2024年04月21日「神のものは神に 하나님의 것은 하나님께」

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神のものは神に 하나님의 것은 하나님께

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章13節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:13さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章13節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「敵の敵は味方である」ということわざがあります。本日の箇所は、本来、両者の考えが決して相容れないはずのファリサイ派の人々と、ヘロデ派の人々が、イエス様に殺意を抱いているという点で一致し、結託して、イエス様の前にやってきて、問答するという場面です。表面的には教えを頂きたいとしていますが、その本意はイエス様の言葉尻をとらえ、訴える口実を得るためでありました。本日もマルコによる福音書から、御言葉の恵みに与りたいと思います。

【1】. ファリサイ派とヘロデ派の偽善

12:13~14節をご覧ください。

“さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」”

冒頭に人々が「ファリサイ派やヘロデ派の人を遣わした」とあります。この人々とは、誰かと言うと、権威について問答をし、ぶどう園の悪い農夫に例えられた神殿当局者である「祭司長、律法学者、長老たち」であります。彼らは一旦、その場から立ち去りますが、その日のうちに、ファリサイ派やヘロデ派の人々を数人遣わしました。イエス様が語られた神の福音と悔い改めの勧めは、彼らには、まったく届いていませんでした。彼らはイエス様から罪を指摘され、イエス様に言い返すことができなかったその悔しさの収まりがつかず、「あのイエスを何としてでもやり込めて、イエスの権威を失墜させてやろう」という思いにでも駆られていたのでしょうか。

ファリサイ派とヘロデ派の人々は、ローマに税金に納めるべきか、納めてはならないか、質問しています。税金とは、ローマ帝国の支配下に置かれている地域の人々に課せられている「人頭税」のことです。人頭税は、ローマのデナリオン銀貨で納められました。1デナリオンは、一日の労働の賃金に相当しました。因みに、人頭税とは、ユダヤの神殿税とは異なります。神殿税はユダヤの貨幣であるシェケル銀貨で支払われました。神殿の中にいた両替商も、ローマのデナリオンを、シェケル銀貨に両替するサービスでした。本日は人頭税のお話しです。

ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々の考え方は正反対であり、両者は仲が悪いことで有名です。ヘロデ派の人々とは、当時のガリラヤ・ペレア地方の領主ヘロデ・アンティパスの部下たちのことで、ヘロデ・アンティパスはローマ皇帝によって領主に抜擢してもらったために、ヘロデ派の人々はユダヤ人でありながら、ローマ帝国の協力者として立ち振る舞ったのであります。人頭税をユダヤの民から徴収することにも積極的に協力しました。彼らは、自ら置かれている現実を直視し、ローマ帝国の支配を受け入れ、その中でうまく立ち振る舞おうとしました。一方、ファリサイ派とは、律法を守ることに熱心な人々であり、先祖たちの言い伝えについても大変よく通じていました。ですからユダヤの民は、彼らを尊敬し、指導者として支持していました。ユダヤの民の大部分とファリサイ派の人々は、ローマに人頭税を支払うことに、強い抵抗感を感じていたのです。ユダヤ人にとって人頭税とは、大変デリケートな問題でありました。旧約聖書の教えによれば、イスラエルの土地とは、神が先祖アブラハムに与えてくださったことにより、先祖代々からここは自分たちの土地でありました。また、律法には、この土地を手放してはならないと命じられています。ですから、ユダヤの人々にとっては、神から与えられた土地に住んでいるのに、なぜ、他国の王によって税金を課せられるか。それは不当なことだと考えられていました。

このようにヘロデ派とファリサイ派の人々の考え方は、真逆であるにも拘わらず、今回、イエス様を罠に陥れるために両者が歩調を合わせていました。イエス様がもし、ローマに税金を納めることを認めれば、ヘロデ派に賛成したことになり、群衆からの信頼を失うことでしょう。イエス様の人気は地に落ちるばかりではなく、下手をすると激しい怒りを買ってしまうことも考えられました。反対に、もし、ローマの納税を拒否すれば、ローマ帝国に反逆する者であり、政治的な転覆をはかる者として逮捕されることでしょう。どのように答えても、イエス様を破滅に至らせる質問だったのです。イエス様は彼らの質問に次のように答えられました。15~16a節をご覧ください。

“イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。”

15節で「下心を見抜いて」と訳されている言葉は、「偽善」とも訳すことが出来ます。偽善とは、表面だけを繕うということです。彼らは真実にイエス様に教えを頂こうとしているのではなく、その動機には悪意がありました。ですから、14節の「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」という言葉は、真実な心から出た言葉ではなく、イエス様を罠に陥れるためのへつらいの言葉だったのです。イスラエルの先祖たちが預言者たちを殺し、神に敵対してきたように、ファリサイ派やヘロデ派の人々も、偽善者として神に敵対し、神様を愛しているのではなく、実は自分自身のことを、こよなく愛していたということが透けて見えて来るのです。彼らは神様を第一としているのではなく、自分自身を第一としているのです。

【2】. 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に

イエス様は「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」と言い、彼らがそれを持ってくると、そのデナリオン銀貨を手にして言いました。「これは、だれの肖像と銘か?」

「肖像」と訳されている言葉、韓国語では형상と訳されている言葉には、「エイコン(像、かたち)」というギリシア語が使われています。最近では、「エイコン」、或いは「イコン」と言えば、正教会で見られる聖画のことを思い浮かべるのではないでしょうか。或いはパソコンの画面のアイコンを思い浮かべる人もいるでしょう。もともとの意味は「像、かたち」という意味です。デナリオン銀貨には、皇帝ティベリウスのエイコン(像)が刻まれていましたが、ユダヤ人であれば、誰であれ、この時、十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」という戒めを思い起こしたことでしょう。週報の抜粋のプリントにデナリオン銀貨の写真が印刷されています。ご覧ください。このデナリオン銀貨には文字も記銘されています。コインの表面には、「皇帝ティベリウス、神聖なるアウグストゥスの息子」TI CAESAR DIVI AVG F AVGVTVS (“Tiberius Caesar Augustus, son of divine Augustus”)と、ラテン語で書かれています。ティベリウスとは二代目のローマ皇帝のことです。初代皇帝のアウグストゥスは神の子とされていました。カレンダーの8月を意味するオーガストの語源もアウグストゥスから来ています。その神の子であるアウグストゥスの息子が、ティベリウスであるというのです。コインの裏面には、「最高の大祭司」PONTIF MAXIMとラテン語で書かれていました。ユダヤ人がこの文章を見れば、すぐに神聖冒涜であることに気づくことでしょう。そして、そのことを承知の上で、人頭税を捧げるというのは、単純にローマの支配を認めるだけではなく、明らかに偶像礼拝の罪を犯すことでありました。ユダヤ人は人頭税を捧げる度に、偶像礼拝の試みにあい、葛藤を感じていたのです。イエス様はまさにそこに焦点を当てているのです。この罪の問題を、ファリサイ派の人々は、神様に抜きにして自分たちの力で解決しようとし、ヘロデ派の人々は罪に対して目を閉じて、長いものに巻かれようと考えていたにすぎません。しかし、イエス様はまさにその問題に具体的に介入されるのです。イエス様がおっしゃったことは、17節の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」いう言葉でありました。つまり皇帝に服従することを認めているということになります。自分が神であると称するティベリウスのコインを持っていても、それは偶像礼拝には当たらない、むしろ、皇帝に仕えなさいと勧めているのです。実際、旧約聖書には、神の民イスラエルが異邦人の王の支配の中であっても、神の栄光を現している記述がいくらでも出てきます。例えば、バビロン捕囚としてバビロンに連行されたダニエルです。ダニエルはバビロンのネブカドネツァル王、ベルシャツァル王、ダレイオス王に仕え、神の栄光を現してきました。エステル記に出て来るエステルとその養父であるモルデカイも同じです。彼らはペルシャの王のクセルクセス王に仕えながら、神の栄光を現しました。同じように、イエス様はローマ皇帝に仕えなさいと言われるのです。この言葉を聞いて、ユダヤの民は失望したかもしれません。しかし、その直後にイエス様は「神のものは神に返しなさい」と言われるのです。「神のものは神に」これは一体どういう意味でしょうか。つまり、神のかたち「エイコン」が刻まれているもの、それは神のものであるということではないでしょうか。創世記1:26~27の御言葉をご覧ください。聖書協会共同訳で印刷しました。

“神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。”

創世記には、神がご自身のかたちに人間を創造されたと書かれています。「かたち」という言葉は、マルコ福音書で「肖像」と訳された同じ言葉のエイコンです。人間には神のかたちが刻まれているという事です。私たちは心も、体も、命そのものも、神のものである。神が私たちを創造し、神によって生かされていると信じる者は、自分自身を神にお返ししなさいと、そう言っているのです。言い換えるなら、神様を第一としなさいと、そう言っているのです。ファリサイ派とヘロデ派の人々は、イエス様のお答えに大変驚かされました。一体何について驚いたのでしょうか。それについては聖書には書かれていませんが、おそらくモーセの律法に明るいユダヤ人にとって、イエス様のお言葉は、悔い改めの勧めであり、救いの招きのように聞こえたのではないでしょうか。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

この言葉は、明らかにローマ皇帝の権威に勝る方がいることを宣言しています。そして、そのお方が、「人は誰であれ、罪びとである、悔い改めなさい、神の国は到来したのだから」と招いてくださっているのです。「たとえ、あなた方はローマの支配に服したとしても、神のかたちが刻まれている、神の所有とされている、そのことを信じなさい。」「わたしは、あなた方を罪から贖い、神の所有とするために、そのために、身代金として自分の命をささげるのだ」とおっしゃってくださっているのです。だから、神様を第一としなさい、神のものは神に返しなさいと言われるのです。

私たち日本キリスト改革派教会の創立宣言に、「有神的人生観 乃至、世界観」という言葉が出てまいります。この言葉もやはり、神を第一としなさいということを語っています。私たちは、イエス・キリストの贖いの御業によって神の子とされました。神のかたちが回復されました。ですから、私たちは、私たちの人生を神様にお捧げするのです。恵みの応答として、神を第一とし、神の御前にぬかずき、神様に献身するよう促されているのです。キリスト者である私たちは、何をするにしても、神の栄光を現すよう求められているのです。

【適用】

「神のものは神に返しなさい」この言葉を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。ここには、私たちが受けた恵みの応答が勧められているのですが、私がキリスト者になって間もない頃、恵みの応答として、三つのことを教えられました。それは、自分に与えられている「時間」と「賜物」と「お金」を捧げるということです。最初の「時間」ですが、私たちは神様から時間を与えられています。この時間をすべて自分自身のために使うのではなく、神様のために、取り分けられた時間を持つべきであります。主日には礼拝を捧げること、或いは奉仕したり、兄弟姉妹と交わりを持つために、時間を捧げることです。これが神様を第一とするキリスト者としての営みでございます。第二に、「賜物」です。賜物はそれぞれ一人ひとり異なりますが、それぞれ美しく神様がお用いになられます。教会を建て上げるために、自分自身の賜物を積極的に捧げるようにいたしましょう。また、神様にさらに用いられることを望んでおられる方々は、「この土の器が神様に用いられますように」と熱心にお祈りしてください。最後に「お金」です。収入のことです。私たちは神の恵みによって収入が与えられています。どのような形であれ、その収入の十分の一を、恵みの応答として、そして神様への献身のしるしとして、献げるべきであります。私たちは十分の一の維持献金を捧げていますが、この十分の一とは家賃を差し引いた後の収入のことなのか、家賃を差し引く前の収入のことなのか、人それぞれが自分で決めた基準が異なるかと思いますが、それぞれの収入に応じて一定の割合を取り分けること、そのことが重要なのだと思います。神様を第一とする営みとは、どのような営みなのか、それぞれにおいて黙想していただければと思います。私たちの日々の営みが「神のものは神に返す」営みとして、豊かに祝福されるよう、祈り願う者であります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 것은 하나님께

2024년 4월21일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 12장 13~17절

서론

“나의 적의 적은 나의 아군이다”라는 말이 있습니다. 오늘의 본문은, 본래 양쪽의 생각이 결코 양립할 수 없는 바리새인과 헤롯당 사람들이 예수님께 살의를 품고 있다는 점에 일치하고, 결탁하여 예수님 앞에 와서, 문답하는 장면입니다. 표면적으로는 가르침을 받고자 하는 것 같지만 그 본의는 예수님의 말씀을 책잡고, 고발할 구실을 얻기 위해서였습니다. 오늘도 마가복음 말씀에서 은혜를 받고자 합니다.

(1) 바리새인과 헤롯당의 외식

12장 13,14절을 보시겠습니다.

13 그들이 예수의 말씀을 책잡으려 하여 바리새인과 헤롯당 중에서 사람을 보내매

14 와서 이르되 선생님이여 우리가 아노니 당신은 참되시고 아무도 꺼리는 일이 없으시니 이는 사람을 외모로 보지 않고 오직 진리로써 하나님의 도를 가르치심이니이다 가이사에게 세금을 바치는 것이 옳으니이까 옳지 아니하니이까

첫머리에 그들이, 「바리새인과 헤롯당 중에서 사람을 보내매」라고 되어 있습니다. 그들이 누구냐 하면, 권위에 대해 문답을 하고. 포도원의 악한 농부에 비유된 성전당국자인 「제사장, 서기관, 장로들」입니다. 그들은 일단 그 자리에서 떠나지만, 그날 중으로 바리새인과 헤롯당 사람들을 몇 명 보냈습니다. 예수님이 말씀하신 하나님의 복음과 회개의 권유는 그들에게 전혀 닿지 않았습니다. 그들은 예수님으로부터 죄를 지적받고, 예수님께 대꾸하지 못한 그 분함을 삭이지 못하고, ‘어떻게 해서라도 저 예수의 권위를 실추시켜 버리고 말겠다’라는 생각에라도 사로잡혔을까요.

바리새인과 헤롯당 사람들은, 로마에 세금을 내야 하는지, 내지 말아야 하는지 질문하고 있습니다. 세금이란, 로마 제국의 지배하에 잇는 지역 사람들에게 부과되고 있는 「인두세」를 말합니다. 인두세는 로마의 데나리온 은화로 납부되었습니다. 한 데나리온은, 하루 노동의 임금에 해당했습니다. 참고로, 인두세란, 유대의 성전세와는 다릅니다. 성전세는 유대 화폐인 세겔 은화로 지불되었습니다. 성전 안에 있던 환전상도, 로마의 데나리온을 세겔 은화로 환전하는 서비스였습니다. 오늘은 인두세 이야기입니다.

바리새인과 헤롯당 사람들의 사고방식은 정반대이며, 양자는 사이가 나쁘기로 유명합니다. 헤롯당 사람들이란 당시 갈릴리 베레아 지역의 영주 헤롯 안티파스의 부하들을 말하며, 헤롯 안티파스는 로마 황제에 의해 영주로 발탁되었기 때문에, 헤롯당 사람들은 유대인이면서 로마 제국의 협력자로서 행동한 것입니다. 인두세를 유대 백성들로부터 징수하는 데도 적극적으로 협력했습니다. 그들은, 스스로 처한 현실을 직시하고, 로마 제국의 지배를 받아들이고 그 안에서 잘 처신하려 했습니다. 한편 바리새인들이란, 율법을 지키는데 열심인 사람들이었고, 조상들의 전승에 대해서도 매우 잘 알고 있었습니다. 그래서 유대 백성들은, 그들을 존경하고 지도자로서 지지했습니다. 대부분의 유대인과 바리새인들은 로마에 인두세를 지불하는 것에 강한 저항감을 느끼고 있었습니다. 유대인에게 있어, 인두세란 매우 민감한 문제였습니다. 구약성경의 가르침에 따르면, 이스라엘 땅이란, 하나님께서 조상 아브라함에게 주신 것으로, 조상 대대로부터 이곳은 자신들의 땅이었습니다. 또한 율법에는, 이 땅을 포기해서는 안 된다고 명령되어 있습니다. 그렇기 때문에, 유대인들에게 있어서는, 하나님이 주신 땅에 살고 있는데, 왜 다른 나라의 왕에 의해 세금을 부과받는 것인가? 그것은 부당한 일이라고 생각되었습니다.

이처럼 헤롯당과 바리새인들의 사고방식은 정반대임에도 불구하고, 이번에, 예수님을 책 잡아서 함정에 빠뜨리기 위해 양자가 발을 맞추고 있었습니다. 예수님이 만약 로마에 세금을 내는 것을 인정하면, 헤롯당에 찬성한 것이되어, 군중의 신뢰를 잃게 될 것입니다. 예수님의 인기는 땅에 떨어질 뿐만 아니라, 자칫하면 심한 분노를 사게 될 수도 있었습니다. 반대로, 만약 로마의 납세를 거부한다면, 로마 제국에 반역하는 자이자, 정치적인 전복을 꾀하는 자로 체포될 것입니다. 어떻게 대답해도, 예수님을 파멸에 이르게 하는 질문이었던 것입니다. 예수님은 그들의 질문에 다음과 같이 대답하셨습니다. 15,16a절을 참조하시기 바랍니다.

15 우리가 바치리이까 말리이까 한대 예수께서 그 외식함을 아시고 이르시되 어찌하여 나를 시험하느냐 데나리온 하나를 가져다가 내게 보이라 하시니

16 가져왔거늘 예수께서 이르시되 이 형상과 이 글이 누구의 것이냐…

15 절에서 「그 외식함을 아시고」 라고 번역되어 있는 말은 「위선」이라고도 번약할 수 있습니다. 위선이란 표면만 다듬는 것을 말합니다. 그들은 진실로 예수님께 가르침을 받으려는 것이 아니라, 그 동기에는 악의가 있었습니다. 그렇기때문에, 14절에서 「선생님이여 우리가 아노니 당신은 참되시고 아무도 꺼리는 일이 없으시니 이는 사람을 외모로 보지 않고 오직 진리로써 하나님의 도를 가르치심이니이다」라는 말은 진실한 마음에서 나온 말이 아니라, 예수님을 함정에 빠뜨리기 위한 아첨하는 말이었습니다. 이스라엘 조상들이 선지자들을 죽이고, 하나님께 적대해 왔듯이, 바리새인이나 헤롯당 사람들도, 외식함으로 하나님께 적대하고, 하나님을 사랑하는 것이 아니라, 사실은 자기 자신을, 더없이 사랑했다는 것이 비쳐 보이는 것입니다. 그들은 하나님을 먼저 생각하는 것이 아니라, 자기 자신을 먼저 생각하는 것입니다.

(2) 가이사의 것은 가이사에게 하나님의 것은 하나님께

예수님은 「데나리온 하나를 가져다가 내게 보이라」하셨고 그들이 그것을 가져오자 그 데나리온을 들고 「이 형상과 이 글이 누구의 것이냐」라고 말씀하셨습니다.

「초상(일본어 성경)」이라고 번역된 말은 한국어성경에는 「형상」이라고 번역되어 있는데, 「에이콘(영어의 아이콘)」이라는 그리스어가 쓰이고 있습니다. 요줌에는, 「에이콘」 혹은 「이콘(정교회와 동방 가톨릭 교회, 오리엔트 정교회 등의 동방 교회에서 주로 그리는 종교적인 상징물)」이라하면 정교회에서 볼 수 있는 성화를 떠올리지 않을까요? 혹은 컴퓨터 화면의 아이콘을 떠올리는 사람도 있을 것입니다. 원래의 뜻은 「상(像), 모양」이라는 뜻입니다. 데나리온 은화에는, 황제 티베리우스의 에이콘(상)이 새겨져 있었는데, 유대인이라면, 누구든 이때 십계명의 제 2계명 「새긴 우상을 만들지 말라」라는 계명을 떠올렸을 것입니다. 주보의 발췌 프린트에 데나리온 은화의 사진이 인쇄되어 있습니다. 보시죠. 이 데나리온 은화에는 문자도 기재되어 있습니다. 동전의 겉면에는, 「황제 티베리우스, 신성한 아우구스투스(존엄한 자)의 아들 TICAESAR DIVI AVGF AVGVTVS("Tiberius Caesar Augustus, son of divine Augustus")」라고 라틴어로 쓰여져 있습니다. 티베리우스는 2대째 로마 황제입니다. 초대 황제 아우구스투스는 신의 아들로 쓰여져 있습니다. 달력의 8월을 뜻하는 오거스트의 어원도 아우구스투스에서 왔습니다. 그 신의 아들인 아우구스투스의 아들이, 티베리우스라는 것입니다. 동전 뒷면에는 「최고의 대제사장 PONTIF MAXIM」이라고 라틴어로 적혀 있습니다. 유대인들이 이 글을 보면, 곧 신성모독임을 깨닫게 될 것입니다. 그리고, 그것을 알면서도, 인두세를 바친다는 것은, 단순히 로마의 지배를 인정하는 것만이 아니라, 분명히 우상 예배의 죄를 짓는 것이었습니다. 유대인들은 인두세를 바칠 때마다, 우상예배의 시험에 직면해, 갈등을 느끼고 있었던 것입니다. 예수님은 바로 거기에 초점을 맞추고 있는 것입니다. 이 죄의 문제를 바리새인들은, 하나님을 빼놓고 자신들의 힘으로 해결하려 했고, 헤롯당 사람들은 죄에 대해 눈을 감고 “좋은 게 좋은 거다”라고 생각한 것에 지나지 않습니다. 그러나 예수님은 바로 그 문제에 구체적으로 개입하시는 것입니다. 예수님이 말씀하신 것은, 17절의 「가이사의 것은 가이사에게, 하나님의 것은 하나님께 바치라」는 말씀이었습니다. 즉 황제에게 복종하는 것을 인정하고 있는 셈입니다. 자신이 신이라고 칭하는 티베리우스의 동전을 가지고 있어도, 우상숭배에 해당하지 않으며, 오히려 황제를 섬기라고 권하고 있는 것입니다. 사실 구약성경에는, 하나님의 백성 이스라엘이 이방인 왕의 지배 아래에서도 하나님의 영광을 드러내고 있는 기술이 얼마든지 나옵니다. 예를 들면 바벨론 유수로 인해 바벨론에 끌려간 다니엘입니다. 다니엘은 바벨론의 느부갓네살 왕, 벨사살 왕, 다리오 왕을 섬기며 하나님의 영광을 드러냈습니다. 에스더기에 나오는 에스더와 그의 양아버지인 모르드개도 마찬가지입니다. 그들은 페르시아 왕인 아하수에로 왕을 섬기면서 하나님의 영광을 나타냈습니다. 마찬가지로, 예수님은 로마 황제인 가이사를 섬기라고 합니다. 이 말을 듣고 유대 백성들은 실망했을지도 모릅니다. 그러나 그 직후에 예수님은, 「하나님의 것은 하나님께 바치라」라고 말씀하십니다. 「하나님의 것은 하나님께」이게 대체 무슨 뜻일까요? 즉 하나님의 형상 「에이콘」이 새겨져 있는 것, 그것은 하나님의 것이라는 것이 아닐까요? 창세기 1장 26,27절 말씀을 보세요.

26 하나님이 이르시되 우리의 형상을 따라 우리의 모양대로 우리가 사람을 만들고 그들로 바다의 물고기와 하늘의 새와 가축과 온 땅과 땅에 기는 모든 것을 다스리게 하자 하시고

27 하나님이 자기 형상 곧 하나님의 형상대로 사람을 창조하시되 남자와 여자를 창조하시고

창세기에는, 하나님이 자신의 형상을 따라 인간을 창조하셨다고 쓰여 있습니다. 「형상」이라는 말은 마가복음서의 「형상」이라고 번역된 같은 말의 에이콘입니다. 인간에게는 하나님의 「형상」이 새겨져 있다는 것입니다. “우리는 마음도, 몸도, 생명 그 자체도, 하나님의 것이다. 하나님이 우리를 창조하시고, 하나님에 의해 살아가고 있다고 믿는 사람은, 자신을 하나님께 바치라”라고 그렇게 말하고 있습니다. 다시 말하면, “하나님을 우선으로 하라”고 그렇게 말하고 있는 것입니다. 바리새인과 헤롯당 사람들은, 예수님의 대답에 매우 놀랐습니다. 도대체 무엇 때문에 놀랐을까요? 그것에 대해서는 성경에 나와 있지 않지만, 아마도 모세의 율법에 밝은 유대인들에게, 예수님의 말씀은, 회개의 권유이자, 구원의 초청처럼 들린 것이 아닐까요?

…가이사의 것은 가이사에게, 하나님의 것은 하나님께 바치라

이 말은, 분명히 로마 황제의 권위보다 뛰어난 분이 있음을 선언하고 있습니다. 그리고 그분이 「사람은 누구든 죄인이다, 회개하라, 하나님의 나라는 도래했으니」라고 부르시는 것입니다. 「비록, 너희들은 로마의 지배를 받는다 하더라도, 하나님의 형상이 새겨져 있는, 하나님의 소유로 되어 있는, 그것을 믿으라」 「나는 너희들을 죄에서 속죄하고 하나님의 소유로 만들기 위해, 그것을 위해, 몸값으로 내 생명을 바치는 것이다」라고 말씀하시는 것입니다. 그래서 「하나님을 제일 우선으로 하라, 하나님의 것은 하나님께 바치라」라고 말씀하시는 것입니다.

우리 일본 기독교개혁파 교회의 창립 선언에, 「유신적 인생관 내지, 세계관」이라는 말이 나옵니다. 이 말 역시, 하나님을 제일 우선으로로 삼으라는 것을 말하고 있습니다. 우리는, 예수 그리스도의 속죄로 하나님의 자녀가 되었습니다. 「하나님의 형상」이 회복되었습니다. 그렇기 때문에, 우리는, 우리의 인생을 하나님께 바치는 것입니다. 은혜의 응답으로, 하나님을 제일 우선으로 삼고 하나님 앞에 엎드리며, 하나님께 헌신할 것을 촉구받고 있습니다. 그리스도인인 우리는, 무엇을 하든 하나님의 영광을 나타내도록 요구받고 있습니다.

적용

「하나님의 것은 하나님께 바치라」는 이 말을, 우리는 어떻게 받아들여야 할까요? 여기에는, 우리가 받은 은혜의 응답이 권고받고 있는데, 제가 그리스도인이 된 지 얼마 되지 않았을 때, 은혜의 응답으로, 세 가지를 배웠습니다. 그것은 자신에게 주어진 「시간」과 「은사」와 「돈」을 바치는 것이었습니다. 첫 번째 「시간」에 대해서 말하자면, 우리는 하나님으로부터 시간을 부여받고 있습니다. 이 시간을 모두 자기 자신을 위해 쓰는 것이 아니라, 하나님을 위해 따로 떼어놓는 시간을 반드시 가져야만 합니다. 주일에는 예배를 드리는 것, 혹은 봉사하거나, 형제자매와 교제하기 위해, 시간을 바치는 것입니다. 이것이 하나님께 우선순위를 드리는 그리스도인으로서의 삶의 모습입니다. 둘째, 「은사」입니다. 은사는 각각 한 분 한 분 다르지만, 각각 아름답게 하나님이 쓰십니다. 교회를 세우기 위해, 자기 자신의 은사를 적극적으로 바치도록 합시다. 또, 하나님께 더 쓰임받기를 원하시는 분들은, “이 토기그릇을 하나님께서 사용하여 주십시오”라고 열심히 기도하시기 바랍니다. 마지막으로 「돈」입니다. 수입을 말합니다. 우리는 하나님의 은총에 의해 수입이 주어져 있습니다. 어떤 형태로든, 그 수입의 십분의 일인 십일조를, 은혜의 응답으로, 그리고 하나님에 대한 헌신의 표시로 바쳐야 합니다. 우리는 십분의 일 유지헌금을 하고 있는데, 이 십분의 일이란 월세를 뺀 후의 수입을 말하는 것인지, 월세를 빼기 전의 수입을 말하는 것인지 사람마다 스스로 정한 기준이 다를 것이라고 생각합니다만, 각각의 수입에 따라 일정한 비율을 나누는 것, 그것이 중요하다고 생각합니다. 하나님을 제일로 하는 인생이란 어떤 삶인지, 각각에 대해 묵상해 주셨으면 합니다. 우리의 하루하루의 삶의 걸음이 「하나님의 것은 하나님께 바치는 삶」으로서 풍성한 복 가운데 살아가시길 기도드립니다.

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