2019年11月03日「サムエルの告別説教 사무엘의 고별설교」

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サムエルの告別説教 사무엘의 고별설교

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 12章1節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1サムエルは全イスラエルに向かって言った。「わたしは、あなたたちがわたしに求めたことについては、すべてあなたたちの声に従い、あなたたちの上に王を立てた。
2今からは王が、あなたたちを率いて歩む。わたしは年老いて、髪も白くなった。そして、息子たちはあなたたちと共にいる。わたしは若いころから今日まであなたたちを率いて歩んできたが、
3今、主と主が油を注がれた方の前で、わたしを訴えなさい。わたしが、だれかの牛を取り上げたことがあるか。だれかのろばを取り上げたことがあるか。だれかを抑えつけ、だれかを踏みにじったことがあるか。だれかの手から賄賂を取って何かを見逃してやったことがあるか。あるなら、償おう。」
4彼らは答えた。「あなたは我々を抑えつけたことも、踏みにじったこともありませんでした。だれの手からも何一つ取り上げたりしませんでした。」
5サムエルは言った。「今日、あなたたちがわたしの手に何一つ訴えるべきことを見いださなかったことについては、主が証人であり、主が油を注がれた方が証人だ。」彼らは答えた。「確かに証人です。」
6サムエルは民に話した。「主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。
7さあ、しっかり立ちなさい。主があなたたちとその先祖とに行われた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。
8ヤコブがエジプトに移り住み、その後、先祖が主に助けを求めて叫んだとき、主はモーセとアロンとをお遣わしになり、二人はあなたがたの先祖をエジプトから導き出してこの地に住まわせた。
9しかし、あなたたちの先祖が自分たちの神、主を忘れたので、主がハツォルの軍の司令官シセラ、ペリシテ人、モアブの王の手に彼らを売り渡し、彼らと戦わせられた。
10彼らが主に向かって叫び、『我々は罪を犯しました。主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えました。どうか今、敵の手から救い出してください。我々はあなたに仕えます』と言うと、
11主はエルバアル、ベダン、エフタ、サムエルを遣わし、あなたたちを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたたちは安全に住めるようになった。
12ところが、アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した。
13今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。
14だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。
15しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。
16さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。
17今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」
18サムエルが主に呼び求めると、その日、主は雷と雨を下された。民は皆、主とサムエルを非常に恐れた。
19民は皆、サムエルに願った。「僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました。」
20サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。
21むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。
22主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。
23わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。
24主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。
25悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 12章1節~25節

原稿のアイコン日本語メッセージ

子どもの高校受験が終わり、無事公立高校に入学することができました。親である以上、子どもと共に喜び、盛大にお祝いしたい気持ちですが、高校受験とは人生においてただの通過点に過ぎませんし、高校受験をもって、幸いな人生が決定されるわけではありませんので控えました。それでは、三年後の大学受験において見事、志望校に入学することができれば、或いは、希望の就職先が決まれば、その時こそ諸手を挙げてお祝いすることができるのかというと、そうでもありません。大学受験も、就職先の決定も、同じように人生の一つの通過点に過ぎないからです。それでは、一体いつ、神の安息に入り心から喜ぶことができるのでしょうか。それは、生涯を信仰によって神と共に歩み、そして神の御許に引き上げられる時、その時こそ、もろ手を挙げてお祝いすることができるのでないかと思っています。本日の箇所は、イスラエルにいよいよ王政が導入されるにあたり、神さまはギルガルで、イスラエルと契約を更新され、11章の終わりに書かれている通り、イスラエルの民は和解の生贄をささげて、祝宴を持ちました。しかし、この契約の更新とは、ただ喜ばしいだけではなく、神さまはイスラエルに対し、「これは、あなた方の人生における単なる通過点に過ぎないものであって、人生の目的そのものではない」ということを念を押され、民は今一度、襟を正されるような思いをさせられました。

ところで、神とイスラエルとの恵みの契約とは、創世記3:15にまで遡ります。罪を犯したアダムに対して、直ちに裁きが下されるのではなく、神さまは蛇を呪い原福音と呼ばれる御言葉を与えてくださいました。

“お前(蛇)と女、お前の子孫と女の子孫(メシア)の間に/わたしは敵意を置く。彼(メシア)はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。”

ここで、アダムとエバは罪を犯したのにかかわらず、神さまの方から人間に近づかれ、一方的な約束をしてくださいました。罪びとに対する「救いの御業」こそ、恵みの契約であると言えます。恵みの契約は次にノアを通して、さらにはアブラハムを通して更新され、そしてシナイ山においてモーセを通して更新されました。この時に十戒が与えられています。恵みの契約は、究極的にはイエスキリストの十字架によって成就されますが、旧約におけるこれらの契約更新は、イエス様の契約のひな型であると言うことです。つまり、神が罪びとであるイスラエルに対して、あなたは私の宝の民であり、他とは区別された聖なる国民であって、主の御名にかけて、あなた方に神の救いと安息を与えるという約束です。ですから恵みの民として信仰によって歩み、御言葉を守りなさいということです。

サムエル記上に戻りまして12章1~5節には、サムエルの告別説教から始まっています。サムエルの自分自身の潔白について語られていますが、要約するとこういうことです。「私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んできた。その歩みの中で、何か不正なことをしただろうか?、誰かの者を奪っただろうか?、誰かを苦しめ迫害したことがあっただろうか?、賄賂を受け取ったことがあっただろうか?。もしあったと言うなら、今、私を訴えなさい。」なぜ、サムエルはこんなことを言っているのでしょうか。自分の重要性をもう一度、最後にアピールしたかったのでしょうか。そうではありません。この後、彼はイスラエルが王を求めた罪について触れますが、そもそも王政の導入はサムエル自身に問題があったからではないということを示すためです。自分の弁護というよりも、イスラエルの問題点をより浮き彫りにさせるためだったと考えられます。つづいて6節から11節まで、主なる神が民をどのように導かれたのか、出エジプトから士師の時代に至るまでの歴史について振り返らせています。エジプトでイスラエルの民は主に叫びました。すると主はモーセとアロンを遣わして、奴隷であった民を解放してくださいました。その後、士師の時代に移り、イスラエルは再び苦境に陥ります。彼らはハツォルの司令官シセラの手に、或いはペリシテ人の手に、或いはモアブの王の手に引き渡されました。その中で主に向かって叫び、罪を悔い改めた時、主は11節に書かれている士師たちを、エルバアル、ベダン、エフタ、サムエル与えてくださいました。エルバアルとはギデオンの事です。ベダンとはデボラの一緒にいたバラクのことです。ここでの核心的内容は、すべての事は主がなされたことであり、イスラエルがしたことは、罪をおかしたことと、主に叫び求めたことしかなかったということです。12~13節御覧ください。

“ところが、アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した。今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。”

イスラエルの民はアンモン人の王ナハシュが攻めてきたとき、主が王であり、主こそイスラエルのすべての災いと苦しみから救ってくださる方であるにも関わらず、“いや、王が我々の上に君臨すべきだ”と要求しました。これは偶像崇拝に他なりません。13節には、あなたたちが「求め」、選んだ王という言葉に、「シャアル:求める」という言葉が出てきます。つまり、サウル王とは、民の偶像崇拝によって求められた王なのであると言っているのです。このように民の罪を厳しく叱責しているのです。続いて14~15節を御覧ください。

“だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。”

この御言葉において着目するポイントは、王もイスラエルの民も主の御前に同一に扱われているということです。25節もやはり、王と民が一括りにされています。これは、たとえ王政が導入されても、主が真の王であり、ヤハウェなる神と民の根底にある契約の関係は変わらないということです。ですからこの後、サムエルは民の先頭に立つ士師としては退くことになりますが、これからも預言者として王と共に歩み、真の王である神の御言葉を伝え、イスラエルのためにとりなしていくことになります。ところで、これ以前の、神とイスラエルの契約の更新の中で、直近のものは、ヨシュア記に出てくるシケムにおける契約になりますが、本日のサムエル記と類似点をいくつか見つけることができます。例えば、第一に高齢になったヨシュアの告別説教から始まっているということ、それから第二に契約の前に祝福と呪いが置かれているということです。ヨシュア記23:8~13を御覧ください。

“今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼(執着する、すがる)せよ。主が強大な国々をあなたたちのために追い払ってくださったから、あなたたちの行く手に立ちはだかる者は、今日まで一人もなかった。あなたたちは一人で千人を追い払える。あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。しかし、もしあなたたちが背いて離れ去り、あなたたちのうちに残っているこれらの国民となれ親しんで、婚姻関係を結び、向こうに行ったり、こちらに迎えたりするなら、あなたたちの神、主がもはや、これらの国民を追い払われないことを覚悟しなさい。彼らはあなたたちの罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭、目に突き刺さるとげとなり、あなたたちは、あなたたちの神、主が与えられたこの良い土地から滅びうせる。”

この後に、民の応答が24:21、22節に続いています。ここに見られる契約の更新は、もし主に信頼し、御言葉を守り行うなら、神の祝福と守りが与えられ、もし主から離れ、世俗に誘惑されていくなら、呪いと滅びがあるということです。ここで誤解しやすいのですが、これは決してイスラエルの民の行い自体に、将来の祝福と呪いがかかっているということではありません。行いの契約として与えられているのではなく、恵みの契約として与えられているということです。恵みの契約は常に神の恵みが先行し、民に恵みの応答を求めるという形で与えられています。祝福と呪いは、むしろ信仰にかかっていると言えるでしょう。同じように、サムエル記12章においても、祝福と呪いが語られていますが、民がよくやったなら祝福が与えられ、民が怠けたり、失敗するなら呪いが与えられるということではありません。そうではなく主を信じ、御言葉に留まるなら、救いと祝福が与えられるということです。旧約聖書には、新約聖書に出てくるような「信仰によって救われる」という定型句はございません。したがって歴史の中で登場した、数々の異端の教えは、旧約の神と新約の神は異なると主張し、新約聖書だけを神の御言葉であると主張したほどです。しかし、旧約聖書をじっくり読むなら、定型句はなくとも、信仰によって救われるという内容については、繰り返し出てきます。つまり、「神を畏れる」「神に仕える」「神を愛する」「神に信頼する」「神により頼む、すがる」「希望をもって待つ」という言葉が旧約聖書において信仰をあらわす言葉として用いられているのです。ですから、旧約におけるイスラエルの救済は新約と同じように「信仰」を通してのみ成就されるということです。そして、その信仰とは、神の愛と慈しみが最初にあって、人間の信仰告白や人間の側の応答を要求するという形を取っています。本日のサムエル記においても先に神の愛が示され、そして民の恐れと告白が続いています。つまり神と人との前に信仰が表明されているのです。16~19節を御覧ください。雷と雨を降らせることによって神の顕現が示されます。

“さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」サムエルが主に呼び求めると、その日、主は雷と雨を下された。民は皆、主とサムエルを非常に恐れた。民は皆、サムエルに願った。「僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました。」”

小麦の刈り入れの時期とは、5月~6月頃で、パレスティナでは乾季にあたりますが、超自然的な奇蹟を起こされました。16節の「しっかり立ちなさい」という言葉は、7節にも出てきましたが、どういう意味かというと、これは招きの言葉です。ちょうど、モーセに率いられたイスラエルが紅海を渡る際に、海が二つに分かれて渇いた地が現れる奇蹟をなしたときにも、「しっかり立ちなさい」という招きの言葉が語られました。新しい聖書協会共同訳の出エジプト記14:13をお読みします。

“そこで、モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今、エジプト人を見ているが、もはやとこしえに見ることはない。”

このように招きの言葉の後に、主ご自身が奇蹟を通してご自身を表わしてくださったのです。神さまの聖なる顕現の前に、民は震えあがり、自分自身の罪と汚れが暴露され、そして悔い改めに導かれます。神の光に照らされるまで、それが見えなかったのですが、自分たちの罪と汚れをようやく直視することができました。栄光の神の顕現は、いつも雲に覆われていますが、それは万が一聖なるお方の御顔を直接拝するなら、罪びとは直ちに滅んでしまうからです。ですから神の顕現における雷と厚い雲は、超越している神と罪人との間の深い断絶を表わしています。神さまは普段、目には見えませんし、神の統治と守りは、人間の王様の統治のように直接、目に見えるものではありません。しかし、そこには間違いなく契約にもとづいて神の統治と守りは存在しているのであり、決して神さまを無視したり、不信仰で俗的な考えにそれて行ってはならないということです。続いて20~22節を御覧ください。

“サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。”

恐れるなという言葉は、主が私たちの罪をキリストの故に赦してくださるからです。そして、特に22節の御言葉が私たちに響いてきます。主は、主ご自身の御名の故にご自分の民を決しておろそかになさらないと言われます。さらに主はあなたたちをご自分の民とされることを善しとされるからであると言われます。救いの御業は、民の側の功績にかかっているのではなく、専らご自身の御名にかかっているのであって、一方的な恵みであるということです。ですから、ただその事を受け入れて信じればいいのです。救いはただ信仰によってもたらされるのであって、決して王政という制度や、この世の良きものによってもたらされるのではないということです。さらに言うと、その信仰と悔い改めさえも実は主からの賜物であるということです。続いて23~25節を御覧ください。

“わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」”

主を畏れ、主に仕え、たとえ目に見えなくとも神の慈しみと憐みを信じるならば、救われます。それは、アダムが罪を犯した後に、直ちに神によって与えられた福音であり、変わることのない永遠の教えでありました。神の御心はご自身の民がこの世において、まだ見ていない神の祝福を待ち望み、信仰を全うすることであって、やがてキリストの御許に召されて救いを完成することであります。神の救いとは制度によって与えられるのではなく信仰によってのみ与えられること、そして敬虔な信仰そのものも、実は神からの賜物ですが、それは、継続的なものであり、やがて完全に救いを完成させるものであるということを覚えたいと思います。今はまだ、目には見えなくても真の王として常に統治し守り導いて下さる神さまに感謝を捧げてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사무엘의 고별설교

2019년 11월 3일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 12장 1~25절

서론

아이의 수험이 끝나고 무사히 공립 고등학교에 입학게 되었습니다. 부모인 이상 아이와 함께 기뻐하고 성대하게 축하하고 싶은 기분입니다만, 고교입시란 인생에 있어서 그저 통과점에 지나지 않고 고교입시로 인해 행복한 인생이 결정되는 것이 아니기 때문에 자제했습니다. 그러면 3년후의 대학입시에 있어서 멋지게 지망학교에 입학할 수 있으면 혹은 희망하는 취직처가 정해지면 그때야말고 쌍수를 들고 축하할 수 있는가 하면 그렇지도 않습니다. 대학입시도 취직처의 결정도 마찬가지로 인생의 하나의 통과점에 지나지 않기 때문입니다. 그렇다면 도대체 언제 하나님의 안식에 들어가 진심으로 기뻐할 수 있다는 걸까요? 그것은 평생을 믿음으로 하나님과 동행하고 그리고 하나님 옆으로 끌어올림을 받을 때, 그때야말로 쌍수를 들고 축하할 수 있지 않을까 생각합니다. 오늘은 이스라엘에 드디어 왕정이 도입됨에 있어 하나님은 길갈에서 이스라엘과 언약갱신을 하시고 11장 마지막에 써있는대로 이스라엘 백성들은 화목제를 드리고 크게 기뻐했습니다. 그러나 이 언약의 갱신이란 그저 기쁘기만 한 것이 아니라 하나님은 이스라엘데 대해 「이것은 너희들의 인생에 있어서 그저 통과점에 지나지 않는 것이지, 인생의 목적 그 자체가 아니다」라고 다짐을 하셨고 백성은 다시 한 번 옷깃을 여미는 듯한 느낌을 받았습니다.

그런데 하나님과 이스라엘과의 은혜의 언약이란, 창세기 3장 15절로 거슬러 올라갑니다. 죄를 지은 아담에 대해서 당장 심판이 내려지는 것이 아니라 하나님은 뱀을 저주하시고 원시복음이라고 불리는 말씀을 주셨습니다.

내가 너로 여자와 원수가 되게 하고 네 후손도 여자의 후손과 원수가 되게 하리니 여자의 후손은 네 머리를 상하게 할 것이요 너는 그의 발꿈치를 상하게 할 것이니라 하시고

여기서 아담과 하와는 죄를 범했음에도 불구하고 하나님 편에서 인간에게 다가오셔서 일방적으로 약속을 해주셨습니다. 죄인에 대한 「구원의 역사」야 말로 은혜의 언약이라 할 수 있습니다. 은혜의 언약은 다음에는 노아를 통해서 더 나아가 아브라함을 통해서 갱신되고 그리고 시내산에서 모세를 통해서 갱신되었습니다. 이때 십계명이 주어졌습니다. 은혜의 언약은 궁극적으로는 예수 그리스도의 십자가에 의해 성취되지만 구약에서의 이러한 언약갱신은 예수님의 언약의 모형이라는 것입니다. 즉 하나님이 죄인인 이스라엘에 대해서 너는 나의 보배로운 백성이며 다른 나라와는 구별된 거룩한 백성이요 주님의 이름을 걸고 너희에게 하나님의 구원과 안식을 주시겠다는 약속입니다. 그래서 은혜의 백성으로서 믿음에 따라 걸으며 말씀을 지키라는 것입니다.

사무엘상으로 돌아가서 12장 1~5절에는 사무엘의 고별설교로 시작하고 있습니다. 사무엘의 자기자신의 결백에 대해서 말하고 있는데 요약하자면 이런 겁니다. 「내가 어려서부터 오늘까지 너희 앞에 출입하였거니와 내가 여기 있나니 여호와 앞과 그의 기름 부음을 받은 자 앞에서 내게 대하여 증언하라 내가 누구의 소를 빼앗았느냐 누구의 나귀를 빼앗았느냐 누구를 속였느냐 누구를 압제하였느냐 내 눈을 흐리게 하는 뇌물을 누구의 손에서 받았느냐 그리하였으면 내가 그것을 너희에게 갚으리라」왜 사무엘은 이런 말을 하고 있을까요? 자신의 중요성을 다시 한번 마지막으로 어필하고 싶었을까요? 그렇지 않습니다. 이후 그는 이스라엘이 왕을 구한 죄에 대해 언급하는데 애초에 왕정 도입은 사무엘 자신에게 문제가 있어서가 아니라는 것을 보여주기 위해서입니다. 자신의 변호라기보다는 이스라엘의 문제점을 보다 부각시키기 위해서였다고 생각됩니다. 이어서 6절부터 11절까지 주 하나님께서 백성들을 어떻게 인도하셨는지 출애굽에서부터 사사시대에 이르기까지의 역사를 되짚어보게 하고 있습니다. 애굽에서 이스라엘 백성은 주께 부르짖었습니다. 그러자 주님은 모세와 아론을 보내어 종이었던 백성을 해병시켜 주셨습니다. 그후 사사의 시대로 넘어가 이스라엘은 다시 곤경에 빠집니다. 그들은 하솔의 군사령관 시스라의 손에, 혹은 블레셋인의 손에, 혹은 모압 왕의 손에 넘겨졌습니다. 그 가운데 주를 향해 부르짖고 죄를 회개했을 때, 주님은 11절에 적혀 있는 사사들을, 여룹바알과 베단과 입다와 사무엘을 보내 주셨습니다. 여룹바알은 기드온을 말합니다. 베단은 드보라와 함께 있었던 바락을 말합니다. 여기에서 핵심적인 내용은 모든 것은 주님이 행하신 것이며, 이스라엘이 한 일은 죄를 지은 것과 주께 부르짖고 구한 것밖에는 없었다는 것입니다. 12,13절을 보시기 바랍니다.

12 너희가 암몬 자손의 왕 나하스가 너희를 치러 옴을 보고 너희의 하나님 여호와께서는 너희의 왕이 되심에도 불구하고 너희가 내게 이르기를 아니라 우리를 다스릴 왕이 있어야 하겠다 하였도다

13 이제 너희가 구한 왕, 너희가 택한 왕을 보라 여호와께서 너희 위에 왕을 세우셨느니라

이스라엘 백성들은 암몬 자손의 왕 나하스가 치러 오자 주가 왕이시며 주님이시야말로 이스라엘을 모든 재앙과 괴로움에서 구원해 주시는 분임에도 불구하고 “아니요, 왕이 우리 위에 군림해야 합니다”라고 요구했습니다. 이는 우상숭배와 다름없습니다. 13절에는 너희가 「구한」, 너희가 택한 왕이라고 하는 단어에 「샤알:구하다」라는 단어가 나옵니다. 즉 사울왕은 백성의 우상숭배에 의해서 구해진 왕이라고 하는 것입니다. 이처럼 백성의 죄를 엄하게 질책하고 있는 것입니다. 이어서 14,15절을 보시기 바랍니다.

14 너희가 만일 여호와를 경외하며 그를 섬기며 그의 목소리를 듣고 여호와의 명령을 거역하지 아니하며 또 너희와 너희를 다스리는 왕이 너희의 하나님 여호와를 따르면 좋겠지마는

15 너희가 만일 여호와의 목소리를 듣지 아니하고 여호와의 명령을 거역하면 여호와의 손이 너희의 조상들을 치신 것 같이 너희를 치실 것이라

이 말씀에서 주목하는 포인트는 왕도 이스라엘 백성도 주 앞에서는 동일하게 다뤄지고 있다는 것입니다. 25절도 역시 왕과 백성이 한데 묶여 있습니다. 이는 비록 왕정어 도입되더라도 주님이 진정한 왕이며 여호와 하나님과 백성의 근저에 있는 언약의 관계는 변하지 않는다는 것입니다. 그렇기 때문에 이후 사무엘은 백성의 선두에 서는 사사로는 물러나게 되지만 앞으로도 선지자로서 왕과 함께하며 진정한 왕이신 하나님의 말씀을 전하고 이스라엘을 위해서 중보하게 됩니다. 그런데 이 이전의 하나님과 이스라엘의 언약갱신 가운데 최근의 것은 여호수아기에 나오는 세겜에서의 언약이 되지만 오늘의 사무엘기와 유사점을 몇 가지 찾을 수 있습니다. 예를 들어 첫째는 고령이 된 여호수아의 고별설교에서 비롯된다는 것, 그리고 둘째는 언약 앞에 축복과 저주가 놓여 있다는 것입니다. 여호수아서 23장 8~13절을 보시기 바랍니다.

8 오직 너희의 하나님 여호와께 가까이 하기를 오늘까지 행한 것 같이 하라

9 이는 여호와께서 강대한 나라들을 너희의 앞에서 쫓아내셨으므로 오늘까지 너희에게 맞선 자가 하나도 없었느니라

10 너희 중 한 사람이 천 명을 쫓으리니 이는 너희의 하나님 여호와 그가 너희에게 말씀하신 것 같이 너희를 위하여 싸우심이라

11 그러므로 스스로 조심하여 너희의 하나님 여호와를 사랑하라

12 너희가 만일 돌아서서 너희 중에 남아 있는 이 민족들을 가까이 하여 더불어 혼인하며 서로 왕래하면

13 확실히 알라 너희의 하나님 여호와께서 이 민족들을 너희 목전에서 다시는 쫓아내지 아니하시리니 그들이 너희에게 올무가 되며 덫이 되며 너희의 옆구리에 채찍이 되며 너희의 눈에 가시가 되어서 너희가 마침내 너희의 하나님 여호와께서 너희에게 주신 이 아름다운 땅에서 멸하리라

이 뒤에 백성들의 응답이 24장 21절, 22절에 이어지고 있습니다. 여기에 보이는 언약의 갱신은 만약 주님을 신뢰하고 말씀을 지켜 행한다면, 하나님이 주시는 복과 돌보심을 얻고 만약 주께로부터 멀어져 세속의 유혹되어 간다면 저주와 멸망이 있다는 것입니다. 여기서 오해하기 쉽지만 이는 결코 이스라엘의 백성의 행함 자체에 장래의 복과 저주가 걸려있다는 것이 아닙니다. 행위계약으로 주어져 있는 것이 아니라 은혜의 언약으로 주어져 있다는 것입니다. 은혜의 언약은 항상 하나님의 은혜가 먼저 선행되고 백성에게 은혜의 응답을 요구하는 형태로 주어졌습니다. 복과 저주는 오히려 믿음에 달려 있다고 할 수 있을 것입니다. 마찬가지로 사무엘상 12장에 있어서도 복과 저주가 이야기되고 있지만, 백성이 말을 잘 들으면 복을 받고 백성이 게으르거나 실패를 하면 저주를 받는다는 것이 아닙니다. 그게 아니라 주님을 믿고 말씀 가운데 머무른다면, 구원과 복이 주어진다는 것입니다. 구약성경에는 신약성경에 나오는 것과 같은 「믿음으로 구원을 받는다」는 정형구는 없습니다. 따라서 역사 속에서 등장하는 수많은 이단들의 가르침은 구약의 하나님과 신약의 하나님은 다르다고 주장하고, 신약성경만을 하나님의 말씀이라고 주장했을 정도입니다. 그러나 구약성경을 찬찬히 읽어본다면 정형구는 없더라도 믿음에 의해 구원을 얻는다는 내용에 관해서는 반복해서 나옵니다. 즉 「하나님을 경외하다」「하나님을 섬기다」「하나님을 사랑하다」「하나님께 신뢰를 두다」「하나님께 요청하다, 하나님을 의지하다」「희망을 가지고 기다리다」라는 단어가 구약성경에 있어서 믿음을 나타내는 말로 사용되고 있는 것입니다. 그래서 구약에 있어서 이스라엘의 구원은 신약과 마찬가지로 「믿음」을 통해서만 성취된다는 것입니다. 그리고 그 믿음이란 하나님의 사랑과 긍휼하심이 먼저 있고 인간의 신앙고백이나 인간쪽에서의 응답을 요구하는 형태를 취하고 있습니다. 오늘 사무엘기에서도 먼저 하나님의 사랑이 나타나고 백성들의 두려움과 고백이 이어지고 있습니다. 즉 하나님과 인간 앞에서 믿음을 고백하고 있는 것입니다. 16~19절을 보시기 바랍니다. 천둥과 비를 내리게 함으로써 하나님의 현현이 나타나 있습니다.

16 너희는 이제 가만히 서서 여호와께서 너희 목전에서 행하시는 이 큰 일을 보라

17 오늘은 밀 베는 때가 아니냐 내가 여호와께 아뢰리니 여호와께서 우레와 비를 보내사 너희가 왕을 구한 일 곧 여호와의 목전에서 범한 죄악이 큼을 너희에게 밝히 알게 하시리라

18 이에 사무엘이 여호와께 아뢰매 여호와께서 그 날에 우레와 비를 보내시니 모든 백성이 여호와와 사무엘을 크게 두려워하니라

19 모든 백성이 사무엘에게 이르되 당신의 종들을 위하여 당신의 하나님 여호와께 기도하여 우리가 죽지 않게 하소서 우리가 우리의 모든 죄에 왕을 구하는 악을 더하였나이다

밀 베는 시기는 5월, 6월경으로 팔레스타인에서는 건기에 해당합니다만 초자연적인 기적이 일어났습니다. 16절의 「가만히 서서」라는 단어는 7절(가만이 서 있으라)에도 나왔습니다만, 무슨 뜻이냐면 이것은 초청하시는 말입니다. 마침 모세가 이끌던 이스라엘이 홍해를 건널 때에 바다가 두개로 갈라져서 마른 땅이 드러나는 기적을 이루었을 때에도 「가만히 서서」라는 초청의 말이 있었습니다. 새성경협회공동역(일본어 성경)의 출애굽기 14장 13절을 읽겠습니다.

모세가 백성에게 이르되 너희는 두려워하지 말고 가만히 서서 여호와께서 오늘 너희를 위하여 행하시는 구원을 보라 너희가 오늘 본 애굽 사람을 영원히 다시 보지 아니하리라

이렇게 초청의 말씀의 뒤에 주님 자신이 기적을 통해서 자신을 드러내 주셨습니다. 하나님의 거룩한 현현 앞에서 백성들은 떨며, 자기 자신의 죄와 더러움이 폭로되고 그리고 회개로 인도됩니다. 하나님의 빛에 뷔추어질 때까지 그것이 보이지 않았지만 자신들의 죄와 더러움을 그제서야 직시 할 수 있게 되었습니다. 영광스러운 하나님의 현현은 언제나 구름에 덮여 있는데, 그것은 만에 하나 성스러운 분의 얼굴을 직접 배례한다면 죄인은 즉시 멸망할 것이기 때문입니다. 그렇기 때문에 하나님의 현현에 있어서 천둥과 두터운 구름은, 초월하는 하나님과 죄인사이의 단절을 나타내고 있습니다. 하나님은 보통 눈에는 보이지 않고, 하나님의 다스리심과 보호하심은 인간의 왕의 통치처럼 직접 눈에 보이는 것이 아닙니다. 그러나 거기에는 틀림없는 언약에 의거한 하나님의 통치와 보호하심이 존재하고 있는 것이며, 결코 하나님을 무시하거나, 불신앙으로 세속적인 생각을 따라서는 안 된다는 것입니다. 이어서 20~22절을 보시기 바랍니다.

20 사무엘이 백성에게 이르되 두려워하지 말라 너희가 과연 이 모든 악을 행하였으니 여호와를 따르는 데에서 돌아서지 말고 오직 너희의 마음을 다하여 여호와를 섬기라

21 돌아서서 유익하게도 못하며 구원하지도 못하는 헛된 것을 따르지 말라 그들은 헛되니라

22 여호와께서는 너희를 자기 백성으로 삼으신 것을 기뻐하셨으므로 여호와께서는 그의 크신 이름을 위해서라도 자기 백성을 버리지 아니하실 것이요

두려워하지 말라는 말씀은 주님이 우리들의 죄를 그리스도 때문에 용서해 주시기 때문입니다. 그리고 특히 22절의 말씀이 우리에게 울림을 줍니다. 주님은 주님 자신의 이름을 위해서라도 자기 백성을 결코 버리지 아니하신다고 하십니다. 또한 주님은 너희를 자기 백성으로 삼으신 것을 기뻐하신다고 말합니다. 구원의 역사는 백성 쪽의 공적에 달려 있는 것이 아니라 오로지 자신의 이름에 달려 있는 것이라는 일방적인 은혜라는 것입니다. 그러니까 그냥 그 일을 받아 들이고 믿으면 되는 것입니다. 구원은 단지 믿음에 의해서 얻는 것이지 결코 왕정이라고 하는 제도나 이 세상의 좋은 것에 의해서 오는 것이 아니라는 것입니다. 심지어 그 믿음과 회개마저도 실은 주님이 주신 선물이라는 것입니다. 이어서 23~25절을 보세요.

23 나는 너희를 위하여 기도하기를 쉬는 죄를 여호와 앞에 결단코 범하지 아니하고 선하고 의로운 길을 너희에게 가르칠 것인즉

24 너희는 여호와께서 너희를 위하여 행하신 그 큰 일을 생각하여 오직 그를 경외하며 너희의 마음을 다하여 진실히 섬기라

25 만일 너희가 여전히 악을 행하면 너희와 너희 왕이 다 멸망하리라

주님을 경외하고 주님을 섬기며 비록 눈에 보이지 않는다 하더라도 하나님의 인자하심과 긍휼하심을 믿는다면 구원받을 수 있습니다. 그것은 아담이 죄를 범한 후에 즉시 하나님께 의해 주어진 복음이며, 변하지 않는 영원한 가르침이었습니다. 하나님의 마음은 자신의 백성이 이 세상에서 아직 보지 못한 하나님의 복을 고대하며 믿음을 다하는 것이며 이윽고 그리스도의 곁으로 불리움을 받아 구원을 완성하는 것입니다. 하나님의 구원이란 제도에 의해 얻을 수 있는 것이 아니라 믿음에 의해서만 얻는 것, 그리고 경건한 믿음 그 자체도 사실은 하나님의 선물이지만, 그것은 계속적인 것이며, 머지않아 완전히 구원을 완성하는 것임을 기억하고 싶습니다. 지금은 아직 눈에는 보이지 않아도 진정한 왕으로서 항상 다스리시고 지켜 주시고 인도하여 주시는 하나님께 감사를 드립시다.

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