2025年03月23日「御言葉が蒔かれると 말씀이 뿌려지면」

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御言葉が蒔かれると 말씀이 뿌려지면

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 4章1節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
4:10イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。
4:11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」
4:13また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 4章1節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

病を癒し、悪霊を追い出し、神の国の到来を告げ知らせるイエス様の働きは、ガリラヤ地方に大きなセンセーションを巻き起こしました。おびただしい群衆は熱い思いを持ってイエス様の行かれる所なら、どこへでもついて行こうとしました。そんな群衆の姿を見て、イエス様はとても喜ばれたと思います。この日もイエス様は湖のほとりで、舟に乗って神の国について語られました。恐らくガリラヤのカファルナウムのこの場所は、湖を背景にした切り立った断崖が格好の音響装置のような役割をし、イエス様の御声が良く響いたのだと思われます。イエス様は舟を、講壇と椅子に見立てて、そこから力強く語り始められました。

【1】. 神の国の到来は、たとえで語られる

イエス様は、種についての譬えを話されました。後で弟子たちに譬えについての解説をされますが、本日の箇所は、 蒔かれた種の冒険を通して、「神の国」が語られています。神の国の到来、それこそ、まさに「福音・よき知らせ」の内容であります。マルコ1:14において、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られました。「神の国は近づいた」、イエス様の大胆な宣言がなされています。ここで、「神の国は近づいた」という表現に注意していただきたいのですが。神の国は確かに到来しました。しかし、私たちの目に見える形で神の国が完成された訳ではありません。メシアである御自身の来臨によって、神の国は、霊的には既に到来しました。しかし、未だ目に見える形で現れている訳ではないのです。目に見えない神の国は、悔い改めて、信仰によって受け入れるものであります。私たちは信仰によって、この神の国に入れられるのです。誰の目にも、隠されている、この「神の国」を説明するにあたり、イエス様は専らたとえを通してでなければ、説明することは出来ませんでした。「たとえ」という言葉ですけれども、ギリシャ語で「パラボレπαραβολῇ」、ヘブライ語では「マーシャルמשׁל」という言葉です。旧約聖書を見ますと、ヘブライ語マーシャルという言葉は、日本語で「たとえ話し」と訳されている箇所もありますし、「謎」と訳されている箇所もあります(エゼ17:2、詩49:5、78:2、箴1:6、)。つまり、マーシャルという言葉は、ある人にとっては分かりやすいたとえ話であり、ある人にとっては意味の分からない「謎」であったということです。1~9節のイエス様の語られたたとえ話しも、読者である私たちに、分かりやすい「たとえ話」として、或いは「謎」として、迫ってくるのであります。

さて、当時の種まきというのは、種をばら撒いてから、耕すという仕方でありました。ですから種を蒔く人は、景気よく種をばら撒く訳です。そのような仕方でしたので、蒔かれた種が道端に落ちてしまい、鳥が食べて行くこともしばしばありました。石だらけで土の少ない所に落ちることも、茨の中に落ちることもありました。そのような場所に落ちた種は芽を出すことはないし、芽を出しても、やがて枯れてしまい、実を結ぶまでに至らないケースが普通にありました。イエス様の語られた「たとえ」は、イスラエルの人々が、身近に体験している現実でしたので、聞く者たちにとって、大変分かり易い内容だったと思います。イエス様は、たとえ話しを語りながら、4:3で「よく聞きなさい」と語り、そして9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。御自身が語られた内容は、神の国に関するものなので、この福音が、信仰に結び付くように、聞き方に注意せよということです。こう言われますと、普段、自分たちに馴染のある種まきの話しの、一体どこが福音なのかと訝る人も出て来たのではと思います。悪いけど、種蒔きに関しては、俺たちの方が良く知っていると、思った人もいたでしょう。このたとえ話しと、神の国に一体、どんな関係があると言うのでしょうか。

【2】. 良い土地と三つの土地

イエス様は、この種まきの種を「神の言葉」として理解する時に、それが福音として迫ってくると言われました。種を蒔く方は神様です。地の果てにまで御言葉を景気よく蒔いてくださいます。このようにして、蒔かれた種の冒険が始まるのです。10節からのくだりの部分は一旦飛ばしまして、4:14~19節をご覧ください。種の冒険について書かれています。

“種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。”

まず最初に、道端に蒔かれた種についてです。種は神の御言葉ですから、種が蒔かれる土地とは、私たち人間のことを指していると思われます。道端に落ちた種とは、御言葉を聞いたとしても、サタンによって、折角いただいた御言葉を奪われてしまうケースです。これは私たちが信仰に導かれる前に、たくさん経験していたことなのかもしれません。今は御言葉を信じて、教会に来ている訳ですから、中々ピント来ないかもしれませんが、かつてまだ信じる前に、自分に確かに神の言葉が語られていて、しかし、その時はまだ時ではなかったため、語られた御言葉が自分の心に留まることなく、忘れ去られてしまったという事があるのではないでしょうか。御言葉は、聖書を通して直接語られることもありますけれども、日曜学校や、或いは映画や、小説や、寸劇や、紙芝居などを通して、間接的に語られることもあります。様々な方法で神様は御言葉を人々に語ってくださいますが、種が芽を出す前に奪い去られてしまうのです。

第二に、石だらけの所に蒔かれた種についてです。御言葉を聞いて感動し、すぐ喜んで受け入れますが、根が地中に張っていないため、やがて、御言葉による艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうケースです。この世において、私たちがイエス様に従って生きていこうとする時、必ず、キリスト者に艱難や迫害が襲ってまいります。自分がクリスチャンだということを学校や職場において、或いは、自分が所属するサークルや、地域の交流において、公にしただけで、理不尽な扱いや、不当な嫌がらせを受けることもあるでしょう。皆様も、きっとご経験があるのではないでしょうか。もし、信仰の根が深く根付いていないなら、このような艱難や迫害によって、すぐにつまずいてしまい、教会から離れてしまうということも簡単に起こり得るのです。私自身、洗礼を受けたばかりの頃、初めは救いの感動で心が満たされていましたが、仕事があまりにも忙しくなり、休みのはずの日曜日でさえ、出勤しなければならないということが重なって、次第に教会の礼拝から遠のいてしまったことを覚えています。キリスト者には、信じた後、荒れ野の旅路が備えられていて、艱難や試練が絶えず襲ってくるのであります。

第三に、茨の中に蒔かれる種についてです。この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいでしまうケースです。実際、私たちの思い煩いの力や、貪欲の力、そして、世の誘惑の力というのは、ものすごいパワーを持っています。恐らく我々自身の力では、その力に対抗することなど無理でありましょう。私たちは、御言葉を覆い塞いでくる茨に対し、全く無力であり、勝利する秘訣など考えても全く無駄だということです。私たちに出来ることは祈ることしかありません。人生の中で、様々なつまずき、様々な悲しい出来事、様々な茨が襲ってまいります。私たちは、祈ることしかできないのだと思います。それに反し、もし、御言葉が良い地に蒔かれるなら、どのような事が起こるでしょうか。4:20節をご覧ください。

“良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。”

肥沃な地、ヨルダンの谷間であるならまだしも、不毛のガリラヤの地で、30倍、60倍、100倍というのは、とてつもない豊作を意味しました。これを聞いた時、弟子たちは目を丸くしたと思います。それにしても、前の三つの土地である道端と、石だらけの土地と、茨の土地に比べて最後の良い地との、この大きなギャップは何なのでしょうか。ゼロとサムのような関係です。あたかもギャンブルで親が総どりするような感じがいたします。ですから、私たちは「どのようにしたら、自分自身がこの良い土地になれるでしょうか、どのようにしたら、自分が勝者になれるでしょうか。」と質問することでしょう。しかし、その質問は、実は「どのようにしたら信仰が得られるのでしょうか」と聞いているのと同じであります。答えは、私たちの努力や、私たちの力によって、良い土地になったり、或いは、奇跡をもたらす信仰が得られる訳ではないという事です。それは、神からの一方的な贈り物であって、専ら神の恵みなのであります。ですから、マルコ4章の種まきのたとえを読む時に、果たして自分は、どの土地だろうか?良い土地だろうか、それとも道端だろうか、石畳だろうか、茨だろうか?などと心配する必要はないですし、或いは人を見て「奴は道端の地だ」、「奴は茨の地だ」、などと他人に適用する必要もないのです。

【3】. 良い土地とは?

続いて先ほどは飛ばしました10~12節に戻ってみたいと思います。ご覧ください。

“イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」”

二重カッコの引用は、イザヤ書6:9-10からの引用です。少し意味深な御言葉です。一見しますと、イエス様はここで、外部の人々と内部の人々の間に線引きしているように見えます。つまり、秘密が打ち明けられている十二弟子と、イエス様の周りにいた人たちが内部の人々で、それ以外の群衆が外部の人々という線引きです。線の外側である外部の人にはすべて、たとえで示される。その理由は、外部の人々に、神の国の秘密を理解させないためであり、外部の人々が悔い改めて赦されることがないため、と、解釈してしまいそうです。ところが、このように解釈すると矛盾が生じてしまいます。13節において、イエス様は内部の人々であるはずの弟子たちを叱責されているからです。「このたとえがわからないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」イエス様が弟子たちを叱責されるのは、ここだけではなく、この後も、マルコ福音書は、引き続き弟子たちの無知と無理解について暴いていきます。つまり、イエス様と特別な関係を結ぶという特権を与えられていながら、イエス様から特別な教訓と訓練を提供され、イエス様の宣教の働きに共に参与する、その特権に与っている線の内側にいるはずの弟子たちが、イエス様のたとえ話しを全く理解していなかったのです。彼らは秘密を打ち明けられても、イエス様のたとえ話をまったく理解していないのです。彼らは秘密を打ち明けられても依然として、たとえは「謎」として迫ってくるだけでありました。彼らは依然として、良い土地ではなく、「道端」か、「石だらけの土地」か、「茨の中」に置かれているのです。ですから、イザヤ書6:9-10の御言葉を引用した著者マルコは、内側の人々と外側の人々の線引きについて語っているのではないということが分かります。同時に、このことは、無知と無理解の塊である、私たちにとっても、どれほど大きな慰めでしょうか。それでは、著者マルコはイザヤ書6:9-10をどのような意図で引用したのでしょうか。ここの解釈として、参考になる御言葉がエレミヤ5:20~21に書かれています。調べてみましょう。

“これをヤコブの家に告げ、ユダに知らせよ。「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず/耳があっても、聞こえない民。”

預言者エレミヤは、愚かで心ないユダの人々に、目があっても見えず、耳があっても聞こえないユダの人々に対し、一つの事を訴えています。その一つの事とは、「御言葉を聞きなさい」という事です。御言葉をよく聞くこと、いつもイエス様のそばを離れずに御言葉を聞くこと、このことを著者マルコは強調しているのだと思います。良く理解できても、出来なくとも、忍耐を持って御言葉を聞き続けること、そのことが何より重要なのであります。御言葉の学びには、卒業はありません。私たちは一生涯をかけて御言葉を聞き続け、学び続けるのです。最初から良い土地である人が果たしてどこにいるでしょうか。良い土地とは、種を蒔かれるイエス様が、御自身の汗と血によって開墾し、イエス様ご自身が私たちの心の中に造り出してくださるのです。御言葉を重ねて聞くことは、牛が草を咀嚼するのに似ていると思います。以前、聞いたことがあると思う御言葉でも、以前聞いた聖書箇所からでも、何度も何度も御言葉をかみしめる中で、以前とは異なる恵みに与り、私たちの心は次第に耕されていき、ついに良い地に変えられるのです。弟子たちが常にイエス様に同行し、イエス様の働きに共に参与し、イエス様の教えに座って耳を傾ける中で、神様の恵みによって、ある日、目からうろこが落ちるような体験をし、御言葉に対する悟りが与えられるのです。道端だった土地が、石だらけだった土地が、茨のような土地が、神の恵みによって、天からの贈り物として「良い土地」にされるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。種を蒔く人であられるイエス様が、御言葉を頑なに拒む私たちの心を耕してくださいます。道端や石だらけ、おまけに茨が生えていて、鋤もたたないような私たちの頑なな心を、イエス様ご自身が耕してくださるのです。私たちは、イエス様のそばから決して離れないで、御言葉を愛し、御言葉を聞き続ける者とならせていただきましょう。私たちに蒔かれた御言葉の種は、神様が信仰を成長させてくださり、やがて30倍、60倍、100倍の実を結ぶ者としてくださるでしょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

말씀이 뿌려지면

2025년 3월23일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

마가복음 4장 1~20절

서론

병을 고치고, 귀신을 쫓아내고, 하나님 나라의 도래를 알리는 예수님의 사역은 갈릴리 지방에서 큰 센세이션을 일으켰습니다. 수많은 군중들은 뜨거운 마음으로 예수님이 가시는 곳이라면 어디든 따라갔습니다. 그런 군중들의 모습을 보시고 예수님은 매우 기뻐하셨을 것입니다. 이 날도 예수님은 호숫가에서 배를 타시고 하나님 나라에 대해 말씀하셨습니다. 아마도 갈릴리 가버나움의 이곳은, 호수를 배경으로 한 깍아지른 절벽이 멋진 음향장치 같은 역할을 하여 예수님의 음성이 잘 울려 퍼졌을 것으로 생각됩니다. 예수님은 배를 강단과 의자로 삼으시고 거기서 말씀을 시작하셨습니다.

(1) 비유로 말씀되어지는 하나님의 나라의 도래

예수님은 씨앗에 대한 비유를 말씀하셨습니다. 나중에 제자들에게 비유에 대한 해설을 하시지만, 오늘 본문은 뿌려진 씨앗의 모험을 통해 하나님 나라를 말씀하신다고 봐도 무방할 것 같습니다. 뿌려진 씨앗을 통해 하나님 나라를 말씀하고 있다는 것입니다. 하나님 나라의 도래, 그것이 바로「좋은 소식・복음」의 내용입니다 막 1:15에서 예수님은「이르시되 때가 찼고 하나님의 나라가 가까이 왔으니 회개하고 복음을 믿으라」고 말씀하셨습니다. 「하나님의 나라가 가까이 왔으니」라는 표현에 주목해주시기 바랍니다. 하나님의 나라는 확실히 도래했지만, 그러나 우리가 볼 수 있는 형태로 하나님 나라가 완성된 것은 아니라는 뜻입니다. 메시아이신 예수님의 오심으로 하나님 나라는 영적으로는 이미 도래했습니다. 그러나 아직 눈에 보이는 형태로 나타난 것은 아닙니다. 보이지 않는 하나님 나라는 회개하고 믿음로 받아들이는 것입니다. 우리는 믿음으로 이 하나님 나라에 들어갈 수 있습니다. 누구의 눈에도 보이지 않는 「하나님 나라」를 설명하기 위해, 예수님은 오로지 비유를 통해서만 설명하셨습니다.「비유」라는 단어는, 헬라어로 「파라볼레 παραβολῇ」, 히브리어로는「마샬 משׁל」이라는 단어입니다. 구약성경을 보면 히브리어「마샬」이라는 단어는「비유」로 번역된 구절도 있고, 「수수께끼」로 번역된 구절도 있습니다(겔 17:2, 시 49:4, 78:2, 잠 1:6). 즉, 「마샬」이라는 단어는 어떤 사람에게는 알기 쉬운 비유였고, 어떤 사람에게는 의미를 알 수 없는 「수수께끼」였던 것입니다. 1~9절의 예수님께서 말씀하신 비유도 독자인 우리에게는 알기 쉬운「비유」였고, 어떤 사람에게는 의미를 알 수 없는 「수수께끼」였던 것입니다. 1~9절의 예수님께서 말씀하신 비유도 독자인 우리에게는 알기 쉬운「비유」 로 혹은 「수수께끼」로 다가오기 때문입니다.

그런데 당시 파종하는 방식이라고 하는 것은 씨앗을 뿌리고 나서 경작하는 방식이었습니다. 그래서 씨앗을 뿌리는 사람은 씨를 멀리서 밭에 흩어 뿌리는 것입니다. 그런 방식이었기 때문에 뿌려진 씨앗이 길 가에 떨어져서 새들이 먹어치우는 일도 종종 있었습니다. 돌이 많고 흙이 적은 곳에 떨어지기도 하고, 가시덤불 속에 떨어지기도 했습니다. 그런 곳에 떨어진 씨앗은 싹을 틔우지 못하고, 싹을 틔워도 곧 말라버려서 열매를 맺지 못하는 경우도 다반사습니다. 예수님께서 말씀하신 「비유」는 이스라엘 백성들이 가까이서 경험하고 있는 현실이었기 때문에 듣는 이들에게 매우 이해하기 쉬운 내용이었다고 생각합니다. 예수님은 비유를 말씀하시면서 4;3절에서「들으라」라고 말씀하셨고, 9절에서 「들을 귀 있는 자는 들으라」라고 말씀하셨습니다. 예수님께서 말씀하신 내용은 하나님 나라에 관한 것이기 때문에, 이 복음이 믿음으로 연결될 수 있도록 듣는 것에 주의를 기울이라는 말씀입니다. 이렇게 말씀하시니 평소에 자신들에게 익숙한 씨 뿌리는 이야기가 도대체 어디까지가 복음인지 의아해하는 사람들도 있었을 것 같습니다. 예수님께는 죄송하지만, 씨 뿌리는 것에 관해서는 우리가 더 잘 안다고 생각한 사람들도 있었을 것입니다. 이 비유가 하나님 나라와 도대체 무슨 상관이 있다고 말씀하시는 것일까요?

(2) 좋은 땅과 세 종류의 땅

예수님은 이 뿌려지는 씨를「하나님의 말씀」으로 이해할 때 그것이 복음으로 다가온다고 말씀하십니다. 씨를 뿌리시는 분은 땅 끝까지 말씀을 흩뿌려주십니다. 이렇게 뿌려진 씨앗의 모험이 시작되는 것입니다. 10절부터의 구절은 일단 건너뛰고 14~19절을 보시기 바랍니다.

씨앗의 모험에 대한 내용이 나옵니다.

14 뿌리는 자는 말씀을 뿌리는 것이라

15 말씀이 길 가에 뿌려졌다는 것은 이들을 가리킴이니 곧 말씀을 들었을 때에 사탄이 즉시 와서 그들에게 뿌려진 말씀을 빼앗는 것이요

16 또 이와 같이 돌밭에 뿌려졌다는 것은 이들을 가리킴이니 곧 말씀을 들을 때에 즉시 기쁨으로 받으나

17 그 속에 뿌리가 없어 잠깐 견디다가 말씀으로 인하여 환난이나 박해가 일어나는 때에는 곧 넘어지는 자요

18 또 어떤 이는 가시떨기에 뿌려진 자니 이들은 말씀을 듣기는 하되

19 세상의 염려와 재물의 유혹과 기타 욕심이 들어와 말씀을 막아 결실하지 못하게 되는 자요

먼저 길 가에 뿌려진 씨앗에 대해서 말씀드리겠습니다. 씨앗은 하나님의 말씀이기 때문에 씨앗이 뿌려지는 땅은 우리 인간을 가리키는 것으로 보입니다. 길 가에 떨어진 씨앗은 말씀을 들었음에도 불구하고 어렵게 받은 말씀을 사탄에 의해 빼앗기는 경우를 말합니다. 이것은 우리가 믿음으로 인도받기 전에 경험했던 일인지도 모릅니다. 지금은 말씀을 믿고 교회에 나오기 때문에 잘 와닿지 않을 수도 있지만, 예전에 믿음이 생기기 전에 하나님의 말씀이 분명히 자신에게 들려졌지만, 그 때는 아직 때가 아니었기 때문에 그 말씀이 마음에 남지 않고 잊혀져 버린 적이 있지 않습니까? 말씀은 성경을 통해 직접으로 말씀하실 수도 있지만, 주일학교나 영화, 소설, 혹은 연극이나 종이인형극 등을 통해 간접적으로 말씀하실 수도 있습니다. 다양한 방법으로 하나님은 사람들에게 말씀을 전하시지만, 씨앗이 싹을 틔우기도 전에 빼앗겨 버리기도 합니다.

둘째로, 돌밭에 뿌려진 씨앗에 대한 이야기입니다. 말씀을 듣고 감동을 받아 즉시 기꺼이 받아들이지만, 뿌리가 땅에 박혀 있지 않기 때문에 말씀으로 인한 환난과 핍박이 일어나면 곧 걸려 넘어지는 경우입니다. 이 세상에서 우리가 예수님을 따라 살려고 할 때, 반드시 그리스도인에게는 환난과 핍박이 닥쳐옵니다. 학교나 직장에서, 혹은 자신이 속한 서클 이나 지역사회의 교류에서 자신이 그리스도인이라는 것을 공개적으로 밝힌 것만으로도 불합리한 대우를 받거나 부당한 괴롭힘을 당할 수도 있을 것입니다. 여러분도 분명 그런 경험이 있을 것입니다. 만약 믿음의 뿌리가 깊지 않다면, 이런 고난과 핍박으로 인해 쉽게 넘어져 교회를 떠나게 되는 일도 쉽게 일어날 수 있습니다. 저 역시 세례받은지 얼마 되지 않았을 때, 처음에는 구원의 감격으로 마음이 충만했지만, 일이 너무 바빠지고 주일인 일요일에도 출근해야 하는 상황이 겹치면서 점점 교회 예배에서 멀어졌던 기억이 납니다. 그리스도인에게는 믿은 후 광야의 여정이 준비되어 있고, 시련이 끊임없이 닥쳐오기 때문입니다.

세 번째로는 가시떨기 속에 뿌려진 씨앗에 관한 것입니다. 세상의 염려와 재물의 유혹, 기타 욕심이 마음에 들어와 말씀을 덮어버리는 경우입니다. 사실 우리에게 다가오는 염려의 힘, 탐욕의 힘, 그리고 세상의 유혹의 힘이라는 것은 엄청난 힘을 가지고 있습니다. 아마도 우리 자신의 힘으로는 그 힘에 대항하는 것은 불가능할 것입니다. 우리는 말씀을 덮고 막는 가시덤불에 대해 전혀 무력하며, 승리하는 비결 따위를 생각해도 전혀 소용이 없다는 것입니다. 우리가 할 수 있는 것은 기도하는 것뿐입니다. 인생에는 여러 가지 넘어짐, 여러 가지 슬픈 일, 여러 가지 가시가 우리를 덮쳐올 것입니다. 우리는 기도밖에 할 수 있는 것이 없다고 생각합니다. 반대로 말씀이 좋은 땅에 뿌려진다면 어떤 일이 일어날까요? 4:20절을 보시기 바랍니다.

좋은 땅에 뿌려졌다는 것은 곧 말씀을 듣고 받아 삼십 배나 육십 배나 백 배의 결실을 하는 자니라

비옥한 땅, 요단강 주변이라면 몰라도, 척박한 갈릴리 땅에서 삼십 내나 육십 배나 백 배의 결실이라는 것은 엄청난 풍년을 의미했습니다. 이 말을 들었을 때 제자들은 눈을 동그랗게 떴을 것입니다. 그런데 앞의 세 땅인 길 가, 돌밭, 가시떨기과 마지막 좋은 땅의 이 큰 차이는 무엇일까요? 왕창 따든지, 가진 걸 다 잃는 도박 같기도 하고, 주식 투기 같은 그런 느낌입니다. 그래서 우리는 “어떻게 하면 내가 이 좋은 땅이 될 수 있을까, 어떻게 하면 내가 승자가 될 수 있을까?”라고 질문하게 됩니다. 하지만 그 질문은 “어떻게 하면 믿음을 얻을 수 있을까요?”라고 묻는 것과 같습니다. 답은 우리의 노력이나 우리의 힘으로 좋은 땅이 되거나 믿음을 얻을 수 있는 것이 아니라는 것입니다. 그것은 하나님의 일방적인 선물이며, 전적으로 하나님의 은혜입니다. 그러므로 마가복음 4장의 씨 뿌리는 비유를 읽을 때, “과연 나는 어떤 땅일까? 좋은 땅일까, 아니면 길 가일까, 돌밭일까, 가시떨기일까?” 등등 걱정할 필요가 없고, 혹은 사람을 보고 “저 사람은 길 가 땅이다, 저 사람은 가시떨기 땅이다”라고 다른 사람에게 적용할 필요도 없습니다.

(3) 좋은 땅이란

이어서 앞서 건너뛰었던 10~12절로 돌아가 보겠습니다.

10 예수께서 홀로 계실 때에 함께 한 사람들이 열두 제자와 더불어 그 비유들에 대하여 물으니

11 이르시되 하나님 나라의 비밀을 너희에게는 주었으나 외인에게는 모든 것을 비유로 하나니

12 이는 그들로 보기는 보아도 알지 못하며 듣기는 들어도 깨닫지 못하게 하여 돌이켜 죄 사함을 얻지 못하게 하려 함이라 하시고

12절은 이사야 6:9~10에서 인용한 말씀입니다. 조금 의미심장한 말씀입니다. 언뜻 보면, 예수님은 여기서 외부인과 내부인 사이에 선을 긋고 있는 것처럼 보입니다. 즉, 비밀을 털어놓는 열두 제자와 예수님 주변에 있던 사람들이 내부인이고, 그 외의 군중은 외부인이라는 선을 긋고 있다는 것입니다. 선 밖에 있는 외부 사람들에는 모두 비유로 설명합니다. 그 이유는 외부 사람들에게 하나님 나라의 비밀을 이해시키지 않기 위함이고, 외부 사람들이 회개하고 용서받지 못하게 하기 위함이라고 해석할 수 있을 것 같습니다. 하지만 이렇게 해석하면 모순이 생기는데, 13절에서 예수님은 내부인이어야할 제자들을 「너희가 이 비유를 알지 못할진대 어떻게 모든 비유를 알겠느냐」라고 꾸짖고 계시기 때문입니다. 예수님께서 제자들을 꾸짖으시는 것은 여기서 그치지 않고, 이후에도 마가복음은 계속해서 제자들의 무지와 무이해를 폭로해 나갑니다. 즉, 예수님과 특별한 관계를 맺는 특권을 부여받았으면서도, 예수님으로부터 특별한 교훈과 훈련을 제공받고 예수님의 선교 사역에 함께 참여하는, 그 특권을 부여받은 선 안에 있어야 할 제자들이 예수님의 비유를 전혀 이해하지 못하고 있었다는 것입니다. 그들은 비밀을 털어놓아도 예수님의 비유를 전혀 이해하지 못했습니다. 그들은 비밀을 털어놓아도 여전히 비유가「수수께끼」로 다가올 뿐이었습니다. 그들은 여전히 「좋은 땅」이 아니라「길 가」나 「돌밭」이나 「가시떨기」속에 놓여 있는 것입니다. 따라서 이사야 6:9~10을 인용한 저자 마가는 내부 안쪽 사람과 바깥쪽 사람을 구분하는 것이 아님을 알 수 있습니다. 동시에 이것은 무지와 무이해 덩어리인 우리에게도 얼마나 큰 위로가 되는지 모릅니다. 그렇다면 저자 마가는 어떤 의도로 이사야 6:9~10의 인용한 것일까요? 여기에 대한 해석으로 참고할 만한 말씀이 예레미야 5:20~21에 기록되어 있습니다. 한 번 살펴 보겠습니다.

예레미야 5장

20 너는 이를 야곱 집에 선포하며 유다에 공포하여 이르기를

21 어리석고 지각이 없으며 눈이 있어도 보지 못하며 귀가 있어도 듣지 못하는 백성이여 들을지어다

예레미야 선지자는 어리석고 지각이 없으며, 눈이 있어도 보지 못하며 귀가 있어도 듣지 못한는 백성에게 한 가지를 호소하고 있습니다. 그 한 가지는 「말씀을 들으라」는 것입니다. 말씀을 잘 듣는 것, 항상 예수님 곁을 떠나지 않고 말씀을 듣는 것, 이것을 저자 마가는 강조하고 있는 것 같습니다. 잘 알아듣든 못 알아듣든 인내심을 가지고 말씀을 계속 듣는 것, 그것이 무엇보다 중요한 것입니다. 말씀 공부에는 졸업이 없습니다. 우리는 평생을 두고 말씀을 계속 듣고, 계속 배워야 합니다. 처음부터 좋은 땅인 사람이 과연 어디에 있을까요? 좋은 땅은 씨를 뿌리시는 예수님께서 자신의 땀과 피로 개간하시고, 예수님께서 친히 우리 마음속에 만들어 주시는 것입니다. 말씀을 반복해서 듣는 것은 소가 풀을 되새김질 하는 것과 비슷하다고 생각합니다. 예전에 들어본 것 같은 말씀이라도, 예전에 들었던 성경 구절이라도 말씀을 반복해서 씹는 가운데 이전과는 다른 은혜가 주어지고, 우리의 마음은 점점 더 경작되어 마침내 좋은 땅으로 변화 되는 것입니다. 제자들이 항상 예수님과 동행하고, 예수님의 사역에 참여하고, 예수님의 가르침에, 앉아서 귀를 기울이는 가운데, 하나님의 은혜로, 어느 날 눈에서 비늘이 벗겨지는 경험을 하게 되고, 말씀에 대한 깨달음을 얻게 됩니다. 길 가였던 땅, 돌밭과 같은 땅이, 가시떨기 같은 땅이 하나님의 은혜로, 하늘의 선물로 좋은 땅이 되는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 씨 뿌리는 자이신 예수님께서 말씀을 완강히 거부하는 우리의 마음을 경작해 주십니다. 길 가나 돌밭, 가시떨기가 무성하고, 삽질도 될 것 같지 않던 우리의 완고한 마음을 예수님께서 직접 경작해 주시는 것입니다. 우리는 예수님 곁을 떠나지 않고 말씀을 사랑하며 말씀을 계속 듣는 자가 되도록 합시다. 우리에게 뿌려진 말씀의 씨앗은, 하나님께서 믿음을 자라게 하셔서 삼십 배, 육십 배, 백 배의 열매를 맺는 자로 만들어 주실 것입니다.

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