2025年08月24日「花嫁を迎えるのは花婿だ 신부를 취하는 자는 신랑이나」

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花嫁を迎えるのは花婿だ 신부를 취하는 자는 신랑이나

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章22節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 3章22節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の個所では、洗礼者ヨハネが再び登場します。洗礼者ヨハネの説教はものすごい反響を呼び起こし、エルサレムとユダヤ全土から、さらにはヨルダン川沿いの地方一帯から、洗礼を受けるために大勢の人々がやってきました。この一大ムーブメントによって、「ひょっとしたら彼こそ来るべきメシアではないのか?」と考えた人もいたほどです。洗礼者ヨハネは、彼自身が証ししているように自分はメシアではなく、メシアの先駆者として、メシアを指し示した人物でありました。ただし、このメシア(キリスト)を証しするという役割は、何も洗礼者ヨハネだけの役割ではありません。聖書を読むなら、凡そ、すべてのキリスト者に、言葉と行いを通してイエス・キリストを証しすることが使命として与えられていることに気づくことと思います。その意味から、本日の個所は私たちの本来あるべき姿を、洗礼者ヨハネを通して見ることが出来るのだと思います。本日もヨハネの福音書を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 清めの論争

22節の冒頭には、イエス様がユダヤ地方で人々に洗礼を授けていたと書かれています。これは大変貴重な情報です。共観福音書にはイエス様が洗礼を授けたことなど書かれていないからです。尤もイエス様御自身が洗礼を授けていたのではなく、4:1、2節を見ますと、イエス様の弟子たちが授けていたということが明らかにされています。従いまして本日の個所ではイエス様の洗礼と洗礼者ヨハネの洗礼が並行して描かれている訳です。洗礼者ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていました。アイノンという場所がどこにあったのかはっきりと分かってはいませんが、その場所は水が豊かな場所であったと書かれています。アイノンという名前の意味は「泉」ですから、名前からもそのことが伝わってきます。これまでヨハネの説教に心を打たれ洗礼を受けようとしてヨハネの下に大勢の群衆が集まって来ましたが、その洗礼希望者がイエス様の方にも流れて行くようになりました。そんな背景の中で、ある論争が起こりました。25~26節をご覧ください。

“ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」”

「清めのことで論争が起こった」ということですが、この「清めの論争」が果たして何を意味しているのかよく分かりません。いずれにしても、洗礼者ヨハネの弟子たちは、敵対心をもってラビであるヨハネに報告しているようです。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。」ここにはイエス様の名前を直接口に出していませんね。これは相手を見下している証拠です。「あなたと一緒にいたあいつ、あなたが証しされたあいつが」と言っているのです。「皆があいつの方に行っていますが、それを止めさせましょうか」と提案しているのです。ここで論争というのは、もしかしたら、どちらの洗礼が清めの効果があるのか?といったものだったのかもしれません。もしそうであったなら、洗礼者ヨハネの洗礼と、イエス様の弟子たちによる洗礼とでは、果たしてどちらの洗礼に清めの効果があるのでしょうか。結論から申しますと、清めの効果はどちらの洗礼にもないということになるでしょう。と言いますのは、人は聖霊の注ぎを通して初めて清められるのであって、水の洗礼とはあくまで清めのしるしや印であり、それは神の恵みに対する目に見えるしるしに過ぎず、実質的な清めではないからです。また、この論争が、どちらの洗礼が正真正銘の洗礼なのか、どちらの洗礼が本家本元の洗礼なのかというものであったなら、どちらの洗礼も正真正銘の洗礼であり、本家本元の洗礼であると言えるでしょう。なぜなら第一にイエス様の弟子たちによる洗礼とは当然、神であるイエス様から命じられたものですから、天から与えられた洗礼だと言えます。それではヨハネの洗礼はどうでしょうか。それに関しては、イエス様が重要な発言をなさいました。ルカ20:3-4をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。”

これは祭司長律法学者とイエス様の問答でありますが、この問答から分かりますように、イエス様はヨハネの洗礼を暗に天からのものだと認められておられます。つまりヨハネの洗礼とは神によって命じられた洗礼であることが分かります。もっと言うと、イエス様が洗礼を授け始められた時、洗礼者ヨハネは自分の活動を止めずに継続していたという事実も重要だと思います。ヨハネは神様に命じられてユダヤ人に洗礼を授ける働きを始めました。そしてその中でイエス様にも洗礼を授け、イエス様がキリストであり、神の子羊と証しした後も、その働きを止めるようには、神様から指示されなかったということです。ヨハネが引き続き洗礼を授けることは神様の御心であったと言ってもいいのではないでしょうか。

【2】. 花嫁を迎えるのは花婿だ

さて、弟子たちの提案に対して、ヨハネは何と答えたでしょうか。ヨハネ福音書に戻りまして3:27~29節前半をご覧ください。

“ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。”

ヨハネが語ったことは、第一に自分はメシアではないということです。メシアではなく、メシアの前に遣わされた先駆者であると述べました。そのことについては、ヨハネの弟子たちも何度も聞かされた内容でありました。興味深いのは、次の言葉です。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。」これは結婚式を念頭に置いて語られています。ユダヤ人の結婚式において最も強調されるのは喜びであります。それはカナの婚礼の説教でもお話しいたしました。聖書において婚礼の日が、しばしば天国の祝宴として描写されていますが、神と人間との契約の祝福は、婚礼の日の喜びに象徴されるのであります。それでは、ここで花婿とは誰でしょうか。花婿とはキリストです。花嫁とは誰でしょうか。花嫁とはイスラエルの民であり、新約時代の教会です。介添え人とは誰でしょうか。直訳しますと「花婿の友」となっていますが、これは洗礼者ヨハネ自身のことを指しています。自分は介添え人(שׁוֹשׁבִּין ショセビン)だと言っているのです。

当時ユダヤにおいて男性は20歳くらい、女性は12歳くらいになると婚約をしました。この婚約は、大変拘束力の強いものであり、結婚と等しい権利や義務が発生しました。仮に、この婚約期間に二人が分かれたいと思った場合、きちんとした離縁状を出して、正式に離婚しなければ分かれることは出来なかったほどです。婚約から結婚式までの期間は通常一年くらいですから、女性は早ければ13~14歳くらいで結婚をすることになります。一年の準備期間の間、男性は一生懸命に家を準備したり、妻の父親への贈り物を準備したりします。そしてようやく準備が整ったら、いよいよ結婚するために、花婿は介添え人を伴って花嫁を迎えに行くのであります。そしてその夜、二人が初夜を送るために花婿の部屋に入るのを、介添え人は見届けるのであります。洗礼者ヨハネは、自分は介添え人だと言いましたが、私たち一人ひとりもキリストの教会に対して介添え人であるという考え方は大変重要であり、私たちに適用することが出来るのではないかと思わされました。

どういうことかと申しますと、私はせんげん台教会に赴任して10年目に入りましたが、それ以上に長く同じ教会で牧会しておられる先輩の先生方はたくさんおられます。そうしますと、「○○教会は、あ~○○先生の教会ですね」という会話が中会や大会で自然に出てきます。「○○先生の教会ですね」という表現は、牧師の側でも悪い気持ちはしないと思います。やはり長年牧会してきますと、少なからず自分の教会に自分の影響力があることを喜んだり、自分が信徒からリスペクトされることを喜ぶものです。しかし、そのまま聞き流してしまいそうな「○○先生の教会ですね」という言葉には、実は誘惑が潜んでいて、この世の成功を求めさせようとする危険を孕んでいるのも事実です。なぜなら教会とは、担任牧師の教会でなければ、反対に信徒たちの教会でもないからです。教会とはキリストの教会です。教会の頭はイエス・キリストであるからです。

例えば、ある人が遠くに旅に出るという状況を仮定しましょう。その人は婚約者がいましたが、友人に婚約者を委ねて、次のように言ったとします。「お願いだ。私は御国を継ぐためにしばらく留守にする。君は私の友人だから、私の留守中に、誰かが私に代わって許嫁を愛することのないように見ていてほしい。」友人は、答えました。「分かった。留守中、婚約者が誰かに心を奪われないように責任を持って見守るから大丈夫。早く戻って来てね。」そう言って、その願いを受け入れました。ところが、もし、その友人が、花婿を欺いて、自分が彼女から愛されたいと考え、その女と懇ろの関係になってしまったらどうでしょうか。戻ってきた花婿は怒り爆発ですね。洗礼者ヨハネは、きっぱりと言いました。「花嫁を迎えるのは花婿だ。」花嫁は私の花嫁ではないということです。私たちもキリストと花嫁が結ばれることを喜ぶべきであり、洗礼者ヨハネのように、キリストの教会に対して介添え人のような態度をとるべきであります。

宗教改革者カルヴァンは、プロテスタント教会の自分の群れに対し「カルヴァン派」という名前が付けられることをひどく嫌がりました。ルター派には、ルーテル教会という名前が付けられていますが、「カルヴァン派などと間違っても言うな」と拒否したのです。それは宗教改革運動とは、あくまで神の栄光を現すものであり、人間である自分が教祖のように崇められたり、高められたりすることがないようにしたと言われています。そしてカルヴァンは、ただ御言葉に帰って、既存の教会を本来のあるべき姿に戻すこと、そのために必要であれば矯正し、必要であれば改革していくことが重要だと主張しました。「使徒の教えに戻ろう!教会の本来の姿を取り戻そう!そのために日々矯正し、日々改革していくのだ」と言うのです。「改革派教会」という名前は、実はこのような考えに由来しているのです。続いて29節後半をご覧ください。

【3】. キリストの声に耳を傾けよ

“花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。”

洗礼者ヨハネはさらに続けて言いました。「私は自分の声に喜ぶのではない、花婿の声に喜ぶのだと」。これは、自分が受け身的な立場にあることをはっきりと表明しています。私は聞く者の立場にあり、あの方は語る者の立場にある。私は照らされるべき存在であり、あの方は光であられる。私は耳として存在し、あの方は御言葉であられるのだということです。ここには、ヨハネの「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」という信仰が見事に表れているのだと思います。ヨハネは弟子たちに対して「あなた方もどうかキリストに耳を傾けてくれ、御言葉に耳を傾けてくれ」と言っているのではないでしょうか。

私たちは、とかく自分の声に耳を傾けてしまいます。自ら声に大にして、自己主張してしまう、そして肝心の御言葉には中々聞こうとしない、それが私たちの姿なのだと思います。しかし、自分自身をひけらかす者たちに対して、使徒パウロも次のように警告しています。1コリント13:1-2をご覧ください。

“たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。”

パウロは、たとえ人々を魅了する素晴らしい賜物を持っていても、愛がなければ無に等しいと言っています。教会は偽預言者たちによって、或いは奇跡を行う者たちによって、昔から今にいたるまで常に惑わしを受けていますが、もし愛を持っているなら、そのようなことはキリストの花嫁に対して決して行えないはずだと言っているのです。もし愛を持っているなら、全ての栄光を花婿に帰し、御言葉の前に聞く者とされるはずだ。もし愛を持っているなら、自分の賜物を兄弟姉妹に仕えるために用いるはずだ。もし愛を持っているなら、自分をひけらかすために賜物を用いることはないはずだと言っているのです。もし愛を持っているなら教会の一致を無視することなく、教会に分裂がもたらされることはないのであります。愛の共同体を形成していくために「花嫁を迎えるのは花婿だ。」「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と告白することが出来るのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。ある論争をきっかとし、キリストの証し人である洗礼者ヨハネの信仰を私たちは見ることが出来ました。ヨハネの信仰とは徹底して神様に栄光を帰す、そんな生き方であります。自らは花婿の介添え人として、キリストとキリストの教会が結び合わされることを切に願っていました。また、ヨハネは自分自身が御言葉ではないこと、光ではないこと、むしろ御言葉に耳を傾ける立場にあり、光に照らしていただく立場にあり、受け身的な立場にあることを弁えていました。それは決して自分の賜物をひけらかしたり、教会を惑わしたりすることのないことを意味しています。現代に生きる私たちもキリストの証し人として、日々営みを重ねています。私たちも愛の共同体を形成していくために、「花嫁を迎えるのは花婿だ。」「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と告白する者として歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

신부를 취하는 자는 신랑이나

2025년 8월 24일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 3장 22~30절

서론

오늘의 본문에서는 세례 요한이 다시 등장합니다. 세례 요한의 설교는 엄청난 반향을 일으켰고, 예루살렘과 유대 전역에서, 심지어 요르단 강 주변 지역에서도 세례를 받기 위해 수많은 사람들이 몰려들었습니다. 이 대규모 운동으로 인해 「혹시 그가 바로 오실 메시아가 아닐까?」라고 생각하는 사람들도 있었습니다. 세례 요한은 그가 스스로 증언하듯이, 메시아의 선구자이자 메시아를 가리킨 인물입니다. 다만, 이 그리스도를 증언하는 역할은 세례 요한만의 역할이 당연히 아닙니다. 성경을 읽어보면, 대략 모든 그리스도인이 말과 행동을 통해 예수 그리스도를 증언하는 것을 사명으로 받았음을 알 수 있다고 생각합니다. 그 의미에서, 오늘의 본문은 우리들이 당연히 가져야 할 모습을 세례 요한을 통해 볼 수 있다고 생각합니다. 오늘도 요한복음을 통해 함께 하나님의 말씀의 은혜를 나누고자 합니다.

(1) 정결예식에 대한 변론

22절에는 예수님께서 유대 지방에서 사람들에게 세례를 베푸셨다고 기록되어 있습니다. 이는 매우 귀중한 정보입니다. 공관복음서에는 예수님께서 세례를 베푸셨다는 내용이 기록되어 있지 않기 때문입니다. 물론 예수님께서 직접 세례를 베푸신 것이 아니라, 4장 1, 2절을 보면, 예수님의 제자들이 세례를 베풀고 있었다는 것이 분명히 밝혀져 있습니다. 따라서 오늘의 본문에서는 예수님의 세례와 세례 요한의 세례가 병행하여 묘사되어 있는 것입니다. 한편, 세례 요한은 살렘 가까운 에논에서 세례를 베풀고 있었습니다. 에논이라는 장소가 어디에 있었는지는 명확히 알려져 있지 않지만, 거기에는 물이 많은 곳이었다고 기록되어 있습니다. 에논이라는 이름은「샘」이라는 의미이기 때문에, 이름에서도 그 의미가 전해집니다. 그동안 요한의 회개의 메시지에 감동받아 세례를 받으려고 요한에게 많은 군중이 모여들었지만, 세례를 원하는 사람들이 예수님 쪽으로도 흘러가기 시작했습니다. 이러한 배경에서 변론이 되었습니다. 25~26절을 살펴보십시오.

25 이에 요한의 제자 중에서 한 유대인과 더불어 정결예식에 대하여 변론이 되었더니

26그들이 요한에게 가서 이르되 랍비여 선생님과 함께 요단 강 저편에 있던 이 곧 선생님이 증언하시던 이가 세례를 베풀매 사람이 다 그에게로 가더이다

「정결예식에 대한 변론」이 일어났다고 하지만, 이 「정결예식에 대한 변론」이 과연 무엇을 의미하는지 잘 모르겠습니다. 어쨌든 세례 요한의 제자들은 적대감을 품고 랍비인 요한에게 보고합니다. 「랍비여 선생님과 함께 요단 강 저편에 있던 이 곧 선생님이 증언하시던 이가 세례를 베풀고 있습니다」 예수님의 이름을 입에 올리지 않았네요. 이는 상대를 무시하고 있는 증거입니다. 「당신과 함께 있던 그 작자, 당신이 증언하시던 그 인간」이라는 느낌일 것입니다. 「모두가 그 사람 쪽으로 가고 있는데, 그것을 막아야 할까요?」라고 제안하고 있는 것입니다. 여기서 변론은 아마도 어느 세례가 정결의 효과를 갖는지라는 것이었을지도 모릅니다. 만약 그렇다면, 세례 요한의 세례와 예수님의 제자들이 행하는 세례 중 어느 세례에 정결의 효과가 있을까요? 결론부터 말씀드리자면, 정결의 효과는 어느 세례에도 없다는 것이 될 것입니다. 왜냐하면 사람은, 성령의 부어주심을 통해 처음으로 정결케되기 때문이며, 물의 세례는 단순히 정결의 표징일 뿐이며, 하나님의 은혜에 대한 눈에 보이는 표징에 불과하며, 실질적인 정결은 아니기 때문입니다. 이 변론이 어느 세례가 진정한 세례인지, 어느 세례가 원조 세례인지에 관한 것이라면, 두 세례 모두 진정한 세례이며 원조 세례라고 말할 수 있을 것입니다. 왜냐하면 먼저 예수님의 제자들이 행한 세례는 당연히 하나님이신 예수님으로부터 명령받은 것이기 때문에 하늘에서 주신 세례라고 할 수 있습니다. 그렇다면 요한의 세례는 어떨까요? 이에 대해 예수님께서 중요한 말씀을 하셨습니다. 누가복음 20:3~4을 보시기 바랍니다.

누가복음 20장

3 대답하여 이르시되 나도 한 말을 너희에게 물으리니 내게 말하라

4 요한의 세례가 하늘로부터냐 사람으로부터냐

이것은 바리새인과 예수님의 문답입니다만, 이 문답에서 알 수 있듯이 예수님은 요한의 세례가 하늘로부터 온 것임을 암묵적으로 인정하셨습니다. 즉, 요한의 세례가 하나님에 의해 명령된 세례임을 알 수 있습니다. 더 나아가, 예수님이 세례를 주시기 시작하셨을 때, 세례요한은 자신의 활동을 중단하지 않고 계속했다는 사실도 중요하다고 생각합니다. 요한은 하나님께 명령받아 유대인들에게 세례를 베푸는 사역을 시작했습니다. 그리고 예수님께 세례를 베풀고, 예수님을 그리스도이시며 하나님의 어린양이라고 증언한 후에도, 그 사역을 중단하라는 하나님의 지시는 없었습니다. 요한이 계속해서 세례를 베푸는 것이 하나님의 뜻이었다고 말할 수 있지 않을까요?

(2) 신부를 취하는 자는 신랑이나

자, 요한은 제자들의 이 제안에 대해서 어떻게 대답했을까요? 요한복음으로 돌아가서 3:27~29절 앞부분을 살펴보십시오.

27 요한이 대답하여 이르되 만일 하늘에서 주신 바 아니면 사람이 아무 것도 받을 수 없느니라

28 내가 말한 바 나는 그리스도가 아니요 그의 앞에 보내심을 받은 자라고 한 것을 증언할 자는 너희니라

29신부를 취하는 자는 신랑이나 ….

요한이 말한 것은, 첫째로 자신이 메시아가 아니라는 것입니다. 메시아가 아니라 메시아에 앞서 보내심을 받은 자임을 분명히 밝혔습니다. 그에 대해 요한의 제자들은 여러 번 들은 바 있습니다. 흥미로운 것은 그 다음 말입니다. 「신부를 취하는 자는 신랑이나 서서 신랑의 음성을 듣는 친구가 크게 기뻐하나니 나는 이러한 기쁨으로 충만하였노라」 이 말은 결혼식을 염두에 두고 말해진 것입니다. 유대인의 결혼식에서 가장 강조되는 것은 기쁨입니다. 이는 가나의 결혼식 설교에서도 말씀드렸습니다. 성경에서 결혼식의 날이 자주 천국의 잔치로서 묘사되어 있지만, 하나님과 인간과의 언약의 축복은, 결혼하는 날의 기쁨을 상징하는 것입니다. 그렇다면 여기서 신랑은 누구일까요? 신랑은 그리스도를 의미합니다. 신부는 누구일까요? 신부는 이스라엘 백성이며, 신약 시대의 교회입니다. 그렇다면 신랑의 친구는 누구일까요? 이는 세례 요한 자신에 대한 언급입니다. 그는 자신이 신랑의 친구(שׁוֹשׁבִּין쇼세빈)라고 말하고 있는 것입니다.

당시 유대에서는 남자는 20세 정도, 여자는 12세 정도가 되면 약혼을 했습니다. 이 약혼은 매우 구속력이 강한 것이었으며, 결혼과 동일한 권리와 의무가 발생했습니다. 만약 약혼 기간에 두 사람이 헤어지고 싶다면, 정식 이혼 서류를 제출하고 공식적으로 이혼하지 않으면 헤어질 수 없을 정도였습니다. 약혼부터 결혼식까지의 기간은 보통 1년 정도였기 때문에, 여성은 빠르면 13~14세 정도에 결혼을 하게 되었습니다. 1년의 준비 기간 동안 남성은 함께 살 집을 준비하거나 아내의 아버지에게 줄 지참금을 준비했습니다. 준비가 완료되면, 드디어 결혼을 위해 신랑은 친구를 동반해 신부를 맞이하러 갑니다. 그리고 그 밤, 신랑과 신부가 첫 밤을 보내기 위해 신랑의 방에 들어가는 것을 신랑의 친구는 끝까지 지켜보는 것입니다. 세례 요한은 자신이 「신랑의 친구」라고 말했지만, 우리 한사람 한사람도 그리스도의 교회에 대해 신랑의 친구라는 생각은 매우 중요하며 적용할 수 있는 관점이라고 생각합니다.

무슨 뜻인가 하면, 저는 센겐다이 교회에 부임한 지 10년 차에 접어들었지만, 그보다 더 오래, 같은 교회에서 목회하시는 목사님들이 많습니다. 그러면 “○○ 교회는, 아, ○○ 목사님의 교회네요”라는 대화가 노회나 총회에서 자연스럽게 나옵니다. 이 자연스럽게 나온 “○○ 목사님의 교회네요”라는 표현은, 듣는 목사님 쪽에서도 나쁜 기분은 들지 않을 것입니다. 역시 오랜 기간 목회를 하다 보면, 조금이라도 자신의 영향력이 있음을 기뻐하거나, 또는 성도들로부터 존중받는 것을 기뻐하는 것이 자연스러운 일입니다. 그러나 그대로 흘려 버릴 것 같은 “○○ 목사님의 교회네요”라는 말에는, 사실은 유혹이 숨어 있어, 이 세상의 성공을 추구하려는 유혹이라는 위험을 내포하고 있는 것도 사실이라고 생각합니다. 왜냐하면 교회란, 담당 목사의 교회도 아니고, 반대로 신자들 자신의 교회도 아니기 때문입니다. 교회는 그리스도의 교회입니다. 교회의 머리는 예수 그리스도이기 때문입니다.

예를 들어, 어떤 사람이 먼 곳으로 여행을 떠났다고 가정해 보겠습니다. 그 사람은 약혼자가 있었지만, 친구에게 약혼자를 맡기며“부탁이야. 나는 나라를 계승하기 위해 잠시 집을 떠나야 해. 너는 내 친구니까, 내가 없는 동안 누군가가 나를 대신해 약혼녀를 사랑하지 않도록 지켜봐 주길 바래” 라고 말했습니다. 친구는 대답했습니다. “알겠어. 부재 중 약혼녀가 다른 사람에게 마음을 빼앗기지 않도록 책임지고 지켜볼테니 빨리 돌아와.”라고 말하며 그 요청을 받아들였습니다. 그런데 만약 그 친구가 신랑을 속이고 자신이 그 약혼녀에게 사랑받고 싶어하여 그 여자와 친밀한 관계를 맺게 된다면 어떻게 될까요? 돌아온 신랑은 분노가 폭발할 것입니다. 세례 요한은「신부를 취하는 자는 신랑이다」 라고 단호히 말했습니다. 신부는 내 신부가 아니라는 뜻입니다. 우리도 그리스도와 신부가 맺어지는 것을 기뻐해야 하며, 세례 요한처럼 그리스도의 교회에 대해 신랑의 친구 같은 태도를 가져야 합니다.

종교 개혁자 칼빈은, 프로테스탄트 교회의 자신의 무리에 「칼빈파」라는 자신의 이름이 붙는 것을 굉장히 싫어했습니다. 루터파에게는, 루터의 교회라는 이름이 붙어 있지만, “'칼빈파라고는 실수로라도 절대로 말하지 마라”라고 거부했습니다. 이는 종교 개혁 운동이 결국 하나님의 영광을 드러내는 것이며, 인간인 자신이 교주처럼 숭배되거나 높아지거나 하는 일이 없도록 했다고 전해집니다. 그리고 칼빈은, 오직 말씀으로 돌아가 기존 교회를 본래의 모습으로 회복하는 것, 이를 위해 필요하다면 바로잡고 필요하다면 개혁해 나가는 것이 중요하다고 주장했습니다. 「사도의 가르침으로 돌아가자! 교회의 본래 모습으로 돌아가자! 그것을 위해 매일 교정하고 매일 개혁해 나가는 것」이라는 것입니다. 「개혁파 교회」라는 이름은, 사실 이러한 생각에서 유래한 것입니다. 계속해서 29절 후반부를 보시기 바랍니다.

(3) 그리스도의 음성에 귀를 기울이라

29 … 서서 신랑의 음성을 듣는 친구가 크게 기뻐하나니 나는 이러한 기쁨으로 충만하였노라

세례 요한은 계속해서「나는 내 목소리에 기뻐하는 것이 아니라 신랑의 목소리에 기뻐하는 것이다」라고 말했습니다. 이것은, 자신이 수동적인 입장에 있음을 분명히 밝히고 있습니다. 「나는 듣는 자의 위치에 있고, 그분은 말하는 자의 위치에 계신다. 나는 비춰져야 할 존재이며, 그분은 빛이시다. 나는 귀로서 존재하고, 그분은 말씀이시다」라는 것을 말하고 있는 것입니다. 여기에는「하늘에서 주신 바 아니면 사람이 아무 것도 받을 수 없느니라」라는 요한의 믿음이 분명히 드러나 있다고 생각합니다. 요한은 제자들에게 「너희도 아무쪼록 그리스도의 음성에 귀를 기울여라, 말씀에 귀를 기울여라」라고 말하고 있는 것이 아닐까요.

우리는 종종 자신의 목소리에 귀를 기울이곤 합니다. 스스로 목소리를 높여, 자기 주장을 펼치면서도, 정작 중요한 하나님의 말씀에는 좀처럼 귀 기울이려 하지 않는 것이 우리의 모습이라 생각합니다. 그러나 자신을 과시하는 자들에 대해 사도 바울도 다음과 같이 경고하고 있습니다. 고린도전서 13장 1~2절을 보십시오.

1내가 사람의 방언과 천사의 말을 할지라도 사랑이 없으면 소리 나는 구리와 울리는 꽹과리가 되고

2 내가 예언하는 능력이 있어 모든 비밀과 모든 지식을 알고 또 산을 옮길 만한 모든 믿음이 있을지라도 사랑이 없으면 내가 아무 것도 아니요

바울은 비록 사람들을 매혹하는 놀라운 은사를 가졌더라도 사랑이 없으면 헛된 것이라고 말합니다. 교회는 거짓 예언자들에 의해, 혹은 기적을 행하는 자들에 의해, 옛날부터 지금까지 항상 미혹을 받아 왔지만, 만약 사랑이 있다면, 그런 일은 그리스도의 신부에게 결코 행할 수 없다고 말하고 있습니다. 사랑이 있다면 모든 영광을 신랑께 돌리고, 말씀 앞에서 듣는 자가 되어야 합니다. 만약 사랑이 있다면 자신의 은사를 형제자매를 섬기는 데 사용할 것입니다. 만약 사랑이 있다면 자신을 과시하기 위해 은사를 사용하지는 않을 것이라고 말합니다. 만약 사랑이 있다면 교회의 일치를 무시하지 않으며, 교회에 분열이 초래되는 일은 없을 것입니다. 사랑의 공동체를 형성하기 위해 「신부를 취하는 자는 신랑이다」「그는 흥하여야 하겠고 나는 쇠하여야 하리라」라고 고백할 수 있습니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 어떤 변론을 계기로, 그리스도의 증인인, 세례 요한의 믿음을 우리는 볼 수 있었습니다. 요한의 믿음은 철저히 하나님께 영광을 돌리는 그런 삶입니다. 자신은 신랑의 친구로서, 그리스도와 그리스도의 교회가 연합되기를 간절히 바라고 있었습니다. 또한 요한은 자신이 말씀이 아니며, 빛이 아니라는 것을, 오히려 말씀에 귀 기울이는 입장이며, 빛에 비춰지는 입장이며, 수동적인 입장에 있음을 분별하고 있었습니다. 이는 결코 자신의 은사를 과시하거나 교회를 혼란스럽게 하지 않음을 의미합니다. 현대에 사는 우리도 그리스도의 증인으로서 매일의 삶을 살아가고 있습니다. 우리 또한 사랑의 공동체를 형성해 나가기 위해.「신부를 취하는 자는 신랑이다」「그는 흥하여야 하겠고 나는 쇠하여야 하리라」라고 고백하며 걸어가는 자는 됩시다.

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