2018年12月30日「神のものは神に返しなさい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

神のものは神に返しなさい

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章15節~22節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 22章15節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

過ぎ越しの祭の最中、イエス様の最後の一週間である受難週を送っています。ファリサイ人の目的はイエス様を逮捕して殺すことですが、群衆を恐れて中々実行できないでいました。21章23節から権威に関する質問が始まり、本日の箇所はローマに収める人頭税に関する質問です。イエス様が答えられた有名な御言葉である、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」この御言葉が実際の私たちの信仰生活と現実の問題にあってどのような知恵を与えてくださるのか本日は見ていきたいと思いますが、この箇所でよく指摘されることは、イエス様の教えが決して、聖い世界と、或いは霊的世界と、世俗の現実世界を区別してダブルスタンダードによって生きていきなさいということではないということです。つまり、教会の問題など、信仰に関することと、実際に私たちがこの世において直面する問題において、「教会に属する私」と「世に生活している私」という二つの立場から、ダブルスタンダードで生きていきなさいという教えではないということです。なぜなら、被造世界はすべて、神さまによって創造されたのですから、私たちの神は私たちの考える聖なるものの神である、私たちが考える世俗的な、現実世界においてもやはり神であるはずだからです。この人頭税の問題は現在に生きる私たちにとっても大変重要な問題ですが、当時のユダヤ人にとっても大変デリケートな問題でした。15~16節の途中までご覧ください。

“それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。”

ファリサイ派の人々は、自分たちの弟子たちをイエス様のもとに送りこんだと書かれています。ニューフェイスを送ったということですね。自分たちの顔をもうばれてしまっているので、弟子たちを送り警戒されないようにということです。この箇所を読んで、私たちが、あれっと思うのは、ヘロデ党と全く相いれないファリサイ派が、一緒になってイエス様のところに送られたということ点です。ヘロデ党とファリサイは、敵対関係にあって、水と油のような間柄でした。ヘロデアンティパスは、当時ガリラヤとペレヤ地方の領主としてローマ皇帝から抜擢された指導者でした。このヘロデとは、洗礼者ヨハネを処刑した人物です。イエス様はヘロデのことを指して「あの、狐」と語っています。ヘロデはカイサルによって領主に抜擢してもらったので、当然ヘロデはローマの協力者としてローマの犬のように立ち振る舞うことになります。ですからヘロデ派の人々とは、ユダヤ人の同胞から見ると、裏切者のように映るのです。一方で、ファリサイ派とは、ユダヤの民衆から大変支持を得ていました。なぜなら、彼らは日々律法を研究し、その律法を実践しようとして(ただ、行いによって義とされようとする間違った考え方をもっていましたが)いたからです。ファリサイ派の考えによると、ユダヤの土地というのは、聖書に書かれているように、神の所有する土地ですから、その土地に対し税金をかけたり、或いは成人一人ひとり人頭税が課せられること、これは許しがたいことだったのです。税の問題をめぐり、ユダヤ人は大きな葛藤を覚えていたのでありました。さらに人頭税というのは、実はデナリオンで納めなさいということになっていました。デナリオンとはローマの貨幣ですが、そのコインにはティベリウス・カイサル(二代目ローマ皇帝)の肖像が刻まれていました。そしてコインの縁に文字が書かれています。「アウグストゥスの子ティベリウス」、つまり、アウグストゥスは神の子とされていたので、さらに、その子がティベリウスであるというのです。ですからデナリオンを収めることが、第一に律法に触れるのです。どのような神の像も作ってはならないと、十戒の第二戒にありますが、その違反になります。第二にティベリウス・カイサルを神として認めるという問題です。納税するたびにファリサイ人や熱心当の人々は試みにあったのです。

このような中で質問がなされます。22:16の続きから17節をご覧ください。

“「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」”

いかにも、恭しい態度で近づきながら、イエス様がいつも弟子たちのざっくばらんとして質問に対して、イエス様はいつも優しくお答えくださっているように、自分たちを熱心な求道者として受け入れてほしい。さらに自分たちの質問に答えさせることでした。しかし彼らの本音は、真理に対するうえ渇きからでは全くありませんでした。イエス様に教えを頂こうという動機ではなく、イエス様の言葉尻を捕えようとしていたのです。ローマに税金を納めるべきか、納めないべきか、大胆に答えちゃってくださいという感じです。もし、イエス様がローマに妥協してローマを払うべきだというなら、一気に民衆の支持を失うに違いありません。反対にイエス様が正義感に燃えて税金を払うのは律法違反だと言うなら、まさに思う壺です。ローマに訴える口実を探しているのです。イエス様はそれらのことを見破り、「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか、」と言われました。そしてデナリ銀貨持ってこさせて言いました。「これは誰の肖像と銘か。」彼らは「皇帝のものです。」と言います。するとイエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。これを聞いたものたちは、イエス様の御言葉に大変驚き逃げるようにその場を立ち去ったと書かれています。しかし私たちには、今一、ここで語られた御言葉の意味が伝わってきません。この御言葉の一つの手がかりは、イエス様は税金を納めるという言葉を使わないで、借りたものは、元に返しなさいという表現を使われます。「ローマからの借り物はローマに返し、神さまからの借り物は神様にお返ししなさい」と言っているのです。パウロ書簡を見ますともう少しこの辺のところが明確に現れている箇所がございますので調べてみましょう。ロマ書13:1~7節までです。

“人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。”

簡単に言いますとパウロはローマ皇帝の権威を神から由来している、神さまからの借り物であると言っているのです。さらにこの世のもの、すべてのものは、この被造物を造られた神さまのものであると言います。ですからローマに税金を納めることは、皇帝のものは皇帝に返すことに違いありませんが、それは私たちが神さまの御前に善を行うことであり、引いては神を敬うことになると言っているのです。よく考えたらですね、イスラエルの人もローマ帝国から恩恵を受けているのであります。ローマ造った大通りを自由に行き来することによって、福音はローマに速やかに宣べ伝えられました。そして、いくら、ローマが憎いからといっても、ローマ帝国から平和ですとか公共の益を受けているのです。したがって税金を納めることは、借り物を返すようにそれは当然の義務ですよということです。そして注目すべきことは、パウロがこのローマ書を書かれた時の皇帝が誰だったのかというと、5代目のネロ皇帝であったということです。大変キリスト者を迫害し恐ろしいことを行った皇帝でした。そのような皇帝であっても、神によって建てられているとみなし、善を行うことを勧めているのです。皇帝という立場は神様の御手の中で、神さまの許しの中で初めて皇帝になれるのであって、このような上に建てられた人を通してキリスト者を訓練し、キリスト者に鞭を与える道具として立てられているということです。ですから、上に立てられている権威に、私たちは従順しそのことを通して神さまに従順すること、それが神様に栄光をお返しすることになるということです。

結論的に言うと、私たちは外圧によって神さまに対する私たちの誠実な心、礼拝する心を脅かされるということはないということです。私たちが仮にローマの頸木つながれていたり、奴隷状態にあったとしても私たちは、その立場的な理由によって神さまにお仕えすることはできませんということにはならないのです。私たちをまず自由にしてから、神さまにお仕えする者にならせてくださいということではないということです。どのような外圧あっても、神さまにお仕えすることができる、神さまに従順に歩むことができるということです。ですからこの、現実世界と霊的世界において確かに区別はあります。世俗的なものと、聖なるもの、これには区別がありますけれども、それを完全に対立させるのではなくて、実は神さまが全てを治めておられ、聖なるものの中にも世俗的なものがいすわる場所もあるということです。

例えば、逆のことを考えてみれば明らかになるのではないかと思います。私たちは一般の企業に勤めるのではなくて、クリスチャン企業に勤めよう。一般の小中高等学校で学ぶのではなくて、ミッションスクールで学ぼうといったときに、それでは、それで完全に聖くなることができるのでしょうか。そのことを持って私たちが神さまに完全にお仕えすることになるのかという点を考えてみる時に、やはりそれは「NO」であるということです。いくら社長がクリスチャンであったとしても、社長がノンクリスチャンであったとしても神に仕えるという面において違いはないということです。ですから、あたかもローマ皇帝を神さまと同じ次元で考えてしまい、神さまとローマ皇帝を対立するものと考えてはならないということです。「ローマのものはローマに返しなさい。皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい」と言った時に、神さまは実はすべての者を所有されているということです。全てがそもそも、神さまのものですよということです。私たちはヨブ記を読むときに、サタンが神さまの会議に出席して、そしてサタンがヨブに危害を加えることを申し出ていますが、そこでいくらサタンであってもヨブに危害を加えることに神の許可が必要であるということを思い起こすことができます。ヨブ記1:6-7節と12節をご覧ください。

“6ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。7主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。”

“12主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。”

このように、ヨブの命は取らないのですが、ヨブに危害を加えることは、認められている、サタンは私たちに危害を加えることはあっても、神さまの許しなしには決して危害を加えることはできないということです。神さまがすべてをご支配しておられるということです。神さまの統治とは、常に祝福されて、常に喜びと豊かさに満ち溢れたものではないかもしれません。そしてまさにその点が私たちにとっても悩ましい点であるのです。私たちは神を信じた後に、これで神の家族に入れられ、神の秩序に入れられ、神さまからの祝福を期待しつつ、神を畏れ生活していくことができるんだー!と思ってしまいます。ところが、実際問題この世で生きていく上でどうしてもお金が必要になってきます。私たちキリスト者がいくら夜を徹して涙をながしなら祈ったからといって、すぐにお金が天から降ってくるわけではありません。私たちが信仰を持ったからといって、即座に人生の問題が解決し、私たちの願い通りに全てのことが運ばれる、ということでもないのです。ヨブでさえなぜ、自分の身にこのような災いが立て続けに起こるのか理解できませんでした。ヨセフの場合も同じです。なぜ自分が牢獄の中で囚人として過ごさなければならないのか。ある日突然、エジプトの首相に抜擢され、当時世界に大飢饉が起こった時に、適切に対処してカナンから自分の民族を、つまりヨセフを売り飛ばした兄たちを救済しエジプトに移住させたときに、初めて神の永遠の摂理の一部を理解することができたのです。ですから、私たちが現在置かれている場所において善を行いキリストの愛を実践することによって、神に仕えていく私たちとならせていただきましょう。お祈りします。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

ハングル語によるメッセージはありません。

関連する説教を探す関連する説教を探す