2019年11月24日「サウルかヨナタンか 사울인가 요나단인가」

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サウルかヨナタンか 사울인가 요나단인가

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 14章24節~52節

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聖句のアイコン聖書の言葉

24この日、イスラエルの兵士は飢えに苦しんでいた。サウルが、「日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ」と言って、兵に誓わせていたので、だれも食べ物を口にすることができなかった。
25この地方一帯では、森に入りさえすれば、地面に蜜があった。
26兵士が森に入ると蜜が滴っていたが、それに手をつけ、口に運ぼうとする者は一人もなかった。兵士は誓いを恐れていた。
27だが、ヨナタンは彼の父が兵士に誓わせたことを聞いていなかったので、手に持った杖の先端を伸ばして蜂の巣の蜜に浸し、それを手につけ口に入れた。すると、彼の目は輝いた。
28兵士の一人がそれを見て言った。「父上は厳しい誓いを兵士に課して、『今日、食べ物を口にする者は呪われよ』と言われました。それで兵士は疲れています。」
29ヨナタンは言った。「わたしの父はこの地に煩いをもたらされた。見るがいい。この蜜をほんの少し味わっただけでわたしの目は輝いている。
30今日兵士が、敵から取った戦利品を自由に食べていたなら、ペリシテ軍の損害は更に大きかっただろうに。」
31この日イスラエル軍は、ペリシテ軍をミクマスからアヤロンに至るまで追撃したので、兵士は非常に疲れていた。
32兵士は戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べた。
33サウルに、「兵士は今、血を含んだまま食べて、主に罪を犯しています」と告げる者があったので、彼は言った。「お前たちは裏切った。今日中に大きな石を、わたしのもとに転がして来なさい。」
34サウルは言い足した。「兵士の間に散って行き、彼らに伝えよ。『おのおの自分の子牛でも小羊でもわたしのもとに引いて来て、ここで屠って食べよ。血を含んだまま食べて主に罪を犯してはならない。』」兵士は皆、その夜、おのおの自分の子牛を引いて来て、そこで屠ることになった。
35こうして、サウルは主の祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇である。
36さて、サウルは言った。「夜の間もペリシテ軍を追って下り、明け方まで彼らから奪い取ろう。一人も、生き残らせるな。」彼らは答えた。「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください。」だが、祭司が「神の御前に出ましょう」と勧めたので、
37サウルは神に託宣を求めた。「ペリシテ軍を追って下るべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるでしょうか。」しかし、この日、神はサウルに答えられなかった。
38サウルは言った。「兵士の長は皆、ここに近寄れ。今日、この罪は何によって引き起こされたのか、調べてはっきりさせよ。
39イスラエルを救われる主は生きておられる。この罪を引き起こした者は、たとえわたしの息子ヨナタンであろうとも、死ななければならない。」兵士はだれも答えようとしなかった。
40サウルはイスラエルの全軍に言った。「お前たちはそちらにいなさい。わたしと息子ヨナタンとはこちらにいよう。」民はサウルに答えた。「あなたの目に良いと映ることをなさってください。」
41サウルはイスラエルの神、主に願った。「くじによってお示しください。」くじはヨナタンとサウルに当たり、兵士は免れた。
42サウルは言った。「わたしなのか、息子ヨナタンなのか、くじをひきなさい。」くじはヨナタンに当たった。
43サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、言いなさい。」ヨナタンは言った。「確かに、手に持った杖の先で蜜を少しばかり味わいました。わたしは死なねばなりません。」
44「ヨナタン、お前は死なねばならない。そうでなければ、神が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
45兵士はサウルに言った。「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ぬべきだというのですか。とんでもないことです。今日、神があの方と共にいてくださったからこそ、この働きができたのです。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本も決して地に落としてはなりません。」こうして兵士はヨナタンを救い、彼は死を免れた。
46サウルはペリシテ軍をそれ以上追わず、引き揚げた。ペリシテ軍も自分たちの所へ戻って行った。
47サウルはイスラエルに対する王権を握ると、周りのすべての敵、モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、更にはペリシテ人と戦わねばならなかったが、向かうところどこでも勝利を収めた。
48彼は力を振るい、アマレク人を討ち、略奪者の手からイスラエルを救い出した。
49サウルの息子はヨナタン、イシュビ、マルキ・シュア、サウルの娘の名は姉がメラブ、妹がミカルである。
50サウルの妻の名はアヒノアムといい、アヒマアツの娘である。サウルの軍の司令官の名はアブネルで、これはサウルのおじネルの息子である。
51サウルの父キシュとアブネルの父ネルは、共にアビエルの息子である。
52サウルの一生を通して、ペリシテ人との激戦が続いた。サウルは勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 14章24節~52節

原稿のアイコン日本語メッセージ

梗概

本日の箇所においてサウルの誓いとイスラエルの民の誓いが出てくる。二つの誓いに焦点を当てて見えてくることは、サウルの誓いというのは、イスラエルの民を恐れによって拘束する誓いであり、イスラエルの民の誓いとは、公的な目的であり神さまへの讃美であった。個人的な、誤った誓いを立てることは、十戒の第三戒の、主の御名をみだりに唱えてはならないという教えにも違反することにもなる。特にリーダーが誤った誓いを立てることがないように、テキストは教えている。

序論 誓いとは何か

本日の箇所においてサウルの誓いとイスラエルの民の誓いが出てきます。二つの誓いに焦点を当てて見えてくることは、サウルの誓いというのは、イスラエルの民を恐れによって拘束する誓いであり、一方イスラエルの民の誓いとは、公的な目的でありさらに神さまへの讃美であったということです。それでは、最初に誓いとか誓約というのは、何かと言うことですが、因みに日本キリスト改革派教会では成人洗礼を受ける時や、信仰告白式をする時に、神と教会の前に6つの誓約をしていただいています。①天地の作り主、唯一の真の神のみを信じるか②自分が全くの罪びとであることを信じるか③救い主キリストを信じ、彼により頼むか④聖霊の恵みに信頼して生きて行くか⑤最善を尽くして公同の礼拝を守り、教会に奉仕するか⑥日本キリスト改革派教会の政治と戒規に服するかというものです。誓いとは、私たちの言葉が真実であることを主張するために、神さまを証人としてお呼びすることです。ですから、ユダヤ人の間で、誓いがなされる時には、よく「主は生きておられる」という定型句をつけたりしました。神さまに証人として来ていただくということは、もし、その誓いが正しくなされるなら、神を高らかに賛美し、素晴らしい神礼拝になるということです。逆に、もし、主を証人として立てておいて、偽りの証言をしたり、或いは相応しくない誓いを立てるなら、それは主の栄光を著しく傷つけることになります。なぜなら、その偽りの証言の故に、聖なる御名に、噓つきという烙印が押されてしまうことになるからです。それは、十戒の第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めを破ることにもなるのです。従って、私たちは誓いをする際には、よくよく慎重にならなければなりません。もしかしたら、自分の宗教熱心の故に、良かれと思ってしてしまった誓いが、結果として神聖な御名を侮り、汚してしまうことにもなるからです。見分け方としては、もし、その誓いが、第一に神さまの摂理に反するものは、誓いの内容としてふさわしくないと言えます。たとえば、聖書に「人が独りでいるのは良くない。」と書いてあるのに、カトリックの神父のように生涯独身として生きることを誓います、とすることは間違っています。また、神の被造物を呪うようなことも、誓いの内容としてふさわしくありません。例えば士師記11章では「人を焼き尽くす献げ物として捧げます」というエフタの誓いがありますが、これも誓いとしてふさわしいものではありません。士師記11:30~35を御覧ください。

“エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」”

エフタは相応しくない誓いの罰として、自分の一人娘を生贄として捧げる羽目になってしまいました。自分のものすごい宗教心をアピールしようとして、行き過ぎてしまったのです。

本論1サウルの誤った誓い1

それでは「サウルの誤った誓い①」と題しまして本論1に入ります。サムエル上14章24節を御覧ください。サウル王は“日の落ちる前、わたしが敵に報復する前に、食べ物を口にする者は呪われよ”と言いながら、この日兵に誓わせたと書いてあります。このサウルの誓いをよく見ますと、「呪われよ」という言葉がでてきますね。それだけで、この誓いが相応しいものではないことが分かります。もしかしたら13章で、サムエルの言葉を守らなかったために“あなたの王権は続かない。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。”と宣言されたことが、よほど面白くなかったのかもしれません。このサウルの極めて個人的な感情から出た誓いによって、ペリシテとの戦いが、主の戦いではなく、サウルの憂さ晴らしの戦いとなってしまいました。本来は、主の戦いにおいて、「救いの御業」を通し、神の栄光がたたえられ御名が崇められるべきだったのですが、残念なことに「サウル様が敵に報復し、その暁に民が食事をしてお祝いする」という趣旨になってしまったのです。イスラエルの兵士たちは敗走するペリシテ軍を追っていき、森に入っていきますが、森の中にはハチミツがいたるところに滴っていました。実はカナンの地は、よく「乳と密の流れる地」と形容されますが、ハチミツがたくさん取れる土地だったのです。しかし兵士たちはサウルの誓いを恐れ、体力的に疲れているにもかかわらず、誰もハチミツを舐める者はいませんでした。先制攻撃をしたヨナタンは、サウルの誓いの場に居合わせていなかったので、自分の父親がそのようなとんでもない誓いをさせたということを全然知らなかったので、ハチミツを掬っては口にしました。すると兵士の一人がヨナタンに言います。“父上は厳しい誓いを兵士に課して、『今日、食べ物を口にする者は呪われよ』と言われました。それで兵士は疲れています。”ヨナタンは言いました。“わたしの父はこの地に煩いをもたらされた。見るがいい。この蜜をほんの少し味わっただけでわたしの目は輝いている。今日兵士が、敵から取った戦利品を自由に食べていたなら、ペリシテ軍の損害は更に大きかっただろうに。”もっともな意見です。日が落ちて、日付が替わるとようやくサウルの誓いから解かれ、兵士は一斉に戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血を含んだまま食べてしまいました。大きな罪を犯しています。律法によると、血は命、命の源を表していて、それは神聖なものであり、神のものと考えられていましたから、血を注ぎ出して、地面に帰さなければなりませんでした。このような状況を見たある者が、「兵士は今、血を含んだまま食べて、主に罪を犯しています」とサウルに告げました。サウルは、「お前たちは裏切った」と怒鳴り、そこに大きな岩を転がして祭壇を作り、動物を一旦、その岩の上で屠ることにより血が下に落ちるようにしてから、食べるように命じました。しかし、そもそも民にこのような罪を犯すようにさせたのは、サウルの愚かな断食の誓いが原因だったのです。

本論2サウルの誤った誓い2

次に「サウルの誤った誓い2」と題しまして本論2に入ります。サウルの誤った誓いは一度だけではありませんでした。サウルは、「夜の間もペリシテを追撃して、一人も生き残らせてはならない」と考えました。民は「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください」と言ってついて行きました。その時祭司が「神の前に出ましょう」とアドバイスしましたので、サウルは神に託宣を求めました。恐らくウリムとトンミムのくじを使ったのでしょう。しかし、この日、神はサウルに何も答えられませんでした。神託を求めても、神が答えられずに沈黙をされるということは、伝統的に、それは何か神が怒っておられるというように理解されていました。イスラエルの民が神の御前に、ひそかに間違って犯してしまった罪があるのではないかということです。38~39節を御覧ください。

“サウルは言った。「兵士の長は皆、ここに近寄れ。今日、この罪は何によって引き起こされたのか、調べてはっきりさせよ。イスラエルを救われる主は生きておられる。この罪を引き起こした者は、たとえわたしの息子ヨナタンであろうとも、死ななければならない。」兵士はだれも答えようとしなかった。”

「主は生きておられる」と言って、サウルはここでまた誓いを立てています。今度の誓いも呪いの誓いであり、大変愚かな誓いでした。誤った宗教の熱心さというものが、民に対してこれほど大きな荷物となり煩いをもたらすのです。くじの結果は、ヨナタンが罪ある者として選ばれましたが、サウルが断食を誓った時にヨナタンはいなかったので、ヨナタンは神の前での誓いを破ったことにはなりません。むしろこの結果はサウルの愚かな誓いに対する罰であって、サウルに対し自分自身の愚かさを気づかせるためであったと思われます。しかしサウルは自分自身の愚かさに一向に気づくことなく、エフタがしたように自分の子どもさえ殺そうとしてしまうのです(44節)。以前アンモン人との戦いに勝利した日に、「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」と言ったサウルの姿は、もはやここにはありませんでした。

本論3正しい誓い

続いて「イスラエルの民の正しい誓い」と題しまして本論3に入ります。ヨナタンの命が危ないという状況にあって、ヨナタンを救ったのは民の正しい誓いでした。正しい誓いとは信仰によって誓いがなされること、そして誓いによって神礼拝が捧げられ、御名の栄光がほめたたえられることです。民は、信仰の目ではっきり見たことを、そのまま神さまの前で証言しました。それはヨナタンと神さまが確かに共におられ、兵士の数にもよらず、武器にもよらず、信じられないような奇蹟を起こして下り、まことにイスラエルに大いなる救いをもたらしてくださったということをです。それはサウルの目には映らなかった内容でもありました。45節を御覧ください。

“兵士はサウルに言った。「イスラエルにこの大勝利(原文:大いなる救い)をもたらしたヨナタンが死ぬべきだというのですか。とんでもないことです。今日、神があの方と共にいてくださったからこそ、この働きができたのです。神は生きておられます。あの方の髪の毛一本も決して地に落としてはなりません。」こうして兵士はヨナタンを救い、彼は死を免れた。”

髪の毛一本も地に落としてはならないというのは、神さまはヨナタンの髪の毛一本さえも数えておられるので、神の許しなしに髪の毛一本さえも落ちてはならないということです。39節そして44節と、45節においてサウルの誓いと民の誓いが正面衝突していますね。普段、イスラエルの民はサウルの命令によく従順して、ついていきました。しかし、神さまの御名が汚されることに敏感に感じとった民は、ここぞという時に、王様に逆らってまでして、自分たちの信仰の誓いを立てたのです。そして、神に宣言したサウルの誓いは果たされることはありませんでした。それと同時にこの出来事は、サウルの王としての権威が地に落ちた日でもあったのです。

結論 サウル王を反面教師として真のリーダーの姿

結論です。第一にリーダーとなる人は、自分の宗教心をアピールするために誓いを立ててはなりませんし、間違ってもサウルのように呪いの誓いを立てることにより、恐れによって人を縛ってもなりません。間違った誓いを立てることは、十戒の第三戒違反にもなります。むしろリーダーは愛によって聖霊の賜物が豊かに働くよう群れに心を配る必要があります。第一ヨハネ4:18をお開きください。

“愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。”

リーダーの働きとは、聖徒に仕え、聖霊に満たされたヨナタンを発掘することだと言えます。また共同体を構成する、お一人お一人は、信仰をもって、ヨナタンのように自由に大胆に神さまに仕えるべきです。それは、聖徒に対し、一人も洩れることなく神さまは、ご自身の用いられる器としての永遠のご計画を持っておられ、そしてそれぞれに異なる賜物をお与えくださっているからです。ですから私たちが神によって与えられている賜物を用いて、互いに仕え合うときに、教会は美しく建て上げられるのです。第二に、イスラエルの民は原則として、リーダーであるサウルに従順について行きました。しかし、不信仰なサウルによって神さまの御名が汚されるようになった時には、ただ黙っているのではなく、神を証人として立てて、信仰の誓いを立てました。同じように私たちもいざという時には、神を証人として立てて誓い、神を礼拝し、そして御名が汚されることがないよう、防がなければならないのです。そのためにも私たちの共同体が、神さまの御業に、常に目が注がれている必要がありますし、また、どんなことでも信仰によって、建て上げられていくように普段から心掛け、目を覚ましつつ、ヨナタンが確かに神と共におられる信仰の勇士であるということを信仰の目で正しく認識できるようにしてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사울인가 요나단인가

2019년 11월24일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 14장 24~52절

경개(대강의 줄거리)

오늘의 구절에 있어서 사울의 멩세와 이스라엘 백성의 맹세가 나온다. 두 서원에 초점을 맞추어 보는 것은 사울의 맹세라는 것은 이스라엘 백성을 두려움으로 구속하는 맹세였고, 이스라엘 백성의 맹세란 공적인 목적이자 하나님을 향한 찬양이었다. 개인적인, 잘못된 맹세를 하는 것은 십계명의 제 3계명의 하나님 여호와의 이름을 망령되이 일컫지 말라는 가르침에도 위배될 수 있다. 특히 리더가 잘못된 맹세를 하는 일이 없도록 텍스트는 가르치고 있다.

(서론) 맹세란 무엇인가

오늘의 본문에서 사울의 맹세와 이스라엘 백성의 맹세가 나옵니다. 두가지의 맹세에 촛점을 맞추면 보이는 것은 사울의 맹세라는 것은 이스라엘 백성을 두려움으로 구속하는 맹세이며, 반면 이스라엘 백성의 맹세란 공적인 목적이며 그 위에 하나님을 향한 찬양이었다는 것입니다. 그러면 먼저, 맹세라든가 서약이라는 것은 무엇인가 하는 것입니다만, 덧붙여서 일본 그리스도 개혁파 교회에서는 성인 세례를 받을 때나 신앙 고백식을 할 때에 하나님과 교회 앞에서 6개의 서약을 하고 있습니다. ①천지의 창조주, 유일한 참 하나님만을 믿느냐 ② 자신이 완전한 죄인임을 믿느냐 ③ 구주 그리스도를 믿고 그에게 의탁하느냐 ④ 성령의 은혜에 신뢰하는 믿음으로 살아가느냐 ⑤ 최선을 다해 공동의 예배를 지키고 교회에 봉사하느냐 ⑥ 일본 그리스도 개혁파교회의 정치와 계규(戒規)에 순종하느냐 하는 것입니다. 맹세란 우리 말이 진실임을 주장하기 위해 하나님을 증인으로 요청하는 것입니다. 그렇기 때문에 유대인 사이에 맹세가 이뤄질 때면 흔히 「주님은 살아계신다」는 정형구를 붙이곤 했습니다. 하나님이 증인으로 함께 해 주신다는 것은 만약 그 맹세가 올바르게 이루어진다면 하나님을 높이고 찬양하며 놀라운 하나님을 향한 예배가 된다는 것입니다. 반대로 만약 주님을 증인으로 세웠는데 거짓증언을 하거나 혹은 적합하지 않은 맹세를 한다면, 그것은 주의 영광을 명백하게 손상시킬 것입니다. 왜냐하면 그 거짓 증언 때문에 거룩한 이름이 망령되이 일컬어 지는 것이 되기 때문입니다. 그것은 제 3계명의 「하나님 여호와의 이름을 망령되이 일컫지 말라」는 계명을 어기는 것이기도 합니다. 따라서 우리는 맹세를 할 때 아주 신중해야 합니다. 어쩌면 자신의 종교적 열심 때문에 좋을 거라고 생각해서 한 맹세가 결과적으로 거룩한 하나님의 이름을 망령되이 일컬어 더럽혀 버릴 수도 있기 때문입니다. 구분하는 방법으로는 만약 그 맹세가 첫째로 하나님의 섭리에 반하는 것은 맹세의 내용으로 적합하지 않다고 말할 수 있습니다. 예를 들어 성경에 「사람이 혼자 사는 것이 좋지 아니하니」라고 적혀 있는데 가톨릭 신부처럼 “평생 독신으로 살 것을 맹세합니다.”라고 맹세하는 것은 잘못된 것입니다. 독신으로 사는 것은 있을 수 있는 일이지만 그것을 하나님 앞에서 맹세하는 것은 적합하지 않다고 생각합니다. 또한 하나님의 피조물을 저주하는 것도 맹세의 내용으로 적합하지 않습니다. 예를 들어 사사기 11장에서는「내가 그를 번제물로 드리겠나이다」라는 입다의 서원이 있는데 이것도 서원으로서 합당한 것이 아닙니다. 사사기 11장 30~35절을 보시기 바랍니다.

30 그가 여호와께 서원하여 이르되 주께서 과연 암몬 자손을 내 손에 넘겨 주시면

31 내가 암몬 자손에게서 평안히 돌아올 때에 누구든지 내 집 문에서 나와서 나를 영접하는 그는 여호와께 돌릴 것이니 내가 그를 번제물로 드리겠나이다 하니라

32 이에 입다가 암몬 자손에게 이르러 그들과 싸우더니 여호와께서 그들을 그의 손에 넘겨 주시매

33 아로엘에서부터 민닛에 이르기까지 이십 성읍을 치고 또 아벨 그라밈까지 매우 크게 무찌르니 이에 암몬 자손이 이스라엘 자손 앞에 항복하였더라

34 입다가 미스바에 있는 자기 집에 이를 때에 보라 그의 딸이 소고를 잡고 춤추며 나와서 영접하니 이는 그의 무남독녀라

35 입다가 이를 보고 자기 옷을 찢으며 이르되 어찌할꼬 내 딸이여 너는 나를 참담하게 하는 자요 너는 나를 괴롭게 하는 자 중의 하나로다 내가 여호와를 향하여 입을 열었으니 능히 돌이키지 못하리로다 하니

입다는 적합하지 않는 서원의 벌로 자신의 무남독녀를 제물로 바치는 신세가 되어버렸습니다. 자신의 엄청난 종교심을 어필하려고 너무 지나쳐 버린 것입니다.

(1) 사울의 잘못된 맹세 1

그럼 「사울의 잘못된 맹세1」이라는 제목으로 본론 1로 들어가겠습니다. 사무엘상 14장 24절을 보시기 바랍니다. 사울왕은 「저녁 곧 내가 내 원수에게 보복하는 때까지 아무 음식물이든지 먹는 사람은 저주를 받을지어다」라고 말하며 이 날 군사에게 맹세를 시켰다고 적혀 있습니다. 이 사울의 맹세를 자세히 보면 「저주를 받을지어다」라는 말이 나옵니다. 그것만으로 이 맹세가 합당하지 않다는 것을 알 수 있습니다. 어쩌면 13장에서 사무엘의 말을 지키지 않았기 때문에 「왕의 나라가 길지 못할 것이라 여호와께서 왕에게 명령하신 바를 왕이 지키지 아니하였으므로」라고 선언된 것이 어지간히 유쾌하지 않았던 것인지도 모르겠습니다. 이 사울의 지극히 개인적인 감정에서 나온 맹세로 인해 블레셋과의 싸움이 주님의 싸움이 아니라 사울의 기분풀이를 위한 싸움이 되어버렸습니다. 원래는 주님의 싸움에 있어서 「구원의 역사」를 통해서 하나님의 영광이 높힘을 받으며 하나님의 이름이 우러러 받들어져야 하는데 안타깝게도 「사울왕이 적을 응징하고 그 때 백성들이 식사를 하고 축하한다」는 취지가 되어버렸던 것입니다. 이스라엘 병사들이 패주하는 블레셋군을 따라 수풀에 들어간즉 땅에 꿀이 흐르고 있었습니다. 실은 가나안 땅은 자주 「젖과 꿀이 흐르는 땅」이라고 묘사 될 만큼 꿀이 많이 나는 땅이었습니다. 그러나 병사들은 사울의 맹세가 두려워 체력적으로 지쳐 있음에도 아무도 꿀을 입에 대는 자가 없었습니다. 선제공격을 한 요나단은 사울이 맹세하는 장소에 없었기 때문에 자기 아버지가 그러한 말도 안되는 맹세를 했다는 것을 전혀 몰랐기에 벌집의 꿀을 찍고 입에 대었습니다. 그러자 병사 중 한 명이 요나단에게 말합니다. “「당신의 부친이 백성에게 맹세하여 엄히 말씀하시기를 오늘 음식물을 먹는 사람은 저주를 받을지어다」라고 말씀하셨습니다. 그래서 병사들이 지쳐있습니다.” 그러자 요나단이 말합니다. 「내 아버지께서 이 땅을 곤란하게 하셨도다 보라 내가 이 꿀 조금을 맛보고도 내 눈이 이렇게 밝아졌거든 하물며 백성이 오늘 그 대적에게서 탈취하여 얻은 것을 임의로 먹었더라면 블레셋 사람을 살륙함이 더욱 많지 아니하였겠느냐」가장 지당한 의견입니다. 날이 저물고 날이 바뀌자 겨우 사울의 맹세에서 풀려난 백성들이 탈취한 물건에 달려가서 양과 소와 송아지들을 끌어다가 그것을 땅에서 잡아 피째 먹었습니다. 큰 죄를 저질렀습니다. 율법에 따르면 피는 생명이며, 생명의 근원을 나타내고 그것은 신성한 것이며 하나님의 것으로 여겨졌기 때문에 피를 쏟아내어 땅으로 돌려보내야 했습니다. 이런 상황을 본 무리가「보소서 백성이 고기를 피째 먹어 여호와께 범죄하였나이다」라고 사울에게 전했습니다. 사울은 「너희가 믿음 없이 행하였도다」고 호통을 치고 「이제 큰 돌을 내게로 굴려 오라」하고 제단을 쌓고 동물을 일단 그 큰 돌위에서 잡아 먹되 피째로 먹지 말라고 명하였습니다. 그러나 애초에 백성들에게 이런 죄를 짓게 한 것은 사울의 어리석은 단식의 맹세가 원인이었습니다.

(2) 사울의 잘못된 맹세 2

다음으로 「사울의 잘못된 맹세 2」라는 제목으로 두 번째 본론으로 들어가보겠습니다. 사울의 잘못된 맹세는 한 번만이 아니었습니다. 사울은 「우리가 밤에 블레셋 사람들을 추격하여 동 틀 때까지 그들 중에서 탈취하고 한 사람도 남기지 말자」고 말했습니다. 백성들은 「왕의 생각에 좋은 대로 하소서」라고 말하며 따라갔습니다. 그때 제사장이 「이리로 와서 하나님께 나아가사이다」라고 어드바이스했기 때문에 사울은 하나님께 신탁을 구했습니다. 아마 우림과 둠밈의 제비뽑기를 사용했을 것입니다. 그러나 이날 하나님은 사울에게 아무 대답도 하지 않으셨습니다. 신탁을 구해도 하나님이 대답하지 않으시고 침묵을 하신다는 것은 전통적으로 그것은 무엇인가 하나님이 진노하고 계시는 것처럼 이해되고 있었습니다. 이스라엘 백성들이 하나님 앞에서 은밀히 잘못해서 저질러 버린 죄가 있지 않느냐는 것입니다. 38,39절을 보시기 바랍니다.

38 사울이 이르되 너희 군대의 지휘관들아 다 이리로 오라 오늘 이 죄가 누구에게 있나 알아보자

39 이스라엘을 구원하신 여호와께서 살아 계심을 두고 맹세하노니 내 아들 요나단에게 있다 할지라도 반드시 죽으리라 하되 모든 백성 중 한 사람도 대답하지 아니하매

「여호와께서 살아 계심」이라고 했고 사울은 여기서 또 맹세을 하고 있습니다. 이번의 맹세도 저주의 맹세이며 매우 어리석은 맹세였습니다. 잘못된 종교의 열성이라는 것이 백성에게 이렇게 큰 짐이 되어 번거로움을 초래하는 것입니다. 제비뽑기의 결과는 요나단이 죄 있는 자로 뽑혔지만, 사울이 단식을 맹세할 때 요나단은 없었기 때문에 요나단은 하나님 앞에서 맹세를 어긴 것이 아닙니다. 오히려 그 결과는 사울의 어리석은 맹세에 대한 벌이었으며, 사울에 대한 자기 자신의 어리석음을 깨닫게 하기 위함이었다고 생각됩니다. 그러나 사울은 자기 자신의 어리석음을 전혀 눈치채지 못하고 입다가 한 것처럼 자기 자식마저 죽이려 하는 것입니다(44절). 이전 암몬인과의 싸움에서 승리한 날에, 「이 날에는 사람을 죽이지 못하리니 여호와께서 오늘 이스라엘 중에 구원을 베푸셨음이니라」라고 말한 사울의 모습은 더 이상 여기에 없었습니다.

(3) 올바른 맹세

이어서「이스라엘 백성의 올바른 맹세」라는 제목으로 본론 3으로 들어가 보겠습니다. 요나단의 생명이 위태로운 상황에서 요나단을 구한 것은 백성들의 올바른 맹세였습니다. 올바른 맹세란 믿음으로 맹세가 이루어지는것, 그리고 그 맹세에 의해 하나님께 예배가 드려지고 하나님의 이름의 영광이 찬양을 받는 것입니다. 백성은 믿음의 눈으로 똑똑히 본 것을 그대로 하나님 앞에서 증언했습니다. 그것은 요나단과 하나님이 분명히 함께 하셔서 병사의 수에 관계없이, 무기의 수도 상관없이 믿을 수 없는 기적을 일으키시어 참으로 이스라엘에게 큰 구원을 가져다 주셨다는 것입니다. 그것은 사울의 눈에는 보이지 않았던 내용이기도 했습니다. 45절을 보시기 바랍니다.

45 백성이 사울에게 말하되 이스라엘에 이 큰 구원을 이룬 요나단이 죽겠나이까 결단코 그렇지 아니하니이다 여호와의 살아 계심을 두고 맹세하옵나니 그의 머리털 하나도 땅에 떨어지지 아니할 것은 그가 오늘 하나님과 동역하였음이니이다 하여 백성이 요나단을 구원하여 죽지 않게 하니라

머리털 하나도 땅에 떨어지지 아니할 것이라는 것은 하나님은 요나단의 머리털 하나조차도 세고 계시기 때문에 하나님의 허락 없이 머리털 하나도 떨어져서는 안 된다는 것입니다. 39절 그리고 44절과 45절에 있어서 사울의 맹세와 백성의 맹세가 정면충돌하고 있네요. 보통 이스라엘 백성은 사울의 명령에 잘 순종하며 따라왔습니다. 그러나 하나님의 이름이 더럽혀지는 것을 민감하게 느낀 백성들은 이때다 싶은 때에 왕을 거역하면서까지 자신들의 믿음의 맹세를 한 것입니다. 그리고 하나님께 선언한 사울의 맹세는 이루어지지 않았습니다. 그와 동시에 이 일은 사울의 왕으로서의 권위가 땅에 떨어진 날이기도 했습니다.

(결론) 사울왕을 반면교사로 삼은 참된 리더의 모습

결론입니다. 첫째 리더가 되는 사람은 자신의 종교심을 어필하기 위해 맹세를 해서는 안 되며 틀리더라도 사울처럼 저주의 맹세를 함으로써 두려움으로 사람을 묶어서도 안 됩니다. 잘못된 맹세를 하는 것은 십계명의 제 3계명 위반도 됩니다. 오히려 리더는 사랑으로 성령의 은사가 풍성하게 작용하도록 무리를 배려해 줄 필요가 있습니다. 요한일서 4장 18절을 보시기 바랍니다.

사랑 안에 두려움이 없고 온전한 사랑이 두려움을 내쫓나니 두려움에는 형벌이 있음이라 두려워하는 자는 사랑 안에서 온전히 이루지 못하였느니라

리더의 사역이란 성도를 섬기고 성령충만한 요나단을 발굴하는 일이라고 할 수 있습니다. 또한 공동체를 구성하는 한 분 한 분은 믿음으로 요나단처럼 자유롭고 담대하게 하나님을 섬겨야 합니다. 그것은 성도에 대해서 한 사람도 잃지 않고 하나님께서는 자신이 쓰시는 그릇으로서의 영원한 계획을 가지고 계시고, 그리고 각기 다른 은사를 주셨기 때문입니다. 그래서 우리가 하나님이 주신 은사를 사용하여 서로 섬길 때 교회는 아름답게 지어지는 것입니다. 둘째로 이스라엘 백성은 원칙적으로 리더인 사울에게 순종하며 따라왔습니다. 그러나 불신앙인 사울에 의해 하나님의 이름이 더럽힘을 받을 때는 그저 침묵하고 있는 것이 아니라 하나님을 증인으로 세워서 믿음의 맹세를 했습니다. 마찬가지로 우리들도 만일의 경우에는 하나님을 증인으로 세우고 맹세하며 하나님을 예배하며 하나님의 이름이 더럽혀지는 일이 없도록 막아야 하는 것입니다. 그러기 위해서도 우리 공동체가 하나님의 일에 항상 관심을 쏟고, 또 어떤 일이든지 믿음에 의해 세워지도록 평소에 마음을 쓰고 눈을 뜨고 요나단이 분명히 하나님과 함께 한 믿음의 용사라는 것을 믿음의 눈으로 올바르게 인식할 수 있도록 합시다.

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