2025年08月10日「信じる者が皆、命を得るため 믿는 자마다 멸망하지 않고 영생을 얻게 하기 위해」

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信じる者が皆、命を得るため 믿는 자마다 멸망하지 않고 영생을 얻게 하기 위해

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章9節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
3:12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
3:13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
3:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3:19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 3章9節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。イエス様のこの言葉を聞いたニコデモは、頭を抱えてしまいました。ファリサイ派であるニコデモは、異邦人がユダヤ教に改宗して、アブラハムの子孫にされる必要は認めていました。つまり、異邦人が割礼を受け、律法を守っていくことを決心しユダヤ教に回心した証拠として、水の洗礼を受けるなら、神の国に一歩前進するだろうとは考えていました。ところが、イエス様は、ユダヤ人の、もっと言えばファリサイ派の議員であるこの自分に対し、新たに生まれなければならないと言われたのです。老齢であったニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と反論しました。本日もヨハネの福音書を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 代表者ニコデモ

ニコデモの理解を妨げているものは、恐らく自分がファリサイ派の教師であり、自分のような聡明で尊大な者はいないと、最初から高を括っていたことにあると思います。そして、自分の理性を物差しとし、自分の考えの中で、そんなこと不可能だ!あり得ない!と思える事柄は、あたかもフェイクニュースや、都市伝説でも扱うかのように簡単にそれを却下してしまう、そんな思考体系になっていたに違いありません。御言葉の前に、私たちは「そんなこと知っているよ」という態度は禁物です。横柄な態度を捨てて、深い泉から新鮮な水をくむような、そのような姿勢で皆さまも真剣に御言葉に耳を傾けていただければと思います。

イエス様はニコデモに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と叱責しました。ニコデモはまさにイスラエルの教師であり、ユダヤ人を代表する人物であります。そして、ユダヤ人が神の言葉として信じている旧約聖書の中に、新しく生まれ変わることについてはっきり書かれているのです。エゼキエル36:24~28をご覧ください。

“わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。”

預言者エゼキエルは、エレミヤとほぼ同時代の預言者であり、紀元前6世紀後半、ちょうど南ユダがバビロンによって滅ぼされる時期に活躍した人物でした。この預言は、偶像礼拝に陥ってしまったユダヤの民に対し、バビロン捕囚という神様の一時的な裁きは避けられないものの、その裁きを通して与えられる希望について語っています。その希望というのは、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」ということです。水、即ち霊による新しい生まれ変わりが、あなた方に与えられるだろうと語られているのです。当然、イスラエルの教師であるニコデモもこの御言葉を知っていたに違いありません。けれどもニコデモはその旧約聖書の御言葉を、イエス様が語られていることに結びつけることが出来なかったのです。ヨハネ3:11~12節をご覧ください。

“はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。”

「はっきり言っておく」という言葉は前回も出てきました。「まことにまことに言っておく」という意味です。イエス様はニコデモに対し、「わたしたちは」と語りかけています。この「わたしたち」とは、イエス様御自身と、旧約聖書の預言者たちと考えられます。そしてニコデモに対しては「あなたがた」と語っています。これは、ニコデモに代表されるユダヤ人でしょう。イエス様と旧約聖書の預言者たちの証しを、いくら語っても選民イスラエルは受け入れないとイエス様は訴えているのです。「地上のことを話しても」というのは、イエス様が天上のことについて語る時、或いは再生の神秘について語る時に、「風」ですとか、「水」ですとか、「生まれ変わること」など、たとえを用いて教えてくださることだと思います。この地上の現象を通して天上のことを語ってくださっているわけです。イエス様は、頑ななニコデモに対して、愛と忍耐を持って何度も語りかけてくださっているのです。

【2】. 天に上るためには

この後、イエス様は重要な真理をニコデモに語ります。それは何かと言いますと、まず第一に神の国、天に入ることの出来る者は、この地上に誰もいないということです。なぜならアダムが罪を犯したことによって堕落し、人は生まれた時点で既に罪を持つ者として存在するようになったからです。しかし人の子は別であります。人の子とは、イエス・キリストのことですが、人の子は天に上げられるのです。14節の「上げられる」という言葉に注目してほしいのですが、この「上げられる」という言葉は文脈的に天に上げられること、つまり神の国に入れられることを指しています。同時に、ここが重要なポイントですが、「上げられる」という言葉は、イエス様の十字架の死をも指しているということです。14~15節をご覧ください。

“そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。”

モーセが荒れ野で蛇を上げたくだりにつきましては、民数記21章に書かれています。そこによりますと、イスラエルが荒れ野を旅していた時、耐えきれなくなり神とモーセに不平を言い出しました。すると主は炎の蛇を民に送り、蛇に噛まれた者たちは燃え上がるような痛みに苦しみました。死者も多く出ました。この時モーセが主に祈ると、主は「青銅の蛇を作って、それを竿の先に付けて掲げなさい」と言われました。そして「その青銅の蛇を仰ぎ見る者は癒される」と言われました。言われた通りにしてみると、痛みに苦しむ者たちは、この青銅の蛇を信じて仰ぎ見た時に癒されたのでありました。この上げられた青銅の蛇とは、実はイエス・キリストが十字架に上げられることと、重ね合わされているのです。そして、イエス様が十字架に上げられることによって信じる者が皆、救われること、天国に入れられること、永遠の命を得られることを約束してくださっているのです。

この救いとは、単純にアダムが罪を犯す前の状態に回復されるということではありません。なぜならアダムはまだ永遠の命には至っていなかったからです。アダムは、エデンの園で罪を犯すことも、犯さないこともできるニュートラルな状態でした。しかし十字架に上げられたイエス様を信じる者は、罪が全くない世界、即ち天国に入れられるのです。律法を完全に成就した義人として永遠の命が与えられるのです。これはなんという計り知れない恵みでしょうか。続いて16~17節をご覧ください。

“神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。”

この世に対する神様の愛は、イエス・キリストによって啓示されました。即ち神は独り子を与えるほどにこの世を愛されたのです。もともとこの世界は神によって創造されましたね。ですからたとえ全世界が、罪によって堕落したとしても、たとえ罪によって神の怒りと、呪いの対象になったとしても、依然としてこの世は神の愛の対象であります。御自身の御子をお与えになったのは、世を審判するためではなく、世を救うためでありました。しかし、これは、普遍的に神の召しがすべての人々に与えられているということではありません。もちろん私たちのこの礼拝には全ての人が招かれています。でも、そのことが神の召しが普遍的に与えられていることを意味しないということです。16節の解釈をめぐって、普遍的な神の召しとして解釈する人々が時々いますが、改革派教会では、聖書は一貫して神の選びを主張していると解釈します。予定論です。と言いますのは、確かに信仰によって永遠の命が与えられるのですが、その信仰というものは神からの賜物であるからです。18節をご覧ください。

“御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。”

「信じない者は既に裁かれている」とありますね。これはどういう意味でしょうか。世に来られた独り子は、私たちの罪のために十字架に掛けられました。十字架の出来事は一方において神の愛の啓示でありますが、もう一方では、つまずきの石となるのです。「神の子メシアが、十字架に掛かって死ぬはずがないだろう」「そのようなみじめな死に方をしたユダヤの青年革命家が、なぜ神の子だと信じられるのか、冷静になって考えてみろ」となってしまう訳です。ですから、「信じない者は既に裁かれている」とイエス様が言われた時、この裁きとは何かと言うと「見えなかった者が見えるようになり、見える者が見えなくなる」ということを言っているのです。見えなかった者が見えるようになり、見える者が見えなくなります。聖書を知っている、御言葉を知っているという態度は大変危険であるということです。十字架を信じる信仰は、神の選びによって、上から賜物として与えられます。この恵みは、貧しい者、悲しむ者、弱い者、徴税人や罪人が見えるようになるという仕方で明らかにされるのです。続いて19~21節をご覧ください。

“光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。”

「悪を行う者」とは、何か特別大きな犯罪を犯したということではありません。「私は何も警察にしょっぴかれるような罪を犯していないから大丈夫です」ということではないのです。すべての人々は罪人であり、本来、闇を愛する者であります。光の方に来ない者たちなのです。私たちの目に、たとえ立派に見える人でも、たとえ慈善活動に熱心で柔和で温厚で洗練された人に見えても、神様の目には罪人であり、悪を行う者として映っているのです。その反対に21節において「真理を行う者」とありますが、これは、立派な行いをし、完全無欠な人ということではありません。ここで「真理を行う」とは、誠実に歩むことを指しているのだと思います。イエス様の光に照らされるなら、誰でも自分の罪があぶり出されます。今まで罪とは思ってもみなかった事柄でさえ、罪として指摘されます。当然苦しくなってくるわけです。その中で深い悔い改めに導かれ、神様の恵みの大きさに気づかされるのです。光であられるイエス様が2,000年前に来られた時から、既に神の裁きは始まっています。悪を行う者は、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光を憎むようになり、さらには光に属する人々を迫害するようになるでしょう。御言葉をきちんと語っている教会が迫害されるのはそのためであります。しかし、そのことに驚かないでください。信仰とは私たちの業ではなく、神の賜物であり、神の業でありますが、闇の力がますます激しくなる中で、私たちの信仰が光輝くように神様がすべてをご計画され、導いてくださっているからです。ヨハネ福音書6章には、群衆とイエス様の問答が書かれていますが、その中で、イエス様は信仰とは神の業であると言われました。ヨハネ6:28~29ご覧ください。

“そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」”

イエス様のお言葉によれば、信仰とは「神の業」であります。イエス様が、光の到来をメシアの到来を御自身によって証しされたように、私たちの信仰を通して、光を証しするようにされるのです。私たちの信仰を通して神の業が明らかにされるのです。ですから、闇の勢力によって、教会がますます迫害されることがあっても、その中において皆さまのその営みが光輝き、その光が主イエスを証しすることになるのです。

従いまして、私たちの荒れ野の人生において、たとえ炎の蛇が目の前に現れたとしても、その蛇に噛まれたとしても十字架に上げられたイエス様を信仰によって仰ぎ見る時に救われるのであります。たとえ私たちの人生の中で、様々な試練が襲ってきても、バビロン捕囚のような大変な状況に陥ったとしても、信仰によって安息の地に導かれ、信仰によって清めが与えられ、信仰によって柔らかい心が与えられ、信仰によって新しく生まれ変わるようにされるのです。信仰とは上からの賜物でありますが、同時にそれは、主イエスを証しするために、私たちキリスト者の人生を紡いでいく「神様の業」なのであります。その歩みは、自己の否定の道であるかもしれません。狭い門から入る茨の道かもしれません。しかし、天国に入れられ、永遠の命をもたらす、幸いな道なのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。この世は堕落し、罪で汚れているために光よりも闇を好みました。しかし、神様はイエス様を信じる信仰を私たちに与えてくださり、滅びではなく救いの道を、呪いではなく永遠の命を与えてくださいました。光に来る者には自己否定が伴います。光に従おうとする時、家族から、友人から、職場の同僚から迫害を受けることもあるでしょう。それは狭い門からの茨の道であるかもしれません。しかしイエス様は、光を信じ受け入れるように私たちを招いておられます。それは私たちの人生を通して神の業が現れるためです。私たちがこの世界に主を証しし、光輝くためなのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

믿는 자마다 멸망하지 않고 영생을 얻게 하기 위해

2025년 8월 10일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 3장 9~21절

서론

사람은 거듭나지 않으면 하나님의 나라를 볼 수 없습니다. 예수님의 이 말씀을 들은 니고데모는 머리를 감싸고 고민에 빠졌습니다. 바리새파인 니고데모는 이방인이 유대교로 개종하여 아브라함의 후손이 될 필요는 인정하고 있었습니다. 즉, 이방인이 할례를 받고 율법을 지키기로 결심해 유대교로 개종한 증거로 물 세례를 받으면, 하나님의 나라에 한 걸음 더 다가갈 수 있을 것이라고 생각했습니다. 그런데 예수님은 유대인, 더 정확히 말하면 바리새파의 의원인 자신에게 새롭게 태어나야 한다고 말씀하셨습니다. 노령이었던 니고데모는 「어찌 그러한 일이 있을 수 있나이까」라고 반론했습니다. 오늘도 요한복음을 통해 함께 하나님의 말씀의 은혜를 나누고자 합니다.

(1) 대표자 니고데모

니고데모의 이해를 방해하고 있는 것은, 아마도 자신이 바리새파의 선생이며, 자신처럼 현명하고 위해한 인물은 없다고 처음부터 자신에 대해 자신감이 있었기 때문일 것입니다. 그리고 자신의 이성을 잣대로 삼아, 자신의 생각 속에서 ‘그런 일은 불가능하다! 있을 수 없다!’라고 생각하는 일들은, 마치 가짜 뉴스나 도시 전설을 다루듯 쉽게 거부해 버리는 그런 사고 체계가 되어 있었을 것입니다. 하나님의 말씀 앞에서 우리는 ‘그런 건 이미 알고 있어’라는 태도는 금물입니다. 교만한 태도를 버리고 깊은 샘에서 신선한 물을 긷는 것처럼, 그런 자세로 여러분도 진지하게 하나님의 말씀에 귀를 기울여 주시기를 바랍니다.

예수님은 니고데모에게「너는 이스라엘의 선생으로서 이러한 것들을 알지 못하느냐」라고 꾸짖으셨습니다. 니고데모는 바로 이스라엘의 선생이며, 유대인을 대표하는 인물입니다. 그리고, 유대인들이 하나님의 말씀으로 믿는 구약성경에는, 거듭나는 것에 대해 분명히 기록되어 있습니다. 에스겔 36:24~28을 보시기 바랍니다.

에스겔 36장

24 내가 너희를 여러 나라 가운데에서 인도하여 내고 여러 민족 가운데에서 모아 데리고 고국 땅에 들어가서

25 맑은 물을 너희에게 뿌려서 너희로 정결하게 하되 곧 너희 모든 더러운 것에서와 우상 숭배에서 너희를 정결하게 할 것이며

26 또 새 영을 너희 속에 두고 새 마음을 너희에게 주되 너희 육신에서 굳은 마음을 제거하고 부드러운 마음을 줄 것이며

27 또 내 영을 너희 속에 두어 너희로 내 율례를 행하게 하리니 너희가 내 규례를 지켜 행할지라

28 내가 너희 조상들에게 준 땅에서 너희가 거주하면서 내 백성이 되고 나는 너희 하나님이 되리라

선지자 에스겔은, 예레미야와 거의 동시대 인물로, 기원전 6세기 후반, 남유다가 바빌론에 의해 멸망당하는 시기에 활동한 인물이었습니다. 이 예언은 우상 숭배에 빠져버린 유다 백성에게 바빌론 포로 생활이라는 하나님의 일시적인 심판은 피할 수 없지만, 그 심판을 통해 주어지는 희망에 대해 말하고 있습니다. 그 희망이란 「맑은 물을 너희에게 뿌려서 너희로 정결하게 하되 곧 너희 모든 더러운 것에서와 우상 숭배에서 너희를 정결하게 할 것이며 또 새 영을 너희 속에 두고 새 마음을 너희에게 주되」라는 것입니다. 물, 즉 성령에 의한 거듭남이 이스라엘에게 주어질 것이라고 말씀하고 계시는 것입니다. 당연히 이스라엘의 선생인 니고데모도 이 말씀을 알고 있었을 것입니다. 그러나 니고데모는 구약 성경의 말씀을 예수님께서 말씀하시는 것과 연결시킬 수 없었습니다. 요한복음 3:11~12절을 보시기 바랍니다.

11진실로 진실로 네게 이르노니 우리는 아는 것을 말하고 본 것을 증언하노라 그러나 너희가 우리의 증언을 받지 아니하는도다

12 내가 땅의 일을 말하여도 너희가 믿지 아니하거든 하물며 하늘의 일을 말하면 어떻게 믿겠느냐

「진실로 진실로 네게 이르노니」라는 말은 지난 번에도 나왔습니다. 예수님은 니고데모에게 「우리는」이라고 말씀하고 계십니다. 이 「우리는」은 예수님 자신과 구약성경의 선지자들을 가리키는 것으로 생각됩니다. 그리고 니고데모에게는 「너희」라고 말씀하고 계십니다. 이는 니고데모를 대표하는 유대인들을 의미할 것입니다. 예수님과 구약성경의 선지자들의 증언을, 아무리 말해도 선택된 백성 이스라엘은 받아들이지 않을 것이라고 예수님은 호소하고 계신 것입니다.「땅의 일을 말하여도」라는 말은, 예수님께서 하늘의 일에 대해 말씀하실 때, 혹은 중생의 신비에 대해 말씀하실 때, 「바람」이나 「물」이나 「거듭나는 것」등과 같은 비유를 사용해 가르쳐 주시는 것이라 생각합니다. 이 땅의 일을 통해 하늘의 일을 말씀해 주시는 것입니다. 예수님께서는 완고한 니고데모에게 사랑과 인내로 여러 번 말씀해 주시고 계신 것입니다.

(2) 하늘에 들려야 하리니

이 후, 예수님은 니고데모에게 중요한 진리를 말씀하십니다. 그 진리란 무엇인가 하면, 첫째로 하나님의 나라, 즉 하늘에 들어갈 수 있는 사람은 이 땅에 아무도 없다는 것입니다. 왜냐하면 아담이 죄를 지음으로써 타락했고, 사람은 태어나는 순간부터 이미 죄를 지닌 자로 존재하게 되었기 때문입니다. 그러나 인자는 다릅니다. 인자란, 예수 그리스도를 가리키지만, 인자는 하늘로 들려지십니다. 14절의 「들려야 하리니」라는 말에 주목해 주시기 바랍니다. 이 「들려야 하리니」라는 말은 문맥상 하늘로 올려지는 것, 즉 하나님의 나라에 들어가는 것을 의미합니다. 동시에, 여기에서 중요한 점은 「들려야 하리니」라는 말이 예수님의 십자가의 죽음도 의미한다는 것입니다. 14~15절을 살펴보시기 바랍니다.

14 모세가 광야에서 뱀을 든 것 같이 인자도 들려야 하리니

15 이는 그를 믿는 자마다 영생을 얻게 하려 하심이니라

모세가 광야에서 놋뱀을 들어올린 사건에 대해서는, 민수기 21장에 기록되어 있습니다. 그 기록에 따르면, 이스라엘 백성이 광야를 여행하던 중 참을 수 없게 되어 하나님과 모세에게 불평을 시작했습니다. 그러자 주님은 불뱀들을 백성에게 보내셨고, 뱀에 물린 자들은 타는 듯한 통증에 시달렸습니다. 사망자도 많이 발생했습니다. 이때 모세가 주님께 기도하자 주님은 「불뱀을 만들어 장대 위에 매달아라」라고 말씀하셨습니다. 그리고 「물린 자마다 그것을 보면 살리라」라고 말씀하셨습니다. 모세가 놋뱀을 만들어 말씀대로 해보니, 물린 자가 이 「놋뱀」을 쳐다보고 모두 살았습니다. 이 들어 올려진 놋뱀은, 사실 예수 그리스도가 십자가에 들어 올려지신 것과 겹쳐져 있습니다. 그리고 예수님께서 십자가에 못박혀 올려지심으로 믿는 자들이 모두 구원받으며, 천국에 들어가며, 영원한 생명을 얻는 것을 약속해주셨습니다.

이 구원은, 단순히 아담이 죄를 짓기 전의 상태로 회복되는 것이 아닙니다. 왜냐하면 아담은 아직 영원한 생명에 이르지 않았기 때문입니다. 아담은, 에던 동산에서 죄를 지을 수도 있고 죄를 짓지 않을 수도 있는 중립적인 상태였습니다. 그러나 십자가에 달리신 예수님을 믿는 자들은, 죄가 전혀 없는 세계, 즉 천국에 들어갈 수 있습니다. 율법을 완전히 성취한 의인으로 영원한 생명을 부여받는 것입니다. 이는 얼마나 측량할 수 없는 은혜인가요. 이어서 16~17절을 읽어보겠습니다.

16 하나님이 세상을 이처럼 사랑하사 독생자를 주셨으니 이는 그를 믿는 자마다 멸망하지 않고 영생을 얻게 하려 하심이라

17 하나님이 그 아들을 세상에 보내신 세상을 심판하려 하심이 아니요 그로 말미암아 세상이 구원을 받게 하려 하심이라

이 세상에 대한 하나님의 사랑은 예수 그리스도를 통해 계시되었습니다. 즉, 하나님은 독생자를 주실 만큼 이 세상을 사랑하셨습니다. 원래 이 세상은 하나님에 의해 창조되었습니다. 따라서 전 세계가 죄로 인해 타락했더라도, 죄로 인해 하나님의 분노와 저주의 대상이 되었더라도, 여전히 이 세상은 하나님의 사랑의 대상입니다. 하나님께서 자신의 독생자를 주신 것은 세상을 심판하시기 위해서가 아니라, 세상을 구원하시기 위해서였습니다. 그러나 이는 하나님의 부르심이 모든 사람에게 보편적으로 주어졌다는 의미는 아닙니다. 물론 우리 예배에는 모든 사람이 초대되어 있습니다. 하지만 그 사실이 하나님의 부르심이 보편적으로 주어졌다는 것을 의미하지는 않습니다. 16절의 해석을 둘러싸고, 하나님의 부르심을 보편적이로 해석하는 사람들이 가끔 있지만, 개혁파 교회에서는 성경이 일관되게 하나님의 선택을 주장한다고 해석합니다. 예정론입니다. 왜냐하면, 확실히 믿음으로 영원한 생명이 주어지지만, 그 믿음은 하나님으로부터의 선물이기 때문입니다. 18절을 보시기 바랍니다.

그를 믿는 자는 심판을 받지 아니하는 것이요 믿지 아니하는 자는 하나님의 독생자의 이름을 믿지 아니하므로 벌써 심판을 받은 것이니라

「믿지 아니하는 자는 하나님의 독생자의 이름을 믿지 아니하므로 벌써 심판을 받은 것이니라」라고 쓰여져 있네요. 이 말은 무슨 의미일까요? 세상에 오신 독생자는 우리의 죄로 인해 십자가에 못 박히셨습니다. 십자가의 사건은 한 편으로는 하나님의 사랑의 계시이지만, 다른 한 편으로는 걸림돌이 되는 것입니다. “하나님의 아들 메시아가 십자가에 달려 죽을 리가 없지 않겠는가?” “그런 비참한 죽음을 맞이한 유대인의 젊은 혁명가가 어찌하여 하나님의 아들이라고 믿을 수 있겠는가? 차분히 생각해 보라”는 말이 되는 것입니다. 따라서 「믿지 아니하는 자는 하나님의 독생자의 이름을 믿지 아니하므로 벌써 심판을 받은 것이니라」고 예수님께서 말씀하셨을 때, 이 심판이란 무엇인가 하면 「보지 못하던 자가 보게 되고 보는 자가 보지 못하게 되는 것」을 말씀하시는 것입니다. 성경을 알고 있다, 말씀을 알고 있다는 태도는 매우 위험하다는 것입니다. 십자가를 믿는 믿음은 하나님의 선택에 의해, 위로부터 선물로 주어집니다. 이 은혜는 가난한 자, 슬퍼하는 자, 약한 자, 세리나 죄인들이 볼 수 있게 되는 방식으로 드러납니다. 이어 19~21절을 보시기 바랍니다.

19 그 정죄는 이것이니 곧 빛이 세상에 왔으되 사람들이 자기 행위가 악하므로 빛보다 어둠을 더 사랑한 것이니라

20 악을 행하는 자마다 빛을 미워하여 빛으로 오지 아니하나니 이는 그 행위가 드러날까 함이요

「악을 행하는 자」란, 특별히 큰 범죄를 저지른 것을 의미하는 것이 아닙니다. “나는 경찰에 체포될 만한 죄를 저지르지 않았으니 괜찮다”라는 말이 아닙니다. 모든 사람은 죄인이며, 본래 어둠을 사랑하는 자들입니다. 빛 쪽으로 오지 않는 자들입니다. 우리의 눈에는 아무리 훌륭해 보이는 사람이라도, 자선 활동에 열심이고 온화하고 친절하며 세련된 사람처럼 보여도, 하나님의 눈에는 죄인이며 악을 행하는 자로 보입니다. 반면 21절에서 「진리를 따르는 자」 라고 언급된 것은, 훌륭한 행위를 하고 완벽한 사람이라는 의미가 아닙니다. 여기서 「진리를 따르는」이라는 것은 믿음 가운데 신실하게 살아간다는 것을 의미한다고 생각합니다. 예수님의 빛에 비추이면, 누구나 자신의 죄가 드러나게 됩니다. 지금까지 죄라고 생각하지 않았던 일들조차 죄로 지적됩니다. 당연히 고통스러워지게 되는 것입니다. 그 속에서 깊은 회개로 이끌려 하나님의 은혜의 크기를 깨닫게 되는 것입니다. 빛이신 예수님이 2000년 전에 오셨을 때부터 이미 하나님의 심판은 시작되었습니다. 악을 행하는 자들은 그 행위가 빛 가운데 드러나는 것을 두려워하여 빛을 미워하게 되고, 나아가 빛에 속한 사람들을 박해하게 될 것입니다. 말씀을 바르게 전하는 교회가 박해받는 것은 바로 그 때문입니다. 그러나 그 일에 놀라지 마십시오. 믿음은 우리의 행위가 아니라 하나님의 선물이며 하나님의 일입니다. 그러나 어둠의 힘이 점점 더 강해지는 가운데, 우리의 믿음이 빛나도록 하나님께서 모든 것을 계획하시고 인도해 주시기 때문입니다. 요한복음 6장에는 군중과 예수님의 대화가 기록되어 있지만, 그 속에서 예수님은, 믿음이 하나님의 일이라고 말씀하셨습니다. 요한복음 6:28~29을 보시기 바랍니다.

요한복음 6장

28 그들이 묻되 우리가 어떻게 하여야 하나님의 일을 하오리이까

29 예수께서 대답하여 이르시되 하나님께서 보내신 이를 믿는 것이 하나님의 일이니라 하시니

예수님의 말씀에 따르면, 믿음은 「하나님의 일」입니다. 예수께서 빛의 도래, 즉 메시아의 도래를 친히 증언하셨듯이, 우리의 믿음을 통해, 빛을 증언하게 되는 것입니다. 우리의 믿음을 통해 하나님의 일이 드러나는 것입니다. 따라서 어둠의 세력에 의해 교회가 점점 더 박해를 받더라도, 그 속에서 여러분의 그 행실이 빛나며, 그 빛이 주 얘수님을 증언하게 되는 것입니다.

따라서 우리의 광야 같은 인생에서, 설사 불뱀이 눈 앞에 나타나더라도, 그 불뱀에게 물려도 십자가에 달리신 예수님을 믿음으로 바라볼 때 구원을 받게 됩니다. 비록 우리 인생에서 다양한 시련이 닥쳐오더라도, 바빌론 포로와 같은 어려운 상황에 처하더라도, 믿음으로 안식의 땅으로 인도되며, 믿음으로 거룩함이 주어지고, 믿음으로 부드러운 마음이 주어지며, 믿음으로 거듭나게 되는 것입니다. 믿음은 위로부터 오는 선물이지만, 동시에 그것은 주 예수님을 증언하기 위해, 우리 그리스도인의 삶을 엮어가는 「하나님의 일」입니다. 그 길은 자기 부인의 길일 수도 있습니다. 좁은 문으로 들어가는 가시밭길일 수도 있습니다. 그러나 천국에 들어가게 하고 영원한 생명을 가져다주는 복된 길입니다.

결론

오늘의 내용을 요약합니다. 이 세상은 타락하고 죄로 더러워져서 빛보다 어두움을 더 사랑했습니다. 그러나 하나님은 예수님을 믿는 믿음을 우리에게 주시어 멸망이 아닌 구원의 길, 저주가 아닌 영원한 생명을 주셨습니다. 빛으로 오는 자에게는 자기 부정이 따릅니다. 빛을 따르려고 할 때, 가족으로부터, 친구로부터, 직장 동료로부터 박해를 받을 수도 있을 것입니다. 그것은 좁은 문으로 가는 가시밭길일지도 모릅니다. 그러나 예수님은, 빛을 믿고 받아들이도록 우리를 초대하고 계십니다. 그것은 우리 인생을 통해 하나님의 일이 드러나기 위함입니다. 우리가 이 세상에 주님을 증언하고 빛나기 위함입니다.

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