2025年12月28日「教師となられたイエス 교사 되신 예수님」

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教師となられたイエス 교사 되신 예수님

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章14節~24節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:14祭りもすでに半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上って行き、教え始められた。
7:15ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
7:16イエスは答えて言われた。「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。
7:17この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。
7:18自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない。
7:19モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。ところが、あなたがたは誰もその律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか。」
7:20群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。誰があなたを殺そうというのか。」
7:21イエスは答えて言われた。「私が一つの業を行ったというので、あなたがたは皆驚いている。
7:22しかし、モーセはあなたがたに割礼を命じた――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――。だから、あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。
7:23モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に人の全身を治してやったからといって腹を立てるのか。
7:24うわべで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章14節~24節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ユダヤ人たちが「あの男はどこにいるのか」と探している中、主イエスは仮庵祭の半ばごろになり突如現れ、神殿の境内で教え始められました。その教え方は、伝統的なラビたちの教え方とは全く異なるものでありました。主イエスは御自身の教えを受け入れず、理解しない者たちに対し、御自身の教えの真実さについて弁証されていかれます。本日もヨハネの福音書を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. この方の御心を行おうとする者は分かるはずである

14~16節をご覧ください。

“祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。”

15節に「学問をしたわけでもないのに」、とありますが、これは文字の読み書きができないという意味ではありません。当時の律法学者のように、有名なラビのもとで専門の教育を受けた訳ではないのに、という意味です。パウロの場合、使徒言行録22:3をみますと、「自分はエルサレムで育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けた」と語っています。けれどもイエス様は大工の家で育ち、有名なラビのもとで正式に「聖書」と「先祖たちの言い伝え」を学んだことがないにも拘わらず、堂々と聖書を解き明かしておられるのです。その姿は大変、権威があったためにユダヤ人たちは驚いたのでしょう。15節に「ユダヤ人」と出てきますが、これはいつも話していますように、ヨハネの福音書においてユダヤ人とは、イエス様に敵対する勢力を表しています。従いまして、このユダヤ人たちの驚きとは、神を賛美する驚きではなく、悪意に満ちた驚きであったと考えられます。ユダヤ人たちは、イエス様の教えについて、「なあに、自分から勝手に解釈を作り出して、適当に聖書を語っているに過ぎない。有名なラビに師事したことがないというのが、その何よりの証拠だ!」そう、考えていたのでしょう。するとイエス様は彼らに次のように言われました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」つまり、イエス様は御父こそ、自分が師事しているラビである、自分の教えとは、直接御父から始まっているのだと言っているのです。これはどういうことかと言いますと、御自身こそ、御父から遣わされた真の預言者であると言っているのと同じです。モーセは神の律法を授けられましたが、イエス様は神のロゴスそのものであり、その言葉には一切偽りはなく、恵みと真理そのものであると仰っているのです。

群衆の中で、イエス様に対する評価が別れました。12節に書かれていますように、ある人は「良い人だ」と言い、またある人は、彼は「群衆を惑わしている」と指摘しました。実は「群衆を惑わす」、「イスラエルの民を惑わす」というのは、大変深刻な罪状でありました。「惑わす」というこの言葉は、イスラエルを偶像礼拝や背教に導く、偽預言者たちに適用されていました。申命記13章によれば、民を惑わした罪に対する刑罰は、死刑であると規定されています。13:11をご覧ください。

“あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主から離して迷わせようとしたのだから、彼を石で打ち殺さねばならない。”

「主から離して迷わせようとする」、この言葉です。ですから、イエス様の教えというものが、本当に自分勝手に話し、人々を主なる神から背教させるものなのか、或いはご自身が言われるように本当に神から出た教えなのか、そのことをどうしてもはっきりさせなければならないのであります。しかし、神から出た教えであることを一体どのようにして証明することができるのでしょうか。17~18節をご覧ください。

“この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。”

17節で「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と書かれています。このイエス様のお言葉を私たちはよくよく考えてみなければならないと思います。「神の御心を行おうとする者」とは、言い換えれば、「神様を喜ばせようとする人」、平たく言えば「神様を信じている人」と言い換えることができると思います。つまり「もし、本当に神様を信じているなら、イエス様の教えが果たして、神から出たものであるのかどうかが分かる」と言っているのです。「もし、神様を信じているなら、この教えが神から出たものであることが分かる。」これは、御自身の教えが神から出た言葉であることを証明しているのではなく、論理としては堂々巡りであると言っていいでしょう。そもそも、目には見えない神様について、そのご存在を客観的に科学的に証明することなど出来ませんし、イエス様の教えが神からのものであることを客観的に科学的に証明することも出来ないのであります。そのような場合、ある人々は、「そんな主観的な教えをどのようにしたら信じることができようか!」「これだから、宗教というものは信じられないんだ!」と反論するかもしれません。しかし、そのように反論する人であっても、実際のところ彼らの生活のあらゆる領域において、実は信じることから始めているという事実に気づかされます。人々の生活のあらゆる領域において信じることが前提となっているのです。たとえば、人間は両親から愛情を受けて育ちますね。愛情が証明できなければ、赤ちゃんは決して自らを母親に委ねることはないだろうし、母親のおっぱいを飲むことはないなどと本気で考えている人はいません。赤ちゃんは目の前にいる人が母親だと信じて自らを委ねているのです。或いは、社会において、友情関係、恋愛関係が自然に発生し、絆が結ばれていきますが、このような絆というものは実際目には見えず、客観的に証明することもできません。しかし、それが確かにあることを信じ、それを前提として私たちの生活が営まれているのです。つまり、目に見えないもの、客観的に、科学的に証明できないものを仮に信じないなら、私たちの生活そのものが成り立たなくなり、社会の調和に崩壊を招きかねないという厳然たる事実があるのです。そうであるなら、神認識についても、前提として信仰があって初めて神を知り、神の教えを理解することが出来ると主張するのも間違っていないということが分かります。確かに神からの啓示の知識は、客観的に私たちの外に置かれていますが、私たちの内側にある信仰によって初めて、神の啓示を受け取ることが出来るのです。信仰とは受信機(レシーバー)ということです。客観的な神の啓示の存在は、私たちが信じなければ理解できないのであります。

【2】. うわべだけで裁くな

イエス様は御自身の教えを弁証するため、さらに突っ込んで話を進められました。19節をご覧ください。

“モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。”

律法には殺してはならないという戒めがありますね。「もしあなた方が神を信じ、律法を守り行っているなら、律法が指し示しているキリストを認め、私の教えを理解できたであろう。しかし、あなた方が私を殺そうとしているのは、律法を守り行っていないし、神を信じていないからだ」と、そのようにイエス様は言われるのです。この言葉を聞いた群衆は、まさか、ユダヤ当局者たちがイエス様を殺そうとしていることを知らなかったために、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか」と、反論しました。当時、悪霊に取りつかれた者とは、しばしば妄想を抱いたり、常軌を逸した行動をとると考えられていました。しかし、この時、ユダヤ当局者たちがイエス様を密かに殺そうとしていたのは、明らかであります。なぜなら、安息日にベトザタの池で38年間、病に苦しんでいた男を癒した時に、既にその兆しが現れていたからです。ヨハネ福音書5:18をご覧ください。

“このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。”

イエス様はユダヤ人たちが密かに抱いている殺意を、群衆の前に露わにしていき、ユダヤ人たちこそ律法を守っていないことを明らかにされます。21~23節をご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。”

ここでイエス様が言われる「一つの業」とは、先ほど申しましたように安息日にベトザタの池で38年間、病に苦しんでいた男を癒した業であります。普通、たとえ安息日であっても、病の治療などに関することとか、命の危険を伴うような一刻を争う事柄であれば、例外的に労働することが許されていました。ところが、イエス様が行った一つの業については、なぜかユダヤ人たちは目くじらを立てて、安息日規定の違反であると、うわべだけで裁いているのです。それに対し、イエス様は「割礼」を引き合いに出し、「わたしの業を裁くのであれば、あなた方自身は、本当にそのようなうわべだけの基準で律法を守っているのですか?」と質問をしているのです。割礼とは男性の性器の包皮を切り取る儀式であります。割礼の儀式はモーセからではなく、それ以前の族長たちの時代に遡ります。創世記17章で、神様がアブラハムに、生まれて八日目にこの儀式を、契約のしるしとして施すように命じられています。イスラエルの民は、その日が、たとえ働いてはならない安息日であっても、割礼を施すことを優先してきました。これは、あなた方のうわべだけの基準で、安息日違反にはならないのか?と、問うているのです。

たとえ安息日であっても割礼を施すことが優先されたのは、それが神の民とされる象徴的な儀式であり、「神の業」であったためだと考えられます。そうであるなら、38年間、病に苦しんでいた男の、その全身を癒してやることは、象徴的な儀式である割礼よりも、はるかに実質的で慈悲深い「神の業」であると言えるのではないでしょうか。それなのに、なぜあなた方はそのことに腹を立てるのかと言われるのです。自分たちの割礼は許されて、イエス様の慈悲深い業については糾弾する、これは明らかにダブルスタンダードだと言わざるを得ません。ですから、イエス様はうわべだけで裁くのはやめ、正しい裁きをしなさいと言われるのであります。

そして、割礼が施されたのが八日目であったと言うことにも注目したいと思います。八日目とは、一体何を意味しているのでしょうか。イエス様御自身も八日目に割礼をお受けになられました。八日目とは、六日の天地創造を終え、七日目に安息日を取ったその次の日であります。安息日は土曜日ですね。八日目とは日曜日、週の初めの日であります。つまり八日目が意味するのは、神の再創造であり、イエス・キリストの復活であると言えるでしょう。アダムの堕落により、人は誰でも、罪ある者として、原罪を持って、この世に生まれて来ます。しかし、罪人であるイスラエルは、神様の再創造の恵みに与り、割礼によって古い自分に死に、復活を通して神の民として生きることが許されるのです。割礼が「契約のしるし」と呼ばれているのは、そのためであります。ですから、ユダヤ人は、本来、割礼を通して来るべきキリストを賛美する民であり、割礼を通して来るべき贖い主を礼拝する民であったのですが、今、目の前に現れたキリストを拒絶しているのです。このことは何という皮肉でしょうか。イエス様の弁証を聞いた群衆は、ますます信じる者たちと信じない者たちとに分断されて行きました。結局、イエス様の福音とは、すべての人々に理解されるものではないということが分かります。「見えなかった者が見えるようになり、見える者が見えなくなる」という現象が起こるのです。十字架を信じる信仰は、上から賜物によって与えられるのですが、貧しい者、悲しむ者、弱い者、徴税人や罪人が見えるようになるという仕方でそれが明らかにされるのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様は御自身の教えを頭ごなしに否定するユダヤ人に対して、彼らから逃げるのではなく、正々堂々と神殿の境内に上って教え始め、御自身の教えの真実さを弁証されました。イエス様の教えとは、神の御心を行おうとする者でなければ、理解することが出来ません。ですからイエス様の弁証とは、信じないユダヤ人に対するものではなく、「この方は良い人」だと考え、この方を信じてみようとする信じる群衆のための弁証であり、また、ヨハネの福音書の読者である教会のための弁証であったということが分かります。そのことを考える時に、私たち教会が本日も共に集まり、救い主イエス・キリストに礼拝を捧げられることが、いかに恵み深いことなのか、改めて思わされるのであります。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた (ヘブ1:1)」という御言葉が、イエス・キリストの初臨を通して成就いたしました。私たちはキリストにある神の啓示を信仰によって受け取った者として、この啓示の光を世に現わすべく、福音を宣べ伝え、愛の業を実践する者たちとして歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

교사 되신 예수님

2025년 12월 28일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 7장 14~24절

서론

유대인들이「그가 어디 있느냐」 하고 찾고 있을 때, 주 예수님은 초막절이 반쯤 지났을 무렵 갑자기 나타나 성전 뜰에서 가르치기 시작하셨습니다. 그 가르침은 전통적인 랍비들의 가르침과는 전혀 다른 것이었습니다. 주 예수님은, 자신의 가르침을 받아들이지 않고 이해하지 못하는 자들에게 자신의 가르침의 진실함에 대해 변증해 나가셨습니다. 오늘도 요한복음서를 통해 함께 말씀의 은혜에 참여하고자 합니다.

(1) 하나님의 뜻을 행하려 하면 알리라

14~16 절을 보시기 바랍니다.

14이미 명절의 중간이 되어 예수께서 성전에 올라가사 가르치시니

15 유대인들이 놀랍게 여겨 이르되 이 사람은 배우지 아니하였거늘 어떻게 글을 아느냐 하니

16 예수께서 대답하여 이르시되 내 교훈은 내 것이 아니요 나를 보내신 이의 것이니라

15절에「배우지 아니하였거늘」이라고 되어 있지만, 이는 글자를 읽고 쓸 줄 모른다는 의미가 아닙니다. 당시 율법학자들처럼 유명한 랍비 밑에서 전문적인 교육을 받은 것이 아니라는 뜻입니다. 바울의 경우 사도행전 22:3절을 보면, 「나는 유대인으로 길리기아 다소에서 났고 이 성에서 자라 가말리엘의 문하에서 우리 조상들의 율법의 엄한 교훈을 받았고 오늘 너희 모든 사람처럼 하나님게 대하여 열심이 있는 자라」라고 말하고 있습니다. 그러나 예수님은 목수의 집에서 자라셨고, 유명한 랍비 밑에서 정식으로 「성경」과 「조상들의 전승」을 배운 적이 없음에도 불구하고 당당히 성경을 해석해 내셨습니다. 그 모습은 매우 권위 있었기에 유대인들은 놀랐을 것입니다. 15절에 「유대인들」이 나오는데, 이는 항상 말씀드렸듯이, 요한복음에서 유대인이라는 표현은 예수님께 적대하는 세력을 나타냅니다. 따라서 이 유대인들의 놀라움은, 하나님을 찬양하는 놀라움이 아니라 악의에 찬 놀라움이었을 것으로 생각됩니다. 유대인들은 예수님의 가르침에 대해, 「뭐야, 스스로 멋대로 해석을 만들어 내서 적당히 성경을 말하고 있을 뿐이야. 유명한 랍비에게 사사받은 적이 없다는 것이 그 무엇보다도 증거다!」그렇게 생각했을 것입니다. 그러자 예수님은 그들에게 이렇게 말씀하셨습니다. 「내 교훈은 내것이 아니요 나를 보내신 이의 것이니라」즉, 예수님은 아버지께서 바로 자신이 사사받은 랍비이시며, 자신의 가르침은 직접 아버지께로부터 비롯된 것이라고 말씀하시는 것입니다. 이는 무슨 뜻이냐 하면, 그분 자신이 아버지께로부터 보내심을 받은 참된 예언자임을 말씀하시는 것과 같습니다. 모세는 하나님의 율법을 받았지만, 예수님은 하나님의 로고스 그 자체이시며, 그 말씀에는 조금도 거짓이 없고 은혜와 진리 그 자체라고 말씀하시는 것입니다.

무리 속에서 예수님에 대한 평가가 갈렸습니다. 12절에 기록된 대로 어떤 이는「좋은 사람이라」라고 말했고, 또 어떤 이는 그가 「무리를 미혹한다」라고 지적했습니다. 사실 「무리를 미혹한다」, 「이스라엘 백성을 미혹한다」는 것은 매우 심각한 죄목이었습니다. 「미혹하다」라는 이 말은, 이스라엘을 우상 숭배나 배교로 이끄는 거짓 예언자들에게 적용되었습니다. 신명기 13장에 따르면, 백성을 미혹한 죄에 대한 형벌은 사형으로 규정되어 있습니다. 13:10절을 보십시오.

신명기 13장

10 그는 애굽 땅 종 되었던 집에서 너를 인도하여 내신 네 하나님 여호와에게서 너를 꾀어 떠나게 하려 한 자이니 너는 돌로 쳐죽이라

「네 하나님 여호와에게서 너를 꾀어 떠나게 하려」, 바로 이 말씀입니다. 그러므로 예수님의 가르침이 과연 제멋대로 말하여 사람들을 주 하나님에게서 배교하게 하는 것인지, 아니면 그분께서 말씀하신 대로, 진정 하나님께로부터 나온 가르침인지를 반드시 분명히 해야 합니다. 그러나 하나님께로부터 나온 가르침임을 도대체 어떻게 증명할 수 있을까요? 17~18절을 보십시오.

요한복음 7장

17 사람이 하나님의 뜻을 행하려 하면 이 교훈이 하나님께로부터 왔는지 내가 스스로 말함인지 알리라

18 스스로 말하는 자는 자기 영광만 구하되 보내신 이의 영광을 구하는 자는 참되니 그 속에 불의가 없느니라

17절에「사람이 하나님의 뜻을 행하려 하면 이 교훈이 하나님께로부터 왔는지 내가 스스로 말함인지 알리라」라고 기록되어 있습니다. 우리는 이 예수님의 말씀을 깊이 생각해 보아야 한다고 생각합니다. 「사람이 하나님의 뜻을 행하려 하면」이란, 달리 말하면 「하나님을 기쁘시게 하려는 사람」, 쉽게 말해 「하나님을 믿는 사람」이라고 바꿔 말할 수 있을 것입니다. 즉 「만약 진정으로 하나님을 믿는다면, 예수님의 가르침이 과연 하나님께로부터 나온 것인지 아닌지를 알게 될 것」이라고 말씀하시는 것입니다. 「만약 하나님을 믿는다면, 이 가르침이 하나님께로부터 나온 것임을 알게 될 것이다.」 이는 자신의 가르침이 하나님께로부터 나온 말씀임을 증명하는 것이 아니라, 논리적으로는 순환논증(증명하려는 결론을 이미 근거로 삼아 결론을 다시 도출하는 논리적 오류)이라고 할 수 있습니다. 애초에 눈에 보이지 않는 하나님에 대해 그 존재를 객관적으로 과학적으로 증명하는 것은 불가능하며, 예수님의 가르침이 하나님에게서 나온 것임을 객관적으로 과학적으로 증명하는 것도 불가능합니다. 그런 경우 어떤 사람들은 「그런 주관적인 가르침을 어떻게 믿을 수 있겠는가!」 「이러니 종교라는 것은 믿을 수 없는 거야!」라고 반박할지도 모릅니다. 그러나 그렇게 반론하는 사람이라 할지라도, 실제 그들의 삶의 모든 영역에서 사실은 믿음에서 시작하고 있다는 사실을 깨닫게 됩니다. 사람들의 삶의 모든 영역에서 믿음이 전제가 되고 있는 것입니다. 예를 들어, 인간은 부모로부터 사랑을 받으며 자라납니다. 사랑이 증명되지 않는다면, 아기는 결코 스스로를 어머니에게 맡기지 않을 것이며, 어머니의 젖을 먹지도 않을 것이라고 진지하게 생각하는 사람은 없습니다. 아기는 눈앞에 있는 사람이 어머니라고 믿고 스스로를 맡기고 있는 것입니다. 또는 사회에서 우정 관계, 연애 관계가 자연스럽게 발생하고 유대가 맺어지지만, 이러한 유대라는 것은 실제로 눈에는 보이지 않고 객관적으로 증명할 수도 없습니다. 그러나 그것이 확실히 존재한다고 믿고, 그것을 전제로 우리의 삶이 이루어지고 있습니다. 즉, 눈에 보이지 않는 것, 객관적으로, 과학적으로 증명할 수 없는 것을 만약 믿지 않는다면, 우리의 삶 자체가 성립되지 않게 되고, 사회의 조화에 붕괴를 초래할 수 있다는 엄연한 사실이 있습니다. 그렇다면 하나님에 대한 인식에 대해서도, 전제로 믿음이 있어야 비로소 하나님을 알고 하나님의 가르침을 이해할 수 있다고 주장하는 것도 틀리지 않다는 것을 알 수 있습니다. 확실히 하나님으로부터의 계시의 지식은 객관적으로 우리 밖에 놓여 있지만, 우리 안에 있는 믿음을 통해서야 비로소 하나님의 계시를 받아들일 수 있는 것입니다. 믿음이란 수신기(리시버)라는 것입니다. 객관적인 하나님의 계시의 존재는 우리가 믿지 않으면 이해할 수 없는 것입니다.

(2) 겉모습만으로 판단하지 마라

예수님께서는, 자신의 가르침을 변증하기 위해 더욱 깊이 이야기를 진행하셨습니다. 19절을 보십시오.

19 모세가 너희에게 율법을 주지 아니하였느냐 너희 중에 율법을 지키는 자가 없도다 너희가 어찌하여 나를 죽이려 하느냐

율법에는 살인하지 말라는 계명이 있지요. 「만일 너희가 하나님을 믿고 율법을 지키고 행하고 있다면, 율법이 가리키는 그리스도를 인정하고 내 가르침을 이해할 수 있었을 것이다. 그러나 너희가 나를 죽이려는 것은 율법을 지키고 행하지도 않으며 하나님을 믿지도 않기 때문이다」라고 예수님께서 말씀하셨습니다. 이 말씀을 들은 무리는, 유대 지도자들이 예수님을 죽이려 한다는 사실을 전혀 몰랐기 때문에, 「당신은 귀신이 들렸도다 누가 당신을 죽이려 하나이까」라고 반박했습니다. 당시 귀신에 들린 자란 종종 망상을 품거나 상식을 벗어난 행동을 한다고 여겨졌습니다. 그러나 이때 유대 지도자들이 예수님을 은밀히 죽이려 했던 것은 분명합니다. 안식일에 벳세다 연못에서 38년간 병으로 고통받던 남자를 고치셨을 때 이미 그 징조가 나타났기 때문입니다. 요한복음 5:18을 보십시오.

요한복음 5장

18 유대인들이 이로 말미암아 더욱 예수를 죽이고자 하니 이는 안식일을 범할 뿐만 아니라 하나님을 자기의 친 아버지라 하여 자기를 하나님과 동등으로 삼으심이러라

예수님께서는 유대인들이 은밀히 품고 있는 살의를 무리 앞에서 드러내시고, 유대인들야말로 율법을 지키지 않고 있음을 밝히십니다. 21~23절을 보십시오.

21 예수께서 대답하여 이르시되 내가 한 가지 일을 행하매 너희가 다 이로 말미암아 이상히 여기는도다

22 모세가 너희에게 할례를 행했으니 (그러나 할례는 모세에게서 난 것이 아니요 조상들에게서 난 것이라) 그러므로 너희가 안식일에도 사람에게 할례를 행하느니라

23 모세의 율법을 범하지 아니하려고 사람이 안식일에도 할례를 받은 일이 있거든 내가 안식일에 사람의 전신을 건전하게 한 것으로 너희가 내게 노여워하느냐

여기서 예수님께서 말씀하신「한 가지 일」이란, 앞서 말씀드렸듯이 안식일에 벳새다 연못에서 38년간 병으로 고통받던 남자를 고치신 일을 말합니다. 보통 안식일이라 해도 병 치료 등과 관련된 일이나 생명이 위태로운 긴급한 일이라면 예외적으로 노동이 허용되었습니다. 그런데 예수님께서 행하신 한 가지 일에 대해서는, 유대인들이 왠지 모르게 트집을 잡고 안식일 규정을 위반했다고 겉모습만 보고 판단하고 있습니다. 이에 대해 예수님은 「할례」를 예로 들며, 「내 일을 판단한다면, 너희 자신들은 정말 그런 겉모습만 보고 율법을 지키고 있는가?」라고 질문하시는 것입니다. 할례란 남성의 성기 포피를 잘라내는 의식입니다. 할례 의식은 모세에게서 비롯된 것이 아니라 그 이전의 족장 시대까지 거슬러 올라갑니다. 창세기 17장에서 하나님께서 아브라함에게 태어난 지 8일째 되는 날 이 의식을 언약의 표로 행하라고 명령하셨습니다. 이스라엘 백성은 그 날이 일해서는 안 되는 안식일이라 할지라도 할례를 행하는 것을 우선해 왔습니다. 이는 너희의 겉모습만 보는 기준으로 안식일 위반이 되지 않는가? 하고 묻고 계신 것입니다.

안식일이라 해도 할례를 행하는 것이 우선시된 것은 그것이 하나님의 백성임을 상징하는 의식이며 「하나님의 일」이었기 때문이라고 생각됩니다. 그렇다면 38년간 병으로 고통받던 남자의 전신을 고쳐 주는 일은, 상징적인 의식인 할례보다 훨씬 실질적이고 자비로운 「하나님의 일」이라고 할 수 있지 않을까요? 그런데도 왜 너희는 그 일에 화를 내느냐고 말씀하시는 것입니다. 자신들의 할례는 용납하면서 예수님의 자비로운 일은 비난하는 것은 명백한 이중 잣대라고 할 수밖에 없습니다. 그러므로 예수님께서는 겉모습만 보고 판단하지 말고 올바른 판단을 하라고 말씀하시는 것입니다.

그리고 할례가 시행된 것이 여덟째 날이었다는 점에도 주목하고 싶습니다. 여덟째 날이란 대체 무엇을 의미하는 것일까요? 예수님 자신도 여덟째 날에 할례를 받으셨습니다. 여덟째 날이란, 엿새 동안의 천지 창조를 마치시고 일곱째 날에 안식일을 지내신 바로 그 다음 날입니다. 안식일은 토요일이지요. 여덟째 날은 일요일, 즉 주의 첫날입니다. 그러므로 여덟째 날이 의미하는 바는 하나님의 재창조이며, 예수 그리스도의 부활이라고 할 수 있겠습니다. 아담의 타락으로 인해 사람은 누구나 죄인으로서 원죄를 지니고 이 세상에 태어납니다. 그러나 죄인인, 이스라엘은 하나님의 재창조의 은혜를 받아 할례를 통해 옛 자아에 죽고, 부활을 통해 하나님의 백성으로 살아가도록 허락받습니다. 할례가「언약의 표징」이라 불리는 것은 바로 그 때문입니다. 그러므로 유대인들은 본래 할례를 통해, 오실 그리스도를 찬송하는 백성이었고, 할례를 통해, 오실 구속주를 예배하는 백성이었으나, 지금 눈앞에 나타난 그리스도를 거부하고 있습니다. 이 얼마나 아이러니한 일입니까. 예수님의 변증을 들은 무리는, 점점 더 믿는 자들과 믿지 않는 자들로 갈라져 갔습니다. 결국 예수님의 복음은 모든 사람이 이해하는 것이 아니라는 것을 알게 됩니다. 「보지 못하던 자가 보게 되고, 보는 자가 보지 못하게 되는」 현상이 일어나는 것입니다. 십자가를 믿는 믿음은 위로부터 은사로 주어지지만, 가난한 자, 애통해 하는 자, 약한 자, 세리와 죄인이 보게 되는 방식으로 그것이 드러나는 것입니다.

결론

오늘 내용을 정리합니다. 예수님은 자신의 가르침을 무턱대고 부정하는 유대인들에게서 도망가지 않으시고, 당당히 성전 경내로 올라가 가르치기 시작하시며 자신의 가르침의 진실함을 변증하셨습니다. 예수님의 가르침은 하나님의 뜻을 행하려는 자가 아니면 이해할 수 없습니다. 그러므로 예수님의 변증은 믿지 않는 유대인들을 위한 것이 아니라, 「이 분은 좋은 분」이라고 생각하며 이분을 믿어 보려는, 믿는 무리를 위한 변증이었고, 또한 요한복음의 독자인 교회를 위한 변증이었다는 것을 알 수 있습니다. 그 점을 생각할 때, 우리 교회가 오늘도 함께 모여 구주 예수 그리스도께 예배를 드릴 수 있다는 것이 얼마나 은혜로운 일인지 새삼 깨닫게 됩니다. 「옛적에 선지자들을 통하여 여러 부분과 여러 모양으로 우리 조상들에게 말씀하신 하나님이 이 모든 날 마지막에는 아들을 통하여 우리에게 말씀하셨으니.. (히브리서 1:1~2a)」라는 말씀이 예수 그리스도의 초림을 통해 성취되었습니다. 우리는 그리스도 안에 계신 하나님의 계시를 믿음으로 받은 자로서, 이 계시의 빛이 세상에 나타나도록 복음을 전파하고 사랑의 일을 실천하는 자들로 걸어가도록 합시다.

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