2024年04月07日「権威についての問答 권위에 관한 문답」

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権威についての問答 권위에 관한 문답

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 11章27節~33節

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:27一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
11:28言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
1:29イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
11:30ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
11:31彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
11:32しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
11:33そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 11章27節~33節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

祭司長、律法学者、長老たちはイエス様に殺意を抱いていました。彼らは自分たちが最高権威を持っていると自負していましたが、イエス様の前に立つとき、彼らが権威として信じていたものが、物の見事にはぎとられ、実は何も持っていないことが暴露されてしまいました。天からの権威はこの世のいかなる権威にも勝ります。本日は、祭司長、律法学者、長老たちが持っている権威よりも、はるかに強い天からの権威について黙想しながら、マルコ福音書11章の御言葉から、共に恵みに与りたいと思います。

【1】. 何の権威で、このようなことを

受難週の月曜日に、神殿の境内に入られたイエス様は、異邦人の庭において、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返され、供え物用の家畜を売り買いしていた人々を追い出されました。所謂、「宮きよめ」の騒動です。その翌日、火曜日朝早くに、イエス様一行は、あの枯れたいちじくの木を通り過ぎて再びエルサレムに入って行かれました。27節に「イエスが神殿の境内を歩いておられると」とあります。何気ない文章ですが、まず、この「神殿の境内を歩いて」いるということが、祭司長、律法学者、長老たちにとって、我慢ならなかったのかもしれません。「祭司長(特に高い位の祭司長)、律法学者、長老たち」とは、当時のユダヤの最高議会、サンヘドリンの構成メンバーでありました。宗教当局者たちの最高権威を意味します。最高議会のその彼らが、「何の権威で、このようなことをしているのか」と血相を変えて詰め寄ってきたのです。実は、本日の箇所の27節から33節の箇所で「このようなこと」という言葉が四回も出てきます。28節で2回、29節で1回、33節で一回です。「このようなこと」とは、一体何を指しているのでしょうか。それは、イエス様のこれまでなされてきたお働きの全てを指しているとも考えられますが、直接的には「宮きよめ」の騒動のことを指していると思います。宮きよめの騒動は、祭司長、律法学者、長老たちの目から見れば、神殿で好き放題されて、神聖な場所に土足で踏み込まれたというふうに映ったのでありましょう。「おい、お前、よくもそんな、のうのうと歩いていられるな。昨日あれだけのことをしておきながら、どの面さげてやって来たのか!」そう言いながら、主イエスを取り囲んでいる状況であります。

余談ですが、ユダヤ人たちの間では、聖書と先祖たちの伝承を正しく教育するために、ラビ、即ち先生が立てられていました。このラビとして任職されるためには、最低三人の任職済みのラビの前で、恩師の手により按手されなければなりませんでした。そのことが最高議会によって規定されていたのです。イエス様に詰め寄った彼らは、「お前には何の権威もない、誰もお前にこんなことをする権威を与えてはいない、全ては自ら勝手にしていることではないか」ということを明らかにしようとしているのです。ナザレのイエスという男は、祭司でもなければ、律法学者でもない、ただの大工の息子に過ぎないのだと、群衆に訴えようとしているのです。

【2】. イエス様の論破

イエス様の権威は、天からの権威でありました。しかし、そのことを直接口に出すことは出来ません。なぜなら、その言葉尻をとらえ、彼らはイエス様を冒涜罪で訴えようとしているからです。十戒には「神の名をみだりに唱えてはならない」と書かれていますね。神の名を勝手に使うことは、ユダヤ人の中で冒とく罪として見做されました。イエス様は彼らに反対質問を投げかけます。このような仕方は、問題をはぐらかせているということではなく、当時の律法学者たちの議論でしばしば行われていた仕方でありました。30節をご覧ください。

“ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか答えなさい。”

洗礼者ヨハネとは、ラクダの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べながら荒れ野で、人々に悔い改めを説き、悔い改めの洗礼をヨルダン川で授けていた人物でした。その姿は預言者エリヤを彷彿させました(列王記下1:8)。洗礼者ヨハネは、何か病の癒しとか、特別な奇跡を行ったわけではありません。「主の道を備えるために来た」ということ以外に、他にいかなる主張もしませんでした。しかし、そのムーブメントがヨルダン川において大きなうねりとなっていったのです。ヨハネのことを「来るべきメシア」だと考える人もいたくらいです。彼の出現は、まさにマラキ書の成就だったのです。マラキ3:23-24をご覧ください。

“見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。”

神はメシアの先駆者として、洗礼者ヨハネをこの世にお遣わしになりました。マラキ書には、主ヤハウェが来る前に、父の心を子に、子の心を父に向けさせる「悔い改め」が、起こされると預言されていますが、この預言通りに、当時、多くの人々がヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのであります。

宗教上の権威を司る最高議会が、イエス様の反対質問に答えるのは、ある意味、当然の義務でありました。「ヨハネの洗礼の権威は、一体どこから出たのか」預言者マラキ以降、400年間、イスラエルには預言者が現れていません。しかしその沈黙を破るかのようにして、洗礼者ヨハネが現れたのです。もしかしたら、神がこの時代に遣わしてくださった預言者なのかもしれないのです。祭司長と長老たちはイエス様の、この質問に対し、しばし互いに論じ合った後、結局「分からない」と答えたのであります。その理由について31~32節に書かれています。ご覧ください。

“彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。”

宗教当局者たちとしてはヨハネの洗礼を、「天からのものだ(すなわち、ユダヤ人は神を天という言葉で表現していましたので、神からのものだ)」として認めるわけにはいきませんでした。通常ユダヤの人々は生まれてすぐに割礼を受けてきましたが、洗礼を受けるというのは、それまで聞いたことがありません。洗礼は、ユダヤの最高議会が規定したものではなく、洗礼者ヨハネが始めたものであります。宗教当局者たちは、ヨハネの洗礼を受け入れなかったのですから、ヨハネの洗礼が神からではなく、人からのものだと考えていたことは明らかです。ヨハネを信じず、ただ静観するだけで、ヨハネから洗礼を受けようともしなかったのでしょう。

そうであるなら、ヨハネの洗礼に対し、はっきり「それは人からのものだ」と言ったら、どうでしょうか。もしそう言ってしまえば、群衆の反感を買うのは避けられませんでした。群衆はヨハネを、神から遣わされた預言者であると考えていたので、群衆を敵に回し、群衆が暴動を起こすことを恐れたのであります。このようにして宗教当局者たちは、当初、群衆の心を、主イエスから引き離そうとしてやって来たのに、逆に、イエス様の反対質問によって、自分たちが群衆の支持を失う危機に陥ってしまったのです。彼らは「分からない」と答えましたが、それに対しイエス様も「何の権威によってこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とおっしゃり、彼らの質問は拒みました。宗教当局者たちは、最初、息巻いて、ものすごい勢いでイエス様を取り囲んだのですが、完全にイエス様によって論破されて、すごすごとその場から退出せざるを得ませんでした。最高議会サンヘドリンのメンツは丸つぶれとなったのです。

【3】. ヨハネの洗礼は天からのものか

イエス様の反対質問と、その後のイエス様の沈黙は、たくさんの弁明よりも、さらに雄弁に、ご自身の権威が天から来ていることを示しておられます。マルコ福音書を続けて読んできた私たちは知っていますが、イエス様はこれまで、数多くの働きによって、また、数多くの教えによって、究極的な天からの権威を主張されてきました。例えば、1:27の御言葉です。そのままお聞きください。

“人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」”

或いは、2:10-11の御言葉です。

“人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」“

「何の権威で、このようなことをしているのか」という質問から始まった権威についての問答は、今日、生かされている私たちにも同じように問われているのだと思います。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか答えなさい。」私たちは、この質問の前に、何と答えるべきでしょうか。その前に、私たちは洗礼者ヨハネがヨルダン川で何を語っていたのか、耳を傾けたいと思います。自分たちこそアブラハムの子孫であり、神の選民であると思っていたユダヤ人に対して、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな、言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」、と厳しい警告をしました。そしてメシアを受け入れるため、悔い改めて、洗礼を受けるようにと勧めたのです。また、ヨハネははっきりと「私より優れたお方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り、イエス・キリストを証ししました。ヨハネの言葉に耳を傾けるなら、イエスさまのもとに来るようになるのです。ヨハネを拒絶するなら、イエスさまを拒絶するようになるのです。ヨハネの洗礼は神からのものであります。イエス様ご自身も、ヨハネの洗礼に神からの権威を認め、洗礼をお受けになりました。イエス様は罪を犯したことがないので、洗礼を受ける必要がありませんでしたが、罪びとになり代わって、罪びととして洗礼を受けられたということです。従って、ヨハネの洗礼とは、神が制定された礼典であるということです。イエス様の洗礼も、ヨハネの洗礼も、礼典という意味で、そこに何の違いもありません。その証拠として、ヨハネの弟子たちであった、ペトロやアンデレは、イエス様の弟子になった時点で、再洗礼を求められることはありませんでした。

イエス様はご自身の権威とヨハネの洗礼権威とを密接に関連付け(ヨハネに権威を分け与えたのではなく、主がヨハネと共におられた)、ヨハネの洗礼の権威が天からだったのか、人からだったのか、そのように質問されたのです。このような論証の仕方は、一般的なユダヤ的な考え方がその背景にございました。ユダヤ人において、委任された使いの者、或いは代理人は、遣わした人の権威を十分に行使することができると考えられていたのです。もし、ヨハネの洗礼の権威が自分勝手に行っているものであるなら、つまり人からのものであるなら、宗教当局者たちは断固として、そのような行いを取り締まるべきであります。ところが、反対に、もし、遣わされた者の権威が、代理人の権威が、天からのもの、神からのものであるなら、神様はその言葉に耳を傾けなかった宗教当局者たちの責任を問われるのであります。申命記13:2~6をご覧ください。ここには、最高議会が自分たちの信じるところに従って本来取るべき行動が示されています。

“預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。”

最高議会はあえて、この申命記の御言葉に従って行動することはしませんでした。ただ静観してだけであります。彼らは神の御心を従うことを第一にしているのではなく、自分たちの保身、自分たちの既得権益を守ることしか考えていなかったということです。私たちは、預言者の言葉を神の言葉として受け入れ、そして、ヨハネの洗礼を神様が制定された礼典として受け入れ、日々、御前に悔い改めの歩みを重ねてまいりたいと思います。そうすることによりメシアを心にお迎えすることができるのです。

【適用】

本日の箇所を通して、天からの権威、神様からの権威がいかに大いなるものかを見てまいりました。ユダヤの最高議会サンヘドリンの権威でも、到底太刀打ちできない権威でありました。私たちは本日の箇所から何を適用することができるでしょうか。主イエスは、洗礼者ヨハネの言葉を、神様の招きの言葉として全く同等に捉えておられた、そのことに注目したいのです。洗礼者ヨハネによって語られた言葉が、即ち神の福音であり、もし彼の言葉に耳を傾けないのなら、神様の御言葉に耳を傾けないだろう、彼の言葉と神様の御言葉を同等に扱われたのです。今日、私たちキリスト者がこの世に預言者として遣わされています。私たちの言葉が即ち、神の国の招きの言葉です。ですから時が良くても悪くても福音を宣べ伝え、隣人に仕え、主を証しすべきです。人々が福音を受け入れるのかどうかは、私たちの責任ではありませんが、宣べ伝えることは私たちの責任です。家族を伝道すること、身近な人々を伝道することは、特に難しいことでありますが、粘り強く身近の人々のためにとりなしていき、主イエスの復活を言葉と行いによって証ししていかれる皆様でありますことを切に願う者であります。

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권위에 관한 문답

2024년 4월7일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 11장 27~33절

서론

제사장, 서기관, 장로들은 예수님께 살의를 품고 있었습니다. 그들은 자신들이 최고 권위를 가지고 있다고 자부했지만, 예수님 앞에 설 때, 그들이 권위를 가지고 믿었던 것들이, 완전히 보기 좋게 벗겨지면서 사실 아무것도 가진 것이 없음이 폭로되고 말았습니다. 하늘로부터의 권위는 이 세상의 어떤 권위도 이깁니다. 오늘은 제사장, 서기관, 장로들이 가지고 있는 권위보다, 훨씬 강한 하늘의 권위에 대해 묵상하면서, 마가복음 11장의 말씀에서, 함께 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 무슨 권위로 이런 일을

수난주 월요일에 성전 경내에 들어가신 예수님은, 성전 안에서 매매하는 자들을 내쫓으시며 돈 바꾸는 자들의 상과 비둘기 파는 자들의 의자를 둘러 엎으셨습니다. 이른바 「성전정화」소동입니다. 그 다음날 화요일 아침 일찍, 예수님 일행은 그 말라버린 무화과 나무를 지나 다시 예루살렘으로 들어가셨습니다. 27절에 「예수께서 성전에서 거니실 때에」라고 되어 있습니다. 별 뜻 없는 것처럼 보이는 문장이지만, 우선, 이「성전에서 거니신다」는 것이 제사장, 서기관, 장로들에게 참을 수 없는 일이었을지도 모릅니다. 「제사장(특히 높은 지위의 제사장), 서기관, 장로들」은, 당시 유대의 최고의회인 산헤드린의 구성원이었습니다. 성전 당국자들의 최고 권위를 의미합니다. 최고의회의 그들이 「무슨 권위로 이런 일을 하느냐」며 얼굴빛을 바꿔 몰려온 것입니다. 사실 오늘 부분 27절에서 33절 부분에서 「이런 일」이라는 말이 네 번이나 나옵니다. 28절에서 2번, 29절에서 1번 33절에서 1번입니다. 「이런 일」은 도대체 무엇을 말하는 것일까요? 그것은 예수님의 지금까지 행하신 사역의 전부를 가리키고 있다고도 생각할 수 있지만, 직접적으로는 「성전정화」의 소동을 가리키고 있다고 생각합니다. 「성전정화」의 소동은 제사장, 서기관, 장로들의 눈으로 보면 성전에서 마음대로 행하고 신성한 곳에 예고나 허가없이 흙 발로 마구 들어온 식으로 비춰졌을 것입니다. “이봐, 너 잘도 그렇게 태평스럽게 걸어다닐 수 있구나. 어제 그짓을 해놓고 무슨 낯으로 왔느냐!” 그러면서 주 예수를 둘러싸고 있는 상황입니다.

여담이지만, 유대인들 사이에서는, 성경과 선조들의 전승을 바르게 교육하기 위해 랍비, 즉 선생님이 세워졌습니다. 이 랍비로 임직되기 위해서는, 최소한 세 명의 임직된 랍비 앞에서, 은사의 손에 의해서 안수되어야 했습니다. 그 일이 최고의회에 의해 규정되어 있었던 것입니다. 예수님을 다그친 그들은 “너에게는 아무런 권위가 없다, 아무도 너에게 이런 일을 할 권위를 주지 않았다, 모든 것은 네 마음대로 알아서 하는 게 아니냐”는 것을 밝히려고 하는 것입니다. 나사렛의 예수라는 남자는, 제자장도 아니고 서기관도 아닌, 그저 목수의 아들에 불과하다고, 군중에서 호소하려고 하는 것입니다.

(2) 예수님의 논파

예수님의 권위는, 하늘의 권위였습니다. 그러나 그 일을 직접 발설할 수는 없습니다. 왜냐하면, 그 말꼬리를 잡고, 그들은 예수님을 모독죄로 고소하려 하기 때문입니다. 십계명에는 「하나님의 이름을 망령되게 부르지 말라」라고 쓰여있습니다. 하나님의 이름을 망령되게 함부로 부른다는 것은 유대인들 중에서 신성모독죄로 간주되었습니다. 예수님은 그들에게 반대 질문을 던집니다. 이러한 방식은, 문제를 회피하고 있는 것이 아니라, 당시 서기관들의 논의 가운데 자주 행해지던 방식이었습니다. 30절을 보시기 바랍니다.

요한의 세례가 하늘로부터냐 사람으로부터냐 내게 대답하라

세례자 요한은, 낙타 털옷을 입고, 허리에 가죽 띠를 매고, 메뚜기와 석청을 먹으며 광야에서, 사람들에게 회개를 설파하고, 회개의 세례를 요단 강에서 주던 인물이었습니다. 그 모습은 선지자 엘리야를 방불케 했습니다(열왕기하 1장 8절). 세례자 요한은, 어떤 병의 치유라든지 특별한 기적을 행한 것은 아닙니다. 「주님의 길을 미리 예비하고 준비하기 위해 왔다」는 것 외에 다른 어떤 주장도 하지 않았습니다. 그러나 그 무브먼트가 요단 강에서 큰 물결이 되어 간 것입니다. 요한을 「오실 메시아」라고 생각하는 사람도 있었을 정도입니다. 그의 출현은, 바로 말라기서의 성취였던 것입니다. 말라기 4장 5, 6절을 보시기 바랍니다.

5 보라 여호와의 크고 두려운 날이 이르기 전에 내가 선지자 엘리야를 너희에게 보내리니

6 그가 아버지의 마음을 자녀에게로 돌이키게 하고 자녀들의 마음을 그들의 아버지에게로 돌이키게 하리라 돌이키지 아니하면 두렵건대 내가 와서 저주로 그 땅을 칠까 하노라 하시니라

하나님은 세례 요한을, 메시아의 선구자로 이 세상에 보내셨습니다. 말라기서에는 주 여호와가 오기 전에 아버지의 마음을 자녀에게로, 자녀들의 마음을 그들의 아버지에게로 돌이키게 하는 「회개」가 일어난다고 예언되어 있는데, 이 예언대로, 당시 많은 사람들이 요한으로부터 회개의 세례를 받은 것입니다.

종교적 권위를 관장하는 최고의회가, 예수님의 반대질문에 대답하는 것은, 어찌보면 당연한 의무였습니다. “요한의 세례의 권위는 도대체 어디서 나온 것인가?” 선지자 말라기 이후, 400년 동안 이스라엘에는 예언자가 나타나지 않고 있었습니다. 그런데 그 침묵을 깨기라도 하듯, 세례 요한이 나타난 것입니다. 어쩌면 하나님이 이 시대에 보내주신 선지자일지도 모릅니다. 제사장과 장로들은, 예수님의 이 질문에 대해서, 잠시 서로 의논한 뒤, 결국 「우리가 알지 못하노라」고 대답했습니다. 그 이유에 대해서 31절부터 32절에 적혀 있습니다. 보시죠.

31 그들이 서로 의논하여 이르되 만일 하늘로부터라 하면 어찌하여 그를 믿지 아니하였느냐 할 것이니

32 그러면 사람으로부터라 할까 하였으나 모든 사람이 요한을 참 선지자로 여기므로 그들이 백성을 두려워하는지라

성전 당국자들로서는 요한의 세례를, 「하늘로부터라 (즉 유대인들은 하나님을 하늘이라는 말로 표현했으므로 하나님이 주신 것이다)」라고 인정할 수는 없었습니다. 보통 유대 사람들은 태어나자마자 할례를 받아왔지만, 세례를 받는다는 것은, 그때까지 들어본 적이 없었습니다. 세례는. 유대 최고의회가 규정한 것이 아니라. 세례 요한이 시작한 것입니다. 성전 당국자들은 요한의 세례를 받아들이지 않았으니, 요한의 세례가 하나님으로부터가 아니라, 사람에게서 온 것이라고 생각한 것이 분명합니다. 요한을 믿지 않고, 그전 관망만 할 뿐, 요한으로부터 세례를 받으려고도 하지 않았던 것입니다.

그렇다면, 요한의 세례에 대해 분명하게 그것은「사람으로부터라」라고 말하면 어떨까요? 만약 그렇게 말해 버리면, 군중의 반감을 사는 것은 피할 수 없었습니다. 군중은 요한을, 하나님이 보내신 참 선지자라고 생각했기 때문에, 군중을 적으로 돌려, 군중이 폭동을 일으킬 것을 두려워했던 것입니다. 이렇게 해서 종교 당국자들은, 애초에 군중의 마음을, 주 예수님으로부터 떼어놓으려고 해왔는데, 반대로 예수님의 반대 질문으로 인해, 자신들이 군중의 지지를 잃을 위기에 빠져버린 것입니다. 그들은 「알지 못하노니」라고 답했고, 이에 예수님도 「나도 무슨 권위로 이런 일을 하는지 너희에게 이르지 아니하리라」라고 말씀하셨고, 그들의 질문에 대한 답을 거절하셨습니다. 성전 당국자들은 처음에는, 기세가 등등하게 분기탱천하여 예수님을 에워쌌는데, 완전히 예수님에 의해 논파되고, 맥 없이 풀이 죽어 그 자리에서 퇴출될 수밖에 없었습니다. 최고의회 산헤드린의 체면은 완전히 구겨진 것입니다.

(3) 요한의 세례는 하늘로부터인가

예수님의 반대 질문과, 그 뒤의 예수님의 침묵은, 많은 변명보다도 더 웅변적으로 자신의 권위가 하늘로부터 온 것임을 보여주십니다. 마가복음을 계속 읽어온 우리는 알지만, 예수님은 그동안 행해오신 수많은 사역에 의해, 또 수많은 가르침에 의해, 궁극적인 하늘의 권위를 주장하셨습니다. 예를 들면 1장 27절의 말씀입니다. 그냥 들어보시기 바랍니다.

다 놀라 서로 물어 이르되 이는 어찜이냐 권위 있는 새 교훈이로다 더러운 귀신들에게 명한즉 순종하는도다 하더라

또는 2장 10,11절 말씀입니다.

10 그러나 인자가 땅에서 죄를 사하는 권세가 있는 줄을 너희로 알게 하려 하노라 하시고 중풍병자에게 말씀하시되

11 내가 네게 이르노니 일어나 네 상을 가지고 집으로 가라 하시니

「무슨 권위로 이런 일을 하느냐」라는 질문에서 비롯된 권위에 대한 문답은, 오늘을 살고 있는 우리에게도 똑같이 묻고 있는 것 같습니다. 「요한의 세례가 하늘로부터냐 사람으로부텨냐 내게 대답하라」라는 이 질문 앞에서, 우리는 뭐라고 대답해야 할까요? 그 전에, 우리는 세례 요한이 요단 강에서 무슨 말을 했는지에 귀를 기울이고 싶습니다. 자신들이야말로 아브라함의 후손이자, 하나님의 선민인 줄 알았던 유대인들에게 「아브라함이 우리 조상이라고 생각하지 말라 내가 너희에게 이르노니 하나님이 능히 이 돌들로도 아브라함의 자손이 되게 하시리라」라고 엄한 경고를 했습니다. 그리고 메시아를 맞아들이기 위해, 회개하고 세례를 받으라고 권했습니다. 또 요한은 분명하게 「내 뒤에 오시는 이는 나보다 능력이 많으시니 나는 그의 신을 들기도 감당하지 못하겠노라」라고 예수 그리스도를 증명했습니다. 요한의 말에 귀를 기울인다면 예수님께로 오게 되는 것입니다. 요한을 거절한다면 예수님을 거절하게 되는 것입니다. 요한의 세례는 하나님으로부터 온 것입니다. 예수님 자신도, 요한의 세례를 하나님의 권위로 인정하고 세례를 받으셨습니다. 예수님은 죄를 지으신 적이 없기 때문에 세례를 받을 필요가 없으셨지만, 죄인 대신 죄인이 되어, 죄인으로서 세례를 받으셨다는 것입니다. 따라서 요한의 세례란, 하나님이 제정하신 예전이라는 것입니다. 예수님의 세례도, 요한의 세례도, 예전이라는 의미에서, 거기에 아무런 차이가 없습니다. 그 증거로, 요한의 제자들이었던 베드로나 안드레는, 예수님의 제자가 된 시점에서, 재세례를 요구받지는 않았습니다.

예수님은 자신의 권위와 요한의 세례의 권위를 밀접하게 연관시켜(요한에게 권위를 나누어 준 것이 아니라, 주님이 요한과 함께 계셨다), 요한의 세례의 권위가 하늘로부터냐 사람으로부터냐, 그렇게 질문하신 것입니다. 이러한 논증의 방법은, 일반적인 유대적인 사고방식이 그 배경에 있었습니다. 유대인에게 있어서, 위임된 사자, 혹은 대리인은, 보낸 사람의 권위를 충분히 행사할 수 있다고 생각되었던 것입니다. 만약, 요한의 세례의 권위가 제멋대로 행하고 있는 것이라면, 즉 사람으로부터의 것이라면, 성전 당국자들은 단호하게 그러한 행실을 단속해야 합니다. 그런데 반대로, 만약, 보내신 자의 권위가, 대리인의 권위가 하늘로부터 온 것, 하나님이 내리신 것이라면, 하나님은 그 말씀에 귀를 기울이지 않은 종교 당국자들의 책임을 물으실 것입니다. 신명기 13장 1~5절을 보시기 바랍니다. 여기에는 최고의회가 자신들이 믿는 바에 따라 본래 취해야 할 행동이 나타나 있습니다.

1 너희 중에 선지자나 꿈 꾸는 자가 일어나서 이적과 기사를 네게 보이고

2 그가 네게 말한 그 이적과 기사가 이루어지고 너희가 알지 못하던 다른 신들을 우리가 따라 섬기자고 말할지라도

3 너는 그 선지자나 꿈 꾸는 자의 말을 청종하지 말라 이는 너희의 하나님 여호와께서 너희가 마음을 다하고 뜻을 다하여 너희의 하나님 여호와를 사랑하는 여부를 알려 하사 너희를 시험하심이라

4 너희는 너희의 하나님 여호와를 따르며 그를 경외하며 그의 명령을 지키며 그의 목소리를 청중하며 그를 섬기며 그를 의지하며

5 그런 선지자난 꿈 꾸는 자는 죽이라 이는 그가 너희에게 너희를 애굽 땅에서 인도하여 내시며 종 되었던 집에서 속량하신 너희의 하나님 여호와를 배반하게 하려 하며 너희의 하나님 여호와께서 네게 행하라 명령하신 도에서 너를 꾀어내려고 말하였음이라 너는 이같이 하여 너희 중에서 악을 제할지니라

최고의회는 감히, 이 신명기의 말씀에 따라 행동하지 않았습니다. 단지 관망만 할 뿐입니다. 그들은 하나님의 마음을 따른 것을 제일로 하는 것이 아니라, 자신들의 지위를 지키고, 자신들의 기득권을 지키는 것밖에 생각하지 않았다는 것입니다. 우리들은, 선지자들의 말을 하나님의 말씀으로 받아들이고, 그리고 요한의 세례를 하나님께서 제정하신 예전으로 받아들이며, 매일매일, 하나님 앞에 회개의 발걸음을 거듭해 나가고자 합니다. 그렇게 함으로써 메시아를 마음속으로 모실 수 있는 것입니다.

적용

오늘의 본문을 통해서, 하늘로부터의 권위, 하나님으로부터의 권위가 얼마나 큰 것인가를 살펴보았습니다. 유대의 최고의회 산헤드린의 권위도, 도저히 당해낼 수 없는 권위였습니다. 우리는 오늘의 본문을 어떻게 적용할 수 있을까요? 주 예수님은 세례자 요한의 말을, 하나님이 부르신 말씀으로 완전히 동등하게 여기신 것에 주목하고 싶습니다. 세례 요한이 한 말이, 곧 하나님의 복음이고, 만약 그의 말에 귀를 기울이지 않는다면, 하나님의 말씀에 귀를 기울이지 않을 것입니다. 그의 말과 하나님의 말씀을 동등하게 취급하신 것입니다. 오늘날 우리 그리스도인들이 이 세상에 선지자로 보내지고 있습니다. 우리가 전하는 말이, 곧 하나님 나라의 부르심의 말씀입니다. 그러므로 때가 좋든 나쁜든 복음을 전하고, 이웃을 섬기며 주님을 증명해야 합니다. 사람들이 복음을 받아들일지 받아들이지 않을지는 우리의 책임이 아니지만, 전하는 것은 우리의 책임입니다. 가족을 전도하는 일, 가까운 사람들을 전도하는 일은, 특히 어려운 일이지만, 끈기를 가지고, 가까운 사람들을 위해 중보기도를 하고, 주 예수님의 부활을 말과 행함으로 간증하시는 여러분이 되시기를 간절히 바라는 바입니다.

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