2025年08月31日「天から来られる方の証し 하늘로부터 오시는 이의 증언」

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天から来られる方の証し 하늘로부터 오시는 이의 증언

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章31節~36節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
3:32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
3:33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
3:34神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
3:35御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
3:36御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 3章31節~36節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス・キリストは天から来られ、この世に証しをしてくださいます。イエス様の語られることはすべて真理であり、誤りはありません。なぜなら、イエス様は自分勝手に語るのではなく、天において見たこと聞いたことを語り、イエス様御自身が御父を現すロゴスであられるからです。本日もヨハネの福音書を通して共にみ言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. だれもその証しを受け入れない

最初に本日の31~36節までは、私たちの新共同訳聖書では、カギ括弧で括られています。30節までは洗礼者ヨハネの言葉でありますが、引き続き洗礼者ヨハネが語っているかのように見えます。ところが、新改訳聖書を見ますと、洗礼者ヨハネの言葉は一旦30節で閉じられていて、31~36節まではカギ括弧はなく、あたかもこの福音書の著者である使徒ヨハネのナレーションのように書かれています。ですから、本日の31~36節迄が、果たして洗礼者ヨハネの言葉なのか、或いは使徒ヨハネの言葉なのか非常に分かりにくい個所であります。甚だしくは、イエス様の言葉ではないかと主張する神学者もいます(NTD)。このように様々な解釈が生じるのは、そもそも、ギリシア語において、会話を表すカギ括弧のようなものがないことに起因しています。ですから、私たちは本日の個所を、洗礼者ヨハネのセリフなのか、使徒ヨハネのセリフなのか、或いはイエス様のセリフなのか、確定することはいたしませんが、いずれにしても霊感された神の言葉として読み進めていきたいと思います。31~32節をご覧ください。

“上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。”

ここでは、御子イエス・キリストの神性が明らかにされていまして、アダムの子孫である人間との計り知れないギャップについて語られています。御子イエスは、上から来られたお方、天から来られたお方でありますが、罪人である人間は地に属する者として、誰もイエス様の証しを受け入れないということです。これは現代においてもそのまま当てはまります。イエス様は十字架と復活を通して、天に昇られた後にも証し続けておられ、今日においても証ししておられます。黙示録1:5をご覧ください。抜粋のプリントに聖書教会共同訳で印刷しました。

“また、真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにあるように。”

ここまでです。ここにはイエス様のことを「真実な証人」として描かれています。イエス様は天から来られた証人であり、イエス様の証しは神的で、真実であり、誤りがありません。なぜならサタンのように自分勝手に語るのではなく、イエス様は天において見たこと聞いたことを語り、御父と共におられるロゴスであり、アーメンなるお方だからであります。それではなぜ、誰もイエス様の証しを受け入れないのでしょうか。

神学用語で「啓示」という言葉があります。ギリシア語のアポカリュプトーἀποκαλύπτω(マタ11:25、ロマ1:17、ガラ1:16)という言葉に由来しており、「隠されていることがあらわになる、明らかになる」という意味です。つまり、人知をもって知ることのできない真理を、神御自身が外から現してくださるという意味です。神の啓示の方法としては、二つの方法がありまして、第一に神様は自然界を通して、類比によって真理を示してくださいました。例えば大自然が織りなす絶景や現象などを見る時、或いは、アッと驚くような自然界の神秘を観察する時、私たちは神について、真理について知ることができるのです。これを神学用語で「一般啓示」と呼んでいます。一般啓示は全ての人が受け取ることのできる啓示です。しかしこの類比というものは、必ずしも真理と完全に一致しているわけではありません。一般啓示を受け取るだけでは人は救われることは出来ないのです。そこで第二に「特別啓示」というものが登場します。この特別啓示こそ、イエス様による証しであり、救いに至る啓示なのであります。ところがこの特別啓示というものは、外から来る原理であり、人間はそのままでは受け止めることが出来ないのであります。例えば、音の世界というものは、ただ音を聞くことができる者たちにだけに現実でありますね。思考の世界というものは、ただ精神にとってのみ現実であります。盲目の人に対して、一生懸命、色の存在を客観的に証明しようとしても、それは無駄骨に過ぎないのであります。それでは外から来るイエス様の証しを、人間はどのようにしたら受け取ることができるのでしょうか。

【2】. 神が真実であると認める印を押した者

外から来る特別啓示は、神が私たちに与えてくださる信仰というレシーバー(受信機)によって波長が合う時に、初めて人は啓示を受け取り、神について、真理について知ることが出来ます。言い換えれば、イエス様の証しを信仰によって受け入れる時に、イエス様の証しに証印を押す時に、人は初めて、それを特別啓示として受け取り、神について、真理について知ることが出来るのです。そのことが33節に書かれています。新改訳2017の翻訳を抜粋のプリントに印刷しましたので、そちらの方をご覧ください。

“その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。”

私たちの新共同訳聖書の翻訳と比べますと、二か所、翻訳が異なっています。まず「その証しを受け入れる者」という個所が、「その証しを受け入れた者」と過去形になっています。ギリシア語の写本の聖書で時制を確認しますと、新改訳聖書の方が正確な翻訳と言えるでしょう。次に「神が真実であることを確認したことになる」という個所は「神が真実であると認める印を押したのである」となっていますが、これもギリシア語の写本を見ますと、「印を押すσφραγίζω」という言葉が使われていますので、やはり新改訳聖書の方が正確な翻訳だと言えるでしょう。それでは「神が真実であると認める印を押す」とは、どういう意味なのでしょうか。結論から言いますと、まさにこれこそ、ヨハネ福音書が主張している、霊によって新たに生まれ変わるということです。イエス様の証しを信仰によって受け入れるということです。

「印を押す。」ここには大変深い意味が含蓄されているのですが、当時、有力な人々は印章の指輪を指にはめていました。彼らは自分が書類の執行の証人であることを証明するために、書類の外側に付いている温められた蝋にその印章の指輪を押印することによって封印しました。ですから、印を押すというのは、間違いなくその書類が執行されたことの証拠であり、私がその証人ですということを意味しました。そして、書面の内容が上書きされないように封印するという役割も担っています。よく、聖餐式や洗礼式が、印を押すことだと言われますが、それは御言葉を封印することを意味します。聖書の御言葉が右にも左にもずれないように、目に見える形で御言葉を封印することです。それでは本日の33節の個所では、どうなっているのかと申しますと、封印するという意味も含まれていると思いますが「その証しが真実であることを確認し、認めました。私がその証人です。」という意味合いが強いのだと思います。つまり外から来た御子イエスの証しを信仰によって内的に受け入れたということを言っているのです。もっと言えば、私自身が御子の証しが真実であることの証人であるということを言っているのです。ですから印を押すことによって、信仰によってイエス様を受け入れることにより、イエス様の証人という働きが、私たち教会の働きとしてバトンタッチされていくことをも意味しているのです。信じるという言葉は、「はい、信じました」というような簡単なことではありません。霊によって上から生まれ変わるならば、人は柔らかい心を与えられ、イエス様の証しが真理であることに印を押し、そして自らも証人として証ししていく者とされるのです。主イエスの復活の証人となる、そのような霊的な変化が伴うのであります。

【3】. 神の国の現在性 

続いて34節をご覧ください。

“神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。”

「神がイエス様に聖霊を限りなくお与えになる」とは一体どういう意味でしょうか。神の言葉を語ったのは何もイエス様だけではなく、旧約時代の預言者たちや、新約時代の弟子たち、使徒たちを通しても神の言葉は語られました。皆さまがお持ちの、この旧・新約聖書は霊感された書物であり、神の言葉そのものであります。しかし、それら霊感された聖書とは、神が聖書の著者に量りに従って聖霊の賜物を与えられた結果でもあります。言い換えれば、神の霊は人間に対し「はかりに従って」、「限定されて」与えられたということです。エフェソ4:7と、11節をご覧ください。

“しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。”

“そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。”

聖霊の賜物は、人間に対してはかりに従って与えられること、限度があること、そして種々の賜物には区分があることが分かります。それぞれに与えられた異なる賜物が調和をなし、一つの体である共同体を形成するのです。一方でイエス様は、御父から限りなく聖霊を与えられました。ですから、イエス様は唯一で最高の預言者であると言うことも出来るのです。御父は御子を愛され、その手にすべてを委ねられました。御子は御父の代理としてこの世に遣わされたのであります。続いて36節をご覧ください。

“御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。”

ここでは、「永遠の命」と「神の怒り」について語られていますが、興味深いのは、永遠の命も神の怒りも現在形で書かれている点であります。御子を信じる人は永遠の命を現在、既に得ていると言うのです。また、御子に従わない者は、永遠の命に与ることがないばかりか、現在、既に神の怒りがその上に留まっていると言うのです。これは、終末論的な救いの完成と、最後の審判を否定している訳ではありませんが、それにも拘わらず、この世において信者と不信者に間に、救いと審判が既に始まっていることを言っているのだと思います。それでは、この世において信者に既に始まっている救いとは、既に始まっている永遠の命とは何でしょうか。それは、イエス・キリストが御父の証人として歩まれたように、聖霊によって再生した者たちも、天から受け取った啓示を証しし、キリストの証人として、真理の証人として、歩むようにされると言うことです。これは強制的な仕方ではありません。自然と、そうしないではいられなくなるという仕方で起こるのです。信仰の根というものは、まさにイエス様と私たちを結合させているものですが、その信仰の根がどこにあるのかと言いますと、再生された心の奥底の神秘にあります。ですからキリスト者は自分自身を決して放棄することができないように、この心の奥底に根付いた信仰を決して放棄することが出来ないようになるのです。キリスト者は、イエス様の流された血によって、神の怒りと裁きから免れていることを実感し、罪の全ての結果から自由にされます。たとえ、貧困と病気の中に置かれても、たとえ苦しみと恐れに置かれても、飢えと渇きに置かれても、寒さと暑さに置かれても、その中にあってもなぜか神の救いを実感し、約束に従って聖さ、救い、栄光、子とされること、永遠の命などの霊的祝福を仰ぎ見ながら、神とキリストに仕え、神とキリストを賛美することが出来るのです。従いまして、私たちキリスト者の人生の最高の瞬間とはいつなのかと申しますと、私たちキリスト者の人生の最も輝く瞬間とはいつなのかと申しますと、最も確固たる信仰を持つ時となるのであります。歴史的にキリスト者の営みを見ましても、自分自身を否定し、自分の命を犠牲にすることはできても、自分の信仰だけは放棄することができなかったという事例をいくつでも挙げることが出来るでしょう。啓示を信じる信仰とは、キリスト者にとって、自分自身を信じる信仰と全く同じことなのであります(目に見える現実の自分において自分の実存を置いているのではなく、啓示の中に約束されているものにこそ自分の実存を置いている)。

一方で、御子に従わない者において始まっている審判とは一体何でしょうか。それは、彼らの心が徐々に暗くなるということです。サタンは、暗闇の中にいる彼らに対し「平安だ、平安だ、危険はない」とささやき続けることでしょう。彼らは罪をさらに重ね、あらゆる不義に屈服するようになります。キリスト者によって十字架の福音が語られたとしても、それはただ奇妙なものとして映るだけで、真理に一切気づくことはなく、むしろキリスト者を迫害し、後に神の御前で弁解できないような悪事をやらかし、最後の審判において彼らは言葉と行いに従って罪に定められることになるのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。主イエスは、御父の証人として真理の証人としてこの世に来られました。私たちが今、天からの証しを受け入れ、その証しに印を押すことができるのは、聖霊による恵みであります。聖霊によって悔い改めが与えられ、聖霊によって新しく生まれ変わり、聖霊によって、イエス様が歩まれたように、私たちも真理の証人として歩むように導かれるのです。キリストの証人になるということは、キリストの敵であるこの世を敵に回すような、そのような茨の道であり、信仰の戦いの道ではありますけれども、同時にイエス様との交わりの中で、真の自由を手に入れ、天の啓示を証しする歩みとなり、命溢れる歩みとなり、自分自身が最も輝く歩みとなり、喜びと祝福に満ちた歩みとなるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하늘로부터 오시는 이의 증언

2025년 8월 24일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 3장 22~30절

서론

예수 그리스도는 하늘로부터 오셔서 이 세상에 증언해 주십니다. 예수님께서 말씀하시는 것은 모두 진리이며, 오류가 없습니다. 왜냐하면, 예수님은 자기 마음대로 말씀하시는 것이 아니라 하늘에서 보시고 들으신 것을 말씀하시며, 예수님 자신이 아버지를 나타내시는 로고스이시기 때문입니다. 오늘도 요한복음을 통해 함께 말씀의 은혜에 참여하고자 합니다.

(1) 그의 증언을 받는 자가 없도다

신공동역 성경(일본어성경)에서는 오늘 본문 31~36절까지가 대화를 나타내는 괄호로 묶여 있습니다. 30절까지는 세례 요한의 말씀이지만, 이어지는 내용도 세례 요한이 말하는 것처럼 보입니다. 그러나 신개역성경을 보면 괄호로 묶여 있는 세례 요한의 말은 일단 30절에서 끝나고, 31~36절까지는 괄호가 없으며 마치 이 복음서의 저자인 사도 요한의 나레이션처럼 기록되어 있습니다. 따라서 오늘 본문 31~36절까지가 과연 세례 요한의 말인지, 아니면 사도 요한의 말인지 매우 알기 어려운 부분입니다. 심지어 예수님의 말씀이 아니냐고 주장하는 신학자도 있습니다(NTD). 이렇게 다양한 해석이 생기는 것은, 애초에 헬라어에는 대화를 나타내는 괄호 같은 것이 없기 때문입니다. 그러므로 우리는 오늘 본문 구절이 세례 요한의 대사인지, 사도 요한의 대사인지, 혹은 예수님의 대사인지 확정하지는 않겠습니다만, 어쨌든 영감으로 기록된 하나님의 말씀으로 읽어 나가고자 합니다. 31~32절을 보시겠습니다.

31 위로부터 오시는 이는 만물 위에 계시고 땅에서 난 이는 땅에 속하여 땅에 속한 것을 말하느니라 하늘로부터 오시는 이는 만물 위에 계시나니

32 그가 친히 보고 들은 것을 증언하되 그의 증언을 받는 자가 없도다

여기서는 하나님의 아들 예수 그리스도의 신성이 분명히 드러나 있으며, 아담의 후손인 인간과의 헤아릴 수 없는 간극에 대해 말하고 있습니다. 아들 예수님은 위로부터 오시는 이, 하늘로부터 오시는 이시지만, 죄인인 인간은 땅에 속한 자로서 아무도 예수님의 증언을 받아들이지 않는다는 것입니다. 이는 현대에도 그대로 적용됩니다. 예수님은 십자가와 부활을 통해, 하늘에 오르신 후에도 계속 증언하시며, 오늘날에도 증언하고 계십니다. 요한계시록 1:5절을 보시기 바랍니다.

요한계시록 1장

5 또 충성된 증인으로 죽은 자들 가운데에서 먼저 나시고 땅의 임금들의 머리가 되신 예수 그리스도로 말미암아 은혜와 평강이 너희에게 있기를 원하노라 우리를 사랑하사 그의 피로 우리 죄에서 우리를 해방하시고

여기에는 예수님을「충성된 증인」으로 묘사하고 있습니다. 예수님은 하늘에서 오신 증인이시며, 예수님의 증언은 신적이며 진실하고 오류가 없습니다. 왜냐하면 사탄처럼 제멋대로 말하는 것이 아니라, 예수님은 하늘에서 보시고 들으신 것을 말씀하시며, 아버지와 함께 계신 로고스이시며 아멘이신 분이시기 때문입니다. 그렇다면 왜 아무도 예수님의 증언을 받지 않는 것일까요?

신학용어로「계시」라는 말이 있습니다. 헬라어 아포칼립시스ἀποκαλύπτω, (마태 11:25, 롬 1:17, 갈 1:16)에서 유래한 이 단어는「숨겨진 것이 드러나고 밝혀진다」는 의미입니다. 즉, 인간의 지식으로는 알 수 없는 진리를 하나님께서 직접 외부에서 나타내 주신다는 뜻입니다. 하나님의 계시 방법으로는 두 가지가 있습니다. 첫째, 하나님께서는 자연계를 통해 비유로 진리를 보여주셨습니다. 예를 들어 대자연이 만들어내는 절경이나 현상 등을 볼 때, 혹은 깜짝 놀랄 만한 자연계의 신비를 관찰할 때, 우리는 하나님에 대해, 진리에 대해 할 수 있습니다. 이를 신학 용어로 「일반 계시」라고 부릅니다. 일반 계시는 모든 사람이 받아들일 수 있는 계시입니다. 그러나 이러한 비유는 반드시 진리와 완전히 일치하는 것은 아닙니다. 일반 계시만으로는 사람이 구원받을 수 없습니다. 그래서 두 번째로 「특별 계시」라는 것이 등장합니다. 이 특별 계시야말로 예수님의 증언이며, 구원에 이르는 계시입니다. 그러나 이 특별 계시라는 것은 외부에서 오는 원리이며, 인간은 그대로 받아들일 수 없습니다. 예를 들어, 소리라는 세계는 오직 소리를 들을 수 있는 자들에게만 현실입니다. 사고라는 세계는 오직 정신에게만 현실입니다. 맹인에게 아무리 열심히 색깔의 존재를 객관적으로 증명하려 해도 그것은 헛수고에 불과합니다. 그렇다면 외부에서 오는 예수님의 증언을 인간은 어떻게 받아들일 수 있을까요?

(2) 하나님이 참되시다는 것을 인친 자

외부에서 오는 특별계시는, 하나님이 우리에게 주시는 믿음이라는 수신기에 의해 파장이 맞을 때에야 비로소 사람은 계시를 받아들이고, 하나님에 대해, 진리에 대해 알 수 있습니다. 달리 말하면, 예수님의 증언을 믿음으로 받아들일 때, 예수님의 증언에 인장을 찍을 때에야 비로소 사람은 그것을 특별계시로 받아들이고, 하나님에 대해, 진리에 대해 알 수 있는 것입니다. 그 내용이 33절에 기록되어 있습니다.

그의 증언을 받는 자는 하나님이 참되시다는 것을 인쳤느니라 (한국어 개역개정 성경)

센겐다이 교회에서 현재 사용하고 있는 신공동역 성경의 번역과 신개역 2017년 성경을 보면 두 가지가 다릅니다. 먼저 첫째로 일본어 신공동역 번역의 「그의 증언을 받는 자」라는 구절이 신개역 2017년 성경에서는 「그의 증언을 받은자」로 과거형이 되어있습니다. 두번째로 「하나님이 참되시다는 것을 확인했다」라고 하는 부분은 「하나님이 참되시다는 것을 인쳤다」라고 번역되어 있습니만, 이것도 헬라어 원본을 보면, 「인을 치다σφραγίζω」라는 단어가 사용되었으므로, 역시 신개역성경이 더 정확한 번역이라고 할 수 있겠습니다. 그렇다면 「하나님이 참되시다는 것을 인쳤느니라」는 무슨 뜻일까요? 결론부터 말하자면, 바로 이것이 요한복음이 주장하는 성령으로 새로 태어나는 것입니다. 예수님의 증언을 믿음으로 받아들이는 것입니다.

「인쳤느니라」라는 말씀 안에는 매우 깊은 의미가 함축되어 있습니다. 당시 유력한 사람들은 인장 반지를 손가락에 끼고 있었습니다. 그들은 자신이 문서 집행의 증인임을 증명하기 위해, 문서 바깥쪽에 붙어 있는 데워진 밀랍에 그 인장 반지를 눌러 찍음으로써 봉인했습니다. 따라서 인장을 찍는다는 것은, 분명히 그 문서가 집행되었음을 증명하는 증거이며, 자신이 그 증인임을 의미했습니다. 또한 문서 내용이 덮어쓰기 되지 않도록 봉인하는 역할도 담당합니다. 종종 성찬식이나 세례식이 인을 치는 것이라고 말하는데 (웨스터민스터 신앙고백 27:1), 이는 말씀을 봉인한다는 의미입니다. 성경의 말씀이 오른쪽으로도 왼쪽으로도 취우치지 않도록, 눈에 보이는 형태로 말씀을 봉인하는 것입니다. 그렇다면 오늘 본문 33절에서는, 어떻게 표현되었는지 말씀드리자면, 봉인한다는 의미도 포함되어 있다고 생각하지만「그 증언이 진실임을 확인하고 인정했습니다. 내가 그 증인입니다」라는 의미가 더 강하다고 봅니다. 즉 외부에서 오신, 하나님의 아들 예수의 증언을 믿음으로, 내적으로 받아들였다는 것을 말하는 것입니다. 더 나아가 말하자면, 자신이 아들의 증언이 참된 것임을 증언하는 증인임을 말하는 것입니다. 그러므로 인을 치는 행위를 통해, 믿음으로 예수님을 받아들임으로써, 예수님의 증인이라는 사명이 우리 교회 사역으로 이어져 전해져 나간다는 의미도 담고 있습니다. 믿는다라는 말은 「네, 믿습니다」라는 단순한 것이 아닙니다. 성령으로 위로부터 다시 태어나면, 사람은 부드러운 마음을 부여받아 예수님의 증언이 진리임을 인치며, 또한 스스로도 증인으로 증언해 나가는 자가 되는 것입니다. 주 예수님의 부활의 증인이 되는, 그러한 영적인 변화가 동반되는 것입니다.

(3) 하나님의 나라의 현재성

계속해서 34절을 보시기 바랍니다.

하나님이 보내신 이는 하나니의 말씀을 하나니 이는 하나님이 성령을 한량 없이 주심이니라

「하나님이 성령을 한량 없이 주심이니라」는 대체 무슨 뜻일까요? 하나님의 말씀을 전한 이는 예수님뿐만이 아니었고 구약 시대의 예언자들과 신약 시대의 제자들과 사도들을 통해서도 하나님의 말씀은 전해졌습니다. 여러분이 가지고 계신 이 구·신약성경은 성령의 감동으로 쓰여진 책이며, 하나님의 말씀 그 자체입니다. 그러나 그 영감받은 성경은 하나님이 성경의 저자들에게 분량에 따라 성령의 은사를 주신 결과이기도 합니다. 달리 말하면, 하나님의 영은 인간에게 「분량에 따라」,「제한되어」주어졌다는 것입니다. 에베소서 4:7,11절을 보세요.

에베소서4장

7 우리 각 사람에게 그리스도의 선물의 분량대로 은혜를 주셨나니

11 그가 어떤 사람은 사도로, 어떤 사람은 선지자로, 어떤 사람은 복음 전하는 자로, 어떤 사람은 목사와 교사로 삼으셨으니

성령의 선물은 인간에게는 분량에 따라 주어지며, 한계가 있고, 또한 여러 은사에는 구분이 있음을 알 수 있습니다. 각각에게 주어진 서로 다른 은사들이 조화를 이루어 하나의 몸인 공동체를 형성하는 것입니다. 한편 예수님께서는 아버지께로부터 한량없는 성령을 받으셨습니다. 그러므로 예수님께서는 유일하고 최고의 예언자라고 말할 수 있는 것입니다. 아버지는 아들을 사랑하시고, 그 손에 모든 것을 맡기셨습니다. 아들은 아버지의 대리자로 이 세상에 보내심을 받으셨습니다. 이어서 36절을 보세요.

아들을 믿는 자에게는 영생이 있고 아들에게 순종하지 아니하는 자는 영생을 보지 못하고 도리어 하나님의 진노가 그 위에 머물러 있느니라

어기서는「영생」과 「하나님의 진노」에 대해 말하고 있지만, 흥미로운 점은 영생도 하나님의 진노도 현재 시제로 기록되어 있다는 것입니다. 아들을 믿는 사람은 영생을 현재, 이미 얻었다고 합니다. 또한 아들을 따르지 않는 자는 영생에 참여하지 못할 뿐만 아니라, 현재, 이미 하나님의 진노가 그 위에 머물고 있다고 합니다. 이는 종말론적인 구원의 완성과 마지막 심판을 부정하는 것은 아니지만, 그럼에도 불구하고, 이 세상에서 믿는 자와 믿지 않는 자 사이에 구원과 심판이 이미 시작되었음을 말하는 것이라 생각합니다. 그렇다면, 이 세상에서 신자에게 이미 시작된 구원이란, 이미 시작된 영생이란 무엇일까요? 그것은 예수 그리스도께서 아버지의 증인으로 걸어가신 것처럼, 성령으로 거듭난 자들도 하늘에서 받은 계시를 증언하며, 그리스도의 증인으로서, 진리의 증인으로서 걸어가게 하신다는 것입니다. 이는 강압적인 방식이 아닙니다. 자연스럽게, 그렇게 하지 않을 수 없게 되는 방식으로 일어나는 것입니다. 믿음의 뿌리라는 것은, 바로 예수님과 우리를 결합시키는 것이지만, 그 믿음의 뿌리가 어디에 있느냐 하면, 다시 태어난 마음 깊은 곳의 신비 속에 있습니다. 그러므로 그리스도인은 자신을 결코 포기할 수 없듯이, 이 마음 깊은 곳에 뿌리내린 믿음을 결코 포기할 수 없게 되는 것입니다. 그리스도인은 예수님께서 흘리신 피로 말미암아 하나님의 진노와 심판에서 벗어났음을 실감하며, 죄의 모든 결과로부터 자유롭게 됩니다. 비록, 가난과 질병 속에 놓여도, 비록 고통과 두려움 속에 놓여도, 굶주림과 목마름 속에 놓여도, 추위와 더위 속에 놓여도, 그 가운데서도 어찌된 일인지 하나님의 구원을 실감하며, 약속에 따라 거룩함, 구원, 영광, 자녀됨, 영생 등의 영적인 복을 바라보면서 하나님과 그리스도를 섬기고, 하나님과 그리스도를 찬양할 수 있습니다. 그러므로 우리 그리스도인의 인생에서 가장 최고의 순간이란 언제인가 하면, 가장 확고한 믿음을 가질 때입니다. 역사적으로 그리스도인의 삶을 살펴보아도, 자기 자신을 부정하고 자신의 목숨을 희생할 수는 있어도, 자신의 믿음만은 포기할 수 없었다는 사례를 얼마든지 들 수 있을 것입니다. 계시를 믿는 믿음이란, 그리스도인에게 있어, 자신을 믿는 믿음과 전혀 다를바 없습니다(눈에 보이는 현실의 자신에게 자신의 실존을 두는 것이 아니라, 계시 속에 약속된 것에 자신의 실존을 두는 것입니다).

한편, 아들을 따르지 않는 자들에게 머물러 있는 진노는 대체 무엇일까요? 그것은 그들의 마음이 점점 어두워진다는 것입니다. 사탄은, 어둠 속에 있는 그들에게 「평안하다, 평안하다, 위험하지 않다」라고 속삭일 것입니다. 그들은 죄를 더욱 더 쌓아가며, 온갖 불의에 굴복하게 될 것입니다. 그리스도인이 십자가의 복음을 전하더라도, 그것은 그저 이상한 것으로만 비칠 뿐 진리를 전혀, 깨닫지 못하고, 오히려 그리스도인을 박해하며, 후에 하나님의 면전에서 변명할 수 없는 악행을 저지르게 됩니다. 마지막 심판에서 그들은 말과 행위에 따라 죄로 정죄받게 될 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 주 예수님은, 아버지의 증인으로서, 진리의 증인으로서 이 세상에 오셨습니다. 우리가 지금 하늘로부터의 증언을 받아들이고 그 증언에 인을 칠 수 있는 것은 성령에 의한 은혜입니다. 성령에 의해 회개가 주어지고, 성령에 의해 새롭게 태어나며, 성령에 의해 예수님께서 걸어가신 것처럼, 우리도 진리의 증인으로서 걸어가도록 인도받습니다. 그리스도의 증인이 된다는 것은, 그리스도의 원수인 이 세상을 원수로 삼는 것 같은 가시밭길이며, 믿음의 싸움의 길이지만, 동시에 예수님과의 교제 안에서, 참된 자유를 얻고 하늘의 계시를 증언하는 걸음이 되며, 생명이 넘치는 걸음이 되고, 자기자신이 가장 빛나는 걸음이 되며 기쁨과 축복으로 가득한 걸음이 되는 것입니다.

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