2025年10月26日「言を受け入れなかった民 말씀을 받아들이지 않은 백성」

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言を受け入れなかった民 말씀을 받아들이지 않은 백성

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章31節~47節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
5:32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
5:33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。
5:34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
5:35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
5:36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
5:37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
5:38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
5:39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
5:40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
5:41わたしは、人からの誉れは受けない。
5:42しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
5:43わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
5:44互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
5:45わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
5:46あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。
5:47しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章31節~47節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

10月31日は宗教改革記念日です。先ほど讃美した讃美歌267番は、マルティン・ルターが作詞・作曲した曲です。この讃美歌には、神様だけに依り頼んだルターの信仰が満ち溢れています。ルターはカトリック教会から異端者とされました。いつ捕らえられ、教会から処刑されてもおかしくない状況でした。不安と恐怖の中で、神様はルターをあるお城の中に匿ってくださり、そしてルター不在の中でも世の中では宗教改革は着実に進展していきました。ルターの死後10年後、1,555年にアウグスブルク宗教和議が結ばれました。この宗教和議によって初めて、カトリック勢力圏においてプロテスタント教会が公に認められることになりました。私たち改革派教会も、まさにこの時に認められたプロテスタント教会にルーツを持っています。今週は特に宗教改革者たちに思いを寄せつつ、感謝しながら一週間を過ごしたいと願います。

さて、本日の箇所は、神の御子イエス・キリストを信じなかったユダヤ人たちへの審判が書かれています。審判と言っても、キリストの再臨の後に行われる外的で、究極的な、最後の審判ではありません。その最後の審判をあらかじめ予表するような、内在的審判、警告的で予表的な審判であると言っていいでしょう。しかし、その様子はまるで、実際の裁判の席で、罪人が裁判長の前に立たされているような光景であります。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 三つの証言

31~32節をご覧ください。

“もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。”

イエス様は、ユダヤ人たちがキリストに対し不信仰の罪を犯していることを、三つの証言を通して説明されます。訴えに対して他の人の証言を立てることは、当時のユダヤ社会において常識でありました(申19:15)。これは今日の日本でも同じですね。自分について、自らが証言することはできない訳です。それでは自分以外の三つの証言とは具体的に何かと言いますと、第一に洗礼者ヨハネの証しであり、第二に御自身の業による証しであり、第三に聖書を通して語られる父なる神の証しであります。最初に、ヨハネの証しについて考えてみましょう。ユダヤ人たちは洗礼者ヨハネのことをある程度、評価していました。そして、洗礼者ヨハネのことをもっと調べるために人を送りました。そのヨハネが1:29~30を見ると、イエス様を指差して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」とはっきりキリストを証ししたのであります。当時、預言者として目されており、ユダヤ社会に大きな影響を与えていた洗礼者ヨハネの証しをユダヤ人たちは素直に受け入れ、キリストを信じるべきでありました。35節には過去形で「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と書かれていますので、もう既に洗礼者ヨハネは監獄に捕らえられた後か、ヘロデによって斬首された後だったと考えられます。今となってはもう、ヨハネの証言を得ることはできません。けれでもイエス様は「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と言われます。人間の証し以上に強力な証しがあると言われるのです。その証しとは、何でしょうか。36 節をご覧ください。

“しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。”

第二の証しとして、イエス様の行っている業そのものがキリストについて証しするものであるということです。「業」という言葉は、複数形になっていて、ギリシア語ではエルガ(ἔργα)、英語ではworks、つまり「働き」となっています。それでは、イエス様の働きとは一体何でしょうか。私たちがまず想像しますのは、病の癒しや悪霊を追い出すなどの奇跡であり、ヨハネによる福音書に言わせれば、「しるし」のことではないかと考えてしまいます。神様にしか起こすことができないような超自然的な奇跡です。しかし、イエス様が「しるし」ではなく「業」と語っているのは、奇跡に限定しているわけではないということなのでしょう。万物を創造し、自然法則それ自体を創造されたイエス様にとって自然法則にのっとっているか、自然法則を超えているのかということは、全く意味を成しません。自然法則それ自体が、絶妙で芸術的な神の奇跡的な摂理の中で運行されているからです。自然的なのか、超自然的なのかということよりも、それが、父がお与えになった働きであるのかどうかということが問題とされています。従いまして、病の癒しや悪霊を追い出すことは勿論、父がお与えになった業の中に含まれますが、ガリラヤで弟子とする働き、ユダヤやガリラヤやサマリアにおいて福音を宣教する働き、神殿の境内やシナゴーグで御言葉を語る働きまで、全て含まれてくるのです。イエス様は5:30節において、自分からは何もすることができない。自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うのであるとはっきりと言われました。また7章16節では次のようにも語られています。ご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。”

このようにイエス様の一つ一つの業を見る時に、その全ての働きがイエス様をこの世にお遣わしになった父なる神から、出ていることを気づかされるのであります。ユダヤ人たちはイエス様の一つ一つの業を通して父なる御神を賛美すべきでありました。しかし彼らは自分たちの既得権益が揺さぶられていると感じ、むしろ妬みと殺意に燃えるようになったのであります。続いて第三の証しです。37~40節をご覧ください。

“また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。”

第三の証しとして、父なる神が聖書の御言葉を通して、キリストについて証しするものだということです。人類の始祖であるアダムが堕落してしまったために、人は直接、父なる神の御声を聞くことも、交わりをすることもできなくなってしまいました。そのため神様は聖書を与えてくださり、聖書を通して、つまり旧約聖書を通して、父なる神が人に語りかけてくださるようにしてくださったのです。そしてその語りかけとは、まさにキリストを証しするということであります。もちろん当時のユダヤ人たちも聖書を大切にしていました。モーセ五書については幼い頃から暗記させられるほどであります。聖書を研究すること、聖書をよく調べること、それ自体は大切なことですが、聖書の、文字それ自体に命があると考えることは間違っています。なぜなら、聖書の文字それ自体に命があるのではなく、聖書が指し示し、聖書が証ししているキリストにこそ命があるからです。聖書とはイエス様について証言する書物であり、命に至るための外的な手段に過ぎないのです。それ自体に命があるのではないのです。ウェストミンスター小教理問答88には、そのことが分かりやすく要約されています。問88をご覧ください。

問88:キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的手段は何ですか。

答え:キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的で通常の手段は、キリストの諸規定、特に、御言葉と聖礼典と祈りです。これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます。

ユダヤ人たちは聖書のそのものに命があると考えて、文字に形式的に捕らわれてしまいましたが、命そのもの、贖いの恵みそのものは、イエス・キリストにあるのであり、御言葉や聖礼典や祈りなどの外的手段を通して、キリストにある命が私たちに注がれるのです。

【2】. あなたたちを訴えるのは、モーセである

それでは、なぜユダヤ人たちには聖書が証ししているキリストに気づくことが出来なかったのでしょうか。それは、彼らが信頼し誇っている対象が、実は神様ではなく、自分自身であったということが明らかにされて行きます。考えてみてください。洗礼者ヨハネやモーセは人からの誉れや賞賛を受けようとはしませんでした。神を信じ、神を愛する人は、人々からの誉れより神からの誉れを大切にし、神中心の人生観、有神論的人生観になるのです。ところがユダヤ人たちは、「互いに相手からの誉れを受け」たり、「もし、ほかの人が自分の名によって来れば」、その人を受け入れるというような、他人の目を意識した人間中心的な人生観を持っていました。このような神様を抜きにした世界観においては、唯一の神からの誉れではなく、人々の名声だとか評判を追及するようになってしまうのは火を見るより明らかです。従って今、この審判の席でイエス様がユダヤ人たちを訴えているのではなく、ユダヤ人たちを訴えているのは、あなた方が信頼を寄せているモーセであるとイエス様は語るのです。45~46節をご覧ください。

“わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。”

ユダヤ人にとってモーセという存在は、特別な存在でありました。神の僕、神の代理人と見なされ、モーセの執り成しの祈りは天において依然として効果があり、モーセはユダヤ人全体の保証人として尊敬されていました。奴隷であったユダヤ人たちを贖ってくれたあのモーセが、自分たちを告訴すると言うのです。これはどんなにショッキングな言葉だったでしょうか。イエス様は、「モーセは、わたしについて書いている」と言われましたが、これはモーセ五書のことを指しています。創・出・レビ・民・申命記、まとめて「律法」とも呼ばれたりしますが、当時のユダヤ人たちは旧約聖書の最初に出てくるこの五つの書物を、モーセが書いたものと見なしていました。もし、ユダヤ人たちがモーセ五書を信じ、神様を信じたのであれば、イエス様を信じたはずです。なぜなら、モーセは、イエス・キリストについて書いているからだと言うのです。結局のところユダヤ人たちは、神でもなく、モーセでもなく、自分自身を信じ、自分自身の功を、自分自身の功労を人々に誇っていたのです。

このようにして、ユダヤ人たちは、イエス様による内在的、予表的な審判によって罪に定められてしまいました。ヨハネ3:18において、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」という御言葉がありましたが、イエス様の到来によって、信じない者に対する審判が既に始まっていることを本日の箇所は明らかにしているのだと思います。イエス様を信じるキリスト者には、神の御前における義とされた喜びと平安が臨むようになり、一方で、イエス様を信じない者たちには、少しずつ心が暗くなり、以前にもまして真理の言葉に耳を貸そうとしなくなり、あらゆる悪い行いに屈服していくようになるのです。信仰と不信仰はこの地上において、既にその実と報いをもたらしているのです。イエス様は、十字架に掛けられる前の一週間の間に、イチジクの木の譬えを通してユダヤ人たちが拒んだ神の救いは、異邦人が所有するようになるだろうとはっきり宣言されました。ユダヤ人たちがキリストにある救いを拒んだため、ぶどう園は収穫を納める別の農夫に貸し与えられ(マタ21:41)、四つ辻の道端にいるものは、誰でも婚礼の祝宴に招待されるようになったと言われます(マタ22:9)。その結果、異邦人である私たちにもイエス・キリストの福音が届くようにされたのであります。ローマの手紙11:11~12と19~22をご覧ください。

“では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。”

“すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。”

【結論】

本日の箇所は、選びの民ユダヤ人たちにとって大変厳しいイエス様の審判が記されていました。ユダヤ人たちは、神の選びの民という自負心があり、モーセを通して神様から律法を与えられていることに優越感を持っていました。それにも拘わらず彼らは神を愛し、神に仕えるのではなく、神不在の宗教観、世界観を作り上げ、自分自身を誇っていたために、キリストによって裁きが宣告されたのであります。新約時代に生きる私たち教会は、旧約聖書よりさらにキリストの福音を鮮明に証しする新約聖書が与えられているわけですから、万一、新約の教会がイエス・キリストを拒み、自分自身を誇るというようなことが起これば、ユダヤ人たちに宣告された審判より、もっとひどい審判が宣告されるに違いありません。私たちは選びの民ユダヤ人たちが神の摂理の中で、一時的に退けられたのは、異邦人にも救いが及ぶためであり、神の慈しみであったことを今一度思い起こしたいと思います。そして私たちは神の厳しさと慈しみの前に、恐れを持ちつつ歩む者とならせていただき、そして人々の名声や評判を追及する者ではなく、神からの誉れを求める者たちとして日々歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

말씀을 받아들이지 않은 백성

2025년 10월 26일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 5장 31~47절

서론

10월 31일은 종교개혁 기념일입니다. 방금 찬양한 찬송가 267번은, 마르틴 루터가 작사, 작곡한 곡입니다. 이 찬송가에는, 하나님만을 의지한 루터의 믿음이 가득 담겨 있습니다. 루터는 가톨릭교회로부터 이단자로 지목되었습니다. 언제 체포되어 교회에 의해 처형되어도 이상하지 않은 상황이었습니다. 불안과 공포 속에서, 하나님께서는 루터를 어느 성안에 숨겨 주셨고, 루터가 없는 가운데서도 세상에서는 종교개혁이 꾸준히 진전해갔습니다. 루터 사후 10년 후인 1555년, 아우스부르크 종교화의가 체결되었습니다. 이 종교화의를 통해 처음으로, 가콜릭 세력권 내에서 개신교 교회가 공식적으로 인정받게 되었습니다. 우리 개혁파교회도, 바로 이때 인정받은 개신교 교회에 뿌리를 두고 있습니다. 이번 주에는 특히 종교 개혁자들에게 마음을 두며 감사하는 마음으로 일주일을 보내고자 합니다.

자, 오늘 본문은, 하나님의 아들 예수 그리스도를 믿지 않았던 유대인들에 대한 심판이 기록되어 있습니다. 심판이라고 해도, 그리스도의 재림 후에 이루어지는 외적이고 궁극적인 마지막 심판은 아닙니다. 그 최후의 심판을 미리 예표하는 내재적심판, 경고적이고 애표적인 심판이라고 할 수 있겠습니다. 그러나, 그 모습은 마치 실제 재판석에서 죄인이 재판장 앞에 서 있는 것과 같은 광경입니다. 오늘도 요한복음을 통해 함께 말씀의 은혜에 참여하고자 합니다.

(1) 세 가지 증언

31~32절을 보시기 바랍니다.

31내가 만일 나를 위하여 증언하면 내 증언은 참되지 아니하되

32 나를 위하여 증언하시는 이가 따로 있으니 나를 위하여 증언하시는 그 증언이 참인 줄 아노라

늘 본문의 첫 부분인 19절에 「예수께서 그들에게 이르시되」라고 기록되어 있습니다. 「그들」이란, 살의를 품은 유대인들의 가리킵니다. 그들에게 대해 예수님께서 자신의 주장, 생각을 말씀하시는 것이 오늘의 내용입니다. 「진실로 진실로 너희에게 이르노니」라는 표현에 주목해주십시오. 헬라어로는 「아멘, 아멘, 레고, 휘민」이라는 단어입니다. 이 말은 오늘 본문에서 19절, 24절, 25절에 걸쳐 세 번이나 나오는데, 이는 지금부터 말씀하실 내용이 특히 중요한 가르침임을 나타냅니다. 19~20절을 보시기 바랍니다.

19 그러므로 예수께서 그들에게 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 아들이 아버지께서 하시는 일을 보지 않고는 아무 것도 스스로 할 수 없나니 아버지께서 행하시는 그것을 아들도 그와 같이 행하느니라

20 아버지께서 아들을 사랑하사 자기가 행하시는 것을 다 아들에게 보이시고 또 그 보다 더 큰 일을 보이사 너희로 놀랍게 여기게 하시리라

여기서는, 아버지에 대한 예수님의 순종이 말씀되어지고 있습니다. 예수님은 아버지되신 하나님의 신성을 찬탈하거나, 하나님의 권위를 함부로 사용하시고 계신것이 아닙니다. 20절에「아버지께서 아들을 사랑하사」라는 말씀이 있듯이, 아버지와 아들은 사랑으로 하나입니다. 그러므로 베데스다 연못에서 행하신 그 기적은 단순히 예수님께서 스스로 혼자서 행하신 일이 아니라, 아버지께서 보여 주신 것을 행하신 것에 지나지 않는다고 주장하고 있는 것입니다. 만약 안식일에 베데스다 연못에서 행하신 그 기적이, 예수님의 단독행동이 아니라, 아버지되신 하나님의 일이었다면, 38년간 병으로 고통받던 남자에게 아버지되신 하나님의 역사가 일어났음을, 왜 그렇게 문제를 삼는 것이냐, 오히려 함께 기뻐하고, 그를 축복해줘야 하는 것이 아니냐고 말씀하시는 것입니다.

예수님은 계속해서「다 아들에게 보이시고 또 그 보다 더 큰 일을 보이사」라고 말씀하십니다. 「그 보다」란, 예수님께서 행하신 일련의 기적들을 가리키는 것으로 보이지만, 무엇보다 바로 직전에 베데스다 연못에서 행하신 병자를 일으키신 기적을 가리키는 것이겠지요. 그렇다면 「더 큰 일」이란 대체 무엇을 가리키고 있는 것일까요.? 21~22절을 보기기 바랍니다.

21 아버지께서 죽은 자들을 일으켜 살리심 같이 아들도 자기가 원하는 자들을 살리느니라

22 아버지께서 아무도 심판하지 아니하시고 심판을 다 아들에게 맡기셨으니

그 보다 더 큰 일이란, 두가지로 말해지고 있는데, 하나는 아들을 통해 죽은 자를 살리시고, 생명을 주신다는 것, 즉 죽은 자의 부활을 말하는 것입니다. 다른 하나는 심판을 아들에게 맡기셨다는 것입니다. 죽은 자의 부활에 대해서는, 일부 사람들을 제외하고 대부분의 유대인들이 믿고 있었습니다. 그러나 그것은 아버지되신 하나님만이 가지신 권능으로 여겨졌습니다. 그런데, 예수님은, 아버지되신 하나님이 자신에게 부활시키는 권능을 위힘하셨다고 주장하고 계시는 것입니다. 또 심판에 대해서도, 마찬가지로 아버지 하나님만이 가지신 권능으로 여겨졌습니다. 결국, 예수님은 자신이 아버지되신 하나님의 대리인으로서 보내심을 받았다고 주장하고 계시는 것입니다. 유대교에서, 이 대리인이라고 하는 개념은, 우리가 생각하고 있는 대리인과는 조금 다릅니다. 우리가 생각하는 대리인이란, 극히 제한된 의미에서 당사자의 대리인으로 인정되었습니다. 예를 들어 날인하거나, 어떤 문서에 동의 의사를 표시하는 행위 등입니다. 그러나 유대교에서의 대리인은 대리인의 인격 그 자체가 당사자로 받아들여졌습니다. 따라서, 23절의 말씀이 예수님께서 말씀하시려는 결론이라고 생각되지만, 23절은 잠시 보류하고 앞으로 나아가고자 합니다.

(2) 영적 죽음, 영적 부활

예수님께서 주시는 생명, 예수님께서 내리시는 심판은, 결코 내세만의 일이 아닙니다. 현세에 있어서도 이미 부활과 심판이 일어나고 있다고 말씀하십니다. 24~26절을 보시기 바랍니다.

24 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 내 말을 듣고 또 나 보내신 이를 믿는 자는 영생을 얻었고 심판에 이르지 아니하나니 사망에서 생명으로 옮겼느니라

25 진실로 진실로 너희에게 이르노니 죽은 자들이 하나님의 아들의 음성을 들을 때가 오나니 곧 이 때라 듣는 자는 살아나리라

26 아버지께서 자기 속에 생명이 있음 같이 아들에게도 생명을 주어 그 속에 있게 하셨고

예수님은 자신의 말씀을 들음으로써, 죽음에서 생명으로 옮겨졌다고 말씀하셨습니다. 죽은 자들이 하나님의 아들의 음성을 들을 때가 오나니 곧 이 때라고 말씀하십니다. 여기서「죽은 자들」이란, 영적으로 죽은 자를 의미합니다. 이상하게 느껴질 수 있지만 이러한 표현은 성경 속에서 자주 등장합니다. 예를 들어 엡 2:1절을 보십시오.

에베소서 2장

1 그는 허물과 죄로 죽었던 너희를 살리셨도다

이처럼, 생물학적으로는 살아 있어도, 영적으로는 너희가 죄로 인해 죽어 있었다고 바울은 말합니다. 또한 여러분이 잘 아시는 방탕한 아들의 비유가 눅 15장에 나오는데, 방탕한 아들은 아버지의 유산에서, 자신이 상속받을 몫을 미리 받아, 아버지의 집을 떠났습니다. 이국 땅에서 허랑방탕한 생활을 하면서, 재산을 전부 낭비해 버렸습니다. 막다른 골목에 다다르자, 마침내 아버지에게로 돌아가 품꾼의 하나로 봐 달라고 하려고 돌아가니, 이를 멀리서 본 아버지는 그를 보고 즐거워하며 잔치를 준비했습니다. 그때, 아버지는 눅 15:24절에서「이 내 아들은 죽었다가 다시 살아났으며 내가 잃었다가 다시 얻었노라」라며 즐거워하고 기뻐하는 것이 마땅하다라고 했습니다. 이 아들은 죽었다가 살아났습니다. 즉 영적으로 죽어 있었다는 뜻입니다. 성경에는, 아버지되신 하나님과의 관계에 있어서 교제가 단절된 상태에 있는 것을, 「영적 죽음」이라고 표현합니다. 인간은 누구라도 아담의 자손으로 태어나기 때문에, 원죄를 가지고 있고, 영적 죽음의 상태로 태어납니다. 그러나 하나님께서는 죄인을 불쌍히 여겨주시고, 구원의 길, 생명의 길을 열어 주셨습니다. 아버지가 보내신 아들의 말씀을 듣고 믿을 때, 죽음에서 생명으로 옮겨지는 사건이 일어납니다. 아니, 이미 옮겨져 있습니다. 요5:24절의 마지막의 「옮겼느니라」는 말은 완료형이므로, 믿는 자는 아들로 인해, 영적 죽음에서 영적 생명으로 이미 옮겨져 있는 것입니다. 단절되었던 하나님과의 교제가 회복되고, 하나님과의 교제가 시작되고 있는 것입니다.

(3) 영원한 복과 재앙을 결정하는 것

자, 현세에서의 영적 생명과 영적 죽음에 대해 살펴보았지만, 이것이 전부라고 할 수는 없습니다. 내세에서의 영원한 복과 영원한 재앙이 있다는 것이 다음 구절에서 말해지고 있습니다. 27~29절을 보십시오.

27 또 인자됨으로 말미암아 심판하는 권한을 주셨느니라

28 이를 놀랍게 여기지 말라 무덤 속에 있는 자가 다 그의 음성을 들을 때가 오나니

29 선한 일을 행한 자는 생명의 부활로, 악한 일을 행한 자는 심판의 부활로 나오리라

아버지되시는 하나님은 인자, 즉 메시아에게 죄 사함과 심판의 권능을 주셨습니다. 28절의 「때가 오나니」란, 「메시아가 재림하실 때」를 가리킵니다. 메시아가 재림 하실 때, 죽은 자들의 부활이 일어납니다. 이것은 영적인 부활이 아니라 육체의 부활입니다. 생물학적으로 죽어 무덤에 묻힌 사람들이 부활하게 됩니다. 부활이라는 말에, 우리들은 믿음으로 살았던 그리스도인의 부활만을 생각할지 모리지만, 성경에는 믿음 가운데 살았던 자도, 그리스도를 거부했던 자도, 모든 인간의 신체가 부활하고, 이어서 마지막 심판이 시작된다고 기록되어 있습니다. 이때 29절을 보면,「선한 일을 행한 자는 생명의 부활로, 악한 일을 행한 자는 심판의 부활로 나오리라」라고 하는데, 이것은 조금 마음에 걸리는 부분이라고 생각합니다. 이는 선한 일을 행함과 악한 일을 행함으로 가려짐을 받은다는 의미가 아닙니다. 어디까지나 가려짐의 기준은 믿음입니다. 그런데 왜 29절에 이러한 표현이 쓰였을까요. 선한 일과 악한 일은 구원받는 기준을 의미하는 것이 아니라, 단지 믿는자들을 그들의 표징으로 특징짓고, 불신자들로부터 쉽게 구분하기 위해 이런 표현이 쓰인 것으로 생각됩니다. 믿는 자라도 죄를 짓습니다. 믿는 자라도 악한 행위를 할 것입니다. 다만 그리스도 안에 있는 자는 성령으로 거듭남으로써 「믿음으로 말미암은 행위」,「선한 행위」를 하고 싶어 하며, 영적으로 죽었던 때와는 전혀 다른 삶을 살게 된다는 것을 말하는 것입니다. 여러분의 삶을 돌아보십시오. 성경을 진지하게 읽기 시작하기 전과 후에는 가치관이나 삶 자체가 이전과는 완전히 달라졌을 것입니다. 그것은 성령께서 역사하셨기 때문입니다. 반대로, 비신자라도 선한 일을 행할 수 있습니다. 다만 비신자의 선한 행위는 「믿음으로 말미암은 행위」가 아닙니다. 그렇기 때문에, 아무리 인간의 눈에는 선한 행위로 보여도, 그 행위가 믿음으로 말미암은 행위가 아니라면, 즉 그리스도를 통해 하나님께 드려지지 않았다면, 그 행위는 죄로 오염되어 결코 하나님께 받아들여지지 않습니다. 예를 들어, 어떤 유명인이 자선 활동을 위해 막대한 기부금을 냈다고 해도, 어려운 환경의 아이들을 위해 큰 선물을 주었다고 해도, 그것이 믿음으로 인한 행위가 아니라면, 하나님께 받아들여지지 않습니다. 그러므로 선한 일을 행한 자들로 특징지어지는 것은 그리스도인이며, 그들은 그리스도의 십자가로 말미암아 죄로 정죄받지 않고, 심판받지도 않으며, 부활하여 영생을 받게 됩니다. 반면, 악한 일을 행한 자들로 특징지어지는 것은 불신자들입니다. 그들은 육체가 부활하여 재판관이신 예수님 앞에 서게 되며 그들의 행위에 따라 심판을 받고 지옥(게헨나)이라 불리는 불타는 불 속에 던져지게 됩니다.

이러한 끔찍한 결말을 맞이하는 궁극적인 원인이 믿음을 가졌는지, 가지지 않았는지에 있다고 합니다만, 그렇다면 그 믿음이란 무엇인가하는 것입니다. 하나님을 믿는 믿음이란 무엇일까요? 그것은 바로 하나님의 아들 예수 그리스도를 믿고, 받아들이는 것입니다. 예수님이시야말로 하나님과 동등하신 분이시며, 보이지 않는 하나님의 계시이기 때문입니다. 아까 건너뛴 23절을 함께 읽어보겠습니다.

이는 모든 사람으로 아버지를 공경하는 것 같이 아들을 공경하게 하려 하심이라 아들을 공경하지 아니하는 자는 그를 보내신 아버지도 공경하지 아니하느니라

아들이 부활과 심판의 권능을 가지고 이 세상에 보내심을 받은 이유는, 아버지를 공경하는 것 같이 아들을 공경하게 하려 하심입니다. 즉, 이 땅에서 하나님의 말씀이신 예수 그리스도와 어떠한 관계를 맺는가, 이것이 바로 영원한 복과 재앙을 결정하는 결정적인 요소인 것입니다. 때로는 예수 그리스도를 공경하지 않고 오직 하나님 아버지만 공경하는, 예수 그리스도를 믿지는 않지만, 아버지되시는 하나님은 믿는다라고 하는 믿음의 태도를 볼 수가 있습니다. 구약성경만을 믿고 있는 유대교나, 이슬람교의 입장이 바로 이에 해당합니다. 그러나, 유대교나 이슬람교가 아니더라도, 예를 들어 “우리는 여호와 하나님을 믿고, 예수 그리스도는 하나님께서 보내신 사자이거나 천사에 불과하다”라고 주장하는 단체가 있습니다. 삼위일체를 믿지 않는 교파입니다. 혹은 삼위일체를 믿더라도 예수님 자신이 제정하신 “세례와 성찬식의 성례를 반드시 행하지 않아도 되지 않겠는가, 반드시 교회라는 조직을 형성하지 않아도 되지 않겠는가, 우리는 하나님을 믿는다”라고 주장하는 단체도 있습니다. 이러한, 아들을 공경하지 않는 태도는, 사실은, 아버지를 공경하지 않는 태도이며, 마지막 날 재판관이신 예수님 앞에서 심문받을 태도가 되어 버리는 것입니다. CS루이스라는 기독교 작가가 있습니다. 그는 이렇게 말했습니다.

「이 말들이 만일 하나님이 아닌 어떤 사람이 한 말이라면, 단지 역사상 필적할 바 없는 어리석음과 자만심의 표현으로밖에 간주할 수 없을 것이다. .... 당신은 선택을 해야만 한다. 이 사람은 과거에도 지금도 변함없이 하나님의 아들이든가 아니면 미친 사람 혹은 그보다 더 못한 어떤 것이든가 둘 중 하나이다. 당신은 이 사람의 어리석은 말을 묵살할 수 있다. 그에게 침을 뱉고 또 그를 마귀로 몰아 죽일 수도 있다. 하지만 그의 발 아래 엎드려 주님이시며 하나님이시라고 부를 수도 있다.」

배타적으로 들릴지 모르나, 인류는 하나님의 계시이신 예수 그리스도 외에는 참 하나님을 찾을 수 없습니다. 종교에 대해 부정적으로 들릴지 모르나, 예수 그리스도는 죄인과 하나님 사이의 유일의 중보자이시며 그 외에는 구원이 없습니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 자기를 하나님과 동등하다고 주장하신 예수님은, 하나님의 권능을 찬탈하신 것이 아니라, 아버지와 사랑으로 하나이시며 함께 일하고 계심을 살펴보았습니다. 따라서 우리의 현세에서의 영적 생명과 영적인 죽음의 문제뿐만 아니라, 내세에서의 영원한 행복과 재앙을 결정짓는 것은 이 예수님과 어떤 관계를 맺느냐에 달려 있음을 살펴보았습니다. 하나님을 믿는 믿음이란, 예수님을 믿고 받아들이는 것입니다. 우리들은 다시 한번, 자신과 예수님과의 관계를 돌아보고자 합니다. 나는 일상 속에서 그리스도를 머리로 삼고 그분께 순종하고 있는가? 오히려 자신이 왕이 되어, 그리스도의 권위를 찬탈하고 있지는 않은가? 우리는 주님 앞에 낮아져 작은 일에 충실하며 그리스도를 머리로 삼고 주님의 뜻을 기도하며 구하는, 그런 믿음을 다음 세대에 물려주는 자들이 되도록 합시다.

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