2025年11月16日「朽ちない食べ物のために働きなさい 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

朽ちない食べ物のために働きなさい 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章16節~29節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

6:16夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
6:17そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
6:18強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
6:19二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
6:20イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
6:22その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
6:23ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
6:24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章16節~29節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様を王と担ぎあげようとした群衆に対し、それを拒絶するかのようにイエス様は一人山へ退かれました。イエス様は王として天から遣わされたのではなかったのでしょうか。イエス様は確かに王であられました。しかしイエス様の王としての権勢(権能)は、この世の権勢ではなく、天における権勢であります。この世の権勢は時間と共に、朽ちて、滅びていきます。どんなに歴史に名を残すような偉大な王であっても、いずれ新しい王が立てられ、新しい支配と新しい秩序が導入されることでしょう。しかし、イエス様の権勢とは、あらゆる名にまさる権勢であり、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス様の御名にひざまずくような、王の王、主の主としての権勢なのであります。時間と空間の制限の中で生きている私たちにとって、目に見える、実際的なものこそ、本物であると考えがちですが、目に見える、実際的なものは、やがて朽ち果てていき、いずれ存在しなくなります。ところが、今は私たちの目にはっきりとは見えませんが、天上のものであるイエス様の王としての権勢こそ、朽ちることのない、永遠に存在するものであります。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. わたしはある

熱狂的な群衆の渦の中から、イエス様は一人山へ退かれた後、弟子たちは夕方になったため、湖の向こう岸であるカファルナウムに再び戻ることにいたしました。他の福音書を見ますと、この時、イエス様ご自身がそのように強いられたため(マタ14:22、マコ6:45)、弟子たちだけで舟に乗って出発したと書かれています。巻末の地図6をご覧ください。ガリラヤ湖の北岸にカファルナウムとベトサイダを確認することが出来るでしょうか。カファルナウムには、ペトロの家があり、そこはイエス様と弟子たちの宣教の拠点でありました。最初、このカファルナウムからベトサイダへ舟で渡り、「五つのパンと二匹の魚の奇跡」を行いました。今再び、ベトサイダからカファルナウムに戻ろうとしている訳です。既に暗くなっていましたが、弟子たちは熟練した漁師でもありましたので、構わず出発したのでしょう。ところが海が荒れ始め、25ないし30スタディオン、すなわち5キロほど漕ぎ出すと、突然、嵐に見舞われました。ガリラヤ湖は普段は穏やかな海ですが、海抜が大変低いため、時折、突風が吹き下ろし、天気が急変し、嵐になる海としても知られています。弟子たちが大波に悩まされているとき、イエス様が海の上を歩いて来られました。弟子たちは最初、幽霊だと思ったのでしょう。水の上を近づいてくる人影を見て恐れました。するとイエス様は言われました。20節です。「わたしだ。恐れることはない。」この「わたしだ」という言葉は、ギリシア語では「エゴーエイミー」、ヘブライ語では「エフイェ」、英語では「I am」という言葉でありまして、出エジプト記3章に由来している言葉です。出エジプト記3章を見ますと、モーセが奴隷状態にあったイスラエルを解放するため、神から遣わされた解放者として召されますが、モーセは神様からの召命を渋っていました。出3:13~14をご覧ください。

“モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」”

同胞たちが、その神のお名前を尋ねたらどう答えたらいいでしょうかと質問すると、神様はモーセに、その名は「わたしはある」、ヘブライ語で「エフイェ」だと語られました。「エフイェ」つまりヤハウェです。従いまして、嵐の中でイエス様が弟子たちに言われた「わたしだ」というお言葉は、弟子たちに「わたしはある」という神のお名前と重なって響いてきたに違いないのであります。すなわち、海の大波を踏み砕かれる私こそ、旧約聖書の神ヤハウェであると主張しているのです。弟子たちがイエス様を舟に迎え入れようとすると、舟は間もなく目指す地に到着しました。この表現も大変不思議な感じが致します。あたかもイエス様を舟に迎え入れると、弟子たちは今までの奮闘が嘘であったかのように、舟は間もなく目的地に到着したのであります。

【2】. しるしが指し示すもの

さて、群衆は弟子たちが舟に乗って向こう岸に渡ったことに気づきました。そこには、一艘の小舟しかなかったこと、その一艘の小舟に弟子たちが乗って漕ぎ出し、イエス様は一緒には乗り込まれなかったということが分かっていました。すると、そこに他の小舟が、数そう岸辺に近づいて来たため、群衆はまさに「渡りに船」といわんばかりに、それらの小舟に乗って、イエス様に先回りし、カファルナウムに行くことにしました。この時、小舟の輸送能力を考えますと、五千人の男全員が移動したわけではないものの、その一部が移動したと考えられます。25節で、イエス様を見つけた人々は「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねています。「ラビ」という言葉は、「先生」という意味ですね。この何気ない言葉には、イエス様の神秘性が含蓄されているようです。と言いますのは、確かにあの時、一艘の小舟しかなく、そしてその小舟には弟子たちしか乗っていなかったはずでした。群衆は、後から来た数そうの小舟を利用してイエス様に先回りしてカファルナウムに到着したと思ったのです。てっきりイエス様はまだ、ベトサイダの丘に残っていると思っていたのに、一体どのように、カファルナウムに来られたのでしょうか。不思議です。何はともあれ、捜していたイエス様に再びお会いできて、人々は安堵しました。するとイエス様は、彼らに次のようにお答えになりました。26~27節をご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」”

「はっきり言っておく」という言葉は5:19にも出て来ました。「アーメン、アーメン、レゴ、ヒューミン」とギリシア語ではなっていて、新改訳聖書では、「まことに、まことに、あなた方に言います」と翻訳されています。イエス様はこれから大切なことを語りますと言われているのです。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」これは、一体どういう意味でしょうか。五つのパンと二匹の魚によって、大勢の群衆を食べさせた奇跡を、著者ヨハネは「しるし」として表現していました。今、確かに群衆はイエス様を追いかけていますが、それはしるしを見たからではなく、奇跡によって満腹したからだと言っているのです。つまり群衆がイエス様を王に担ぎ上げようとしているのは、自分勝手な願いを王様に投影しようとしているに過ぎない、あなた方は自分勝手に偶像を作り上げているのだと言われるのです。それでは、しるしを見るとは、どういう意味なのでしょうか。「しるし」とは、英語でサインという意味ですから、そのしるしが指し示すものがある訳で、その指し示しているものをあなた方は見ていないと言っているのです。五つのパンと二匹の魚の奇跡が指し示しているものとは一体何なのでしょうか。

イエス様はさらに続けます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」「人の子」とは、イエス様が、ご自身のことを指して使う言葉でありますが、その意味はキリスト(すなわちメシア)という意味です(マタ16:13~16)。「永遠の命に至る食べ物」とは、何でしょうか。それはメシアが与えてくださる食べ物だと言っています。父である神がメシアを認証してくださったから、メシアがあなた方に永遠の命に至る食べ物を与えることができるのだと言っています。要約するなら、しるしが指し示しているものとは、イエス様こそ、朽ちないパンであり、とこしえの命のパンであるということではないでしょうか。これは、サマリアの女に語った内容とも一致しています。サマリアの女はイエス様に、「なぜユダヤ人のあなたが、サマリア人の私に水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ねたところ、イエス様は「もし私を知っていたら、むしろあなたの方から生ける水を私から貰ったことでしょう」と言われました。つまり、御自身こそ、渇くことのない生ける水であり、御自身こそ朽ちることのない命のパンであると語っておられるのです。五つのパンと二匹の魚の奇跡とは、そのことを指し示しているのです。イエス様のお言葉に対し、群衆は次のように質問しました。28節です。

“神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか”

この質問は少し唐突のように聞こえるかもしれません。しかし、「業」という言葉を「働き」という言葉に言い換えれば、ストンと腑に落ちるのではと思います。イエス様は永遠の命に至る食べ物のために働きなさいと言われました。人々はこれを戒めの一つとして理解し、その戒めを守るためには何をしたら良いのかと質問しているのです。当時ユダヤ人たちが大切に守っていた先祖の言い伝えというものがありますが、これは、聖書に書かれている律法を破らないために、律法の周りに垣根を設け、その垣根を破らないことによって、神の律法を犯さないようにするという役割を担っていました。例えば、律法には安息日に働いてはならないと書かれています。その律法を守るために、安息日は、900メートル以上歩いてはならないだとか、物を運んではならない、火を使ってはならないなどという細かい規定が「先祖の言い伝え」として設けられたのであります。28節の群衆の質問は、これと全く同じ発想だということです。

【3】. 信仰とは生涯をかけた大事業である

それに対し、イエス様は次のように答えられます。29節です。ここには大変重要なことが示唆されています。“イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」”

ここでも「業」という言葉が出てきますが、そもそもこの言葉が出てくるようになったのは、イエス様がご自身で語った「働きなさい」という言葉に端を発しています。ここでイエス様が明らかにしていることは、信じること、信仰というのが、行いから区別されないと言うことであります。言い換えれば、いくら口先で信じる信じると言っても、行いが伴っていないのであれば、それは信仰ではないということです。信仰とはその人の「良き業」に裏打ちされたものであるということを語っているのだと思います。信仰とは業であり、信仰とは、悔い改めた人の行いが、それまでとは抜本的に変えられる、聖化の手段であると言うことができるでしょう。しかし、同時にもう一点、明らかにしていることは、その働き、業というものが、人間の働きではなく、神の働き、神の業であるということであります。ここが重要です。信じるということは、いわば、その人が生涯をかけた大事業であり、私たちが生涯賭けてイエス・キリストに自らを捧げ続けていく事でありますが、その大事業は決して自分の力でやれるものではなく、神が私たちの人生に起こし給うところの神の恵みの業であると語っているのです。

イエス様のお言葉を通して、私たちは「信仰」という概念をもう一度考えさせられるのではないでしょうか。信仰とは何か?口先だけの言葉が信仰ではなく、行いが伴うものである。これは頭では理解できるかもしれませんが、それなら、誰であれ、イエス様に完全に信頼しきることは、大変難しいことではないだろうかという問題が出てまいります。人は誰でも、信仰生活のアップダウンがあり、調子のいい時と悪い時があるからです。過去を振り返ってみるなら、主日礼拝をきちんと守れた時期もあれば、そうでない時期もあるのではないでしょうか。今後、私たちがどのような試練に見舞われても、キリスト教を背教することなく、イエス様を信じ抜く自信があると言い切れる人は、実際、一人もいないのではないでしょうか。ところが、その生涯をかけた私たちの大事業である信仰というものを、神様がご自身の業として責任もって成し遂げてくださると、イエス様は言われるのです。たとえ人生の中で暴風雨が起こり、大波に悩まされ、信仰を失いかねない状況に置かれたとしても、イエス様は、荒れ狂う大波を踏み砕き「わたしだ。恐れることはない」と言って、近づいて来てくださるのです。信仰という大事業が私たちの業ではなく、神の業であるなら、自分の信仰は果たして、大丈夫だろうか、本当に天国に行けるだろうかと思い悩む必要はなくなり、それと同時に、律法の遵守を通して、命と平安を何とかゲットしようとする試みを完全に放棄することができるようになるのです。神様の憐みを信じ、律法から自由になり、イエス・キリストの中で私たちのために成就された義と聖さに依り頼むときに、感謝が満ちあふれるようになり、その時、強制されてではなく、自発的に愛の業に促され、信仰が良き業へと帰結されるのであります。信仰とは行いが伴うものでありますが、神の恵みによってなされる神の業なのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。永遠の命に至る食べ物のために働きなさいとイエス様は言われました。つまり、イエス・キリストを信じなさいと言うことであります。「働きなさい」という言葉が示しているように、イエス・キリストを信じる信仰というものは、口先だけの言葉ではなく、良き業が伴うものであり、それはまさに生涯をかけた大事業であります。これは決して簡単なことではありませんが、その大事業とは、実は私たちの業ではなく、神様ご自身が責任もって成就してくださる業なのであります。私たちはぶどう園で働く労働者であり、農夫であるイエス様に信頼し、全てを委ねて、歩んで行く時に、たとえ嵐に見舞われることがあっても、不思議ととこしえの港である目的地へと到着するのであります。イエス様はそのような絶対的な権勢を持っておられるお方なのであります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

영생하도록 있는 양식을 위하여 하라

2025년 11월 16일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 6장 16~29절

서론

예수님을 왕으로 추대하려는 무리를 향해, 마치 그것을 거절하듯 예수님은 홀로 산으로 물러가셨습니다. 예수님은 왕으로서 하늘에서 보내심을 받지 않으셨던 것입니까? 예수님은 분명히 왕이셨습니다. 그러나 예수님의 왕으로서의 권세(권능)는 이 세상의 권세가 아니라 하늘에 있는 권세입니다. 이 세상의 권세는 시간과 함께 썩어 없어지고 망해 갑니다. 아무리 역사에 이름을 남길 만한 위대한 왕이라 할지라도, 언젠가는 새로운 왕이 세워지고 새로운 통치와 새로운 질서가 도입될 것입니다. 그러나 예수님의 권세는 모든 이름 위에 뛰어난 권세이며, 하늘에 있는 것, 땅에 있는 것, 땅 아래 있는 것 모두가 예수님의 이름 앞에 무릎 꿇게 하는, 왕의 왕, 주의 주로서의 권세입니다. 시간과 공간의 제한 속에서 살아가는 우리에게는 눈에 보이는, 실질적인 것만이 진짜라고 생각하기 쉽습니다. 그러나 눈에 보이는, 실질적인 것은 결국 썩어 없어지고, 언젠가는 존재하지 않게 될 것입니다. 그러나 지금은 우리 눈에 분명히 보이지 않지만, 하늘에 속한, 예수님의 왕으로서의 권세야말로 썩지 않고 영원히 존재하는 것입니다. 오늘도 요한복음을 통해 함께 말씀의 은혜에 참여하고자 합니다.

(1) 내니

열광적인 무리의 소용돌이 속에서 예수님께서 홀로 산으로 물러가신 후, 제자들은 저녁이 되었기에 호수 건너편인 가버나움으로 다시 돌아가기로 하였습니다. 다른 복음서를 보면, 이 때 예수님께서 제자들을 재촉하셨기 때문에(마14:22, 막6:45) 제자들만 배를 타고 출발했다고 기록되어 있습니다. 성경 말미의 지도 6을 참고하십시오. 갈릴리 바다 북쪽 기슭에 가버나움과 벳새다를 확인하실 수 있을까요? 가버나움은, 베드로의 집이 있었고, 그곳은 예수님과 제자들의 선교 거점이었습니다. 처음에 이 가버나움에서 벳새다로 배를 타고 건너가「보리떡 다섯 개와 두 마리 물고기」의 기적을 행하셨습니다. 이제 다시 벳새다에서 가버나움으로 돌아가려는 것입니다. 이미 어두워졌지만 제자들은 숙련된 어부이기도 했기에 개의치 않고 출발했을 것입니다. 그런데 바다가 거칠어지기 시작했고, 25에서 30스타디온, 즉 5km 정도 저어 나가자 갑자기 폭풍우를 만났습니다. 갈릴리 바다는 평소에는 잔잔한 바다이지만, 해발이 매우 낮기 때문에 때때로 돌풍이 불어내려와 날씨가 급변하여 폭풍이 이는 바다로도 알려져 있습니다. 제자들이 큰 파도에 시달리고 있을 때, 예수님께서 바다 위를 걸어 오셨습니다. 제자들은 처음에 유령인 줄 알았을 것입니다. 물 위를 다가오는 사람의 그림자를 보고 두려워했습니다. 그러자 예수님께서 말씀하셨습니다. 20절입니다.「내니 두려워하지 말라」이 「내니」라는 말은 그리스어로는 「에고 에이미」, 히브리어로는 「에후예」, 영어로는 「I am」이라는 말로, 출애굽기 3장에서 유래한 말씀입니다. 출애굽기 3장을 보면, 모세가 노예 상태에 있던 이스라엘을 해방시키기 위해 하나님께서 보내신 해방자로 부르심을 받지만, 모세는 하나님으로부터의 부르심을 주저하고 있었습니다. 출애굽기 3:13~14절을 보시기 바랍니다.

출애굽기 3장

13 모세가 하나님께 아뢰되 내가 이스라엘 자손에게 가서 이르기를 너희의 조상의 하나님이 나를 너희에게 보내셨다 하면 그들이 내게 묻기를 그의 이름이 무엇이냐 하리니 내가 무엇이라고 그들에게 말하리리까

14 하나님이 모세에게 이르시되 나는 스스로 있는 자이니라 또 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 스스로 있는 자가 나를 너희에게 보내셨다 하라

동포들이 그 하나님의 이름을 묻는다면 어떻게 대답해야 하겠느냐고 묻자, 하나님은 모세에게 그 이름이「나는 스스로 있는 자이니라」, 히브리어로 「에후예」라고 말씀하셨습니다. 「에후예」 즉 야훼입니다. 따라서 폭풍 속에서 예수님께서 제자들에게 하신 「내니」라는 말씀은 제자들에게 「나는 스스로 있는 자이니라」라는 하나님의 이름과 겹쳐 울려왔을 것입니다. 즉, 바다의 큰 파도를 밟아 부수시는 바로 그분이 구약성경의 하나님 야훼임을 주장하시는 것입니다. 제자들이 예수님을 배에 모시자, 배는 곧 가려던 땅에 도착했습니다. 이 표현 또한 매우 신비로운 느낌을 줍니다. 예수님을 배에 모시자, 제자들의 지금까지의 고생이 마치 거짓말이었던 것처럼 배는 곧 목적지에 도착한 것입니다.

(2) 표적이 가리키는 것

그러자 무리는 제자들이 배를 타고 건너편으로 건넜다는 것을 알아차렸습니다. 거기에는 작은 배 한 척밖에 없었고, 그 한 척의 작은 배에 제자들이 타고 저어 나가는데, 예수님은 함께 타지 않으셨다는 것을 알고 있었습니다. 그런데 그때 다른 작은 배들이 여러 척 해변에 다가왔습니다. 무리는 그야말로 “배가 마침 잘 왔다”는 듯이 그 배들을 타고 예수님보다 먼저 가버나움으로 가기로 했습니다. 이때 작은 배의 수송 능력을 고려해 보면, 오천 명의 남자 전원이 이동한 것은 아니지만 그 일부가 이동한 것으로 생각됩니다. 25절에서 예수님을 발견한 사람들은 「랍비여 언제 여기 오셨나이까」라고 묻습니다. 「랍비」라는 말은 「선생님」이라는 뜻입니다. 이 무심코 던진 말에는 예수님의 신비로움이 함축되어 있는 듯합니다. 왜냐하면 분명 그때는 배 한 척밖에 없었고, 그 배에는 제자들만 타고 있었을 테니까요. 무리는 뒤따라 온 여러 척의 배를 이용해 예수님께서 먼저 가버나움에 도착하셨다고 생각했습니다. 분명 예수님은 아직 벳새다 언덕에 계실 거라 여겼는데, 도대체 어떻게 가버나움에 오셨을까요? 신기합니다. 어쨌든 찾고 있던 예수님을 다시 만나자 사람들은 안도했습니다. 그러자 예수님께서 그들에게 이렇게 대답하셨습니다. 26~27절을 보십시오.

26 예수께서 대답하여 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 너희가 나를 찾는 것은 표적을 본 까닭이 아니요 떡을 먹고 배부른 까닭이로다

27 썩을 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님께서 인치신 자니라

「진실로 진실로 너희에게 이르노니」라고 하는 말은 5:19절에도 나왔습니다.「아멘, 아멘, 레고 휴민」이라는 헬라어로 되어 있습니다. 예수님께서 이제부터 중요한 말씀을 하신다고 하시는 것입니다. 「너희가 나를 찾는 것은 표적을 본 까닭이 아니요 떡을 머고 배부른 까닭이로다」 이것은 대체 무슨 뜻일까요? 보리떡 다섯 개와 물고기 두 마리로 많은 무리를 먹이신 기적을 저자 요한은「표적」으로 표현했습니다. 지금 확실히 무리는 예수님을 따르고 있지만, 그것은 표적을 보았기 때문이 아니라 기적으로 배부르게 되었기 때문이라고 말씀하시는 것입니다. 즉 무리가 예수님을 왕으로 추대하려는 것은 자기 중심적인 소망을 왕에게 투영하려는 것에 지나지 않으며, 너희는 자기 멋대로 우상을 만들어내고 있다고 말씀하시는 것입니다. 그렇다면 표적을 본다는 것은 무슨 의미일까요?「표적」은 영어로「sign」이라는 뜻이니, 그 표적이 가리키는 대상이 있는 것이며, 너희는 그 가리키는 것을 보지 못하고 있다고 말씀하시는 것입니다. 보리떡 다섯 개와 물고기 두 마리의 기적이 가리키는 것은 대체 무엇일까요?

예수님은 계속 말씀하셨습니다. 「썩을 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님께서 인치신 자니라」「인자」란 예수님께서 자신을 가리켜 사용하신 말씀으로, 그 의미는 그리스도(즉 메시아)를 뜻합니다(마태복음 16:13~16).「영생하도록 있는 양식」이란 무엇일까요? 그것은 메시아가 주시는 양식이라고 말씀하십니다. 아버지 하나님께서 메시아를 인정해 주셨기에, 메시아가 너희에게 영생에 이르는 양식을 줄 수 있다고 말씀하십니다. 요약하자면, 표적이 가리키는 것은 예수님 자신이 썩지 않는 양식이며 영원한 생명의 떡이시라는 것이 아닐까요? 이는 사마리아 여인에게 하신 말씀과도 일치합니다. 사마리아 여인이 예수님께「당신은 유대인으로서 어찌하여 사마리아 여자인 나에게 물을 달라 하나이까」라고 묻자, 예수님은 「네가 만일 하나님의 선물과 또 네게 물 좀 달라 하는 이가 누구인 줄 알았더라면 네가 그에게 구하였을 것이요 그가 생수를 네게 주었으리라」라고 말씀하셨습니다. 즉, 그분 자신이 바로 영원히 목마르지 않는 생수이시며, 그분 자신이 바로 썩지 않는 생명의 떡이심을 말씀하시는 것입니다. 보리떡 다섯 개와 물고기 두 마리의 기적은 바로 그 사실을 가리키고 있는 것입니다. 예수님의 말씀에 대해 무리는 다음과 같이 질문을 했습니다. 28절입니다.

28 그들이 묻되 우리가 어떻게 하여야 하나님의 일을 하오리이까

이 질문은 다소 갑작스럽게 들릴지도 모릅니다. 예수님께서는 영생에 이르는 양식을 위하여 일하라고 말씀하셨습니다. 사람들은 이를 계명 중 하나로 이해하고, 그 계명을 지키기 위해 무엇을 해야 하는지 묻고 있는 것입니다. 당시 유대인들이 소중히 지키던 조상의 전승이라는 것이 있었는데, 이는 성경에 기록된 율법을 어기지 않기 위해 율법 주위에 울타리를 세우고, 그 울타리를 넘지 않음으로써 하나님의 율법을 범하지 않도록 하는 역할을 앴습니다. 예를 들어, 율법에는 안식일에 일해서는 안 된다고 기록되어 있습니다. 그 율법을 지키기 위해 안식일에는 900미터 이상 걸어서는 안 된다거나, 물건을 운반해서는 안 된다, 불을 사용해서는 안 된다 등의 세세한 규정이 「조상의 전승」으로 설정된 것입니다. 28절에 나오는 무리의 질문은 바로 이와 똑같은 발상이라는 것입니다.

(3) 믿음은 생애를 건 대사업

이에 대해 예수님께서 이렇게 대답하셨습니다. 29절입니다. 여기에는 매우 중요한 점이 시사되어 있습니다.

예수께서 대답하여 이르시되 하나님께서 보내신 이를 믿는 것이 하나님의 일이니라 하시니

여기서도 「일」이라는 말이 나오지만, 애초에 이 말이 등장하게 된 것은 예수님께서 직접 말씀하신 「일하라」는 말씀에서 비롯되었습니다. 여기서 예수님께서 분명히 하신 것은 믿음, 즉 믿음이 행위와 분리될 수 없다는 점입니다. 달리 말하면, 아무리 입으로 믿는다 믿는다 해도 행위가 따르지 않는다면 그것은 믿음이 아니라는 것입니다. 믿음이란 그 사람의「선한 행실」로 뒷받침되는 것임을 말씀하시는 것이라 생각합니다. 믿음은 행위이며, 믿음은 회개한 사람의 행위가 그 전과는 근본적으로 변화되는 성화의 수단이라고 말할 수 있을 것입니다. 그러나 동시에 또 한 가지 분명히 하고 있는 것은 그 일이라는 것이 인간의 일이 아니라 하나님의 일, 하나님의 역사라는 점입니다. 여기가 중요합니다. 믿는다는 것은 말하자면 그 사람이 생애를 건 대사업이며, 우리가 생애를 걸고 예수 그리스도께 스스로를 계속 바쳐 나가는 일이지만, 그 대사업은 결코 자신의 힘으로 할 수 있는 것이 아니라 하나님이 우리 인생에 일으키시는 하나님의 은혜의 역사라고 말하고 있는 것입니다.

예수님의 말씀을 통해 우리는 「믿음」이라는 개념을 다시 한번 생각하게 되지 않을까요? 「믿음이란 무엇인가? 입으로만 하는 말이 믿음이 아니라 행함이 따르는 것이다」이것은 머리로는 이해할 수 있을지 모르지만, 그렇다면 누구든지 예수님을 완전히 신뢰하는 것은 매우 어려운 일이 아닐까 하는 문제가 제기됩니다. 사람은 누구나 신앙 생활에 기복이 있고, 상태가 좋을 때와 나쁠 때가 있기 때문입니다. 과거를 돌아보면 주일 예배를 제대로 지켰던 시기도 있었고, 그렇지 않았던 시기도 있지 않았을까요? 앞으로 우리가 어떤 시련을 겪더라도 기독교를 배교하지 않고 예수님을 끝까지 믿을 자신이 있다고 단언할 수 있는 사람은 실제로 단 한 사람도 없을 것입니다. 그런데 그 생애를 건 우리의 대사업인 믿음이라는 것을, 하나님께서 자신의 일로 책임지고 이루어 주신다고 예수님은 말씀하십니다.

비록 인생 속에서 폭풍우가 일어나고 큰 파도에 시달리며 믿음을 잃을 뻔한 상황에 놓여도, 예수님은 요동치는 큰 파도를 밟아 부수시고 「내니 두려워하지 말라」 하시며 다가오십니다. 믿음이라는 대사업이 우리의 일이 아니라 하나님의 일이라면, 내 믿음이 과연 괜찮을까, 정말 천국에 갈 수 있을까 고민할 필요가 없어지고, 동시에 율법 준수를 통해 생명과 평안을 어떻게든 얻으려는 시도를 완전히 포기할 수 있게 됩니다. 하나님의 자비를 믿고 율법에서 자유로워지며, 예수 그리스도 안에서 우리를 위해 성취된 의와 거룩함에 의지할 때, 감사가 넘쳐흐르게 됩니다. 그때 강요당하는 것이 아니라 자발적으로 사랑의 행위에 이끌려, 믿음이 선한 행위로 귀결되는 것입니다. 믿음은 행함이 따르는 것이지만, 하나님의 은혜로 이루어지는 하나님의 일인 것입니다.

결론

오늘 내용을 정리합니다. 썩을 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 하셨습니다. 즉, 예수 그리스도를 믿으라는 말씀입니다. 「일하라」는 말씀이 시사하듯, 예수 그리스도를 믿는 믿음은 입으로만 하는 말이 아니라 선한 행실이 따르는 것이며, 이는 바로 생애를 건 대사업입니다. 이는 결코 쉬운 일이 아니지만, 그 대사업은 사실 우리의 일이 아니라 하나님께서 친히 책임지고 이루시는 일입니다. 우리는 포도원에서 일하는 일꾼이며, 농부이신 예수님을 신뢰하고 모든 것을 맡겨 걸어갈 때, 비록 폭풍을 만나더라도 기적처럼 영원한 항구인 목적지에 도달하게 됩니다. 예수님은 바로 그런 절대적인 권세를 가지신 분이십니다.

関連する説教を探す関連する説教を探す