2019年12月01日「アマレクとの戦い 아말렉과의 전투」

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アマレクとの戦い 아말렉과의 전투

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 15章1節~31節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。
2万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。
3行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」
4サウルは兵士を召集した。テライムで兵士を数えると、歩兵が二十万、ユダの兵は一万であった。
5サウルはアマレクの町まで来ると、兵を川岸にとどめた。
6サウルはカイン人に言った。「あなたたちはアマレク人のもとを立ち退き、避難してください。イスラエルの人々がエジプトから上って来たとき、親切にしてくださったあなたたちを、アマレク人の巻き添えにしたくありません。」カイン人はアマレク人のもとを立ち退いた。
7サウルはハビラからエジプト国境のシュルに至る地域でアマレク人を討った。
8アマレクの王アガグを生け捕りにし、その民をことごとく剣にかけて滅ぼした。
9しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。
10主の言葉がサムエルに臨んだ。
11「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。
12朝早く、サムエルが起きて、サウルに会おうとすると、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに向かって下った」との知らせが届いた。
13サムエルがサウルのもとに行くと、サウルは彼に言った。「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました。」
14サムエルは言った。「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」
15サウルは答えた。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」
16サムエルはサウルに言った。「やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。」サウルは言った。「お話しください。」
17サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。
18主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。
19何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」
20サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。
21兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」
22サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
23反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる。」
24サウルはサムエルに言った。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました。
25どうぞ今、わたしの罪を赦し、わたしと一緒に帰ってください。わたしは、主を礼拝します。」
26サムエルはサウルに言った。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」
27サムエルが身を翻して立ち去ろうとすると、サウルは彼の上着の裾をつかんだ。上着は裂けた。
28サムエルは彼に言い渡した。「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。
29イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることはない。」
30サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」
31サムエルは彼について帰り、サウルは主を礼拝した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 15章1節~31節

原稿のアイコン日本語メッセージ

梗概

本日の箇所において主の御言葉と民の声に対するサウルの態度に焦点が当てられている。サウルは御言葉を自分に都合よく解釈し、民の声に従い、聖絶すべきものを惜しんだために、サムエルから断罪される。御言葉に聞き従わない罪とは、反逆であり、高慢であり、神を喜ばすことができるという占いの罪であり、偶像礼拝の罪であった。御言葉に聞き従わない罪とは、不信仰であり、神の仲保者であられるキリストを拒絶する罪である。サウルは、御言葉を退けたために、神から退けられ、王国はサムエルから取り上げられ、王位から廃位される。

序論 旧約において律法、と御言葉はイエス・キリストを示している

本日のサムエル記の聖書箇所では、御言葉つまり(ダバル)と、聞く、聞き従う(シェマ)という単語がキーワードとして何度も出てきまいりまして、サウル王の「主の御言葉」に対する態度に焦点が当てられています。全体を簡単に要約しますと、サウルは民の声や、獣の声には喜んで耳を傾けましたが、主の御言葉に耳を傾けることはできなかったということです。御言葉ダバルは、ギリシャ語ではロゴスとなりますが、そもそも、旧約において主の御言葉とは、イエス・キリストを示しています。ヨハネによる福音書1章には、“初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。”と書かれていて、その“言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。”と書かれています。ヨハネは、神の言葉とは、世に来られたイエス・キリストであると言っています。それでは、言葉が神と共にあって、言葉そのものも神であった、とはどういう意味でしょうか。人間の場合で考えてみるなら、たとえばグルメの美食レポートなどで、「言葉ではよく表現できないけれど…」と言ったりすることがありますね。言葉とは何かと言うと、私たちの頭の中にある思いとか、私たち自身が感じたことを、音という形式を着せて記号にしたものと言うことができます。ですから言葉にすることで思いが伝えられるのです。これと同じように、神さまは御言葉を通じて私たちにご自身を表し、ご自身のお考えを、御言葉を通じて示しておられるのです。近寄り難い光の中に住まわれ、だれ一人見たことがなく、見ることのできないお方である神は、御言葉を通してご自身を啓示しておられるのです。ですから主の御言葉とは、人間と神の間の仲保的な役割を担っていると言えます。神さまはこの御言葉によって無から有を創造し、天地万物を創造されました。主の御言葉は、被造物の命の根源でもあります。御言葉なる神は天地が創造される前から存在しました。モーセの時には律法の名のもとに旧約の聖徒に漠然と思い描かれ、そして時が満ち、最後には、それより遥かに十全なかたちによって、肉のからだをお取りになって現れたのです。このことは何を意味しているのかと言えば、イエス・キリストは、すでに旧約においても、ぼんやりとしてではありますが、御言葉や律法という形式でご自身の救済の働きをされていたということです。ヨハネによる福音書8:56~58を御覧ください。

“あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」”

ですから、旧約においても、新約においても、救いにおける本質的な違いはありません。イエス・キリストを信じることによって、主の御言葉を信じることによって救われるのです。

本論1 サウルの御言葉に対する不従順の背景とプロセス

サウルに油注がれてイスラエルの王に立てられた目的とは、王が神の御声に聞き従い、そして民に模範を示し、ヤハウェの民イスラエルを御言葉によって導くためでありました。たとえ周辺諸国と同じように王政が導入されても、イスラエルにおいては、依然としてヤハウェが真の王としてイスラエルを治めることに変わりありませんでした。15:1の御言葉も、そのことをよく表しています。御覧ください。

“サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。”

「今、主の御言葉に聞きなさい」というフレーズの中に、ダバル(御言葉)とシェマ(聞き従う)が出てきます。サウルは、主の民イスラエルの代表として御言葉に従うべきです。その、御言葉の内容とは、アマレクとアマレクに属するすべてのものを一切滅ぼし尽くせという命令でした。滅ぼし尽くすとは、「聖絶する」ということですが、つまり、戦利品を一切残すことなく、すべてを神のものとするという意味です。これは当時、戦争そのものが主の戦いであり、戦いを通して御名の栄光を表す神礼拝であったという背景があります。ですから、今度のアマレクとの戦いでは、略奪物も一切、神のものとして捧げなさい、イスラエルの分捕りものはないですよという意味です。供え物の種類で言えば、和解の献げ物として共に肉を食べるのではなく、完全に焼き尽くす献げ物にしなさいということです。神の御前にアマレクの罪が積もりに積もったので、今神さまはイスラエルを用いて裁こうとしておられるのです。アマレク人とはイスラエルの南側の荒れ野に住んでいる遊牧民でした。申命記25章を見ますと、その時から400年ほど遡って、出エジプトの時に、アマレクは、旅の途中にある、疲れ切っているイスラエルを攻撃したとあります。しかも、隊列の中で特に、女子供や弱いものが集まっている後ろの方を狙ってきました。この残虐非道のアマレクの記憶を主は拭い去るために、今サウルを通して裁きが下されようとしているのです。

サウルは、アマレクの王アガグと羊の牛の最上のもの、その他、上等なものは惜しんで聖絶しませんでした。値打ちのないものだけを滅ぼしつくしたのです。サウルはアガグ以外のアマレク人を聖絶したと言っていますが、実際はサムエル上30章に再びアマレク人が登場していますので、かなりの数のアマレク人が生かされたと考えられます。またエステル記を見ますとユダヤ人を一人残らず殺そうと図った男、ハマンという人物が出てきますが、実はこの男は、アガグの子孫として登場しています。サウルは聖絶しなさいという主の御言葉を前に、それを自分の都合のいいように解釈し、実際には御言葉に聞き従いませんでした。

本論2 サウルの弁解から見えてくるもの

サムエルに主からの御言葉が臨みました。11~12節を御覧ください。

“「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令(御言葉)を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。朝早く、サムエルが起きて、サウルに会おうとすると、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに向かって下った」との知らせが届いた。”

神さまが悔やんだ、後悔したという表現がありますが、これは神さまが失敗したという意味ではなく、本当に残念に思ったという意味です。御言葉に聞き従わなかったサウルの行動は、神さまとサムエルを大変悲しませました。サムエルは夜通しサウルのためにとりなしの祈りを捧げます。しかしその頃、そのような悲しみとは裏腹に、サウルは自分の勝利を記念するために、カルメルに戦勝碑を建てたという知らせが届いてまいりました。神さまの栄光をほめたたえるのではなく自分に栄光を帰せているのです。

その後、サムエルはサウルのところにやって来ました。周囲からはたくさんの家畜の鳴き声が聞こえてきますが、サウルはサムエルに対し臆面もなく、「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました。」と言いました。子供でさえサウルは御言葉に背いているということが分かりそうですが、サウルは何も悪びれる様子がありません。サウルは盲目だったのか、或いは自分で自身を欺いているのかのどちらかだったのでしょう。サムエルに「この家畜の鳴き声は何なのか」と指摘されると、サウルは大したことではないかのように説明します。15節を御覧ください。

“サウルは答えた。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」”

サウルの弁解を見ると、兵士と自分を線引きして、家畜を生かしたのは兵士のせいであると言っています。自分は御言葉をきちんと守ったと言うのです。さらに、神を侮辱するかのように、兵士たちはあなたの神、主への供え物にしようと、最上のものを取って置いたと言います。つまり、サウルはウィンクをしながら目くばせするかのように、賄賂を提示して、サムエルとサムエルの神をなだめようとしているのです。するとサムエルは、“やめなさい。あなたに言わねばならないことがある。昨夜、主がわたしに語られたことだ。”として、サウルに主の御言葉に聞き従っていないことをはっきり告げた上で、“何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。”と責め立てました。しかし、サウルは自分の罪をはっきり指摘されても、なおも悔い改めようとしません。サウルは「自分は御言葉に聞き従った。その罪は兵士がやったことである」と頑なに主張します。サウルの弁解から見えてくるのは、現代における、法のすき間をついた悪徳商法のようなものです。明らかに悪徳な商売をしながら、法には引っかかっていないと主張するのです。罪を指摘されても、「物は言いようだ!」とか、「それは解釈の問題だろう!」と屁理屈だけをこねるのです。もし御言葉を信じているのなら、私たちは御言葉の中から、イエス・キリストの中から、神の恵みを待望するようになります。たとえば、罪の赦しですとか、永遠の命ですとか、神の子としての希望、祈りが聞かれることの希望などを、抱くようになります。サウルの場合は、御言葉に聞いているふりをしながら、御言葉以外の所から、信仰ではない方法によって希望を得ようとしているのです。サウルのしていることは、大きな倉に財産を蓄えた「愚かな金持ち」に譬えることができます。ルカによる福音書12:16~20節を御覧ください。

“それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。”

結局、サウルの弁解から見えてくるのは、サウルにとって、御言葉の内にある約束より、世の富の方が重要であったということです。御言葉に従うことより、御言葉以外のところから希望や平安を求めてしまいました。

本論3 御言葉より世の名声や民の評判を求めるサウル

サウルが主の御言葉を拒絶したために、主もサウルを王位から拒絶すると、宣言されます。22~23節を御覧ください。

“サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる。」”

主が喜ばれるのは、祭儀ではなく、「御声に聞き従うこと」ということですが、またキーワードの「ダバルとシェマ」が出てきました。神はその人の心の中を見られますが、神さまが喜ばれるのは、御言葉に対する信仰であるという意味です。

もし、御言葉に聞き従わないなら、もし、仲保者イエス・キリストを拒絶するなら、それは神への反逆であり、占いの罪であり、その高慢は偶像礼拝の罪なのです。不信仰を見事に見抜かれてしまったサウルは、ようやく自分の罪を認めますが、兵士たちに責任転換をするだけで、悔い改めることはありませんでした。逆に開き直る姿が描かれています。24節を御覧ください。

“サウルはサムエルに言った。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました。”

また、サウルにとっては、御言葉の内にある約束より、世の名声や評判の方が大切でした。御言葉に聞き従うところの神の祝福や、罪の赦しに対しては盲目であり、まったく関心がありませんでした。30節を御覧ください。

“サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」”

こうしてサウルが主の御言葉を拒絶し、仲保者イエス・キリストを拒絶したように、主もサウルを捨てられたのです。

結論

信仰とは一体何かと言うと、御言葉の内に留まり、御言葉の内にある約束を待望するということです。不信仰とは、主の御言葉を自分勝手に解釈したりして、御言葉を離れたところから希望を持とうとする態度です。サウルのように世の富を求めたり、世の名声や評判を求めても、そこには救いもなければ、真の希望も平安もありません。私たちがキリスト者としてイエス様と共に歩む生活を始めたなら、神の言葉である聖書を熱心に開き、御言葉を黙想したり、或いは聖書研究に参加したり、インターネットなどで日々説教を聞くべきです。また、改革派教会からはリジョイスなどが発行されていますので、そういったものを用いましょう。もしかして、皆さんの内に「聖書は普段物置にしまってあります。」「教会とはサークル活動のようなものだと考えていました」という人がいるなら、今日悔い改めてください。信仰と御言葉は切っても切り離せない関係であり、御言葉とはまさにイエス・キリストだからです。

実は、信仰というものも、神さまによって御言葉の種が植えられて、生じるものであります。神さまによって植えられていないものは、やがて抜き取られてしまいます。それによって真の信仰なのか、サウルのような形だけの偽りの信仰なのかを見分けることができるのです。真の信仰が植えられている人は、耕され肥沃な心を持ち、心の中に根が張りつめるようになり、神の子としてのアイデンティティをしっかり持つようになります。御言葉の中に希望を持つようになります。一方、偽りの信仰の場合、根が深く下すことはできず、雇人としてのアイデンティティしか持つことができません。御言葉によって希望を持とうとするのではなく、御言葉以外から希望を持とうとしますが、それらは絶望にかわるのです。信仰に裏付けらえた希望、御言葉から湧き出てくる希望に生きるのが、私たちクリスチャンなのです。

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아말렉과의 전투

2019년 12월 1일 센겐다이 교회 주일설교

사무엘상 15장 1~31절

경개(대강의 줄거리)

오늘의 구절에 있어서 주님의 말씀과 백성의 목소리를 청종한 사울의 태도에 좇점이 맞춰져 있다. 사울은 말씀을 자신에게 편리하게 해석하여 백성의 목소리를 따랐고, 마땅히 진멸해야 할 것을 아까워했기 때문에 사무엘로부터 단죄를 받는다. 말씀에 따르지 않는 죄는 반역이며 교만이요 거역하는 것은 점치는 죄와 같고 우상숭배이다. 말씀에 순종하지 않는 죄는 불신앙이며, 하나님의 중보자이신 그리스도를 거절하는 죄이다. 사울은 말씀을 버렸기 때문에 하나님으로부터 버림을 받고 왕국은 사무엘로부터 회수당하고 왕위에서 폐위된다.

(서론) 구약에 있어서 율법과 말씀은 예수 그리스도를 나타내고 있다

오늘의 사무엘상의 성경구절에는 말씀 즉, (다바르)와 듣다, 순종하다(쉐마)라는 단어가 키워드로 여러번 나와 사울왕의 「주님의 말씀」에 대한 태도에 촛점이 맞춰져 있습니다. 전체를 간단히 요약하면 사울은 백성의 소리나 짐승들의 소리에는 기꺼이 귀를 기울였지만 주님의 말씀에 귀를 기울이지는 못했다는 것입니다. 말씀인 다바르는 헬라어로는 로고스가 됩니다만, 원래 구약에 있어서 주님의 말씀이라는 것은 예수 그리스도를 나타내고 있습니다. 요한복음 1장 1절에는「태초에 말씀이 계시니라 이 말씀이 하나님과 함께 계셨으니 이 말씀은 곧 하나님이시니라」라고 쓰여 있고 14절에는 「말씀이 육신이 되어 우리 가운데 거하시매」라고 쓰여 있습니다. 요한은 하나님의 말씀은 이 세상에 오신 예수 그리스도라고 말하고 있습니다. 그렇다면 말씀이 하나님과 함께 계셨고 말씀은 곧 하나님이라는 것은 무슨 의미일까요? 인간의 경우로 생각해 본다면 예를들어 맛집 식당 레포트 등으로 “말로는 잘 표현 못하겠지만…”라고 말할 때가 있지요. 말이란 무엇인가 하면, 우리들의 머리 속에 있는 생각이라든가, 우리들 자신이 느낀 것을 소리라고 하는 형식을 입혀 기호로 삼은 것이라고 할 수 있습니다. 그래서 말을 하는 것으로 생각이 전달되는 것입니다. 그것과 마찬가지로 하나님은 말씀을 통해서 우리들에게 자신을 나타내시고 자신의 뜻을 말씀을 통해서 나타내시는 것입니다. 다가가기 어려운 빛 가운데 계시고 누구 하나 본 적이 없고, 볼 수 없는 분이신 하나님은 말씀을 통해 자신을 계시하고 계십니다. 그렇기 때문에 주님의 말씀이라는 것은 인간과 하나님의 사이의 중보적 역할을 담당하고 있다고 할 수 있습니다. 하나님은 이 말씀에 의해서 무에서 유를 창조하시고, 천지만물을 창조하셨습니다. 주님의 말씀은 피조물의 생명의 근원이기도 합니다. 말씀되신 하나님은 천지가 창조되기 전부터 계셨습니다. 모세의 시대에는 율법이라는 이름으로 구약의 성도에게 막연히 그려지고 그리고 때가 차고 마지막에는 그보다 훨씬 더 완전한 형태로 육신이 되어 나타나신 것입니다. 이것은 무엇을 의미하냐면 예수 그리스도는 이미 구약에 있어서도 희미한 상태이긴 했지만 말씀과 율법이라고 하는 형식으로 자신의 구원의 사역을 하고 계셨다는 것입니다. 요한복음 8장 56~58절을 보시기 바랍니다.

56 너희 조상 아브라함은 나의 때 볼 것을 즐거워하다가 보고 기뻐하였느니라

57 유대인들이 이르되 네가 아직 오십 세도 못되었는데 아브라함을 보았느냐

58 예수께서 이르시되 진실로 진실로 너희에게 이르노니 아브라함이 나기 전부터 내가 있느니라 하시니

그래서 구약에 있어서도 신약에 있어서도 구원의 본질적인 차이는 없습니다. 예수 그리스도를 믿음으로써 주님의 말씀을 믿음으로써 구원받는 것입니다.

(1) 사울의 말씀에 대한 불순종의 배경과 과정

사울이 기름부음을 받고 이스라엘 왕으로 세워진 목적은 왕이 하나님의 음성을 듣고 순종하고 그리고 백성에게 모범을 보여 여호와의 백성 이스라엘을 말씀으로 인도하기 위함이었습니다. 비록 주변 국가들과 마찬가지로 왕정이 도입되었다하더라도 이스라엘에게 있어서는 여전히 여호와가 진정한 왕으로 이스라엘을 다스리시는 데 변함이 없었습니다. 15장 1절 말씀도 그것을 잘 나타내고 있습니다. 보시기 바랍니다.

사무엘이 사울에게 이르되 여호와께서 나를 보내어 왕에게 기름을 부어 그의 백성 이스라엘 위에 왕으로 삼으셨은즉 이제 왕은 여호와의 말씀을 들으소서

「이제 왕은 여호와의 말씀을 들으소서」라고 하는 구절 가운데 다바르(말씀)와 쉐마(들으라)가 나옵니다. 사울은 주의 백성 이스라엘을 대표해서 말씀을 따라야만 합니다. 그 말씀의 내용은 아말렉과 아말렉에 속하는 모든 소유를 남기지 말고 진멸하라는 명령이었습니다. 진멸하라는 것은 「성절(聖絶)한다」라는 것이며 즉, 전리품을 일절 남기지 말고 모든것을 하나님의 것으로 한다는 의미입니다. 이것은 당시, 전쟁 자체가 주님의 싸움이며 전투를 통해 주님의 이름의 영광을 나타내는 하나님을 향한 예배였다는 배경이 있습니다. 그래서 “이번 아말렉과의 전투에서는 약탈물도 일체 하나님의 것으로 바치시오, 이스라엘의 노획물은 없습니다”라는 뜻입니다. 제물의 종류를 말하자면, 화목제물로서 함께 고기를 먹는 것이 아니고, 완전히 번제물로 바치라는 것입니다. 하나님 앞에서 아말렉의 죄가 쌓였기 때문에 지금 하나님께서는 이스라엘을 사용하셔서 심판하려고 하시는 것입니다. 아말렉인이란 이스라엘의 남쪽의 광야에 살고 있는 유목민이었습니다. 신명기 25장을 보면 그때부터 400년 정도 거슬러 올라가 출애굽 때 아말렉은 여행 도중 지친 이스라엘을 공격했다고 합니다. 게다가 대열 가운데 특히 여자나 어린아이나 약한 사람들이 모여 있는 뒤쪽을 노렸습니다. 이 잔학무도한 아말렉의 기억을 주님은 떨쳐 버리기 위해 지금 사울을 통해 심판을 내릴려고 하시는 것입니다.

사울은 아말렉 왕인 아각과 양과 소의 최상의 것, 그 밖에 상등한 것은 아까워서 진멸하지 않았습니다. 가치가 없고 하찮은 것만 진멸했습니다. 사울은 아각 이외의 아말렉인을 진멸했다고 하는데, 실제로는 사무엘상 30장에 다시 아말렉인이 등장하고 있기 때문에 상당수의 아말렉인을 살려뒀다고 생각됩니다. 또 에스더기를 보면 유대인을 한 명도 빠짐없이 죽이려 했던 남자, 하만이라는 인물이 나오는데 사실 이 남자는 아각 왕의 후손으로 등장하고 있습니다. 사울은 진멸하라는 주님의 말씀을 앞에 두고 그것을 자신이 편한 대로 해석하고 실제로는 말씀을 따르지 않았습니다.

(2) 사울의 변명에서 보이는 것

사무엘에게 주님의 말씀이 임했습니다. 11,12절을 보십시오.

11 내가 사울을 왕으로 세운 것을 후회하노니 그가 돌이켜서 나를 따르지 아니하며 내 명령을 행하지 아니하였음이니라 하신지라 사무엘이 근심하여 온 밤을 여호와께 부르짖으니라

12 사무엘이 사울을 만나려고 아침에 일찍이 일어났더니 어떤 사람이 사무엘에게 말하여 이르되 사울이 갈멜에 이르러 자기를 위하여 기념비를 세우고 발길을 돌려 길갈로 내려갔다 하는지라

하나님이 뉘우쳤다, 후회하신다라는 표현이 있는데 이것은 하나님이 실패하셨다라는 뜻이 아니라 정말 유감스럽게 생각하셨다는 뜻입니다. 말씀을 따르지 않은 사울의 행동은 하나님과 사무엘을 매우 슬프게 했습니다. 사무엘은 온 밤을 사울을 위하여 부르짖으며 중보의 기도를 올립니다. 그러나 그 무렵 그런 슬픔과는 정반대로 사울은 자신의 승리를 기념하기 위해서 갈멜에 기념비를 세웠다는 소식이 도착했습니다. 하나님의 영광을 찬양하는 것이 아니라 자신에게 영광을 돌려 버리고 있는 것입니다.

그 후 사무엘은 사울이 있는 곳으로 왔습니다. 주위로부터 많은 가축의 울음소리가 들려 왔습니다만, 사울은 사무엘을 향해서 뻔뻔스럽게「원하건대 당신은 여호와께 복을 받으소서 내가 여호와의 명령을 행하였나이다」라고 말했습니다. 어린아이조차도 사울이 말씀을 어기고 있다는 것을 알 수 있을 것 같습니다만, 사울은 조금 기가 죽은 기색이 없습니다. 사울은 장님이었거나 아니면 스스로 자신을 기만하고 있던지 둘 중의 하나였을 것입니다. 사무엘이 「그러면 내 귀에 들려오는 이 양의 소리와 내게 들리는 소의 소리는 어찌 됨이니이까」라고 지적하자 사울은 대수롭지 않다는듯 설명을 합니다. 15절을 보시기 바랍니다.

사울이 이르되 그것은 무리가 아말렉 사람에게서 끌어 온 것인데 백성이 당신의 하나님 여호와께 제사하려하여 양들과 소들 중에서 가장 좋은 것을 남김이요 그 외의 것은 우리가 진멸하였나이다 하는지라

사울의 변명을 들어보면 백성과 자신을 선 긋고 가축을 살린 것은 백성때문이라고 합니다. 자신은 말씀을 잘 지켰다는 것입니다. 게다가 하나님을 모독하듯 백성들이 당신의 하나님 여호와께 제사하려 제물로 삼으려고 가장 좋은 것을 남겨 놓았다고 합니다. 즉, 사울은 윙크를 하며 눈짓을 하듯이 뇌물을 제시하여 사무엘과 사무엘의 하나님을 달래려고 하는 것입니다. 그러자 사무엘은 「가만히 계시옵소서 간 밤에 여호와께서 내게 이르신 것을 왕에게 말하리이다」라며 사울이 주님의 말씀을 따르지 않은 것을 사울에게 확실히 선고한 위에 「어찌하여 왕이 여호와의 목소리를 청종하지 아니하고 탈취하기에만 급하여 여호와께서 악하게 여기시는 일을 행하였나이까」라고 질책했습니다. 그러나 사울은 자신의 죄를 확실하게 지적받고도 여전히 회개하려 하지 않습니다. 그러나 사울은 「나는 실로 여호와의 목소리를 청종하여 … 아말렉 사람들을 진멸하였으나 다만 백성이 그 마땅히 멸할 것 중에서 가장 좋은 것으로 길갈에서 당신의 하나님 여호와께 제사하려고 양과 소를 끌어 왔나이다」라고 완고하게 주장합니다. 사울의 변명에서 보이는 것은 현대의 법의 빈틈을 파고든 악덕 상술과 같습니다. 분명히 악덕한 장사를 하면서도 법은 위반하지 않았다고 주장하는 것입니다. 죄를 지적당해도「그것은 해석의 문제겠죠!」라고 억지를 부리는 것입니다. 만약 말씀을 믿는다면 우리는 말씀 가운데서, 예수 그리스도 안에서, 하나님의 은혜를 대망하게 됩니다. 예를 들어 죄의 용서라든가, 영원한 생명이라든가, 하나님의 자녀로서의 희망, 기도가 응답되기를 희망하게 됩니다. 사울의 경우는 말씀을 듣는 척하면서 말씀 이외의 곳에서 믿음이 아닌 방법으로 희망을 얻으려 하고 있습니다. 사울이 하는 일은 큰 창고에 재산을 모은 「어리석은 부자」에 비유할 수 있습니다. 누가복음 12장 16~20절을 보시겠습니다.

16 또 비유로 그들에게 말하여 이르시되 한 부자가 그 밭에 소출이 풍성하매

17 심중에 생각하여 이르되 내가 곡식 쌓아 둘 곳이 없으니 어찌할까 하고

18 또 이르되 내가 이렇게 하리라 내 곳간을 헐고 더 크게 짓고 내 모든 곡식과 물건을 거기 쌓아 두리라

19 또 내가 내 영혼에게 이르되 영혼아 여러 해 쓸 물건을 많이 쌓아 두었으니 평안히 쉬고 먹고 마시고 즐거워하자 하리라 하되

20 하나님은 이르시되 어리석은 자여 오늘 밤에 네 영혼을 도로 찾으리니 그러면 네 준비한 것이 누구의 것이 되겠느냐 하셨으니

결국 사울의 변명에서 보이는 것은 사울에게는 말씀 안에 있는 약속보다 세상의 부가 더 중요했다는 것입니다. 말씀을 따르는 것보다 말씀 이외의 곳에서 희망이나 평안을 구하고 말았습니다.

(3) 말씀보다 세상의 명성과 백성의 평판을 구한 사울

사울이 주님의 말씀을 버렸기 때문에 주님도 사울을 버려 왕위에서 폐위된다는 선고를 받습니다. 22,23절을 보시기 바랍니다.

22 사무엘이 이르되 여호와께서 번제와 다른 제사를 그의 목소리를 청종하는 것을 좋아하심 같이 좋아하시겠나이까 순종이 제사보다 낫고 듣는 것이 숫양의 기름보다 나으니

23 이는 거역하는 것은 점치는 죄와 같고 완고한 것은 사신 우상에게 절하는 죄와 같음이라 왕이 여호와의 말씀을 버렸으므로 여호와께서도 왕을 버려 왕이 되지 못하게 하셨나이다

주님이 기뻐하시는 것은 제사가 아니라 「그의 목소리를 청종하는 것」이라고 하는데 또 키워드인 「다바르와 쉐마」가 나왔습니다. 하나님은 그 사람의 중심을 보시지만 하나님이 기뻐하시는 것은 말씀에 대한 믿음이라는 뜻입니다.

만약 말씀에 따르지 않는다면, 만약 중보자 예수 그리스도를 거절한다면, 그것은 하나님에 대한 반역이며, 점치는 죄이며, 그 완고한 것은 우상에게 절하는 죄와 같다는 것입니다. 불신앙을 보기 좋게 간파당한 사울은 비로소 자신의 죄를 인정하지만 백성들에게 책임을 전가할 뿐 회개하지는 않습니다. 반대로 정색하는 모습이 그려져 있습니다. 24절을 보시기 바랍니다.

사울이 사무엘에게 이르되 내가 범죄하였나이다 내가 여호와의 명령과 당신의 말씀을 어긴 것은 내가 백성을 두려워하여 그들의 말을 청종하였음이니이다

또 사울에게 있어서는 말씀 안에 있는 약속보다 세상의 명성과 평판이 더 중요했습니다. 말씀을 따르는 것에 있는 하나님의 복이나 죄의 용서에 대해서는 장님이었고 전혀 관심이 없었습니다. 30절을 보십시오.

사울이 이르되 내가 범죄하였을지라도 이제 청하옵나니 내 백성의 장로들 앞과 이스라엘 앞에서 나를 높이사 나와 함께 돌아가서 내가 당신의 하나님 여호와께 경배하게 하소서 하더라

이렇게 사울이 주님의 말씀을 버리고 중보자 예수 그리스도를 버린 것처럼 주님도 사울을 버리셨습니다.

결론

믿음이라는 것이 도대체 무엇이냐 하면 말씀 안에 머물러 말씀 안에 있는 약속을 대망하는 것입니다. 불신앙이란 주님의 말씀을 제멋대로 해석 해서 말씀을 떠난 데서 희망을 가지려는 태도입니다. 사울처럼 세상의 부를 구하거나 세상의 명성과 평판을 구해도 거기엔 구원도 없고 진정한 희망도 평안도 없습니다. 우리가 그리스도인으로서 예수님과 함께 하는 생활을 시작했다면 하나님의 말씀인 성경을 열심히 펼쳐 말씀을 묵상하거나 혹은 성경 공부에 참가 하거나 인터넷 등에서 날마다 설교를 들을 것입니다. 또한 개혁파 교단에서는 리조이스(개혁파 교단에서 발행하는 매일의 묵상 월간지) 등이 발행되고 있는데 그런 것을 이용합시다. 혹시 여러분 중에 “성경은 평소 장롱에 간직하고 있습니다” “교회란 서클활동 같은 것이라고 생각했습니다”라는 분이 계신다면 오늘 회개해 주시기 바랍니다. 믿음과 말씀은 뗄레야 뗄 수 없는 관계이고 말씀이란 바로 예수 그리스도이기 때문입니다.

사실 믿음이라는 것도 하나님에 의해서 말씀의 씨앗이 심어져 생기는 것입니다. 하나님에 의해 심겨지지 않는 것은 이윽고 뽑혀 버립니다. 그로 인해 참된 믿음인지 사울처럼 모양만의 믿음인지를 분간할 수 있는 것입니다. 참된 믿음이 심어져 있는 사람은 경작되고 비옥한 마음을 가지게 되고 마음속에 뿌리가 내리듯이 하나님의 자녀로서의 정체성을 확고히 갖게 됩니다. 말씀 속에 희망을 갖게 됩니다. 반면 거짓 믿음의 경우 뿌리가 깊게 내릴 수 없고, 고용인으로서의 정체성만 가질 수 있습니다. 말씀 안에서 희망을 가지려고 하는 것이 아니라 말씀 이외의 것에서 희망을 가져려고 하지만, 그것들은 절망으로 변해버립니다. 믿음으로 뒷받침된 희망, 말씀에서 샘솟는 희망으로 사는 것이 우리 크리스천입니다.

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