2025年09月14日「神が求めるまことの礼拝」

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神が求めるまことの礼拝

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章16節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
4:27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
4:28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4:29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4:30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 4章16節~30節

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【序】

「水を飲ませてください」というイエス様の一言から、イエス様とサマリアの女との対話が始まりました。一見するとイエス様の風貌はこのあたりのサマリア人のようではなく、ユダヤ人の男であることが分かりました。そのユダヤ人がサマリア人の自分に話しかけて来たのです。女は、その風変わりな人物の語る言葉を、最初は真剣に受け止めていなかったように思われます。なぜなら「あなたはわたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と男をたしなめているからです。さらに「そのような不思議な水があるなら、ちょっと私にくださいますか。再びこの井戸に水を汲む必要がないように。」と言いました。まるで、これ以上、話にもならないことを言わないでくださいとでも言っているかのようです。しかし、次のイエス様の一言によって、女は態度を変えざるを得ませんでした。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。このイエス様の一言は、女が内に抱えている全ての問題を見事に言い当てました。本日の箇所は、訳アリの女が、自分の罪と向き合うことによってイエス様の自己証言を受け入れ、神を知り、神を正しく礼拝する者に変えられる物語です。私たちも、今まさに礼拝を捧げていますが、何が神様の求めるまことの礼拝なのかについて考えながら、本日もヨハネの福音書を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 女の渇き

17~18節をご覧ください。

“女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」”

核心をついたイエス様の一言に対し、女は言い逃れようとしますが、イエス様は全てをお見通しでした。この女には、過去に五人の夫がいたということが明らかにされてしまったのです。どのような込み入った事情があったのか、ここには詳しくは書かれていませんが、恐らく男と結婚しては破局するということを五回も繰り返したのだと思われます。そして今の男とは、法的には結婚関係ではない、ただ同棲しているだけだというのです。今日の場合であれば、「まあ、人それぞれ自由ですから、そういう人もいるでしょう。」となるかもしれません。しかし、当時の状況では、異常です。五回も離婚した人など、当時どこを探しても見当たらなかったことでしょう。この女は、ただでさえ、別れた男から心に深い傷を受けたと思われますが、それに追い打ちをかけるかのように、周りの人々から、とんでもない女だということで後ろ指を指されていたに違いないのであります。陰口や誹謗中傷が絶えなかったことでしょう。そしていつの間にか自分自身も人々との交わりを避け、こんな真昼に井戸に水を汲みに来たのであります。この女はまさに自分の置かれている不幸な状況から救いを求めていました。自分の罪が招いてしまった悲惨な結果から贖われることを望んでいました。自分の力ではもうどうにもならないと、神の前に降参しつつ、このみじめさから、劣等感から回復されたい、出来ることなら人生をもう一度やり直したいと願っていたのであります。女は、神の祝福と神の賜物に心から渇いていたのでありました。考えてみますと、現在に生きる私たちも、弱く、欠けが多く、イエス・キリストに出会う前は、人間関係において失敗し、人生の挫折を経験し、心にたくさんの傷を負っていた者たちであったのではないかと思います。心の奥底に苦い想いや、誰にも知られたくない罪がくすぶっていて、もうどうでもいいと自暴自棄になったり、人々との交わりを避けてしまう、そんな人生を少なくとも私自身はかつて送っていました。女の心の中の叫びとは、まさにかつて私たちが持っていた心の叫びであり、女の渇きとは、まさに私たちの渇きであると言っていいのではないでしょうか。

【2】. まことの礼拝

女は、自分の罪を指摘されて、今、目の前に座っている人と真剣に向き合うようになりました。そして次のような質問をしました。19~20節をご覧ください。

“女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」”

なぜ、ここでいきなり、礼拝の場所について質問したのでしょうか。これは、女がこれ以上自分の秘密が暴露されるのを恐れて、話をそらすために、ごまかそうとして話題を突然切り替えたと、いくつかの注解書はそのように書かれていました。しかし、私にはどうもそのようには思えませんでした。自分の力ではもうどうにもならないことを悟っていた女の口から、思いがけず、根本的な深い悩みが、口から咄嗟に出て来てしまったのではないかと思います。つまり、女は、「私は神様に私の悩みを打ち明けたいのです。」「神様に私の事情を知っていただき、どうかこの私を憐れんでいただきたいのです。」そう言っているのだと思います。するとイエス様は次のように言われました。21~24節です。

“イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」”

端的に言いますと、イエス様は「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われています。そして、「あなたのまことの礼拝への飢え渇きは、今、満たされるようになる」と言われます。それでは、イエス様の言われる「まことの礼拝」とは一体何なのでしょうか。

まことの礼拝を理解する上で重要な手がかりとなるのが「神は霊である」という言葉です。これは被造物である人間は、決して神に近づくことは出来ないということを意味しています。神は近寄り難い光の中に住まわれ、誰一人見たことがなく、見ることができないお方であり、被造物を超越しておられるお方です。従って旧約聖書の中で、神が顕れたという記事がいくつかありますけれども、実際には、それらは本当に神がそこにいたということではなく、一つの予表を見たに過ぎなかったと言うことです。たとえ、ベテルにおいてヤコブに現れたり、シナイ山においてモーセに現れたり、荒れ野において雲の柱、火の柱として現れたりしても、たとえ、シナイ山において雷鳴と共に現れ、その後、契約の箱に臨在され、エルサレム神殿に神が住まわれると聖書に啓示されているとしても(詩132:13)、それらは神の臨在に対するしるしであり、神の臨在に対する保証に過ぎないのであります。つまり旧約聖書の啓示とは、必ずしも神ご自身の存在と完全に一致するわけではないということです。旧約聖書で与えられた啓示は、影にすぎず、神について、真理について、おぼろげに表されているに過ぎません。これと同じように、旧約聖書において、神の名「ヤハウェ」という名前が啓示されていますが、たとえ神が御自身の名によって御自身を顕したとしても、実際、いかなる名であろうと、神を正しく表現することは出来ません。そもそも被造物に把握される神の名など存在せず、彼は不思議であり、人間は決して彼の隠された根源を測ることができず、全能者の境界線や、全能者の極み、全能者のその本質を知ることはできないのであります。それでは、そのような目に見えない神を私たちは、どのように礼拝することができるのでしょうか。イエス様は「時が来る。今がその時である」と言われました。メシアであるイエス様の到来によって、旧約時代が成就され、新しい時代を迎えたという意味です。旧約の啓示とは臨時的なものであり、真理に導くための一時的な養育係に過ぎなかった。しかし新約時代の幕が開け、かつておぼろげに語られた福音が、今やイエス・キリストにおいてはっきりと顕されたのです。神を礼拝する者は、神の啓示そのものであられるイエス・キリストを信じて礼拝しなければならないと言われるのです。

22節の「霊と真理を持って礼拝する」という個所は、注解書によって意見が分かれるところですが、「霊」というのは聖霊のことを言っているのだと思います。イエス様を信じる時に、私たちは聖霊を注がれて、新しく生まれ変わります。その聖霊のことを意味しているのでしょう。「真理」というのは、偽りと対比される「真理」ということではなく、旧約の律法に定められた様々な規定と対比される「真理」のことを言っているのだと思います。例えば、旧約時代に礼拝を捧げようとすれば守らなければならないいくつかの戒めがありました。安息日規定というものがあります。土曜日である安息日は神様のために取り分けて、その日はいかなる労働もしてはならないと律法に定められています(出20:10)。或いは食物規定というものがありまして、清い家畜である牛や羊は食べても良いですが、豚のようなものは食べてはならないと定められています(レビ11章、申14章)。魚類についても、ヒレとウロコのある魚は食べても良いですが、エビ、カニ、イカ、タコ、うなぎのようなものは汚れているため食べてはならないと定められています(レビ11章、申14章)。旧約時代には、これらの戒めをきちんと守って礼拝しなければなりませんでした。しかし新約のまことの礼拝者は、このような律法の縛りから解放されるということです。「時が来る。今がその時である。」今や、アブラハムの血統であるイスラエル民族がそのままアブラハムの子孫ではありません。心に割礼を受けて、信仰によってキリストのものとされた者こそ、アブラハムの子孫なのだとイエス様は言われるのです。従いまして「霊と真理を持って礼拝する」というのは、実はイエス様を信じている私たち教会の礼拝のことを指しているということです。女はイエス様に言いました。25節です。

“わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。”

サマリア人はメシアを待望していました。しかし、モーセ五書のみを聖典としていたサマリア人にとって、メシアについて持っていた知識は限られていた者でありました。彼らのメシア像というものがどのようなものだったのかと言いますと、申命記に書かれている「モーセのような預言者」を待ち望んでいたと考えられています。申命記18:18をご覧ください。

“わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。”

このモーセのような預言者を、サマリア人は「回復者(ターヘーブ)」と呼んでいました。この回復者こそ、神に対する真の信仰と真の礼拝を回復させる使命を持っていると信じられていたようです。するとイエス様は女に「わたしがそれである」と言われました。ギリシア語ではエゴーエイミーと書かれています。「エゴーエイミー」とは、出エジプト記3:14で主なる神がモーセに教えられた御自身の名前であります。出3:14をご覧ください。

“神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」”

神の御名、ヤハウェ『わたしはある』、ギリシア語ではエゴーエイミー「わたしがそれである」と、イエス様は女に御自身を明らかにされました。神の自己証言です。この言葉に、サマリアの女がどのように反応したのかは聖書には書かれていませんが、ただ28節を見ますと、水がめをそこに置いたまま町へ急いだということですから、また、戻ってくることを意図していたのかもしれません。とにかく急いでそこを発ったということが分かります。続いて29~30節をご覧ください。

“「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへ向かった。”

町へ急いだ女は、何と人々にイエス様のことを証し始めました。「私のしたことをすべて、言い当てた人がいます!」なぜ、あれほど人々の交わりを避けていた女が、ここでは、過去に自分がしでかした恥ずかしいことを、全てさらけ出すことができたのでしょうか。それは、罪から解放され、生ける命の水が、泉であられるイエス様から無尽蔵にあふれ流れ出るように、喜びで心が満たされたからではないでしょうか。神様がこんな自分であっても憐れんでいてくださったことをイエス様との出会いを通して確信したからではないでしょうか。この女は過去の罪を悔い改め、新しく生まれ変わったのであります。人間の魂の渇きは、この世のものでは、決して満たすことが出来ません。しかし神様を知り、神様と交わることによって、初めて魂の渇きが満たされるのです。神が求めるまことの礼拝とは、イエス様を通して神様を知り、悔い改めに導かれ、神様との交わりが回復されることを言うのであります。

【適用】

本日の内容をまとめます。神が求めるまことの礼拝とは、メシアの到来によって、旧約の律法に縛られた礼拝から解放されることを意味しました。神は霊であるため、ゲリジム山に住まわれるのでも、エルサレムの神殿に住まわれるのでもありません。イエス・キリストを信じる教会が、主の日ごとに共に捧げているこの礼拝こそ「霊と真理をもって」礼拝することなのであります。私たちの捧げる礼拝にこそ、主はご臨在してくださり、御自身の豊かさを持って、教会を満たしてくださるのです。そして、生ける水の源であられるイエス様は、今日も、訳アリの私たち一人ひとりの渇きを癒して下さり、永遠の命に至る喜びと潤いを与えてくださいます。ですから、私たちは週ごとの主日礼拝を心から大切にするようにいたしましょう。そしてイエス様を通して神様と交わる喜びを人々に分かち合い、イエス・キリストを大胆に家族・友人・知人に証しする者たちとならせていただきましょう。

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