2026年02月01日「世の光であるイエス」

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8:12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
8:13それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
8:14イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
8:15あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
8:16しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
8:17あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
8:18わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
8:19彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
8:20イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章12節~20節

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【序】

今朝、お読みした聖書個所は、7章52節からの続きであります。先週の7:53~8:11までは、括弧で括られておりまして、後代に加筆された挿入文であるということを見てきました。ですから12節の冒頭に「イエスは再び言われた。」とありますが、これは仮庵祭の最後の日に、大声で語られたイエス様のメッセージの続きということになります。そして本日の箇所の最後の8:20節を見ますと、「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」とあります。「宝物殿」とは、「婦人の庭」にあるラッパの形をした献金箱がいくつも置かれている場所のことを指しています。献金箱が置かれた婦人の庭には、四つの金の燭台があり、仮庵祭の時にはその金の燭台に火が灯され、神殿の境内が明るく照らされました。夜になると、その婦人の庭の灯の下で人々は松明を持ち、歌い踊りました。エルサレム神殿は、地理的に小高い丘の上に建てられていたため、仮庵祭の照り輝く光は、境内を超えてエルサレムの街々全体をも照らし出したと言われています。そのような背景の中で、イエス様は「わたしは世の光である。」と言われたのであります。本日も仮庵の祭りで語られたイエス様のメッセージに耳を傾けつつ、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 主は光

仮庵祭とは収穫感謝祭として、現代の暦で9~10月頃に一週間お祝いされました。祭りの間、人々は屋外に仮小屋を立て、その仮小屋で過ごしながら、昔モーセによって導かれた先祖たちが、エジプトの奴隷状態から解放され約束の地を目指して、荒れ野で40年間天幕生活をしたことを覚えるための祭りであります。先々週の説教の箇所の7:37~38において、イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。イエス様は、私こそ荒れ野で水を飲ませた岩であり、荒れ野で渇きを癒した泉であると主張されたのであります。私こそ生ける水の源であると主張されたのです。つまり、仮庵祭の水汲みの儀式に表されたイスラエルの信仰と希望が、イエス様御自身によって成就されたことを意味していました。本日の箇所も、これと全く同様でありまして、仮庵祭の燭台に火を灯す行為に表されたイスラエルの信仰と希望が、イエス様御自身によって成就されたことを意味しています。すなわち、イエス様が「わたしは世の光である。」と言われたのは、かつて荒れ野において、雲の柱、火の柱によって守り導かれた主ヤハウェとは、私であると主張されているのです。詩編36編は、主の僕ダビデによるものですが、9~10節を見ますと、仮庵の祭りに表されている終末論的な喜びが見事に描写されていると思います。詩編36:9~10節をご覧ください。聖書協会共同訳でお読みします。

“彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足り/あなたの喜びの川に渇きを癒やします。命の泉はあなたのもとにあり/あなたの光によって、私たちは光を見ます。”

ところで、主が「光」であられるという描写は、旧約聖書に繰り返し出てきています。この他にも例を挙げますと詩編27:1をご覧ください。

“主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。”

また、イザヤ10:17をご覧ください。

“イスラエルの光である方は火となり/聖なる方は炎となって/一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。”

このように光の輝くイメージが、炎の燃えるイメージが、主ヤハウェを描写する上で用いられました。イスラエルの人々は勿論、これらの御言葉が比喩的な表現であることを自覚していました。なぜなら主は光であると書かれているのと同時に、主は目には見えないお方であるとも書かれているからです。従いまして、イスラエルの民にとって、火そのものを神として拝んだり、或いは太陽を「太陽神」として拝むことはありませんでした。自然界の光というものが、知識、純潔、喜びを象徴しているように、主なる神とは、霊的世界における「光」であるということを理解していたのであります。その反対に、聖書で暗闇とは何かと言いますと、霊的な盲目状態を現しています。それは単に無知や誤謬だけを象徴するのではありません。さらに突っ込んで言えば、不正、道徳的腐敗、苦痛と悲惨であり、人間の罪によってもたらされた呪いと、人生における悩みや苦しみ、苦難を指し示すものであります。詩編82:5とイザヤ8:22をご覧ください。

詩編82:5

“彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。”

イザヤ書8:22

“地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。”

神様ご自身が霊的な光であり、神の中には暗闇は全くありません。神は光の中に住まわれ、すべての光の根源なのであります。そして、神様は旧約聖書に約束された通り、イエス・キリストにおいて「光」として顕現してくださったのです。仮庵の祭りにおいて伝統的になされていた行事の一つ一つは、来るべき救い主メシアを予表していました。そして、この旧約聖書が語るメシア像は、イスラエルの民が考えていた政治的なメシア像とはかけ離れていました。つまりローマの支配から解放するというような武力を背景とした王ではなく、罪と死の力から解放してくださり、神様との交わりを回復させてくださるメシアであったのです。

【2】. 闇の中に現れた光

さて、ファリサイ派の人々はイエス様の証しを聞いて、それを素直に受け入れたのでしょうか。13~14節をご覧ください。

“それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。”

ここにありますようにファリサイ派の人々はイエス様の証しは真実ではないと反論しました。律法によると、二人の証言によって初めてその証しが受け入れられると書かれているからです(民35:30申17:6)。彼らはイエス様の自己証言は真実ではないと言うのであります。それに対しイエス様は、たとえ他のいかなる人も、御自身のことを一緒に証言してくれなかったとしても、御自身の御言葉は真実であると主張されました。なぜなら、イエス様は御自身がどこから来て、どこへ行くのかを知っておられるからだと言うのです。これは一体どういう意味でしょうか。恐らくイエス様はここでご自身の特異性を語っているのだと思います。普通の人とは異なるという「特異性」です。この特異性はイエス様御自身の起源と身分においてはっきりと現れていました。すなわち、ファリサイ派の人々はイエス様がガリラヤのナザレから来たと考えていましたが、イエス様は天の御父のもとから来たと主張されるのです。ファリサイ派の人々はイエス様を大工ヨセフの子であると考えていましたが、イエス様は御自身の身分を神の御子だと主張されるのです。このイエス様の主張されている内容は、客観的に証明することなど不可能でしょう。いかなる人もイエス様が御父から遣わされた神の子であることを証明することなど出来ないのです。ですから、これは証明する事柄ではなく、信じる事柄なのだと思います。しかし、イエス様のこの特異性のゆえに、18節のお言葉が結論として導かれる訳です。18節をご覧ください。

“わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。”

これが結局、イエス様の言わんとする最終的な結論です。どういう事かと言いますと、イエス様は神である父を知っておられ、イエス様が語られた御言葉は御自身が勝手に語っているのではなく、父から出たものでありました。従ってイエス様が語られた時、それは神の言葉を代理人として客観的に伝えているために、イエス様ご自身が一人目の証人として御言葉の真実性を証ししているということになります。そして、同時に父なる神もイエス様の御言葉について真実であると証ししてくださるのです。このようにして二人の証言が担保されているということです。この説明を聞いたファリサイ派の人々は、ぶち切れたに違いありません。19節をご覧ください。

“彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」”

ファリサイ派の人々の「あなたの父はどこにいるのか」という質問は、「あなたの父は大工のヨセフではないか。何を言っているのか!」ということです。しかしそれに対しても、イエス様は、御自身の起源と身分について再び明らかにされました。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエス様の言われる、「わたしの父」とは父なる神様のことですが、「もし、わたしのことを知っていたなら、わたしを遣わした父をも知っていたはずだ」と言われました。実際、この仮庵祭においてイエス様の語られたメッセージを信じた人々は、群衆を二分するほど大勢いたのであります。イエス様の仰る内容は、信じる時に初めて理解することができるのであり、信じなければ理解できないのであります。もしイエス様の御言葉を理解できず、イエス様の御言葉を信じることができないのなら、それは、語られた御言葉の真実性に問題があるからではなく、光を受け入れようとしない、彼らの心の中の頑なさに起因しているのです。私たちは、ここでもう一度イエス様の語られた12節の御言葉に耳を傾けてみたいと思います。

“わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。”

イエス様を信じ、イエス様を灯の光として受け入れるなら、その人は暗闇の中を歩まず、命の光を持つと言われました。「命」とは何のことでしょうか。命とは霊的な命です。罪人が神様との関係を断絶されてしまい、神様が分からなくなってしまったことが、霊的死でありましたから、ここで言う「命」とは、神様との交わりの回復、神様を知る知識を意味しています。父なる神は、イエス・キリストをご自身の啓示として送ってくださり、御子によって、私たち罪人が、父なる神がどのようなお方であるのかを知ることができるようにしてくださいました。イエス様はある時、弟子のフィリポに次のようにおっしゃったことがあります。「わたしを見た者は、父を見たのだ(ヨハネ14:9)」。このイエス様こそ、神様と人間の唯一の仲保者であり、私たちはイエス様を通して初めて父なる神様との交わりを回復されるのです。先ほど引用しましたイザヤ書8:22からの下りの部分をもう一度見てみましょう。8:22~9:1迄お読みします。

“地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。”

苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。私たちが置かれている状況とはまさにこのような状況であります。罪によって引き起こされたこのような悲惨な現実の中にありながら、闇の中を歩む民は、大いなる光を見ると預言されています。罪と死の力によって捕らわれの身にある民の上に、光が輝くと預言されています。この光とは、まさにイスラエルの民に神様との交わりを回復させてくださるイエス・キリストなのです。それは、この方が私たちの罪の代わりに、十字架に架けられたという事実を抜きにしては語ることができません。イエス様が私たちの罪を贖ってくださり、私たちに神様との交わりを回復させてくださったので、私たちは目を上げて光を仰ぐことができるようになったのです。私たちの盲目であった目を開いてくださり、見えるようにしてくださり、命を与えてくださいました。死から命へと移される奇跡が、信じる全ての人々の上に起こされたのです。仮庵祭の八日目には、既に婦人の庭の灯は消されていたと考えられていますが、イエス・キリストの光は、決して消えることはありません。永遠に照らし続ける光なのであります。そして永遠に輝き続けるお方が、私たち教会と共におられるのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。その光とはイエス・キリストであり、天から降りてきた祝福、喜ばしい恵みであります。この世はなお暗い闇に満ちていて、私たちはその混沌の世界の中で、人生の荒れ野のように厳しい旅路を歩んで行きますが、この命の光が共におられるので、どんなに厳しい苦難や試練の中にあっても、光によって守り導かれ、光によって希望を持ち、光によって私たちは約束された嗣業の地へと導かれるのです。

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