2019年11月10日「ペリシテとの戦い 블레셋과의 전투」

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ペリシテとの戦い 블레셋과의 전투

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 13章5節~15節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5ペリシテ軍は、イスラエルと戦うために集結した。その戦車は三万、騎兵は六千、兵士は海辺の砂のように多かった。彼らは上って来て、ベト・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。
6イスラエルの人々は、自分たちが苦境に陥り、一人一人に危険が迫っているのを見て、洞窟、岩の裂け目、岩陰、穴蔵、井戸などに身を隠した。
7ヨルダン川を渡り、ガドやギレアドの地に逃げ延びたヘブライ人もあった。しかし、サウルはギルガルに踏みとどまり、従う兵は皆、サウルの後ろでおののいていた。
8サウルは、サムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵はサウルのもとから散り始めた。
9サウルは、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を持って来なさい」と命じて、焼き尽くす献げ物をささげた。
10焼き尽くす献げ物をささげ終えたそのとき、サムエルが到着した。サウルは彼に挨拶しようと迎えに出た。
11サムエルは言った。「あなたは何をしたのか。」サウルは答えた。「兵士がわたしから離れて散って行くのが目に見えているのに、あなたは約束の日に来てくださらない。しかも、ペリシテ軍はミクマスに集結しているのです。
12ペリシテ軍がギルガルのわたしに向かって攻め下ろうとしている。それなのに、わたしはまだ主に嘆願していないと思ったので、わたしはあえて焼き尽くす献げ物をささげました。」
13サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。
14しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」
15サムエルは立ち上がり、ギルガルからベニヤミンのギブアに上って行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 13章5節~15節

原稿のアイコン日本語メッセージ

聖書は、第一に神の選びの民と、異邦人に焦点が合わされて記述されています。例えば、イサクとイシュマエルの物語、或いはヤコブとエサウの物語であります。第二に聖書は、神の民の中において、信仰に堅く歩む者と、表向きはイスラエルでありながら、実は毒麦のように不信仰である者に焦点が合わされて記述されています。サムエル記の中では、サウル王とダビデ王が常に比較されていますが、これはまさに第二のケースでありまして、神の民の中における、「真のイスラエル」と、「不信仰のイスラエル」が記述されている例として挙げられるでしょう。それでは、サウル王の持っている宗教心において、一体どういった点が間違っていて、不信仰として見做されてしまったのでしょうか。その点について本日は考えていきたいと思います。

イスラエルとペリシテとの間に戦争が起こりましたが、それまでイスラエルは、戦争が起こる度に、決まってヤハウェなる神さまに導きと、その方ご自身のご臨在を求めながら、戦争を行ってきました。今回も、例外ではなく、もう間もなくサムエルがイスラエル軍の宿営しているギルガルに到着して、「焼き尽くす献げ物」と「和解の献げ物」をささげた後に、ペリシテとの戦いに臨む作戦でした。ところが、圧倒的な数的有利を背景にしたペリシテ人がじわりじわりと押し寄せてくる中で、なかなかサムエルは現れません。瀬戸際に追い込まれたサウル王は自分が自ら神に生贄を捧げます。ところが、そのことによって、後でサムエルから叱責を受けることになります。この事件は、ちょうど、12章で見てきましたように、ギルガルにおいて契約が更新され、王政が導入されて、サムエルは退き、これからは、初代の王であるサウルが先頭に立ってイスラエルの民を率いていくことになった、まさに出だしにおいて、開始早々における出来事でありました。因みにギルガルという町はヨルダン川の西岸にある町で、死海から近い、エリコの近くの標高の大変低い渓谷にある町です。この町の名前の由来は、ヨシュアに率いられたイスラエルがヨルダン川を枯らして、カナンの地に渡り、そしてその地の産物によって過ぎ越しの祭をお祝いすると、その時から天からマナが降ってくることが止み、それ以来、イスラエルは遊牧民族から定住民族に変えられたことによります。その時、エジプトの奴隷時代の辱めを全てぬぐい取ってくださったという意味で、その土地をギルガル、つまり「辱めを転がしてくださった(ガラル)」という意味で名付けられました。ヨシュア記5:9節~12節を御覧ください。

“主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ、今日に至っている。イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。”

ですから、ギルガルという地名は新しい出発点であり、王政がギルガルにおいて始められたということも、場所的には最もふさわしい所であったと言えるでしょう。ところが、皮肉にも、サウルはこのギルガルにおいて、二度、神さまから捨てられることになります。一度目は本日お読みした箇所ですが「サウルの王朝が永遠には続くことはないだろう」と宣言され、二度目は、アマレクとの戦いにおいて、15章に書かれている内容ですが、今度はサウルの王職自体をも否定され、王位から完全に排除されることになります。サウル王の一体何が間違っていたのでしょうか。サウルにはサムエルから与えられていた約束がありました。1サムエル10:8を御覧ください。

“わたしより先にギルガルに行きなさい。わたしもあなたのもとに行き、焼き尽くす献げ物と、和解の献げ物をささげましょう。わたしが着くまで七日間、待ってください。なすべきことを教えましょう。”

しかし、イスラエルの民は、11章でアンモン人と戦った時は、一人の人のように一致団結して戦いましたが、今回はペリシテ軍の前に恐れおののき、ある者はヨルダン川を越えて東側のガドやギレアドの地に逃げる者もいました。サウルに従った兵もサウルの後ろでおののいています。約束通りにサムエルを待っているうちにも、兵は次々にサウルから散り始めています。サウルは何とかして、このような劣勢の状況を変えようと思ったのでしょう。自らの手で焼き尽くす献げ物をささげました。すると、そこへサムエルがタイミングよく到着したのです。10節を御覧ください。

“焼き尽くす献げ物をささげ終えたそのとき、サムエルが到着した。サウルは彼に挨拶しようと迎えに出た。”

サムエルが到着した時、サウルは少しも悪びれることなく、サムエルに挨拶をしようと迎えに出ました。そしてサムエルの「あなたは何ということをしたのか」という言葉に対しも、尤もらしい言い訳を述べています。11~12節を御覧ください。

“サムエルは言った。「あなたは何をしたのか。」サウルは答えた。「兵士がわたしから離れて散って行くのが目に見えているのに、あなたは約束の日に来てくださらない。しかも、ペリシテ軍はミクマスに集結しているのです。ペリシテ軍がギルガルのわたしに向かって攻め下ろうとしている。それなのに、わたしはまだ主に嘆願していないと思ったので、わたしはあえて焼き尽くす献げ物をささげました。」”

現実主義であるサウルは、このような状況を客観的に見極めて、「あえて」、つまり、「約束を破りたくないという思いを制して」、「自分をコントロールして」、自らの手で焼き尽くす献げ物を捧げたと言っています。リーダーとして、臨機応変に状況に対応しているのではないかとも取れます。

ここでの問題とは、祭司長であるサムエルが捧げるべき祭儀を、祭司ではないサウルが横取りしたことなのでしょうか。しかし、後で見るとわかる通り、ダビデ王も、ソロモン王も自ら神に生贄を捧げますが、それについては何のお咎めもありません。さらに言えば、生贄を捧げている当人のサムエルも自身も、実はレビ人ではなく、エフライム族出身です。それなら一体、サウルの何が問題だったのかということですが、続いて13~14節を引き続き御覧ください。

“サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」”

13~14節によれば、問題は、サウルが主の戒めを守らなかったからであると書かれています。つまり、御言葉に従順に聞き従うことにおいて、主に対する真の献身、主への信仰がはかることができるということでしょう。しかし、御言葉をただ形式的に、機械的に守るなら、それでいいのかというとそうでもないようにも思われます。例えばマタイによる福音書を見るとファリサイ人と律法学者は律法をよく研究し、神の御言葉を守り行うことに情熱を注いでいましたが、そのような形式的な態度を、イエス様から「災いなるかな、律法学者、ファリサイ人たち」と激しく叱責されました。そこには真の信仰がないというのです。この問題は、サムエル記上の5章の、契約の箱が奪われた時の教訓とも重なる部分があると思われます。契約の箱がペリシテに奪われた時の問題とは、まさに形式的に宗教儀式を行い、そこにはイスラエルの民と神さまとの人格的な関係が断絶され、さらに言えば神の力を自分たちの思い通りに操りたい、神を利用したいという思いが隠されていて、機械的な関係になってしまったことが契約の箱の奪われた原因でありました。ですから、サウルの取った行動も、それが果たして真の信仰からでているのか、或いは単なる形式であって、宗教儀式を行っているのに過ぎないのかということです。

私たちは当然ですが、神さまの力を利用することはできません。神さまはご自身の自由な主権によって働かれ、私たちはただ神さまの御前にひざまずき、神さまの御言葉に従順に従うだけです。創造主と被造物である人間の間には、そのような主従関係があるのです。もし、この主従関係が逆になってしまい、人間が神さまの前に出てきて、人間が神を利用しようとするなら、神さまとの信仰の関係も断絶されるのです。ですから、もし、イスラエルが神さまを無視し、神さまを差し置いて自分自身が前に出るときに、信仰はただの形式的な宗教に成り下がってしまいます。そうなってしまうと、神と民の間の「人格的な交わり」はなくなってしまい、機械的な関係になってしまいます。これこそ契約の箱の喪失の事件であり、サウルがサムエルに代わって生贄を捧げる事件でもあったということです。このような事例は新約聖書にも出てきます。マタイ4:1~7(新p4)を御覧ください。

“さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。”

サタンはイエス様に対し「もし、あなたが神の子なら…もし、あなたが神の子なら…」と、神の子としての、アイデンティティや権勢などを存分に発揮して、あなたが神の子であることを証明してみなさいと言います。もし、神さまに認められているなら、神に認められている幸い、神に認められている能力、神に認められている豊かさなど、それらを、他の人々と区別して証明してみなさい、ということです。

これに対するイエス様のお答えは、第一に「人はパンで生きるのではなく、神の言葉で生きるのです。」ということであり、第二に「主なる神を試みてはならない。」ということでした。つまり、「私の幸い、私の聖として区別されていること、私のアイデンティティと私の豊かさは、神さまとの関係から離れて存在することはできない。」ということです。サタンの「あなたは神の子か」という質問に対し、イエス様は「そうだ。しかし、父なる神なしには、神の子としてありえない。」父を抜きにして、自分を独立させては、幸いも、聖も、力も、神霊さもあり得ないということです。サタンはまさに父との関係の断絶を狙ってこのような質問をしているのです。三番目の質問を見るときにそのことが明らかになります。マタイ4:8~10を御覧ください。

“更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」”

第一の質問と、第二の質問は、かなり難易度が高い質問でありました。ところがこの第三の質問は難易度からするとかなり易しいのです。サタンがはっきりと「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言っているからです。そんなふうに誘惑されても、私たちには、「サタンを礼拝する時間がどこにあるのだろうか」と考えてしまいます。本来、質問というのは、後になればなるほど難易度が上がりますね。しかし、サタンは頭が悪かったのでしょうか。そういうことではなくて、この三つ目の質問は、この誘惑の共通点が一体何かということを、浮き彫りにし、サタンの目的を露骨に現わしている質問であったということです。サタンがついに本性を現したということです。それは父なる神との関係を断ち切ることです。

結論

神様と私を切り離して、あなたは神の子か、というのは考えられません。神さまとの関係が断ち切られて、神の子や神の国を前面に出すことは、サタンに属する者であり、サタンの国なのです。私たちのアイデンティティや、私たち自身の祈り、私たちの生活を通してなされる一つ一つの業というものは、神さまとの関係が結ばれている中で初めて信仰から出た物であり、敬虔なものとなります。ところが神さまとの関係が分離されて独立されるなら、それ自体がいくら正しくてもそれはサタンに属するものとなってしまうのです。サウルの失敗とはまさにそこにありました。神さまとの関係を断ち切り、神さまを差し置いて自分が神さまの前に出てしまったのです。サタンの誘惑とは、常に神さまと私たちの関係性を断ち切るようにして迫ってきます。もし、神の恵みが私たちにあるのなら、そのことを素早く悟り、サウルのように自分をコントロールして焼き尽くす献げ物を捧げるのではなく、「早くサムエルを到着させてください」と神に祈ることができるのです。信仰からでる行いとは、神さまとの関係性から生まれてくる行いです。神さまと人間の主従関係を犯すことなく、イエスキリストの中で私たちは日々感謝し、主に応答する生活を送ってまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

블레셋과의 전투

2019년 11월10일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 13장 5~15절

성경은 첫째 하나님이 선택한 백성과 이방인에게 초점이 맞춰져 기술되어 있습니다. 예를들면 이삭과 이스마엘의 이야기, 혹은 야곱과 에서의 이야기입니다. 둘째, 성경은 하나님의 백성 가운데 믿음을 가지고 굳게 걸어가는 자와 겉으로는 이스라엘이면서도 사실은 가라지처럼 불신앙인 자에게 초점이 맞춰 기술되어 있습니다. 사무엘기에서는 사울왕과 다윗왕이 항상 비교되고 있는데, 이는 바로 두 번째 경우로 하나님의 백성중에 「참된 이스라엘」과 「불신앙의 이스라엘」이 기술된 예로 들 수 있을 것입니다. 그렇다면 사울왕이 가지고 있는 종교심에서 도대체 어떤 점이 잘못되어 불신앙으로 간주되고 말았을까요? 그 점에 대해서 오늘은 살펴보도록 하겠습니다.

이스라엘과 블레셋과의 사이에 전쟁이 일어났는데 그때까지 이스라엘은 전쟁이 일어날 때마다 어김없이 여호와 하나님의 인도하심과 그 분의 임재를 구하면서 전쟁을 치러왔습니다. 이번에도 예외가 아니라 곧 사무엘이 이스라엘이 진치고 있는 길갈에 도착해서 「번제」와 「화목제」를 드린 후에 블레셋인과의 전투에 임할 작전이었습니다. 그런데 압도적인 수적 우세를 배경으로 한 블레셋인들이 서서히 몰려 오는 가운데 좀처럼 사무엘은 나타나지 않습니다. 벼랑 끝에 몰린 사울왕은 자신이 스스로 하나님께 번제를 바칩니다. 그런데 이 일로 인해서 나중에 사무엘로 부터 질책을 받게 됩니다. 이 사건은 마침 12장에서 살펴보았듯이 길갈에 있어서 언약이 갱신되어 왕정이 도입되어 사무엘은 물러났고 이제부터는 초대 왕인 사울왕이 선두에 서서 이스라엘 백성을 이끌게 된 바로 첫 시작의 일이었습니다. 덧붙여서 길갈이라고 하는 마을은 요단강 서안에 있는 마을로 사해로부터 가깝고 여리고 근처의 해발고도가 매우 낮은 계곡에 있는 마을입니다. 이 마을의 이름의 유래는 여호수아가 이끌던 이스라엘이 물이 끊어진 요단강을 마른 땅으로 가나안으로 건너가고 그리고 그 땅의 산물에 의해서 유월절을 지키던 그때부터 하늘에서 내리던 만나가 그쳤고 그 이후로 이스라엘은 유목민족에서 정착민족으로 바뀐 데 따른 것입니다. 그때 애굽에서의 종살이의 치욕을 모두 닦아 주셨다라는 의미로 그 땅을 길갈, 즉 「수치를 떠나가게 하셨다」라는 의미로 붙여진 지명이었습니다. 여호수아서 5장 9~12절을 보시기 바랍니다.

9 여호와께서 여호수아에게 이르시되 내가 오늘 애굽의 수치를 너희에게서 떠나가게 하였다 하셨으므로 그 곳 이름을 오늘까지 길갈이라 하느니라

10 또 이스라엘 자손들이 길갈에 진 쳤고 그 달 십사일 저녁에는 여리고 평지에서 유월절을 지켰으며

11 유월절 이튿날에 그 땅의 소산물을 먹되 그 날에 무교병과 볶은 곡식을 먹었더라

12 또 그 땅의 소산물을 먹은 다음 날에 만나가 그쳤으니 이스라엘 사람들이 다시는 만나를 얻지 못하였고 그 해에 가나안 땅의 소출을 먹었더라

그렇기 때문에 길갈이라고 하는 지명은 새로운 출발점이며 왕정이 길갈에서 시작되었다는 것도 장소적으로는 가장 적합한 곳이었다고 할 수 있겠습니다. 그런데 아이러니하게도 사울은 이 길갈에서 두 번 하나님으로부터 버림을 받게 됩니다. 첫 번째는 오늘 읽은 부분인데 「왕의 나라가 길지 못할 것이라」고 선언되었고 두 번째는 아말렉과의 싸움에서 15장에 적혀 있는 내용인데 이번에는 사울의 왕직 자체도 부정되고 왕위에서 완전히 배제되게 됩니다. 사울왕이 도대체 무엇이 잘못되었다는 것일까요? 사울에게는 사무엘로부터 받은 약속이 있엇습니다. 사무엘상 10장 8절을 보시기 바랍니다.

너는 나보다 앞서 길갈로 내려가라 내가 네게로 내려가서 번제와 화목제를 드리리니 내가 네게 가서 네가 행할 것을 가르칠 때까지 칠 일 동안 기다리라

그러나 이스라엘 백성들은 11장에 암몬인과 싸울때는 한 사람처럼 일치단결하여 싸웠는데 이번에는 블레셋군 앞에서 겁을 먹고 어떤 자는 요단강을 건너 동쪽의 가드나 길르앗 땅으로 도망치는 자도 있었습니다. 사울을 따르던 군사도 사울의 뒤에서 부들부들 떨고 있습니다. 약속대로 사울을 기다리고 있는 가운데도 병사들은 속속 사울에게서 흩어지기 시작했습니다. 사울은 어떻게든 이러한 열세의 상황을 바꾸려고 생각했을 것입니다. 자신이 스스로 번제를 바쳤습니다. 그러자 그곳에 사무엘이 타이밍 좋게 도착한 것입니다. 10절을 보시기 바랍니다.

번제 드리기를 마치자 사무엘이 온지라 사울이 나가 맞으며 문안하매

사무엘이 도착했을 때 사울은 조금도 주눅들지 않고 사무엘에게 인사를 하려고 마중을 나갔습니다. 그리고 사무엘의 「왕이 행하신 것이 무엇이냐」라는 질책에 대해서도 그럴싸한 변명을 하고 있습니다. 11,12절을 보시기 바랍니다.

11 사무엘이 이르되 왕이 행하신 것이 무엇이냐 하니 사울이 이르되 백성은 내게서 흩어지고 당신은 정한 날 안에 오지 아니하고 블레셋 사람은 믹마스에 모였음을 내가 보았음으로

12 이에 내가 이르기를 블레셋 사람들이 나를 치러 길갈로 내려오겠거늘 내가 여호와께 은혜를 간구하지 못하였다하고 부득이하여 번제를 드렸나이다 하니라

현실주의자였던 사울은 이러한 상황을 객관적으로 판단하고 “부득이하여”즉 “약속을 지키고 싶었는데…”라며 스스로의 손으로 번제를 드릴 수 밖에 없었다고 말하고 있습니다. 리더로서 임기응변으로 상황에 대응하고 있는 것은 아닐까 해석할수도 있겠습니다.

여기서 문제란 제사장인 사무엘이 바쳐야 할 제의를 제사장이 아닌 사울이 가로챈 것일까요? 그러나 나중에 알고 보면 다윗왕도 솔로몬왕도 스스로 하나님께 번제를 바치지만 그에 대해서는 아무런 문책을 받지 않습니다. 더 말해보자면 번제를 바치고 있는 당사자인 사무엘도 레위인이 아니라 에브라임 출신입니다. 그렇다면 도대체 사울의 무엇이 문제였는가 하는 것인데 이어서 13,14절을 계속 보시기 바랍니다.

13 사무엘이 사울에게 이르되 왕이 망령되이 행하였도다 왕이 왕의 하나님 여호와께서 왕에게 내리신 명령을 지키지 아니하였도다 그리하였더라면 여호와께서 이스라엘 위에 왕의 나라를 영원히 세우셨을 것이거늘

14 지금은 왕의 나라가 길지 못할 것이라 여호와께서 왕에게 명령하신 바를 왕이 지키지 아니하였으므로 여호와께서 그의 마음에 맞는 사람을 구하여 여호와께서 그를 그의 백성의 지도자로 삼으셨느니라 하고

13,14절에 따르면 문제는 사울이 주님의 계명을 지키지 않았기 때문이라고 적혀 있습니다. 즉 말씀에 순종하는 것에 있어서 주님에 대한 진정한 헌신, 주님에 대한 믿음을 알 수 있다는 것이죠. 그러나 말씀을 그저 형식적으로 기계적으로 지킨다면 그것으로 좋으냐 하면 그렇지도 않은 것 같기도 합니다. 예를 들면 마태복음을 보면 바리새인과 서기관은 율법을 잘 연구하고 하나님의 말씀을 지키고 행함에 있어 정열을 쏟아부었는데 그러한 형식적인 태도는 예수님으로부터 「화 있을진저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여」라고 강한 질책을 받았습니다. 거기에는 진정한 믿음이 없다는 것입니다. 이 문제는 사무엘상의 5장의 언약궤가 빼앗결을 때의 교훈과도 겹치는 부분이 있다고 생각합니다. 언약궤가 블레셋에게 빼앗겼을 때의 문제는 그야말로 형식적인 종교의식을 행하고 거기에는 이스라엘의 백성과 하나님과의 인격적인 관계가 단절되어 더 나아가 하나님의 힘을 이용하고 싶다는 생각이 숨겨져 있고, 기계적인 관계가 되어 버린 것이 언약궤를 빼앗긴 원인이었습니다. 그래서 사울이 취한 행동도 그것이 과연 진정한 믿음에서 나온 것인가, 아니면 단순한 형식으로 종교의식을 행하고 있는 것에 불과한 것인가 하는 것입니다.

우리는 당연하지만 하나님의 힘을 이용할 수는 없습니다. 하나님은 자신의 자유로운 주권에 따라 일하시고 우리는 오직 하나님 앞에 무릎을 꿇고 하나님의 말씀에 순종하며 따를 뿐입니다. 창조주와 피조물인 인간사이에는 그런 주종관계가 있는 것입니다. 만약 이 주종관계가 거꾸로 되어 버리고 인간이 하나님보다 앞서고 인간이 하나님을 이용하려고 한다면 하나님과의 믿음의 관계도 단절되어 버리는 것입니다. 그렇기 때문에 만약 이스라엘이 하나님을 무시하고 하나님을 제쳐두고 자기 자신이 나설 때 신앙은 그저 형식적인 종교로 전락하고 맙니다. 그렇게 되어 버리면 하나님과 백성 사이의 「인격적인 교제」는 없어져 버리고 기계적인 관계가 되어 버립니다. 그것이야말로 언약궤를 빼앗긴 사건이며 사울이 사무엘을 대신해 번제를 바치는 사건이기도 했다는 것입니다. 이런 사례들은 신약성경에도 나옵니다. 마태복음 4장 1~7절을 보시기 바랍니다.

1 그 때에 예수께서 성령에게 이끌리어 마귀에게 시험을 받으러 광야로 가사

2 사십 일을 밤낮으로 금식하신 후에 주리신지라

3 시험하는 자가 예수께 나아와서 이르되 네가 만일 하나님의 아들이어든 명하여 이 돌들로 떡덩이가 되게 하라

4 예수께서 대답하여 이르시되 기록되었으되 사람이 떡으로만 살 것이 아니요 하나님의 입으로부터 나오는 모든 말씀으로 살 것이라 하였느니라 하시니

5 이에 마귀가 예수를 거룩한 성으로 데려다가 성전 꼭대기에 세우고

6 이르되 네가 만일 하나님의 아들이어든 뛰어내리라 기록되었으되 그가 위하여 그의 사자들을 명하시리니 그들이 손으로 너를 받들어 발이 돌에 부딪치지 않게 하리로다 하였느니라

7 예수께서 이르시되 또 기록되었으되 주 너의 하나님을 시험하지 말라 하였느니라 하시니

마귀는 예수님께 「네가 만일 하나님의 아들이어든.. 네가 만일 하나님의 아들이어든..」라고 하나님의 아들로서의 정체성과 권세 등을 마음껏 발휘하여 네가 하나님의 아들임을 증명해 보라고 합니다. 만약 하나님께 인정받고 있다면, 하나님께 인정받고 있다는 복, 하나님께 인정받고 있는 능력, 하나님께 인정받고 있는 풍요로움, 그런 것들을 다른 사람과 틀리다는 것을 증명해 보라는 것입니다.

이에 대한 예수님의 대답은 첫째, 「사람이 떡으로만 살 것이 아니요 하나님의 입으로부터 나오는 모든 말씀으로 살 것」이라는 것이고, 둘째 「주 너의 하나님을 시험하지 말라」는 것이었습니다. 즉 “나의 복, 내가 거룩하게 구별되었다는 것, 나의 아이덴티티와 나의 풍요로움은 하나님과의 관계에서 벗어나 존재할 수가 없다”는 것입니다. 마귀의 「네가 하나님의 아들인가」라는 질문에 대해서 예수님은 「그렇다. 그러나 아버지 하나님 없이는 하나님의 아들로 있을 수 없다」아버지를 빼고 자신을 독립시켜서는 복도 거룩함도 능력고 신령함도 있을 수 없다는 것입니다. 마귀는 바로 아버지와의 단절을 노리고 이러한 질문을 하고 있는 것입니다. 세 번째 질문을 볼 때 그 사실이 밝혀집니다. 마태복음 4장 8~10절을 보시기 바랍니다.

8 마귀가 또 그를 데리고 지극히 높은 산으로 가서 천하 만국과 그 영광을 보여

9 이르되 만일 내게 엎드려 경배하면 이 모든 것을 네게 주리라

10 이에 예수께서 말씀하시되 사탄아 물러가라 기록되었으되 주 너의 하나님께 경배하고 다만 그를 섬기라 하였느니라

첫 번째 질문과 두 번째 질문은 상당히 난이도가 높은 질문이었습니다. 그런데 이 세 번째 질문은 난이도로 보면 꽤 쉽죠. 마귀가 분명하게 「내게 엎드려 경배하면 이 모든 것을 네게 주리라」라고 말하고 있기 때문입니다. 그런 식으로 유혹을 받아도 우리에게는 ‘마귀에게 예배할 시간이 어디 있을까?’라는 생각이 들게 됩니다. 원래 질문이라고 하는 것은 나중이 될수록 난이도가 올라가지요. 하지만 마귀는 머리가 나빴던 것일까요? 그런 것이 아니라 이 세 번째 질문은 이 유혹의 공통점이 도대체 무엇인가 하는 것을 부각시키고 마귀의 목적을 노골적으로 드러내고 있는 질문이었다는 것입니다. 마귀가 드디어 본색을 드러냈다는 거죠. 그것은 아버지 하나님과의 관계를 끊는 것입니다.

결론

하나님과 자신을 분리하고 우리는 하나님의 자녀인가하는 것은 생각할 수 없습니다. 하나님과의 관계가 끊어진 하나님의 자녀나 하나님의 나라를 내세우는 것은 마귀에 속한 자이며 마귀의 나라입니다. 우리의 아이덴티티나 우리들 자신의 기도, 우리들의 생활을 통해서 이루어지는 하나 하나의 일이라는 것은 하나님과의 관계가 맺어져 있는 가운데 비로소 믿음에서 나온 것이며 경건한 것이 됩니다. 그런데 하나님과의 관계가 분리되어 독립된다면 그 자체가 아무리 옳더라도 그것은 마귀에 속하는 것이 되어버리는 것입니다. 사울의 실패란 바로 거기에 있었습니다. 하나님과의 관계를 끊고 하나님을 제쳐두고 자신이 하나님보다 앞서 버린 것입니다. 마귀의 유혹이란 항상 하나님과 우리의 관계성을 단절시키기 위해 다가옵니다. 만약 하나님의 은혜가 우리에게 있다면 그것을 빠르게 깨닫고, 사울처럼 제멋대로 번제를 드리는 것이 아니라 “빨리 사무엘이 도착하도록 해 주시옵소서”라고 하나님께 기도할 수 있는 것입니다. 믿음에서 나온 행함이란 하나님과의 관계성에서 나오는 행함입니다. 하나님과 인간의 주종관계를 범하지 않고 예수 안에서 우리는 날마다 감사하며 주님께 응답하는 삶을 살아갑시다.

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