2025年11月30日「イエスの血と肉にあずかる 예수의 살을 먹고 예수의 피를 마시는 자」

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イエスの血と肉にあずかる 예수의 살을 먹고 예수의 피를 마시는 자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章41節~59節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48わたしは命のパンである。
6:49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6:52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6:53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6:58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
6:59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章41節~59節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

その日、主イエスと話し合っていたカファルナウムの多くの群衆は、自分たちの耳を疑いました。群衆はイエスの家族をよく知っていたにもかかわらず、彼は自分が神の子であると主張したからであります。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と、群衆はつぶやき始めました。このつぶやきは、モーセによってエジプトから解放されたイスラエルの民が、荒れ野においてモーセに不平を言った姿と重なってきます。本日は「イエスの血と肉にあずかる」とは果たして何を意味しているのかということを念頭に置きつつ、ヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. イエス様の福音宣教と有効召命

41節の冒頭にユダヤ人という言葉が出てきます。ユダヤ人とは本来エルサレムとその周辺の地方の人々を指す言葉であります。ですからここでは、正確に言えば、ガリラヤ人と書くべきところですが、ヨハネの福音書では、たとえガリラヤ地方に住んでいようと、どこに住んでいようと、イエス様を拒絶するイスラエルの民をまとめて「ユダヤ人」と呼んでいるのであります。つまりヨハネの福音書において「ユダヤ人」とは、イエス様を信じない民の総称を言っているのです。すると、イエス様は彼らに次の様に言われました。43~45節をご覧ください。

“「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。”

前回、37節においても、イエス様は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」と言われましたが、どうやら言葉を換えて言い直しているようです。御父が引き寄せてくださらなければ、だれも主イエスのもとに来ることはできません。イエス様を受け入れるタイミングは、人それぞれ定められた時があると思いますが、御父によって選ばれている者は必ず、抗うことのできない全能の御力によって、イエス様のもとに導かれるのです。それはあたかも親猫が子猫の首根っこをくわえて引っ越しするかのように、時が満ちるならば、首根っこをくわえられてイエス様のもとに導かれるのです。そしてイエス様のもとに導かれた者たちは、新しく生まれ変わり、永遠の命によって養われ、終わりに日に復活させられるのです。因みに44節と45節は、ウェストミンスター小教理問答、問31「有効召命」の証拠聖句として挙げられていますので、小教理問答の問31を確認してみましょう。

問31有効召命とは何ですか。

答  有効召命とは、神の御霊の業であって、それによって御霊は、わたしたちに自分の罪と悲惨を自覚させ、わたしたちの知性をキリストを知る知識で照らし、わたしたちの意志を新たにしてくださいます。こうして御霊は、福音においてわたしたちに無償で提供されているイエス・キリストを、受け入れるように説得し、それができるようにしてくださいます。

神様による召しとは、たとえ私たちがまだ罪にどっぷりつかっている時でも、聖霊によって私たちに罪と悲惨を自覚させ、キリストを知る知識で照らしてくださいます。ですから、まだイエス様を信じられない人々にとって、「わたしは命のパンである」というイエス様のお言葉は、招きの言葉にもなっていたのだと思います。神の福音はこのように誰にでも無差別に語られます。その無差別の招きとは、必ずしも、直接的な聖書の御言葉によってではないかもしれません。御言葉以外で間接的に福音が語られることもあります。例えば、アンパンマンのアニメを通してであったり、宅急便のロゴマークを通してであったりです。アンパンマンは自分の顔を人々に分け与えていますね。アンパンのモデルはイエス・キリストだと言われています。また、クロネコヤマトの創業者はキリスト者であったため、あのロゴマークが生まれたと言われています。このようにあらゆる方法で福音が宣言され、招きの言葉が語られているのですが、御父が引き寄せてくださる者だけが、有効的に召され、イエス様のもとに来ることができるのであります。続いて48~50節をご覧ください。

【2】. イエスの血と肉にあずかる

“わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。”

ここでは、昔、イスラエルの民が荒れ野で食べた「マンナ」とイエス・キリストという「命のパン」が比較されています。ここで誤解してはならないことは、本来マンナとは、霊的な食物であり、キリストの霊的な象徴でもありました。1コリント10:1~4を調べてみましょう。パウロは次のように言っています。

“兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。”

この個所を見ますと「皆、同じ霊的な食物を食べ」とありますね。マンナのことです。ですから本日の箇所で「マンナを食べたが、死んでしまった」という表現は、マンナを物質的な糧としてでしか見ることができなかった、限定された先祖たちのことが引き合いに出されているのです。要するにマンナを不信仰な心で食べた先祖たちのことです。ところが、今や、マンナが象徴的に指し示す実体が現われました。天から降ってきたパンであるイエス様を、今や信仰によって見なければなりません。51節をご覧ください。

“わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。”

イエス様は再三言われています。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と。これは、神の御子が肉をお取りになり、この世に人として来られた受肉の出来事を指していると思われます。また「食べる」とは、信じるということを意味しているのだと思います。ですから「天から降って来たパンを食べる」とは、「受肉した神の御子を信じる」ということになります。イエス様がこの世に来られた目的は、皆さまもよく御存知のように、救い主として恵みの契約を成就されるためでありました。すなわち、人となられ十字架刑に処せれることにより、罪人の罪の代価を代わりに担われ、一方で御父への、全き服従を通して、律法を完成させることでありました。神が肉をお取りになって人となり、罪人の隣人となってくださり、仲保者として贖いを成し遂げてくださったのです。

ところで51節以降、「パン」という言葉が「肉」という言葉に置き換えられています。このことは、本日の箇所で大変重要なポイントだと思います。肉とはイエスさまが受肉された神秘を念頭に置いているのでしょう。もし、イエス様が人として来なければ、私たちの罪の代価を担うことは出来ませんでした。もし、人として来なければ、即ち弱さがない天的な存在として、律法を成就したとしても何の意味もありませんでした。人の子として成就されたことに意味があるのです。もし、人として来なければ、私たちの救いは成し遂げられなかったのです。救い主は、まさに「人の子」として、私たちと同じ「肉」を取って来てくださいました。私たちの救いとは、信仰によって、このイエス様を受け入れ、イエス様の功労に参与することであり、イエス様と共に生きることであります。天から降って来られた方の、そのような霊的な側面を見なければなりませんでしたが、カファルナウムの群衆は、そのことが分からず議論をし始めました。52~53節をご覧ください。

“それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。”

人肉を食えとでも言うのか、とんでもないことだ!ということで大騒ぎになった訳です。それを受けてイエス様は、「はっきり言っておく」と前置きをして語り始めました。「はっきり言っておく」という言葉は、6章だけでも既に4度目になります。今回も重要なことが語られていますが、その語られた内容は、かえって群衆を混乱させ、手がつけられなくなってしまいました。「人の子、即ち、メシアの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とは、十字架に掛かられる主イエスを信じなければ、あなたたちの内に命はないという意味です。しかしイエス様は、単に「私を信じなさい」とは言わないで、「人の子の肉を食べ、その血を飲みなさい」と言われた、その理由は一体何なのでしょうか。このような言い回しは、初代教会が世の人々から、人食いの風習がある野蛮人だと誤解された要因でもありました。なぜイエス様はあえて、このような言い回しをしたのでしょうか。

ここで聖餐式のことをイエス様は語られていると主張する人がいます。確かに本日の箇所で、そのように解釈することもできますが、必ずしも私たちが月に一度行っている聖餐式の儀式に限定されるものではなく、私たちが普段、信仰によって与えられる、キリストとの交わりについても同様に語っているのだと思います。キリストとの人格的な交わりとは何か?それは御父によってイエス様に引き寄せられた結果でありますが、そもそもキリストとの交わりとは、神秘的にイエス様に結合されて生じたものであります。56節をご覧ください。

“わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。”

「わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもその人の内にいる」とありますが、ここで「~の内にある」と訳されている言葉は、ギリシア語でメノーという言葉でありまして、「留まる」という意味です。このメノーという言葉は15章において、「ぶどうの木と枝の譬え」が出てまいりますがその個所にも出てきます。ヨハネ15:5をご覧ください。

“わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。”

「つながる」と訳されている言葉がメノーという言葉です。御父によってイエス様に引き寄せられる者は、イエス様と相互に「メノー」する関係が与えられ、イエス様と神秘的結合が与えられるのです。その結合は、どのような仕方かと言いますと、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいるという仕方の結合であります。しかし、だからと言って、イエス様が今現在、この世に偏在されるということではありません。イエス様は十字架に掛けられ、復活されて、40日後に天に昇られ、神の右に着座されました。復活されたイエス様は、現在、天におられます。その天におられるイエス様と私たちが一体どのように結合されるのかと言いますと、聖霊によって、結合されるのであります。聖霊によって私たちは、主イエスの中に留まり、主イエスも私たちの中に留まってくださるのです。このキリストとの神秘的結合は聖餐式を通して初めて生じるのではない理由とは、既に、イエス・キリストは御言葉において私たちの魂のパンであられるからであります。ただそれにも拘わらず、聖餐式の中でより鮮明に、キリストとの神秘的結合が確認できるのは、パンとぶどう酒に与ることによって、単にイエス様が獲得された有益に参与するだけではなく、聖霊によってキリストの肉を食べ、血を飲み、イエス様の人性に参与することができるからであります。

宗教改革の時に聖餐式をめぐり様々な議論がなされました。カルヴァンは、聖餐式の時に、キリストの現存が確かにそこにあると主張しました。しかしその現存の仕方は、カトリック教会(化体説)や、ルター派教会(共在説)が主張するように、聖餐式におけるパンとぶどう酒において、キリストの実体がそこにあるという仕方ではなく、聖霊を通して、私たちは天の御座にまで引き上げられ、聖霊を通して神の右におられるキリストと霊的に結合されると主張しました。つまりキリストの現存の仕方がカトリック教会やルター派とは少し異なるということです。もしキリストの実体が、肉体的に、地域的に現存するなら、聖別されたパンとぶどう酒も礼拝の対象となってしまいます。しかしキリストの実体は、天に上げられているのです。

聖餐式は、キリストとの豊かな交わりの場であります。それは単なる記念の食事でなければ、単なる信仰告白の場でもありません。聖餐式は、御言葉と同じように神の恵みの手段であり、イエス様との人格的な交わりを強めるものであり、これによって教会は養われるのであります。それによってもたされるキリストとの交わりとは、はるかに深く、永遠に続く交わりであります。すなわちそれは、キリストとの神秘的結合であり、ぶどうの木と枝、頭と体、花婿とその花嫁、土台とその上に建造される建物といった比喩によってのみ、その豊かさが私たちに多少なりとも明らかにされるものであります。私たちの地上におけるキリストとの霊的な交わりは、キリストの再臨の日、復活に与った時に、永遠の交わりへと変えられるのでありますが、まさにその時のキリストとの神秘的結合の豊かさの、その前味を味わうようにされているのであり、聖餐式を通して神秘的結合が刻印されているのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。私たちの肉体が主食であるパンに依存し、日々養われているように、私たちの魂は肉を取られ、人となられたイエス・キリストに依存し、日々養われています。キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むこと、それは十字架に掛けられた救い主イエス様を信じることでありますが、同時にそれは、イエス・キリストとの神秘的結合の豊かさを味わい、やがての日に与えられる主イエスとの永遠の交わりを垣間見るものなのであります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

예수의 살을 먹고 예수의 피를 마시는 자

2025년 11월 30일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 6장 41~59절

서론

그날, 주 예수와 대화하던 가버나움의 많은 무리는 자신들의 귀를 의심했습니다. 무리는 예수의 가족을 잘 알고 있었음에도 불구하고, 그는 자신이 하나님의 자녀라고 주장했기 때문입니다.「이는 요셉의 아들 예수가 아니냐 그 부모를 우리가 아는데 자기가 지금 어찌하여 하늘에서 내려왔다 하느냐」라고, 무리는 수군거리기 시작했습니다. 이 중얼거림은 모세에 의해 애굽에서 해방된 이스라엘 백성들이 광야에서 모세에게 불평하던 모습과 겹쳐집니다. 오늘은 「예수의 살을 먹고 예수의 피를 마신다」는 것이 과연 무엇을 의미하는가 하는 것을 염두에 두면서 요한복음을 통해 함께 말씀의 은혜를 받고 싶습니다.

(1) 예수님의 복음선교와 효과적인 부르심

41절 첫머리에 유대인이라는 말이 나옵니다. 유대인이란 본래 예루살렘과 그 주변 지방 사람들을 일컫는 말입니다. 그래서 여기서는 정확히 말하면 갈릴리 사람이라고 써야 하는 곳인데, 요한복음에서는 비록 갈릴리 지방에 살든 어디에 살든 예수님을 거절하는 이스라엘 백성들을 묶어「유대인」이라고 부르고 있는 것입니다. 즉 요한복음에서 「유대인」이란 예수님을 믿지 않는 백성의 총칭을 말하는 것입니다. 그러자 예수님은 그들에게 다음과 같이 말씀하셨습니다. 43~45절을 보세요.

43 예수께서 대답하여 이르시되 너희는 서로 수군거리지 말라

44 나를 보내신 아버지께서 이끌지 아니하시면 아무도 내게 올 수 없으니 오는 그를 내가 마지막 날에 다시 살리리라

45 선지자의 글에 그들이 다 하나님의 가르치심을 받으리라 기록되었은즉 아버지께 듣고 배운 사람마다 내게로 오느니라

지난 번 37절에서도 예수님은「아버께서 내게 주시는 자는 다 내게로 올 것이요 내게 오는 자는 내가 결코 내쫓지 아니하리라」R 나에게 주시는 사람은 모두 나에게 온다'고 말씀하셨는데, 아무래도 말을 바꿔 다시 하는 것 같습니다. 아버지가 끌어당기지 않으면 아무도 주 예수님께 올 수 없습니다. 예수님을 받아들이는 타이밍은 사람마다 정해진 때가 있겠지만, 아버지에 의해 선택된 자는 반드시 항거할 수 없는 전능한 힘에 의해 예수님께 인도되는 것입니다. 그것은 마치 어미 고양이가 새끼 고양이의 목덜미를 물고 이사하는 것처럼 때가 차면 목덜미가 물려서 예수님께 인도되는 것입니다. 그리고 예수님의 품에 이끌린 자들은 새롭게 태어나 영원한 생명에 의해 양육되어지고, 끝날에 부활하게 되는 것입니다. 참고로 44절과 45절은 웨스트민스터 소요리문답, 문제31 「효과적인 부르심」의 증거성구로 꼽히고 있으니 소요리문답의 문제31을 확인해 봅시다.

웨스트민스터 소요리문답 제 31문

31문: 효과적인 부르심이란 무엇입니까?

답: 효과적인 부르심이란 하나님의 영의 하시는 일로서, 우리의 죄와 비참함을 깨닫게 하시고 우리 마음을 밝게 하여 그리스도를 알게 하시며 우리의 의지를 새롭게 하심으로써, 우리를 설득하여 복음 안에서 우리에게 값없이 주어진 예수 그리스도를 영접할 수 있게 하시는 일입니다.

하나님의 부르심은, 비록 우리가 아직 죄에 흠뻑 빠져 있을 때라도, 성령으로 우리에게 죄와 비참을 자각하게 하고 그리스도를 아는 지식으로 비추어 주십니다. 그렇기때문에, 아직 예수님을 믿지 못하는 사람들에게「나는 생명의 떡이니」라는 예수님의 말씀은, 초청의 말씀이 되기도 했던 것 같습니다. 하나님의 복음은 이처럼 누구에게나 무차별적으로 선포되어집니다. 그 무차별의 초대란, 반드시 직접적인 성경 말씀에 의해서는 아닐지도 모릅니다. 말씀 이외에 간접적으로 복음이 전해지기도 합니다. 예를 들어, 호빵맨의 애니메이션을 통해서라든지, 쿠로네코 야마토의 택배 로고(검은 어미 고양이가 검은 새끼 고양이를 물어 나르는 일본 유명 택배회사의 로고) 마크를 통해서라든지 말입니다. 호빵맨은 자신의 얼굴을 사람들에게 나눠주고 있습니다. 호빵의 모델은 예수 그리스도라고 알려져 있습니다. 또한 쿠로네코 야마토의 창업자는 그리스도인이었기 때문에 그 로고 마크가 태어난 것으로 알려져 있습니다. 이렇게 온갖 방법으로 복음이 선포되고 초청의 말씀이 선포되고 있는데, 아버지께서 이끌어주시는 자만이 효과적인 부르심을 받아 예수님께 올 수 있는 것입니다. 이어서 48~50절을 보시겠습니다.

(2) 예수의 살을 먹고 피를 마시다

48 내가 곧 생명의 떡이니라

49 너희 조상들은 광야에서 만나를 먹었어도 죽었거니와

50 이는 하늘에서 내려오는 떡이니 사람으로 하여금 먹고 죽지 아니하게 하는 것이니라

이곳에서는, 옛날, 이스라엘 백성들이 광야에서 먹던 「만나」와 예수 그리스도라는「생명의 떡」이 비교되고 있습니다. 여기서 오해하지 말아야 할 것은 본래 만나란 영적인 음식이며 그리스도의 영적인 상징이기도 했습니다. 고전 10:1~4를 알아봅시다. 바울은 다음과 같이 말하고 있습니다.

고린도전서 10장

1형제들아 나는 너희가 알지 못하기를 원하지 아니하노니 우리 조상들이 다 구름 아래에 있고 바다 가운데로 지나며

2 모세에게 속하여 다 구름과 바다에서 세례를 받고

3 다 같은 신령한 음식을 먹으며

4 다 같은 신령한 음료를 마셨으니 이는 그들을 따르는 신령한 반석으로부터 마셨으매 그 반석은 곧 그리스도시라

이 부분을 보면「다 같은 신령한 음식을 먹으며」라고 되어 있네요. 만나를 말합니다. 그래서 오늘, 「'만나를 먹었어도 죽었거니와」라는 표현은 만나를 물질적인 양식으로만 볼 수 있었던 한정된 조상들을 다루고 있는 것입니다. 요컨대 만나를 불신하는 마음으로 먹은 조상들을 말합니다. 그런데 이제 만나가 상징적으로 가리키는 실체가 드러났습니다. 하늘에서 내려온 살아 있는 떡이신 예수님을, 이제 믿음으로 보아야 합니다. 51절을 보세요.

51 나는 하늘에서 내려온 살아 있는 떡이니 사람이 이 떡을 먹으면 영생하리라 내가 줄 떡은 곧 세상의 생명을 위한 내 삶이니라 하시니라

예수님은 여러 번」「나는 하늘에서 내려온 살아 있는 떡이니」라고 말씀하셨습니다. 이것은 하나님의 독생자가 육체를 취하시고, 이 세상에 사람으로 오신 성육신 사건을 가리키는 것으로 보입니다. 또 「먹는다」는 것은 「믿는다」는 것을 의미하는 것이라고 생각합니다. 그래서「하늘에서 내려온 살아 있는 떡을 먹는다」는 것은 「성육신한 하나님의 아들을 믿는다」는 말이 됩니다. 예수님이 이 세상에 오신 목적은 여러분도 잘 아시다시피 구원자로서 은혜의 언약을 성취하시기 위해서였습니다. 즉, 사람이 되어 십자가형에 처해짐으로써 죄인의 죄값을 대신 받고, 한편으로 아버지를 향한 모든 순종을 통해 율법을 완성하는 것이었습니다. 하나님께서 육체를 취하시고 사람이 되셔서, 죄인의 이웃이 되어주시고 중보자로서 속죄를 이루신 것입니다.

그런데 51절 이후로「떡」'이라는 말이 「살」이라는 말로 대체되고 있습니다. 이것은 오늘의 본문에사, 매우 중요한 포인트라고 생각합니다. 살이란 예수님이 성육신하신 신비를 염두에 두고 있는 것이겠지요. 만약, 예수님이 사람으로 오시지 않았다면 우리의 죄값을 감당할 수 없었습니다. 만약 사람으로 오시지 않았다면, 즉 연약함이 없는 천사같은 존재로서 율법을 성취한들 아무런 의미가 없었습니다. 사람의 아들로서 성취된 것에 의미가 있는 것입니다. 만약 사람으로 오시지 않았다면 우리의 구원은 이루어질 수 없었습니다. 구원자는 바로 「인자」로 우리와 같은 「육」을 취하시고 오셨습니다. 우리의 구원은 믿음으로 이 예수님을 받아들이고 예수님의 공로에 참여하는 것이며 예수님과 함께 사는 것입니다. 하늘에서 내려오신 분의 그런 영적인 측면을 봐야 했는데, 가버나움 군중들은 그것을 모르고 논의를 하기 시작했습니다. 52~53절을 보세요.

52 그러므로 유대인들이 서로 다투어 이르되 이 사람이 어찌 능히 자기 살을 우리에게 주어 먹게 하겠느냐

53 예수께서 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 인자의 살을 먹지 아니하고 인자의 피를 마시지 아니하면 너희 속에 생명이 없느니라

「인육을 먹으라는 말인가, 당치도 않은 일이다!」 라고 해서 난리가 난 것입니다. 그러자 예수님은 「진실로 진실로 너희에게 이르노니」라고 서두를 꺼내며 말씀하기 시작했습니다. 「진실로 진실로 너희에게 이르노니」라는 말은 6장만 해도 벌써 네 번째가 됩니다. 이번에도 중요한 것이 이야기되고 있습니다만, 그 이야기된 내용은 오히려 무리를 혼란시켜 손댈 수 없게 되어 버렸습니다.「인자」즉 메시아의 살을 먹고 그 피를 마시지 않으면 너희 속에 생명이 없다」는 것은 십자가에 못 박히는 주 예수를 믿지 않으면 너희 안에 생명이 없다는 뜻입니다. 그러나 예수님은 단순히 「나를 믿으라」고 말씀하시지 않고 「인자의 살을 머고 인자의 피를 마시라」고 하셨습니다, 그 이유는 도대체 무엇일까요? 이런 표현은 초대교회가 세상 사람들로부터 식인 풍습이 있는 야만인으로 오해받은 요인이기도 했습니다. 왜 예수님은 굳이 이런 표현을 했을까요?

여기서 성찬식을 예수님께서 말씀하신다고 주장하는 사람이 있습니다. 분명 오늘날 그런 식으로 해석할 수도 있지만, 반드시 우리가 한 달에 한 번 하는 성찬 의식에 국한되는 것은 아니며, 우리가 평소 믿음에 의해 주어지는 그리스도와의 교제에 대해서도 마찬가지로 말하고 있다고 생각합니다. 그리스도와의 인격적인 교제란 무엇인가? 그것은 아버지에 의해 예수님께 이끌린 결과이지만, 애초에 그리스도와의 교제란, 신비 가운데 예수님에게 연합되어 생긴 것입니다. 56절을 보세요.

56내 살을 먹고 내 피를 마시는 자는 내 안에 거하고 나도 그의 안에 거하나니

「내 살을 먹고 내 피를 마시는 자는 내 안에 거하고 나도 그의 안에 거하나니」라고 되어 있는데, 여기서 「~ 안에 있다」라고 번역되어 있는 말은, 헬라어로 「메노」라는 말인데, 「머물다」'라는 뜻입니다. 이 메노라는 말은 15장에서 「포도나무와 가지」의 비유'가 나오는데 그 부분에도 나옵니다. 요15:5를 보세요.

요한복음 15장

5 나는 포도나무요 너희는 가지라 그가 내 안에, 내가 그 안에 거하면 사람이 열매를 많이 맺나니 나를 떠나서는 너희가 아무것도 할 수 없음이라

「그가 내 안에, 내가 그 안에 거하면」이라고 번역되어 있는 말이「메노」라는 말입니다. 아버지에 의해 예수님께 이끌린 자는, 예수님과 상호 「메노」하는 관계가 주어지고 예수님과 신비로운 연합이 주어지는 것입니다. 그 연합은 어떤 방식이냐면, 항상 내 안에 있고, 나 또한 항상 그 사람 안에 있는 방식의 연합입니다. 그러나 그렇다고 예수님이 지금 현재 이 세상에 편재하신다는 것은 아닙니다. 예수님은 십자가에 못 박혀 부활하신 지 40일 만에 하늘에 올라 하나님의 오른쪽에 앉으셨습니다. 부활하신 예수님은 현재 하늘에 계십니다. 그 하늘에 계신 예수님과 우리가 도대체 어떻게 연합되느냐 하면 성령에 의해 연합되는 것입니다. 성령으로 우리는 주 예수 안에 머무르며 주 예수님도 우리 안에 머물러 주시는 것입니다. 이 그리스도와의 신비적 연합은 성찬식을 통해 비로소 생기는 것이 아닌 이유는, 이미 예수 그리스도는 말씀에 있어서 우리 영혼의 떡이시기 때문입니다. 다만 그럼에도 불구하고 성찬식 속에서 더욱 선명하게 그리스도와의 신비적 연합을 확인할 수 있는 것은 떡과 포도주에 참여함으로써 단순히 예수님이 획득하신 유익에 참여하는 것만이 아니라 성령으로 그리스도의 살을 먹고, 피를 마시고, 예수님의 인성에 참여할 수 있기 때문입니다.

종교개혁 때 성찬식을 놓고 다양한 논의가 이루어졌습니다. 칼뱅은 성찬식 때 그리스도의 현존이 분명히 거기에 있다고 주장했습니다. 그러나 그 현존하는 방식은 가톨릭교회(화체설)나 루터교회(공재설)가 주장하는 것처럼 성찬식에서 떡과 포도주에서 그리스도의 실체가 거기에 있다는 방식이 아니라, 성령을 통해 우리는 하늘의 자리에까지 올려져 성령을 통해 하나님의 오른쪽에 계신 그리스도와 영적으로 연합된다고 주장했습니다. 즉 그리스도의 현존 방식이 가톨릭 교회나 루터교와는 조금 다르다는 것입니다. 만약 그리스도의 실체가 육체적으로, 지역적으로 현존한다면, 성별된 떡과 포도주도 예배의 대상이 되고 맙니다. 그러나 그리스도의 실체는 하늘에 올려져 있습니다.

성찬식은, 그리스도와의 풍부한 교제의 장소입니다. 그것은 단순한 기념 식사가 아니며, 단순한 신앙 고백의 장소도 아닙니다. 성찬식은 말씀과 마찬가지로 하나님의 은혜의 수단이며, 예수님과의 인격적인 교제를 강화하는 것이며, 이로써 교회는 양육되어지는 것입니다. 그로 인해 빚어지는 그리스도와의 교제는 훨씬 더 깊고 영원한 교제입니다. 그것은 바로 그리스도와의 신비적 연합이며 포도나무와 가지, 머리와 몸, 신랑과 그 신부, 토대와 그 위에 건축되는 건물과 같은 비유에 의해서만 그 풍요로움이 우리에게 다소나마 밝혀지는 것입니다. 우리 지상에서의 그리스도와의 영적인 교제는, 그리스도의 재림의 날, 부활에 참여할 때 영원한 교제로 바꿀 수 있는데, 바로 그때 그리스도와의 신비한 연합의 풍요로움을 미리 맛보게 되어 있는 것이며, 성찬식을 통해 신비적 연합이 각인되어 있는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 우리의 육체가 주식인 떡에 의존하며 날마다 양육되어지고 있듯이, 우리의 영혼은 육을 입으시고 사람이 되신 예수 그리스도에게 의존하며, 날마다 양육되어지고 있습니다. 그리스도의 살을 먹고 그리스도의 피를 마시는 것, 그것은 십자가에 못박힌 구원자 예수님을 믿는 것이지만, 동시에 그것은 예수 그리스도와의 신비로운 연합의 풍요로움을 맛보고, 이윽고 그날에 주어지는 주 예수님과의 영원한 교제를 엿볼 수 있는 것입니다.

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