2019年10月27日「サウル王の資格の証明 사울왕의 자격과 증명」

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サウル王の資格の証明 사울왕의 자격과 증명

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 11章1節~15節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1さて、アンモン人のナハシュが攻め上って来て、ギレアドのヤベシュを包囲した。ヤベシュの全住民はナハシュに言った。「我々と契約を結んでください。我々はあなたに仕えます。」
2アンモン人のナハシュは答えた。「お前たちと契約を結ぼう。ただし、お前たち全員の右の目をえぐり出すのが条件だ。それをもって全イスラエルを侮辱しよう。」
3ヤベシュの長老たちは彼に言った。「七日間の猶予をください。イスラエルの全土に使者を立てます。救ってくれる者がいなければ、我々はあなたのもとへ出て行きます。」
4使者はサウルのいるギブアに来て、事の次第を民に報告した。民のだれもが声をあげて泣いた。
5そこへ、サウルが牛を追って畑から戻って来た。彼は尋ねた。「民が泣いているが、何事か起こったのか。」彼らはヤベシュの人々の言葉を伝えた。
6それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、
7一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した。
8サウルがベゼクで彼らを点呼すると、イスラエルが三十万、ユダが三万であった。
9彼らはヤベシュから送られて来た使者に言った。「ギレアドのヤベシュの人々にこう言うのだ。『明日、日盛りのころ、あなたがたに救いが来る。』」使者が帰って来てそう知らせると、ヤベシュの人々は喜び祝った。
10ヤベシュの人々は言った。「明日、我々はあなたたちのもとに出て行きます。よいようにしてください。」
11翌日、サウルは民を三つの組に分け、朝の見張りの時刻にアンモン人の陣営に突入し、日盛りのころまで彼らを討った。生き残った者はちりぢりになり、二人一緒に生き残った者はいなかった。
12民はサムエルに言った。「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します。」
13しかし、サウルは言った。「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」
14サムエルは民に言った。「さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。」
15民は全員でギルガルに向かい、そこでサウルを王として主の御前に立てた。それから、和解の献げ物を主の御前にささげ、サウルもイスラエルの人々もすべて、大いに喜び祝った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 11章1節~15節

原稿のアイコン日本語メッセージ

ラグビーのワールドカップでは、日本は決勝トーナメントに進出しましたが、惜しくもベスト8で敗退してしまいました。今回の日本チームの特徴は何と言っても「One team」という言葉で表されますが、本日の箇所もOne team となって勝利をつかみ取る内容でございます。しかし、舞台の背景を見ますともっと大きな主題が見えてきます。その大きな主題というのは11~12章にかけて書かれている王政の導入です。イスラエルに、いよいよ、主の御前に王政が導入され、サウルが初代の王として立てられる儀式について書かれています。しかし、王政が導入されると言っても、それは周辺諸国のような王政ではなくイスラエルの独特のものでした。つまり、王政とセットで、神さまから直接召された預言者という職務が立てられます。預言者は祭司や王のように世襲制ではなく、神さまに直接召された人でして、イスラエルの王はこの預言者を通して神さまの御心を尋ね求めなければなりませんし、御言葉をいつもそばに置かなければなりませんでした。したがってイスラエルの上には、今までと全く変わらず、神さまという真の王が統治しておられるのであって、勘違いしてはならないことは、立てられた王がイスラエルの民を戦争から救うのではなく、神さまがイスラエルを戦争において救い出されるということです。サムエルは王政の導入にあたりそのことを特に強調しました。10:18を御覧ください。

“彼(サムエル)はイスラエルの人々に告げた。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国からも救い出した』と。”

ですから、立てられた王は、あくまで民の代表として神に仕え、神に従順していかなければならないということです。これまでの神聖政治に、新しい王政政治が、取り込まれた形です。

本論

ミツパの集会においてサウルがくじによって公式に王として立てられましたが、サウルは、まだ政治的にも無名であり、サムエルのような指導者としての地位は確立されていませんでした。そのような中で、アンモン人のナハシュがギレアドのヤベシュに攻め上って包囲しました。ギレアドのヤベシュはイスラエルの北東に位置し、マナセ族とガド族のちょうど境界線上にある無力な町でした。巻末の地図4を御覧ください。ヨルダン川の東の「ガド」と書かれた上にヤベシュという町を確認することができます。そのさらに東にアンモンがございます。首都は、「ラバ」です。「ラバト・アンモーン」と呼ばれることもあります。

余談ですが、ラバト・アンモーンという名前の意味は(アンモン人の大いなる町)という意味です。現在この町は、ヨルダンの首都で「アンマン」と呼ばれていますから、現在のアンマンは、アンモン人から由来していると考えられます。聖書の中に出てくるアンモン人とモアブ人はロトの娘の子らであり、イスラエルからは遠い親戚にあたるために、そのためカナンの征服の際には、モアブとアンモンの土地を侵入しないように配慮しました。ヨルダン川の東岸からさらに東のアンモンの国境までの土地は、本来カナン人が住んでいて、イスラエルがカナン人の土地を征服した時にイスラエルの領土となりましたが、アンモン人ナハシュはヨルダン川まで自国の領土を広げようとして、西に攻め上ってきたということです。ギレアドのヤベシュの全住民は、「我々と契約を結んでください。我々はあなたに仕えます」と言いました。

ところが蛇のように賢いナハシュは、足元を見ながら「お前たちと契約を結ぼう。ただし、お前たち全員の右目をえぐり出すのが条件だ。それをもって全イスラエルを侮辱しよう」と言ってきました。歴史家のヨセフスによれば、当時、右目をえぐり取ると言うのは、戦闘能力を大幅に低下させるということだそうです。なぜなら、普通兵士は左手で盾を持つために左目が隠され、右目を頼りにして戦うからです。左目を残すというのは、農業に従事するのには差し支えないようにして、奴隷として働かせ、年貢をたくさん受け取るためであったと言っています。弱みに付け込まれたヤベシュの長老たちは、「七日間の猶予をください。イスラエルの全土に使者を立てます。救ってくれる者がいなければ、我々はあなたのもとへ出て行きます。」と願い出ました。戦況を完全に把握していたナハシュは、その申し出を承諾しました。ナハシュは、まとまりのないイスラエルから援軍など来るはずがないと踏んでいたのです。ナハシュの目には、イスラエル人というのは王も立てられていない、秩序もない、ただ、それぞれが自分の好きなことをしているだけだというふうに、映っていたのでしょう。確かに援軍の可能性は皆無ではありましたが、サウルのいるギブアは、もしかしたら援軍の要請に応えてくれるかもしれませんでした。というのは、少し前にサウルはイスラエルの王として立てられたからです。さらに言うと、ベニヤミン族とギレアドのヤベシュの住民は親戚関係にあたるからです。先週も紹介しましたが、レビ人の側目をベニヤミンの男たちが集団で犯し、殺してしまった事件を通して、イスラエルに内戦が勃発するのですが、それを機にベニヤミン族とヤベシュの住民は親戚関係になりました。士師記20:4~9(p416)を御覧ください。

“殺された女の夫であるレビ人はこう答えた。「ベニヤミンのギブアに来て、わたしは側女と共に宿をとっておりました。ギブアの首長たちがわたしに向かって来て、夜、わたしの泊まった家を取り囲み、わたしを殺そうとし、側女を辱めて死に至らせたのです。わたしは側女をつかみ、その体を切り離して、イスラエルの嗣業の全耕地に送りました。彼らがイスラエルの中で極悪非道なことをしたからです。あなたたちイスラエルのすべての人々よ。ここで話し合って協議していただきたい。」すべての民は一人の人のように(כְּאִ֥ישׁ אֶחָ֖ד  ケイーシュ エクァド)立ち上がり、こう言った。「我々はだれも自分の天幕に帰らず、だれも家に戻らない。我々が今、ギブアに対してなすべきことはこうだ。ギブアに対してまずくじを引いて攻め上ろう。”

このようにしてイスラエルにおいて内戦が始まり多大な犠牲を払いながらも、ベニヤミンを倒すことに成功します。ところが気づいてみると、約2万6千人いたベニヤミン族が、女は全員殺され、男の生存率もわずか2%に過ぎない600名ほどになってしまいました。そのような中でギレアドのヤベシュから出兵されていなかったという不正が明らかになり、400名の処女を残してヤベシュの住民を全員殺してしまいます。そして残された400人の処女がベニヤミン族の男にあてがわれたのです。士師21:9~14を御覧ください。

“民の数が調べられたとき、ギレアドのヤベシュの住民は一人もそこにいなかったことが分かった。共同体は一万二千人の兵を派遣することにし、彼らにこう命じた。「行って、ギレアドのヤベシュの住民を女や子供に至るまで剣にかけよ。これがあなたたちのなすべきことである。男はもとより、男と寝たことのある女もすべて滅ぼし尽くさなければならない。」彼らはこうして、ギレアドのヤベシュの住民の中に男と寝たことのない処女の娘四百人を見いだし、カナンの地にあるシロの陣営に連れ帰った。全共同体は、リモンの岩場にいるベニヤミンの人々に使者を送って和解を呼びかけた。ベニヤミンがこのとき帰って来たので、彼らはギレアドのヤベシュの女たちの中で生かしておいた娘たちをベニヤミンの人々に与えた。しかし、まだ足りなかった。”

どこか、サムエル記11章と類似点があるように見えます。とにかく、このような訳でベニヤミン族は、母方がヤベシュの住民ということになり、サウルとヤベシュの住民は親戚関係にあたるのです。しかし、サウルのいるギブアの人々も事の次第を聞いて、ただただ、泣くだけで実際に動いてくれる人はいませんでした。そんな中、サウルが牛を追って畑仕事から帰ってきます。サムエル記に戻りまして11:5~7を御覧ください。

“そこへ、サウルが牛を追って畑から戻って来た。彼は尋ねた。「民が泣いているが、何事か起こったのか。」彼らはヤベシュの人々の言葉を伝えた。それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。「サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。」民は主への恐れにかられ、一丸(כְּאִ֥ישׁ אֶחָ֖ד  ケイーシュ エクァド、一人の人のように)となって出陣した。”

サウルに神の霊が激しく降り、怒りに燃え上がりました。そしてその後に、士師記20章を思い起こさせるような行動をとります。そして注目すべきことは、イスラエルの民全体が「一人の人のように」出陣したということです。サウルの軍隊はヤベシュの使者に告げました。“ギレアドのヤベシュの人々にこう言うのだ。『明日、日盛りのころ、あなたがたに救いが来る。』”

この言葉を携えて、使者は急いで戻ると、ヤベシュの人々の悲しみは取り去られ、喜びに満たされました。10~11節を御覧ください。

“10ヤベシュの人々は言った。「明日、我々はあなたたちのもとに出て行きます。よいようにしてください。」(この、「あなたたちのもとに出て行きます」という言葉の裏側には、救いをもたらす援軍が出撃しますという意味が隠されています。)11翌日、サウルは民を三つの組に分け、朝の見張りの時刻にアンモン人の陣営に突入し、日盛りのころまで彼らを討った。生き残った者はちりぢりになり、二人一緒に生き残った者はいなかった。”

こうして、サウルは王として大勝利を治めました。ところが、戦において一つにまとまっていた民は、戦争が終わったとたんに、少し前、裕福な勇士とならず者に二つに分裂していたことを思い出します。そして“『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します。”とサムエルに迫りました。これに対しサウルとサムエルは答えます。13~14節を御覧ください。

“しかし、サウルは言った。「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから。」サムエルは民に言った。「さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。」”

サウルは、王としてふさわしい寛容さを民に示し、「勝利をもたらしたのはヤハウェなる神さまである」と正しく告白することができました。アンモンとの戦いにおいてサウルに霊が激しく降り、まさに士師たちを思わせるような戦いぶりを見せて王としての資格を証明したのです。しかし聖書をよく見ると士師たちと異なる点が一つだけございます。それは、士師たちにも主の霊が降りました。例えばオトニエルに一回、ギデオンに一回、エフタに一回、サムソンに四回降ります。ところが興味深いことに、サウルにはなぜか、「主の霊 רֽוּחַ־יְהוָה 」ではなく、「神の霊רֽוּחַ־אֱלֹהִים」が降っています。神もヤハウェも同じではないかと思われるかもしれませんが、ダビデの場合は、また「主の霊」に戻るのです。一か所ずつ見てみましょう。士師記11:29とサムエル記上16:13を御覧ください。

“主の霊(ヤハウェの霊)がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。”

サムエル記16:13を御覧ください。

“サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。”

なぜか、サウルに対しては決まって「神の霊」が臨み、その度にサウルは精神的に、異常な情緒を持つようになるのです。ついでにサムエル記16:23を見てみましょう。

“神の霊(רֽוּחַ־אֱלֹהִים ルアフエロヒーム)がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。”

そしてもう一つ見逃すことができないのは、また、11:7に戻りますが、民に対して「主への恐れ」に満たされたということです。歴代誌下14:13には次のような記事があります。そのままお聞きください。

“彼ら(アサ王とイスラエルの軍隊)は、またゲラルの周辺にあるすべての町をも撃った。主への恐れが彼らを襲ったからである。彼らはそのすべての町で略奪をほしいままにした。そこには奪い取れるものが多かったからである。”

主に対する恐れが民全体に臨み、まさに「一人の人のように」なってアンモン人と戦ったということです。結局、ギレアドのヤベシュにもたらされた救いは、主に対する恐れが民全体に臨んだためであると結論づけられるのです。

サウルは、実はその辺のところをよくよく理解していたのかもしれません。今回のアンモン人との戦いの勝利は、外からの霊の尋常ではない熱情と、そして団結して戦った民のおかげであるということです。「今日は誰も殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから」という言葉は、一見、士師の発言を思い起こさせ、大変宗教的ではありますが、同時に極めて政治的で現実主義であるサウロの一面をも表わしているとも言えるのです。

結論

たとえ王政が導入されたとしても王によって救いがもたらされるのではありません。神とイスラエルの契約の関係はそのまま持続され、救いは主から来るのです。それは永遠の真理でありました。だとするなら、そもそも11:1のギレアドのヤベシュの言葉こそ問題視しなければなりません。彼らは迫りくるアンモン人に対し、何と言ったのでしょうか。

“我々と契約を結んでください。我々はあなたに仕えます”

そもそもイスラエルはヤハウェなる神と契約を結んでいる民です。すでにヤハウェに仕える身でありました。彼らは直接神に叫び求めるべきだったのです。契約の民、ヤハウェにとって宝の民でありながら異教の民と契約を結ぶと主の御前で軽々しく言っています。これを聞いた神さまはおそらく悲しまれたことでしょう。幸いにもナハシュは右目をえぐり取り、全イスラエルの侮辱としてから契約を結んでやると言ったために、ヤベシュの民は異教の民と契約を結ぶことは免れたのでした。憐み深い神は、このように常に背信する民に向かって、ギルガルにおいてさらに契約を更新してくださるのであります。この契約更新とは、イスラエルの王政導入、それ自体を、これまであった神とイスラエルの契約を破る行為とは解釈しないということです。憐みによって、王をイスラエルという契約共同体の一員に引き込む仕方によって、イスラエルが神を捨てたとは見做さないという意味であります。罪を犯す民に神さまご自身から近寄ってきてくださる恵みをもう一たび覚えてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사울왕의 자격과 증명

2019년 10월 27일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 11장 1~15절

서론

럭비 월드컵에서 일본은 16강에 진출했지만 아쉽게도 8강에서 탈락하고 말았습니다. 이번 일본팀의 특징은 뭐니뭐니해도 'One team'이라는 말에 나타나는데, 오늘 부분도 One team이 되어 승리를 거머쥐는 내용입니다. 하지만 무대 배경을 보면 더 큰 주제가 보입니다. 그 큰 주제라고 하는 것은 11,12장에 걸쳐 쓰여져 있는 왕정의 도입입니다. 이스라엘에 드디어 여호와 앞에서 왕정이 도입되고 사울이 초대 왕으로 세워지는 의식에 대해 쓰여져 있습니다. 그러나 왕정이 도입된다고 해도 그것은 주변 국가들과 같은 왕정이 아니라 이스라엘의 독특한 것이었습니다. 즉 왕정과 한 세트로 하나님께서 직접 부르신 선지자라는 직무가 세워집니다. 선지자는 제사장이나 왕처럼 세습제가 아니라 하나님께서 직접 부르신 사람이고 이스라엘 왕은 이 선지자를 통해 하나님의 뜻을 묻고 구해야 하며 말씀을 항상 곁에 두어야 했습니다. 따라서 이스라엘 위에는 지금까지와 전혀 변하지 않고 하나님이라는 진정한 왕이 통치하고 계시기 때문에 착각해서는 안 되는 것은 세워진 왕이 이스라엘 백성을 전쟁에서 구원하는 것이 아니라 하나님이 이스라엘을 전쟁에서 구원해 주신다는 것입니다. 사무엘은 왕정의 도입에 있어서 그것을 특히 강조했습니다. 10장 18절을 보세요.

이스라엘 자손에게 이르되 이스라엘 하나님 여호와께서 이같이 말씀하시기를 내가 이스라엘을 애굽에서 인도하여 내고 너희를 애굽인의 손과 너희를 압제하는 모든 나라의 손에서 건져내었느니라 하셨거늘

그래서 세워진 왕은 어디까지나 백성의 대표로서 하나님을 섬기고 하나님께 순종해야 한다는 것입니다. 지금까지의 신정정치에 새로운 왕정정치가 접목된 형태입니다.

본론

미스바 집회에서 사울이 제비뽑기에 의해 공식적으로 왕으로 세워졌지만 사울은 아직 정치적으로도 무명이었고 사무엘과 같은 지도자로서의 지위는 확립되지 않았습니다. 그런 가운에 암몬 사람 나하스가 올라와서 길르앗 야베스에 맞서 진을 쳤습니다. 길르앗 야베스는 이스라엘 북동쪽에 위치한 므낫세족과 갓족속의 딱 경계선상에 있는 무력한 마을이었습니다. 성경의 권말 지도 4를 보세요. 요단 강 동쪽의 「갓」이라고 적힌 위에 야베스라는 마을을 확인할 수 있습니다. 그보다 동쪽에 암몬이 있습니다. 수도는 「랍바」이며 「랍바 암몬」으로 불리워지기도 합니다.

여담이지만 랍바 암몬이라는 이름의 뜻은 (암몬 사람의 큰 마을) 이라는 뜻입니다. 현재 이 마을은 요르단의 수도로 암만이라고 불리고 있기 때문에 현재 암만은 암몬 사람에서 유래한 것으로 보입니다. 성경 속에 나오는 암몬 사람과 모압 사람은 롯의 딸의 아들들이며 이스라엘의 먼 친척에 해당하기 때문에 가나안 정복 시 모압과 암몬 땅을 침입하지 않도록 배려했습니다. 요단 강 동쪽 해안에서 더 동쪽 암몬 국경까지의 땅은 원래 가나안인이 살고 있었고 이스라엘이 가나안인의 땅을 정복했을 때 이스라엘 땅이 되었지만 암몬 사람 나하스는 요단 강까지 자국 영토를 넓히려 서쪽으로 쳐들어왔다는 것입니다. 길르앗 야베스의 모든 사람들은 나하스에게「우리와 언약하자 그리하면 우리가 너를 섬기리라」라고 말했습니다.

그런데 뱀과 같이 교활했던 나하스는 약점을 잡았다고 생각하여 「내가 너희 오른 눈을 다 빼야 너희와 언약하리라 내가 온 이스라엘을 이같이 모욕하리라」라고 말해 왔습니다. 역사가 요세푸스에 따르면 당시 오론 눈을 도려낸다는 것은 전투능력을 크게 떨어뜨린다는 것입니다. 왜냐하면 보통 병사들은 왼손으로 방패를 들기 위해 왼쪽 눈이 가려지고 오른 눈을 의지해 싸우기 때문입니다. 왼쪽 눈을 남긴다는 것은 농업에 종사하는 데 지장을 주지 않도록 하고 노예로 일하게 하여 年貢을 많이 받기 위해서였다고 합니다. 약점을 잡힌 야베스의 장로들은 「우리에게 이레 동안 말미를 주어 우리가 이스라엘 온 지역에 전령들을 보내게 하라 만일 우리를 구원할 자가 없으면 네게 나아가리라」라고 말했습니다. 전황을 완전히 파악하고 있던 나하스는 그 제안을 승낙했습니다. 나하스는 어수선한 상황의 이스라엘에서 원군이 올 리 없다고 계산했기 때문입니다. 나하스의 눈에는 이스라엘 사람이라는 것은 왕도 세워지지 않았고 질서체계도 없고 다만 각자가 좋아하는 일을 하고 있을 뿐이라는 식으로 비쳐져 있었을 것입니다. 물론 원군의 가능성은 전무했지만 사울이 있는 기브아는 어쩌면 원군의 요청에 응해 줄지도 모릅니다. 왜냐하면 얼마 전 사울은 이스라엘의 왕으로 세워졌기 때문입니다. 게다가 베냐민족과 길르얏 야베스의 주민은 친척 관계에 해당하기 때문입니다. 지난주에도 소개했지만 레위인의 첩을 베냐민 남자들이 집단으로 윤간하고 죽여버린 사건을 통해 이스라엘에 내전이 발발하는데 이를 계기로 베냐민족과 야베스 사람들은 친척 관계가 되었습니다. 사사기 20장 4~9절을 참조하시기 바랍니다.

4 레위 사람 곧 죽임을 당한 여인의 남편이 대답하여 이르되 내가 내 첩과 더불어 베냐민에 속한 기브아에 유숙하러 갔더니

5 기브아 사람들이 나를 치러 일어나서 밤에 내가 묵고 있던 집을 에워싸고 나를 죽이려 하고 내 첩을 욕보여 그를 죽게 한지라

6 내가 내 첩의 시체를 거두어 쪼개서 이스라엘 기업의 온 땅에 보냈나니 이는 그들이 이스라엘 중에서 음행과 망령된 일을 행하였기 때문이라

7 이스라엘 자손들아 너희가 다 여기 있은즉 너희의 의견과 방책을 낼지니라 하니라

8 모든 백성이 일제히 일어나 이르되 우리가 한 사람도 자기 장막으로 돌아가지 말며 한 사람도 자기 집으로 들어가지 말고

9 우리가 이제 기브아 사람에게 이렇게 행하리니 곧 제비를 뽑아서 그들을 치되

이렇게 이스라엘에서 내전이 시작되어 막대한 희생을 치르면서도 베냐민족속을 쓰러뜨리는 데 성공합니다. 그런데 알고 보니 약 2만 6천 명이던 베냐민족의 여자는 모두 죽임을 당했고 남자의 생존율도 불과 2%에 불과한 육백 명 정도가 되고 말았습니다. 그런 가운데 길르앗 야베스에서 출병되지 않았다는 비리가 드러나 사백 명의 처녀를 남기고 야베스 주민들을 모두 죽이고 맙니다. 그리고 남겨진 사백 명의 처녀들이 베냐민족의 남자에게 주어진 것입니다. 사사기 21장 9~14절을 참조하시기 바랍니다.

9 백성을 계수할 때에 야베스 길르앗 주민이 하나도 거기 없음을 보았음이라

10 회중이 큰 용사 만 이천 명을 그리로 보내며 그들에게 명령하여 이르되 가서 야베스 길르앗 주민과 부녀와 어린 아이를 칼날로 치라

11 너희가 행할 일은 모든 남자 및 남자와 잔 여자를 진멸하여 바칠 것이니라 하였더라

12 그들이 야베스 길르앗 주민 중에서 젊은 처녀 사백 명을 얻었으니 이는 아직 남자와 동침한 일이 없어 남자를 알지 못하는 자라 그들을 실로 진영으로 데려오니 이 곳은 가나안 땅이더라

13 온 회중이 림몬 바위에 있는 베냐민 자손에게 사람을 보내어 평화를 공포하게 하였더니

14 그 때에 베냐민이 돌아온지라 이에 이스라엘 사람이 야베스 길르앗 여자들 중에서 살려 둔 여자들을 그들에게 주었으나 아직도 부족하므로

어딘가 사무엘상 11장과 유사점이 있어 보입니다. 어쨌든 이런 연유로 베냐민족은 모계가 야베스 사람이라는 것이 되고 사울과 야베스 사람들은 친척 관계에 해당하는 것입니다. 그러나 사울이 있는 기브아 사람들도 일의 사정을 듣고 그저 소리를 높여 울기만 하지 실제로 움직여 주는 사람은 없었습니다. 그러던 중 사울이 밭에서 소를 몰고 옵니다. 사무엘상으로 돌아가서 11장 5~7절을 보시기 바랍니다.

5 마침 사울이 밭에서 소를 몰고 오다가 이르되 백성이 무슨 일로 우느냐 하니 그들이 야베스 사람의 말을 전하니라

6 사울이 이 말을 들을 때에 하나님의 영에게 크게 감동되매 그의 노가 크게 일어나

7 한 겨리의 소를 잡아 각을 뜨고 전령들의 손으로 그것을 이스라엘 모든 지역에 두루 보내어 이르되 누구든지 나와서 사울과 사무엘을 따르지 아니하면 그의 소들도 이와 같이 하리라 하였더니 여호와의 두려움이 백성에게 임하매 그들이 한 사람 같이(כְּאִ֥ישׁ אֶחָ֖ד 케이슈 에쿼드)나온지라

사울에게 하나님의 영이 크게 감동되매 그의 노가 크게 일어났습니다. 그리고 그 후에 사사기 20장을 떠올리게 하는 행동을 취합니다. 그리고 주목할 만한 것은 이스라엘 백성 전체가 「한 사람 같이」출전했다는 것입니다. 사울의 군대는 야베스의 전령들에게「내일 해가 더울 때에 너희가 구원을 받으리라」라고 말했습니다.

이 말을 가지고 전령이 급히 돌아오자 야베스 사람들의 슬픔은 사라지고 기쁨으로 가득 찼습니다. 10,11절을 보세요.

10 야베스 사람들이 이에 이르되 우리가 내일 너희에게 나아가리니 너희 생각에 좋을 대로 우리에게 다 행하라 하니라

11 이튿날 사울이 백성을 삼 대로 나누고 새벽에 적진 한가운데로 들어가서 날이 더울 때까지 암몬 사람들을 치매 남은 자가 다 흩어져서 둘도 함께 한 자가 없었더라

이렇게 사울은 왕으로서 대승리를 거두었습니다. 그런데 전쟁에서 하나로 뭉쳤던 백성들은 전쟁이 끝나자마자 얼마전 유력한 자와 불량배로 둘로 갈라졌던 기억이 납니다. 그러면서 「사울이 어찌하여 우리를 다스리겠느냐 한 자가 누구니이까 그들을 끌어내소서 우리가 죽이겠나이다」라고 사무엘에게 다그쳤습니다. 이 말에 대해 사울과 사무엘은 대답합니다. 13,14절을 보시기 바랍니다.

13 사울이 이르되 이 날에는 사람을 죽이지 못하리니 여호와께서 오늘 이스라엘 중에 구원을 베푸셨음이니라

14 사무엘이 백성에게 이르되 오라 우리가 길갈로 가서 나라를 새롭게 하자

사울은 왕으로서 합당한 관용을 백성들에게 보여주며 「여호와께서 오늘 이스라엘 중에 구원을 베푸셨음이니라」라고 올바르게 고백할 수 있었습니다. 암몬과의 싸움에서 사울에게 하나님의 영이 크게 임하여 그야말로 사사들을 연상케 하는 싸우는 모습을 보여 왕으로서의 자격을 증명한 것입니다. 그러나 성경을 자세히 보면 사사들과 다른 점이 하나 있습니다. 그것은 사사들에게도 여호와의 영이 임했습니다. 예를 들어 옷니엘에게 한 번, 기드온에게 한 번, 입다에게 한번, 삼손에게 네 번 임합니다. 그런데 흥미롭게도 사울에게는 「여호와의 영רֽוּחַ־יְהוָה」이 아니라 「하나님의 영רֽוּחַ־אֱלֹהִים」이 내렸습니다. 하나님이나 여호와나 마찬가지가 아닐까 생각하실지 모르지만 다윗의 경우는 다시 「여호와의 영」으로 돌아갑니다. 한 군데씩 살펴 봅시다. 사사기 11장 29절과 사무엘상 16장 13절을 참조하십시오.

사사기 11장

29 이에 여호와의 영이 입다에게 임하시니 입다가 길르앗과 므낫세를 지나서 길르앗의 미스베에 이르고 길르앗의 미스베에서부터 암몬 자손에게로 나아갈 때에

사무엘상 16장

13 사무엘이 기름 뿔병을 가져다가 그의 형제 중에서 그에게 부었더니 이 날 이후로 다윗이 여호와의 영에게 크게 감동되니라 사무엘이 떠나서 라마로 가니라

웬일인지 사울에 대해서는 으레 「하나님의 영」이 임하게 되고 그때마다 사울은 정신적으로 비정상적인 정서를 갖게 되는 것입니다. 내친김에 사무엘상 16장 23절을 보겠습니다.

하나님께서 부리시는 악령 (직역하면 하나님의 영 רֽוּחַ־אֱלֹהִים 루아흐 엘로임)이 사울에게 이를 때에 다윗이 수금을 들고 와서 손으로 탄즉 사울이 상쾌하여 낫고 악령이 그에게서 떠나더라

그리고 또 한 가지 놓칠 수 없는 것은 다시 11장 7절에 돌아와보면 백성들에게 「여호와의 두려움」이 임했다는 것입니다. 역대기하 14장 13,14절에는 다음과 같은 기사가 있습니다. 그대로 들어보시죠.

13 아사와 그와 함께 한 백성이 구스 사람들을 추격하여 그랄까지 이르매 이에 구스 사람들이 엎드러지고 살아 남은 자가 없었으니 이는 여호와 앞에서와 그의 군대 앞에서 패망하였음이라 노략한 물건이 매우 많았더라

14 여호와께서 그랄 사면 모든 성읍 백성을 두렵게 하시니 무리가 그의 모든 성읍을 치고 그 가운데에 많은 물건을 노략하고

여호와에 대한 두려움이 모든 성읍 백성을 두렵게 하시니 바로 「한 사람 같이」되어 암몬 사람과 싸웠다는 것입니다. 결국 길르앗 야베스에게 가져다 준 구원은 여호와에 대한 두려움이 온 백성에게 임했기 때문이라고 결론 지을 수 있습니다.

사울은 사실 그 바탕에 있는 일을 잘 이해하고 있었을지도 모릅니다. 이번 암몬 사람과의 싸움의 승리는 외부에서의 영의 예사스럽지 않은 임함과 그리고 단결하여 싸운 백성들 덕분이라는 것입니다. 「이 날에는 사람을 죽이지 못하리니 여호와께서 오늘 이스라엘 중에 구원을 베푸셨음이니라」라는 말은 언뜻 사사의 발언을 상기시켜 매우 종교적이지만 동시에 지극히 정치적이고 현실주의적인 사울의 일면도 나타낸다고 할 수 있습니다.

결론

비록 왕정이 도입되었다고 해도 왕에 의해 구원이 오는 것은 아닙니다. 하나님과 이스라엘의 언약관계는 그대로 지속되며 구원은 여호와로부터 오는 것입니다. 그것은 영원한 진리였습니다. 그렇다면 애초에 11장 1절의 길르앗 야베스의 말이야말로 문제 삼아야 합니다. 그들은 쳐들어 온 암몬 사람에게 무엇이라고 말했습니까?

.. 우리와 언약하자 그리하면 우리가 너를 섬기리라..

원래 이스라엘은 여호와되신 하나님과 언약을 맺고 있는 백성입니다. 이미 여호와를 섬기는 몸이었습니다. 그들은 직접 하나님께 부르짖어야 했습니다. 언약의 백성, 여호와에게 보화같은 백성임에도 이교의 백성과 언약을 맺겠다고 여호와 앞에서 가볍게 말하고 있습니다. 이 말을 들으신 하나님은 아마 슬퍼하셨을 것입니다. 다행히 나하스는 오른 눈을 도려내어 전 이스라엘에게 모욕을 주겠다고 했기 때문에 야베스의 사람들은 이교 백성들과 언약을 맺는 것을 면했습니다. 긍휼하심이 깊은 하나님은 이처럼 항상 배신하는 백성을 향해 길갈에서 언약을 갱신해 주시는 것입니다. 이 언약갱신이란 이스라엘의 왕정도입, 그 자체를 기존에 있었던 하나님과 이스라엘의 언약을 깨는 행위로 해석하지 않으신다는 것입니다. 긍휼하심으로 왕을 이스라엘이라는 언약 공동체의 일원으로 도입하는 방식으로 이스라엘이 하나님을 버렸다고 볼 수 없다는 뜻입니다. 죄를 범한 백성들에게 하나님 스스로 다가와 주시는 은혜를 다시 한 번 기억해 봅시다.

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