2025年10月05日「ベトザタの池より偉大な方 베데스다 연못보다 위대하신 분」

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ベトザタの池より偉大な方 베데스다 연못보다 위대하신 분

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章1節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。

5:5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 5章1節~9節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

めんどりが雛を羽の下に集めるように、イエス様も、罪人をご自身の元に集めようとなされます。イエス様を信じ受け入れることによって、御自身にある永遠の命を分かち合うためであります。ところが本日の箇所のユニークな点は、癒された者が信仰を表している箇所がないという点です。先週見ました王の役人が示したように、イエス様の御言葉を信じて、信仰に生きるようになった訳ではありません。もっと言えば、自分が誰によって癒されたのか、そのことさえも分かっていなかったということが後で露呈されます。彼は信仰によって癒されたのではなかったのでしょうか。もし、信仰によって癒されたのではないのなら、なぜイエス様はそのようの奇跡をなされたのでしょうか。本日もヨハネによる福音書を通して、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 憐みの家

ある、祭りの時に、イエス様はエルサレムに上られ、羊の門の傍らにあるベトザタの池に行かれました。羊の門ということですから、ここから供え物として捧げられる羊が搬入されたということです。1~3節をご覧ください。

“その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。”

エルサレム神殿には羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊がありました。週報に、ベトザタの池の復元図を印刷しましたので、そちらをご覧ください。現代の考古学によって、この遺跡が明らかにされています。神殿の中の北東に位置する所に聖アンネ修道院(Saint Anne)というのがありまして、19世紀後半に、そこで発掘されたものが、その遺跡であると考えられています。四角形の池で四方が回廊に囲まれており、真ん中に一本回廊が横断しています。回廊には屋根が付けられていて雨露をしのげる構造です。本来、この池はヘロデ大王によって巡礼者のための清めの池として造らました。ここで体を清めてから、神さまを礼拝するのであります。

因みに、ベトザタの池の名称についてですが、神学者の間でいろいろと議論がありまして、新改訳聖書では「ベテスダ」となっているように、写本によっては、「ベトザタ(シナイ写本)」ではなく「ベテスダ(アレクサンドリア写本、エフライム写本)」となっている写本も存在します。もし「ベテスダ」という名前であるならば「ベト・ヘセド」ということで、「憐みの家、慈しみの家」という意味になります。そうしますと、本日の箇所は「憐みの家」において起こった出来事ということになります。この憐みの家にはたくさんの病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが横たわっていました。

そのように多くの人々が横たわっていましたが、イエス様が一言、「全員が癒されるように」と御言葉を発せられたなら、すべての人々が癒され、立ち上がって行ったはずです。しかし、その中のたった一人だけをイエス様は癒されました。そのことが示しているのは、主がご自身の権能によってなされたいと願っていることは、決して肉体の一時的な癒しではないということだと思います。肉体の一時的な癒しより、むしろメシアであられるご自身を受け入れることによって、多くの人々の魂が永遠の救いを得、主にある安息を得ること、何よりもそのことをイエス様は願っておられるのです。私たちは、まずこの点について第一に注意しなければなりません。

【2】. 38年間の苦しみ

さて、この場所に体の不自由な人々が大勢横たわっていたその理由は、次のような言い伝えがあったからです。新共同訳聖書で3節と5節の間に†の印が見えますでしょうか。その印の個所がヨハネ福音書の最後のページ(p212)に掲載されていますので、そこをお読みします。抜粋のプリントにも印刷しておきました。

“彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。”

この個所は、後代の写本を書き写す書記官によって、実は加筆されたもので、当時の「言い伝え」であります。ですから聖書本分からは省略されている訳ですが、ただこの「言い伝え」を知らなければ、なぜ、7節において彼がイエス様にこのようなことを言っているのか、理解することができなくなります。私たちは、この言い伝えをどのように理解するかにより、本日の与えられた御言葉の解釈も異なってくると思いますが、とりあえず、当時の人々が信じていた、言い伝え通りのことが、実際に起こっていたとして、読み進めていきたいと思います。

神様は御使いを用いて、定期的に幾人かの病人をこの池の聖なる水によって癒してくださいました。なぜ、水が揺れた時に最初に水の中に入った者だけが癒されたのでしょうか。その理由は分かりませんが、旧約時代においても似たようなケースはしばしば起こっています。例えば、エリヤの時代に大旱魃が襲ってきた時、飢えに苦しむ大多数のやもめがいたはずですが、その中でただ一人、サレプタのやもめだけが預言者によって助けられました。列王記上17:13-14をご覧ください。

“エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」”

また、エリシャの時代に多くの人々が死んで行きましたが、神様はなぜかシュネムの裕福な女の子どもだけを預言者を通して蘇らせられました。列王記下4:32-35をご覧ください。

“エリシャが家に着いてみると、彼の寝台に子供は死んで横たわっていた。彼は中に入って戸を閉じ、二人だけになって主に祈った。そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。彼は起き上がり、家の中をあちこち歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は七回くしゃみをして目を開いた。”

神様が、なぜある人だけを癒されるのか、その理由は分かりませんが、限定された人だけに奇跡が臨むことによって、人々に確かに神様はおられることを想起させ、預言者や神殿の、その神聖さを担保しておられると考えることができます。そして預言者の働きや、律法に定められている礼拝の奉仕が、いかに尊いものであるのかを人々に認めさせ、信仰の服従へと導くために、それらの奇跡が有効であったと考えることができるのです。続いてヨハネ福音書に戻りまして5:5~7をご覧ください。

“さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」”

イエス様は、38年もそこに苦しんでいる人のもとにやって来ました。イエス様は、もう長い間、彼が病気であることをご存じでした。「良くなりたいか」という質問は、彼の信仰を試しているのではありません。むしろその場にいる人々に、今から起こることに注意喚起させるためであると思われます。イエス様の質問に対し、7節で男は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えました。この男の返事はイエス様の質問と噛み合ってはいません。ですが、この返事からわかることは、どれほどこの男がこれまで心に傷を受けて来たのかが見えてくるのであります。御使いが池に降りてきて、水をかき混ぜた時、力ある者が最初にベトザタの池に飛び込み、その恵みに与ることができました。そんな無慈悲な競争がこれまで繰り広げられてきたのです。癒された者は、喜んでその場を立ち去って行ったのでしょう。彼は自分を助けてくれる人がいなかったために、常にその競争に敗北し続けて来たのです。いつも天を仰ぎ、悔しく、悲しく、やるせない思いに突き落とされてきたのでありました。男の切実な言葉からそのことが伝わってくるのではないでしょうか。

【3】. ベトザタの池より偉大な方

そんな彼に対し、イエス様は信仰を持つよう説得するのでもなく、ただ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。すると、どうでしょうか。9節をご覧ください。

“すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。”

彼にとって38年という歳月は、決して短い時間ではなかったはずです。苦しみぬいた長い時間でありました。神様は、ご計画されていた彼の体の癒しを38年間もの間、待たせ続けたのであります。そして時が満ち、ある安息日に、イエス・キリストを通して、ついにその癒しが実現されました。このことが私たちに教えてくれることは、決して祈りを諦めてはならないということだと思います。時間の長さに嫌気を起こして忍耐することを放棄してはならないということです。長い間不幸が続いて、出口の見えないトンネルの中にいるように思えても、神様は解放者であり、時に適って脱出の道を備えてくださることを私たちは信じていなければならないということです。

ところでヨハネ福音書において、水についてこれまで何度か言及されてきました。第一に、カナにおける最初のしるしおいて現れました。結婚式で、清めのための水がめの水を、ぶどう酒に変えたのであります。この奇跡はつまり、イスラエルの贖いはご自身の血によってなされるということを示していました。同時にこれまでのモーセの律法に規定された秩序ではなく、清めのための新しい秩序が、イエス様ご自身の来臨によって始まったことを意味していました。第二に、サマリアにおいてであります。サマリア人たちにとって大変重要なヤコブの井戸水に優る水をイエス様はお示しになりました。サマリア人にとってヤコブの井戸水とは、言ってみれば聖なる水ですが、メシアであるイエス様は、ご自身から湧き出る「生きた水」を受け取るように言われたのです。その水を受け取るなら、決して渇くことはなく、永遠の命に至る、そのように言われたのです。これも同じように、先祖ヤコブより偉大な者、メシアの到来を告げ知らせておられるのです。本日の箇所のメッセージも、これらと全く同じだと言えるでしょう。イエス様はご自身こそ癒す力を持っている真のベトザタの池であることを証明されました。アウグスティヌスは、五つの回廊で囲まれたこの池を、モーセ五書、即ち「律法」として解釈しています。この池に集まる人々は、律法の下で生きてきましたが、今、その律法を完全に成就されたメシアが来られたことを、この癒しの業を通して、明らかにしてくださったと言っています。アレゴリカルに(つまり寓意的)見るなら、そのような解釈も十分に成り立つのだと思います。

いずれにしましても、イエス様はその癒しの業を、あえて人々が大勢集まっている祭りの日に、しかも安息日に、注意喚起をさせてから行ったのでありました。病を癒された当人は、まだイエス様との人格的な交わりは起こされてはいませんが、その奇跡を間近にみた人々にとって、このお方こそ、ベトザタの池に優るお方、或いはベトサダの池を権威づけているエルサレム神殿に優るお方であるという事実を突きつけられたのであります。それでは38年の男の苦しみとは、結局何だったのかということになりますが、それはメシアの到来を告げる神の御業が、男の病の癒しを通して現されたということなのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様は肉体の一時的な癒しより、むしろメシアであられるご自身を受け入れることによって、魂の救いを得、主にある安息に入れられることを願っておられます。人々は肉体の真の健康をイエス様に期待しますが、実は、その真の健康というのは、終わりの日の死者の復活において実現されるのであります。38年間、苦しんでいた男のように、私たちキリスト者もイエス様を信じているのにも拘わらず依然として、病の中に置かれていたり、出口の見えないトンネルの中に置かれていたり、様々な困難の中に置かれています。そのような状況にあって、私たちは問題が解決されるように主に祈らなければなりません。癒しのために主に祈らなければなりません。しかし、たとえ、その祈りをイエス様が叶えてくれなかったとしても、たとえ願った通りの病の癒しが得られなかったとしても、終わりの日、死者の復活においてそれらの祈りは実現されるのです。その日、生きる者はもはや死ぬことなく、その日、癒される者はもはや病に陥ることはなく、飽き足りる者はもはや飢えることも渇くこともないのであります。その日、新たにされる者はもはや古びることはなく、真の安息に入れられるのです。しかし、現時点においては、たとえ、イエス様による一時的な癒しの奇跡が行われたとしても、それらは、結局は無に帰してしまいます。死によって盲人の開かれた目も再び閉じられ、足の不自由な者のまっすぐにされた足も再びちりに帰し、死すべき体に一時的に施された死者の蘇りの癒しもすべて、結局は無に帰するのです。イエス様を信じ、受け入れること、それこそ永遠の命であり、真の健康に至る道であります。今日、私たちは、メシア、救い主が私たちの所にやって来られたことに心から感謝し、私たちはイエス様を信じ、イエス様にある希望の中で、心から神さまを賛美する者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

베데스다 연못보다 위대하신 분

2025년 10월 5일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 5장 1~9절

서론

암탉이 새끼를 날개 아래로 모으듯이, 예수님도 죄인을 자신의 품으로 모으시려고 하십니다. 예수님을 믿고 받아들임으로써, 자신에게 있는 영원한 생명을 나누기 위함입니다. 그런데 오늘 본분의 독특한 점은, 치유받은 자가 믿음을 나타내는 곳이 없다는 점입니다. 지난주에 본 왕의 신하가 보여주었듯이, 예수님의 말씀을 믿고 믿음으로 살게 된 것이 아닙니다. 더 말하면, 자신이 누구에 의해 치유되었는지 그것조차 모르고 있었다는 것이 나중에 드러납니다. 그는 믿음에 의해 치유된 것이 아니었던 것일까요. 만약, 믿음에 의해 치유된 것이 아니라면, 왜 예수님은 그런 기적을 행하셨을까요? 오늘도 요한복음을 통해 함께 말씀의 은혜를 얻기를 바랍니다.

(1) 자비의 집

어느 유대인의 명절 때, 예수님은 예루살렘으로 올라가셔서, 양문 옆에 있는 베데스다 연못으로 가셨습니다. 양문이라는 것은, 여기에서 제물로 바칠 양이 반입되었다는 것입니다. 1~3절을 보세요.

1 그 후에 유대인의 명절이 되어 예수께서 예루살렘에 올라가시니라

2 예루살렘에 있는 양문 곁에 히브리 말로 베데스다라 하는 못이 있는데 거기 행각 다섯이 있고

3 그 안에 많은 병자, 맹인, 다리 저는 사람, 혈기 마른 사람들이 누워 [물의 움직임을 기다리니

예루살렘 성전에는 양문 곁에, 히브리어로「베데스다」라고 불리는 연못이 있었고, 그곳에는 다섯 개의 행각이 있었습니다. 주보에 베데스다 연못의 복원도를 인쇄했으니, 그 프린트를 참조해 주십시오. 현대 고고학에 의해, 이 유적이 밝혀지고 있습니다. 성전 안 북동쪽에 위치한 곳에 성 안네수도원(Saint Anne)이라는 곳이 있는데, 19세기 후반에 그곳에서 발굴된 것이 바로 그 유적이라고 여겨집니다. 사각형의 연못으로 사방이 행각으로 둘러싸여 있고, 가운데에 한 개의 행각이 횡단하고 있습니다. 행각에는 지붕이 달려 있어 비와 이슬을 막을 수 있는 구조입니다. 원래, 이 연못은 헤로데 대왕에 의해 순례자들을 위한 정결의 연못으로 만들어졌습니다. 여기서 몸을 정결케 하고 나서 하나님을 예배하는 것입니다.

덧붙여서, 베데스다의 연못의 명칭에 대해서 입니다만, 신학자 사이에서 여러가지 논의가 있어서, 일본어 신개역성경에서는 한국어 성경과 같이「베데스다」라고 되어 있고, 일본어 신공동역성경에서는 시내 사본을 따라서「벳자타」라고 되어 있습니다. 사본에 따라서는, 「벳자타(시내 사본)」, 「베데스다(알렉산드리아 사본, 에브라임 사본)」라고 되어 있는 사본도 존재합니다. 만약 「베데스다」라는 이름이라면 「베드・헤세도」라는 것으로, 「자비의 집」이라는 뜻이 됩니다. 그러면 오늘의 부분은 「자비의 집」에서 일어난 일이 됩니다. 이 자비의 집에는 많은 병자, 맹인, 다리 저는 사람, 혈기 마른 사람들이 누워 있었습니다.

그렇게 많은 사람들이 누워있었는데 예수님이,「모두가 치유되어라」라고 한마디 말씀하셨다면 모든 사람들이 치유되고 일어섰을 것입니다. 그러나 그 중 단 한 사람만을 예수님은 치유하셨습니다. 그것이 보여주는 것은, 주께서 자신의 권능에 의해 행해지길 바라고 계시는 것은 결코 육체의 일시적인 치유가 아니라는 것이라고 생각합니다. 육체의 일시적 치유보다, 오히려 메시아이신 자신을 받아들임으로써, 많은 이들의 영혼이 영원한 구원을 얻고 주께 있는 안식을 얻기를, 그 일을 무엇보다 예수님은 바라시는 것입니다. 우리는 우선 이 점에 대해 첫 번째로 주의해야 합니다.

(2) 38년간의 고통

그런데 이 자리에 거동이 불편한 사람들이 많이 누워 있었던 이유는, 다음과 같은 전설이 있었기 때문입니다. 3절과 4절 사이에 [ ] 표시가 보이시죠?

3 그 안에 많은 병자, 맹인, 다리 저는 사람, 혈기 마른 사람들이 누워 [물의 움직임을 기다리니

4이는 천사가 가끔 못에 내려와 물을 움직이게 하는데 움직인 후에 먼저 들어가는 자는 어떤 병에 걸렸든지 낫게 됨이러라]

이 부분은, 사실은 후대의 사본을 옮겨 적는 서기관에 의해, 가필된 것으로, 당시의 「구전」입니다. 그래서 성경본분에서는 생략되어 있는데, 다만 이 「구전」을 모르면, 왜, 그가 7절에서 예수님께 이런 말을 하는지 이해할 수 없게 됩니다. 우리가 이 구전을 어떻게 이해하느냐에 따라 오늘의 주어진 말씀의 해석도 달라질 것이라고 생각합니다만, 일단 당시 사람들이 믿었던, 구전대로의 일이 실제로 일어나고 있었다고 생각하고 읽어 나가도록 하겠습니다.

하나님은 천사를 통해서, 정기적으로 몇 사람의 병자를 이 연못의 성스러운 물로 치유해 주셨습니다. 왜, 물이 흔들렸을 때 처음 물 속에 들어간 사람만 치유된 것일까요. 그 이유는 모르겠지만, 구약시대에서도 비슷한 경우는 종종 일어나고 있습니다. 예를 들면, 엘리야 시대에 큰 가뭄이 닥쳤을 때, 기근에 시달리는 많은 수의 과부가 있었을 텐데, 그 중 단 한 명, 사르밧의 과부만이 선지자에 의해 도움을 받았습니다. 열왕기상 17:13~14절을 참조하십시오.

열왕기상 17장

13 엘리야가 그에게 이르되 두려워하지 말고 가서 네 말대로 하려니와 먼저 그것으로 나을 위하여 작은 떡 한 개를 만들어 내게로 가져오고 그 후에 너와 네 아들을 위하여 만들라

14 이스라엘의 하나님 여호와의 말씀이 나 여호와가 비를 지면에 내리는 날까지 그 통의 가루가 떨어지지 아니하고 그 병의 기름이 없어지지 아니하리라 하셨느니라

또 엘리샤 시대에 많은 사람들이 죽었는데, 하나님은 웬일인지 수넴의 한 귀한 여인의 자녀만, 선지자를 통해 되살려 주셨습니다. 열왕기하 4:32~35를 보십시오.

열왕기하 4장

32 엘리사가 집에 들어가 보니 아이가 죽었는데 자기의 침상에 눕혔는지라

33 들어가서는 문을 닫으니 두 사람 뿐이라 엘리사가 여호와께 기도하고

34 아이 위에 올라 엎드려 자기 입을 그의 입에, 자기 눈을 그의 눈에, 자기 손을 그의 손에 대고 그의 몸에 엎드리니 아이의 살이 차차 따뜻하더라

35 엘리사가 내려서 집 안에서 한 번 이리 저리 다니고 다시 아이 위에 올라 엎드리니 아이가 일곱 번 재채기 하고 눈을 뜨는지라

하나님께서, 왜 어떤 사람만을 치유하시는지 그 이유는 알 수 없지만 한정된 사람에게만 기적이 임함으로써, 사람들에게 분명 하나님은 계시다는 것을 상기시키고 선지자나 성전의 그 신성함을 보증하고 계신다고 생각할 수 있습니다. 그리고 선지자의 사역이나 율법에 정해진 예배의 봉사가 얼마나 고귀한 것인지를 사람들에게 인정하게 하고, 믿음의 순종으로 이끌기 위해 그 기적들이 효과적이었다고 생각할 수 있습니다. 다시 요한복음으로 돌아가 5:5~7을 보시기 바랍니다.

5 거기 서른여덟 해 된 병자가 있더라

6 예수께서 그 누운 것을 보시고 병이 벌써 오래된 줄 아시고 이르시되 네가 낫고자 하느냐

7 병자가 대답하되 주여 물이 움직일 때에 나를 못에 넣어 주는 사람이 없어 내가 가는 동안에 다른 사람이 먼저 내려가나이다

예수님께서 38년 동안 그곳에서 고통받는 사람에게 다가오셨습니다. 예수님께서는 그가 오랫동안 병들어 있음을 이미 알고 계셨습니다.「낫고자 하느냐」는 질문은 그의 믿음을 시험하려는 것이 아닙니다. 오히려 그 자리에 있던 사람들에게 지금부터 일어날 일에 주의를 기울이게 하기 위함으로 보입니다. 예수님의 질문에 대해 7절에서 그 남자는 「주여 물이 움직일 때에 나를 못에 넣어 주는 사람이 없어 내가 가는 동안에 다른 사람이 먼저 내려가나이다」라고 대답했습니다. 이 남자의 대답은 예수님의 질문과 맞지 않습니다. 하지만 이 대답에서 알 수 있는 것은, 이 남자가 지금까지 얼마나 마음의 상처를 받아 왔는지가 드러난다는 것입니다. 천사가 연못에 내려와 물을 휘저을 때, 힘이 있는 자가 먼저 베데스다 연못에 뛰어들어 그 은혜를 누릴 수 있었습니다. 그렇게 무자비한 경쟁이 지금까지 펼쳐져 왔던 것입니다. 치유받은 자는 기쁘게 그 자리를 떠나갔을 것입니다. 그는 자신을 도와줄 사람이 없었기에, 항상 그 경쟁에서 패배해 왔던 것입니다. 늘 하늘을 우러러보며, 분하고, 슬프고, 속상한 마음에 빠져들 수밖에 없었던 것입니다. 남자의 절실한 말에서 그 사실이 전해지지 않습니까?

(3) 베데스다 연못보다 위대하신 분

그런 그에게, 예수님은 믿음을 가지라고 설득하는 것도 아니고 「일어나 네 자리를 들고 걸어가라」'라고 말씀하셨습니다. 그러자 어떻게 되었을까요? 9절을 보시겠습니다.

그 사람이 곧 나아서 자리를 들고 걸어가니라 이 날은 안식일이니

그에게 38년이라는 세월은, 결코 짧은 시간이 아니었을 것입니다. 괴로움을 이겨낸 긴 시간이었습니다. 하나님은, 계획하신 그의 몸의 치유를 38년 동안이나 계속해서 기다리게 하셨습니다. 그리고 때가 차고 어느 안식일에 예수・그리스도를 통해, 마침내 그 치유가 실현되었습니다. 이 일이 우리에게 가르쳐 주는 것은, 결코 기도를 포기해서는 안 된다는 것이라고 생각합니다. 더딘 시간의 길이에 싫증이 나서 인내하는 것을 포기해서는 안 된다는 것입니다. 오랫동안 불행이 계속돼, 출구가 보이지 않는 터널 안에 있는 것처럼 느껴지더라도, 하나님은 해방자이시며 때 맞춰 탈출의 길을 마련해 주실 것을 우리는 믿고 있어야 한다는 것입니다.

그런데 요한복음에서, 물에 대해 지금까지 여러 번 언급되었습니다. 첫째로, 가나에서의 첫 표적에서 나타났습니다. 혼인잔치에서 정결을 위한 돌항아리의 물을 포도주로 바꾸신 것입니다. 이 기적은 곧 이스라엘의 구속이 자신의 피로 이루어진다는 것을 보여주고 있었습니다. 동시에 지금까지 모세의 율법에 규정된 질서가 아니라, 정결을 위한 새로운 질서가 예수님 자신의 강림으로 시작되었음을 의미하고 있었습니다. 둘째로, 사마리아에서였습니다. 사마리아 사람들에게 매우 중요한, 야곱의 우물물을 능가하는 물을 예수님께서 보여주셨습니다. 사마리아인에게 야곱의 우물물은 말하자면 거룩한 물이었지만, 메시아이신 예수님은 자신에게서 솟아나는「생수」를 받으라고 말씀하셨습니다. 그 물을 받으면 결코 목마르지 않고 영생에 이르게 될 것이라고 말씀하신 것입니다. 이 또한 마찬가지로 조상 야곱보다 위대한 분, 메시아의 오심을 알리고 계신 것입니다. 오늘 본문 메시지도 이와 전혀 다르지 않다고 할 수 있습니다. 예수님은 바로 그분 자신이, 치유의 능력을 지닌 참된 베데스다 연못임을 증명하셨습니다. 아우구스티누스는 다섯 개의 행각으로 둘러싸인 이 연못을 모세 오경, 즉 「율법」으로 해석하고 있습니다. 이 연못에 모인 사람들은 율법 아래에서 살아왔지만, 이제 그 율법을 완전히 성취하신 메시아가 오셨음을 이 치유의 사건을 통해 분명히 보여주셨다고 말하고 있습니다. 알레고리적으로(즉, 우화적으로) 본다면, 그런 해석도 충분히 성립한다고 생각합니다.

어쨌든 예수님은 그 치유의 역사를, 일부러 사람들이 많이 모인 명절에, 게다가 안식일에, 주의를 환기시킨 후에 행하신 것이었습니다. 병을 고침 받은 당사자는 아직 예수님과의 인격적인 교제는 이루어지지 않았지만, 그 기적을 가까이서 목격한 사람들에게 이 분이야말로 베데스다 연못을 능가하는 분, 혹은 베데스다 연못에 권위를 부여하는, 예루살렘 성전을 능가하는 분이라는 사실을 직면하게 된 것입니다. 그렇다면 38년 동안 고생한 그 남자의 고통은 결국 무엇이었는가 하는 문제가 되는데, 그것은 메시아의 오심을 알리는 하나님의 역사가 그 남자의 병 고침을 통해 나타난 것이었습니다.

결론

오늘 내용을 정리합니다. 예수님께서는, 육체의 일시적인 치유보다, 오히려 메시아이신 자신을 받아들임으로써, 영혼의 구원을 얻고 주 안에 있는 안식으로 들어갈 것을 바라십니다. 사람들은 육체의 진정한 건강을 예수님께 기대하지만, 사실 그 진정한 건강은, 마지막 날 죽은 자의 부활에서 이루어집니다. 38년간 고통받던 남자처럼, 우리 그리스도인들도 예수님을 믿고 있음에도 불구하고 여전히 병 속에 놓여 있거나, 출구가 보이지 않는 터널 속에 놓여 있거나, 온갖 어려움 속에 놓여 있습니다. 그런 상황에서 우리는 문제가 해결되도록 주님께 기도해야 합니다. 치유를 위해 주님께 기도해야 합니다. 그러나 비록 그 기도를 예수님께서 들어주시지 않으셨다 해도, 비록 바랐던 대로 병의 치유를 얻지 못했더라도, 마지막 날, 죽은 자의 부활 때에 그 기도는 이루어질 것입니다. 그날, 사는 자는 다시는 죽지 않을 것이요, 그날, 치유받는 자는 다시는 병들지 않을 것이며, 배부른 자는 다시는 굶주리거나 목마르지 않을 것입니다. 그 날 새로워진 자는 다시 낡아지지 아니하며 참된 안식에 들어갈 것입니다. 그러나 현재 시점에서는, 비록 예수님에 의한 일시적인 치유의 기적이 일어났다고 해도, 그것들은 결국 무로 돌아가게 됩니다. 죽음으로 인해, 열린 맹인의 눈도 다시 감기고, 다리가 불편한 자의 곧게 펴진 다리도 다시 흙으로 돌아가며, 죽을 몸에 일시적으로 베풀어진, 죽은 자의 부활의 치유도, 모두 결국 무로 돌아가는 것입니다. 예수님을 믿고 받아들이는 것, 바로 그것이 영생이며, 참된 건강에 이르는 길입니다. 오늘 우리는 메시아, 구세주께서 우리에게 오신 것에 진심으로 감사하며, 우리는 예수님을 믿고 예수님 안에 있는 소망 가운데 진심으로 하나님을 찬양하는 자들이 되도록 합시다.

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