2019年02月03日「神の喪失(律法主義という宗教)」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

神の喪失(律法主義という宗教)

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 23章23節~33節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

23律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
24ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
25律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
26ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
27律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
29律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
30そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
31こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
32先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
33蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 23章23節~33節

原稿のアイコン日本語メッセージ

私たちは、元来、罪人としてこの世に生まれてきました。従って最初から神さまなんて、いやしないという大前提のもとに生まれ育ち教育を受けてきました。ところが、人生に不可思議なことが起こり、以前の私たちからは、到底考え着くこともできないような価値観と考え方を持つようになりました。それは、私たちを愛してくださっている神さまが存在するという考え方であり、そして御子イエス・キリストの十字架を通して罪びとだった私を神と和解させてくださったという考え方です。これを私たちは「信仰」と呼んでいます。信仰とは決して私たちが自然に身に付けたものでもなく、私たちが理性的に賢くなった末に、たどり着いた結論でもありません。ただ神の恵みです。

しかし、いったんキリスト者になったら、いったん信仰を持ったら、それでゴールなのかというとそうでもなく、私たちの信仰生活に立ちはだかるものがあります。それは、私たちに日々、忍び寄る「律法主義」という価値観で、再び私たちを以前の不信仰へ、大前提として持っていた考え方へと引き戻そうとします。律法主義とは、何かといいますと、それは無価値な儀式的な行いとか聖化された行いによって自分の犯した間違いを贖罪しようとする試みです。

律法主義と似た考えとして、日本において「みそぎ」を挙げられます。つまり、罪や汚れを取り除くために川や滝にあたって体を洗い清める儀式です。これは、罪が赦され、清められる根拠を、自らの行ないに帰している訳ですが、究極的に言えば、神さましか成し得ない業を、人間の行いが成しえるかのように錯覚することです。そして、神さまを私たちの人生の中心から押しのけて、自分自身がそこに居座ることを意味しています。律法主義とは、神とは無関係な生き方であり、自分中心の生き方です。

本日は、律法主義の実際について、「災いなるかな、律法学者、ファリサイ人」というイエスさまの4番目から7番目までの叱責を通して見て行きたいと思います。23-24節をご覧ください。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

最初に、24節から説明しますと、レビ記によればぶよもラクダも汚れたものですが、ここにはダジャレが入っていまして、ぶよは、アラム語で「カルマ」です。一方、ラクダはアラム語で「ガムラ」です。似ていますね。「カルマは漉して除くけど、ガムラは飲み込んでいる」と言っています。つまり小さなことには無意味に几帳面なくせに、大きな汚れについては、まったく無頓着だと叱責しています。

23節を見ますと薄荷、いのんど、茴香とありますが、これは、庭でとれる薬草のようなものであり、少量しか収穫することはできません。普通、律法に定められている十一税とは、主に農作物として収穫される穀物のことを指していました。従ってファリサイ人がしていることは、「私はここまで注意深く十一税を支払っている」ということをアピールするために、薄荷、いのんど、茴香にいたるまで几帳面に1/10を適用させたということです。私たちも時々、十分の一献金を捧げるときに、税引き前か税引き後なのかと迷うことがあるかもしれません。注意深くに捧げるべきか、どうしようか迷ってしまいます。

これに対してイエスさまは「あなた方はそこまで意味もなく、几帳面に十分の一を献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」と言われました。本来、十分の一税が規定されたもともとの理由とは、民の中での「公平さ」の実現であり、貧しいものへの「施し」の実現でした。民数記18:21には公平さが理由として挙げられています。ご覧ください。

見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である。

また、申命記26:12-13には施しが理由として挙げられています。

十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、

あなたの神、主の前で次のように言いなさい。「わたしは、聖なる献げ物を残らず家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。

つまり十分の一を捧げる時に、神を恐れながら、特に隣人に対する、「正義と慈悲と誠実」をもって捧げなさいという意味です。十分の一を捧げる時に、神への愛とか儀式への忠実さよりも、隣人に対する憐れみを優先にさせなさいと言っているのです。それでは、神さまを愛することは最優先にはならないのでしょうか。以前、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という御言葉を通して、兄弟愛こそが神さまへの愛への試金石になるということを、教えられました。つまり、神さまは、ご自身に対する私たちの愛を点検するために、いちいち、この世を行き巡りながら、律法をきちんと守っているのかチェックされる方ではありません。しかし、十分の一を捧げものを捧げる時に、その心を見通されるお方です。律法を通して隣人愛の掟をどのように守っているのかご覧になられ、そして、隣人愛を通してご自身への愛をはかられるお方なのです。ですから、ただ十分の一を捧げるだけでは十分ではありません。この外的な儀式よりも、十分の一を捧げる時の私たちの心をご覧になられるのです。

一つ余談ですが、十一税が規定された理由として、さらに付け加えるなら、イエスさまはこの外的な部分も、決してないがしろには出来ないと言われます。それは、なぜかというと、それによって私たちが世から区別され、私たちのすべてが神の御前に聖とされ受け入れられるからです。マラキ書3:10と18節をご覧ください。

十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。

そのとき、あなたたちはもう一度/正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との/区別を見るであろう。

つまり、私たちの収入とは、基本的にすべて神さまのものでありますが、十分の一を捧げる時に、それをしるしとして、私たちの全財産の献身として受け入れてくださり、聖なるものとして区別してくださるのです。マタイに戻りまして、25-26節をご覧ください。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

ここにおいても律法学者とファリサイ人たちの、偽善によって人々から名声と評判を買おうと一生懸命になっている姿を、杯と皿の譬えで批判しています。杯と皿の外側だけを綺麗に磨いて、内側は相変わらず汚れがついている状態で、その汚れをそのまま飲んでいるということです。イエスさまはまず、器の内側から、つまり心から、神さまによって清めてもらいなさいと勧めます。心の中心に神さまを正しく迎え入れなさいと勧めておられるのです。引き続き27-28節をご覧ください。同じ内容を違う譬えによって警告しています。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

今度は、律法学者とファリサイ人を墓に譬えています。これは強烈な譬えでした。確かに墓は定期的に漆喰によって白く塗られました。そのようにするのは、「美しさ」の標しではなく、ここは汚れているということを人々に注意喚起するためのものでした。ですから、墓が異様に白くなっているのは、人を引き付けるためではなく、目立つようにさせて嫌悪させるためでした。なぜなら通行人が、もしうっかりして、そこに触れてしまうなら、7日間汚れた者とされるからです。この異様な墓の白さこそ律法学者とファリサイ派の人々の律法主義の行いだと非難されているのです。28節では、外側は義人のように見えるが、実際、内側は偽善と不法に満ちていると宣告しています。ここで「不法」と言う言葉に注目しますと、律法という言葉に否定語がついている言葉です。彼らは表面的には律法を遵守して義とされていると飾りますが、所詮、人は自分の力によっては義とされることはありません。行いによって罪を贖うこともできません。恵みによらなければ義とされないのです。心の中心に神様を迎え入れるしかありません。次に第七の災いを見て行きましょう。29-31節をご覧ください。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。

そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。

こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。

イエスさまは、律法学者とファリサイ派の人々の行為を指摘して、彼らをして、預言者を殺した者たちの子孫だと告発されています。その理由はなぜかと言いますと、その彼らの行いが偽善であると見抜かれたからです。つまり、彼らは預言者や義人の教えについては、心から反抗し、神を拒絶しているのにも関わらず、死んだ預言者や義人に対しては、その墓を建てたり、記念碑を建てながら、偽りの敬虔な姿を見せようとしているというのです。なぜ預言者や義人の教えには反抗していることが分かるのかと言うと、それは、今、現に神さまによって遣わされたメシアを拒否し、殺害しようとしているからです。このようにして、彼らは、先祖の罪の不足分を満たそうとしているのです。

イエスさまは、最後に彼らに対して「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」と宣告します。この言葉は以前、洗礼者ヨハネがファリサイ派の人々使った同じ言葉遣いです。マタイ3:7をご覧ください。

ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。

この言葉を聞いたときに、律法学者とファリサイ派の人々は、以前、まだ洗礼者ヨハネが生きていた時、ヨルダン川で自分たちに警告し、悔い改めを迫ったことを、当然、思い浮かべるべきでした。そして当時、神から遣わされた預言者として誰もが疑わなかったヨハネの殺害に、まさに自分たちも、一枚噛んでいたことを、改めて思い返さなければなりませんでした。今からでも罪を悔い改めて、告白し、神をその心にお迎えするチャンスではありましたが、それが出来ませんでした。偽善者である彼らはどうしても心の中心にイエスさまを迎え入れることは出来ないのです。彼らが常に表面を繕って、外づらによって相手に応対することができると考えるのは、その相手を「うわべだけを見る」人間に過ぎないと考え、「心の中を見通す」神さまのことをまったく無視しているからです。彼らの考えの中から神さまを完全に締め出して、自らのその座に居座っているのです。

律法主義とは、このように神さまを締め出すことです。そしてすべての栄光と功績を、自分に帰せることです。私たちは小さなときから、自己責任ということを学んできました。「自分を信じなさい」と言い聞かせられ、私たちが自分で定めた目標に向かって、「自分の将来を決めるのは自分である」と学んできました。すべての行動の責任を自分自身が負ってきました。その結果、善い行いによって自分の過去の失敗や過ちを罪滅ぼしが出来るのではないか、律法という表面的な行いによって義とされるのではないかと錯覚してしまうのです。律法主義とは、私たちが救われる前に持っていた価値観です。罪びとである私たちが救われる道は神さま以外にはありません。ただ恵みによらなければ義とされません。ですから、決して再び律法主義に陥ることなく、日々キリストの贖いを心に刻み、ただ、神の恵みに心から感謝し、神の栄光のために、律法の中心である「正義と慈悲と誠実」という愛を持って隣り人と接していきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

ハングル語によるメッセージはありません。

関連する説教を探す関連する説教を探す