2019年12月08日「ダビデの油注ぎ 다윗에의 기름부음」

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ダビデの油注ぎ 다윗에의 기름부음

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 16章1節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 16章1節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

梗概

ダビデが登場し、油が注がれて、イスラエルに祝福がもたらされるようになった。ダビデとはキリストのひな型であった。旧約の聖徒はダビデを通してメシアを待望したように、新約の私たちはキリストの初臨を通してキリストの再臨を待ち望まなければならない。

序論

 サウルはサムエルからはっきりと王位が廃位されたことを宣言されました。サウルが主の御言葉を拒絶したために、主もサウルを王位から退けたのです。この事件は、サムエルを大変悲しませましたが、主はサムエルに対し「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか」、「角に油を満たして出かけなさい。」とお命じになり、ついに神さまの御心に適った、ベツレヘムのエッサイの子に油を注ぎます。油注ぎの霊的な意味は、神の霊によって武装するということです。この日、ダビデに油が注がれイスラエルに新しい王が誕生したのです。その光景を目撃していた村の人々には、まだ、主の聖なる油注ぎの意味が、はっきりとは理解されませんでしたが、この日を境にして、「イスラエルに神によって選ばれた王」が、「神と完全に心の一致した王」が立てられイスラエルに祝福がもたらされます。このことは実はイエス・キリストがこの世にお生まれになることによってもたらされる、イスラエルの救いを予表していました。

来るべき救い主の呼び名として「メシア」の他に「ダビデの子」というのがあります。イエス様もダビデの子と呼ばれました。ダビデという人物はまさにキリストのひな型であり、キリストの陰だったのです。ですから、聖書には、ダビデに対して、神の御心に適った人物であり、神が心の中を見て選ばれたと書かれていますが、父の御心に完全に従い、罪のない、神と完全に一致した王とは、御子イエス・キリストです。イエス様こそ真の王であり、影ではなく救い主そのものなのです。その意味においてイエス様は、ダビデ王や、ソロモン王よりも(ソロモンはエディドヤ:つまり主に愛された者という別名を持ちますが)、遥かに偉大な王であられるのです。それでは、具体的にどういったところに、ダビデがキリストの影であるということが現れているのでしょうか。

主題1 第一に「油注ぎが平和をもたらすもの」であったという点です。

 サムエル記上16章1~4節を御覧ください。

主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」

サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、

いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」

サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」

サムエルは、ベツレヘムに行くことによって、サウルに猜疑心を引き起こすのではないかと恐れました。もっともなことです。たとえ、サウルが王位から廃位されたと言っても、政権交代が直ちに成立したわけではなく、未だサウルの王権が続いているからです。もしかしたら、サムエルはサウルによって常に監視されていると感じていたかもしれません。そこで「生贄を捧げに行く」というそれらしい理由をつけて、秘かに油注ぎの任務を果たすことにしました。

一方で、訪問を受けたベツレヘムの長老たちも歓迎するどころか、むしろ不安そうにびくびくした態度でサムエルを迎えました。というのもサムエルは、普段はエフライムのベテル、ギルガル、ミツパを巡回しながら生贄を捧げていますが、突然こんな南部の田舎町であるベツレヘムに現れたからです。さらに長老たちは、サムエルとサウルの不和について既に知っていましたから、自分たちがいざこざに巻き込まれるのでは、恐れていたのでしょう。

「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。?」

ダビデへの油注ぎの緊迫した状況は、ベツレヘムに救い主イエス・キリストがお生まれになった時と雰囲気がそっくなのです。サウルが新しく立てられる王に対して猜疑心を燃やしていたように、イエス様の当時、ヘロデ大王は、東方の博士たちの「新しい王がお生まれになった」というお告げを聞いて猜疑心を燃やしました。ヘロデ大王は「その子を見つけたら知らせてくれ。私も行って拝みに行こう」と東方の博士たちに言い渡しました。博士たちは星に導かれて、ついにイエス様を探し当て、黄金、乳香、没薬を贈り、礼拝を捧げると、その夜ヘロデの所に帰るなというお告げがあったため、別のルートを通って自分たちの国に帰りました。また、ヨセフとマリアも、天使のお告げがあり、直ちに幼子を連れてエジプトに避難し、ヘロデが死ぬまでエジプトに滞在することにしました。少し経ってから、博士たちにだまされたことに気づいたヘロデは、ベツレヘムとその一帯の二歳以下の男の子を残らず殺させました。イエス様がお生まれになった当時の、暗くて、緊迫した雰囲気とは、まさにサムエルがベツレヘムに訪問した雰囲気と同じなのです。

この重苦しい雰囲気の中で、サムエルは長老たちに何と答えているでしょうか。「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」と答えました。ダビデの油注ぎとは、イスラエルに平安、つまり、シャロームをもたらすものと言っているのです。これと同じように、イエス様のご降誕もイスラエルに救いと平和がもたらされるためでした。イエス様がお生まれになった夜、野宿していた羊飼いたちに天使たちが突然現れて何と言ったでしょうか。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と讃美したのです。エッサイとはルツとボアズの孫にあたりますが、よく、ルツ記が旧約聖書のアドベントと呼ばれるのは、キリストのひな型であるダビデを待望する物語だからです。

主題2 第二に、「羊飼いの共通点」という主題に移ります。

 サムエルは、エッサイとその息子たちにも身を清めさせ、生贄の会食に招きました。彼らがやってくると、サムエルは長男エリアブに目を留めて、彼こそ主の前に油を注がれる者だと、心の中で思いました。エリアブはサウルとそっくりで姿は立派であり、背が高かったからです。しかし容姿や背の高さに目を向けるなと神さまから注意されます。サムエルは、サウルを選んだ時のように、古い方法によって王を立てようとしてしまいました。7~10節を御覧ください。

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」

エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」

エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」

エリアブから、7人の息子たちがサムエルの前を通りましたが、そのたびに主は沈黙されました。「7」とは完全数を表しています。ダビデはその中にも含まれていない仲間外れ的な存在であり、8番目の子供でした。サムエルはエッサイに「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねます。「末っ子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは「人をやって彼を連れてくるように。その子がここに来ないうちは、食卓に着きません」と言いました。

少し話がそれますが、旧約聖書には、来るべきメシアを、特に王として立場で来られると預言されています。しかしイエス・キリストの、そのご生涯を見る時に、世の専制君主とはずいぶんかけ離れていますし、イスラエルを治めた王たちと比較しても、やはりずいぶんとかけ離れていました。王として来られたはずのキリストは、人々からさげすまれ、自己犠牲的であり、羊飼いのようにご自分の羊一人一人に遜って仕える王でした。もし君主たちの中でたった一人、例外がいるとするなら、それはまさにダビデです。ダビデは兄弟たちからさげすまれ、まだ幼いためなのか、理由はともかく、生贄を捧げる儀式への出席も、許されませんでした。その時、ダビデは何をしたのでしょうか。

そうです。羊の番をしていました。イエス様による王職とダビデによる王職とは、この「羊飼いとしての王職」という点において共通点があるのです。羊飼いというのは、牧畜を愛するイスラエルの社会において、馴染み深く、人々の心に深く根をおろした職業でありましたが、実際、羊飼いの仕事は、決して楽なものではありませんでした。忍耐と労力と羊一匹一匹を配慮する養う心が必要とされました。乾燥の厳しいパレスティナにおいて毎日、羊たちに水を与えなければならないですし、杖を持って獣や盗人から群れを守らなければなりません。夕方になれば、おりの中に導かなければなりません。彼らの服装には、家畜の糞尿の匂いがしみ込んでいます。ですから裕福な人々は普通、雇人を用いて牧畜させました。このような、羊飼いでありながら同時に王であるというのは、同胞を見下さない、謙遜な王として理想的とされています。申命記17:14~20を御覧ください。

あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、

必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。

王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。

王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。

彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、

それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。

そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。

イエス様が羊飼いと言われるようにダビデも羊飼いだったのです。

主題3 第三に「主は心を見られる」という主題に移ります。

 ダビデがサムエルの前に連れて来られると、主は言われます。「彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」つまり、主が心を御覧になられ、王としてお選びになったのは、ダビデであったということです。しかし、これはダビデに全く罪がなかったという意味ではありません。実際、ダビデは主の油が注がれた後にも姦淫の罪、殺人の罪、兵力に頼り人口登録するなどの罪を犯してしまいます。主は、私たちに心を要求され、いけにえより御声に聞き従うことを要求されます。たとえ罪を犯してしまったとしても心が神さまに向いているのか、砕かれた心を持っているのかという点を御覧になられるのです。イザヤ29:13には次のように書かれています。

この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。

ダビデは、たとえ罪を犯すことはありましたけれど、御言葉を慕い求め、柔らかい心を持っていました。詩篇19:8~11はダビデの詩篇ですが、御言葉を心の中心に受け入れていたことが分かります。

主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

ですからダビデ以降の王様たちは、ダビデが基準となって、「ダビデのように歩んだ」のか、「ダビデの心とは異なって歩んだ」というふうに評価されるようになります。ダビデを通して見えてくるのは、来るべきイエス・キリストの王職こそ、神の御心に服従し、御心に完全に一致し、全てのものを神の栄光のために行う王職であるということです。ダビデ王はその影に過ぎませんが、キリストの支配は兵力と武器によらない王職であり、まったく異なる方式によって治める王職です。それは、御言葉と聖霊を通して、恵みと真理によって、義と正しい裁き打ち立てる王職なのです。

結論

 第一に、イエス・キリストは、ダビデのように、羊飼いとしての王職として人々に仕えるためにこの世に来てくださったということです。決して、人々の上に君臨するのではなく、十字架によってご自身の命をお与えになる王として来られました。それによって樹立された神の国は、現在霊的に、そして道徳面においてのみ存在しています。神はすべての魂が悔い改めるよう長く忍耐しておられるのです。終わりの日には、すべての不敬虔な者たちが公正に裁かれて、万物が更新され、新しいエルサレムにおいて、霊的、道徳的に限らず、外的に、そして具体的に、完全な形で、神の国が現れることになります。旧約の聖徒たちが、ダビデ王を通して、ダビデの子、メシアを待望したように、キリストの初臨を通して、私たちは、神の国が完全な形として現れるキリストの再臨を待ち望むのです。

第二に、イエス・キリストが父なる神さまの御心を全て従順に聞き従ったように、ダビデは律法を大切にし、御言葉から右にも左にもそれないように努力しました。心を見られ、心を要求される神さまの御前に、私たちも御言葉に全幅の信頼を寄せて歩まなければならないということです。聖書の御言葉が蜜より甘いと感じられるように、共に御言葉を黙想してまいりましょう。

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다윗에의 기름부음

2019년 12월 8일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 16장 1~13절

경개(대강의 줄거리)

다윗이 등장하고 기름부음을 받고 이스라엘에 복이 내려지게 되었다. 다윗이란 그리스도의 모형이었다. 구약의 성도들은 다윗을 통해 메시아를 대망했듯이, 신약의 우리는 그리스도의 초림을 통해 그리스도의 재림을 대망해야 한다.

서론

사울은 사무엘로부터 분명하게 왕위가 폐위되었다는 것을 선고 받았습니다. 사울이 주님의 말씀을 버렸기에 주님도 사울을 왕위에서 버리신 것입니다. 이 사건은 사무엘을 매우 슬프게 했는데, 주님은 사무엘에게 「네가 그를 위하여 언제까지 슬퍼하겠느냐」, 「너는 뿔에 기름을 채워 가지고 가라」고 명령하셨고, 마침내 하나님의 마음에 맞는 베들레헴의 이새의 아들에게 기름을 붓습니다. 기름부음의 영적인 의미는 하나님의 영으로 무장한다는 것입니다. 이날 다윗에게 기름이 부어져 이스라엘에 새로운 왕이 탄생한 것입니다. 그 광경을 목격하고 있던 마을 사람들에게는 아직 주님의 거룩한 기름부음의 의미가 분명하게 이해되지 않았지만, 이 날을 기점으로 「이스라엘에 하나님의 선택을 받은 왕」, 「하나님의 마음에 합한 왕」이 세워지면서 이스라엘에 복이 내려집니다. 이 일은 사실 예수 그리스도가 이 세상에 태어나심으로써 초래될 이스라엘의 구원을 예표하고 있었습니다.

오셔야 할 구원자의 호칭으로 「메시아」외에 「다윗의 자손」이라는 호칭이 있습니다. 예수님도 다윗의 자손이라고 불리워졌습니다. 다윗이라는 인물은 바로 그리스도의 모형이자 그리스도의 그림자였던 것입니다. 그래서 성경에는 다윗에 대해 하나님의 마음에 합한 인물이며 하나님이 그 중심을 보시고 선택하셨다고 적혀 있는데, 아버지의 마음을 온전히 따르시고 죄 없는, 하나님과 완전히 일치하신 왕은 하나님의 아들 예수 그리스도이십니다. 예수님이야말로 진정한 왕이고 그림자가 아니라 구원자 그 자체이십니다. 그런 의미에서 예수님은 다윗 왕이나 솔로몬 왕보다(솔로몬은 여디디야, 즉 여호와의 사랑하심을 입은 자란 뜻의 별칭을 하나님이 붙여 주셨다) 훨씬 더 위대한 왕이신 것입니다. 그렇다면 구체적으로 어떤 부분이 다윗이 그리스도의 그림자라는 것을 나타내고 있을까요?

(주제 1)

첫 번째로 「기름부음이 평화를 가져오는 것」이었다는 점입니다.

사무엘상 16장 1~4절을 보시기 바랍니다.

1 여호와께서 사무엘에게 이르시되 내가 이미 사울을 버려 이스라엘 왕이 되지 못하게 하였거늘 네가 그를 위하여 언제까지 슬퍼하겠느냐 너는 뿔에 기름을 채워 가지고 가라 내가 너를 베들레헴 사람 이새에게로 보내리니 이는 내가 그의 아들 중에서 한 왕을 보았느니라 하시는지라

2 사무엘이 이르되 내가 어찌 갈 수 있으리이까 사울이 들으면 나를 죽이리이다 하니 여호와께서 이르시되 너는 암송아지를 끌고 가서 말하기를 내가 여호와께 제사를 드리러 왔다 하고

3 이새를 제사에 청하라 내가 네게 행할 일을 가르치리니 내가 네게 알게 하는 자에게 나를 위하여 기름을 부을지니라

4 사무엘이 여호와의 말씀대로 행하여 베들레헴에 이르매 성읍 장로들이 떨며 그를 영접하여 이르되 평강을 위하여 오시나이까

사무엘은 베들레헴에 가는 일로 사울에게 의심을 불러일으키지 않을까 두려워했습니다. 맞는 말입니다. 설령 사울이 왕위에서 폐위되었다고 해도 정권교체가 바로 이루어진 것은 아니고 아직도 사울의 왕권이 계속되고 있기 때문입니다. 어쩌면 사무엘은 사울에 의해 항상 감시당하고 있다고 느끼고 있었을지도 모릅니다. 그래서 「여호와께 제사를 드리러 왔다」는 그럴듯한 이유를 대며 몰래 기름부음의 임무를 완수하기로 했습니다.

한편, 방문을 받은 베들레헴 장로들도 환영하기는 커녕 오히려 떨며 흠칫하는 태도로 사무엘을 맞이했습니다. 왜냐하면 사무엘은 평소에는 에브라임의 벧엘, 길갈, 미스바를 순회하면서 제사를 드리고 있는데, 갑자기 이런 남부 시골 마을인 베들레헴에 나타났기 때문입니다. 게다가 장로들은 사무엘과 사울의 불화에 대해서 이미 알고 있었기 때문에 자신들이 그 분쟁에 휘말릴까 두려워했을 것입니다.

「평강을 위하여 오시나이까」

다윗을 향한 기름부음의 긴박한 상황은 베들레헴에 구원자 예수 그리스도가 탄생하신 때와 분위기가 똑같습니다. 사울이 새로 세워질 왕에 대해 의심을 불태우듯 예수님 당시 헤롯 대왕은 동방 박사들의 「새로운 왕이 태어나셨다」는 말을 듣고 의심을 불태웠습니다. 헤롯 대왕은 「가서 아기에 대하여 자세히 알아보고 찾거든 내게 고하여 나도 가서 그에게 경배하게 하라」고 동방 박사들에게 말했습니다. 박사들은 별에 이끌려 마침내 예수님을 찾아 황금, 유황, 몰약을 드리고 경배를 드리니 그날 밤 헤롯에게로 돌아가지 말라라는 지시를 받고 다른 길로 고국에 돌아갔습니다. 또한 요셉과 마리아도 천사의 계시가 있어 즉시 아기를 데리고 애굽으로 피신하여 헤롯이 죽을 때까지 애굽에 머물기로 했습니다. 조금 지나서야 동방 박사들에게 속았다는 것을 알게 된 헤롯은 베들레헴과 그 일대의 두 살 이하 남자 아기를 남김없이 죽였습니다. 예수님이 태어나실 당시의 어둡고 긴박한 분위기란 바로 사무엘이 베들레헴에 방문했던 분위기와 같은 것입니다.

이 짓눌리는 것같은 분위기 속에서 사무엘은 장로들에게 뭐라고 대답하고 있을까요? 「평강을 위함이니라 내가 여호와께 제사하러 왔으니 스스로 성결하게 하고 와서 나와 함께 제사하자」라고 대답했습니다. 다윗의 기름부음이란 이스라엘에게 평강, 즉 샬롬을 가져다주는 것이라고 말하고 있는 것입니다. 이와 마찬가지로 예수님의 탄생도 이스라엘에게 구원과 평화가 초래되기 때문입니다. 예수님이 태어나신 밤, 노숙하고 있던 목자들에게 천사들이 갑자기 나타나서 뭐라고 했을까요? 「지극히 높은 곳에서는 하나님께 영광이요 땅에서는 하나님이 기뻐하신 사람들 중에 평화로다」라고 찬미한 것입니다. 이새는 룻과 보아스의 손자에 해당하는데, 흔히 룻기가 구약성경의 어드벤트라고 불리는 것은 그리스도의 모형인 다윗을 대망하는 이야기이기 때문입니다.

(주제 2)

두 번째로 「목자들의 공통점」이라고 하는 주제로 들어가겠습니다.

사무엘은 이새와 그 아들들울 성결하게 하고 제사에 청했습니다. 그들이 찾아오자 사무엘은 장남 엘리압을 눈여겨 보고 마음에 이르기를 여호와의 기름 부으실 자가 과연 주님 앞에 있다고 생각했습니다. 엘리압은 사울을 똑 닮아 용모가 훌륭했으며 키가 컸기 때문입니다. 그러나 용모나 키 높이에 눈을 돌리지 말라고 하나님으로 부터 주의를 받습니다. 사무엘은 사울을 선택했을 때처럼 육적인 안목으로 왕을 세우려고 했습니다. 7~10절을 보시기 바랍니다.

7 여호와께서 사무엘에게 이르시되 그의 용모와 키를 보지 말라 내가 이미 그를 버렸노라 내가 보는 것은 사람과 같지 아니하니 사람은 외모를 보거니와 나 여호와는 중심을 보느니라 하시더라

8 이새가 아비나답을 불러 사무엘 앞을 지나가게 하매 사무엘이 이르되 이도 여호와께서 택하지 아니하셨느니라 하니

9 이새가 삼마로 지나게 하매 사무엘이 이르되 이도 여호와께서 택하지 아니하셨느니라 하니라

10 이새가 그의 아들 일곱을 다 사무엘 앞으로 지나가게 하나 사무엘이 이새에게 이르되 여호와께서 이들을 택하지 아니하셨느니라 하고

엘리압을 비롯해 일곱 아들들이 사무엘 앞을 지나갔지만 그때마다 주님은 침묵하셨습니다. 「7」이란 완전수를 나타냅니다. 다윗은 그 중에도 포함되지 못한 따돌림받는 존재이자 여덟 번째 아들이었습니다. 사무엘은 이새에게 「네 아들들이 다 여기 있느냐」라고 묻습니다. 「아직 막내가 남았는데 그는 양을 지키나이다」라고 이새가 대답하자 사무엘은 「사람을 보내어 그를 데려오라 그가 여기 오기까지는 우리가 식사 자리에 앉지 아니하겠노라」고 말했습니다.

조금 말이 빗나가지만 구약성경에는 오실 메시아가 왕으로서 오신다고 예언되어 있습니다. 그러나 예수 그리스도의 그 생애를 볼 때에 세상의 전제군주와는 한참 동떨어져 있고, 이스라엘을 다스린 왕들과 비교해봐도 역시 한참 동떨어져 있습니다. 왕으로 오신 그리스도는 사람들로부터 업신여김을 받고, 자기희생적이며, 목자처럼 자기 양을, 한 명 한 명 겸손하게 섬겨주시는 왕이었습니다. 만약 군주들 중 단 한 명의 예외가 있다면 그것은 바로 다윗입니다. 다윗은 형제들에게 업신여김을 받고 아직 어려서 그랬는지, 이유야 어찌되었든 제사의 참석도 허락되지 않았습니다. 그때 다윗은 무엇을 했을까요?

그렇습니다. 양을 지키고 있었어요. 예수님에 의한 왕직과 다윗에 의한 왕직은 이 「목자로서의 왕직」이라는 점에서 공통점이 있는 것입니다. 목축을 사랑하는 이스라엘 사회에서 목자는 친숙하고 사람들의 마음에 깊이 뿌리내린 직업이었지만 사실 목자의 일은 결코 쉬운 일이 아니었습니다. 인내와 노력과 양 한 마리 한 마리를 배려하는 양육하는 마음이 필요했습니다. 건조한 팔레스타인에서 매일 양들에게 물을 마시게 해야 하고 지팡이를 들고 짐승이나 도둑으로부터 양무리를 지켜야 합니다. 저녁이 되면 우리 안으로 이끌어야 해요. 그들의 복장에는 가축의 분뇨 냄새가 배어 있습니다. 그래서 부유한 사람들은 보통 사람을 고용해서 목축을 시켰습니다. 이런 목자이면서 동시에 왕이라는 것은 형제를 깔보지 않는 겸손한 왕으로 이상적입니다. 신명기 17장 14~20절을 보시기 바랍니다.

14 네가 네 하나님 여호와께서 네게 주시는 땅에 이르러 그 땅을 차지하고 거주할 때에 만일 우리도 우리 주위의 모든 민족들 같이 우리 위에 왕을 세워야겠다는 생각이 나거든

15 반드시 네 하나님 여호와께서 택하신 자를 네 위에 왕으로 세울 것이며 네 위에 왕을 세우려면 네 형제 중에서 한 사람을 할 것이요 네 형제 아닌 타국인을 네 위에 세우지 말 것이며

16 그는 병마를 많이 두지 말 것이요 병마를 많이 얻으려고 그 백성을 애굽으로 돌아가게 하지 말 것이니 이는 여호와께서 너희에게 이르시기를 너희가 이 후에는 그 길로 다시 돌아가지 말 것이라 하셨음이며

17 그에게 아내를 많이 두어 그의 마음이 미혹되게 하지 말 것이며 자기를 위하여 은금을 많이 쌓지 말 것이니라

18 그가 왕위에 오르거든 이 율법서의 등사본을 레위 사람 제사장 앞에서 책에 기록하여

19 평생에 자기 옆에 두고 읽어 그의 하나님 여호와 경외하기를 배우며 이 율법의 모든 말과 이 규례를 지켜 행할 것이라

20 그리하면 그의 마음이 그의 형제 위에 교만하지 아니하고 이 명령에서 떠나 좌로나 우로나 치우치지 아니하리니 이스라엘 중에서 그와 그의 자손이 왕위에 있는 날이 장구하리라

예수님을 목자라고 하듯이 다윗도 목자였던 것입니다.

(주제 3)

세 번째로 「주님은 중심을 보신다」라고 하는 주제로 들어가겠습니다.

다윗을 사무엘 앞으로 데려오자 주님은「이가 그니 일어나 기름을 부으라」고 하십니다. 즉, 주께서 중심을 보시고 왕으로 선택하신 것은 다윗이었다는 것입니다. 하지만 이것은 다윗에게 전혀 죄가 없었다는 뜻이 아닙니다. 사실 다윗은 주님의 기름부음을 받은 후에도 간음죄, 살인죄, 병력에 의지해 인구조사를 하는 등의 죄를 저지르고 맙니다. 주님은 우리에게 마음을 요구하시며 제사보다 주님의 목소리를 청종하는 것을 좋아하십니다. 비록 죄를 지었지만 마음이 하나님을 향하고 있는지 상하고 통회하는 심령을 가지고 있는지를 보십니다. 이사야 29장 13절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

주께서 이르시되 이 백성이 입으로는 나를 가까이 하며 입술로는 나를 공경하나 그들의 마음은 내게서 멀리 떠났나니 그들이 나를 경외함은 사람의 계명으로 가르침을 받았을 뿐이라

다윗이 비록 죄를 짓긴 했지만 말씀을 사모하고 부드러운 마음을 가지고 있었습니다. 시편 19장 8~10절은 다윗의 시편인데 말씀을 마음의 중심에서 받아들이고 있음을 알 수 있습니다.

8 여호와의 교훈은 정직하며 마음을 기쁘게 하고 여호와의 게명은 순결하여 눈을 밝게 하시도다

9 여호와를 경외하는 도는 정결하여 영원까지 이르고 여호와의 법도 진실하여 다 의로우니

10 금 곧 많은 순금보다 더 사모할 것이며 꿀과 송이꿀보다 더 달도다

그래서 다윗 이후의 왕들은 다윗이 기준이 되어 「다윗의 길을 걸었다」라든지 「다윗의 마음과 다른 길을 걸었다」라는 식으로 평가되게 되었습니다. 다윗을 통해서 보이는 것은, 오실 예수 그리스도의 왕직이야말로, 하나님의 뜻에 복종하시고 뜻에 완전히 일치하시며, 모든 것을 하나님의 영광을 위하여 행하는 왕직이라는 것입니다. 다윗 왕은 그림자에 불과했지만 그리스도의 다스림은 군사력과 무력에 의하지 않은 왕직이며 완전히 다른 방식으로 다스리시는 왕직입니다. 그것은 말씀과 성령을 통해서 은혜와 진리에 의해서 의롭고 올바른 심판을 내리시는 왕직이십니다.

결론

첫째, 예수 그리스도께서는 다윗처럼 목자로서의 왕직으로 사람들을 섬기기 위해 이 세상에 오셨다는 것입니다. 결코 사람들 위에 군림하는 것이 아니라 십자가에 못박혀 자신의 목숨을 주시는 왕으로 오셨습니다. 그로 인해 수립된 하나님의 나라는 현재는, 영적으로 그리고 도덕적인 면에서만 존재하고 있습니다. 하나님은 모든 영혼이 회개하도록 오래 인내하고 계십니다. 마지막 날에는 모든 불경한 자들이 공정하게 심판받고 만물이 갱신되며, 새로운 예루살렘에서 영적, 도덕적에만 국한되지 않고 외적으로 그리고 구체적으로, 완전한 형태로 하나님의 나라가 나타나게 됩니다. 구약의 성도들이 다윗 왕을 통해 다윗의 자손 메시아를 대망했듯이 그리스도의 초림을 통해 우리는 하나님의 나라가 완전한 형태로 나타날 그리스도의 재림을 대망하는 것입니다.

둘째, 예수 그리스도가 아버지 하나님의 마음을 모두 순종하신 것처럼 다윗은 율법을 사모하고 말씀에서 오른쪽으로도 왼쪽으로도 취우치는 일이 없도록 노력했습니다. 중심을 보시고 중심을 요구하시는 하나님 앞에서 우리들도 말씀에 전폭적인 신뢰를 하면서 살아야 한다는 것입니다. 성경의 말씀이 꿀보다 달콤하다고 느낄 수 있도록 함께 말씀을 묵상해 나갑시다.

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