2025年11月01日「ダビデへの油注ぎ」

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ダビデへの油注ぎ

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 16章1節~23節

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1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
14主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
15サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。
16王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」
17サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」
18従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」
19サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」
20エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。
21ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。
22サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」
23神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 16章1節~23節

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序論

サウルはサムエルからはっきりと王位が廃位されたことを宣言されました。サウルが主の御言葉を拒絶したために、主もサウルを王位から退けたのです。この出来事は、サムエルを大変悲しませましたが、主はサムエルに対し「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか」、「角に油を満たして出かけなさい。」とお命じになり、ついに神さまの御心に適った、ベツレヘムのエッサイの子に油を注ぎます。油注ぎとは、何かと申しますと王や祭司や預言者が任職する際、その職務に捧げられるという意味でなされました。聖別の意味合いがあります。つまり、この日、ダビデに油が注がれ、イスラエルに新しい王が誕生したのです。その光景を目撃していた長老たちには、まだ、主の聖なる油注ぎの意味が、はっきりとは理解されませんでしたが、この日を境にして「イスラエルに神によって選ばれた王」が、「神と完全に心の一致した王」が立てられたのです。本日は、ダビデの油注ぎが何を意味しているのかについて考えて行きたいと思います。

【1】. ベツレヘムでの会食

サムエルは最初、主の命令を聞いて躊躇しました。1~3節をご覧ください。

“主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」”

サムエルが躊躇した理由とは、サウルを恐れていたからです。たとえサウル王の廃位を直接宣言したとしても、その時点で政権交代が直ちに起こった訳ではなく、いまだサウルの王権が続いている訳です。サウルは新しく立てられる王にきっと猜疑心を燃やしていたに違いありません。もしかしたら、預言者サムエルの動きをサウルは逐一監視していた可能性もあります。そのような中で、油を注ぎ、新しい王を立てたということがサウルの耳に入れば、反逆罪に問われ、下手をすれば自分が殺されかねないのであります。サムエルは命がけの任務を遂行することになりました。

エッサイとは、ユダ族の家系でボアズとルツの孫に当たります。また、ベツレヘムとはエッサイが住んでいる町でありヘブライ語で「パンの家」という意味ですが、何の変哲もないイスラエルの南部の町でした。サムエルは普段、北部エフライムのベテル、ギルガル、ミツパを巡回しながら生贄を捧げて礼拝を導いていました。ところが、今回、突然南部の片田舎であるベツレヘムに、雌牛をひいて現れたのです。ベツレヘムの長老たちはサムエルを歓迎するどころか、むしろ不安そうにびくびくしながらサムエルを迎えました。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」と言っています。もしかしたら、ベツレヘムにもサムエルとサウルの不仲説が届いていたのかもしれません。サムエル自身もこの任務に恐れを感じていましたが、長老たちも、突然の預言者の訪問によって、この町がいざこざに巻き込まれるのではないかと恐れていたのだと思います。この張り詰めた緊張感と重苦しい雰囲気の中で、サムエルは主からあらかじめ言われた通りに答えました。5節をご覧ください。

“「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。”

サムエルは、いけにえの会食に長老たちを招き、そしてエッサイとその息子たちに身を清めさせ、彼らもいけにえの会食に招きました。もちろん、主なる神がエッサイの息子たちの中で、誰を新しい王として立てようとしておられるのか、それをこの目で見極めるためです。サムエルはまず、長男のエリアブに目が留まりました。サウルとそっくりで立派な体格をしていました。彼こそ主の前に油注がれる者だと、心の中で密かに思いました。しかし、これは、サウルを選んだ時のように、外見の容姿や背の高さによって王を立てようとしていたに過ぎません。以前の選び方の繰り返しであります。この時、主はサムエルに言われました。7節です。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」このようにして、エリアブは退けられました。エリアブの後、息子たちが次々と、サムエルの前を通り、七人が通り過ぎましたが、そのたびに主は沈黙されました。ここで「7」という数字が出てきます。これは完全数を意味しています。ダビデはその「7」の中にも含まれていない仲間外れ的な存在であったということです。「あなたの息子はこれだけですか」とエッサイに尋ねると、「末っ子が残っていますが、今、羊の番をしています」という答えが返って来ました。するとサムエルは「人をやって彼を連れてくるように。その子がここに来ないうちは、食卓に着きません」と言いました。食卓は既に整っていましたが、八番目の息子が登場するまで、そのまま待ち続けることとなったのです。

【2】. 神のhidden card

ここで私たちは少し考えてみたいと思います。神様はなぜ最初から、「エッサイの家の八番目の末っ子にダビデという少年がいるから、彼に油を注ぎなさい」と言われなかったのでしょうか。なぜ、そうはされずに、七人の立派な兄たちを、まずサムエルの前に通し、そして八番目の息子の到着を待つようにされたのでしょうか。それは、サムエルも、そしてダビデの両親や家族さえ、想定していなかった者を主はお選びになるということを示されるためだと思われます。それでは主が選ばれたエッサイの八番目の息子とは、どのような人物だったのか、ここに出てくるのはわずかな情報に過ぎませんが、それでもダビデが皆から蔑まれていたということが分かります。例えば、今回、いけにえの会食に一人だけ声がかからなかったことが挙げられます。まだ幼なすぎるため、いけにえを捧げて、主の礼拝に出席することが許されなかった、そのように考えることもできますが、一人だけ羊の番をさせておくというのは、どうも理解できません。羊飼いという職業は、牧畜を愛するイスラエルの社会において、人々の心に深く根をおろした職業でありますが、実際、その仕事は、決して楽なものではなかったようです。忍耐と、労力と、羊一匹一匹を配慮し養う心が必要とされました。乾燥の厳しいパレスティナにおいて毎日、羊たちに水を与えなければならないですし、杖を持って獣や盗人から群れを守らなければなりません。夕方になれば、おりの中に導かなければなりませんでした。羊飼いたちの服装には、家畜の糞尿の匂いがしみ込んでいます。ですから裕福な人々は普通、雇人を用いて牧畜をさせました。この大変な仕事を少年ダビデに任せているのです。もう一つ挙げるなら、17章においてダビデがゴリアトと戦う場面が出てきますが、ここでも長兄のエリアブはダビデに対し、ものすごい過剰反応を示しています。ダビデは自分たちにお弁当を届けるためわざわざ来てくれたにも拘わらず、エリアブは「お前は何をしに来たんだ。お前の思い上がりと野心は分かっている」というような塩対応です。感謝する気持ちは微塵もありませんでした。兄たちはダビデの存在そのものを不快に思っていたのではと思わせるような態度です。もしかしたら、ダビデは少年時代に両親や家族から十分な愛を受けることができず、所謂ネグレクトされ、気の毒な幼少期を送って来たのかもしれないという仮説を立てることが出来るのです。詩編27編は、ダビデの詩ですが、10節には次のように書かれています。お読みしますのでそのままお聞きください。

“父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。”

もしこの仮説が正しいなら、ダビデは傷ついた心を、羊飼いをしながら、主に祈ることによって癒していただいていたのかもしれないのです。こうして、ものの数にも入れない、蔑まれた者を、神は油注がれました。神の「hidden card」として備えておられたのであります。実は、イエス様も神のhidden cardとしてベツレヘムでお生まれになり、ナザレで育ちました。イエス様は、洗礼者ヨハネのように祭司の子として生まれたのではなく、大工の子として生まれてきました。誰もが、ナザレから何か良いものが出るだろうかと考えていたくらいです。このように神の選びとは、人間の目には大変かけ離れているということを知ることが出来るのです。

【3】. 油注ぎ

しばらく待たされた後、ダビデがようやく家の中に連れて来られました。12~13節をご覧ください。

“エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。”

これまで無視され続けてきた八番目の末の子の名前が、13節になってようやく出てまいります。「ダビデ」という名前です。食卓に着いていた長老たちは、この時点では、油注ぎのその真意を理解していなかったのでしょう。というのは、油注ぎの儀式が行われた時、誰も「ダビデ王、万歳!」と、叫んだ人はいなかったからです。油注ぎの真意は、ダビデを初めとして誰にも明らかにされませんでした。しかし、神と預言者サムエルだけがその真意をはっきりと分かっていました。油注ぎとは、神的な奉献であり、神の霊によって武装することの象徴であります。このダビデこそ、イスラエルの真の王であり、長く待望されてきた者、永遠においてあらかじめ選ばれた者であり、イエス・キリストの影、イエス・キリストの予表なのです。油注ぎとは、イエス・キリストがこの世にお生まれになることによってもたらされる、イスラエルの救いを予表していたのでありました。

少し余談になりますが、旧約聖書には、来るべきメシアが、イスラエルの王という立場で来られると預言されています。しかしイエス・キリストの、そのご生涯を見る時に、世の専制君主とはずいぶんかけ離れていますし、イスラエルを治めた王たちと比較しても、やはりイエス様の姿は、ずいぶんとかけ離れていました。王として来られたはずのイエス様は、人々からさげすまれ、自己犠牲的であり、羊飼いのようにご自身の羊一人一人に低く仕える王様でした。もし君主たちの中でたった一人、例外がいるとするなら、それはまさにダビデです。ダビデは両親や兄弟たちからさげすまれ、主に生贄を捧げる礼拝の出席も許されず、一人、羊の番をしていました。イエス様による王職とダビデによる王職は、この「羊飼いである王」という点において共通点があるのです。それは、まさに同胞を見下さない、謙遜な王として、主がお選びになった神の僕なのであります。ですから、ダビデ以降の歴代の王様たちは、ダビデが基準となって判断されるようになります。「ダビデのように歩んだ」のか、「ダビデの心とは異なって歩んだ」のか評価されるようになりました。ダビデ王はやがてこられるキリストの影に過ぎませんが、キリストのご支配は兵力と武器によらない王職であり、この世とはまったく異なる方式によって治める王職であります。それは、御言葉と聖霊を通して、恵みと真理によって、義と正しい裁き打ち立てる王職なのであります。

ダビデに主の霊が激しく降るようになる一方で、サウルからは主の霊が離れ、代わりに悪霊によって悩まされるようになりました。ここで注目したいことは、ダビデは、決して自分が王となることを目標としたり、何とか王宮に入れられるよう自ら画策したことはありませんでした。むしろ普段通りの羊飼いの生活を続けていました。ところが、偶然というべきか、神の導きというべきか、サウル王の音楽療法士として取り立てられ、王宮に迎え入れられることになったのです。17~18節をご覧ください。

“サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」”

サウルの従者は、サウルにダビデのことを勧めています。従者がなぜダビデのことを、そのように詳しく知っていたのか全く不思議ではありますが、とにかく、ダビデは単に楽器を上手に奏でるだけではなく、勇敢さと、武勇を兼ね備え、言葉にも分別があり、外見も良く、なによりも、主が共におられる人であるというふうに紹介されています。「主が共におられる」、この言葉は、今後サムエル記の中でリフレーンのように繰り返し出てくる言葉ですが、ダビデへの油注ぎとはまさに、主がどのような時にもダビデと共におられることのしるしだったのです。イエス・キリストにあって地上に神の国が到来したように、ダビデと共にある主によって、イスラエルに救いと平和がもたらされるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。ダビデの油注ぎとは、何なのか?それは、イエス・キリストが聖霊によってこの世にお生まれになったことを予表する出来事であり、或いは洗礼者ヨハネによって水の洗礼を受けて、聖霊が鳩のようにくだり、イエス様に聖霊が限りなく満たされたことを予表する出来事であったと言えるでしょう。イエス様は、人々の上に君臨し人々を支配するのではなく、ダビデのように羊飼いの王として人々に仕えるためにこの世に来られました。十字架でご自身の命をお与えになる王として来られたのです。それによって樹立された神の国は、現在、霊的においてのみ存在していますが、やがてキリストが再臨する終わりの日には、すべての不敬虔な者たちが公正に裁かれ、万物が更新され、新しいエルサレムとして、目に見える形で、完全に、神の国が現れることになるでしょう。その時、キリストに属する者たちはキリストと共に御座に座り、国を治めるようになります。旧約の聖徒たちが、ダビデを通して、ダビデの子、メシアを待望したように、新約に生きる私たちは、キリストの初臨を通して、神の国が完全な形として現れるキリストの再臨を待ち望む者として日々歩みを重ねて行く者とならせていただきましょう。

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