2025年07月20日「イエスの言われる神殿」

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イエスの言われる神殿

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
創世記 12章34節~56節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
創世記 12章34節~56節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ガリラヤのカフェルナウムでしばらく過ごされたイエス様は、ユダヤの最大の祭りである過越し祭が近づいたためエルサレムに上っていくことにしました。律法ではユダヤ人の成人男子はすべて、この過越し祭を守るようにと定められていますから、エルサレムは多くの人々でごった返していたと思われます。

【1】. 宮清め

13節冒頭の言葉に注目してください。「ユダヤ人の過越し祭が近づいたので」とあります。勿論、著者であるヨハネもユダヤ人でありますが、ヨハネが「ユダヤ人」という言葉を使用する時、常にそれは教会を迫害するユダヤ当局者たちが念頭に置かれていて、イエス様に敵対する勢力を表しています。ですから、「ユダヤ人の過越し祭」という言葉には、その過越し祭は、もはや教会では祝われない過去のものとなった、もはや教会とは関係ない古いしきたりとなったということが暗に伝わってくるのであります。その理由は、後ほどまた説明いたしますが、新しい過越し祭が、新しい秩序がイエス様によって導入されたからであります。

イエス様は神殿の境内に入られました。当時のエルサレム神殿は、改修工事がなされている最中であり、ソロモンの第一神殿に比べると大変複雑な構造になっていました。神殿の境内には、第一に祭司しか入ることが許されない「祭司の庭」があります。その外側にユダヤ人の男性が入ることが許されている「男子の庭」があり、その外側にユダヤ人の女性が入ることが許されている「女子の庭」がありました。さらにその外側に異邦人が入ることが許されている「異邦人の庭」という場所があり、恐らくここで、生贄として捧げるための家畜が売られていたと思われます。神殿で家畜を販売するのは、合法とされていました。多くの人々が遠くからやって来るのに、各自が供え物の動物を、傷をつけないようにエルサレムまで運んでくることは困難ですから、傷のない検査済みの動物を、決められた場所で手に入れることができた訳です。本来は、牛とか羊を献げるべきですが、経済的に余裕がなければ、代わりに鳩を献げることも認められていました。また、ローマの貨幣にはローマ皇帝の像が刻まれているため、それをそのまま神殿税として納めるわけにはいきません。ローマの貨幣をユダヤの銀のシェケルに両替する両替人も、異邦人の庭に備え付けられていました。これらの家畜を販売する商人たち、両替人たちは、いずれも祭司の身内だったり、祭司の親族たちだったと考えられますが、彼らの存在は、巡礼者が礼拝をきちんと献げられるようにするために、必要不可欠であったと言えるでしょう。そんな彼らを、イエス様はご覧になって、怒りを爆発させたのであります。15~16節をご覧ください。

“イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」”

この出来事は、一般的に「宮清め」と呼ばれています。私たちが持っているイエス様のイメージとは、かけ離れた姿がここに描かれています。初めてこの個所を読まれる方には、イエス様が力に訴えて、本当にこのようなことをなされたのだろうか?何かの間違いではないのか?と思われるかもしれません。イエス様は、後にも先にも見せたことのないような激しい怒りを、この時、露わにされたのです。イエス様にもこんな一面があったというのは大変驚きですが、これほどまで感情的になられた理由とは一体何だったのでしょうか。

その理由は、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」というイエス様の一言に尽きるのではと思われます。イエス様は神殿を「父の家」として表現しています。神を父と表現していることに注目して下さい。聖書は、御子に対する御父との関係と、イスラエルに対する御父との関係を、本質的に区別しています。つまり、ここが大変重要なポイントになりますが、聖書の中で「父」という呼び名は、イスラエルと信者たちの神様を示すのではなく、専ら御子に対する御父との関係を示す言葉であるということです。マタイ11:25~27をご覧ください。

“そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。”

ここでは、御子が父を啓示した者だけが(御子が父を明らかにした者だけが)、初めて父を知ることができると書かれています。父の懐にいたロゴスであられる御子が、私たちに御父を表してくれるのであり、御子の他には誰も御父を知る者がないからです。「父なる神」とは、本来的意味において、イエス様の父であって、御父は独り子なる御子を永遠において愛しておられるのです。ですから、ぶっちゃけて言うと、万一御子がいなければ、イスラエルは御父と何の関係もないということです。ぶっちゃけて言うと、御子がいなければ、教会は御父と何の関係もないということになるのです。

それでは、その父の家である神殿とは何でしょうか。神殿とは父なる神が住んでおられる所という意味ではありませんが、神殿は神様が臨在してくださり、民と交わってくださる場所です。神殿の役割は、民が神様と出会う場所、民が神様を知る場所であり、神殿において、神と人が一つにされるのです。ところが、大祭司を中心とするユダヤ当局者たちは、神殿で捧げられる礼拝を体裁だけ整えて、世俗化させ、表面化させてしまいました。ただ犠牲をささげて神殿税を払えば、罪が赦される。ただ年に三度エルサレムに巡礼すれば、祝福される。そのような神様との真の交わりのない、表面的な礼拝には、神の臨在はなく、神の怒りだけが注がれるのです。この度の宮清めにおけるイエス様の激しい怒りとは、実は御父の怒りでもあったということではないでしょうか。この現場を目撃した弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という旧約聖書の御言葉を思い出しました。これは詩編69:9-10(新改訳69:8-9)からの引用です。ご覧ください。

“兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。”

ここで詩編の著者は、親族たちから、兄弟姉妹たちから、仲間外れにされている状況です。御父の神殿に対する自分自身の熱情があまりにも大きいために、人々からのけ者にされ、嘲られ、いじめられていると告白してるのです。弟子たちの目には、この詩編の著者とイエス様が重なって見えてきました。弟子たちの間に、このようなラビに従っていてこの先果たして大丈夫だろうかと不安がよぎったことでしょう。

【2】. 三日で起こす

さて、宮清めをされるイエス様に対し、ユダヤ人たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と反論しました。ユダヤ人たちからは、もしかしたら俺たちに何か非があったのではないかと謙遜に考える姿勢はみじんも見られませんでした。自分たちの行いを倫理的に反省するというのではなく、むしろ、自分たちのしていることはユダヤ当局の権威に照らして絶対的に正しいと主張しているのです。その権威の頂点には大祭司が君臨しているのは言うまでもありません。そして「大祭司様の権威を否定するからには、それに優る権威を、しるしや奇跡によって示してみろ!」と、イエス様に対して言っているのです。すると、イエス様は次のように答えられました。19~21節をご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。”

46年というのは、ヘロデ大王が神殿改修工事を始めてからその時に至るまでにかかった時間です。そしてそのヘロデ大王も、既にずいぶん前に亡くなっているにも拘わらず(BC.4年)、いまだ改修工事は未完成であるということをイエス様は百も承知でした。そのことを知った上でイエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われたのです。ユダヤ人たちは、これを文字通り受け取り、あきれかえったのでしょう。こいつは頭でもおかしくなったのかと言わんばかりです。

イエス様は確かに、大変不可解なことを言われました。しかし、21節で著者ヨハネが解説しているように、イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことを指していたのです。また、「三日で建て直してみせる」と翻訳されている言葉は、ギリシア語を直訳しますと、「三日で起こす」となっています。つまり「復活させる」「起こす」という言葉が使われています。従いまして、19節でイエス様が語られた言葉は、御自身が十字架にかけられ殺されて、三日目に復活するということが暗示されているのです。このイエス様の不可解な言葉は、最初、弟子たちをはじめ誰一人理解することはできませんでした。しかし、実際、イエス様が死者の中から三日目に復活されたとき、弟子たちは復活の光の中で宮清めの出来事を思い出し、イエス様の語られた真意を悟ったのであります。その悟った中身とは何だったのでしょうか。イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことでありました。「体」とは、ギリシア語で「ソーマ」という言葉が使われていまして、私たちが持つ「体」と全く同じものです。それはイエス様が受肉された体であり、そして復活された体であります。そのイエス様の「体」そのものが神殿であると主張しているのです。

一体、神殿とイエス様の体との間にどんな関係があるのでしょうか。先ほど、神殿とは、神と人が出会う場所であり、人が神を知る場所であると申し上げました。神殿とは、神と民の交わりがなされる場所であり、この神殿において、神と民が一つにされるのです。神の御子は、父と本質を一つにしておられます。神そのものであられます。そのお方が私たちと同じ体を持たれたために、全き神でありながら、全き人としての性質を持たれるようになりました。これを神学的に二性一人格と言います。これが御子の受肉の神秘的な出来事であります。このイエス様の中で、私たちは神と出会い、御父を知り、神との交わりが与えられ、御父と一つにされるのです。その意味において、イエス様の体とは、真の神殿なのであります。ヤコブが夢で見た天と地をつなぐ階段も、イエス様御自身であり、イエス様は、神の側と罪びとの側を接続させる蝶番のような役割を担っているのであります。

このように見ていきますと、本日の個所は、先週見ました水をぶどう酒に変えたガリラヤのカナの婚礼のしるしと重なってくることが分かります。水をぶどう酒に変えたしるしとは、イエス様の十字架と復活によって新しい秩序がもたらされたということを意味していました。これまでの律法と先祖の言い伝えに規定されたイスラエルの営みが、イエス様の到来によって、キリストにある神の国へ招かれているとお話ししましたが、本日の個所もそれと全く同じです。過越し祭が指し示しているイエス様の犠牲祭事によって、贖いの御業がなされ、三日目に復活なさったために、エルサレム神殿ではなく、「イエス様の体」という真の神殿がもたらされたのです。古い営みから、即ち過越し祭を守り、神殿において神との交わりが保たれていたそのような営みから、イエス・キリストによって新しくされ、イエス様の体において罪の赦しが与えられ、イエス様の体において神との交わりが回復され、真の礼拝が回復され、イエス様の体において神の家族とされる道が開かれたのであります。要するに新約時代において、私たちが捧げている礼拝とは、イエス・キリストの死と復活にその根拠を持っているということです。これは非常に重要な真理だと思います。この真理に堅く立つことにより、教会は律法からの解放がなされていきました。ユダヤ教からの解放がなされていきました。過越し祭をもうこれ以上、守ることはなくなったのであります。過越し祭だけではありません。イエス様の死と復活に礼拝の根拠が置かれているという原点に立ち返って、律法に規定されているその他の祭儀規定や、安息日規定、食物規定などから、キリスト教会は少しずつでありますが解放されていったのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。私たちは主の日ごとに礼拝を捧げております。しかし、そこで、私たちは罪の償いとしての生贄を何も捧げてはいません。献金は依然として捧げているではないかと思われるかもしれませんが、献金とは罪赦された者としての感謝の献げ物であって、罪の赦しを得るための献げ物ではありません。もはやキリスト教会において、罪の赦しを得るための生贄を献げる必要はなくなったのであります。それは、イエス・キリストの体が私たちの罪を贖う生贄として、十字架上で捧げられ三日目に復活されたからであります。真の礼拝を回復するために、イエス様が来てくださったこと、そしてイエス様にあって私たちは神様のことを、父なる神と呼びかけて祈りを捧げられるようになったこと、このことに心から感謝を捧げましょう。そして、私たちはイエス様のことをもっと知ろうとする努力を惜しまない者とならせていただき、私たちもイエス様に負けない熱心さを持って、イエス様が復活された記念日である主日礼拝を捧げていく者たちとならせていただきましょう。

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