2026年02月15日「御子があなたがたを自由にする 아들이 너희를 자유롭게 하면」

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御子があなたがたを自由にする 아들이 너희를 자유롭게 하면

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章30節~36節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
8:32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
8:33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
8:34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
8:35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
8:36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章30節~36節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる(8:24)」と主イエスは言われました。イエス様は仮庵の祭りの終わりの日に、御自身が生ける水の源であり、そして御自身が真の光であることを主張された後、旧約聖書でヤハウェの名で知られた神「わたしはある」とは、まさに御自身のことであるということを厳かに主張されました。本日の箇所においても、その主張は一貫されています。つまり御自身が天から遣わされた真理であり、真理がもたらす自由について語っていかれます。本日も仮庵の祭りで語られたイエス様のメッセージに耳を傾けつつ、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 真理とは

実は本日の箇所の解釈をめぐり注解者の間で、頭を悩ませている問題があります。それは、30節と31節でイエス様の御言葉を信じた人々が、この後読み進めて行くと彼らに信仰がなかったということが明らかにされる点です。44節では「あなた方は悪魔である父から出た者である」と断言されています。この問題をどのように解釈したらいいのか意見が分かれていまして、ある人は、30節、31節で「信じた」というのは、一時の信仰であり、それは御言葉に留まる真の信仰ではなかったと解釈します。そのことが後で暴露されていったというふうに考えるのです。しかし、そもそも、その信仰というのは彼らが奇跡を見て生じたのではなく、イエス様の御言葉を聞いている中で生じたものでありました。その御言葉を聞いて生じた信仰を偽りの信仰と決めつけるのは果たしてどうなのかという反論もあります。ですから、ある人は、イエス様の敵対勢力である「ユダヤ人たち」の中に、わずかでありますが信じる人々が起こされつつあって、その信仰の萌芽の一部が描写されていると解釈します。イエス様の十字架と復活の後に、聖霊降臨によって信じるようになる民をあらかじめ予見しながら、語られているというふうに考えます。私もこの意見に賛成です。ですから本日の箇所は、私たちは後者の意見に立ちながら、聖書を読み進めていきたいと思います。31~32節をご覧ください。

“イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」”

イエス様を信じる人は、御言葉に聞き、御言葉を心に留め、御言葉への従順へと導かれ、真理を知る者とされますが、これらは全て聖霊の御業であります。聖霊の恵みによって御言葉に聞き、聖霊の恵みによって御言葉を心に留め、聖霊の恵みによって御言葉への従順へ導かれ、真理を知る者とされるのです。それでは、「真理」とか「自由」など抽象的な言葉が出てきますが、それらが一体何なのかということを少し深掘りしながら考えてみたいと思います。

最初に「真理」という言葉ですが、ギリシア語では単数形の「真理(アレテイア)」という言葉が用いられています。聖書において真理という言葉は、人間の考えや判断の正しさとか、道理を言っているのではありません。1+1=2であるとか、物を上に投げても必ず地球の万有引力によって下に落ちてくるというような物理法則を言っているのではありません。聖書において「真理」とは、どんなに時間が経過しても、いくら置かれている前提が変化しても、延いては天変地異が起こったとしても、決して変わることのないものであります。それはつまり、「わたしはある」といわれるお方そのものであられ、人格を持たれた神のロゴスであり、御父のもとにおられる御子であると聖書は語っています。ヨハネの福音書1:17をご覧ください。

“律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。”

この真理であられるお方が、私たちのために肉を取られ、処女マリアより生まれ、神の啓示として私たちに現れてくださったのであります。

【2】. 自由とは

次に「自由」という言葉ですが、「自由」というこの言葉の響きは、私たちに大変魅力的に聞こえてきます。しかし、今日はっきりさせなければならないことは、自由とは決して「したいことを何でもすることができる」という意味ではないということです。自由とは、罪から離れて自由になる。悪い習慣、悪い思考方式、過去のトラウマなどから離れる。そこから自由になる。さらに言えば、神様の御心に従って生きるようになるという意味であります。ですから聖書から離れ、一人歩きしている「真理はあなたたちを自由にする」という言葉には、少し注意しなければなりません。「真理はあなたたちを自由にする」この巷にあふれ、教会の外で頻繁に用いられている言葉ですが、例えば国立国会図書館のカウンターの所にも刻まれています。恐らく「正しい知識は、あなた方の知見を広げ、あなた方を解放する」という意味合いなのでしょうが、このような解釈は17世紀の啓蒙主義の思想によってもてはやされました。しかし聖書が言わんとしているのは、そういう意味ではありません。聖書で語られている本来の意味は「真理(御子)があなた方を自由にする」ということです。そこには人間が罪と死の支配に縛られているという現実が前提としてあります。そして御子が罪人の代わりに十字架に掛かってくださるということが前提とされているのです。続いて33節をご覧ください。

“すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」”

彼らはイエス様に答えました。ここで「彼ら」というのは、既にイエス様の御言葉を信じた人々ではなく、群衆の中の、まだ信じていなかった人たちであると理解してください。イスラエルの民は、過去に、エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシア、ローマの支配下に置かれました。特にエジプトでは泥につかりながら煉瓦造りをさせられました(出1:14)。恐らく、ここではそのように政治的に主権が奪われたことについて、彼らがそのことを忘れてしまったということではなく、彼らの持っているアイデンティティについて主張しているものと思われます。つまりアブラハムの血統を引く自分たちは、どんな状況に置かれたとしても、究極的には神の守りの中に置かれているということを主張しているのです。確かに彼らには律法が与えられていました。そのことに優越感を持ち、「我々は異邦人のように律法の外に置かれている民ではない!」「我々は『律法を与えられた民』であり、『アブラハムの子孫』である。」「先祖アブラハムの成し遂げた功績のゆえに、我々は選民なのだ!モーセに与えられた律法のゆえに、我々は自由なのだ!」、そう主張しているのです。ところが、それに対しイエス様は次のように答えられました。34~36節です。

“イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。”

この時、イエス様は「はっきり言っておく」「アーメン、アーメン、レゴ、ヒューミン」という言葉を用いられました。いつものように大切な事柄をこれから話し始められるということです。ここでは大変重要な事柄が語られています。イエス様は奴隷という概念を、政治的概念ではなく、そしてイスラエルのアイデンティティという概念でもなく、罪の縛りという角度から光を当てられました。もし、自分に罪があるということを認めるなら、既にあなた方は自由ではない、縛られている、と言っているのです。この言葉には誰も反論することは出来ないでしょう。この世で罪を持たないお方は、主イエス以外におられません。アダムの子孫である人間は誰しも、罪人なのであり、罪と死の縄目に縛られている奴隷なのであります。私たちが、聖書の言う「自由」を手に入れるためには、必ず自らの罪の問題を直視しなければならないのです。信仰と悔い改めはコインの裏表であり、信仰に進む者は、必ず自らの罪を直視しなければならないのであります。自分には罪があること、自分は罪の奴隷であることを、まず認めなければならないのです。

ここで人間の自由について、宗教改革者のルターの考えを少し紹介いたします。ルターは、人間とは仕えるために神様によって創造されたと主張しました。そして、私たち人間を一頭の馬として例えながら、人間の意志について解説しました。馬の意志と馬の行動は騎手の思いによって制限されることになります。その騎手は神様である場合もあり得ますが、悪魔である場合もあり得ます。ルターによれば人間が自由になるということは、馬の騎手が、悪魔から神様に交換させられることだと主張するのです。これは大変興味深い考え方だと思います。ルターの考え方の背景には、果たして「人間が完全に自分の望むままに生きることが出来るのだろうか?」「人間が自律して自らの歩みを律して行くことが出来るだろうか?」という問いがありました。そしてルターの答えは、「否」「No!」であると言うのです。「自律した人間」というのは、啓蒙主義によって作り出された幻に過ぎず、虚像に過ぎない。自律した人間など存在しない。そもそも人間は「神に仕えるために創造された」のであって、主人として悪魔を迎え入れるのか、主人として御子を迎え入れるのか、二つに一つなのだと主張するのです。使徒パウロもルターと大変近いことを語っています。パウロは自分のことを「主の奴隷」であると紹介しているからです。ローマの手紙1:1をご覧ください。

“キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――”

冒頭に「キリスト・イエスの僕」とありますが、「僕」と訳されているギリシア語は「奴隷」という意味です。パウロはこの「奴隷」という言葉を使いながら、溢れるほどの喜びに満ちて、手紙を書き送っているのです。パウロにおいても、ルターにおいても、自由に対する考えは一致していると言えるでしょう。つまり「自由」とは、好きなことを何でもするということではありません。自由とは、主イエスの僕として、なすべきことを行うことであります。それこそが真の自由なのです。そして今、私たちがなすべきことをすることが、私たちを真に喜ばせるのであります。

【3】. 御子があなた方を自由にする

さて、ヨハネの福音書に戻りまして、35節で「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが」とありますが、「家」とは何でしょうか。家とは父の家であり、神の宮、神の教会であります。奴隷はいつまでも神の宮に居続けることは出来ません。やがて追い出されてしまうでしょう。そうであるなら、罪を犯さないではいられない私たち罪人に、一体どのような希望が残っているのでしょうか。イエス様は続けて言われました。「子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」

このみ言葉にこそ私たちの希望があると思います。ここでは、先ほどの「真理」という言葉が「御子」、すなわちイエス・キリストに置き換えられています。イエス様御自身こそ、永遠に変わらないお方、「わたしはある」というお方、「真理」であると主張されているのです。御子イエスは、いつまでも神の宮に居続けます。神の教会に居続けます。ですから、もし御子が私たちを、罪の支配から贖ってくださり、私たちが悪魔の僕からイエス様の僕とされるなら、すなわち罪の奴隷から義の奴隷とされるなら、私たちは永遠に神の宮、神の教会で生きることができるようにされるのです。神に仕え、教会に仕えて生きるようにされるのです。私たちの、今日、この日の礼拝の中でも、週報に書かれています通り、様々な奉仕がそれぞれの奉仕者に割り当てられていますね。もし、本日の週報に奉仕者として自分の名前が記されていないとしても、皆が賛美を持って仕えているのであり、皆が共に信仰告白をすることによって、祈りを共に合わせることによって、それぞれ神に仕えていると言うことが出来るでしょう。私たち教会は神に仕え、教会に仕えるために呼び集められているのです。このような姿こそが父の家の、神の宮の本来の姿であり、自由とされた共同体の真の姿なのです。玉座には御子が着座されています。御子の十字架によって贖われ、自由とされた民は、互いに仕え、互いに神を賛美し、その美しい時間の中に、生ける水が滾々と湧き出るような恵みが注がれ、神の栄光の輝きが燦燦と照らすような喜びに満ち溢れているのであります。もはや、古いものは過ぎ去り、傷は癒され、トラウマから解放され、私たちの悪い思考方式から自由になり、新しくされた者として私たち教会は、主と共に歩み出すことが出来るのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。キリスト者の自由を考える上で、自由という言葉が普段何気に考えているような啓蒙主義的な概念ではないということを聖書の御言葉から確認しました。私たちはそのような自律的な存在ではありません。むしろ主と共に生きる存在です。ですから「私は自由を得るために召されたのである。私は、かつては奴隷であったが、今は贖われており、私は自分の欲することを行っても構わない。私が自由であるなら、だれもわたしの意志を妨げてはならない」などと、主張してはならないということです。キリスト者の自由とは、主人が入れ替えられたということです。以前は悪魔の僕でしたが、今ではキリストの僕に生まれ変わりました。そうであるなら、キリスト者の自由とは、これ以上、罪を犯す自由ではなく、これ以上、悪い思考方式に陥る自由でもありません。むしろ、主イエスに仕える自由であり、神と教会に仕える自由であり、父の家で永遠に安らぐことのできる自由であります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

아들이 너희를 자유롭게 하면

2026년 2월 15일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 8장 30~36절

서론

「내가 그인 줄 믿지 아니하면 너희 죄 가운데서 죽으리라(마8:24)」라고 주 예수님께서 말씀하셨습니다. 예수님께서는 초막절 마지막 날에, 자신이 생수의 근원이시며 참 빛이심을 주장하신 후, 구약성경에서 여호와라는 이름으로 알려진 하나님, 「나는 스스로 있는 자」가 바로 자신임을 엄숙히 선언하셨습니다. 오늘 본문에서도 그 주장은 일관되게 이어집니다. 즉 자신이, 하늘에서 보내심을 받은 진리이며, 진리가 가져다주는 자유에 대해 말씀하십니다. 오늘도 초막절에 전하신 예수님의 메시지에 귀 기울이며, 함께 말씀의 은혜에 참여하기를 바랍니다.

(1) 진리라는 말은

사실 오늘 본문 해석을 두고 주석가들 사이에 골치를 앓고 있는 문제가 있습니다. 그것은 30절과 31절에서 예수님의 말씀을 믿은 사람들이, 이후 내용을 읽어 나가면 그들에게 믿음이 없었다는 점이 드러난다는 점입니다. 44절에서는「너희는 너희 아비 마귀에게서 났으니」라고 단언하고 있습니다. 이 문제를 어떻게 해석해야 할지 의견이 분분한데, 어떤 이는 30절과 31절에서 「믿었다」는 것은 일시적인 믿음이었으며, 그것은 말씀에 머무르는 참된 믿음이 아니었다고 해석합니다. 그 사실이, 후에 드러났다고 보는 것입니다. 그러나 애초에 그 믿음은, 그들이 기적을 보고 생긴 것이 아니라, 예수님의 말씀을 들으면서 생긴 것이었습니다. 그 말씀을 듣고 생긴 믿음을, 거짓 믿음이라고 단정하는 것이 과연 옳은가 하는 반론도 있습니다. 그래서 어떤 이들은 예수님의 적대 세력인「유대인들」 가운데, 비록 적지만 믿는 사람들이 일어나고 있었고, 그 믿음의 싹이 일부 묘사되고 있다고 해석합니다. 예수님의 십자가와 부활 이후, 성령 강림으로 믿게 될 백성을 미리 내다보시며 말씀하신 것이라고 생각합니다. 저도 이 의견에 동의합니다. 따라서 오늘 본문은, 우리는 후자의 의견에 서서, 성경을 읽어 나가고자 합니다. 31~32절을 보십시오.

31그러므로 예수께서 자기를 믿은 유대인들에게 이르시되 너희가 내 말에 거하면 참으로 내 제자가 되고

32 진리를 알지니 진리가 너희를 자유롭게 하리라

예수님을 믿는 사람은, 말씀에 귀 기울이고, 말씀을 마음에 새기며, 말씀에 대한 순종으로 인도되어 진리를 아는 자가 되지만, 이 모든 것은 성령의 역사입니다. 성령의 은혜로 말씀에 귀 기울이고, 성령의 은혜로 말씀을 마음에 새기며, 성령의 은혜로 말씀에 대한 순종으로 인도되어 진리를 아는 자가 되는 것입니다. 그렇다면,「진리」나 「자유」 같은 추상적인 말들이 나오는데, 그것들이 대체 무엇인지 조금 깊이 파고들며 생각해보고자 합니다.

먼저「진리」라는 단어에 대해 말하자면, 헬라어에서는 단수형인 「진리(알레테이아)」라는 단어가 사용되고 있습니다. 성경에서 진리라는 말은, 인간의 생각이나 판단의 옳음이나, 이치를 말하는 것이 아닙니다. 1+1=2라는 것이나, 물건을 위로 던져도 반드시 지구의 만유인력에 의해 아래로 떨어진다는 물리 법칙을 말하는 것이 아닙니다. 성경에서 「진리'란 아무리 시간이 흘러도, 아무리 놓인 전제가 변해도, 나아가 천재지변이 일어났다고 해도 결코 변하지 않는 것입니다. 그것은 곧 「나는 스스로 있는 자이니라」고 말씀하시는 분, 그 자체이시며, 인격을 지니신 하나님의 로고스이시며, 아버지 안에 계신 아들이라고 성경은 말하고 있습니다. 요한복음 1:17을 보십시오.

요한복음 1장

17 율법은 모세로 말미암아 주어진 것이요 은혜와 진리는 예수 그리스도로 말미암아 온 것이라

이 진리이신 분께서 우리를 위하여 육신을 취하시고 동정녀 마리아에게서 나셔서, 하나님의 계시로 우리에게 나타나셨습니다.

(2) 자유라는 말은

다음으로「자유」라는 단어입니다. 「자유」라는 이 단어의 울림은, 우리에게 매우 매력적으로 들립니다. 그러나 오늘 분명히 해야 할 것은 자유가 결코 「하고 싶은 것을 무엇이든 할 수 있다」는 의미가 아니라는 점입니다. 자유란, 죄에서 벗어나 자유로워지는 것입니다. 나쁜 습관, 나쁜 사고 방식, 과거의 트라우마 등에서 벗어나는 것입니다. 거기서 자유로워지는 것입니다. 더 나아가 말하자면, 하나님의 뜻에 따라 살게 된다는 의미입니다. 그러므로 성경에서 벗어나, 혼자 걸어다니는 「진리가 너희를 자유롭게 하리라」는 말에는 조금 주의해야 합니다. 「진리가 너희를 자유롭게 하리라」는 이 말은, 세상에 넘쳐나고 교회 밖에서 자주 사용되는 말이지만, 예를 들어 국립국회도서관 카운터에도 새겨져 있습니다. 아마도 「올바른 지식은 너희의 지식을 넓히고 너희를 해방시킨다」는 의미일 것입니다. 그러나 이러한 해석은, 17세기 계몽주의 사상에 의해 유행했습니다. 그러나 성경이 말하고자 하는 바는 그런 의미가 아닙니다. 성경에서 말하는 본래의 의미는 「진리(아들)가 너희를 자유롭게 하리라」는 것입니다. 여기에는 인간이, 죄와 죽음의 지배에 얽매여 있다는 현실이 전제로 깔려 있습니다. 그리고 아들이, 죄인을 대신하여 십자가에 달리신다는 것이 전제되고 있는 것입니다. 이어서 33절을 보십시오.

33 그들이 대답하되 우리가 아브라함의 자손이라 남의 종이 된 적이 없거늘 어찌하여 우리가 자유롭게 되리라 하느냐

그들은 예수님께 대답했습니다. 여기서「그들」은, 이미 예수님의 말씀을 믿은 사람들이 아니라, 군중 가운데 아직 믿지 않았던 사람들이라고 이해하십시오. 이스라엘 백성은 과거에 이집트, 앗수르, 바빌론, 페르시아, 로마의 지배 아래 놓였습니다. 특히 이집트에서는 진흙 더미에서, 벽돌을 만들게 되었습니다(출 1:14). 아마도 여기서 그들이 정치적으로 주권을 빼앗긴 일을 잊어버렸다는 뜻이 아니라, 그들이 지닌 정체성에 대해 주장하고 있는 것으로 보입니다. 즉 아브라함의 혈통을 잇는 자신들은 어떤 상황에 놓여도 궁극적으로는 하나님의 보호 안에 있다는 것을 주장하는 것입니다. 확실히 그들에게는 율법이 주어졌습니다. 그 사실에 우월감을 가지고 「우리는 이방인처럼 율법 밖에 놓인 백성이 아니다!」 「우리는 『율법을 받은 백성』이며, 「아브라함의 자손이다.」「조상 아브라함이 이룬 공로로 인해 우리는 선택받은 백성이다! 모세에게 주어진 율법으로 인해 우리는 자유롭다!」그렇게 주장하고 있습니다. 그러나 이에 대해 예수님께서는 다음과 같이 대답하셨습니다. 34~36절입니다.

34예수께서 대답하시되 진실로 진실로 너희에게 이르노니 죄를 범하는 자마다 죄의 종이라

35 종은 영원히 집에 거하지 못하되 아들은 영원히 거하나니

36 그러므로 아들이 너희를 자유롭게 하면 너희가 참으로 자유로우리라

이때 예수님께서는「진실로 진실로 너희에게 이르노니」, 「아멘, 아멘, 레고, 휘민」이라는 말씀을 사용하셨습니다. 평소처럼 중요한 말씀을 이제 시작하시려는 것입니다. 여기서는 매우 중요한 내용이 담겨 있습니다. 예수님께서는 노예라는 개념을 정치적 개념으로도, 이스라엘의 정체성 개념으로도 아닌, 죄의 속박이라는 각도에서 조명하셨습니다. 만약 자신에게 죄가 있다는 것을 인정한다면, 이미 너희는, 자유롭지 않고 속박되어 있다고 말씀하시는 것입니다. 이 말씀에 반박할 수 있는 사람은 아무도 없을 것입니다. 이 세상에서 죄가 없으신 분은 주 예수님 외에는 없으십니다. 아담의 후손인 인간은 누구나 죄인이며, 죄와 죽음의 멍에에 묶인 종인 것입니다. 우리가 성경이 말하는 「자유」를 얻기 위해서는 반드시 자신의 죄 문제를 직시해야 합니다. 믿음과 회개는 동전의 앞뒤와 같아서, 믿음으로 나아가는 자는 반드시 자신의 죄를 직시해야 합니다. 자신에게 죄가 있다는 것, 자신이 죄의 노예임을 먼저 인정해야 합니다.

여기서 인간의 자유에 대해 종교 개혁자 루터의 생각을 조금 소개하겠습니다. 루터는 인간은 섬기기 위해 하나님에 의해 창조되었다고 주장했습니다. 그리고 우리 인간을 한 마리의 말에 비유하며 인간의 의지에 대해 설명했습니다. 말의 의지와 행동은, 기수의 뜻에 의해 제한됩니다. 그 기수는 하나님일 수도 있고, 마귀일 수도 있습니다. 루터에 따르면 인간이 자유로워진다는 것은 말의 기수가 마귀에서 하나님으로 교체되는 것이라고 주장합니다. 이는 매우 흥미로운 생각이라고 생각합니다. 루터의 사고방식 배경에는 과연「인간이 완전히 자신이 원하는 대로 살 수 있을까?」 「인간이 자율적으로 자신의 걸음을 다스려 나갈 수 있을까?」라는 질문이 있었습니다. 그리고 루터의 대답은 「아니오」, 「No!」라고 합니다. 「자율적인 인간」이라는 것은 계몽주의에 의해 만들어진 환상에 불과하며, 허상에 지나지 않는다는 것입니다. 자율적인 인간 같은 것은 존재하지 않는다. 근본적으로 인간은 「하나님을 섬기기 위해 창조된」 존재이며, 주인으로 마귀를 맞이할 것인가, 주인으로 하나님의 아들을 맞이할 것인가, 둘 중 하나라고 주장하는 것입니다. 사도 바울도 루터와 매우 유사한 내용을 말하고 있습니다. 바울은 자신을 「주님의 종」이라고 소개하고 있기 때문입니다. 로마서 1:1을 보십시오.

로마서 1장

1 예수 그리스도의 종 바울은 사도로 부르심을 받아 하나님의 복음을 위하여 택정함을 입었으니

서두에「그리스도의 종」이라고 되어 있는데, 「종」으로 번역된 그리스어는 「노예」라는 의미입니다. 바울은 이 「노예」라는 말을 사용하면서도 넘치는 기쁨으로 편지를 쓰고 보낸 것입니다. 바울에게서도, 루터에게서도 자유에 대한 생각은 일치한다고 할 수 있을 것입니다. 즉 「자유」란 원하는 대로 무엇이든 하는 것이 아닙니다. 자유란 주 예수 그리스도의 종으로서 마땅히 해야 할 일을 행하는 것입니다. 바로 그것이 참된 자유입니다. 그리고 지금 우리가 마땅히 해야 할 일을 행하는 것이 우리를 진정으로 기쁘게 하는 것입니다.

(3) 아들이 너희를 자유롭게 하면

자, 요한복음으로 돌아가서 35절에「종은 영원히 집에 거하지 못하되」라고 되어 있는데, 여기서 「집」이란 무엇일까요? 집은 아버지의 집이며, 하나님의 성전, 하나님의 교회입니다. 종은 영원히 하나님의 성전에 머물 수 없습니다. 결국 쫓겨나게 될 것입니다. 그렇다면 죄를 짓지 않을 수 없는 우리 죄인들에게 과연 어떤 희망이 남아 있을까요? 예수님께서 계속 말씀하셨습니다. 「아들은 영원히 거하나니 그러므로 아들이 너희를 자유롭게 하면 너희가 참으로 자유로우리라」

이 말씀에야말로 우리의 희망이 있다고 생각합니다. 여기서는 아까의 「진리」라는 말이 「아들」, 즉 예수 그리스도로 대체되어 있습니다. 예수님 자신이야말로 영원히 변하지 않으시는 분, 「나는 스스로 있는 자이니라」하시는 분, 「진리」라고 주장되고 계신 것입니다. 아들 예수님은, 영원히 하나님의 성전에 계십니다. 하나님의 교회에 계십니다. 그러므로 만일 아들이, 우리를 죄의 지배에서 구속해 주시고, 우리가 마귀의 종에서 예수님의 종이 된다면, 즉 죄의 종에서 의의 종이 된다면, 우리는 영원히 하나님의 성전, 하나님의 교회에서 살 수 있게 됩니다. 하나님을 섬기고 교회를 섬기며 살게 되는 것입니다. 우리의 오늘, 이 날 예배 속에서도 주보에 기록된 대로 다양한 봉사가 각 봉사자에게 배정되어 있지요. 만약 오늘 주보에 봉사자로 자신의 이름이 기록되지 않았더라도, 모두가 찬양으로 섬기고 있으며, 모두가 함께 신앙 고백을 함으로써, 기도를 함께 합함으로써, 각자 하나님께 섬기고 있다고 말할 수 있을 것입니다. 우리 교회는 하나님을 섬기고 교회를 섬기기 위해 부르심을 받은 것입니다. 이러한 모습이 바로 아버지의 집, 하나님의 성전의 본래 모습이며, 자유롭게 된 공동체의 참된 모습입니다. 보좌에는 아들이 앉아 계십니다. 아들의 십자가로 구속받고 자유롭게 된 백성은, 서로 섬기며 서로 하나님을 찬양하고, 그 아름다운 시간 속에 생수가 솟아나는 은혜가 부어지며, 하나님의 영광의 빛이 찬란히 비추는 기쁨으로 가득 차 있습니다. 이제 옛 것은 지나갔고, 상처는 치유되었으며, 트라우마에서 해방되고, 우리의 나쁜 사고 방식에서 자유롭게 되어 새롭게 된 자로서 우리 교회는 주님과 함께 걸어 나갈 수 있습니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 그리스도인의 자유를 생각함에 있어, 자유라는 말이 평소 무심코 생각하는, 계몽주의적 개념이 아님을 성경 말씀으로 확인했습니다. 우리는 그런 자율적인 존재가 아닙니다. 오히려 주님과 함께 사는 존재입니다. 그러므로 「나는 자유를 얻기 위해 부르심을 받았다. 나는 예전에는 종이었으나 지금은 구속되었으니, 내가 원하는 대로 해도 된다. 내가 자유롭다면 아무도 내 뜻을 막아서는 안 된다」고 주장해서는 안 된다는 것입니다. 그리스도인의 자유란 주인이 바뀌었다는 것입니다. 이전에는 마귀의 종이었으나, 이제는 그리스도의 종으로 거듭났습니다. 그렇다면 그리스도인의 자유란 더 이상 죄를 범할 자유도, 더 이상 악한 사고방식에 빠질 자유도 아닙니다. 오히려 주 예수님을 섬기는 자유이며, 하나님과 교회를 섬기는 자유이며, 아버지의 집에서 영원히 안식할 수 있는 자유입니다.

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