2019年11月17日「ヨナタンの先制攻撃 요나단의 선제공격」

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ヨナタンの先制攻撃 요나단의 선제공격

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 13章15節~14章23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

サウルは、自分のもとにいた兵士を数えた。およそ六百人であった。
サウル、息子ヨナタン、そして彼らの指揮下にいる兵はベニヤミンのゲバにとどまった。ペリシテ軍はミクマスに陣を敷いていた。
ペリシテ軍の陣営からは遊撃隊が三隊に分かれて出て来た。一隊はオフラへ通じる道をシュアルの地に向かい、
一隊はベト・ホロンへ通じる道に向かい、残る一隊は荒れ野の方角、ツェボイムの谷を見下ろす、国境に通じる道に向かった。
さて、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブライ人に剣や槍を作らせてはいけないとペリシテ人が考えたからである。
それで、イスラエルの人が鋤や鍬や斧や鎌を研いでもらうためには、ペリシテ人のところへ下るほかなかった。
鋤や鍬や三つまたの矛や斧の研ぎ料、突き棒の修理料は一ピムであった。
こういうわけで、戦いの日にも、サウルとヨナタンの指揮下の兵士はだれも剣や槍を手にしていなかった。持っているのはサウルとその子ヨナタンだけであった。
ペリシテ軍の先陣は、ミクマスの渡しまで進んで来た。
ある日、サウルの息子ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう。」ヨナタンはこのことを父に話していなかった。
サウルはギブアの外れ、ミグロンのざくろの木陰にいた。彼のもとにいる兵士はおよそ六百人であった。
そこには、エフォドを持つアヒヤもいた。アヒヤは、イカボドの兄弟アヒトブの子であり、イカボドはシロで主の祭司を務めたエリの息子のピネハスの子である。兵士たちはヨナタンが出て行くのに気がつかなかった。
ヨナタンがペリシテ軍の先陣の方に渡って行こうとした渡しには、こちら側にも向こう側にも切り立った岩があった。一方はボツェツと呼ばれ、他方はセンネと呼ばれる。
一方の岩はミクマスに面して北側に、他方の岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。
ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」
従卒は答えた。「あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です。」
ヨナタンは言った。「よし、ではあの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。
そのとき、彼らが、『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。
もし、『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」
こうして、二人はペリシテ軍の先陣に姿を見せた。ペリシテ人は言った。「あそこにヘブライ人がいるぞ。身を隠していた穴から出て来たのだ。」
先陣の兵士たちは、ヨナタンと従卒に向かって呼ばわった。「登って来い。思い知らせてやろう。」ヨナタンは従卒に言った。「わたしに続いて登って来い。主が彼らをイスラエルの手に渡してくださるのだ。」
ヨナタンは両手両足でよじ登り、従卒も後に続いた。ペリシテ人たちはヨナタンの前に倒れた。彼に続く従卒がとどめを刺した。
こうしてヨナタンと従卒がまず討ち取った者の数はおよそ二十人で、しかも、それは一軛の牛が一日で耕す畑の半分ほどの場所で行われた。
このため、恐怖が陣営でも野でも兵士全体に広がり、先陣も遊撃隊も恐怖に襲われた。地は揺れ動き、恐怖はその極に達した。
ベニヤミンのギブアにいるサウルの見張りは、人の群れが動揺し、右往左往しているのに気づいた。
サウルは彼のもとにいる兵に命じた。「我々の中から出て行ったのは誰か、点呼して調べよ。」調べると、ヨナタンと従卒とが欠けていた。
サウルはアヒヤに命じた。「神の箱を運んで来なさい。」神の箱は当時、イスラエルの人々のもとにあった。
サウルが祭司に話しているうちにも、ペリシテ軍の陣営の動揺はますます大きくなっていった。サウルは祭司に、「もうよい」と言い、
彼と彼の指揮下の兵士全員は一団となって戦場に出て行った。そこでは、剣を持った敵が同士討ちをし、大混乱に陥っていた。
それまでペリシテ側につき、彼らと共に上って来て陣営に加わっていたヘブライ人も転じて、サウルやヨナタンについているイスラエル軍に加わった。
また、エフライムの山地に身を隠していたイスラエルの兵士も皆、ペリシテ軍が逃げ始めたと聞くと、戦いに加わり、ペリシテ軍を追った。
こうして主はこの日、イスラエルを救われた。戦場はベト・アベンの向こうに移った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 13章15節~14章23節

原稿のアイコン日本語メッセージ

士師記の時代、イスラエルは目には見えませんが先祖を導いてくださったヤハウェなる神を自分たちの王と認め、周辺諸国のような王政国家ではなく、主ご自身がイスラエルを統治するという、いわゆる神政政治が成り立っていました。士師の時代、民の間には自由と平等があり、ある意味においては理想的な状態であったと言うことができるかもしれません。しかし人間は生まれながら罪人でありますから、それぞれが自分の目に正しいと思うことを勝手にするようになり、許された自由を肉の働く機会として履き違えてしまいました。サムエル記とは、そのような混沌とした士師の時代を終わらせて、王政へ転換する物語であります。預言者とセットで王政を導入することは、神さまの御心でありました。しかし、前回見てきましたように13章において、サウル王はサムエルから“あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めてその人をご自分の民の指導者として立てられる。”と宣告されてしまいます。そもそも、サウル王とは、民によって求められた王です。このような民の自分勝手な要求は、神さまの目には、偶像崇拝の罪として映っていました。しかし神さまは一旦そのような民の要求を受け入れました。それはおそらく、自分たちの目に適う王を立てることが、どれほど苦痛をもたらすことなのかを教えるために譲歩されたのではないかと思われます。

サウル王の次の来るダビデ王は、主によって求められた、主の御心に適う王様です。ヤハウェなる神は、偉大で、力強い万軍の主、ご自身の民イスラエルを統治し守り導く王であられますが、そのような神ご自身の姿を、ダビデ王を通して啓示することが神さまの目的でした。さらに言えばダビデの子孫から、メシアが生まれてくることが究極的なご計画だったのです。そのことを考慮するなら、ダビデ自身も同時に、預言者を通して神の御言葉の前にへりくだり、神の御心を祈り求めていかなければなりませんが、イスラエルは神によって立てられた王に対して、信頼し、従順しなければなりません。つまり、イスラエルの民の王様に対する信頼や、忠誠を尽くすその態度が、まさに見えない神に対する信仰と態度として見做されるのです。このことを私たちに適用するなら、この世において立てられている権威は全て、神さまのお許しがあって立てられているのであって、この世で立てられている全ての権威に対して、従順であるべきです。それがまさに神さまに対する従順であり、信仰であるからです。それでは、不幸にもイスラエルの王に、信仰を持っていない者が立てられた場合には一体どうなるのでしょうか。イスラエルにとって、そのような状態は大変不幸なことです。言ってみれば、信仰を持った民と不信仰の王による「ねじれ現象」が起こっているのです。まさにそのような状況が本日お読みした聖書の箇所であります。しかし、神さまはどんなことがあってもご自身の民を見捨てることはありません。神はご自身の民を宝のように大事にされるからです。ですから、たとえバビロンに捕囚としてご自身の民が連れていかれることがあったとしても、神はご自身の民と共におられ、意外なところから神の救いの御手が伸ばされるのです。本日の箇所では神の救いの御手とは、サウルの息子ヨナタンでありました。不信仰でつまらない男であるサウルから出たものが、まさかと思うほどの信仰の勇士でありました。神はヨナタンと共におられることを善しとされ、一方サウルに対しては御顔を背けておられました。少し振り返りますが11章においてイスラエルとアンモン人との戦いにおいては、サウルは33万人の兵を指揮し勝利した実績がありますが、今や、サウルのもとには、600人の兵が残っているのみでした。また当時、鉄製の武器はペリシテ人によって厳重に管理されていて、イスラエルに鉄が流出しないようになっていました。13:19を見るとイスラエルに鍛冶屋もいなかったと書かれています。ですから鋤やくわや斧や鎌を研いでもらうために、ペリシテ人に法外な金額を支払わなければなりませんでした。戦いの時に、剣を持つことが許されたのはサウルとヨナタンの二人だけでした。戦況は兵士の数においても、武器においても圧倒的に不利な状況にあり、イスラエルの士気は時間が経てば経つほどどんどん落ちていくというような中にあって、ヨナタンが目覚ましい働きをします。14:1~6を御覧ください。

“ある日、サウルの息子ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう。」ヨナタンはこのことを父に話していなかった。サウルはギブアの外れ、ミグロンのざくろの木陰にいた。彼のもとにいる兵士はおよそ六百人であった。そこには、エフォドを持つアヒヤもいた。アヒヤは、イカボドの兄弟アヒトブの子であり、イカボドはシロで主の祭司を務めたエリの息子のピネハスの子である。兵士たちはヨナタンが出て行くのに気がつかなかった。ヨナタンがペリシテ軍の先陣の方に渡って行こうとした渡しには、こちら側にも向こう側にも切り立った岩があった。一方はボツェツと呼ばれ、他方はセンネと呼ばれる。一方の岩はミクマスに面して北側に、他方の岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。」”

ヨナタンは、この戦いは主の戦いであることを宣言し、6節にあるように“さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。”と告白します。このヨナタンの告白は、後で、ダビデがゴリアトと戦う前に告白した言葉と大変類似しています。戦いは主に属するものであって、決して兵の数や武器の質が、勝敗を決めるのではないということです。また、ヨナタンは決して独善的になることもありませんでした。慎重に神さまの御心を伺いながらペリシテの陣営に今攻め上るべきか、そうではないのかのしるしを求めようとします。9~12節を御覧ください。

“そのとき、彼らが、『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。もし、『登って来い』と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」こうして、二人はペリシテ軍の先陣に姿を見せた。ペリシテ人は言った。「あそこにヘブライ人がいるぞ。身を隠していた穴から出て来たのだ。」先陣の兵士たちは、ヨナタンと従卒に向かって呼ばわった。「登って来い。思い知らせてやろう。」ヨナタンは従卒に言った。「わたしに続いて登って来い。主が彼らをイスラエルの手に渡してくださるのだ。」”

因みに、ヘブライ人という言葉は、異邦人がイスラエルを呼ぶ時に使う侮辱的な言葉であって「ほら穴人」とか「奴隷人」というような意味です。イスラエルが自分たちを指すときは、普通「ヘブライ人」という言葉を使いません。今、ヨナタンとペリシテ軍を分け隔てている険しい谷には、ボツェツとセンネと呼ばれる切り立った岩がそびえていました。この岩をよじ登って来ることは、誰であっても不可能と思われるほど厳しく切り立った岩です。ヨナタンと道具持ちの従卒は、神のしるしを確かに確認すると、眼前に険しく立ちはだかっている岩を上っていき、ペリシテ人の前に突然現れました。まさかこの岩を上って来るとは考えてもいなかったので、ペリシテ人は度肝を抜かれました。ヨナタンと道具持ちが剣を抜くと神が働かれ、一軛の牛が一日で耕す畑の半分ほどの場所(約1エーカー:4,000㎡)で戦闘が起こり、約20人のペリシテ人が打たれました。この奇襲攻撃のニュースは、瞬く間にペリシテの陣営に広がり、全体をパニックに陥れ、大きな恐怖がペリシテ陣営を覆いました。15節を御覧ください。

“このため、恐怖が陣営でも野でも兵士全体に広がり、先陣も遊撃隊も恐怖に襲われた。地は揺れ動き、恐怖はその極に達した。”この時地震も起こったと書かれています。そして“恐怖はその極に達した”という言葉は、直訳すると神の恐れがあったと書かれています。つまりこのヨナタンの無謀とも思われるような先制攻撃において、神が明らかに介入されたのです。“主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。”というヨナタンの信じたことが現実となりました。また、14:23節を見ると、このペリシテとの戦いについて、“こうして主はこの日、イスラエルを救われた。”と、総括しています。つまり、ヨナタンの先制攻撃によって始まったこの戦争は、まさに主の戦いであり、兵力においても、武器においても圧倒的にイスラエルが不利な状況にありながら、主なる神がご自身の民を救ってくださったということです。主は、ヨナタンを神の救いの御手として用いられ、イスラエルに奇跡を起こしてくださったのです。一方、ギブアの外れのミグロンのざくろの木陰にいたサウルはどうだったでしょうか。3節を見ると、アヒヤが祭司を務めていたとあり、しかも丁寧にアヒヤの系図まで書かれています。アヒヤとはエリの家系の祭司であり、アヒヤの叔父はイカボド(栄光がない)です。これはあたかも、祭司エリの家が没落するように、サウルの家も没落するだろうということを予告しているようです。

ペリシテの陣営のおける異変に気付いたサウルの見張りは、早速それをサウルに報告しました。報告を受けたサウルは、直ちにペリシテ陣営へと攻め込むのかと思いきや、すでに神が働かれているこの決定的な瞬間にあってサウルは躊躇します。まずサウルしたことは自分の陣営から誰が抜け出たのかを調べさせることでした。点呼した結果、ヨナタンと道具持ちが抜け出したことを知りました。自分の息子を直ちに援護するために、今度こそ攻め上るかと思いきや、まだ兵をあげることを躊躇し、次に神の箱を持ってこさせました。祭司が神の箱を持ってきて、いよいよ主にお伺いを立てようとするときに、ペリシテ軍の陣営の動揺がますます大きくなっていったのを知って、「もういい」と、儀式を途中で取りやめさせてしまいます。そして結局、戦場に出て行きました。いざ、攻撃すべき時に、サウルは座って導きを求め、一方、13章においては、サムエルを7日間待って助言を求めなければならなかった時に、逆に先走って攻撃しようとしているのです。皆さんはこのようなサウルの姿を見て、どのように思われるでしょうか。サウルは人格的に神さまにお会いしたことがなかったのでしょう。ヨナタンと共におられた主は、明らかにサウル王と共にはおられない。つまりサウルに対しては御顔を背けておられるということが分かるのです。サウルの軍隊が戦場に出て行くと、神がすでに大きな恐れをペリシテの陣営に下されたので、味方同士で殺し合っている状況でした。また、ペリシテの陣営に加わっていた傭兵のヘブライ人もペリシテを裏切り、イスラエルの軍隊に付きました。そしてエフライムの山地に隠れていたイスラエルの兵士も勝利の分け前に与ろうとして戦いに加わってきました。あとは、分捕りものを集めるだけです。ヤハウェの戦いの典型的な状況になりました。ペリシテ軍は混乱の中、西へ逃げて行き打ち負かされました。サウルはこのような主の戦いを経験してもなお、14:52に書いてありますように、 “勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱え”ようとしています。主との人格的な出会いがないために、サウルには、主の救済は兵士の数によらないということがどうしても理解できないのです。

結論

結論としてまとめますと、第一に、士師の時代が証明しているように、私たちは、全て罪人であって誰も主の恵みがなければ「善き業」を行うことができないということです。恵みがなければ、罪しか犯すことができません。つまり、主の御前に立つことができる功は何一つないのです。信仰でさえ聖霊の賜物です。ですから、私たちがイエス様を信じ、救われていることに対し優越感を持ったり、おごったりしてはならないということです。第二に、たとえ信仰をもっていない者が王となってしまい、イスラエルの社会に「ねじれ現象」が起こったとしても、それでも主はご自身の民を愛し、ご自身の民を救い出されることを放棄することはないということです。今、日本においては天皇の代替わりに際して大嘗祭が行われ、新しく即位された天皇は異教の神々に礼拝を捧げています。日本において1%未満に過ぎないキリスト者は、このような異教の社会に置かれていますが、これを悲観的に捉えてしまって、私たちは決して天皇制自体を反対するのではなければ、立てられている政治家を批判するのでもありません。神さまはねじれ現象が起こっていることをよくご存じであられ、その上で、良き羊飼いのように羊である私たち一人ひとりのことを覚えてくださり、愛してくださり、どんなことがあっても羊を放棄するお方ではないお方だからです。状況がどんなに困難な中にあっても、異教に仕える指導者には御顔を背けられますが、ご自身の民には特別な慈しみを施してくださり、ご自身の民を救い出されるために神さまは御心に適う信仰の器を探し求めておられます。そしてイザヤ書43:3~4の御言葉を語ってくださいます。

“わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。”

この愛の神さまが常に私たちと共におられることを覚えて、感謝しながら主を讃美していきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

요나단의 선제공격

2019년 11월17일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 13장 15~14장 23절

사사기 시대 이스라엘은 눈에 보이지 않지만 선조를 인도해주신 여호와 하나님을 자신들의 왕으로 인정하고 주변 국가와 같은 왕정 국가가 아니라 주님이 이스라엘을 다스리시는 이른바 신정정치가 성립되어 있었습니다. 사사 시대의 백성들 사이에는 자유와 평등이 있었고 어떤 의미에서는 이상적인 상태였다고 말할 수 있을지도 모릅니다. 그러나 인간은 태어나면서부터 죄인이기 때문에 각자의 눈에 옳다고 생각하는 것을 마음대로 하게 되었고 허락되어진 자유를 육적인 일을 도모할 기회로 잘못 생각하고 말았습니다. 사무엘기는 그러한 혼돈의 사사시대를 끝내고 왕정으로 전환하는 이야기입니다. 선지자와 셋트로 왕정을 도입하는 것은 하나님의 뜻이었습니다. 그러나 지난 번 살펴보았듯이 13장에서 사울왕은 사무엘로부터 「왕의 나라가 길지 못할 것이라 여호와께서 왕에게 명령하신 바를 왕이 지키지 아니하였으므로 여호와께서 그의 마음에 맞는 사람을 구하여 여호와께서 그를 그의 백성의 지도자로 삼으셨느니라」라는 선고를 받고 맙니다. 원래 사울왕은 백성들이 요구한 왕입니다. 이러한 백성들의 제멋대로의 요구는 하나님의 눈에는 우상숭배의 죄로 비치고 있었습니다. 그러나 하나님은 일단 백성들의 그런 요구를 받아들이셨습니다. 그것은 아마도 자신들의 눈에 맞는 왕을 세우는 것이 얼마만큼의 고통을 초래하는 일인지를 가르치시기 위해 허락 하신 것이 아닐까 생각됩니다.

사울왕의 다음에 세워질 다윗왕은 주님이 원하신 주님의 마음에 맞는 왕입니다. 여호와 하나님은 위대하시고 강한 능력의 만군의 주님이시며 자신의 백성 이스라엘을 다스리시고 지키시며 인도하시는 왕이신데 그런 하나님 자신의 모습을 다윗왕을 통해 계시하는 것이 하나님의 목적이었습니다. 더 말하면 다윗의 자손에게서 메시아가 태어나는 것이 궁극적인 계획이었던 것입니다. 그 점을 고려한다면 다윗 자신도 동시에 선지자를 통해서 하나님의 말씀 앞에 엎드려 기도하며 하나님의 마음을 구해야 하지만, 이스라엘은 하나님에 의해 세워진 왕에 대해서 신뢰하며, 순종하지 않으면 안 됩니다. 즉, 이스라엘 백성의 왕에 대한 믿음이나 충성을 다하는 그 태도가 바로 보이지 않는 하나님에 대한 믿음과 태도로 간주되는 것입니다. 이 일을 우리들에게 적용해 본다면, 이 세상에 세워진 권위는 모두 하나님의 허락으로 세워진 것이며 이 세상에 세워져 있는 모든 권위에 대하여 순종해야 합니다. 그것이 바로 하나님에 대한 순종이며 하나님에 대한 믿음이기 때문입니다. 그렇다면 불행하게도 이스라엘 왕에 믿음이 없는 자가 세워질 경우에는 도대체 어떻게 되는 것일까요? 이스라엘에게 있어서 그러한 상태는 매우 불행한 일이 아닐 수 없습니다. 말하자면 믿음을 가진 백성과 불신앙의 왕에 의한 「왜곡된 현상」이 일어나게 되는 것입니다. 그야말로 그러한 상황이 오늘 읽은 성경의 대목입니다. 그러나 하나님은 어떤 일이 있어도 자신의 백성을 저버리는 일은 없으십니다. 하나님은 자신의 백성을 보배처럼 소중히 여기시기 때문입니다. 그렇기 때문에 비록 바벨론에 포로로 자신의 백성이 끌려가는 일이 있다하더라도 하나님은 자신의 백성과 함께 계시고, 이외의 곳에서 하나님의 구원의 손길을 내밀어 주시는 것입니다. 오늘의 구절에서 하나님의 구원의 손길은 사울의 아들 요나단입니다. 불신앙으로 하나님의 마음에 합하지 않은 사울에게서 나온 아들 요나단은 “설마?”하고 생각될 정도의 믿음의 용사였기 때문입니다. 하나님은 요나단과 함께 하시는 것을 기뻐하셨고 한편 사울에 대해서는 얼굴을 돌리셨습니다. 조금 되돌아보자면 11장에 있어서는 사울은 삼십삼만 명의 군사를 지휘하여 승리한 실적이 있습니다만, 지금의 사울왕에게는 육백 명 가량의 군사가 남아있을 뿐입니다. 아직 당시 철제 무기는 블레셋사람들에 의해서 엄중하게 관리되고 있었고 이스라엘에 철이 유출되지 않도록 되어 있었습니다. 13장 19절을 보면 이스라엘에 철공도 없었다고 기록되어 있습니다. 그렇기 때문에 온 이스라엘 사람들이 각기 보습이나 삽이나 도끼나 괭이를 벼리기 위해서 블레셋 사람들에게 터무니 없는 금액을 지불해야만 했습니다. 전투 할 때 검을 드는 것이 허용된 것은 사울과 요나단 두 사람뿐이었습니다. 전황은 군사의 수에 있어서도, 무기에 있어서도 압도적으로 불리한 상황에 있었고, 이스라엘의 사기는 시간이 지날수록 점점 떨어지는 상황가운데 요나단이 놀라운 일을 합니다. 14장 1~6절을 보시기 바랍니다.

1 하루는 사울의 아들 요나단이 자기의 무기를 든 소년에게 이르되 우리가 건너편 블레셋 사람들의 부대로 건너가자 하고 그의 아버지에게는 아뢰지 아니하였더라

2 사울이 기브아 변두리 미그론에 있는 석류나무 아래에 머물렀고 함께 한 백성은 육백 명 가량이며

3 아히야는 에봇을 입고 거기 있었으니 그는 이가봇의 형제 아히둡의 아들이요 비느하스의 손자요 실로에서 여호와의 제사장이 되었던 엘리의 증손이었더라 백성은 요나단이 간 줄을 알지 못하니라

4 요나단이 블레셋 사람들에게로 건너가려 하는 어귀 사이 이쪽에는 험한 바위가 있고 저쪽에도 험한 바위가 있는데 하나의 이름은 보세스요 하나의 이름은 세네라

5 한 바위는 북쪽에서 믹마스 앞에 일어섰고 하나는 남쪽에서 게바 앞에 일어섰더라

6 요나단이 자기의 무기를 든 소년에게 이르되 우리가 이 할례 받지 않은 자들에게로 건너가자 여호와께서 우리를 위하여 일하실까 하노라 여호와의 구원은 사람이 많고 적음에 달리지 아니하였느니라

요나단은 이 전투는 주님의 전투임을 선언하고 6절에 적혀 있는대로 “자, 저 무할례한 자들의 부대로 건너가자. 주께서 우리 두 사람을 위해 계책을 주실 것이 틀림이 없다. 주께서 승리하시기 위해선 군사의 수의 많고 적음에 달려 있지않다”고 고백합니다. 이 요나단의 고백은 나중에 다윗이 골리앗과 싸우기 전에 고백했던 말과 매우 유사합니다. 싸움은 주께 속한 것이며 결코 군사의 숫자나 무기의 질이 승리를 결정하는 것이 아니라는 것입니다. 또 요나단은 결코 독선적이 되지도 않았습니다. 신중하게 하나님의 마음을 물으며 블레셋의 부대에 지금 처들어가야 하는지, 그렇지 않은지의 표징을 구하려고 합니다. 9~12절을 보시기 바랍니다.

9 그들이 만일 우리에게 이르기를 우리가 너희에게로 가기를 기다리라 하면 우리는 우리가 있는 곳에 가만히 서서 그들에게로 올라가지 말 것이요

10 그들이 만일 말하기를 우리에게로 올라오라 하면 우리가 올라갈 것은 여호와께서 그들을 우리 손에 넘기셨음이니 이것이 우리에게 표징이 되리라 하고

11 둘이 다 블레셋 사람들에게 보이매 블레셋 사람이 이르되 보라 히브리 사람이 그들이 숨었던 구멍에서 나온다 하고

12 그 부대 사람들이 요나단과 그의 무기를 든 자에게 이르되 우리에게로 올라오라 너희에게 보여 줄 것이 있느니라 한지라 요나단이 자기의 무기를 든 자에게 이르되 나를 따라 올라오라 여호와께서 그들을 이스라엘의 손에 넘기셨느니라 하고

참고로 히브리인이라는 말은 이방인이 이스라엘을 부를 때 쓰는 모욕적인 말로「은둔자」라든가 「종놈」이라는 의미입니다. 이스라엘이 자신들을 지칭할 때는 보통 「히브리인」이라는 말을 쓰지 않습니다. 지금 요나단과 블레셋군을 갈라놓고 있는 계곡에는 보세스와 세네라고 불리는 깍아지른 험한 바위가 있었습니다. 이 바위를 기어오르는 것은 누구나 불가능할 정도로 험하게 깍아지른 바위입니다. 요나단과 그의 무기를 든 자는 하나님의 표징을 확인하고는 눈앞에 험준하게 버티고 있는 바위를 올라가 블레셋 사람 앞에 갑자기 나타났습니다. 설마 이 바위를 올라올 것이라고는 생각도 하지 않았기 때문에 블레셋인은 간담이 서늘해졌습니다. 요나단과 그 무기든 자가 검을 뽑자 하나님이 움직이셨고 한 마리의 소가 하루에 경작하는 밭의 절반 정도 되는 곳(약 1 에이커: 4,000㎡) 에서 전투가 벌어져 이십 명 가량의 블레셋 사람들이 쓰러졌습니다. 이 기습 공격 소식은 순식간에 블레셋 진영으로 퍼져 전체를 패닉에 빠뜨렸고 큰 공포가 블레셋 진영을 뒤덮었습니다. 15절을 보시기 바랍니다.

들에 있는 진영과 모든 백성들이 공포에 떨었고 부대와 노략꾼들도 떨었으며 땅도 진동하였으니 이는 큰 떨림이었더라

이때 지진도 일어났다고 적혀 있습니다. 그리고 「공포에 떨었고」라는 말은 직역하면 하나님의 두려움이 있었다는 뜻입니다. 즉 이 요나단의 무모한 선제공격에 하나님이 분명히 개입하신 것입니다. 「여호와의 구원은 사람이 많고 적음에 달리지 아니하였느니라」라는 이 요나단의 믿음이 현실이 되었습니다. 또 14장 23절을 보면 이 블레셋 사람들과의 싸움에 대해선 「여호와께서 그 날에 이스라엘을 구원하시므로 전쟁이 벧아웬을 지나니라」라고 총괄하고 있습니다. 즉, 요나단의 선제공격에 의해서 시작된 전투는 그야말로 주님의 전투이며 병력에 있어서도, 무기에 있어서도 압도적으로 이스라엘이 불리한 상황에서 주님께서 자신의 백성을 구원해 주셨다는 것입니다. 주님은 요나단을 하나님의 구원의 손으로 사용하셔서 이스라엘에게 기적을 일으켜 주셨습니다. 한편 기브아 변두리 미그론에 있는 석류나무 그늘에 있던 사울은 어땠을까요? 3절을 보면 아히야가 에봇을 입고 있었다고 하고 게다가 정성스럽게 아히야의 족보까지 적혀 있습니다. 아히야는 엘리 집안의 제사장이며 아히야의 삼촌은 이가봇(영광이 없다)입니다. 이것은 마치 제사장 엘리의 집안이 몰락하는 것처럼 사울의 집안도 몰락할 것이라는 것을 예고하는 것 같습니다.

블레셋 진영의 이변을 깨달은 사울의 파수꾼은 빠르게 이 상황을 사울에게 보고했습니다. 보고를 받은 사울은 바로 블레셋 진영으로 쳐들어가는 싶더니 이미 하나님이 움직이고 계시는 이 결정적인 순간에 사울은 주저합니다. 먼저 사울은 자신의 진영에서 누가 빠져나갔는지 알아보라는 것이었습니다. 점호한 결과 요나단과 그 무기든자가 없다는 것을 알게 되었습니다. 자신의 아들을 즉시 엄호하기 위해 이번에야말로 쳐들어 갈까 싶더니 아직도 군사를 일으키기를 주저하고 다음으로는 하나님의 궤를 가져오게 했습니다. 제사장이 하나님의 궤를 가지고 와서 드디어 주께 여쭈어보려고 할 때 블레셋군 진영의 소동이 점점 더한 것을 알고 제사장에게「네 손을 거두라」라고 의식을 도중에 중단시켜 버립니다. 그리고 결국, 전쟁터로 나갔습니다. 정작 공격해야 할 때 사울은 앉아서 하나님의 인도를 구했고 반면 13장에서는 사무엘을 이레 동안 기다렸다가 조언을 구해야 할 때 거꾸로 앞서서 공격하려고 했던 것입니다. 여러분은 이러한 사울의 모습을 보고 어떻게 생각하실까요? 사울은 인격적으로 하나님을 뵌 적이 없었을 것입니다. 요나단과 함께 계시던 주님은 분명히 사울왕과 함께 계시지 않는다는 것, 즉, 사울에 대해서는 외면하고 계신다는 것을 알 수 있습니다. 사울의 군대가 전쟁터에 나가니 하나님께서 이미 큰 두려움을 블레셋 진영에 내리셨기 때문에 자기 편끼리 서로 죽이고 있는 상황이었습니다. 또 블레셋 진영에 가담했던 용병 히브리인들도 블레셋을 배반하고 이스라엘 군대에 붙었습니다. 그리고 에브라임 산지에 숨어 있던 이스라엘 병사들도 승리의 몫을 받으려고 싸움에 가담했습니다. 이제는 노획물을 모으기만 하면 됩니다. 여호와의 전투의 전형적인 상황이 되었습니다. 블레셋군은 혼란 가운데 서쪽으로 도망쳐 버리고 패배했습니다. 사울은 이러한 주님의 싸움을 겪고도 또 14장 52절에「사울이 사는 날 동안에 블레셋 사람과 큰 싸움이 있었으므로 사울이 힘 센 사람이나 용감한 사람을 보면 그들을 불러모았더라」라고 쓰여 있듯이 주님과의 인격적인 만남이 없기 때문에 사울에게는 주님의 구원은 병사의 수에 의하지 않는다는 것을 도저히 이해할 수 없었습니다.

결론

정리하자면 첫째 사사의 시대가 증명하듯이, 우리는 모두 죄인이고, 누구도 주님의 은혜가 없으면 「선한 행실」을 할 수가 없다는 것입니다. 은혜가 없다면 죄밖에 지을 수 없습니다. 즉, 주님 앞에 설 수 있는 공은 아무것도 없습니다. 믿음조차도 성령님의 선물입니다. 그렇기 때문에 우리들이 예수님을 믿고, 구원받았다는 것에 대해서도 우월감을 가진다거나, 우쭐해져서는 안되는 것입니다. 둘째, 비록 믿음을 갖지 못한 자가 왕이 되어버리고 이스라엘 사회에 「왜곡된 현상」이 일어난다하더라도 주님은 자신의 백성을 사랑하고 자신의 백성을 구원하시는 것을 포기하지 않으신다는 것입니다. 오늘날 일본에 있어서 천황의 즉위교체에 즈음하여 대상제가 거행되고 새로 즉위한 천황은 이교의 신들에게 예배드리고 있습니다. 일본에서 1% 미만에 불과한 그리스도인들은 이런 이교의 사회에 놓여 있는데, 이를 비관적으로 보고 우리는 결코 천황제 자체를 반대하는 것도 아니고 세워진 정치인들을 비판하는 것도 아닙니다. 하나님께서는 왜곡된 현상이 일어나고 있음을 잘 아시고 게다가 선한 목자처럼 양인 우리 한 사람 한 사람을 기억해 주시고 사랑해 주시고, 어떤 일이 있어도 양을 포기하는 분이 아닌 분이기 때문입니다. 상황이 아무리 어려운 가운데 있어도 이교를 섬기는 지도자에게는 얼굴을 돌리시지만 자신의 백성에게는 특별한 인자하심을 베풀어 주시고 자신의 백성을 구원하시기 위해서 하나님은 자신의 마음에 맞는 믿음의 그릇을 찾고 계십니다. 그리고 이사야서 43장 3,4절을 말씀을 주십니다.

3 대저 나는 여호와 네 하나님이요 이스라엘의 거룩한 이요 네 구원자임이라 내가 애굽을 너의 속량물로, 구스와 스바를 너를 대신하여 주었노라

4 네가 내 눈에 보배롭고 존귀하며 내가 너를 사랑하였은즉 내가 네 대신 사람들을 내어 주며 백성들이 네 생명을 대신하리니

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