2019年01月20日「クリスチャンの実践と奉仕」

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クリスチャンの実践と奉仕

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 23章1節~12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

神殿においてユダヤ教の指導者たちとの諸々の論争の事件の後、イエスさまは本日の箇所で特に、律法学者とファリサイ人の失敗について指摘していきます。律法学者とファリサイ人たちの失敗とは、神の律法について根本的に誤って理解していたことでした。その理解の仕方とは、神を見て律法を理解せず、人を見て律法を理解していたことです。この律法に対する誤った理解は、今日の私たちにもとっても、大変、教訓となります。彼らがどのように間違ってしまったのか見て行きたいと思います。マタイ23:1-3をご覧ください。

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。

だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。

ここで、モーセの座というのは何かといいますと、シナゴーグ(会堂)の前の方に、律法学者やファリサイ人たちによって、律法が教えられるための席が設けられていました。ちょうど、この講壇にも椅子がありますが、こんな感じだったと思います。この習慣の始まりは、バビロン捕囚記、預言者エズラがその席上から律法を朗読して解説したことに由来しているのではないかと言われています。ネヘミヤ記8:4-5(p749)をご覧ください。

書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。

エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。

当時、イスラエルの民はバビロンで生活していましたので、アラム語を話していました。ヘブライ語はアラム語の一つの方言のようなものですが、ヘブライ語で書かれている律法を学者であるエズラによってアラム語に翻訳してもらわないと理解できませんでした。8節を見ると「翻訳して」とある通りです。このエズラが教えた席がモーセの座と呼ばれるようになります。誰でもモーセの座に座る者は、神の御言葉と権威について教えなければなりません。当然ですが、自分の説明や自分の解釈を展開することは許されませんでした。イエスさまが弟子たちに「彼らが言うことは、すべて守りなさい。」と言われるのは、当時、律法学者とファリサイ人たちが、教会の公的な教師として認められていたからです。ただし、彼らの教えを無分別に受け入れなさいということではなくて、彼らが律法の純粋な教えをするときに限るということです。もし、彼らが、モーセの席から、自分たちの勝手な解釈を教えようとするなら、それに聴き従うことも実践することもしてはならないということです。

律法学者とファリサイ人たちがモーセの座から何を教えていたのかというと、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしなかった」とありますように、律法を犯さないように、つまらない規定や儀式をたくさん導入しました。たとえば十戒には、安息日にはどんな仕事をしてもならないとありますが、この「仕事」を具体的に細かく規定することによって、ある安息日の日、イエスさまの弟子たちが空腹だったので、麦畑の穂を摘んで食べたことに対して、弟子たちが、「刈り入れ」と「脱穀」の二つの労働をしたと訴えてきたのです。

イエスさまは、彼らの律法理解における根本的な誤りを一言で、「すべて人に見せるためである」と要約されました。

彼らは、聖句の入った、額の小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりしました。本来、御言葉が自分の額にも、腕にも、家の玄関にも書かれていて、どんな時にも、それを忘れずに覚えなさいという神さまの勧めでした。

また、服の房の青色を見ることによって、主の命令を思い起こさせました。民数記15:38-39にそのことが書いてあります。(p239)

イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。

それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。

これらの律法の意味は、どんな時であっても神さまの御言葉を大切にして、み言葉を心に刻んで、生活しなさいという意味です。ところが、彼らは人々に自分たちの敬虔さをアピールするために、額の箱の大きさを大きくしたり、青い房の長さを長くしました。これは単なる人に見せるためのパフォーマンスに過ぎません。何の意味もないことです。

彼らの好みについても「人目を気にする」という動機が伺えます。つまり、宴会では上席に座り、会堂では上席に座り、広場では挨拶されたり、「ラビ」と呼ばれることを好みました。「ラビ」とは先生と訳されていますが、ヘブライ語で「私の大いなるお方」という意味で、教師に対する称号です。つまり人々から認められたい、人々から一目置かれたいという欲望に従って、彼らの一切の行動が規定されていたのです。

イエスさまは、彼らに対して、表面的な「行い」の一つ一つについて文句を言っているのではありません。彼らの律法について根本的に誤解していることを指摘しているのです。彼らから結ばれてくる一つ一つの実について文句を言っているのではなくて、そもそも実が結ぶにあたって、木それ自体が悪いのではないかと指摘しているのです。

律法学者、ファリサイ人にとって律法とは、「人を見て」、「人前で」実践する掟でした。それは、自分の義しさを自慢するためのものだったのです。しかし、律法とは本来、人を見て、実践する掟ではなく、「神を見て」、「お一人であられるお方の御前に立って」理解するときに、初めてその価値を理解することができるのです。スタート地点において、このところをはき違えると、全く異なる実が結ばれて来ます。

律法とは、そもそも、それを実践することによって自らの義を達成できるものではなく、私たちが、罪人であるということを悟らせるものであって、私たちがいかに罪と汚れによって汚染されているのかを示すものでした。律法を前にして、自分が完全に無力な存在であることを気づかされるのです。律法とは、このように否定的に機能するものです。それでは、律法学者、ファリサイ人が律法を前にして、なぜ、自慢する思いになったのでしょうか。それは、彼らが律法を自分の力で守っていると勘違いしたからです。神を見ないで、人を見て律法を理解し、律法の本来の聖なる基準を転落させてしまったのです。

律法を前にして、二つの道が考えられます。ファリサイ人のように自分の力で律法を守って自慢することと、信仰によって律法を守って感謝することです。

私たちの信仰の本質とは何だったでしょうか。信仰の本質、それは恵みです。恵みというのは、私が自分の問題を自ら解決することができないので、外から助けを頂くという意味です。ですから私たちがイエス様を信じるというのは、私たちの救いと、私たちの祝福と、私たちの義が、私たちの内側からではなく、外側から、即ち、イエス・キリストからいただくという意味です。自分にはできませんが、外から、恵みによって義を頂くのです。ですからキリスト者は恵みを受けて、どんなときにも、感謝で満たされているのです。一方、自慢というのは、恵みの反意語であり、感謝の反意語です。なぜ自慢が出てくるのかというと、自分が義とされるのは、自分が救われて、祝福されるのは、自分の功績であって、自分の内側から出てきたものとして誇るからです。或は、自分が持っている信仰は、自分の内側から発生したと考えるからです。これがまさにファリサイ人と律法学者たちの律法の理解でした。

イエスさまはこの点を指摘しつつ、そうではなく、「神の前に立って」律法を理解し、信仰によって律法を実践しなければならないと教えられます。8-10節をご覧ください。

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。

また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。

『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

ここでイエスさまは、弟子たちに「ラビ」と呼ばれても、「父」と呼ばれても、「教師(つまり案内人とか指導者)」と呼ばれてもならないと教えました。これは、実際、私も家ではお父さんと呼ばれていますが、今日からはお父さんと呼んではダメだということではありません。例えば使徒パウロも自分のことを霊の父であると語っています(ピリピ2:22)。それでは、このイエスさまの御言葉はどういう意味なのかといいますと、「父親に帰すべき栄誉が、神の栄光を曇らせるのなら、それは誤りである」ということです。例えば、北朝鮮などまだ小さな幼い子供たちが、将軍様のために、涙を流しながら「お父さま」と、とりなしの祈りを捧げています。子供は外で遊んでいればいいわけですから、これは明らかにおかしいのです。或いは、マフィアの世界を見ますと、ゴッドファーザーという映画がありましたが、マフィアのボスがファーザーと呼ばれ、信仰の対象になっていました。このように、ラビとか、父とか、教師という言葉の内に、それらが持っている究極的な部分において、聖なるものであり、偉大な価値があり、本来、その部分に関しては、神、お一人から来るものです。この栄光を奪ってはならない、決して、それを人から出るものとして考えたりしてはならないということです。

私たちは、イエスさまを信じて恵みによって救われました。しかしその救いとは、それまでとは異なる神霊な性質が私たちの内に植えられたり、与えられたのではありません。ドラゴンボールのスーパーサイヤ人になったり、ガンダムのニュータイプのようになるのではなく、イエスさまを信じて、再生した後においても、やはり私たちは依然として罪人に過ぎないのです。ローマ書7:15-24(p283)をご覧ください。

わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。

そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、

わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

パウロがここで、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と言うとき、これがイエスさまによって救われる前の言葉なのか、救われた後の言葉なのか、学者によって議論が分かれるところですが、私は、救われる前も後も両方の状態であると思います。というのは、25節を見ると、これは明らかにイエスさまを受け入れた後ですが、再び「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

と、前の状態と同じような言い方をするからです。つまり、私たちが神の御前で信仰によって歩むということは、常に私たちのキリストに従おうとする清い思いと、肉の弱さの葛藤の中に置かれているということです。瞬間ごとに、古い自分がよみがえり緊張の中に置かれ、霊の戦いを聖霊により頼みながら歩ませていただいているのです。律法を神の御前で実践することも同じことです。律法の前に全く無力ではありますが、神様助けてくださいと、日々祈らされ、その中で外側から恵みによって義の衣を着せてくださり、外側から不思議に聖霊によって私たちの人生を導いてくださり、外側から善い行いという聖霊の結実を結ぶようにしてくださるのです。

乞食がいきなり王服を着せられて、王の宴会に招待されても、自分を自慢できる人なんていませんね。自分は、このような席に相応しくない者で、恥ずかしい限りですと、謙遜にならざるを得ません。ですからキリスト者にとって、謙遜とか、人に仕えることは本質的な自然な現れであり、決してこれは、道徳的目標とか、美徳の一つにはなり得ないのです。11節に「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」とありますが、恵みによって救われたなら、人に仕えるようになるのは極めて自然な現れであり、仕えることは道徳的な目標というより、キリスト者の本質的な現れなのです。人々に対しパフォーマンスをして自慢したり、威嚇するなど考えられないのです。

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