2024年04月28日「聖書と神の力が証しする復活 성경과 하나님의 능력이 증명하는 부활」

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聖書と神の力が証しする復活 성경과 하나님의 능력이 증명하는 부활

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章18節~27節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:18復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章18節~27節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス・キリストは、金曜日に十字架につけられ殺されて、三日目の日曜日の朝、復活なさいました。教会はそのことを喜び、感謝するために、この日曜日に礼拝を捧げてきました。このことから主イエスの復活が、私たち教会の信仰において決定的に重要であることが分かります。本日はその復活をめぐり、サドカイ派の人々との論争であります。イエス様は復活を信じないサドカイ派の人々に対し、どのように復活を論証されたのでしょうか。本日もマルコ12章の御言葉から恵みに与りたいと思います。

【1】. サドカイ派の人々

「サドカイ」という名の由来は、ダビデ時代の祭司ツァドクに由来すると言われています。サドカイ派の人々は、最高議会のサンヘドリンや、神殿においてのみ見かけることができました。つまり、当時の祭司が、全員サドカイ派だった訳ではなく、サドカイ派とは貴族階級であり、一部の政治的なエリート層であったようです。彼らにとって復活の教理は、大変疑わしいものでありました。マルコによる福音書の中でサドカイ派が出て来るのは、実は、今回が最初で最後でありますが、使徒言行録23:8において、サドカイ派とファリサイ派の違いについて、分かりやすく要約されています。23:8ください。

“サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。”

ファリサイ派の人々は、モーセの律法と呼ばれていたモーセ五書(創、出、レビ、民、申)も、預言書も、諸書も、つまり旧約聖書全体を経典として受け入れ、さらには、先祖たちの言い伝えさえも受け入れていたのに対し、サドカイ派の人々は、五書だけを経典として受け入れていました。旧約聖書には、復活について書かれている箇所がいくつかあります。それは、例えばイザヤ書(26:19)や、ダニエル記(12:1-3)、ヨブ記(19:26)、詩編(16:9-11)に復活の記事があります。後で聖句をご確認ください。しかし、いずれも預言書と諸書に分類されるもので、モーセ五書ではありません。従ってモーセ五書しか経典と認めないサドカイ派にとって、復活も天使も霊も信じないという現世主義的な信仰になったと考えられます。サドカイ派は、悪人や不信仰な者に待っている来世の恐ろしい裁きなどこれっぽっちも信じていませんでした。ましてや、信仰者に与えられる素晴らしい来世の報いも信じていません。彼らにとってこの世が全てであったのです。そんな彼らがイエス様のところにやって来て、次のように質問しています。12:19節をご覧ください。

“「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。”

19節のモーセの教えとして、『…』で括られている部分は、申命記25章5~10節からの引用で、所謂「レビラート婚に関する律法」です。本来、レビラート婚の目的は、家系が絶えないようにと定められました。また、当時、女性が収入を得ることが出来ない社会にあって、社会的弱者である女性を守るための法律でもありました。このモーセの掟を逆手にとって、彼らは次のように言うのです。20~23節です。

“ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」”

彼らの質問は、復活を信じることの愚かさを強調するための質問でありました。復活を認めるなら、このような馬鹿馬鹿しいことが起こるのではないかと言っているのです。因みにタルムードという「先祖たちの言い伝え」には、もし復活してこのような場面に遭遇した場合、女は長男と結婚すべきだと説明されていましたが、サドカイ派にはさほど説得力がなかったようです。現世主義的な彼らからすると、「復活なんて信じているからそのような苦しい矛盾が生じるのではないか」と言っているのです。

【2】. 復活の論証1

さて、これに対するイエス様のお答えはとは何だったでしょうか。イエス様は「復活」という出来事を、人間の理性を延長して考えるのではなく、聖書と神の力を知ることが何より重要であるとして、考え方を「聖書と神の力」とに関連付けるように言われました。復活を人間の理性の延長上に置くという意味において、サドカイ派もファリサイ派も実は変わりなかったのです。24~25節をご覧ください。

“イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。”

24節の「思い違い」という言葉に注目してください。この言葉は、27節にも再び「大変な思い違い」というように、修飾語を付けて出てきます。「復活」という死後における希望について考える時、サドカイ派の思い違いは、聖書も神の力も信じていないことに起因しているということです。終わりの日の「復活」について、聖書に具体的な説明はそれほど見られません。恐らくそれは、言葉をいくら多くしても理解することが難しいからだと思います。実際、この数日後に、イエス様はご自身の死と復活を通して、死者からの復活を具体的に示されますが、信じない者にとっては、その実際に起こった「復活という事実」さえも、受け入れられないのです。結局、復活とは人間の理性では受け入れられるものではなく、聖書と神の力とを信じる時に、初めて理解することができるものだと思います。その上で、イエス様がされた説明に耳を傾けてまいりましょう。第一に、イエス様は「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになる」と言われました。「めとることも嫁ぐこともなく…」これは結婚を表しています。結婚とは神が定めた制度でありますが、復活の際、この結婚という大切な制度がなくなるという事です。なぜなくなるのでしょうか。言葉を変えるなら、復活の際、夫、妻という関係はもはやない、そこでは、全ての兄弟姉妹が、神を父とし、主イエスを長子とし、愛の関係で結ばれるからという事ではないでしょうか。天国においては、完全な愛を体験することができるということです。これは、復活における不連続について語っているのでしょう。聖書は復活の際に、連続性と不連続性があることを主張しています。連続性とは肉体の時のアイデンティティを依然として保つという事です。イエス様も復活された時に、その手には十字架の傷跡がありました。復活後も、私は私であり、しっかりと生前のアイデンティティを保っているという事です。この地上での愛する兄弟姉妹との交わりは、復活後にも継続されるのです。それでは不連続性とは何かということですが、それは天において光り輝きながら、神に仕えている御使いたちを通して説明されています。これは、少なくとも、復活の際に、私たちの現在の命がそのまま延長されて、その生命が終わりなく続くという事ではありません。或いは、罪の犯す前のアダムとエバのような、罪のない無垢な状態に戻るということでもありません。週報の聖句の抜粋のプリントの図1をご覧ください。堕落前エデンの園においてアダムとエバは、確かに罪はありませんでしたが、まだ、栄光の状態には至っていませんでした。永遠の命には至っていなかったのです。彼らは、罪を犯すこともでき、犯さないこともできる状態にありました。彼らには、まだ、そこから成長して完成すべき道のりが残されていたのです。栄光に至るための道のりが残されていたのです。「御使いのようになる」という言葉は、不連続性を表していて、それは光り輝いて栄光の状態に至ることだと私は思います。つまり「御使いのようになる」とは、もはや、罪を犯すことが出来ない状態になるということです。それはアダムとエバが達することができなかった完成された状態です。救い主イエス・キリストが、アダムとエバに代わって、神の律法を完全に守られ、行いの契約を履行されたことによって、もたらされた完全な状態です。私たちはその日、イエス・キリストの恵みによって救いが完成されるのです。すなわち、もはや罪を犯すことのできない完全な状態に、栄光の状態にされるのであります。

【3】. 復活の論証2

第二に、イエス様はサドカイ派の人々が権威を置いていたモーセ五書を用いて復活を論証していきます。26~27節をご覧ください。

“死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」”

恐らく、この言葉が復活と何の関係があるのか疑問に思われた方もいらっしゃると思います。大変理解に苦しむ箇所だと思います。ここで言われている、モーセの書の『柴』の個所というのは、出エジプト記の3章のことです。そこにはモーセの召命の記事が書かれていて、モーセがイスラエルをエジプトから解放する指導者として召し出される場面です。シナイ山で羊を導いていると、柴が燃えているのに燃え尽きないという不思議な光景に遭遇しました。その燃える柴の木に近づいてみると、主なる神は、柴の木を通してモーセに語られました。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と言うのです。アブラハムとは誰かと言うと、イスラエル民族の出発点となるご先祖でありました。イサクはアブラハムの息子であり、ヤコブはイサクの息子です。アブラハムとイサクとヤコブは、神の守りと導きの中で人生を歩みました。しかし、それはモーセの時代から約400年も遡る過去の話です。モーセの時代には、彼らは既に死んでいて、この世にはいませんでした。そうすると、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』という神様の自己紹介は、ちょっと、どうなんでしょうか?すでに死んだ者の神であると言っているのでしょうか?主なる神は、この後、モーセとの対話の中でご自身の名前を啓示されます。その名とは「わたしはある」ヘブライ語で「ヤハウェ」という言葉でございます。出エジプト記3:15をご覧ください。

“神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤハウェ)がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。”

「主」という言葉はヘブライ語でヤハウェと書かれています。わたしはあるという意味です。「ヤハウェ(わたしはある)」という言葉は、共にいる誰かを想定した、関係を表す言葉です。例えば、子供がいないのに、「この人はお父さんです」と自己紹介しても意味がありませんね。子供がいて、初めてお父さんになれるのです。「彼は王だ」と言っても、その臣下がいなければ誰も信じない訳です。同じように「わたしはある」という言葉は、一緒にいるアブラハム、イサク、ヤコブがいなければ、意味がないということです。ということは、たとえ、彼らは死によって、この世を去っていきましたが、それで消滅されて神様との関係が断ち切れてしまったということではないということです。主ヤハウェは、死んだ者の神ではなく、まさに生きた者の神であられます。神さまは永遠の契約を通してご自身の民を召されました。その召しは、その人の肉体が死んだ時に、契約を破棄するということではありません。神の契約は永遠であり、神は、信仰者との関係を断ち切ることはできないとおっしゃっているのです。この世において生を全うしたとしても、その魂は天に引き上げられ、今、アブラハム、イサク、ヤコブが私のもとで生きている、わたしはまさに彼らのヤハウェだとおっしゃっているのです。ですから「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」というイエス様のお言葉は、主によって召された者たちは、この世にあっても、死んでこの世から去っても、いつまでも主によって守られながら、主と共に生きるということを意味するのです。そして、終わりの日に、御自身の民に新しい復活の体を与えてくださり、新しい天と新しい地を受け継がせてくださるのです。

【結論】

現世主義的なサドカイ派の人々の「思い違い」は、人間の理性の延長上で復活を考えたことによって起こりました。復活というのは、神の働きの完成であり、神の究極的な目的です。私たちは完全な栄光の状態に至るまで、この地では旅人として生きていきますが、その営みは、完全な栄光を与えられるその日を眺めながら、聖書に信頼し、神の力に信頼する営みであります。その日、救いが完成し、私たち教会はイエス・キリストが獲得してくださった栄光の姿へ変えられるのです。その日、私たちは命の木から実を食べ、永遠に生きる者とされ、罪を犯すことができず、悲しみも涙もない、神の国で、兄弟姉妹として真の愛に生きることが許されるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

성경과 하나님의 능력이 증명하는 부활

2024년 4월28일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 12장 18~27절

서론

예수 그리스도는, 금요일에 십자가에 못 박혀 죽임을 당하시고, 사흘째 일요일 아침에 부활하셨습니다. 교회는 그 일을 기뻐하고 감사하기 위해, 이 일요일에 예배를 드려 왔습니다. 이를 통해 주 예수님의 부활이, 우리 교회 신앙에서 결정적으로 중요함을 알 수 있습니다. 오늘은 그 부활을 둘러싼, 사두개인들과의 논쟁입니다. 예수님은 부활을 믿지 않는 사두개인들에게 어떻게 부활을 논증하셨을까요? 오늘도 계속해서 마가복음 12장의 말씀에서 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 사두개인들

「사두개」라는 이름의 유래는, 다윗 시대의 제사장 사독에서 유래한 것으로 알려져 있습니다. 사두개인들은, 최고 의회인 산헤드린이나 성전에서만 볼 수 있었습니다. 즉 당시의 제사장이 모두 사두개인들이었던 것이 아니라, 사두개인이란 귀족 계급이자, 일부 정치적인 엘리트층이었던 것 같습니다. 그들에게 부활의 교리는, 매우 의심스러운 것이었습니다. 마가복음서에서 사두개인이 나오는 것은, 사실 이번이 처음이자 마지막인데, 사도행전 23장 8절에서 사두개인과 바리새인의 차이점에 대해 알기 쉽게 요약되어 있습니다. 사도행전 23장 8절을 보시기 바랍니다.

이는 사두개인은 부활도 없고 천사도 없고 영도 없다 하고 바리새인은 다 있다 함이라

바리새인들은, 모세의 율법이라 불리던 모세오경(창세기 출애굽기 레위기 민수기 신명기)도 선지서도, 성문서(聖文書)도 즉 구약성경 전체를 경전으로 받아들였고, 심지어 조상들의 전승까지도 받아들였던 반면, 사두개인들은 모세오경만을 경전으로 받아들였습니다. 구약 성경에는, 부활에 대해 쓰여 있는 부분이 몇 가지 있습니다. 그것은, 예를 들면 이사야 (26장 19절)나, 다니엘 (12장 1~3절), 욥기(19장 26절), 시편(16장 9~11절)에 부활의 기사가 있습니다. 나중에 성구를 확인해 보시기 바랍니다. 그러나 모두 선지서와 성문서(聖文書)로 분류되는 것으로, 모세오경은 아닙니다. 따라서 모세오경밖에 경전으로 인정하지 않는 사두개인들은, 「부활도 없고 천사도 없고 영도 없다」하는 현세주의적인 신앙이 되었다고 생각합니다. 사두개인은, 악인이나 불신자에게 기다리고 있는 내세의 무서운 심판 따위는 조금도 믿지 않았습니다. 하물며, 믿는자에게 주어지는 고귀한 내세의 보답도 믿지 않았습니다. 그들에게는 이 세상이 전부였던 것입니다. 그런 그들이 예수님께 찾아와 다음과 같이 질문하고 있습니다. 12장 19절을 보시죠.

선생님이여 모세가 우리에게 써 주기를 어떤 사람의 형이 자식이 없이 아내를 두고 죽으면 그 동생이 그 아내를 취하여 형을 위하여 상속자를 세울지니라 하였나이다

19절의 모세의 가르침으로 「어떤 사람의 형이 자식이 없이 아내를 두고 죽으면 그 동생이 그 아내를 취하여 형을 위하여 상속자를 세울지니라」라고 묶여 있는 부분은, 신명기 25장 5~10절에서 인용한 이른바 「레비라트혼」에 관한 율법입니다. 원래 레비라트혼의 목적은, 가계가 끊어지지 않도록 정해졌습니다. 또 당시 여성이 수입을 얻을 수 없는 사회에 있었고, 사회적 약자인 여성을 지키기 위한 법이기도 했습니다. 이 모세의 규칙을 역이용하여, 그들은 다음과 같이 말하는 것입니다. 20~23절을 보시기 바랍니다.

20 칠 형제가 있었는데 맏이가 아내를 취하였다가 상속자가 없이 죽고

21 둘째도 그 여자를 취하였다가 상속자가 없이 죽고 셋째도 그렇게 하여

22 일곱이 다 상속자가 없었고 최후에 여자도 죽었나이다

23 일곱 사람이 다 그를 아내로 취하였으니 부활 때 곧 그들이 살아날 때에 그 중의 누구의 아내가 되리이까

그들의 질문은, 부활을 믿는 것의 어리석음을 강조하기 위한 질문이었습니다. 부활을 인정한다면, 이런 어처구니없는 일이 일어나지 않을까 하는 것입니다. 덧붙여서 탈무드라는 「조상들의 전승」에는 만약 부활에서 이런 장면을 마주한다면, 여자는 장남과 결혼해야 한다고 설명되어 있었지만, 사두개인들에게는 그다지 설득력이 없었던 것 같습니다. 현세주의적인 그들 입장에서는, “부활 같은 것을 믿기 때문에 그런 곤혹스러운 모순이 생기는 것이 아닌가”고 말하고 있는 것입니다.

(2) 부활의 논증 1

자, 이에 대한 예수님의 대답은 무엇이엇을까요? 예수님께서는 「부활」이라는 사건을 인간의 이성을 연장해서 생각하는 것이 아니라, 성경과 하나님의 능력을 아는 것이 무엇보다 중요하다며, 사고방식을 「성경과 하나님의 능력」과 연관시키라고 하셨습니다. 부활을 인간 이성의 연장에 둔다는 의미에서, 사두개인이나 바리새인이나 사실은 변함이 없었습니다. 24,25절을 보세요.

24 예수께서 이르시되 너희가 성경도 하나님의 능력도 알지 못하므로 오해함이 아니냐

25 사람이 죽은 자 가운데서 살아날 때에는 장가도 아니 가고 시집도 아니 가고 하늘에 있는 천사들과 같으니라

24절의「오해함이 아니냐」라는 말에 주목하세요. 이 말은, 27절에도 다시 「크게 오해하였도다」라는 수식어를 붙여서 나옵니다. 「부활」이라는 사후의 희망에 대해 생각할 때, 사두개인들의 오해는, 성경도 하나님의 능력도 믿지 않는데서 기인한다는 것입니다. 마지막 날의 「부활」에 대한 성경에 구체적인 설명은 그리 보이지 않습니다. 아마도 그것은, 말을 아무리 많이 해도 이해하기가 어렵기 때문이라고 생각합니다. 실제, 이 며칠 후에, 예수님은 자신의 죽음과 부활을 통해, 죽은 자로부터의 부활을 구체적으로 보여주지만, 믿지 않는 자에게는, 그 실제로 일어난 「부활이라는 사실」조차도, 받아들일 수 없는 것입니다. 결국, 부활이란 인간의 이성으로는 받아들일 수 있는 것이 아니라, 성경과 하나님의 능력을 믿을 때, 비로서 이해할 수 있는 것이라고 생각합니다. 그런 다음 예수님이 하신 설명에 귀를 기울여 봅시다. 첫째 예수님은 「죽은 자 가운데서 살아날 때에는 장가도 아니 가고 시집도 아니 가고 하늘에 있는 천사들과 같으니라」라고 말씀하셨습니다. 「장가도 아니 가고 시집도 아니 가고..」 이것은 결혼을 나타냅니다. 결혼이란 하나님이 정한 제도인데, 부활할 때 이 결혼이라는 중요한 제도가 없어지는 것입니다. 왜 없어지는 걸까요? 말을 바꾼다면 부활할 때 남편, 아내라는 관계는 더 이상 없고 거기에는 모든 형제자매가 하나님을 아버지로 하고 주 예수를 장자로 하는, 사랑의 관계로 맺어지기 때문이 아닐까요? 천국에서는 완전한 사랑을 체험할 수 있다는 것입니다. 이것은 부활에 있어서의 불연속성에 대해 이야기하고 있는 것이겠지요. 성경은 부활 시, 연속성과 불연속성이 있음을 주장하고 있습니다. 연속성이란 육체의 정체성을 여전히 유지하는 것입니다. 예수님도 부활하셨을 때, 그 손에는 십자가 흉터가 있었습니다. 부활 후에도 저는 저이며, 확실히 생전의 정체성을 유지하고 있다는 것입니다. 이 지상에서의 사랑하는 형제 자매와의 관계는 부활 후에도 계속되는 것입니다. 그렇다면 불연속성이란 무엇인가 하는 것인데, 그것은 하늘에서 빛나는 존재로, 하나님을 섬기고 있는 천사를 통해 설명되고 있습니다. 이는, 적어도, 부활 시, 우리의 현재 생명이 그대로 연장되어, 그 생명이 끝이 없이 지속된다는 것은 아닙니다. 또는, 죄를 짓기 전의 아담과 하와와 같은, 무고한 상태로 돌아가는 것도 아닙니다. 주보의 성구 발췌 프린트의 그림 1을 봐 주시기 바랍니다. 타락 전 에덴 동산에서 아담과 하와는, 분명 죄는 없었지만, 아직 영광의 상태에는 이르지 못했습니다. 영원한 생명에는 이르지 못했습니다. 그들은, 죄를 지을 수 있고, 저지르지 않을 수도 있는 상태에 있었습니다. 그들에게는 아직도, 그곳에서 성장해 완성해야 할 길이 남아 있었습니다. 영광에 이르기 위한 여정이 남아 있었습니다. 「천사들과 같으니라」라고 하는 단어는 불연속성을 나타내고 있고, 그것은 빛나는 영광의 상태에 이르는 것이라고 저는 생각합니다. 즉 「천사들과 같으니라」는 것은, 더이상 죄를 저지르지 못하는 상태가 된다는 것입니다. 그것은 아담과 하와가 도달하지 못한 완성된 상태입니다. 구원자 예수 그리스도가 아담과 하와를 대신해, 하나님의 율법을 온전히 지키시고, 행함의 언약을 이행하시면서 빛어진 온전한 상태입니다. 우리는 그날, 예수 그리스도의 은혜로 구원이 완성되는 것입니다. 즉, 더 이상 죄를 지을 수 없는 완전한 상태로 영광의 상태가 되는 것입니다.

(3) 부활의 논증 2

둘째, 예수님은 사두개인 사람들이 권위를 두고 있던 모세오경을 이용해 부활을 논증해 나가십니다. 26,27절을 보시기 바랍니다.

26 죽은 자가 살아난다는 것을 말할진대 너희가 모세의 책 중 가시나무 떨기에 관한 글에 하나님께서 모세에게 이르시되 나는 아브라함의 하나님이요 이삭의 하나님이요 야곱의 하나님이로라 하신 말씀을 읽어보지 못하였느냐

27 하나님은 죽은 자의 하나님이 아니요 산 자의 하나님이시라 너희가 크게 오해하였도다 하시니라

아마, 이 말이 부활과 무슨 관계가 있는지 궁금하신 분들도 계실 겁니다. 매우 이해하기 어려운 부분이라고 생각합니다. 여기서 말하는, 모세의 책 중 「가시나무 떨기」라고 하는 것은 출애굽기의 3장을 말합니다. 거기에는 모세의 소명 기사가 적혀 있는데, 모세를 이스라엘을 애굽에서 해방시키는 지도자로 세우시는 장면입니다. 시내 산에서 양을 이끌고 있을 때, 가시나무 떨기가 타고 있는데 타지 않는 이상한 광경에 조우했습니다. 그 불타는 가시나무 떨기에 가까이 가보니, 주 하나님은, 가시나무 떨기를 통해 모세게 말씀하셨습니다. 「나는 아브라함의 하나님요 이삭의 하나님이요 야곱의 하나님이로다」라고 말씀하시는 것입니다. 아브라함이 누구냐 하면, 이스라엘 민족의 출발점이 되는 조상이었습니다. 이삭은 아브라함의 아들이고, 야곱은 이삭의 아들입니다. 아브라함과 이삭과 야곱은, 하나님의 지키심과 인도하심 속에 삶을 살았습니다. 그러나, 그것은 모세의 시대에서 약 사백년이나 거슬러 올라가는 과거의 이야기입니다. 모세의 시대에는, 그들은 이미 죽었고, 이 세상에는 없었습니다. 그러면, 「나는 아브라함의 하나님요 이삭의 하나님이요 야곱의 하나님이로라」라는 하나님의 자기 소개는, 좀 어떨까요? 이미 죽은 자의 하나님이라고 말하는 것일까요? 주 하나님은, 이 후, 모세와의 대화 속에서 자신의 이름을 계시하십니다. 그 이름은 「나는 있다」라는, 히브리어로 「야훼(여호와는 헬라어 및 라틴어를 거쳐 정착된 영어 Jehovah의 음역이다)」라는 말입니다. 출애굽기 3장 15절을 봐 주시기 바랍니다.

하나님이 또 모세에게 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 너희 조상의 하나님 여호와 곧 아브라함의 하나님, 이삭의 하나님, 야곱의 하나님께서 나를 너희에 보내셨다 하라 이는 나의 영원한 이름이요 대대로 기억할 나의 칭호니라

「여호와」라는 말은 히브리어로 「야훼」라고 쓰여져 있습니다. 「나는 있다」라는 뜻입니다. 「야훼(나는 있다)」라는 말은, 함께 있는 누군가를 상정한 관계를 나타내는 말입니다. 예를들어, 아이가 없는데 “저는 아빠입니다”라고 자기소개를 해도 의미가 없죠. 아이가 있어야 비로소 아빠가 되는 거죠. “그는 왕이다”라고 해도 그 신하가 없으면 아무도 믿지 않는 것입니다. 마찬가지로 「나는 있다」는 말은, 함께 있는 아브라함, 이삭, 야곱이 없으면 의미가 없다는 것입니다. 그렇다는 것은, 비록, 그들은 죽음으로 인해, 세상을 떠났지만, 그것으로 소멸되어 하나님의 관계가 끊어지고 말았다는 것은 아니라는 것입니다. 주 여호와는, 죽은 자의 하나님이 아니라, 바로 산 자의 하나님이십니다. 하나님은 영원한 언약을 통해 자신의 백성을 부르셨습니다. 그 부르심은, 그 사람의 육체가 죽었을 때, 언약을 파기한다는 것이 아닙니다. 하나님의 언약은 영원하며, 하나님은, 믿는자와의 관계를 끊을 수 없다고 말씀하시는 것입니다. 이 세상에서 생을 다했다고 해도, 그 영혼은 하늘로 끌어올려져, 지금, 아브라함, 이삭, 야곱이 내 곁에서 살고 있다. 나는 바로 그들의 여호와라고 말씀하시는 것입니다. 그래서 「하나님은 죽은 자의 하나님이 아니라 산 자의 하나님이시라」라는 예수님의 말씀은 주님께서 부르신 자들은 이 세상에 있든, 죽고 세상을 떠나든 언제까지나 주님으로부터 지켜지며 주님과 함께 산다는 것을 의미하는 것입니다. 그리고, 마지막 날에, 자신의 백성들에게 새로운 부활의 몸을 주시고, 새로운 하늘과 새 땅을 물려 주시는 것입니다.

결론

현세주의적인 사두개인들의 「오해」는 인간 이성의 연장상에서 부활을 생각한 데서 일어났습니다. 부활이라는 것은, 하나님의 능력의 완성이며, 하나님의 궁극적인 목적입니다. 우리는 완전한 영광의 상태에 이를 때까지, 이 땅에서 나그네로 살지만, 그 영위는, 완전한 영광이 주어지는 그날을 바라보면서 성경을 믿고, 하나님의 능력을 신뢰하는 인생입니다. 그날, 구원이 완성되면서, 우리 교회는 예수 그리스도께서 획득해 주신 영광의 모습으로 바뀌어지는 것입니다. 그날, 우리는 생명의 나무에서 열매를 먹고, 영원히 사는 자로 여겨져, 죄를 짓지 못하고, 슬픔도 눈물도 없는, 하나님의 나라에서, 형제자매로 진정한 사랑에 사는 것이 허락되는 것입니다.

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