2018年11月25日「キリストとの論争」

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聖句のアイコン聖書の言葉

23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章23節~32節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イエスさまはユダヤ人の過越しの祭りの中で最後の1週間をお過ごしになりました。特にイチジクの木を枯らせた日は、火曜日と推定されますが、この日は大変忙しく、そして重要な日となりました。その日、枯れたイチジクの木を通り過ぎた後、イエスさまは神殿の境内に入られ人々に教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て論争を持ちかけられました。この論争は実に25章46節までに渡り、様々な主題によって延々に続くことになりますが、特に、本日お読みした箇所においては一番最初の「権威」についての論争がなされました。23節の続きからご覧ください。“何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。”と主イエスに問い詰めています。彼らが言う「このようなこと」とは、何を指しているのかと言うと、一義的には「イエスさまが宮で教えていること」と考えられます。しかしその背景には、エルサレムに入城されてから、そこに至るまでに様々な出来事がありました。つまり、群衆に対し公然とご自分がメシアであることを受け入れられ、エルサレムに勝利の入城をされた事、そして子どもたちの賛美を受け入れられた事、目の見えない人、足の不自由な人を奇跡によって癒された事、さらには宮きよめによって商売人を追い出した事など、全てのことを含んでいたのでしょう。

主イエスに論争を仕掛けた祭司長と長老たちとは、恐らくサンヘドリン議会の構成員だと考えられます。サンヘドリン最高議会は、ユダヤ人の宗教の中心であり、ユダヤ社会の権力の中枢でもありました。彼らがまさにユダヤ教の権威をその手に握っていたのです。彼らが定めた規定によれば、当時、旧約聖書の御言葉と先祖たちの伝承を正しく教育するために、ラビが立てられました。ラビになるためには、最低三人の任職済みのラビの前で、恩師の手により按手を受けて初めてラビとしての資格が得られるのです。ナザレの大工に過ぎず、彼らによって認められていないイエスさまに対し、「一体どこの誰が、お前を認めたのか」と、その越権行為について説明を求める権利が当然サンヘドリンにはありました。そのようにすることは、ユダヤ教を管理する責任を持っている彼らにとって、当然のことだったと言えるでしょう。しかし、もう既に、この頃には、サンヘドリンの宗教指導者たちにおいて、ナザレ人イエスをどのようにして殺すことができるか、陰で相談されていました。イエスさまが彼らの既得権益を脅かしていたからです。従って、彼らの質問は純粋に教えてくださいという動機で質問をしているのではなく、大変陰険な質問でもあったのです。もし「メシアの権威によってこれらのことをしている」「それは父なる神によって与えられた権威である」とでも答えようものなら、その言葉尻を捉えて、神聖冒涜の罪に訴えてやろうとひそかに機会を狙っていたのです。イエスさまは一言、ヨハネの洗礼の権威について問い返されました。25-26節をご覧ください。

“ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」”

ヨハネの権威とイエスさまの権威には密接に関連がありました。洗礼者ヨハネの対する人々の態度が、即ち、イエスさまに対する態度でもありました。ヨハネに耳を傾けるなら、イエスさまのもとに来る。ヨハネを拒絶するなら、イエスさまを拒絶するということです。ヨハネとは、神に対する人間の応答の、バロメーターであったということです。洗礼者ヨハネとは、ラクダの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べながら荒れ野で、人々に悔い改めを説き、悔い改めのバプテスマを授けていた人物でした。神はメシアの先駆者としてヨハネをこの世に遣わされました。彼は主の道を備えるために来たということ以外には、他のどのような主張も前面に出しませんでした。彼の生涯とは、キリストが神の独り子であるということを証言しただけです。その証言は、神がヨハネの口を通して「義の道」を提示されたのです。マラキ書3:23-24節の預言の成就として、神がお遣わしくださったのです。人々はみな、ヨハネを神の預言者だと思っていました。「洗礼者ヨハネの権威は、一体どこから出たのか」、宗教上の権威を握るサンヘドリンとして、これに答えるのは当然の義務でした。預言者マラキ以降、400年間イスラエルには預言者現れませんでした。しかし神の沈黙を破るかのように、洗礼者ヨハネが現れました。もしかしたら、この時代に神が遣わした預言者なのかもしれないのす。ところが、祭司長と長老たちは主イエスの質問に対し、互いに、あーでもない、こーでもないと論じ合いながら、結局、宗教的最高権威者と自称するサンヘドリンが「わかりません」と結論を出しました。彼らの論じ合うその姿は、群衆の世論を恐れながら、自分たちの身の安全を第一に考えていました。つまり、もし、彼らがヨハネの権威が天からだとはっきり認めてしまうなら、なぜ、あなた方はヨハネを信じ、悔い改めて洗礼を受けなかったのですか、となってしまいます。さらに、洗礼者ヨハネは主イエスをメシアであると明白に証言していましたから、なぜ、彼の証言を受け入れなかったのですかということになってしまいます。それでは、逆に、もしヨハネの権威が人からだと言えばどうでしょうか。群衆の反感を買うのは避けられません。自分たちの指導力が弱まる心配がありましたし、何より、彼らを下手に刺激してしまい、暴動などに発展してしまったなら、ローマ帝国から自分たちに任されている自治権をはく奪されたり、最悪の場合は、ローマの軍隊を一気に送り込まれて、鎮圧され、国が完全に滅ぼされかねないのです。そういう訳で、サンヘドリンの議員たちは主イエスの鋭い質問に対し「私たちにはわかりません」と答えました。本当に「わからない」のではなく、自分たちの利害や安全にかかわる問題に触れるため、「分かろうとしない、結論を出したくない」ということでした。彼らは、神の御前に真実に立つことを放棄し、結論を出すことを保留しました。するとイエスさまも“それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい”と言われ、次に一つのたとえ話をされました。28-30節をご覧ください。

“ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。”

この譬えの中で、父とは神さまです。ぶどう園とは、旧約における、「イスラエル」であり、新約においては「教会」です。もっと言えば、ぶどう園とは神の国を指しています。兄は、神の国で働きなさいという父の言葉に、最初は傲慢不遜に背を向けたものの、後で悔い改めてぶどう園に行き、父の言葉に従順しました。一方、弟は「はい主よ、承知しました」と気軽に引き受けたものの、ぶどう園に行きませんでした。父の言葉に不従順だったのです。弟の返事に特に注目しますと、新共同訳聖書では「お父さん承知しました。」と書かれていますが、「呼ばれましたか、主よ。わたしはここにいます」というニュアンスです。これはヘブライ語において従順を現す返事です。神が召してくだされば、私はここにいます。お遣わしください。という姿勢です。それでは実際に二人の兄弟の内、父親の望み通り行った、信実な息子はどちらだったでしょうか。彼らは「兄のほうです」と正しく答えることができました。祭司長と長老たちが正しく答えた直後に、イエスさまはこの譬えの本当の狙いを明かされます。

実は、この譬えは、彼らからこれ以上、自分たちが神の使者であるという意味のない振る舞いをさせないように、偽りの仮面をはがしてしまうような譬えでした。サンヘドリンの権力者たちの貪欲、傲慢、残忍性は、皆が知る所ではありましたが、彼らは表面を繕い、敬虔深さを堅持し続けようとしていました。彼らは、主イエスを攻撃することによって、自分たちが教会の忠実な指導者であるかのように、教会の秩序を維持することに余念がないように演じ続けていたのです。その化けの皮をはがしてしまうような譬えだったのであります。31節をご覧ください。

“この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。”

ここでマタイによる福音書では、珍しく「神の国」と言う言葉が使われています。これまでは「天の国」と表現されますが、ここでは特に「ぶどう園に行くこと」を指して、それが神の国に入ることだとはっきり暗示するために使われていると思われます。そしてイエスさまは譬えの中の兄とは、徴税人や娼婦たちの事を指していて、弟とはサンヘドリンの議員たちを指していることを明らかにしました。このことを指摘されて、祭司長、長老たちは、ショックを受けたことでしょう。なぜなら、彼らは、神に従順であると自認していたけれども、主イエスの口から、自分たちは「神の国に入らなかった」「ぶどう園に行かなかった」と叱責され、普段から罪人と蔑視していた徴税人や娼婦たちが、むしろ神の国に入って行ったということを聞かされたからです。初め、徴税人や娼婦たちは、自分たちに示された神の律法の頸木を傲慢に拒絶し、その後も罪を悉く重ね、お金を愛して異邦人に従ったり、不品行を楽しみ堕落していきました。しかし、洗礼者ヨハネが現れてから、彼らは悔い改めました。そしてヨハネが証言するキリストについていき、それまで犯していた罪にもはや固執することはありませんでした。つまり、一度彼らが拒絶し、払いのけたキリストの頸木を、立ち帰り黙って担って行ったのです。一方、サンヘドリンの人々はどうでしょうか。彼らは、自分たちの捧げる神聖な礼拝と律法に対する熱心さを前面にひけらかし、自分たちの義を主張し、自分たちがいかに卓越しているのかを主張しますが、主イエスは、彼らを、「口先だけの弟の行動」に譬えているのです。彼らは、表面的な儀式やいけにえの供え物ばかりに気を配るだけで、葉ばかりのイチジクの木のように、肝心の悔い改めの実を結ぶことはありませんでした。32節をご覧ください。

“なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。”

祭司長、長老たちは兄のように、後から心を変えることもなく、或いは、「後から心を変えた徴税人や娼婦」たちの模範を見て、悔い改めようとはしないで、ぶどう園に行こうとはしませんでした。従って神の目からは、徴税人や娼婦より不忠実な者であり、彼らが主張している、「偽りの威厳」を完全にはく奪しているのです。

この譬えを通して第一に見えてくるのは、罪深さの故に、神の義を主張することができず、自分には神の恵みがどうしても必要だと自覚する人には、恵みに対し心の門が開かれて、悔い改めに導かれますが、自分は正しいと、神の義を主張し、権威と権力の上にあぐらをかき、上からの恵みなど必要なく、かえってメシアの到来に脅威を感じている人には、恵みの門が閉ざされ、悔い改めに導かれることがないということです。私たちは上からの恵みを信じつつ、祈りを通して神の憐れみと神の恵みを求めなければなりません。神の御前に罪を告白し、日々悔い改め、罪の性質が骨身にまで完全にしみついた荒々しい家畜ではありますが、キリストの頸木に繋がれて、まっすぐに神の祝福の道を歩ませてくださいと祈るべきです。私たちの人生を神様にお委ねいたします。主よ私たちの人生に主が介入してくださり、主が全責任をおとりになってくださいと祈り求めていくべきです。

第二に、主イエスは、洗礼者ヨハネの言葉を神の招きの言葉として全く同等に捉えました。ヨハネによって語られた言葉が即ち神の福音であり、もし彼の言葉に耳を傾けないのならイエスさまのみ言葉も信じないと、同等に取り扱われました。今の時代、私たちキリスト者がこの世に預言者として遣わされています。私たちの言葉が即ち神の国の招きの言葉なのです。ですから時が良くても悪くても福音を宣べ伝え、隣人に仕え、主を証しすべきです。人々が福音を受け入れるのかどうかは、私たちの責任ではありませんが、宣べ伝えることは私たちの責任です。来週にはクリスマスのチラシも出来上がりますので、どうぞ、それをお用いくださり、近所の人々に福音を語ってまいりましょう。

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