2018年12月09日「ハンナの歌 한나의 노래」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

ハンナの歌 한나의 노래

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 1章20節~2章11節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

20ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
21さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、
22ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
23夫エルカナは妻に言った。「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。
24乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、
25人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。
26ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。
27わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。
28わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
1ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。
2聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。
3驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。
4勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。
5食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。
6主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。
7主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。
8弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。
9主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。
10主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」
11エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 1章20節~2章11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

暗黒の士師記の状況を象徴的に表しているのが「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」という御言葉です。それぞれが自分の基準によってしたいことを勝手にするという最も悲惨な状況です。それでは最も幸いな状況とはどういう状況かと言いますと、それは王が治める状況です。しかし、王と言っても、神でありキリストを意味しますが、ユダ族から出る油注がれた王が支配し、平和と秩序と正義が打ち建てられることこそ最も幸いな状況なのです。このような観点から見る時に、サムエル記上の2章11節まで、つまり本日お読みした「ハンナの歌」の箇所までが、サムエル記全体の序章(プロローグ)のような役割を担っています。ハンナという人物は、これまで流れていた川の流れを全く逆にしてしまいました。それは、自分の目に正しいと思うことを行うのではなく、神さまに立ち帰り、「尋ね求める、ask for」ということです。そして、この「尋ね求める」という言葉がキーワードとなって、サムエルの名前の由来にもなりました。1章20節には、サムエルの名前の由来が書かれています。「シュモエル」という言葉だけを表面的に見るなら、「その名は神」となります。ところが文脈から判断すると、どうやらヘブル語の「尋ね求める」という言葉「シャアル」がサムエルの名前の由来になっているようです。20節をご覧ください。

“ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。”

ハンナが身ごもってから一年の時が経過しました。再び家族の祭りのためにエルカナの一家はシロに上る時期です。この頃、ハンナは男の子を出産したのですが、その子の名前の由来は、「その名は神」という意味ではなく、神さまに対して「尋ね求めた」子供だからでした。夫エルカナは毎年恒例のようにシロに上ろうとしましたが、ハンナは夫に対し「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに参ります」と言いながら、赤ん坊が乳離れする三年間、シロに巡礼に上ることはありませんでした。そして、ハンナが次にシロに行くときには、神さまにサムエルをお委ねすることを意味し、ハンナにとっては、わが子と一緒に神殿から戻って来ることはないということを意味していたのです。サムエルが乳離れした頃、三歳の雄牛一頭と、麦粉一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携えて、ハンナはその子を連れて、祭司エリのもとに行きました。そしてハンナはエリに「わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です」と言いながら、27-28節の告白をしています。27-28節をご覧ください。尋ね求める「シャアル」という言葉のオンパレードです。

“わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。”

ここには、サムエルの名前の由来である「シャアル、尋ね求める」という言葉が27節に2回、28節に2回、合計4回も出てきます。27節に「主はわたしが願ったことを」とありますね。ここの部分は直訳しますと、「主は私が尋ね求めた、その求めを」というようになってシャアルが2回でてきます。そして次の28節の前半部分は、ハンナの神さまに対する応答ですが、直訳すると、「私は、人々がこの子によってヤハウェを求めるようにさせます。」となります。つまり主が私の求めを叶えてくださったので、「私はこの子によって人々が主を求めるようにさせます」、意訳すると、「私はこの子を主にお委ねします」となるのです。そして、28節後半部分は、この子は生涯、主の働きのために求められた者です。つまり、「主に委ねられた者です」となるのです。簡単に言いますと、「主が私個人の求めを聞き入れてくださったので、私も、この子によって、イスラエルが主を求めるようになるために、お捧げします。」ということです。私たちは、ハンナの祈りが個人的な祈りから、公的な祈りへと変化していくことに気づかされるのです。続いて「ハンナの歌」を見て参りましょう。1~3節が第一楽章です。ハンナのあふれ出るような喜びと人間の罪について描写されています。

“ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。”

古代の王様がかぶる冠は、所謂ギザギザの王冠ではなく、動物の角のような冠でした。角を高く上げるとは「主にあって私は勝利したのです」という「勝利の歌」を意味します。しかし、ただライバルであるペニナに勝利したという小さな次元ではなく、神の救いを喜ぶ、神の行為に対して喜んでいるのです。

“わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。”

長年ペニナにいじめ続けられたハンナは、口を開くことができず、自分の内面の惨めさを、ただ主に注ぎ出す以外、できませんでした。ところが、今、神さまがハンナに救いを与えられ、口を大きく開けて「は、は、は」と大声で笑い、心から喜んでいるのです。少し大げさな喜びのように見えますが、主の御霊に触れられたハンナが、「神の救いの御計画」、「これからなされる神の御業」に対し喜んでいると思われます。

2節です。:“聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。”

聖書の中で、しばしば神さまが石とか岩に譬えられています。特にここでは、ハンナは、神さまに対し「あなた」と二人称で呼びかけながら、揺るぎない神さまにあるハンナの安心感を表しています。その安心感の大きさとは、どれくらいかと言いますと、恐らく、「私の敵が、基本的に神の敵である」と考えられるほどの安心感です。誰もこのお方に敵対することはできませんと、神を讃美しているのです。

3節です。“驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。”

ここで突然出てくる「おごり高ぶりの罪」、「高ぶりと高慢の罪」が出てきますが、これは、全ての人間がもっている原罪の罪を指しています。神により頼むことをやめて、自分の力を信頼すること、このことがまさに、神への反逆であり、私たち全てが原罪として持っている罪です。神の前に自分の力を捨てて神に尋ね求めなければなりません。神の目はすべてを貫き通し、私たちの言葉と行いのすべてを量られるのです。

続いて4-8節の第二楽章に入ります。第二楽章では、具体的な神の介入による逆転を通して神の力を賛美しています。4-5節です。

“勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。”

神はこの世に介入にされ、奇跡的な逆転劇をおこされます。ですから人間にとって、何不自由なく、豊かで満ち足りた境遇の中に生まれてくることも、強大な力を持つことも、或いは子だくさんであることも、健康が守られ、高い地位に、高貴な者として生まれてくることも、それ自体では、何の役にも立たないのです。なぜなら、神は弱い者、貧しい者、小さき者、子のない者、人々から蔑視されている者をもって、彼らに代えることができるからです。神は、弱い者をもって強い者に恥を負わせる慈愛に満ちたお方なのです。

6節“主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。”

ここで注目に値するのは、「陰府にまで下り、そこから再び引き上げてくれる」という箇所から、ハンナの歌の中に復活の信仰を読み取ることができるということです。

7節“主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。”

8節“弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。”

このような逆転の根拠とは、一体何なのかと言うと、それは、神が、天地万物を創造され、神こそが、この世の被造物の一切の所有者であるからだと言っています。従ってこの地に住むすべての人は、自分の置かれている環境や社会的地位が、高かろうが、低かろうが、関係なく、全知全能の神にに立ち帰り、御心を尋ね求めなければならないのです。

続いて、9~10節は、第三楽章です。第三楽章では、神さまにより頼む者の保護と、神さまに背いて自分の力により頼む者の審判が書かれています。ご覧ください。

“主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」”

神さまは、主により頼み、主の慈しみに信頼する者の足を、堅く守ってくださいますが、自分の行いと自分の知恵と力により頼み、傲慢になって、神に逆らう者を滅ぼされます。

ここで少し余談ですが、10節に「王」という言葉が出てきますが、当時まだイスラエルには王はいませんでした。ある学者はこの箇所を取り上げて、ハンナの祈りを、ハンナ自身のものではないと考えます。大変やっかいな問題ですが、「王」という言葉が決して時代錯誤的ではないと考えることもできます。なぜなら、律法の中に既に王の職務に対する暗示があるからです。申命記17:15には次のようにあります。

“必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。”

また、将来において王に対する必要性は士師記の時代にも認識されていました。士師記8:22(p395)には次のようにあります。

“イスラエルの人はギデオンに言った。「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください。」”

ですから、10節を考えるときに、「主は、地の果てまで裁きを及ぼすような器として王を立てられる」ということを、期待すること自体、決してあり得ないことではないということです。ハンナの歌は預言的であり、特に10節は将来に対するビジョンであると私たちは解釈すべきです。最後に、「油注がれた者の角(ケレン メシホー)を高く上げられる」という言葉で結んでいます。1節でも同じような言葉「私は角を高く上げる」という言葉がありましたが、この繰り返しは決して偶然ではありません。ハンナの個人的な喜びが、イスラエルの共同体全体の喜びへ引き上げられ、昇華されているのです。サムエル記1章は、イスラエルの新しい歴史のスタートを、不妊の中から生まれたサムエルの誕生と共に始めていました。これは、サムエルの誕生が神の救済史における重要な意味を持っているということです。決して私的なことではないということです。神は士師時代から新しい歴史であるダビデ王朝をもたらす起点として、サムエルを誕生させました。ですからハンナは、子供を授かったという、個人的な喜びを超えて、イスラエルの国家的次元において公的な讃美の歌を歌っているのです。恐らく聖霊に触れられて、そのような讃美を歌うことが出来たのでしょう。私たちも聖霊に満たされると普段音痴だったのに、突然、素晴らしい歌声になることは良くありますね。ハンナの歌は大変預言的であり、将来、油注がれた王によって、つまりダビデによってもたらされる「神の国」に対する喜びを、信仰によって讃美しているのです。弱小国イスラエルに、ダビデが現れ、空前絶後の繁栄へと高められることを預言的に暗示した讃歌なのです。

これとまったく同じ状況の歌が、新約聖書にもあります。ルカ書の1章46節から始まる所謂マニフィカトと呼ばれている「マリアの賛歌」です。後でお読みすればお分かりいただけますが、この二つの歌は大変似ています。ハンナの歌はイエス・キリストのひな形であるダビデ王の誕生を預言的に喜ぶ歌ですが、「マリアの賛歌」は、イエス・キリストの誕生と、神の救いの御業を賛美しているのです。

メシアを喜ぶハンナの歌は、人々が全く神に尋ね求めることをしない状況から、ハンナの祈りによって生まれました。神に尋ね求めないこと、これは全ての人間に特徴的な高ぶりの罪の業です。しかし神はどのような状況をも神の主権によって逆転してくださいます。今、私たちせんげん台教会が置かれている状況も、ハンナが置かれていた状況と重ね合わせることが出来るでしょう。世の人々が神に尋ね求めない中、私たちは、神に尋ね求めながら、いよいよ主に信頼して祈っていく者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

한나의 노래

2018년 12월 9일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 1장 20~2장 11절

암흑의 사사기 시대의 상황을 상징적으로 보여주는 것이 「그 때에 이스라엘에 왕이 없으므로 사람이 각기 자기의 소견에 옳은 대로 행하였더라」라는 말씀입니다. 각자가 자신의 기준에 따라 하고 싶은 일을 마음대로 하는 가장 비참한 상황입니다. 그렇다면 가장 다행스러운 상황은 어떤 상황이냐하면 바로 왕이 다스리는 상황입니다. 그러나 왕이라고 한다면 하나님이자 그리스도를 뜻하지만 유다족속에서 나오는 기름부음 받은 왕이 통치하고 평화와 질서와 정의가 세워지는 것이야말로 가장 복된 상황입니다. 이런 관점에서 볼 때 사무엘상 2장 11절까지, 즉 오늘 읽은 「한나의 노래」부분까지가 사무엘기 전체의 서막(프롤로그)과 같은 역할을 담당하고 있습니다. 한나라는 인물은 지금까지 흐르던 강의 흐름을 완전히 거꾸로 해 버렸습니다. 그것은 자신의 눈에 옳다고 생각하는 것을 행하는 것이 아니라 하나님께 돌아가 「묻고 구하는, ask for」라고 하는 것입니다. 그리고 「묻고 요청하는」이 말이 키워드가 되어 사무엘의 이름의 유래가 되기도 했습니다. 1장 20절에는 사무엘의 이름의 유래가 적혀 있습니다.「슈무엘(사무엘의 히브리식 발음)」이라는 단어만 표면적으로 본다면 「그 이름은 여호와」가 됩니다. 그런데 문맥으로 판단하면 아무래도 히브리어의 「묻고 구하다」라고 하는「샤알」이 사무엘 이름의 유래가 된 것 같습니다. 20절을 읽어보시겠습니다.

한나가 임신하고 때가 이르매 아들을 낳아 사무엘이라 이름하였으니 이는 내가 여호와께 그를 구하였다 함이더라

한나가 임신하고 나서 1년이 지나서 다시 엘가나와 그의 온 집이 여호와께 매년제와 서원제를 드리러 올라갈 때입니다. 이 무렵 한나는 때가 이르매 남자아이를 출산했는데 그 아이의 이름의 유래는 「그 이름은 여호와」라는 의미가 아닙니다. 「하나님께 구한」아이이기 때문입니다. 남편 엘가나는 매년 연례행사처럼 실로에 오르려 했지만 한나는 남편에게 「아이를 젖 떼거든 내가 그를 데리고 가서 여호와 앞에 뵙게 하고 거기에 영원히 있게 하리이다」라고 말하고 아기가 젖을 떼는 3년 동안 실로의 순례길에 오르지 않았습니다. 그리고 한나가 다음에 실로에 갈 때에는 하나님께 사무엘을 맡기는 것을 의미했고 한나에게는 자기 아이와 함께 돌아오지 못할 것이라는 것을 의미했습니다. 사무엘이 젖을 뗀 후에 수소 세 마리와 밀가루 한 에바와 포도주 한 가죽부대를 가지고 실로 여호와의 집에 나아가 수소를 잡고 아이를 데리고 제사장 엘리에게로 갔습니다. 그리고 한나는 엘리에게 「나는 여기서 내 주 당신 곁에 서서 여호와께 기도하던 여자라」며 27,28절의 고백을 합니다. 27,28절을 보시기 바랍니다. 「구하다」라는「샤알」이라고 하는 단어가 빈번이 나옵니다. (샤알은 「구하다」라고도 번역되지만 동시에 「드리다, 바치다」등으로 번역되기도 합니다. 즉 샤알은 「구하다」와「드리다」라는 이중적 의미를 지닙니다.)

27 이 아이를 위하여 내가 기도하였더니 내가 구하여(샤알) 기도한(샤알) 바를 여호와께서 내게 허락하신지라

28 그러므로 나도 그를 여호와께 드리되(샤알) 그의 평생을 여호와께 드리나이다(샤알) 하고 그가 거기서 여호와께 경배하니라

여기에는 사무엘의 이름의 유래인 「샤알(구하다, 드리다)」이라고 하는 단어가 27절에 두 번 28절에 두 번, 총 네 번이나 나옵니다. 27절에 「내가 구하여」라고 쓰여져 있습니다. 이 부분은 직역을 하면 「내가 구하여 기도한 것을」이 되어 「샤알」이 두 번 나옵니다. 그리고 다음의 28절의 전반부분에서는 한나의 하나님께 대한 응답인데 직역을 하면 「저는 사람들이 이 아이를 통해서 여호와께 구하게 하겠습니다」가 됩니다. 즉 주께서 제 기도를 들어주셨기 때문에 「저는 사람들이 이 아이를 통해서 여호와께 구하게 하겠습니다」, 의역하면 「저도 이 아이를 주님께 맡기겠습니다」가 되는 것입니다. 그리고 28절 후반부는 이 아이는 평생 주님의 일을 위해 구해진 자입니다. 즉, 「여호와께 맡겨진 자입니다」가 되는 것입니다. 간단하게 말하면 「주께서 제 개인의 기도를 들어주셨기 때문에 저도 이 아이를 통해서 이스라엘이 주께 구하게 되도록 바칩니다」라는 것입니다. 우리는 한나의 기도가 개인적인 기도에서 공적인 기도로 변화해 간다는 것을 깨닫게 됩니다. 이어서 「한나의 노래」를 살펴보겠습니다. 2장 1~3절이 제 1 악장입니다. 한나의 넘치는 기쁨과 인간의 죄에 대해 묘사되어 있습니다.

1 한나가 기도하여 이르되 내 마음이 여호와로 말미암아 즐거워하며 내 뿔이 여호와로 말미암아 높아졌으며 ..

고대 왕이 쓰는 관은 이른바 톱니 모양의 들쭉날쭉한 왕관이 아니라 동물의 뿔 같은 관이었습니다. 뿔이 높아진다는 것은 「주님 안에서 나는 승리했습니다」라는 「승리의 노래」를 의미합니다. 그러나 단지 경쟁자인 브닌나에게 승리했다는 작은 차원이 아니라 하나님의 구원을 기뻐하는 하나님께서 하신 일에 대해 기뻐하고 있는 것입니다.

.. 내 입이 내 원수들을 향하여 크게 열렸으니 이는 내가 주의 구원으로 말미암아 기뻐함이니이다

오랜 세월 브닌나에게 계속 괴롭힘을 당한 한나는 입을 열지 못하고 자신의 내면의 비참함을 오직 주께 쏟아내는 것 외에는 할 수 없었습니다. 그런데 지금 하나님이 한나에게 구원을 주셔서 입을 크게 열고 「하, 하, 하」라고 큰 소리로 웃고 진심으로 기뻐하고 있는 것입니다. 조금 과장된 기쁨처럼 보이지만 주님의 영에 의해 만져진 한나가 「하나님의 구원의 계획」, 「앞으로 이루어질 하나님의 역사」에 대해 기뻐하고 있다고 생각됩니다.

2절입니다.

여호와와 같이 거룩하신 이가 없으시니 이는 주 밖에 다른 이가 없고 우리 하나님 같은 반석도 없으심이니이다

성경에서 종종 하나님이 돌이나 반석에 비유됩니다. 특히 여기서 한나는 하나님께 「주 밖에」라고 부르면서 흔들리지 않는 하나님에 대한 한나의 안심감을 표현하고 있습니다. 그 안심감의 크기가 어느 정도냐 하면 아마도 “내 적이 기본적으로 하나님의 적이다”라고 생각할 수 있을 정도의 안심감입니다. 아무도 이 분에게 대적할 수 없다고 하나님을 찬양하고 있는 것입니다.

3절입니다.

심히 교만한 말을 다시 하지 말 것이며 오만한 말을 너희의 입에서 내지 말지어다 여호와는 지식의 하나님이시라 행동을 달아 보시느니라

여기서 갑자기 나오는 「교만한 말을 하는 죄」, 「오만한 말을 하는 죄」가 나옵니다만 이것은 모든 인간이 가지고 있는 원죄의 죄를 가리킵니다. 하나님께 간청하고 구하는 것을 그만두고 자신의 힘을 신뢰하는 것, 이것이 바로 하나님에 대한 반역이며 우리 모두가 원죄로 가지고 있는 죄입니다. 하나님 앞에 자신의 힘을 의지하지 않고 하나님께 묻고 간청하고 구해야 합니다. 하나님의 눈은 모든 것을 꿰뚫고 우리의 말씀과 행실의 모든 것을 재실 수 있습니다.

이어서 4~8절 제 2 악장으로 들어갑니다. 두 번째 악장에서는 구체적인 하나님의 개입으로 인한 역전을 통해 하나님의 능력을 찬미하고 있습니다. 4,5절을 보시겠습니다.

4 용사의 활은 꺽이고 넘어진 자는 힘으로 띠를 띠도다

5 풍족하던 자들은 양식을 위하여 품을 팔고 주리던 자들은 다시 주리지 아니하도다 전에 임신하지 못하던 자는 일곱을 낳았고 많은 자녀를 둔 자는 쇠약하도다

하나님은 이 세상에 개입하셔서 기적적인 역전극을 일으키십니다. 그러므로 인간에게 불편함이 없고 풍요롭고 모든 것이 충족한 상태로 태어나거나 강력한 힘을 가지는 것도 혹은 자식이 많은 것도, 건강에 문제가 없고, 높은 지위의 고귀한 금수저로 태어나는 것도 그 자체로는 아무런 도움이 되지 않습니다. 왜냐하면 하나님은 쇠약한 자, 주리는 자, 작은 자, 자식이 없는 자, 사람들로부터 멸시를 받는 자로 그들을 대신 하실 수 있기 때문입니다. 하나님은 약한 자를 사용하셔서 강한 자에게 부끄러움을 느끼게 하시는 약한 자에게 자애로우신 분이시기 때문입니다.

6 여호와는 죽이기도 하시고 살리기도 하시며 스올에 내리게도 하시고 거기에서 올리기도 하시는도다

여기서 주목할 만한 것은 「스올에 내리게도 하시고 거기에서 올리기도 하시는도다」라는 대목에서 읽을 수 있는 한나의 노래 속에 있는 부활의 신앙입니다.

7 여호와는 가난하게도 하시고 부하게도 하시며 낮추기도 하시고 높이기도 하시는도다

8 가난한 자를 진토에서 일으키시며 빈궁한 자를 거름더미에서 올리사 귀족들과 함께 앉게 하시며 영광의 자리를 차지하게 하시는도다 땅의 기둥들은 여호와의 것이라 여호와께서 세계를 그것들 위에 세우셨도다

이러한 역전의 근거가 도대체 무엇이냐면, 그것은 하나님이 천지만물을 창조하시고 하나님이야말로 이 세상 피조물의 일체의 소유자이기 때문입니다. 따라서 이 땅에 사는 모든 사람은 자신이 처한 환경이나 사회적 지위가 높든 낮든 상관없이 전지전능하신 하나님께 돌아가 하나님의 뜻을 묻고 구해야 하는 것입니다.

이어서 9,10절은 제 3 악장입니다. 세 번째 악장에서는 하나님께 의지하는 자에 대한 보호와 하나님께 등을 지고 자신의 힘에 의지하는 자에 대한 심판이 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다.

9 그가 그의 거룩한 자들의 발을 지키실 것이요 악인들을 흑암 중에서 잠잠하게 하시리니 힘으로는 이길 사람이 없음이로다

10 여호와를 대적하는 자는 산산이 깨어질 것이라 하늘에서 우레로 그들을 치시리로다 여호와께서 땅 끝까지 심판을 내리시고 자기 왕에게 힘을 주시며 자기의 기름 부음을 받은 자의 뿔을 높이시리로다 하니라

하나님은 주께 의지하고 주님의 인자함을 신뢰하는 자의 발을 굳게 지켜주시지만, 자신의 행위와 자신의 지혜와 힘에 의지하여 오만해져서 주님을 거스르는 자를 멸하십니다.

여기서 조금 여담입니다만 10절에 「왕」이라고 하는 단어가 나옵니다만, 당시 아직 이스라엘에는 왕이 없었습니다. 어떤 학자는 이 구절을 거론하며 한나의 기도가 한나 자신의 것이 아니라고 생각합니다. 대단히 골치아픈 문제입니다만, 「왕」이라는 말이 결코 시대착오적이지 않다고 생각할 수도 있습니다. 왜냐하면 율법 속에 이미 왕의 직무에 대한 암시가 있기 때문입니다. 신명기 17장 15절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

반드시 네 하나님 여호와께서 택하신 자를 네 위에 왕으로 세울 것이며 네 위에 왕을 세우려면 네 형제 중에서 한 사람을 할 것이요 네 형제 아닌 타국인을 네 위에 세우지 말 것이며

또한 장래에 왕에 대한 필요성은 사사기 시대에도 인식되었습니다. 사사기 8장 22절에는 다음과 같이 적혀 있습니다.

그 때에 이스라엘 사람들이 기드온에게 이르되 당신이 우리를 미디안의 손에서 구원하셨으니 당신과 당신의 아들과 당신의 손자가 우리를 다스리소서 하는지라

그래서 10절을 생각할 때 「주는 땅끝까지 심판을 내리실 그릇으로 왕을 세운다」라는 것을 기대하는 것 자체가 결코 있을 수 없는 일이 아니라는 것입니다. 한나의 노래는 예언적이며 특히 10절은 미래에 대한 비전이라고 우리는 해석해야 합니다. 마지막으로 「기름 부음을 받은 자의 뿔(케렌)을 높이시리로다」라고 하는 말로 맺고 있습니다. 1절에도 비슷한 말 「내 뿔이 높아졌으며」라는 말이 있었지만 이 반복은 결코 우연이 아닙니다. 한나의 개인적 기쁨이 이스라엘 공동체 전체의 기쁨으로 끌어올려 승화되고 있는 것입니다. 사무엘상 1장은 이스라엘의 새로운 역사의 시작을 오랜 불임 가운데 태어난 사무엘의 출생과 함께 시작했습니다. 이것은 사무엘의 탄생이 하나님의 구원사에서 중요한 의미를 가지고 있다는 것입니다. 결코 사적인 일이 아니라는 거죠. 하나님은 사사기 시절부터 새로운 역사인 다윗 왕조를 가져오는 기점으로 사무엘을 탄생시켰습니다. 그래서 한나는 아이를 낳았다는 개인적인 기쁨을 넘어 이스라엘의 국가적 차원에서 공적인 찬양의 노래를 부르고 있는 것입니다. 아마 성령의 인도하심으로 그런 찬양을 부를 수 있었을 것입니다. 우리도 성령충만할 때 평소에는 음치였는데 갑자기 멋진 화음을 낼 수 있게 되는 일이 있겠지요. 한나의 노래는 매우 예언적이며, 장래에 기름부음을 받은 왕에 의해서 즉 다윗에 의해서 초래될 「하나님 나라」에 대한 기쁨을 믿음에 의해 찬양하고 있는 것입니다. 약소국 이스라엘에 다윗이 나타나 전무후무한 번영으로 높임을 받음을 예언적으로 암시한 찬가입니다.

이와 똑같은 상황의 노래가 신약성경에도 있습니다. 누가복음 1장 46절에 있는 이른바 마니피캇이라고 불리우는 「마리아의 찬가」입니다. 나중에 읽어보시면 아시겠지만 이 두 노래는 굉장히 비슷해요. 한나의 노래는 예수 그리스도의 모형인 다윗 왕의 탄생을 예언적으로 기뻐하는 노래인데, 「마리아의 찬가」는 예수 그리스도의 탄생과 하나님의 구원의 역사를 찬양하고 있는 것입니다.

메시아를 기뻐하는 한나의 노래는 사람들이 전혀 하나님께 묻고 구하지 않는 상황에서 한나의 기도에 의해서 탄생했습니다. 하나님께 묻고 구하지 않는 것, 그것은 모든 인간에게 있는 특징적인 오만한 죄의 결과입니다. 그러나 하나님은 어떠한 상황도 하나님의 주권에 의해서 역전시켜 주십니다. 지금 우리 센겐다이교회가 처한 상황도 한나가 처한 상황과 겹칠 수 있을 것입니다. 세상 사람들이 하나님께 묻고 구하지 않는 가운데 우리들은 하나님께 묻고 구하면서 더욱더 주님을 신뢰하며 기도하는 자가 되도록 합시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す