2024年04月14日「ぶどう園の農夫のたとえ 포도원 농부의 비유」

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ぶどう園の農夫のたとえ 포도원 농부의 비유

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 12章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:1イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
12:10聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12:12彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 12章1節~12節

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【序】

冒頭に「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。」とあります。彼らとは、誰かと言いますと、エルサレム神殿の境内でイエス様に「何の権威で、このようなことをしているのか」と、権威について論争していた、祭司長、律法学者、長老たちのことです。ですから、本日の箇所は先週の説教の続きであり、受難週の火曜日に、権威についての論争の中で、本日の譬え話しが語られたということです。イエス様はこれまでにも、譬えによって神の啓示を明らかにしてまいりました(2:21~22)。ぶどう園をめぐる譬え話しが、今日、御言葉と共に歩んでいる私たち教会と、どのような関係があるのかを念頭に置きながら、本日もマルコ福音書12章の御言葉から、共に恵みに与りたいと思います。

【1】. 神の愛と神の忍耐

ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出ました。「垣を巡らせた」というのは、イスラエルには石が多かったため、不揃いの石を積み上げて石垣を巡らしたと考えられます。「搾り場を掘る」というのは、農夫たちが摘んだぶどうの実を足で踏むための、「搾り桶」、「酒ぶね」を作ったということでしょう。「見張り台のやぐら」とは、見張りをする機能もありましたが、刈り入れ時期には農夫たちの宿泊小屋にもなったようです。ぶどう園の主人である「ある人」が、このぶどう園に注がれた愛情は並大抵のものではありませんでした。このぶどう園を農夫たちに貸し与えたのです。主人と農夫たちの関係は、言ってみれば、地主と小作農という関係に当たります。

ぶどう園の話を聞きますと、イスラエルの人ならすぐに思い起こす聖書の箇所がありました。それは旧約聖書のイザヤ書の5章1~7です。小見出しに「ぶどう畑の歌」と書かれています。イザヤ5:1~7を調べてみましょう。

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(מִשְׁפָּטミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハמִשְׂפָּ֔ח)。正義(צְדָקָהツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカצְעָקָֽה)。

今読んだイザヤ書では、ぶどう畑の主人とは、主なる神様のことを指しており、ぶどう畑、つまり、ぶどう園とは、イスラエルであり、ユダの民であると書かれています。神様は、ぶどう園のイスラエルから、良い実である裁きを待ち望みました。「裁き」と言うと少し分かりづらいですが、「公正さ」とも訳される言葉です。しかしイスラエルから生じたのは流血でありました。また、神様は、ぶどう園のイスラエルから、「正義」を待ち望みましたが、イスラエルから生じたのは、叫喚でありました。ここには、ヘブライ語でダジャレが用いられています。つまり、ミシュパートを待ち望んだのに、ミスパハ。ツェダカを待ち望んだのに、ツェアカということです。このようにぶどう園から実ったのは良いぶどうではなく、酸っぱいぶどうでありました。イスラエルの民は神様から多くの恵みをいただいているのに、その神の恵みに正しく応答していなかったということです。ところで、イエス様の譬えを見ますと、このイザヤ書には出てこない「農夫たち」を登場させていたます。この、農夫たちとは一体誰なのでしょうか。そしてもう一点注意したいことは、イエス様の譬えでは、イザヤ書とは異なり、ぶどう園それ自体に対しては、何も言及していないという事です。問題はぶどう園なのではなく、ぶどう園を貸し与えられ、管理を任されている農夫たちにスポットが当てられているということです。

ぶどう園の収穫の時になり、収穫を受け取ろうと、主人は一人目の僕をぶどう園に遣わしました。ところが、悪い農夫たちは、この僕を捕まえて、袋叩きにし、何も持たせないで手ぶらで帰らせました。主人は、二人目の僕を遣わしました。ところが、悪い農夫たちは、彼の頭を殴り、侮辱しました。主人はさらに多くの僕を遣わしましたが、彼らはさらにひどい待遇を受けることになります。ある者は殴られ、ある者は殺されました。農夫の悪事はだんだんエスカレートしていきました。なぜ、主人はもっと早くに来て、この悪い農夫たちをぶどう園から追い出さなかったのか、不思議に思われるかもしれません。実は、ここには神様の怒るのに遅い、神の忍耐が示されているのです。最後に、主人は自分の息子を遣わしました。12:6~8節をご覧ください。

まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

「まだ一人、愛する息子がいた」という言葉に注目してください。これまで、マルコによる福音書は、イエス様が父なる神の愛する子であることが証しされてきました。たとえば、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことです。(1:11にありますように、)天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がありました。或いは、ペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて変貌の山に上った時です。イエス様のお姿が突然、白く輝く栄光のお姿に変わり、モーセとエリヤが現れました。その時「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が聞こえてきました。(9:7です。)イエス様は父なる神の愛する子であることが証しされています。そして、興味深いことは、ヘブライ語で「愛する子」とは、独り子という意味も含まれているということです。神様は、ご自身の独り子をさえ、ぶどう園に送られたということです。私の息子なら敬ってくれるに違いないという期待からでありました。しかし、その期待は見事に裏切られてしまいます。農夫たちは最後に遣わされた息子を見て、次のように言っています。「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」どうしたら、このような発想になるのか、理解に苦しむところですが、結局、農夫たちは息子を殺し、ぶどう園の外に放り出してしまいました。これはとても恐ろしいことであります。農夫たちは主人の独り息子であることをはっきりと認めながら、殺してしまったという事です。というよりも、主人の息子だと認めたからこそ、殺害したということでしょう。主人の思いやりを裏切り、その愛しい息子を殺して外に放り出すというのは、いかに、主人や主人の跡取りをあなどり、ないがしろにしているのかが読み取れるのです。

【2】. 自分たちの非を認めようとしない当局者たち

さて、ぶどう園の主人は、この悪い農夫たちをどうするでしょうか。9節を見ると、イエス様は「主人は戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と語っています。恐らく、この言葉に、祭司長、律法学者、長老たちも同意したことでしょう。普通に、「なんて悪い奴らだ!」と思っていたに違いありません。ところが次のイエス様の一言によって、状況は一変いたします。その悪い奴らだと思っていた農夫たちが、自分たちであることに気づかされたからです。10~11節をご覧ください。

聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」

なぜこの言葉によって、状況が一変してしまったのか、説明してまいります。この言葉は、詩編118:22~23からの引用で、ハレルヤ詩編(113~118編)と呼ばれている箇所です。ハレルヤ詩編とは、巡礼者が過ぎ越しの祭りの際によく歌われた詩編で、そこには救い主の到来を待ち望む願いが込められていました。受難週の最初の日曜日に、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城した時にも、人々はやはり、ハレルヤ詩編を叫んでイエス様を迎え入れました。マルコ11:9-10です。そのままお聞きください。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

この箇所は、詩編118編の25~26節の引用です。そして、イエス様の譬えの、「家を建てる者」のくだりは、118編の22~23節の引用です。先ほども申しましたが、ハレルヤ詩編は、過ぎ越しの祭りの時期によく歌われていましたから、このくだりを知らない人はいなかったことでしょう。本来、この詩は、敵が勝利を得たと思われるような状況から、イスラエルが救い出されることを述べた、逆転劇の詩です。この詩編118編によって、なぜ状況が一変してしまったというのでしょうか。

まず、「家を建てる者」という言葉が出てきますが、家とは神殿を意味しています。ですから、「家を建てる者」とは、神殿に仕えている神殿当局者たちについて語られています。次に「石」という言葉は、ヘブライ語で「エベン」という言葉です。これはダジャレで、「息子」を意味する「ベン」という言葉にかけています。つまり、神殿当局者たちが捨てた石(エベン)が、悪い農夫たちがぶどう園の外に捨てた息子(ベン)に重ねられているのです。言い換えれば、悪い農夫たちがぶどう園の外に捨てた神の独り子が、新しい神殿の「隅の親石」になる、つまり新しい神殿の最も重要な石になるという事です。神殿当局者たちは、自分たちにあてつけて、悪い農夫の譬えを話していることにようやく気づかされたのです。完全に自分たちの殺意を見透かされていたのです。

こうして、イエス様から、はっきりと、あなた方が、神殿を強盗の巣にしている悪い農夫であると、指摘された訳ですが、彼らは自分たちの罪を認め、イエス様の指摘を受け入れて、悔い改めることができたでしょうか。12節に書かれているように、彼らは、悔い改めることはなく、以前から持っていた殺意をさらに強めただけでした。彼らには、神と預言者の声に忠実であろうとする謙虚さはありませんでした。自分たちの持っている権威や自分たちの言動が、一方的に正しいと思い込んでいるようです。この後、木曜日の夜に、彼らは裏切り者のイスカリオテのユダの案内によって、イエス様を拘束し、譬えの中の息子を殺す筋書き通りに、金曜日の午前中に、御子イエス・キリストを神殿の外にあるゴルゴダの死刑場にて死刑にしてしまいました。大変恐ろしく悲しい結末を迎えることになりますが、神は詩編の預言通り、神の御子の死が、新しい神殿の基礎となり、新しい神殿、即ち教会を建て上げてくださって、ぶどう園が神に実を結ぶことができるようにしてくださったのであります。

【適用】

本日の箇所から私たちは何を適用できるでしょうか。第一に、神の国がユダヤ人の共同体から、新約の教会に移行したという事です。譬えの中の9節を見ると、ぶどう園が「神殿当局者たちから取り上げられ、他の人たちに与えられる」と書かれています。この他の人たちというのが、異邦人も含めた、人種を問わない教会を指しています。新約の時代に生かされている私たちにとって、神のぶどう園とは、私たち教会であります。教会の中にはもちろんユダヤ人も含まれています。しかし、人種を問わず、身分や、性別を問わず、悔い改めてイエス様を受け入れる者は、誰でもイエス・キリストを隅の親石とする新しい神殿に、ぶどう園に入れられるのです。そのことを信じ、私たちは、日々悔い改めを通して、豊かに実を結ぶぶどう園として、歩ませていただきましょう。

第二に、怒るのに遅い神様でありますが、悔い改めない者たちには必ず神の裁きがやってくるという事です。イエス・キリストをメシアとして受け入れなかった神殿当局者たちは、最終的にAD.70年のユダヤ戦争において、神殿がローマ軍によって滅ぼされ、神殿当局者たちの大部分は神殿に籠城したため餓死したり、殺されたり、捕虜にされたりしました。エルサレム神殿の崩壊は、審判の一つの予表ではありますが、最終的で、完全な審判ではありません。最後の審判において、イエス様を受け入れず、頑なで、悔い改めない者たちは、永遠に燃え続けるゲヘナの火の中に投げ入れられるのです。ですから、私たちは、イエス・キリストの福音を一人でも多くの人々に宣べ伝え、一人でも多くの魂が、信仰によって神の国に入れられるよう、福音を宣べ伝えていく者とならせていただきましょう。

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포도원 농부의 비유

2024년 4월14일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 12장 1~12절

서론

첫머리에 「예수께서 비유로 그들에게 말씀하시되」라는 말씀으로 시작합니다. 그들이 누구냐 하면, 예루살렘 성전 경내에서 예수님께 「무슨 권위로 이런 일을 하고 있느냐」며 권위에 대해 논쟁하던 제사장, 서기관, 장로들을 말합니다. 그래서 오늘의 본문은, 지난 주 설교의 계속이며, 수난주의 화요일에, 권위에 대한 논쟁 속에서, 오늘의 비유 이야기가 이야기되었다는 것입니다. 예수님은 지금까지, 비유로 하나님의 계시를 밝혀 오셨습니다(2장 21,22절). 포도원을 둘러싼 비유로 하신 말씀이, 오늘날 말씀과 함께 걸어가는 우리 교회와 어떤 관계가 있는지 염두에 두면서, 오늘도 마가복음 12장의 말씀에서 함께 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 하나님의 사랑과 하나님의 인내

한 사람이 포도원을 만들어, 산울타리로 두르고, 즙짜는 틀을 만들고, 망대를 지어서 농부들에게 세로 주고 타국에 갔습니다. 「산울타리를 둘렀다」는 것은, 이스라엘에는 돌이 많았기 때문에, 고르지 못한 돌을 쌓아 울타리를 둘렀다고 생각됩니다. 「즙짜는 틀을 만들고」라는 것은, 농부들이 딴 포도알을 발로 밟기 위한 「짜는 통」, 「술저장통」을 만들었다는 것이지요. 「망대」란 망루를 보는 기능도 있었지만 추수 시기에는 농부들의 숙박장소로도 사용 된 것 같습니다. 포도원의 주인인 「한 사람」이 이 포도원에 쏟은 애정은 이만저만이 아니었습니다. 이런 포도원을 농부들에게 빌려준 것입니다. 주인과 농부들의 관계는 말하자면, 지주와 소작농의 관계에 해당합니다.

포도원 이야기를 들으면, 이스라엘 사람이라면 바로 생각나는 성경구절이 있습니다. 그것은 구약성경 이사야서의 5장 1~7절입니다. 소제목에 「포도원의 노래」라고 적혀 있습니다. 이사야 5장 1~7절을 펼쳐 봅시다.

1 나는 내가 사랑하는 자를 위하여 노래하되 내가 사랑하는 자의 포도원을 노래하리라 내가 사랑하는 자에게 포도원이 있음이여 심히 기름진 산에로다

2 땅을 파서 돌을 제하고 극상품 포도나무를 심었도다 그 중에 망대를 세웠고 또 그 안에 술틀을 팠도다 좋은 포도 맺기를 바랐더니 들포도를 맺었도다

3 예루살렘 주민과 유다 사람들아 구하노니 이제 나와 내 포도원 사이에서 사리를 판단하라

4 내가 내 포도원을 위하여 행한 것 외에 무엇을 더할 것이 있으랴 내가 좋은 포도 맺기를 기다렸거늘 들포도를 맺음은 어찌 됨인고

5 이제 내가 내 포도원에 어떻게 행할지를 너희에게 이르리라 내가 그 울타리를 걷어 먹힘을 당하게 하며 그 담을 헐어 짓밟히게 할 것이요

6 내가 그것을 황폐하게 하리니 다시는 가지를 자름이나 북을 돋우지 못하여 찔레와 가시가 날 것이며 내가 또 구름에게 명하여 그 위에 비를 내리지 못하게 하리라 하셨으니

7 무릇 만군의 여호와의 포도원은 이스라엘 족속이요 그가 기뻐하시는 나무는 유다 사람이라 그들에게 정의를 바라셨더니 도리어 포학이요 그들에게 공의를 바라셨더니 도리어 부르짖음이었도다

방금 읽은 이사야서에는, 포도원의 주인은, 주 하나님을 가리키고 포도원은 이스라엘이요, 유대 백성이라고 적혀 있습니다. 하나님은 포도원 이스라엘로부터, 좋은 열매인 「정의」를 고대하셨습니다. 「정의」라고 하면 조금 이해하기가 어렵지만, 공정함이라고 번역되는 단어입니다. 그러나 이스라엘에서 발생한 것은 「포학」이었습니다. 또 하나님은 포도원 이스라엘에서 「공의」를 바라셨지만 이스라엘에 발생한 것은 「부르짖음」이었습니다. 여기에는 히브리어로 익살스러운 말장난이 사용되고 있습니다. 그러니까 미쉬파트מִשְׁפָּט (정의)를 바랬는데 미쉬파하מִשְׂפָּ֔ח (포학)였습니다. 체다카צְדָקָה (공의)를 바랬는데 체아카צְעָקָֽה (부르짖음)라는 거예요. 이렇게 포도원에서 맺힌 것은 좋은 포도가 아니라 들포도였습니다. 이스라엘 백성들은 하나님으로부터 많은 은혜를 입었는데도 그 하나님의 은혜에 올바르게 응답하지 않았다는 것입니다. 그런데 예수님의 비유를 보면 이 이사야서에는 나오지 않는 「농부들」을 등장시키고 있습니다. 이 농부들은 도대체 누구일까요? 그리고 또 한가지 주의할 점은, 예수님의 비유에서는, 이사야서와 달리, 포도원 그 자체에 대해서는 아무것도 언급하시지 않았다는 점입니다. 문제는 포도원이 아니라, 포도원을 빌려주고 관리를 맡고 있는 농부들에게 스포트라이트를 비추고 있다는 것입니다.

포도원 수확 때가 되어, 주인은 농부들에게 포도원 소출 얼마를 받으려고 한 종을 보냈습니다. 그런데 악한 농부들은, 이 종을 잡아 심히 때리고 거저 보냈습니다. 주인은, 다시 다른 종을 보냈습니다. 그런데 악한 농부들은, 그의 머리에 상처를 내고 능욕하였습니다. 주인은 또 다른 종을 보냈지만 그들은 더욱 심한 대우를 받게 되었습니다. 어떤 종은 맞고 어떤 종은 살해되었습니다. 농부의 악행은 점점 악화되어 갔습니다. 왜 주인은 더 일찍 와서, 이 악한 농부들을 포도원에서 내쫓지 않았는지 이상하게 생각될지도 모릅니다. 여기에는 하나님의 화를 내시기에 더디신, 하나님의 인자하심이 나타나 있는 것입니다. 마지막으로 주인은 자신의 아들을 보냅니다. 12장 6~8절을 보시기 바랍니다.

6 이제 한 사람이 남았으니 곧 그가 사랑하는 아들이라 최후로 이를 보내며 이르되 내 아들은 존대하리라 하였더니

7 그 농부들이 서로 말하되 이는 상속자니 자 죽이자 그러면 그 유산이 우리 것이 되리라 하고

8 이에 잡아 죽여 포도원 밖에 내던졌느니라

「이제 한 사람이 남았으니 곧 그가 사랑하는 아들이라」라는 말에 주목하시기 바랍니다. 그동안 마가복음은, 예수님이 아버지 하나님의 사랑하는 아들이심이 증명되어 왔습니다. 예를 들어, 요단 강에서 세례 요한으로부터 세례를 받았을 때의 일입니다. 1장 11절에 있듯이 「하늘로부터 소리가 나기를 너는 내 사랑하는 아들이라 내가 너를 기뻐하노라」라는 음성이 있었습니다. 혹은, 베드로와 야곱과 요한 세 사람만 데리고 변화산에 오르셨을 때입니다. 예수님의 모습이 갑자기, 광채가 나며 세상에서 빨래하는 자가 그렇게 희게 할 수 없을 만큼 매우 희어지며 빛나는 영광의 모습으로 바뀌고 모세와 엘리야가 나타났습니다. 그때 「이는 내 사랑하는 아들이니 너희는 그의 말을 들으라」라는 음성이 구름 속에서 들렸습니다(9장 7절). 예수님은 아버지 하나님의 사랑하는 아들이심이 증명되었습니다. 그리고, 흥미로운 것은, 히브리어로 「사랑하는 아들」이란 「독생자」라는 의미도 포함되어 있다는 것입니다. 하나님은, 자신의 독생자조차도 포도원으로 보내셨다는 것입니다. 내 아들이라면 존대해 줄 것이 틀림없다는 기대에서였습니다. 그러나 그 기대는 훌륭하게 배신당하고 맙니다. 농부들은 마지막으로 보내진 아들을 보고, 「이는 상속자니 자 죽이자 그러면 그 유산이 우리 것이 되리라」라고 말하고 있습니다. 어떻게 하면 이런 발상을 할 수 있을지 이해하기 힘들지만 결국 농부들은 아들을 죽여 포도원 밖으로 내던지고 말았습니다. 이것은 매우 무서운 일입니다. 농부들은 주인의 상속자임을 분명히 인정하면서도, 죽였습니다. 그것보다는 주인의 상속자라고 인정했기 때문에, 살해했다는 것이겠지요. 주인의 배려를 배반하고 그 사랑하는 아들을 죽여 포도원 밖으로 내던진다는 것이, 얼마나, 주인이나 주인의 상속자를 경시하고, 업신여기고 있는지를 읽을 수 있는 것입니다.

(2) 자신들의 잘못을 인정하지 않으려는 당국자들

자, 포도원의 주인은, 이 악한 농부들을 어떻게 할까요? 9절을 보면 예수님은 「포도원 주인이 어떻게 하겠느냐 와서 그 농부들을 진멸하고 포도원을 다른 사람에게 주리라」라고 말씀하고 계십니다. 아마도 이 말에 제사장, 서기관, 장로들도 동의했을 것입니다. 상식적으로 “정말 악한 놈들이다!”라고 생각하고 있었던 것이 틀림없습니다. 그런데 다음 예수님의 말씀 한마디에 따라, 상황은 뒤바뀌게 됩니다. 그 악한 놈들이라고 생각했던 농부들이, 자신들임을 알게 되었기 때문입니다. 10,11절을 보시기 바랍니다.

10 너희가 성경에 건축자들이 버린 돌이 모퉁이의 머릿돌이 되었나니

11 이것은 주로 말미암아 된 것이요 우리 눈에 놀랍도다 함을 읽어 보지도 못하였느냐 하시니라

왜 이 말로 인해 상황이 일변해 버렸는지, 설명해 드리겠습니다. 이 말은 시편 118편에 22,23절에서 인용한 것으로 할렐루야 시편 (113~118편)이라고 일컬어지는 부분입니다. 할렐루야 시편이란, 순례자들이 유월절에 자주 부르던 시편으로, 거기에는 구원자의 도래를 고대하는 소망이 담겨 있었습니다. 수난주 첫 일요일에, 예수님이 새끼 나귀를 타고 예루살렘을 입성했을 때에도, 사람들은 역시, 할렐루야 시편을 외치며 예수님을 모셨습니다. 마가복음 11장 9,10입니다. 그냥 들어보시기 바랍니다.

9 앞에서 가고 뒤에서 따르는 자들이 소리 지르되 호산나 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 이여

10 찬송하리로다 오는 우리 조상 다윗의 나라여 가장 높은 곳에서 호산나 하더라

이 부분은, 시편 118편의 25,26절의 인용입니다. 그리고, 예수님의 비유에서, 「건축자」의 구절은 118편의 22,23절 인용입니다. 아까도 말씀드렸지만 할렐루야 시편은 유월절에 자주 불렀기 때문에 이 구절을 모르는 사람은 없었을 것입니다. 원래 이 시는 적이 승리를 얻었다고 생각되는 상황에서, 이스라엘이 구원받을 것을 말한, 역전극의 시입니다. 이 시편 118편으로 인해, 왜 상황이 완전히 바뀌었다고 할까요?

먼저 「건축자」라는 말이 나오는데「건축」이란 성전을 뜻합니다. 그래서 「건축자」라는 것은, 성전을 섬기고 있는 성전당국자들에 대해 이야기하고 있습니다. 그 다음에 「돌」이라는 말은 히브리어로 「에벤」이라는 말입니다. 이것은 익살스러운 말장난으로 「아들」을 뜻하는 「벤」라는 말에 겹쳐져 있습니다. 즉 성전 당국자들이 버린 돌(에벤)이, 악한 농부들이 포도원 밖에 버린 아들(벤)에게 덧씌워져 있는 것입니다. 다시 말해 악한 농부들이 포도원 밖에 버린 하나님의 독생자가, 새로운 성전의 「모퉁이의 머릿돌」이 되는, 즉 새로운 성전의 가장 중요한 돌이 된다는 것입니다. 성전 당국자들은, 자신들에게 빗대어 악한 농부의 비유를 말하고 있다고 것을 이제야 알아차렸습니다. 완전히 자신들의 살의를 간파당해 버린 것이었습니다.

이렇게 예수님은, 분명하게, 당신들이 성전을 강도의 소굴로 삼고 있는 악한 농부라고 지적하셨는데, 그들은 자신들의 죄를 인정하고, 예수님의 지적을 받아들여 회개 할 수 있었을까요? 12절에 적혀 있듯이, 그들은 회개하지 않았고, 이전부터 가지고 있던 살의를 더욱 강하게 했을 뿐이었습니다. 그들에게는, 하나님과 선지자의 목소리에 충실하려는 겸손함은 없었습니다. 자신들이 가지고 있는 권위나 자신들의 언행이 일방적으로 옳다고 믿고 있는 것 같습니다. 이후, 목요일 밤에, 그들은 배신자 이스카리욧 유다의 안내에 따라, 예수님을 구속하고, 비유 속의 아들을 죽이는 줄거리대로, 금요일 오전에, 하나님의 아들 예수 그리스도를 성전 밖에 있는 골고다의 사형장에서 사형시켜버리고 말았습니다. 매우 두렵고 슬픈 결말을 맞이하게 되는데, 하나님은 시편의 예언대로, 하나님의 아들의 죽음이, 새로운 성전의 모퉁이의 머릿돌이 되고 새로운 성전, 즉 교회를 세워주셔서 포도원이 하나님을 향해 결실을 맺을 수 있게 해주신 것입니다.

적용

오늘 본문에서 우리는 무엇을 적용할 수 있을까요? 첫째, 하나님 나라가 유대인 공동체에서, 신약교회로 이행했다는 것입니다. 비유 속의 9절을 보면 포도원이, 「그 농부들을(성전당국자들)을 진멸하고 포도원을 다른 사람들에게 주리라」라고 적혀 있습니다. 이 「다른 사람들」이라는 것은, 이방인도 포함한, 인종을 불문한 교회를 가리키고 있습니다. 신약의 시대에 살고 있는 우리들에게 있어 하나님의 포도원이란, 우리 교회입니다. 교회 안에는 물론 유대인도 포함되어 있습니다. 그러나 인종을 불문하고, 신분과 성별을 불문하고, 회개하며 예수님을 받아들이는 사람은, 누구나 예수 그리스도를 모퉁이의 머릿돌로 하는 새로운 성전, 포도원에 들어갈 수 있습니다. 그것을 믿고, 우리는, 날마다 회개를 통해, 풍부하게 열매를 맺는 포도원으로서 걸어가도록 합시다.

둘째, 화를 더디 내시는 하나님이지만, 회개하지 않는 자들에게는 반드시 하나님의 심판이 온다는 것입니다. 예수 그리스도를 메시아로 받아들이지 않았던 성전당국자들은, 결국 AD. 70년 유대전쟁에서, 성전이 로마군에 의해 멸망당하고, 성전당국자들 대부분은 성전에 농성하는 바람에 굶어 죽거나, 포로로 잡혀갔습니다. 예루살렘 성전의 붕괴는, 심판의 한 예표이긴 하지만, 최종적이고, 완전한 심판은 아닙니다. 최후의 심판에서, 예수님을 받아들이지 않고, 완고함으로 회개하지 않는 자들은, 영원히 타오르는 게헨나의 불 속에 던져지는 것입니다. 그러므로, 우리는 예수 그리스도의 복음을 한 사람이라도 더 많은 사람들에게 전파하고, 한 사람이라도 더 많은 영혼이, 믿음으로 하나님의 나라에 들어갈 수 있도록, 복음을 전파해 나가는 자가 됩시다.

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