세까지 6,7년의 시간의 공백이 발생하는 것이고, 그 사이에 사울은 다윗과 한 두 번 안면이 있었다고 해도 그것을 잊어버리는 것도 충분히 생각할 수 있지 않을까 하는 것입니다. 기름부음의 중요성은 사람들에게 의식되지 않았고 사울도 옛날에 수금 소리로 치유받았던 연주자를 까많게 잊고 말았습니다. 그러나 하나님께는 기름부음이 무엇보다 중요하고 하나님이 함께 하셨기에 다윗이 하는 일이 복을 받았습니다. 여기에 하나님의 관점과 인간의 관점 두 가지가 존재하게 됩니다. 하나님의 역사관과 인간의 역사관입니다. 하나님의 관점에서는 다윗은 기름부음을 받았기에 골리앗에게 승리하고, 기름부음을 받았기에 이스라엘의 왕으로 여겨지는데 인간의 관점에서는 17장에 적혀 있듯이 다윗은 수금의 연주자로 발탁되어 먼저 왕의 집에 드나드는 자가 된 과거가 있고, 골리앗과의 싸움에서 극적인 대승리를 거두고 공주의 약혼자가 되었으며, 그 후 왕자 요나단과 언약을 맺고 의형제 관계를 맺어 왕이 되는 실적을 쌓아가는 것입니다. 결코 쿠테타 등으로 왕위를 찬탈했다는 것이 아니라 착실히 오랜 과정을 거쳐 모든 사람들의 동의를 받아 정통성 있게 이스라엘의 왕이 되어 간 것으로 비치는 것입니다. 여기에 하나님의 예정이란 결코 운명론이나 숙명론이 아님을 알게 됩니다. 운명론이나 숙명론으로 생각한다면 우리는 아무것도 하지 않아도 모든 것을 하나님이 하시기 때문에 삶을 방기하고 맙니다. 그러나 하나님께서는 비록 예정을 가지고 계시고 우리에게 약속을 주셨더라도 곧 기적적으로 그것을 성취하시는 것이 아니라 자연법에 따라 하나님의 숨겨진 섭리에 따라 어떤 일정한 과정을 거치게 됩니다. 그러므로 우리의 믿음생활이라는 것은 「하나님이 하시는 일이100+우리 쪽의 응답이100=구원이 100」이 됨을 항상 기억합시다. 결코 「하나님이 100+인간이 0=100」이라고 하는 운명론으로 생각해서는 안 됩니다. 또 만약 「하나님이 99+인간이 1=100」으로 이해한다면 오늘의 성경구절을 「골리앗을 물리친 다윗」이라는 주제로 자기 자신에게 적용함에 있어 “우리도 다윗처럼 믿음의 결단을 가지고 간다면 아무리 불가능해 보이는 큰 장벽이라도 하나님의 도움으로 극복할 수 있다! 믿고 용기를 내어 적과 맞서자!”가 됩니다. 그러나 17장에서 이야기되고 있는 것은 다윗의 믿음의 결단과 사울의 불신앙은 어디까지나 결과이지 원인이 아니라는 것입니다. 근본적인 원인은 주님의 기름부으심에 있는 것입니다. 17장은 싸움에 이르기까지의 다윗과 골리앗의 숨결이 천천히 아주 세밀하게 묘사되어 있지만, 절정에 이르면 순간적으로 골리앗을 죽임으로써 눈 깜짝할 사이에 이야기를 마무리하고 있습니다. 이것은 다윗이 골리앗을 퇴치하는 이야기가 아니라 골리앗을 앞에 둔, 다윗과 사울의 반응을 비교하면서 누가 이스라엘의 진정한 왕인지를 독자에게 묻고 있는 것입니다. 주제로는 「기름부음을 받은 진정한 왕과 무늬만 왕」이라고 하는 편이 적합합니다. 두 사람의 차이는 기름부음에 있는 셈인데 다윗이 보여준, 진정한 왕으로 이스라엘을 인도했던 것처럼 우리도 예수 그리스도께서 진정한 왕으로서 인도해 주시고 계신다는 것입니다.

주제1

그럼 첫 번째로 「골리앗에 대한 사울의 반응」을 살펴보겠습니다.

베들레헴의 서쪽에 있는 엘라 골짜기에는 여름에는 완전히 물이 빠져 버리는 와지라고 불리는 얕은 강이 흐르고 있었습니다. 이 와지 강을 사이에 두고 남서쪽에 블레셋군, 북동쪽에 이스라엘군이 진을 치고 있었습니다. 골리앗의 키는 여섯 규빗 한 뼘이었습니다. 한 규빗은 팔꿈치부터 손가락 끝까지의 길이로 약 44㎝이기 때문에, 골리앗의 신장은 2m86㎝입니다. 골리앗의 신장도 놀랍지만, 골리앗의 중장비도 정말 놀랍습니다. 머리에는 놋 투구를 썼고 몸에는 비늘 갑옷을 입고 그 갑옷의 무게가 놋 오천 세겔(약 57kg)이었습니다. 쌀 10kg짜리 자루를 거의 6개나 착용하고 있는 것입니다. 그의 다리에는 놋 각반을 쳤고 어깨 사이에는 놋 단창을 메었으니 그 창 자루는 베틀 채 같고 창 날은 철 육백 세겔(7kg)이며 그리고 골리앗의 앞에는 방패 든 자가 앞서 행하며 골리앗의 발밑을 방어하고 있었습니다. 골리앗은 매일 이스라엘 진영을 향해 자신만만하게 말했습니다. 그리고 일대일 결투를 제안해 왔습니다. 「너희가 어찌하여 나와서 전열을 벌였느냐 나는 블레셋 사람이 아니며 너희는 사울의 신복이 아니냐 너희는 한 사람을 택하여 내게로 내려보내라 그가 나와 싸워서 나를 죽이면 우리가 너희의 종이 되겠고 만일 내가 이겨 그를 죽이면 너희가 우리의 종이 되어 우리를 섬길 것이니라」이 골리앗의 말을 들은 이스라엘의 전군은 전의를 상실하여 매우 두려워했고 사울도 마찬가지로 두려워했습니다. 원래 이스라엘에서 왕이 세워진 것은 왕이 백성들에게 솔선수범하여 싸움에 나서기 위함이었습니다. 그리고 객관적으로 보아도 이스라엘에서는 사울 왕이 가장 키가 크고 골리앗과 싸우는 대표 전사에 가장 어울리는 인물이었는데 사울은 오히려 자신이 먼저 나가려 하지 않고 그저 상황을 물끄러미 바라보기만 했습니다.

주제 2

다음으로 「골리앗에 대한 다윗의 반응」을 살펴보겠습니다.

다윗은 결코 호기심에서 진영으로 달려 온 것이 아니라 아버지의 심부름꾼으로서 형들에게 식량을 전달하기 위해 왔습니다. 바로 그때 다윗은 일의 경위를 반쯤 듣고 놀랐습니다. 25,26절을 보세요.

25 이스라엘 사람들이 이르되 너희가 이 올라 온 사람을 보았느냐 참으로 이스라엘을 모욕하러 왔도다 그를 죽이는 사람은 왕이 많은 재물로 부하게 하고 그의 딸을 그에게 주고 그 아버지의 집을 이스라엘 중에서 세금을 면제하게 하시리라

26 다윗이 곁에 서 있는 사람들에게 말하여 이르되 이 블레셋 사람을 죽여 이스라엘의 치욕을 제거하는 사람에게는 어떠한 대우를 하겠느냐 이 할례 받지 않은 블레셋 사람이 누구이기에 살아 계시는 하나님의 군대를 모욕하겠느냐

백성이 말하기를,“다른게 아니라, 그를 죽이는 사람은 대단한 포상이 주어진대. 즉, ①그사람을 왕의 사위로 삼을 뿐만이 아니라 ② 많은 재물로 부하게 하고 ③ 그 사람의 아버지의 집을 이스라엘 중에서 세금을 면제하게 한대”그리고 그 말을 들은 다윗이 목격한 상황은 아무리 강한 인물이든, 어느 누구든 살아계신 하나님의 군대인 이스라엘을 모독하고 있는 상황입니다. 그것은 바로 이스라엘의 하나님을 모욕하고 모독하고 있는 것과 같은 것입니다. 즉 이 싸움은 골리앗과 이스라엘군의 싸움이 아니라 골리앗과 하나님의 싸움이라고 다윗은 인식했습니다. 그리고 다윗은 주위의 병사들에게「이 블레셋 사람을 죽여 이스라엘의 치욕을 제거하는 사람에게는 어떠한 대우를 하겠느냐 이 할례 받지 않은 블레셋 사람이 누구이기에 살아 계시는 하나님의 군대를 모욕하겠느냐」라고 말했습니다. 이스라엘 사람들은 물론 그것을 알고 있었지만 골리앗 앞에서 이 믿음을 어디론가 던져버렸습니다. 다만 골리앗의 크기와 중장비에 압도되어 살아계신 하나님이 자신들과 함께 계신다는 가장 소중한 사실을 외면하고 그 자리에서 도망쳐 갑니다. 또 형 엘리압으로부터는 구경이라도 하러 왔느냐고 꾸중을 듣고 말았습니다. 예전에 형 엘리압은 분명히 다윗에의 기름부음을 그 눈으로 목격했는데, 그 일은 완전히 엘리압의 마음에서 지워져 있었습니다. 골리앗을 앞에 두고 사울을 비롯한 이스라엘의 반응과 다윗의 반응은 완전히 정반대였던 것입니다. 그리고 이 뒤에 더욱 불신하는 사울의 무능함이 드러납니다.

주제 3 왕으로서 실격인 사울의 불신앙

다윗의 일을 듣고 사울에게 고하는 자가 있었으므로 사울은 다윗을 불렀습니다. 다윗은 사울에게 「그로 말미암아 사람이 낙담하지 말 것이라 주의 종이 가서 저 블레셋 사람과 싸우리이다」라고 말합니다만 사울은 다윗의 말을 물리쳤습니다. 「네가 가서 저 블레셋 사람과 싸울 수 없으리니 너는 소년이요 그는 어려서부터 용사임이니라」

그래도 다윗은 자신으로 가득 차 사울을 설득합니다. 다윗의 설득의 말 중에서 특히 중요한 것은 「살아 계시는 하나님」이라는 말과 「여호와」라는 말이 나왔다는 것입니다. 그동안 웬일인지 아무도 여호와의 이름을 언급하지 않았습니다. 다윗만은 달랐습니다. 34~37절을 보시기 바랍니다.

34 다윗이 사울에게 말하되 주의 종이 아버지의 양을 지킬 때에 사자나 곰이 와서 양 떼에서 새끼를 물어가면

35 내가 따라가서 그것을 치고 그 입에서 새끼를 건져내었고 그것이 일어나 나를 해하고자 하면 내가 그 수염을 잡고 그것을 쳐죽였나이다

36 주의 종이 사자와 곰도 쳤은즉 살아 계시는 하나님의 군대를 모욕한 이 할례 받지 않은 블레셋 사람이리이까 그가 그 짐승의 하나와 같이 되리이다

37 또 다윗이 이르되 여호와께서 나를 사자의 발톱과 곰의 발톱에서 건져내셨은즉 나를 이 블레셋 사람의 손에서도 건져내시리이다 사울이 다윗에게 이르되 가라 여호와께서 너와 함께 계시기를 원하노라

목자의 생활이란 사자나 곰이 덮쳐 오는 위험한 생활이었습니다. 그런 가운데 다윗은 살아계신 하나님과 교제하며 하나님께 의지하며 걷고 있었던 것입니다. 목자 생활이야말로 다윗이 믿음을 배양 받은 곳이었습니다. 한편, 사울은 다윗을 전사로 내 보내기로 결심합니다. 그러나 이는 다윗의 믿음이 사울에게도 전파되었다는 것은 아니었습니다. 왜냐하면 사울은 끝까지 갑옷을 고집하며 아무리 생각해도 맞을 리 없는 자신의 큰 갑옷을 다윗에게 입히려고 하기 때문입니다. 주님이 다윗과 함께 싸우실 것이라고는 처음부터 믿지 않았던 것입니다. 그렇다치더라도 전쟁을 하기에는 어리고 군사훈련을 전혀 받지 않은 소년을 골리앗에게 보내는 사울은 도대체 무슨 생각을 하고 있었을까요? 완전 수수께끼입니다. 결과적으로 이 일을 통해서 다윗이 큰 실적을 올리게 되는 것입니다. 만약 제 추측이 허락된다면 두 가지 가능성을 꼽을 수 있습니다. 다윗의 믿음의 말을 들은 뒤 잠시 가만히 있다가 갑자기 “허허허”하고 어이가 없어 웃었다는 것입니다. “그래, 그래. 알았어. 그럼 가라!”라고 하면서 갑옷 사이즈가 맞지도 않는다는 것에도 생각이 미치지 않았던 것은 아닐까 하는 것입니다. 또 다른 추측은 현실주의 사울이기 때문에 「이 소년의 장렬한 죽음을 통해 이스라엘군의 사기가 올라가기를 바라며 모 아니면 도의 내기」에 나섰다는 것입니다. ‘다윗의 죽음을 병사들의 사기를 올리는 기폭제로 사용할 수 없을까?’ 하는 생각이 머릿속에서 맴돌고 있었다는 것입니다. 여기에 사울 왕의 불신앙과 무능이 뚜렷이 드러나고 있습니다. 어쨌든 하나님은 사울의 결단을 통해 준비된 무대에 다윗과 골리앗을 보내 다윗에게 대승리를 안겨주고 왕위를 사울에서 다윗에게로 조금씩 옮겨가게 하시는 것입니다.

결론

첫째, 하나님은 다윗이 가리키고 있는 참된 왕 예수 그리스도를 우리에게 보내주셨습니다. 우리의 싸움은 그분 밑에서의 싸움이라는 것입니다. 우리의 믿음의 싸움은 하나님의 싸움에 참전하는 것이며, 하나님의 영광을 위한 싸움이라는 것입니다. 둘째, 다윗이 기름부음을 받고 나서 실제로 왕이 되기까지는 매우 오랜 시간이 걸렸다는 것입니다. 하나님의 눈으로 보면 은밀히 행해진 기름부음 때문에 다윗은 이스라엘의 왕이 되었지만, 인간의 눈으로 보면 골리앗을 쓰러뜨리고 공주의 약혼자가 되었고, 그 후에도 왕자 요나단과 언약을 맺고 실적을 쌓으면서 모든 사람들의 동의를 받아 왕이 되어 갑니다. 결코 쿠데타 등으로 왕위를 찬탈한 것은 아니었습니다. 물론 하나님은 다윗을 기적적으로 갑자기 왕으로 세울 수도 있으셨을 것입니다. 그러나 하나님의 방식이란 많은 경우가 그렇듯 자연법에 따라 하나님의 숨겨진 섭리에 따라 어떤 일정한 과정을 거치는 것입니다. 그 숨겨진 섭리는 그때는 모르겠지만 나중에 돌이켜 볼 때 비로서 이해할 수 있는 것과 같습니다. 즉, 하나님의 예정이란 운명에 얽매이는 것이 아니라 자유의지를 가진 인간 측의 은혜의 응답을 통해 성취되어 가는 것입니다. 「하나님이 100+우리 쪽의 응답이 100=구원이100」이 되는 것입니다. 정말 하나님이 살아 계시고 그리스도께서 우리를 위해 중보해 주시니 우리는 주안에서 노력하는 것을 게을리 하지 말고 무엇보다 포기했던 소원과 희망을 다시 한 번 주님 앞에 나와 기도로 올려 드립시다. 다윗이 가리키고 있는 기름부으심을 받으신 분 예수님께서 우리에게 승리와 구원을 가져다 주실 것입니다.

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